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中村俊三 ブログ

中村ギター教室内のレッスン内容や、イベント、また、音楽の雑学などを書いていきます。

   「2」 のつづき

 いよいよ新人戦となりました。まず地区大会で各グループ3チームの総当りのリーグ戦を行い、1位のチームが県大会に進出します。最初の試合は9-0で大勝、その先制点は私が入れました。ゴール前にフラフラと上がったボールを頭で押し込んだだけですが、これが記念すべき私の公式戦初ゴールです。次の試合の先制点も私が入れました。こちらはミドル・エリアで右からのハーフ・バウンドの結構難しいボールでしたが、うまくゴール右隅に決めることが出来ました、公式戦2ゴール目です。この試合は3-0と点差こそ少ないが、一方的なゲームで、味方のキーパーはほとんどボールに触りませんでした。


 以上のように圧勝で地区大会を勝ち上がりましたが、県大会のほうは、まず3チームでの予選リーグを行い、1位と2位のチームが決勝トーナメントに進出、つまり最下位にならなければいいわけです。チームには楽勝ムードが漂い、決勝トーナメント進出は間違いないといった雰囲気でした。しかし県大会の試合が始まってみると私たちの予想とは全く違う試合になりました。対戦した2つのチームともチームの完成度が私たちのチームとまるで違うのです。私たちのチームはどちらかと言えば個人技を主としたしたチームで、あまりパス回しとか、チーム戦略なんてあまりありませんでした。対戦したどちらのチームともしっかりとしたゲーム・プランをもっており、特に守備に関しては、こちらの攻撃の選手一人一人をしっかりとマークし、自由に仕事が出来ないようにしていました。もちろん私のほうにもきっちりマークが付き、ほとんどプレーが出来ない状態でした。点差こそはあまりつきませんでしたが、二つの試合とも完敗です。


 自分たちの力を過信していただけに、大会が終わってからのチームの落ち込みはかなりのもので、私もこの時ばかりはサッカーをやめようと思いました。私などがいたのではこのチームは強くなれない、早い段階で後輩たちに座をゆずるべきだと考えました。しかし決断が付かずにぐずぐずしているうちに、他の仲間が次々にやめてゆき、いつのまにか1年生以外で練習に出ているのは私だけになってしまいました。結局私が1年生の指導をしなければならなくなり、やめるのも休むのも出来なくなってしまいました。


 3年生になると部活をやめる人のほうが多かったのですが、私はもう一人の元部長と残りました。チームのほうは攻撃の核となる選手もいなくて、前年よりは弱体化していました。6月に大会があり、1回戦は勝ち残ったのですが、2回戦で対戦するのはなんと昨年の新人戦で戦って何も出来ずに負けてしまった、あのチームです。私たちの試合のほうが先に終わったので、そのチームのゲームを観戦しました。昨年よりいっそう洗練されたチームになったようです、きれいにパスをまわしてきて、それぞれ個人技もあります。今の私たちのチームでは全く歯が立たないと感じました。よく観察するとその中心、つまり司令塔的な役割をしている選手は私のポジションと相対するポジションにいて、ほとんどの攻撃の基点になっているようで、ボール扱いもなかなかです。私はこの選手を押さえれば、なんとかゲームになると思いました。


 2回戦当日は土砂降りの雨で、私にとってはいつもグラウンド状態の悪いところで練習しているので、かえって好都合でした。試合が始まると私は、反則すれすれのタックルなどを行い、その相手の司令塔を徹底的にマークしました。さらに田んぼのようなグラウンドに足元をとられたりで、その選手はほとんど思うようなプレーが出来なくなっていました。結局私のサイドからの相手の攻撃は完全につぶした思います。しかしながら両チームの実力差は歴然としていて結果的には1-3で負けましたが、私自身はとても満足のゆく試合でした、借りを少し返した気持ちにもなり、また一人前の高校サッカー選手になった気がしました。結局その後も11月頃まで、ほとんど受験近くまで毎日サッカーをやることになりましたが、楽しい毎日でした。他の人より少し時間がかかりましたが、この頃になると普通のウイング・プレーヤーがすることが出来るようになりました。


