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中村俊三 ブログ

中村ギター教室内のレッスン内容や、イベント、また、音楽の雑学などを書いていきます。

タレガ/レッキー ギター手稿譜

    ~マエストロとのレッスン



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ちょっと前に出された本だが

 この本も2014年の出版なので、紹介というには、ちょっと遅くなってしまいました。 この本の存在は前から知ってはいたのですが、価格もちょっとあるので(27000円くらい)、結局買ったのは最近になってしまいました。

 この本に深く関わるウォルター・ジェームズ・レッキーはイギリス人の医師で、タレガの熱烈なファンであり、弟子であった人物です。レッキーについては、プジョールによるタレガの伝記にも詳しく描かれています。 その伝記によれば、タレガの演奏旅行などには頻繁に同行していたようです。



タレガがイギリス人の医師ウォルター・レッキーに書いた手書き譜

 この本はタレガがそのレッキーのために手書きで書いた曲集で、タレガはこの曲集を用いてレッキーのレッスンを行っていたようです。 もともとタレガがレッキーのために書いた楽譜は4冊あったそうですが、そのうち「赤の本」、「青の本」と呼ばれる2冊が現存しています。

 この本はその残された2冊の本(曲集というべきか)を1冊にまとめたもので、通常の楽譜や本などより若干大きく、重たいものです。



編曲作品のほうが多い

 曲数としては「青の本」が16曲、「赤の本」が20曲となっていますが、どちらかと言えば、タレガのオリジナルよりも編曲作品のほうが多くなっています。 これはタレガのレパートリーを反映していると言えるのでしょう。

 今現在では、ほとんどの曲が別に出版されているので、これらの手書きの譜面は「異稿」と言うことになりますが、こうした異稿はタレガの音楽を考えるうえで、たいへん重要なものでしょう。



タレガとレッキーの双方による書き込みもある


 また、単に曲集であるばかりではなく、レッスンを行った際の書き込み(タレガ、レッキーの両方の)などもあり、これらもたいへん貴重な資料となるでしょう。

 その書き込みは黒と赤のインクで書かれていて、黒はタレガ、赤はレッキーによるもののようです。 これらの中で目立つのは、何といってもフレットの番号で、ほとんどすべての音にフレットの番号、及び弦の番号が書かれています。


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一つ一つの音にフレット番号が付いている。 赤いインクの文字はレッキーのものらしい。



楽譜が読めなかった?

 どうやら、レッキーは音符だけでは弾き方がわからなかった、つまり楽譜がよく読めなかったようです。 しかし楽譜が読めない割には「椿姫幻想曲」とか「ベニスの謝肉祭」などといった難しい曲も練習していたようです(「練習する」 ことと 「弾ける」 こととは別かも知れないが)。



労を惜しむことなく

 タレガも労を惜しむことなく自らの作品(編曲も含めた)を手書きで書き与えた上に、このように細かく書き込みをしています。 他の弟子たちにも同様のことをしていたのかも知れません、本当に頭が下がります。

 
 
 
 


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マチネの終りに 2

        平野啓一郎





フィクションなだけに背景や細部はリアルに

 この本について、もう一言。 この小説ではギターのこと以外でも経済問題、国際問題など内容が多岐にわたっています。 基本的にこの小説は恋愛ものなのですが、その背景についても克明に描かれています。

 小説である以上、基本はフィクションなのですが、逆にその背景はリアルに、正確に描写されています。 そのことにより、ストーリーにリアリティを持たせているのでしょう。 

 また一見話の本筋にはあまり関係ないように思われることでも、しっかりとストーリーに関連付けられており、全く無駄なことは書いていないようです。  



ギョーカイ人としては

 さて、前回も書いた通り、ここで話の ”本筋” については詳しく書くことは出来ませんので、そうした背景についての話を、もう少ししましょう。 

 その中で、私たち ”ギョーカイ人” にとっては音楽事務所にかかわることとか、またその内紛などにはちょっと興味をそそられるところです。



音楽産業の苦境

 この話は今から12年前ということですが、その頃リーマン・ショックなどというものがあり、世界的に経済が落ち込んだ時期です。 

またそれだけではなく、音楽はCDからネット配信などと言う時代になり、特にクラシック部門でのCDの売り上げは落ち込んだ時期です。

 そうしたことによる音楽産業の苦境といったところにも触れています。



 
天才ギタリストも立ち止まってしまう?

