中村俊三 ブログ

中村ギター教室内のレッスン内容や、イベント、また、音楽の雑学などを書いていきます。

マルタ・アルゲリッチ 子供と魔法   オリビエ・ペラミー著  藤本優子訳  音楽之友社



          ブログ 006



今年の5月に出版された本

 マルタ・アルゲリッチについてはクラシック音楽ファンならよくご存知のピアニストと思います。アルゲリッチは1941年生まれなので、今年70歳になりますが、今現在でも最も人気の高い女流ピアニストの一人と言えるでしょう。この本は今年の5月に出版されたもので、アルゲリッチのこれまでの生涯を書いたものです。アルゲリッチに関しての本は他にも出版されているとは思いますが、読みやすく、よくまとまっていて、また入手もしやすいものと思います。



人並みはずれた技術、記憶力、表現力

 「天才」などという言葉を乱用してはいけませんが、このアルゲリッチに関しては他の言葉で表現するのは難しいでしょう。ピアノの演奏技術、記憶力、表現力などは、優れた演奏者たちの中でも、さらに人並みはずれたものがあるでしょう。

 10代で受けたブゾーニ・コンクールにおいて、本選課題曲を予選通過が決まってからさらいだしたとか(それでも優勝!)・・・・ 隣の部屋で練習しているのを聴いているだけでその曲を覚えてしまったとか・・・・ 一度覚えたら絶対に忘れないとか・・・・ その天才ぶりを語る逸話は数知れません。

 因みにアルゲリッチの記憶力は関しては、音楽だけに限定されたものではなく、人の話や、本の内容なども一度で正確に記憶してしまうそうです。もっとも、一般に優れた音楽家には、当然のごとく優れた記憶力が備わっているようです。私としてはちょっと耳の痛い話ですが、私の場合”優れた”音楽家ではないので、特に気にする必要はないかも。




恋多き

 またアルゲリッチは私生活や、性格なども個性的で、数々の恋、及び三度の結婚(それらの結婚はあまり長続きすることはなかったようです)。アルゲリッチは人を好きになりやすい性格だったようですが、孤独がとても嫌いでもあったようです。アルゲリッチの自宅は、玄関の鍵はかけられることなく、絶えず様々な人が出入りしていて、誰でもがその著名人の家主と親しくなることができたようです。



キャンセル魔

 アルゲリッチは私生活でも孤独が嫌いでしたが、ステージ上の孤独はもっと嫌いで、1980年半ば頃より独奏は行わなくなりました(録音もほとんどなくなる)。その後のアルゲリッチの演奏活動は、協奏曲や室内楽、ピアノ二重奏などに限定されています。

 その人並みはずれたピアニストとしての能力とは裏腹に、ステージをとても怖がり、頻繁にコンサートのキャンセルすることでも知られていました。いつしか音楽関係者の間では、アルゲリッチは気まぐれで、気難し屋といったレッテルが貼られてしまいましたが、それは音楽にたいする厳しい態度の表れとも言われています。常に自分に最上級の演奏内容を課し、それが実現できないことを常に恐れていたようです。

 一方でファンにとってはそのキャンセル癖も、アルゲリッチの一部として受け入れられていたようです。常にキャンセルの可能性があるからこそ、本当にアルゲリッチの演奏を聴くことが出来た時のファンの感激は、例えることが出来ないほど大きかったのでしょう。アルゲリッチのキャンセル癖は、アルゲリッチのカリスマ性を増大させることはあっても、その人気を減らすことにはならなかったようです。



日本びいき

 そんなたいへん奔放なアルゲリッチですが、日本や日本人に関しては若干違った面があるようです。アルゲリッチの性格などからは正反対のように思われる、几帳面な日本人に対してたいへん好感を持ち、1998年より自ら総裁となり別府アルゲリッチ音楽祭を立ち上げています。

 これは世界の著名な音楽家や地元の音楽家たちによる音楽祭ですが、発足以来毎年必ず行なわれ、ここでは「キャンセル魔」は完全に返上しています。また長時間にわたる「マラソン・コンサート」も行い、アルゲリッチはいろいろな人と共演するために頻繁にステージに登場しています。また地元の合唱団の伴奏なども行なっており、本来のアルゲリッチは、気さくで音楽好きであることが窺われます。




震災チャリティのCD

 また今年の震災については、とても心を痛め、5月に東京の墨田トリフォニー・ホールで行なわれた協奏曲のコンサートのライブのCDを震災チャリティとして発売しています。曲はシューマンとショパンの第1番の協奏曲で、入手しやすいCDですので皆さんもぜひ取り寄せてみて下さい。私はまだ聴いていませんが、名演であることは間違いないでしょう。



のだめのモデル?

