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モーツァルトを不道徳と批判したベートーヴェンだが


 不倫をテーマにしたオペラ「コシ・ファン・テュッテ」を作曲したモーツアルトを「不道徳」と非難したベートーベンですが、二人の人妻との間にそれぞれ一人ずつ、しかもほとんど同時期に生まれた子供がいたと言う話は、最近まで一般には知られていませんでした。



ベートーヴェンそっくり?

 その人妻のひとりはヨゼフィーネといって、1805~1806年くらいにかけてベートーベンが親しくしていた女性で、末の子のミノナを産んだのが1813年。 女の子ですがミノナの写真を見ると確かにベートーベンそっくりで、多くの研究者も父親がベートーベンであることに異論がないようです。

 ヨゼフィーヌとは1807年以降はしばらく交際はなかったようなのですが、彼女の2度目の夫の失踪(借金が原因で)を機に、1812年頃にはよりを戻したのかもしれません。 かなりの美女だったそうですが、彼女はこの頃には精神的にも、また経済的にも行き詰っていたようです。



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ベートヴェンの”娘”とされているミノナの写真。 確かにベートーヴェンの面影がある。



不滅の恋人

 もう一人はアントニエ・ブレンターノといって1810年頃から交際があったようですが、こちらは正真正銘の人妻で裕福な家の夫人でしたが、夫婦関係は形だけだったとも言われています。

 アントニエは気高く、教養ある貴婦人で、1812年の段階ではベートーベンの本命だったようで、最近の研究ではベートーベンが亡くなるまで人目に触れないように大事に保管していた宛先不明の熱烈なラブレター、「不滅の恋人へ」の宛先人だということです。



楽聖に1か月間に子供が二人生まれる?

 ヨゼフィーネが出産する約1ヶ月前に男の子を産んでいますが、ベートベンの子供であることを否定している研究者もいます。 ブレンターノ家とは家族ぐるみの付き合いで、夫のフランツはベートーベンの熱心な支援者の一人です。

 特に経済的にベートーベンに多大な援助していたことで知られ、夫人のアントニエとはあくまでプラトニックな関係とされといましたが、種々の状況からしてアントニエの末の子カールの父親がベートーベンであった可能性は十分にあるようです。

 アントニエとはその後、手紙や楽譜などのやりとりのみで、直接会うことはなく、結果的には確かに「プラトニック」なものになり、夫のフランツもその後も変わりなくベートーベンを支援していたようです。



不滅の恋人への熱烈な愛の告白はただの言い訳?

 もっとも前述の「不滅の恋人」の手紙の中で 「他の女性が私の心を占めることなどけっしてありえません、けっして、けっして・・・・・」 なんて書いておいて、別な女性に子供を産ませたことで疎遠になったのかも知れません。

 一方、いろいろ困っていたヨゼフィーヌに対しては、ベートーベンのほうから経済的に援助していたようで、自らの責任を感じていたのかも知れません。



本当は女性にもてた?

 いかにも「野人」といった風貌や、「苦悩から勝利へ」といった音楽の内容からいって、女性にはあまり縁がなさそうに思われていたベートーベンですが、実際には多くの女性に支えられていたようです。

 「英雄」や「運命」など傑作を次々と生み出していた1805~1806年頃にはヨゼフィーヌとの親しい関係があったようで、この女性はその姉のテレーゼとともにベートーベンの音楽のよき理解者であったようです。




女性なしにはベートーヴェンは語れない?

当時、すなわち19世紀初頭には、上流階級の各家庭に音楽とピアノが浸透し、特に女性にとっては音楽はなくてはならないものだったのでしょう、難解とも思われるベートーベンの音楽を理解し、また的確に演奏できる女性はたくさんいたようです。

表立ってベートーベンを支えたのはルドルフ大公や、リヒノフスキー侯爵などの貴族たちですが、その裏では、多くの女性たちがその作品の誕生から、普及まで大きな貢献していたのかも知れません。

 私のCD棚でモーツアルトの次に多いのはベートーベンで、その中でもやはり交響曲が多く、全集としては8種類、第5番の「運命」だけだと17種類あります。 その中では、カルロス・クライバー=ウイーン・フィルの純粋でストレートな演奏が気に入っています。
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