 主人公の天才ギタリスト、蒔野聡史が、アンコールとして弾いた「大聖堂」の第3楽章の途中で先が全くわからなくなってしまい、立ち止まってしまうという話も出てきます。

 こんな話私たちにとっては極めて現実的ですね。 幸にも私の場合、本当にステージ上で立ち往生してしまったことはないのですが、リサイタルなどをやる度に、そうしたことはいつも心配になります。



フリーズしてしまう夢を見る

 よくステージでの演奏の途中で、先がわからなくなってしまって、うろたえている夢などを見ます。 夢から覚めると心臓がドキドキしていて、夢でよかったと胸をなでおろします。

 私の場合、多少上手く弾けないくらいはあまり気にしないのですが、さすがに演奏の途中でフリーズしてしまうのは恐怖です。



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幸にもステージ上で ”立ち往生” してしまったことはないが、そんな夢はよく見る



人並み外れた記憶力を持っているはずだが

 確かに一流の演奏家たちの記憶力は並外れていて、普通の状態であれば、曲の途中で、先がわからなくなってしまうことはあり得ないのですが、やはりステージというのは別世界だと言うことでしょう。

 こうした事は記憶力の欠如から来るものではなく、ほとんどの場合精神的なものと言えます。 

 この小説の中でも、絶好調だったコンサートの最後に弾いたアンコール曲で、来るはずだった洋子の姿が客席に見えなないので、そのことに気持ちを奪われ、突然記憶が全く失われたとされています。




止まり方も具体的に書いてある


 この蒔野聡史の ”止まり方” もかなり具体的にかかれています。 「ベースラインの半音ずつの上昇を経て、最初の主題に戻ろうとするとき」  と言う訳ですから、譜面上ではここでとまったことになります。

 

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小説の中で、蒔野聡史は矢印のところ、つまり最初に戻るところで譜忘れしたことになっている。



ここではあまり止まらないと思うが

 このあと最初の部分に戻る訳ですが、でもここでわからなくなるということは普通、あまり考えられません。

 何といっても低音がラ#まで来てしまっている訳ですから、仮に意識をなくしても自然に指がその上の「シ」に行ってしまいそうです。

 それに、ここから最初の部分に戻るので、その最初の部分がわからなくなる可能性は極めて低いと考えられます。

 現実的に、この大聖堂の第3楽章で譜忘れするとしたら、その前の2番目のエピソードの真ん中あたりか、またはテーマの後半部分かなと思います。



普通ではあり得ないことが起きたことを示すため?

 作者がこの箇所で譜忘れしたことにしているのは、普通では全く考えられない箇所で譜忘れしたというこを強調するためかも知れませんね。

 そう考えると、この小説、本当にマニアックですね!



CDが発売されている

 この本に登場する曲目がCDとして発売されています。 もちろん演奏者は蒔野聡史、いや福田進一です。

 曲目のほうはアランフェスやイェスタディ、大聖堂などと、小説の中で登場するギター曲の中でも比較的馴染みやすい曲となっています (じゃないと売れない?)。



ブラームスの間奏曲の編曲はあくまで作者の頭の中?

 小節の中では、ブラームスの間奏曲をアレンジして弾いていて、洋子も 「とても素晴らしかった」 と言ってのですが、これは入っていません。

 どんなふうにアレンジしているのか聴いてみたかったのですが、やはり現実にギターで演奏するのはなかなか難しいのかも知れません。 この曲は、あくまで作者のイメージの中のものかも知れません。



架空の名曲が実在の名曲に?