 あれだけ遅かった足も、いつのまにか50メートルで7秒を切るようになりました。もちろんこの程度では速いとまではゆきませんが、私の場合最初の数歩だけは特に速く、最初の数歩で相手の前に体を入れ、ボールを自分のものに出来るようになりました。ウイング・プレーヤーというのは相手選手とボールの追いかけっこによくなりますが、この頃にはその追いかけっこではほとんど勝てるようになりました。またこれが一番大きいのかも知れませんが、ゲームの流れとか、先の予測がだいぶ出来るようになり、次に何をすればよいかわかるようになってきました。ある試合で、オフサイド・ルールの裏をついて、逆サイドのエンド・ライン付近までいっきに走り、エンド・ラインぎれぎれでスローインを受け取り(スロー・インにはオフ・サイドはない!)、ゴール前に絶妙のセンターリング。もちろんゴールも決まり、このプレーは私の中でのベスト・プレーです。


 私は、子供の頃はわがままで、辛いことやがんばることなど大嫌い、勉強もスポーツもほとんどしたことがないという子供でした。高校のサッカー部に入ってはじめて、努力とか辛抱とかをした訳ですが、努力が結果を生むと言うことも、この時はじめて実感しました。それまでは自分が足が遅いのや、運動が苦手なのは生まれつきで、がんばっても無駄なことだと思っていました。そう言えば子供の頃音楽も苦手で、音楽の試験で皆の前で歌を歌う時など、本当に恥ずかしかった記憶があります(今も苦手ですが)。聴音の時などはこっそり先生の手を見ていました。どこでどう間違えたか今はなんとギター教室の先生などしています。


     終わり





 「私の数字」ということで、私の個人的なことなどをいろいろ書いてきましたが、このシリーズは今回をもちまして最終回とさせていただきます。お付き合い下さった方々、本当に有難うございました。




 次回からは「中村俊三のギター上達法」と称しまして、ネット上のギター・レッスンを行ってゆきます。私のレッスンを受けている方は通常のレッスンの補足として、ぜひ読んで下さい。また他の先生などに習っている方も、こんな教え方もあるのかと読んで頂ければと思います。その他、独学の方、かつて習っていた方、これから習おうと思っている方など、ギターに興味のある方ぜひ読んでみて下さい。  
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私の公式戦でのサッカーのゴール数は2です。といっても遥か昔、ほとんど前世とも言える高校時代の話です。1年間のレギュラーのFWとしてプレーして、この数字は決して大きいわけではありませんが、でも存在することそのものが奇跡的な数字です。


 私は、子供の頃から運動は嫌いというか、大の苦手で、小学校の運動会の競走はいつもビリで、運動会が近づくたびにゆううつになっていました。中学生になってもいつも家でごろごろしている毎日で、たまに野球などはしましたが、外野で8番、振れば3振、守れば後逸と、ほとんどドラえもんの「のび太君」状態でした。


 中学校を卒業するまでほとんど体を動かしたことがなく、そんな体ではどうしょうもないと家族からも言われ、また自分でも真剣にそう思うようになり、高校進学を機に一大決心をして、運動部に入ることにしました。運動部に入るといっても、人気のある野球部などには入れませんし、テニス、卓球もだめだろうし、かといって柔道、剣道は恐そうというので、結局サッカー部にしました。サッカーは入部する人も少なそうだし、ただ走っているだけで、あまり運動神経もいらなそう、11人でやるのだからもしかしたら試合に出られるかも知れない、出られなくても体力を付けるだけだからと、そんな理由で決めました。


 私の高校入学は1966年で、2年前の東京オリンピックで日本代表はベスト・エイトに入り、Jリーグの前身ともいえる日本サッカー・リーグもその頃はじまり、いわば「第1次サッカー・ブーム」ともいえる頃だったと思います。また68年にはメキシコ・オリンピックでは釜本選手の活躍などで銅メダルに輝きました。しかし一般にはサッカーのことはあまり知られてなく、ただボールを蹴飛ばして遊ぶものくらいにしか思われていませんでした。サッカー部のある中学校はまだめずらしかった頃です。