 アルゲリッチの後の性格や演奏技術を形成することになる幼少時代のことについても、この本では詳しく書かれています。当ブログで以前「アルゲリッチは”のだめ”(『のだめカンタービレ』の)のモデルでは?」と書いたことがありますが、確かに幼少期のことや、コンクールの逸話などには若干の共通点があります。しかしこの本を読んでみると、現実のアルゲリッチに関しての方がずっと極端で、むしろ「のだめカンタービレ」のほうが控えめになっています。



コミックよりもリアリティがない?

 おそらく「のだめ」のほうでは、あまり話を極端にするとリアリティがなくなるので”そこそこ”に話をまとめたのだろうと思います。つまり現存のピアニスト、マルタ・アリゲリッチは、コミックの主人公「のだめ」よりずっとリアリティがないと言えるのでしょう。



次回以降アルゲリッチのCDを紹介

 あまり適切にこの本の内容を紹介出来ませんでしたが、気になった方はぜひ読んでみてください。なかなか面白いと思います。なおこの機会に次回以降、アルゲリッチのいくつかのCDも紹介したいと思います。いずれも名盤中の名盤と言えるでしょう。
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勘の鋭い人は

 2番目の妻のアンナ・マグダレーナが、夫、ヨハン・セバスティアン・バッハについて書いた本の続きですが、勘の鋭い人はもう気が付いたかも知れません。またすでにこの本を読んだという人、この本について知っていたという人もいるでしょう・・・・・・・  そうです! そのとおりなのです。この本は実は真っ赤なニセモノ! マグダレーナ本人が書いたものではありません。ネット検索によれば、20世紀にイギリスの女流作家が書いたものだそうです・・・・


なりゆきで

 つい私の方も「なりゆきで」前回は本物であるかのような書き方をしてしまいました、ごめんなさい、多少ヒントは入れておいたのですが。私自身もこの本を読んでいる間は偽物とは疑わずに読んでいました。確かにリュートの件の他、多少気になった点もあったのですが、せいぜい何かの手違いとか翻訳の問題くらいにしか思いませんでした。”あとがき”で訳者が「本書が本当にバッハの二度目の妻アンナ・マグダレーナ・バッハの筆になったものだったろうか、という疑念・・・・」と書いているところを読み、はじめて合点がいきました。確かにここで書かれているバッハ像とか、バッハの音楽的評価は20世紀的です。またなぜこの本の中に出てくる逸話がほとんど聴いたことのあるものなのか、ということも理解出来ました。


活き活きと描かれて

 というわけで、とんだオチになってしまいました。しかし見方を変えると、この本はフィクションとすれば結構よく出来ています。なんといってもバッハやクラシック音楽に興味のある人、場合によっては全く興味のない人にもとても楽しめる本だと思います。またこの作者はバッハの音楽や、バッハに関する様々なことをたいへんよく研究していて、バッハについて一般的に言われていることと、特に矛盾点もありません。さらに一般的な人物評伝や音楽史などよりもマグダレーナにしろバッハにしろ、たいへん活き活きと描かれていて、その人間像がとてもよく伝わってきます。なんと言っても作家が女性だけに「一人の女性としてのマグダレーナ」がたいへんよく描かれていてます。というわけで、なかなか魅力のある本なのですが、ただ唯一の問題は「本人のあずかり知らぬ」ところで書かれているということだけです。唯一の問題ですが、残念ながら小さな問題ではないでしょう。


ちょっと現代的過ぎ

 さらに細かい問題点をあげれば、これは当然というか、やむを得ないことでしょうが、バッハの音楽に対する見方が現代的過ぎるという点でしょうか、この本の中で書かれているマグダレーナのバッハの音楽に関するコメントは21世紀の我々にとって違和感がなさ過ぎる気がします。とはいっても「本物」のマグダレーナが夫の音楽をどのように考えていたか、などということはわかるはずもないでしょうし、この作家が得られるバッハについての知識も当然その人が生きていた時代、つまり20世紀のものということになります。となれば「本当の」マグダレーナが夫の音楽をどのように考えていたかということが気になりますが、実際のマグダレーナはそれについて何も書き残していないようなので(たぶん?)わかる術はありません。