 この小説の中で重要な役割を果たす架空の映画音楽の名曲 「幸福の硬貨」 のテーマは 「林そのか」 という作曲家によって作曲され、このCDにも収録されています。

 小説発表時には曲名だけあって、全く中身がなく、あくまでも ”架空” の名曲だったのですが、おそらく来年公開の映画でも演奏されると思いますので、”実在” の名曲となるかも知れません。  ・・・・「嘘から出た実」を地でゆくような!




「マチネの終りに」とは


 この本のタイトルになっている 「マチネの終りに」 という言葉は、蒔野がニューヨークでもリサイタルの最後に 「それでは、今日このマチネの終りに、みなさんのためにもう1曲、特別な曲を演奏します」 と言っているところからとられています。

 「マチネ」 という言葉、クラシック音楽ではよく聴くのですが、実は私も正確にその意味を知りませんでした。 午後のコンサートのことなんですね。










マチネの終りに  


 ~福山雅治、石田ゆり子で映画化


平野啓一郎 著




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今頃チョット遅いけど

 もしかしたら、この本はギター関係者の皆さんはすでによく知っているものでしょうね、おそらくいろいろなところで紹介されたり、また感想など書かれていたりするでしょう。

 若干 ”遅きに失し” といった感じもありますが、先日新聞の広告に、来年福山雅治、石田ゆり子のキャストで映画が公開されると書いてありましたので、この機会に当ブログでも書いておきましょう。




芥川賞小説家 平野啓一郎氏が2016年に発表

 この小節は、1999年京都大学在学中に書いた小説「日蝕」で芥川賞受賞した平野啓一郎氏が書いたもので、2016年4月に出版されました。

 内容は30代後半の天才ギタリスト、蒔野聡史と、2才年上の国際ジャーナリストの小峰洋子の、大人の恋愛小説と言えます。 私たちギター関係者にとって興味深いのは、もちろん主人公がクラシック・ギタリストだというjことです。

 確かに、時折小節やテレビ・ドラマなどにクラシック・ギターやクラシック・ギタリストが登場したりすることもありますが、 その場合のギターの扱いは、当然ながら特にギター・ファンでなくとも理解できる範囲となっています。




本格的にクラシック・ギターを取り上げている

 ということは、クラシック・ギターを知る人にとっては、たいていの映画や小説ではギターの扱い方に物足りなさ感じているのではと思います。

 しかし、この小節でギターに関して書かれていることは極めて本格的なものです。 

プレリュードとフーガ(コシュキン)、 ソナタ・ジョコーサ(ロドリーゴ)、 ソナチネ(バークリー)、 黒のデカメロン(ブルーウェル) など、この小説に登場する曲目を見ても、その本気度がわかります。


 ”コア” なギター・ファンも、この小説でのギターに関する内容には、おそらく満足できるものではないかと思います。




こちらが心配になるくらい

 しかし一方では、多少ギターをやっていても、このような曲聴いたことがない、ということも少なくないかも知れません。 

 もちろんですが、この小説の中では 「禁じられた遊び」 とか 「アランブラの想い出」 とかは全く登場しません ( 「魔笛」 や 「アストゥリアス」 も)。

 このような曲は、話の本筋にはあまり関係がないので、別にわからなくても大丈夫なのですが、でもこんなにマニアックで大丈夫かな? みんなついてきてくれるかな? なんて心配してしまいます。


 

誰の事かすぐわかる?

 この小説の序文で、作者は 「(登場人物には)それぞれモデルがいる」 と言っています。

 そのモデルとなったギタリスト、つまり蒔野聡史とは誰か? ということは、この小説を読んだ人で、すくなくともクラシック・ギターをやっている人だったら、すぐに見当がついてしまいます。

 そうです、あの人しかいませんね、我が国が誇る世界的ギタリストのF氏! 



