中村俊三 ブログ

中村ギター教室内のレッスン内容や、イベント、また、音楽の雑学などを書いていきます。

 このテーマも3回目になりますが、なかなか具体的な本題には入っていません。いよいよ今回から具体的な話を始めましょう・・・・・・・と言いたいところですが、またちょっと遠い話になってしまいます。


皆さんのギターの始まりは

 ところで皆さんはどんな形でギターを始めましたか? 当ブログを読んでいる人はたぶんギターを弾いている人だと思いますが、どんな風にギターを始めたのでしょうか。最初からギター教室でギターを始めた人、学校のサークルなどで始めた人、CDやレコードなどを聴きながら独学で始めた人、なんだかわからないけど今ギターを弾いている人・・・・・ などなど、いろいろな人がいると思いますが、私の場合はどうだったのかな、強いて言えば最後の「なんだかわからいけど今ギターを弾いている人」かな?


溝渕講五郎編の「カルカッシ・ギター教則本」

 私が最初に出会ったギターのテキストと言えば、溝渕講五郎編の「カルカッシ・ギター教則本」でしょうか、兄がギター教室に通っていたので小学生の頃から家にこの教則本がありました。その気になれば弾くことも出来たのでしょうが、知っている曲もなく、当時は全く弾いたことはありませんでした。この教則本で実際に練習するようになったのは、大学のギター部に入ったからで、その後ギター教室で教えるようになってからも10数年くらいこの教則本を使っていました。当時はギターのテキストとすると最もポピュラーなもので、「これをやらないとギターは弾けない」ようなイメージがありました。


悪名高き

 このテキストは19世紀始め頃のギタリストのマティオ・カルカッシ(1792〜1853)が書いた教本を基に溝渕氏がキュフナーやコストなどの練習曲を追加するなどして改編したものです。若干の単音の練習とアルペジオ練習などが添えられてはいますが、すぐに独奏曲の形の練習曲となります。確かにそう難しくない練習曲ですが、全くギターを弾いたことのない人や、音楽の基礎知識がない人などが練習するのはちょっと難しいかも知れません。なんといっても有名な曲は最後の方に「アルハンブラの想い出」などがあるくらいで、初級の段階では全くありません。この教則本でギターを覚え、上手になった人はたくさんいるとは思いますが、同時にこの教則本によりギターの上達を断念したりした人は、ずっと多かったのではないかと思います。そう言った意味では「悪名高き」テキストと言えるかも知れません。しかしこのテキストもある段階においてはたいへん有用なものであるのは間違いなく、「ハサミ」ではないですが何事も「使いよう」かも知れません。今現在私の教室ではこのテキスト全体は使っていませんが、その中の練習曲はかなりの数を教材として用いています。


単音の練習なんて初心者のすること

 私がギター教室でギターを教えるようになってからは(茨城大学在学中より教えるようになったのは以前お話したとおりです)、確かにこのテキストも用いましたが、全くギターが始めての人にはもう少し易しいテキストを使いました(阿部保夫著のテキスト)。カルカッシ教則本に比べ、練習曲ではなく身近な曲を簡単にアレンジした教材が中心で、確かに初心者のレッスンには適したものでした。それでも単旋律の練習は2曲程しかなく、その後は和音を含む練習、つまり独奏曲的になっていました。難し過ぎて先に進めないとかということはないのですが、単旋律の練習の不足は後になってだんだん現れてくるような気がしました。一般的に言って、ギターという楽器は単旋律を弾く楽器ではないと考えられていると思います。上記のテキストに限らず、ほとんどのテキストはそうした考えのもとに出来ています。ギターでメロディだけを弾くというのは、あくまで「仮」の姿で、練習のためにのみ行うという考えが一般的だったのだと思います。また習う人も単旋律しか弾かないと、よほど初心者のような気がしてしまうのでしょう。


結局は自分で作るしか

 5,6年ほどギターを教えているうちに、単旋律の練習がとても重要だということを思うようになりました。これには本当にいろいろな理由があります。指に関する基本的なテクニックから、音楽の基本的な事柄(譜面の読み方、音符の長さの取り方)など、単旋律の練習でやるべきことは本当にたくさんあります。そうした基本的なことを覚えるにはなるべく単純なもので練習しないと出来ません。和音などが入ったり、多少なりとも複雑なものではそうした基本的なことに意識が行かなくなります。といったわけでその頃から手書きでテキストを自ら作るようになりました。その後何度も改定したり、増やしたりし、12〜3年前からは手書きからパソコンに変わりいっそう教材も増え、今日に至っています。今現在では教材のほとんどが自分で作ったものになっていますが、最初のきっかけとしては単旋律の練習が市販のテキストには少なかったからということです。


 
これこそ上達の近道!