この楽器が妙に気になる

 あまりリュートのことにこだわるのも何ですが、この作家はリュートに関する知識はあまりなかったよいですが、リュートのことを「ギターに似た楽器」ということで、「ギター」としてしまったのでしょうか。またなぜ「ラウテンクラヴィツィンベル」の説明をあえてしたのでしょうか、もしよくわからなかったとしたら、別に詳しい説明などする必要もなかったと思うのですが。でも気になったのでしょうね、この楽器が。


尊敬と深い愛情

 この本を読む限り、この作家はバッハの音楽はとても好きで、またバッハのことを尊敬していたと考えられます。さらに、この本を書いている時には作家はアンナ・マグダレーナ・バッハになりきって、バッハの音楽を崇拝すると共に、バッハその人にも愛情を感じていたのではないかと思います。この本の最初のところで、老いたマグダレーナがバッハについて書くことの喜びを語っていますが、この作家もマグダレーナになりかわってバッハについて書くことに喜びを感じていたのでしょう。また女性の心理は私にはよくわからないところもありますが、この本で書かれているマグダレーナの「女性的な部分」は実はこの作家のものだったのかも知れません。


この本を食べる人がいたとしたら

 他のバッハに関する本では、この本のことについては全く触れられていません(だから私もこの本の存在を最近まで知らなかったのですが)。ということはこの本が偽りのものであることは音楽関係者にとっては周知の事実のようです。しかし特に音楽などに詳しくない人が(例えば私のように)本屋さんの棚でこの本を見かけた場合、間違いなくホンモノと思うでしょう。この本の表紙やオビなどにはどこにも「フィクション」であることは書いてなく、それどころか「「最良の伴侶の目を通しての叙述・・・・・ バッハ理解に必読の古典的名著」と書かれてあります。前述の「あとがき」にしても、この訳者はこの本を書いたのがマグダレーナ本人ではないことははっきりわかっていたはずで、「一抹の疑念を拭いされきれないでいた」などと言う表現はちょっとどうかと思います。また一般の読者が「あとがき」まで読まなかったとしれば、ずっとこの本がマグダレーナ本人が書いたものと思ってしまうでしょう。やはりこの本の表紙やオビなどに「この本はマグダレーナ本人が書いたものではありません」と表記すべきではないでしょうか、もしこの本が食べ物だとしたら、立派な犯罪となるわけですから(本を食べる人はいないかも知れませんが)。


情状酌量?

 しかしまたそれはそれとして、最初からフィクションとして読むより、最初は本物として読み、後から種明かしをされて「なあんだ」という風になったほうがずっと面白いもは確かで、私も最初からフィクションだとわかっていたら確かに読まなかったかも知れません。私もすっかり「被害者」になってしまったわけですが、情状酌量の余地としては、この本の中でバッハについて書いてあることはほぼ正しいく、この本を読んでバッハに関して誤った知識を身に付けてしまうということは、それほどなさそうです(少しはあるかも知れません)。ただしマグダレーナのキャラクターを除いてですが。


 皆さんはどう思いましたか、この本を読んでみようと思いましたか? 

         マグダレーナ


13人の子を生んだ2人目の妻

 2ヶ月くらい前だったでしょうか、本屋さんの本棚でこの本を見つけました。バッハについての本などはそれなりに読んだりしていたのですが、こんな本があったのは知りませんでした。アンナ・マグダレーナはバッハの二人目の奥さんで、バッハがケーテンの宮廷にいた頃、バッハ35才、マグダレーナ20才の時に結婚し、13人の子を産みました。有名なメヌエットが入っている「アンナ・マグダレーナの音楽帳」でも知られていますが、これはバッハが妻の音楽の勉強のために書いたものです。


孤独な晩年に

 この本には、マグダレーナがバッハと死別して孤独な生活をしている頃、バッハのことをよく知る人物から「あなたは他の人の誰も知らない先生をご存知なのですから」と勧められ、書いたものとなっています。別の資料などによると、バッハが亡くなった時マグダレーナは50歳、その後は子供たちとは同居せず、孤独な年金暮らしとなり、60歳で世を去っています。この本の中では、この本を書いたのが57歳の時で、亡くなる3年前ということになります。