息子が長年お世話になった先生

 F氏のことは当家では息子が10年間くらいに渡って指導していただいたので、F先生と呼んでいます。

 息子(創)に関しては、小学生の頃から、パリにわたってギターをリタイアするまで、本当に多忙な身にも関わらず丁寧に御指導していただき、また将来のことなども親身になって相談に乗っていただきました。



あくまでもフィクション(当然だが)

 蒔野聡史の経歴に関しては、細かいところを別にすれば、ほぼF先生の経歴と一致します。

 あまりF先生の経歴に近いので、逆にF先生の経歴が小説に書かれている蒔野聡史の経歴と同じと誤解してしまう人も多いのではと心配してしまうくらいです。

 もちろんあくまで ”近い” というだけで、蒔野聡史の経歴とF先生の経歴とは別物で、 当然のことながら ”小説” なので、あくまでもフィクションと考えるべきでしょう(特に恋愛等に関しては)。

 


道具立てがしっかりしている

 この本の内容は先に言った通り、本質は ”恋愛小説” であって、ギターの方は一つの ”道具立て” に過ぎないわけです。 しかしこの道具立てがたいへんしっかりしていて、通り一遍のものではないというわけです。

 あとがきにも福田進一(これは実名)、大萩康司、鈴木大介の3氏からアドヴァイスを貰ったしてあります。 作者はもともと音楽への理解力に優れているのでしょうけど、さらにリサーチも完璧なのでしょう。 恐れいります。

 道具立てといえば、他にも経済問題、イラク戦争、難民問題、ユーゴスラビア紛争など、さまざまな道具立てが登場します。そうしたしっかりとした道具立ての上で、二人、いや三谷早苗も含めた3人を中心とした恋愛物語ができあがっているのですね。



詳しくは書けないが

 ついつい、その ”道具” のほうの話になってしまいますが、 蒔野聡史と小峰洋子は、最初の出会いから、お互い特別な存在になって、2度目にはそれが強い愛であることを確かめ合う。 そして二人にとっての幸せも目前・・・・・・ 

  チョットまった! そのまま終わったら小説にならない! 当然何かおきるわけですね。 でもこれ以上は書けません、本買って読んで下さい!




福山雅治さんが天才ギタリストの役を

 来年公開予定の映画の方も気になりますね、福山雅治さんが国際的天才ギタリストを演じるわけですが、福山さんに主役が決まった理由の一つとして自身ギタリストであることもあると思います。

 しかし、もちろんクラシック・ギターと福山さんが日頃弾いているポピュラー系のギターとはかなり違います。 おそらく撮影に向けてクラシック・ギター演奏の特訓なども行うのではと思います。 



「おくりびと」では

 映画「おくりびと」では本木雅弘さんがたいへんすばらしいチェロの演奏を ”見せて” くれました。

 本木さんが、かつてのアイドル・グループの一員としか思っていなかった私には、映画の中でもチェロの演奏ぶりには本当に驚きました。 どう見てもプロのチェリストにしか見えませんでした。

 確かに音そのものは別で、本木さんはその音に合わせてただ ”弾く真似” をしているだけなのですが、 ギターなど教えていると、その ”真似” が非常に難しいことがよく分かります。

 決して簡単なことでも、また誰にでも出来るものでもありません。



福山さんがどのようなギター演奏を ”見せて” くれるのか楽しみ

 レッスンの時にも、たまに 「私の真似をして下さい」 などということがあるのですが、でもほとんどの人にはその ”真似” ができません。 真似が出来るくらいなら、たいてい本当に弾けると思います。 

 福山さんの場合もおそらく音に合わせて”映像的に弾く” のではと思いますが、もとより才能豊かな人、どのような ”弾きぶり” を見せてくれるのか、今から楽しみです。
 
 
  