 高校の入学式の次の日、入部申し込みにサッカー部の部室に行きました。それにしてもよく入部を認めてくれたと思います、体が小さい上に、足はやたら細く、おまけにメガネで、どう見てもサッカーをやれるようには見えなかったでしょう。でもその部室にいた部長らしき先輩はそうしたことは顔に出さず、「用意ある?・・・・そう、じゃ、これとこれ着て」と言い、汚いシャツやストッキングなどを差し出しました。サッカー用のストッキングなどその存在はこの時初めて知りました。
「あ、それからメガネはずして」 
「え、でも、あのう・・・・メガネはずすと何にも・・・・」
「メガネかけたままじゃサッカー出来ないだろ」
「え、でも・・・・あ、はい」
というわけで当時視力は0.06と0.04でしたが、しかたがなくネガネをはずし、赤と黒の縞の汚いストッキングと青いパンツ、汗臭そうなシャツを身に付け、グラウンドに出ました。人の顔はほとんど判別できませんが、ボールは大きかったせいでなんとか見えるようです。先輩の部員たちがボールを蹴る音がやたら大きく、またそのスピードもすごく速く感じました。


 その先はだいたい想像のとおりです。それまで走るどころか、歩くことも少なかったので、入部して最初の頃は球拾い程度でたいして練習したわけでもないのに、全身筋肉痛で、一番痛かったのが足の裏です。それほど私の足の裏は柔らかかったのです。中学校に入った時テニス部を3日もたずにやめてしまったので、なんとか3日は続けようとがんばり、その次はともかく1週間、そして1ヶ月となんとか持ちこたえ、2,3ヶ月するとなんとか体が馴染んできました。とはいえ最初はまともにボールも蹴れない状態で、足も格別遅く(入部時は50メートル=8.2秒)、おそらく先輩や同輩たちもとんでもないのが入っちゃったなと思ったでしょう。誰しも戦力になるとは思わなかったでしょうが、唯一評価されていた点は、ともかく休まないということだけでした。これは熱心だったというより、私としては休むのが恐かったのです。1回休むと、次の日に練習に出るのがいやになり、それっきりになってしまいそうだったからです。


 昔運動部を経験した人はよく知っていると思いますが、当時はよく練習中に水を飲むなと言われていて、特に真夏の炎天下での練習の時には本当にたいへんです。夏休みの練習で紅白戦を2試合続けてやった時など、本当に気絶しそうになりまりました、よく死ななかったと思います。夏休みが過ぎる頃には私の顔は真っ黒になり、担任の先生に「中村は真っ黒で健康そうだな」とよく言われていました。クラスの同級生たちはほとんど外に出ることもなく受験勉強に専念してましたから、私の真っ黒い顔は結構目立ったのでしょう。私の入学した高校は県内でも有数の進学校ということもあり、成績は鳴かず飛ばずで、先生の目からは「成績イマイチの運動部員」と見えたのでしょう。


 2年生の夏くらいまでは当然のごとく、試合に出ることはほとんどありませんでした。唯一1年生の6月頃、上級生の修学旅行と大会が重なって、1年生だけで大会に出場することになり、その時はじめて試合に出場しました。私はハーフ・バック(今で言えばボランチ)のポジションで、4点差くらいで負けたのは覚えていますが、内容のほうは全く思い出せません。おそらくサッカー以前のプレーだったのでしょう。


 2年生の秋になり、上級生が引退し、新チーム結成となりました。1年生もいましたが、なんとかレギュラーになれました。新チームに変わったのを機にハーフ・バックからレフト・ウイング(今でいえば左サイドのMF)にポジションが変わりました。背番号もこれまでの「4」から当時快速ウイングでならした杉山選手と同じ「11」になり、それだけでも嬉しく感じました。このポジションは普通、足が速く、ドリブルが上手い選手が就くポジションですが、私の場合は他に行くところがなく、ここに落ち着いたのだと思います。この辺に置いておけば特に害はないだろうと言うことだと思います。コーチからは「ドリブルはするな、ボールが来たらすぐパスしろ」と言われていました。
 