夫は音楽史上最大の音楽家

 この本ではマグダレーナから見たバッハの音楽と、その人物像ということについて書かれています。なんといっても自分の夫について書いたわけですから、「音楽史上最高の音楽家」と言った感じで書かれているのは当然でしょうが、でも現在一般的に語られているバッハの評価とあまり違わない感じもします。「夫の音楽は、今は忘れられたり、あまり高く評価されていないが、後世においては必ず正しく評される。夫の生存中はヘンデルやテレマンなどが高く評価され、現在では息子達、エマニュエルやクリスティアンの評価が高いが、夫の音楽とは比較出来ない」といった感じで書いています。現在では確かにその通りになっていて、マグダレーナには先見の明があったのでしょうか。


人間バッハ

 またバッハの人物像について、肖像画などの印象では厳格な感じがするが、実際はとても温か味や人間味のある人で、たいへん家族想いであると言っています。時には忙しい時間を割き、家族を連れてハイキングに出かけ、子供たちと大はしゃぎをしたり、また子供達の教育には特に熱心だったと書かれています。マグダレーナにもオルガンやチェンバロを教え、前述のテキストも書いています。作曲のことでは時にはマグダレーナに相談したり、また新しい曲が出来ると真っ先にマグダレーナに聴かせたとも言っています。ある時はマグダレーナをひざの上に載せたままフーガを演奏したこともあったそうです。人間バッハとしては理想的な父親像、および夫像として書かれています。


ドラマティックな出会い

 バッハとの出会については、「ハンブルグの聖カタリーナ教会の前を通ると、教会の中からオルガンの音が聴こえて来て、思わず中に入ってみると、あまりにすばらしい音楽で体が動かなくなってしまった。その弾き手が自分の方にやってくるのに気付き、慌てて外に逃げ出した。その話を両親に話すと、そのオルガンを弾いていたのはヨハン・セバスティアン・バッハという人であることを教えられた」と書いてあり、その後のマグダレーナにはバッハは音楽家としても、一人の男性としても特別な存在になったと言っています。バッハの若い頃から「順を追って話を進める」としながら、話は時々時代を超え自分と一緒に過ごした頃の話になってしまい、「彼の思い出のあれもこれも、あんまりたくさん一遍に押し寄せてくるものですから」と言っていますが、確かにありうることでしょう。


意外と現代的

 ここで書かれているマグダレーナの「バッハ観」は前にも言ったとおり、音楽的にもまた人物像的にも意外と今現在私たちが持っているバッハ観と近い感じがします。普通に考えると、バッハの音楽に対する評価は、18世紀中頃と今日とではかなり違うのではと思いますが、この本の中で書かれているマグダレーナのバッハの音楽観は私たちのもとそう変わらないというか、ほとんど違和感がありません。バッハの人物像にしても、多少美化されているとしても私たちが「こうあって欲しい」といったイメージにかなり近いものになっています。むしろ本当はもっと頑固で扱いにくい人だったのではと思いますが、結構物分りもよく、特にマグダレーナには優しかったようです。また時々出てくる逸話などは、別の本などで読んだようなものも多いのですが、身近で直接見聞きした人の言葉ということで、やはり重さは違います。


バッハの音楽を正しく理解できるのは

 またバッハの名言といえるような言葉もいくつか書いてありますが、特に印象的だったのは、「僕が演奏するのはね・・・・ 世界の一番優れた音楽家聴いてもらうためなんだ。おそらくその人はその席にいないだろうけど・・・・ しかしいつもその人がいるつもりで演奏するのさ」。それに対しマグダレーナは「その人はいつもそこにいるじゃありませんか」と応えたとしてあります。確かにそのとおりだと思います。バッハの音楽を正しく理解出来るのは確かにヨハン・セバスティアン・バッハ、その人しかいないかも知れません。


私しか・・・・

 これまでアンナ・マグダレーナ・バッハについては、バッハの二人目の妻で、子供を13人生み、メヌエットで有名、と言った程度のことくらしか知らず、実際にどんな性格の女性だったかなどは全くわからなかったのですが、この本を読むと、そのキャラクターもだいぶはっきりわかってきます。 マグダレーナがこの本の中で最も言いたかったのは、もちろんバッハの音楽的偉業でしょうが、それに加え自分自身のこととして「私は自らの人生すべてを音楽史上最大の音楽家、ヨハン・セバステイアン・バッハに捧げた。その音楽もさることながら、生身の人間としてのバッハを最もよく知っているのはこの私。またバッハが最も愛した女性も、この私!」といったことも言いたかったようにも読み取れます。もちろん実際の文章はたいへん丁寧に、また謙虚に書いてあります。


1台のギター?