 今回のテーマは「歌わせる」ということで、それにはいろいろ細かい技術的なこともあるのですが、まず第1歩としては、特に変わったことをするわけではないのですが、単音のメロディをたくさん弾くこと、1曲1曲を丁寧に練習するのも大事ですが、なるべくたくさんの曲を練習するのも大事です。そして自分の弾いているメロディがメロディらしく聴こえているか、しっかりと聴くこと。特にギターを始めたばかりの人にはこのことが絶対に必要だと思います。「早く伴奏の付いた曲を弾きたい」などと言わず、単旋律が上手に弾けることこそが上達の近道です!
 

前回は

 前回の話では、人はしゃべる時、無意識に抑揚を付ける、その延長線上である歌を歌う時にも何らかの心の動きが伴う、それに対して同じ音楽でも楽器、特にギターを演奏する時などでは別に心の動きなどとは全く関係なく演奏出来る、といったことを話しました。ギターを演奏する時も、「気持ち」とか「感情移入」がもっとも大事といた結論になってしまいそうですが、気持ちだけでは済まない問題もあります。前回の話に関して言えば、ギターの演奏でメロディを「歌わせる」ということは、皆さんが日常会話で無意識に付けているイントネーションというより、ドラマなどでの俳優さんたちのセリフの言い回しの方に近いと思います。


「意識的」に「無意識」を行うのは難しい

 テレビ・ドラマの中では何気なく聴いている俳優さんたちのセリフは本当に自然に聴こえますが、「無意識」に行うことを「意識的」に行うことは決して簡単なことではないと思います。それは厳しい稽古や才能などにより出来ることで、いろいろな細かいテクニックもあるでしょう。しかしまた俳優さん自身がその「役」に「なりきる」必要もあり、その役の人物がどのような性格で、どのような人生を歩んできたか、またその人物がそのシーンにあるような状況になったときどのような心の動きがあるか、などを真剣に考えたりもするのでしょう。ギターなどでメロディを「歌わせる」ということは、それらのこととよく似たことではないかと思います。ただ気持ちを込めて演奏すればよいなどということではなく、いろいろ基本的な技術の習得が必要でしょうし、「歌っているように」聴こえるための細かいテクニックもあると思います。また何といってもその音楽がどういう音楽なのかということもじっくりと勉強する必要もあるでしょう。


「そこはもっと歌って!」を連発するのは

 楽器でメロディを「歌わせる」ということは一言でいえば楽器を演奏する時、「まるで歌のように聴こえる」ように演奏するということと言えます。ということは本当に歌を歌っている場合は「歌わせる」とは言わないでしょう、声楽の先生はレッスンの時に「そこはもっと歌いなさい」とはあまり言わないのではないかと思います。第一、本当に歌っている人に「歌いなさい」も変だと思いますし。また同じ楽器でもフルートやヴァイオリンなどは音的にも歌に近いので、歌わせることはわりと自然にできるのではないかと思います。おそらくこの「歌いなさい」を最も多く発声する音楽の先生はピアノの先生ではないかと思います(勝手な推測ですが)。