 秋の新人戦を前に市内の工業高校との練習試合がありました。その試合の前半だったと思いますが、私は普通左サイドにポジションをとっているのですが、プレーが右サイドのほうに偏り、中央のポジションに誰もいなくなってしまったので、私はその時中央のポジションを埋めていました。すると私の少し前方に、右のほうからグラウンダーのボールが流れて来ました。私にパスをしたのか(あまりあることではない!)、たまたま味方の選手が中央にボール蹴ったのか(多分このほうが正しい!)わかりませんが、絶好球です。なおかつ近くにディフェンダーもいません、いわゆるド・フリーの状態です。私の場合相手チームからもノーマークだったのでしょう。ペナルティ・エリアの少し手前で、ゴール真正面だったと思いますが、走りこんだ勢いで右足を思い切り振りぬきました。ゴールの隅などを狙っている余裕はありません、ほとんどゴール・キーパーめがけて蹴ったと思います。ゴール正面を狙って蹴ったボールはややアウト・サイドにきれて、結果的にはゴールの右隅のネットに突き刺さりました。練習試合とはいえ、対外試合での初ゴールで、しかもこんなにきれいに決まるとは思いませんでした。思わず飛び上がって何か叫んだと思います、チーム・メイトも抱きついてきました、こういう時というのは一種独特の興奮状態に陥ります。40年近くたった今でもその時の感触が、私の右足の甲のやや外側のところに、ごく僅かですが残っています。

   つづく
11
今現在水戸ギターアンサンブルのメンバーは私を含めて石川惠子さん。石川さんは、大学時代にはギター部に入っていて、後で紹介する中川さんの後輩だそうです。またご主人は私の大学のギター部の後輩にあたり、演奏会などにはよく来てくれます。アルト・ギターは普通のギターよりも小さく、音域も5度高くなっていて、オーケストラ曲の編曲ではなくてはならない楽器ですが、柔らかい音やのびのある音を出すのはたいへん難しい楽器でもあります。
 
その次からプライム・ギター(ギター合奏の場合は「普通」のギターのことをこう呼びます)となり、2人づつ4パートと分かれます。その「プライム1」として丹朋子さんと中川真理子さん。丹さんと中川さんは昨年の私のアコラ(ひたちなか市)でのコンサートと、前述の水戸ギター・アンサイブル演奏会の時二重奏をやってもらいましたが、とても素晴らしい二重奏でした。

 次が「プライム2」で中居直也君と萩野谷稔さん。中居君はまだ中学生ですが、ギターは4歳の頃からやっています。私の家内と中居君お母さんとが従妹どうしということで、普段は私も「直也」と呼んでいます。萩野谷さんは蔵王の近くにロッジをもっていて、若い頃はスキーの時など泊まらせてもらったりしていました。この二人とも音が大きく、ある意味最強のパートかも知れません。

 次は「プライム3」で、佐藤智美さんと、後関信一さん。佐藤さんはギターを始めてから約5年とメンバーの中ではギター歴は一番短いのですが、仕事でピアノの調律をしているなど、音楽は得意で、貴重な戦力です。後関さんは1990年頃からアンサンブルに加わっており、若い頃はスポーツ・カーを飛ばしながらロックに夢中になっていたそうですが、今はクラシック・ギター一筋のようです。

 次の「プライム4」は石川博久さんと、市毛和夫さんで、どちらかといえば低い音域を担当しています。石川さんがギターを習いにきたのは、私も、石川さんもお互いに20代の半ば頃だったと思います(1977年頃)。さすがに今は個人レッスンはしていませんが、合奏はほとんど休みなくずっとやっています。市毛さんはかつて音大受験を試みたことがあるそうで、ピアノやフルートも演奏し、またギターも若い頃からやっています。最近指の具合がよくないそうで、気がかりです。