 些細なことかも知れませんが、この本を読んでいて、ちょっと気になる点がありました。この本の中でバッハの遺品として、いろいろな楽器の中に1台のギターがあったと書いてあります。他の資料からすれば、おそらくリュートのことを言っているのではないかと思いますが、どうしてギターになってしまったのでしょう? まさかマグダレーナがギターとリュートの区別が付かなかったなどというこはないでしょう。あるいは翻訳の時に「リュート」が「ギター」になってしまったのでしょうか。ドイツ語ではギターは「Gitarre」、リュートは「Laute」と表記され、だいぶ違うはずですが? 


ラウテンクラヴィツィンベル?

 さらに「ラウテンクラヴィツィンベル」なる楽器が登場しますが、この楽器についてマグダレーナは通常のチェンバロよりも「ずっと長く音を保持することができるもの」と言っています。しかし「ラウテン」とはリュートのこと、「クラヴィツィンベル」はだいぶ変なカタカナ表記ですが、チェンバロで、まとめれば「リュート風チェンバロ」と言うことになります。この楽器は我々ギターをやるものにとっては、バッハが自分で作曲した「リュートのための作品」を演奏するための楽器として知られています。リュート風の音を出すわけですからどちらかと言えばミュート気味の音だったでしょうから、この説明では全く逆になってしまいます。これはいったいどうしてなのでしょう? この本の中ではマグダレーナは特に上手ではないが、オルガンをはじめ、鍵盤楽器は一通り弾けると言っていて、鍵盤楽器については詳しいはずです。本筋とは関係のない話ですが私たちにはちょっと気になる話です。


        本 008




吉田秀和作曲家論集   音楽の友社
 
 1.ブルックナー、マーラー

 2.シューベルト

 3.ショパン

 4.シューマン

 5.ブラームス

 6.バッハ、ハイドン




 この本の話も久々になりますが、音楽に関しての本と言えば、我々水戸市民としてはこの吉田秀和氏の著作を抜きに語る訳にはゆかないでしょう。吉田氏は1913年生まれですから、今年で96歳になるはずですが、全く衰えを見せることなく執筆活動を続けています。吉田氏はたいへん著名な音楽評論家ですが、私たち水戸市民としては水戸芸術館の館長と言った方がピンとくるかも知れません。


 白水社から「吉田秀和全集」が出版されていますが、今現在は何巻まででているのでしょうか、たぶん20巻は超えているのではないかと思います。私の本棚にはそのうち6巻あり、図書館で借りて読んだ分を合わせると十数巻ほど読んだのではないかと思います。この「作曲家論集」はそれらを作曲ごとに6巻にまとめたもので、「全集を読むのはちょっと」と言う方には手ごろなのではと思います。


 吉田氏といえばモーツアルトやベートーヴェンに関する文章が最も多いのですが、このシリーズでその二人が抜けているのは、その全集の第1巻がモーツアルトとベートーヴェンに関するものだからなのでしょう。つまりこの作曲家論集の全6巻と吉田秀和全集の第1巻とで、作曲家論集が完成するのかも知れません。


 吉田秀和氏については当ブログで、前にも書いたと思いますが、私にとっての最初の出会いは学生時代に聴いていたFM放送でした。その話口調がたいへん知性的でありながら、音楽学者とか評論家とかいった感じではなく、なんとなく身近に感じられるところもありました。声の感じからすると年齢の高い人にも思えるが、その「秀和」と言う名前は当時の若い人の名前で、いったい何歳くらいの人なのかなとも思いました。逆算すると私がFMで聴いていた頃は60歳前後ということになりますが、当時は40代くらいの人かなと思っていました。