マルタ・アルゲリッチ 子供と魔法   オリビエ・ペラミー著  藤本優子訳  音楽之友社



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今年の5月に出版された本

 マルタ・アルゲリッチについてはクラシック音楽ファンならよくご存知のピアニストと思います。アルゲリッチは1941年生まれなので、今年70歳になりますが、今現在でも最も人気の高い女流ピアニストの一人と言えるでしょう。この本は今年の5月に出版されたもので、アルゲリッチのこれまでの生涯を書いたものです。アルゲリッチに関しての本は他にも出版されているとは思いますが、読みやすく、よくまとまっていて、また入手もしやすいものと思います。



人並みはずれた技術、記憶力、表現力

 「天才」などという言葉を乱用してはいけませんが、このアルゲリッチに関しては他の言葉で表現するのは難しいでしょう。ピアノの演奏技術、記憶力、表現力などは、優れた演奏者たちの中でも、さらに人並みはずれたものがあるでしょう。

 10代で受けたブゾーニ・コンクールにおいて、本選課題曲を予選通過が決まってからさらいだしたとか(それでも優勝!)・・・・ 隣の部屋で練習しているのを聴いているだけでその曲を覚えてしまったとか・・・・ 一度覚えたら絶対に忘れないとか・・・・ その天才ぶりを語る逸話は数知れません。

 因みにアルゲリッチの記憶力は関しては、音楽だけに限定されたものではなく、人の話や、本の内容なども一度で正確に記憶してしまうそうです。もっとも、一般に優れた音楽家には、当然のごとく優れた記憶力が備わっているようです。私としてはちょっと耳の痛い話ですが、私の場合”優れた”音楽家ではないので、特に気にする必要はないかも。




恋多き

 またアルゲリッチは私生活や、性格なども個性的で、数々の恋、及び三度の結婚(それらの結婚はあまり長続きすることはなかったようです)。アルゲリッチは人を好きになりやすい性格だったようですが、孤独がとても嫌いでもあったようです。アルゲリッチの自宅は、玄関の鍵はかけられることなく、絶えず様々な人が出入りしていて、誰でもがその著名人の家主と親しくなることができたようです。



キャンセル魔

 アルゲリッチは私生活でも孤独が嫌いでしたが、ステージ上の孤独はもっと嫌いで、1980年半ば頃より独奏は行わなくなりました(録音もほとんどなくなる)。その後のアルゲリッチの演奏活動は、協奏曲や室内楽、ピアノ二重奏などに限定されています。

 その人並みはずれたピアニストとしての能力とは裏腹に、ステージをとても怖がり、頻繁にコンサートのキャンセルすることでも知られていました。いつしか音楽関係者の間では、アルゲリッチは気まぐれで、気難し屋といったレッテルが貼られてしまいましたが、それは音楽にたいする厳しい態度の表れとも言われています。常に自分に最上級の演奏内容を課し、それが実現できないことを常に恐れていたようです。

 一方でファンにとってはそのキャンセル癖も、アルゲリッチの一部として受け入れられていたようです。常にキャンセルの可能性があるからこそ、本当にアルゲリッチの演奏を聴くことが出来た時のファンの感激は、例えることが出来ないほど大きかったのでしょう。アルゲリッチのキャンセル癖は、アルゲリッチのカリスマ性を増大させることはあっても、その人気を減らすことにはならなかったようです。



日本びいき

 そんなたいへん奔放なアルゲリッチですが、日本や日本人に関しては若干違った面があるようです。アルゲリッチの性格などからは正反対のように思われる、几帳面な日本人に対してたいへん好感を持ち、1998年より自ら総裁となり別府アルゲリッチ音楽祭を立ち上げています。

 これは世界の著名な音楽家や地元の音楽家たちによる音楽祭ですが、発足以来毎年必ず行なわれ、ここでは「キャンセル魔」は完全に返上しています。また長時間にわたる「マラソン・コンサート」も行い、アルゲリッチはいろいろな人と共演するために頻繁にステージに登場しています。また地元の合唱団の伴奏なども行なっており、本来のアルゲリッチは、気さくで音楽好きであることが窺われます。




震災チャリティのCD

 また今年の震災については、とても心を痛め、5月に東京の墨田トリフォニー・ホールで行なわれた協奏曲のコンサートのライブのCDを震災チャリティとして発売しています。曲はシューマンとショパンの第1番の協奏曲で、入手しやすいCDですので皆さんもぜひ取り寄せてみて下さい。私はまだ聴いていませんが、名演であることは間違いないでしょう。



のだめのモデル?