 客席から見て、一番右側に座るのがコントラ・バス・ギター担当の佐藤眞美さんで、コントラ・バス・ギターは普通のギターよりも1オクターブ低い音が出ます。そのため6弦などはかなり太く、ワイヤーのような感じです。楽器も大きく、ほとんど単音で弾き、なおかつ他のパートに比べて音も少ないのですが、他のギターの3,4台分くらいの音量があり、低音はこれ1台でかなりの威力です。佐藤眞美さんはプライム3の「佐藤さん」と名前が似ていますが、特に親戚とかではありません、ちなみに「智美さん」は女性で、「眞美さん」は男性です。眞美さんは昨年はアルト・ギターでしたが、佐藤さんの体格を考えるとこのコントラ・バス・ギターのほうが似合いそうです。

 予定としては、このメンバーとこのパート編成で2,3年やって行きますが、最近の演奏予定としては6月30日(土曜日 pm.5:00~)に水戸芸術館で水戸市民音楽会がありそれに出演します。これはたくさんの団体が出演するので、1団体あたりの演奏時間は7分ですが、私たちはドボルザークの交響曲第8番の第3楽章「アレグレット・グラッチオーソ」を私のギター合奏へのアレンジで演奏します。曲名はピンとこない人も多いと思いますが、たいへん親しみやすく、また美しい曲で、ギター合奏にもよく合うと思います。ぜひ聴きに来て見てください、水戸ギター・アンサンブルの演奏時間は午後6時前後だと思います。また今年の11月11日に予定している中村ギター教室発表会ではホルストの惑星から「ジュピター」を演奏する予定です。
 ・・・・・・・つづき 


 90年には創(私の長男)のためにイギリスの楽器のポール・フィッシャーを買いました。
これはふくよかな低音で、高音にも気品が漂う感じでしたが、やはりハウザーのほうが音が前に出るので、創がコンクールに出る場合はハウザーのほうを使わせ、その間は私がこポール・フッシャーを弾いていました(現在この楽器は後関新一さんが所有)。


 94年に別な用事で東京の楽器店に行きましたが、そこでぼろぼろのポール・ジェイコブソンを見ました。
たいして古くないのに表面板などかなり傷んでいます(今は修理していますが)、よほど使い方の荒い人がオーナーだったのかも知れませんが、でもとても気に入りました。
ジェイコブソンはアメリカの楽器で、杉材を使用し、明るくよく鳴る楽器で、スコット・テナントなどが使用して知られるようになりました。
このジェイコブソンはさらにソフトで、甘い音色感があります。私の好みで選んだ楽器でしたが、創に弾かせると、ハウザーより合う感じでしたので、結局創の楽器ということになりました。
音量があるので、曲の強弱が付けやすく、確かにコンクール向きで、また甘い音色は当時の創に合っていたと思います。
この楽器で創はクラシカル、東京国際、アレッサンドリアの3つのコンクールで入賞しています。


 2002年に創が水戸芸術館でリサイタルを開くことになりますが、それを機に福田先生の勧めでホセ・ルイス・ロマニロス&サン(1993年)を買いました。
創はこの楽器で水戸芸術館をはじめ、いくつかのリサイタルを行い、またフランス留学にも持って行きましたが、今はギターから遠ざかっているので、この楽器も私の手元にあります。
ロマニロスは基本的にアントニオ・トーレスをモデルにした楽器と言われ、この時期のロマニロスは低音が太いのが特徴です。


 今現在、手元にある主な楽器はヘルマン・ハウザーⅢ(1983年)、ポール・ジェイコブソン(1991年)、ホセ・ルイス・ロマニロス&サン(1993年)、創がクラシカル・ギター・コンクールの時にいただいた桜井正毅(1996年)となっています。
こう振り返って見るとこれまで確かにいろいろと迷走してきて、無駄な出費とか、家族に迷惑をかけたりもしてきたと思いますが、今思えば必要な経験だったかも知れません。
特に楽器のことで生徒さんからアドヴァイスを求められた時などは、その経験がたいへん役に立っています。
何事にも「無駄」はとても「重要」なのでしょう、矛盾する言い回しですが。