歌うことが最も不得意な楽器

 ピアノの場合はポンポンといった打弦音ですから、歌っている響きとだいぶ違います。確かにピアノは便利な楽器で、これ1台でコンサートを行うこともできればオーケストラの代わりにもなり、声楽やいろいろな楽器の伴奏も出来ます。またなんといっても作曲をする場合には欠かせない楽器です。一つだけ欠点があるとすれば、それは人間の声とはだいぶ違うという点です。メロディ弾くこと、つまり「歌うこと」が最も苦手な楽器だといえると思います。ピアノが出来た頃(18世紀初頭)はチェンバロとあまり変わりがなく、音も軽く、余韻もあまり長く響かず、どちらかといえば和音やアルペジオ、細かいパッセージなどが中心で、メロディを歌わせるということはあまりしなかったようです。しかしその後19世紀になるとピアノは万能の楽器としてヨーロッパ中に普及し、「歌わせるのが苦手な楽器」などとは言ってられなくなります。楽器も改良に改良を重ね、余韻も長く豊かになり、かなり歌わせやすくなってゆきました。もちろんそれを使用するピアニストたちも「歌っているように」聴こえさせるために、いろいろな演奏上の努力や工夫を重ねていったわけです。19世紀の半ば頃には、ピアノはすっかり「歌わせる」楽器となり、ショパンの「ノクターン」やメンデルスゾーンの「無言歌」など、まさにピアノのための「歌」といえる曲が作曲されるようになります。ピアノという楽器はもともと歌わせるのが苦手な楽器なので、逆にピアニストたちは「歌わせる」ことに力を注ぎ、そのことを克服してきたと言えるでしょう。


ギターだって他人事ではない!

 弦を指で弾いて音を出すギターもピアノと同じように歌うのが苦手な楽器ですから、ピアノの先生同様にギターの先生も「そこはもっと歌いなさい」を連発してもよいのですが、でも一般にギター教室の先生はあまりこの言葉を使っていないのではないかと思います、かく言う私自身もそうです。ギターの場合はクラシック・ギターといえどもポピュラー系、あるいはラテン系の音楽の影響が強く、メロディを歌わせるというより、リズムの「キレ」とか「ノリ」とか、あるいはコードの響きなどの方を重視するギタリストが多いと言えます。もっともギタリストの中でもヨーロッパの伝統的な音楽のを一身に受けて育ったような人は別でしょう(例えばオスカー・ギリアのような)。しかしジャンルを問わずメロディのない曲というのはそんなにないでしょうから、ギターを弾く上でも、当然この「歌わせる」という技術は絶対に必要なものといえます。ただまだまだ指導する側も、学ぶ側もそれほど意識していない現実もあるのではないかと思います。


そこはもっと歌って!

 皆さんがもしギターのレッスンを受けているとして、先生から「そこはもっと歌って!」といわれた時、あるいは反対に「そこはあまり歌わせないほうがよいでしょう」と言われた時どうしますか・・・・・ その時もしあなたが何の迷いもなくあなたの先生の言葉を実践することができるとしたらこの文章は読む必要がありませんが、そのような抽象的な言い方では具体的にはどうしてようかわからないとしたら、この文章を読むことがあなたのギターの上達に繋がるのではと思います。さて、「ギター上達法」も前回の「ミス」からちょっと間が空きましたが、今日からこの「歌わせる」というテーマで書いてゆきます。


人間になる前から?

 本題に入る前に、人間がいつ頃から歌を歌いだしたか、などと考えるのは野暮なことかも知れません。おそらく人間が誕生した時から、あるいは人間になる前から歌を歌っていたのでしょう。しかし厳密に「歌」というには「歌詞」があるということですから、そういう意味では一応人間が言葉を話すようになってからということになるかも知れません。もともと言葉には抑揚が含まれると思いますから、その抑揚を強調したものが歌ということになるでしょうか。


ア・コ・ニ・チ・ワ・・・・・

 例えば、どこかのお店で知人などに出会った時、「あっ! 今日は! 田中さん! お久しぶりですね、お買い物ですか? ああ、奥さんもいっしょに・・・・・ そおですか、ウウン・・・・」といったような会話になったとしましょう、この時誰もが無意識に表情や抑揚を付けてしゃべります。皆さんもこの会話文を読んだだけでなんとなく抑揚を感じると思います。おそらく「!」や「?」のところは無意識に音程を上げて読むのではないかと思います。おそらく「アッ・コ・ン・ニ・チ・ワ・タ・ナ・カ・サ・ン・オ・ヒ・サ・シ・ブ・リ・デ・ス・ネ・・・・・」などと旧式のロボットみたいに全く抑揚や区切りを付けずにこの文を読む人はいないのではないかと思いますし(声を出さずに読んだとしても)、実際に誰かに出会った時には絶対にそんな言い方はしないでしょう。