 アルゲリッチの後の性格や演奏技術を形成することになる幼少時代のことについても、この本では詳しく書かれています。当ブログで以前「アルゲリッチは”のだめ”(『のだめカンタービレ』の)のモデルでは?」と書いたことがありますが、確かに幼少期のことや、コンクールの逸話などには若干の共通点があります。しかしこの本を読んでみると、現実のアルゲリッチに関しての方がずっと極端で、むしろ「のだめカンタービレ」のほうが控えめになっています。



コミックよりもリアリティがない?

 おそらく「のだめ」のほうでは、あまり話を極端にするとリアリティがなくなるので”そこそこ”に話をまとめたのだろうと思います。つまり現存のピアニスト、マルタ・アリゲリッチは、コミックの主人公「のだめ」よりずっとリアリティがないと言えるのでしょう。



次回以降アルゲリッチのCDを紹介

 あまり適切にこの本の内容を紹介出来ませんでしたが、気になった方はぜひ読んでみてください。なかなか面白いと思います。なおこの機会に次回以降、アルゲリッチのいくつかのCDも紹介したいと思います。いずれも名盤中の名盤と言えるでしょう。

勘の鋭い人は

 2番目の妻のアンナ・マグダレーナが、夫、ヨハン・セバスティアン・バッハについて書いた本の続きですが、勘の鋭い人はもう気が付いたかも知れません。またすでにこの本を読んだという人、この本について知っていたという人もいるでしょう・・・・・・・  そうです! そのとおりなのです。この本は実は真っ赤なニセモノ! マグダレーナ本人が書いたものではありません。ネット検索によれば、20世紀にイギリスの女流作家が書いたものだそうです・・・・


なりゆきで

 つい私の方も「なりゆきで」前回は本物であるかのような書き方をしてしまいました、ごめんなさい、多少ヒントは入れておいたのですが。私自身もこの本を読んでいる間は偽物とは疑わずに読んでいました。確かにリュートの件の他、多少気になった点もあったのですが、せいぜい何かの手違いとか翻訳の問題くらいにしか思いませんでした。”あとがき”で訳者が「本書が本当にバッハの二度目の妻アンナ・マグダレーナ・バッハの筆になったものだったろうか、という疑念・・・・」と書いているところを読み、はじめて合点がいきました。確かにここで書かれているバッハ像とか、バッハの音楽的評価は20世紀的です。またなぜこの本の中に出てくる逸話がほとんど聴いたことのあるものなのか、ということも理解出来ました。


活き活きと描かれて

 というわけで、とんだオチになってしまいました。しかし見方を変えると、この本はフィクションとすれば結構よく出来ています。なんといってもバッハやクラシック音楽に興味のある人、場合によっては全く興味のない人にもとても楽しめる本だと思います。またこの作者はバッハの音楽や、バッハに関する様々なことをたいへんよく研究していて、バッハについて一般的に言われていることと、特に矛盾点もありません。さらに一般的な人物評伝や音楽史などよりもマグダレーナにしろバッハにしろ、たいへん活き活きと描かれていて、その人間像がとてもよく伝わってきます。なんと言っても作家が女性だけに「一人の女性としてのマグダレーナ」がたいへんよく描かれていてます。というわけで、なかなか魅力のある本なのですが、ただ唯一の問題は「本人のあずかり知らぬ」ところで書かれているということだけです。唯一の問題ですが、残念ながら小さな問題ではないでしょう。