 前述の通り、今はハウザーをメインに使っていて、重要なコンサートはこれを使っています。
私のホーム・グランドとも言えるひたちなか市文化会館との相性もよく、そこでのコンサートの録音を聴いてみると、なかなかいい音をしていると思います。
音の「通り」もよく、大きな会場でも遠くまで通る音をしていますが、柔らかい音を出すのは難しく、弾き方によっては硬めでノイズの多い音になってしまいます。

 ジェイコブソンは低音、高音ともよく鳴りますが、鳴りすぎてしまう音もあるので注意が必要です。
スペイン系などの華やかな曲に合いますが、ピアノ曲のアレンジものもよく合うと思います。
また日頃のレッスンや練習、また合奏にとたいへん便利な楽器です。

 桜井は安定した太めの音で、各ポジションともよく出て使いやすい楽器ですが、音が太い分、微妙なニュアンスを出すのは少し難しいようです。時々練習や、レッスンに使ったりしています。
 
 ロマニロスは低音が「深い」響きをするので、和音などは美しく、自然に響きます。
中、高音の音量はあまりないので二重奏や合奏には向きませんが、弾く人の技術があって、音響のよい会場だと中、高音もきちんと響き、なんといっても美しい音が出ます。
現在はこれらの楽器を曲目や演奏会場など、あるいはその日の気分などで使い分けています。



 私自身の考えでは、楽器は、楽器自体が優れた楽器であるかどうかということよりも、自分のイメージを、なるべく忠実に具体的な音に換えてくれるかどうかと言うことが一番重要だと思っています。
どんなに評判の高い名器でも、あるいは高価な楽器でも自分のイメージに合わなければ無用の長物となります。
また、どんなよい楽器でも一長一短があり、オールマイティーな楽器はないと思います。
名器といわれる楽器ほど個性も強くなり、したがって合うか合わないかもはっきりしてくると思います。
結局のところあまり一般的な評判などには惑わされることなく、自分に合った楽器を選ぶのが大事なのでしょうが、そのためにはやはりいろいろ経験してみるのがたいへん重要です。
なにはともあれ、いろいろな名器を弾いてみるのは理屈ぬきに楽しいものだと思います。
ギターをはじめた以上、弾けても弾けなくても、やはり名器には触れてみたいと思うのは人情?でしょう。
また、その名器によって自分のイメージそのものを上げてゆくことも可能ではないかと思います。


  おわり
 ギターを始めて40数年、これまで私が使った楽器はいろいろ合わせると、だいたい13本くらいになります。
私がギターを弾くようになったのは小学5年生の頃で、最初に弾いたギターは14歳上の兄が買ったギターで、詳しいことはよくわかりませんが、あまりよい楽器ではなかったと思います。
高校1年生の頃、その兄が「高級手工品(当時の価格で2万円前後?)」と書かれた楽器を買い、確かにそれまでの楽器よりは格段に音が出て、特に低音はよく出ると感じました。
しばらくするとその兄もあまりギターを弾かなくなって、結局この楽器は私がほとんど弾いていました。


 茨城大学に入学し、クラシック・ギター部に入っても、1年間くらいはその楽器を弾いていましたが、だんだんその楽器では満足ゆかなくなって、大学2年生になる頃、当時県内でギター製作をしていた富田修さんにギターを作ってもらいました。
富田さんは河野賢氏の弟子で、どちらかと言えば重厚な音質の楽器だったと思います。
その楽器で、当時茨城県民文化センターで行われていたギター部の定期演奏会で、2回ほど独奏などをしました。