無意識なら出来るのだけど

 つまり私たちは言葉をしゃべる時、「無意識」に必ず抑揚を付けているわけです。もっともこの抑揚を逆に意識的に付けるとしたら、それはかえって難しいことになります。ドラマや劇などのセリフを考えるとわかりますが、台本に書いてあるセリフに自然な抑揚を付けてしゃべるのは普通の人にはなかなか出来ません。いつものようにしゃべっているつもりでもどこか不自然な抑揚になってしまいます。というのはその台本に書いてあるセリフは本当に自分で思ったことではなく、また台本に書いてある状況が本当に起きているわけでもないからです。悲しいセリフを言わなければならない時でも、本当は悲しくないわけですからどこか不自然なイントネーションになってしまうわけです。


涙を流すくらい朝飯前

 もちろん映画やドラマの俳優さんたちは不自然にならずにセリフを言うことが出来るわけで、それには厳しい稽古とか才能とかもあると思いますが、俳優さんたちは自己暗示が得意な人たちなのかも知れません。実際にそのような状況になっていなくても、その台本にある状況が現実のものとして捉えられるのだと思います(そう考えれば必要に応じて涙を流すくらいいとも簡単なのかも知れません)。言葉のイントネーションというのはその人の心の動きにとても関係が深く、嘘を付くとなんとなく相手にわかってしまうのも、抑揚が不自然になってしまうからでしょう(セリフを言うのと同じ現象)。どちらかといえば女性のほうが嘘を見破れるそうですが、女性のほうがそうした微妙な違いを感じとれるのかも知れません。


たとえ上手くなくとも

 話がちょっと遠くなってしまいましたが、言葉の抑揚は心の動きと密接な関係があり、言葉に抑揚を付けずにしゃべることはたいへん難しいといことをお話しました。今回の本題の「歌」は言葉の延長線上にあり、特にその抑揚を強調したものと考えられます。とすれば、また歌を歌うということは何らかの感情が動くということになり、心を動かさずに歌を歌うということも難しいということになります。仮に歌があまり上手でなく、音程やリズムが正確でない人でも、表情の方はそれなりに込めて歌い、気持ちの方も聴いている人にある程度伝わるのではないかと思います。


気持ちなどなくとも

 しかし同じ音楽でも楽器を演奏する場合、特にギターやピアノのように指を使い、なおかつ複雑な動きを要求されるものの場合、そうした「気持ち」とか心の動きとか関係なく弾くことが出来る、というか気持ちを入れたくても、そのようなものどこかに吹き飛んでしまい、ひたすら指の作業に徹してしまう、などということもよくあります。実際の会話ではロボットのように「コ・ン・ニ・チ・ワ・タ・ナ・・・・」としゃべるのは難しいのですが、ギターを弾く場合それと同様なこと、つまり表情とか意味合いとかなど全く関係なく演奏することが出来るわけです。

 先週はアンサンブルの演奏会などがあり、このテーマも書き始めからだいぶ日にちが経ってしまいました。もう「最近聴いたCD]という感じではなくなってしまったのですが、最後にハイドンとギターの関係についてちょっとお話したいと思います。

 
 「ハイドンとギターの関係」といっても実は直接的には全くといってよいほど関係はなかったようです。ギターという楽器の存在くらいは知っていたでしょうが、ギターに関係のある作品は1曲もないようです(私の知る限りでは)。因みにモーツアルトに関しては、オペラ「フィガロの結婚」の中でケルビーノがギターの伴奏でアリアを歌うというシーンがあり、確かに舞台にはギターが登場するのですが、実際の音はギターではなく弦楽器(ヴァイオリンやチェロなど)のピッチカート奏法によるものです。「ギターは小さなオーケストラ」と言ったと言われているベートーヴェンにはマンドリンのための小品はあるのですが、ギターの作品はありません。結局のところこの古典派の巨匠3人とギターとはあまり縁がなかったようです。


 バッハの場合はギターの作品はありませんが、リュートのための作品を残していることは皆さんもご存知と思います。バッハの遺品の中にはリュートもあり、多少は自分でも弾いた可能性もありますが、実際に作曲したのはリュートに似た音の出せるチェンバロのための作品だそうです。それらの作品としては編曲も含め4つの組曲他を残しています。バッハの「リュートのための作品」は、本当にリュートのための作品かどうか、若干微妙なところもありますが、しかしこのことは見方を変えれば、バッハがリュートという楽器、および音色に強いこだわりを持っていたことを証明するものとも言えると思います。