ちょっと現代的過ぎ

 さらに細かい問題点をあげれば、これは当然というか、やむを得ないことでしょうが、バッハの音楽に対する見方が現代的過ぎるという点でしょうか、この本の中で書かれているマグダレーナのバッハの音楽に関するコメントは21世紀の我々にとって違和感がなさ過ぎる気がします。とはいっても「本物」のマグダレーナが夫の音楽をどのように考えていたか、などということはわかるはずもないでしょうし、この作家が得られるバッハについての知識も当然その人が生きていた時代、つまり20世紀のものということになります。となれば「本当の」マグダレーナが夫の音楽をどのように考えていたかということが気になりますが、実際のマグダレーナはそれについて何も書き残していないようなので(たぶん?)わかる術はありません。


この楽器が妙に気になる

 あまりリュートのことにこだわるのも何ですが、この作家はリュートに関する知識はあまりなかったよいですが、リュートのことを「ギターに似た楽器」ということで、「ギター」としてしまったのでしょうか。またなぜ「ラウテンクラヴィツィンベル」の説明をあえてしたのでしょうか、もしよくわからなかったとしたら、別に詳しい説明などする必要もなかったと思うのですが。でも気になったのでしょうね、この楽器が。


尊敬と深い愛情

 この本を読む限り、この作家はバッハの音楽はとても好きで、またバッハのことを尊敬していたと考えられます。さらに、この本を書いている時には作家はアンナ・マグダレーナ・バッハになりきって、バッハの音楽を崇拝すると共に、バッハその人にも愛情を感じていたのではないかと思います。この本の最初のところで、老いたマグダレーナがバッハについて書くことの喜びを語っていますが、この作家もマグダレーナになりかわってバッハについて書くことに喜びを感じていたのでしょう。また女性の心理は私にはよくわからないところもありますが、この本で書かれているマグダレーナの「女性的な部分」は実はこの作家のものだったのかも知れません。


この本を食べる人がいたとしたら

 他のバッハに関する本では、この本のことについては全く触れられていません(だから私もこの本の存在を最近まで知らなかったのですが)。ということはこの本が偽りのものであることは音楽関係者にとっては周知の事実のようです。しかし特に音楽などに詳しくない人が(例えば私のように)本屋さんの棚でこの本を見かけた場合、間違いなくホンモノと思うでしょう。この本の表紙やオビなどにはどこにも「フィクション」であることは書いてなく、それどころか「「最良の伴侶の目を通しての叙述・・・・・ バッハ理解に必読の古典的名著」と書かれてあります。前述の「あとがき」にしても、この訳者はこの本を書いたのがマグダレーナ本人ではないことははっきりわかっていたはずで、「一抹の疑念を拭いされきれないでいた」などと言う表現はちょっとどうかと思います。また一般の読者が「あとがき」まで読まなかったとしれば、ずっとこの本がマグダレーナ本人が書いたものと思ってしまうでしょう。やはりこの本の表紙やオビなどに「この本はマグダレーナ本人が書いたものではありません」と表記すべきではないでしょうか、もしこの本が食べ物だとしたら、立派な犯罪となるわけですから(本を食べる人はいないかも知れませんが)。


情状酌量?

 しかしまたそれはそれとして、最初からフィクションとして読むより、最初は本物として読み、後から種明かしをされて「なあんだ」という風になったほうがずっと面白いもは確かで、私も最初からフィクションだとわかっていたら確かに読まなかったかも知れません。私もすっかり「被害者」になってしまったわけですが、情状酌量の余地としては、この本の中でバッハについて書いてあることはほぼ正しいく、この本を読んでバッハに関して誤った知識を身に付けてしまうということは、それほどなさそうです(少しはあるかも知れません)。ただしマグダレーナのキャラクターを除いてですが。


 皆さんはどう思いましたか、この本を読んでみようと思いましたか?