 ギター教室の仕事を始めるようになった頃(まだ茨大在学中)、休憩時間にふと壁にギターを立てかけてしまい、それが倒れて側板を割ってしまいました。
ギターは側板を割ると致命的になり、音は即出なくなります(それ以来生徒さんたちにはギターを壁に立てかけないようにしつこく言っています)。
それを機にスペインの楽器で、当時たいへん人気の高かったホセ・ラミレスⅢ世を買いました。
この楽器は弦長が664mmあり(通常は650mm)、私のように手の小さいものには向かない楽器でしたが、なんと言っても音がたいへんよく出るのと、1960年以降のアンドレ・セゴビアが使っていたことや、当時習っていた松田晃演先生も使用していたことなどで、結局この楽器にしました。
確かによく鳴る楽器で、高、中、低音問わず明るくよく鳴り、また重厚さもあったと思います。
この楽器は30才くらいまで使用し、デビュー・リサイタルもこれで行いました。この楽器とともに私の今の仕事が始まったといえます。


 30才くらいになると、音楽の興味の対象が現代音楽や、ルネサンス、バロック音楽などになり、この「鳴りすぎる」というのが邪魔に感じるようになりました。
1981年頃ギター専門店のほうからヘルムート・ブッフシュタイナーと言う楽器を紹介されました。この楽器は、その頃雑誌でも「精緻な工作技術」というような内容で紹介されていて、話題にもなっていました。
それを手にとってみると、気品と透明感があり、もちろん「鳴りすぎる」こともなく、また標準サイズで弾きやすく、すぐにその楽器を買いました。
この楽器で2度のリサイタルを行いましたが、どちらもバッハのリュート組曲を中心としたプログラムでした(第1番と第2番)。


 この楽器は、確かにバランスもよく弾きやすい楽器でしたが、音量はあるとはいえない楽器でした。
音量は大きければよいというものではないでしょうが、ある程度はないと曲の抑揚が付けられなくなります。
またスペインものなどの華やかな音楽ではたいへん困ってしまいます。
この楽器を選んだのは「鳴りすぎる」ラミレスの反動だったかも知れません。
その頃「家内のため」ということで井田英夫氏の楽器を買い、私も結構弾いていました。
マイルドな音で結構使いやすく、発表会などでも弾きました。


 1984年の1月だったと思いますが、その前の年にリュート組曲第2番をやったことがきっかけで、多弦ギターに興味を持ち、今井博水氏の10弦を買いました。
この楽器はもともと特注品ということで、上質のハカランダを使用し、見た目もたいへん美しい楽器で、やわらかな音がしていました(この楽器は現在鈴木幸男さんが所有)。
その後ホセ・ラミレスⅢの10弦の出物があり、それも入手しました。この楽器は低音にはかなり重みがありましたが、高音、とくに1弦の12フレット付近の音色にはちょっと不満がありました。
これらの2台の10弦ギターで何度かコンサートも行いましたが、やはり難しい点もあり、使用していたのは約2年半くらいの間で、1986年には再びラミレスの6弦にしましたが、最初のラミレスに比べると影の薄いラミレスでした。


 その後もあまり落ち着くことなく、いろいろ楽器を見たり、弾いたり、時にはもう一歩で買いそうになったりしていましたが(スペインの楽器でサンチャゴ・マリンをほとんど買うつもりで1ヶ月近く弾いていました)、1988年に現在も弾いているヘルマン・ハウザーⅢ世に出会いました。
ハウザーⅠ世は弾いたことがないのでよく分かりませんが、一般にⅡ世、Ⅲ世の場合、力強い低音というのが特徴ですが、このハウザーⅢは中音から高音にかけて、特に2弦がよく鳴るのが特徴です。
1983年製作で、NO.88、ハウザーⅢとしては初期のもので、Ⅱ世がまだ存命中だったと思います。
この楽器との付き合いは私の使った楽器の中では最も長く、もう20年近くになります、その間創が使っていたこともありましたが、これ以後、私の主なコンサートはこの楽器を使用しています。
結果的に言えばこれまでいろいろ迷走してきましたが、やっと落ち着き先が決まったようです。

つづく