 何はともあれ、バッハがギターと親戚筋のリュートのための作品を残したということは、我々ギターをやるものにとってはたいへん大きいことで、我々としてはこのバッハのリュートのための作品を、ほぼオリジナルとして堂々と演奏しています(リュートではなくギターで演奏するとなると本当はかなり遠いのですが)。さらにバッハ自身がヴァイオリンやチェロの曲をリュートに編曲していることから、他のヴァイオリンやチェロ、特に6曲ずつの無伴奏曲などはギターで演奏してもよいのだと思うようになりました。つまりいろいろなバッハの作品をギターで演奏することについて、いわば免罪符を与えられたと考えるわけです(ちょっと都合のよい解釈かも知れませんが)。もっともそうしたことがなくてもギタリストはバッハの作品を演奏するでしょうが、少なくとも一種の「後ろめたさ」は感じずに済むでしょう。 


 話がそれてしまいましたが、ハイドンの話に戻りましょう。ご存知の方もいるかも知れませんが、ハイドンには「リュート四重奏ホ長調作品2−2」などリュートを含む室内楽が何曲か残されています。しかしこれらは同時代のリュート奏者がハイドンの初期の弦楽四重奏曲から編曲したものだそうです。以前この「リュート四重奏曲」をリューテストのミシャエル・シェーハー他が録音していて、そのLPを私も持っています。またギタリストのジョン・ウィリアムスもかつて「ギター四重奏曲」として録音していて、このLPもあります。これらの録音は現在CD化されているのでしょうか? またこれらの曲の新しい録音などはあるのでしょうか? なお原曲の弦楽四重奏曲のほうはハイドンの真作だということです(ハイドンの初期の室内楽には偽作が多い)。


 ハイドンの曲で最もギターで演奏される曲としては、フランシスコ・タレガが編曲したニ短調の「アンダンテ」でしょうか。タレガは他にもハイドンの作品を10曲前後編曲しています。この「アンダンテ」の原曲は「バリトン三重奏曲第87番イ短調」の第3楽章の「メヌエット」だそうです。「バリトン」とはビオラ・ダ・ガンバの一種で、ハイドンの雇い主であるエステルハージ侯が好んだことにより126曲のバリトン三重奏曲を作曲したそうです。今まではほとんど聴かれることのなかった作品ですが、最近ではそのバリトン三重奏曲全集のCDも発売されています。まだ持っていませんがいずれ取り寄せようと思っています。でも本当に「メヌエット」なら「アンダンテ」にはならないのでは・・・・・・・


 私自身ではかつてセゴビアのLPで弦楽四重奏曲Op.74-3からの「ラルゴ・アッサイ」〜タレガ編、同76-1の「メヌエット」〜セゴビア編、交響曲第96番「奇跡」からの「メヌエット」〜セゴビア編などをよく聴いていました。特に「奇跡」のメヌエットはセゴビアが演奏したいろいろな曲の中でたいへん好きな曲の一つで、この曲が最もセゴビアの魅力を出しているように思います。またハイドンとセゴビアはなんとなく相性がよいようにも思います。原曲の交響曲を知る前にこのセゴビアの演奏を何度も聴いていたので、私にはギターの方がまるでオリジナルのような感じがしています。最近では自分でも弾いていますが、ちょっとセゴビアぽいかも知れません(ちょっとどころではない?)。
  
 本日、水戸ギター・アンサンブル演奏会に来ていただいた方々、本当にありがとうございました。どれくらいの方に来ていただけるのか、とても不安だったのですが、思ったよりもたくさんの方に来ていただき、本当に嬉しく思います。他のメンバーも同じ気持ちだと思います。


 なにぶんアマチュアのギター愛好家によるコンサートなので、いろいろ至らない点など多数あったのではと思いますが、それでも、これまで2年余り亘り練習してきたことを皆さんに聴いていただくことは出来たのではと思っています。またメンバーの平均年齢も益々上昇してきて、いろいろ身体的トラブル等を抱えつつもなんとか全員で今日のコンサートを迎えられたのはとても幸運だったと思います。この後しばらくは充電期間とし、2、3年後くらいにまたコンサートを持ちたいと思います。


 今日聴いていただいた皆様一人一人に心からの感謝の気持ちをお伝えしたいと思います。本当にありがとうございました。