  当時を振り返ると、私の場合そのFM放送から得た知識や、興味を持った音楽はたくさんあったように思います。今でもはっきり覚えている内容としては、モーツアルトの弦楽5重奏曲第2番で、「この曲の第2主題は提示部では長調で出てくるが、再現部では短調で現れ、その時このメロディの真の姿が現れる」と話していたことで、この話は私にはとても印象的で、この曲を聴くたびにこの話を思い出します。というより、その違いを聴くためにこの曲のレコードを聴いたりしていました。


 また全集の中で特に印象的な内容としては、吉田氏が演奏を聴く時の心構えとして、「最初から自分の考えや感性で聴くのではなく、まずその演奏家の側に立ってみる、そうすることによりその演奏家が何を考え、何を表現しようとしているのかがわかる」と言っていたように思います。今現在、私がコンサートやCDを聴く時などもこの言葉を意識しています。また生徒さんのレッスンの時にも役立っているのではないかと思います。


 吉田氏とギターとの接点はあまりないようですが、確か全集の中で、ニューヨークでセゴビアを聴いた時の感想として「白くてよく動く手がきれいだった。とても小さな音だった」と書いてあったと思います。ただし昔読んだ記憶なので正確にこう書いてあったかどうかははっきりしません。少なくとも演奏内容についてのコメントはなかったと思います。


 若い頃吉田氏の著作や放送から学んだことはたくさんありましたが、その一方では私が聴く音楽がドイツ系の音楽に偏ってしまったことは否めません。しかし私にとってはギターの音楽を客観的に見るためにかえってよかったのではと思っています。


 さて、話がわが国の音楽評論界の重鎮であり、私たち水戸市民にも縁の深い吉田秀和氏に及んだところで、この「本の薦め」もとりあえず中締めということにしましょう。そしていよいよ「中村俊三のギター上達法」を再開、ということにしようと思います。再開第一弾としてはギターを弾く人なら誰でも気になる、というか出来ればなくなって欲しい「ミス」つまり「弾き間違い」について話をしてゆきたいと思います。この「ミス」、好きな人はいないと思いますが、さりとて縁を切るわけにはいかないという、確かにたいへん困った存在でしょう。
      本 007


クェサーの謎~宇宙でもっともミステリアスな天体

          谷口義明著  BLUE BACKS  講談社



懲りたはずだが

 私の場合、大学時代の苦い思い出から物理学などという文字は見るのも、聴くのも嫌いになったかといえば、意外とそうでもなく、時々このような本を読んだりしています。もっともこの本など物理学、あるいは天文学の本というより、物理学に「多少関係のある本」といったほうがよいかも知れません。数式などを見ると頭が痛くなるのは昔とあまり変わっていなくて、そういったものが出てくるとなるべく見ないようにしています。


 といったことで今回は本当に音楽にもギターにも関係ない本になってしまいましたが、ちょっと一息つきたい時、遠い遠い、本当に遠い宇宙の果てに想いを馳せるのも一つかなと思います。クェサーという言葉がどれくらい認知度があるのかわかりませんが、ブラック・ホールとかビック・バンなどよりは低いのではないかと思いますので、一応説明しますが、何ぶんド素人の説明なので、興味のある方は当書、または検索などで確かめて下さい。


星みたいなもの?

 クェサーは言葉の意味からすると「恒星状の電波源」といったような意味ですが、実態としては「非常に遠方(10億光年~128億光年)にある、異常に活動的で明るく輝く銀河の中心核」ということになるでしょうか。もともとは名前のとおり電波源として発見されましたが(1963年)、電波源といった意味合いは二次的な問題のようです。「恒星状」とはその光源が極めて小さく、光学望遠鏡では私たちの銀河(天の川銀河)内の恒星のように見えるからだそうです。実際は前述のとおり銀河系外のはるかに遠いところから極めて強い光を放つ天体ということになります。


巨大ブラック・ホールが鎮座

 この極めて強い光源は、明るい星などがたくさん集ったくらいででは実現できる強度ではなく、巨大なブラック・ホール(太陽の100万倍~10億倍の質量)が関係している以外には考えられないようです。もっともブラック・ホールは文字通り「真っ黒で見えない」天体ですからブラック・ホール自体は輝いたりはせず、実際に輝くのはブラック・ホールの周囲を高速、高密度で回転するガスということになります。まとめると、クェサーとは中心核に巨大なブラック・ホールを持ち、そこに円盤状にガスが高速、高密度で回転して(最後にはブラック・ホールに落ち込む)、その際極めて強い電磁波を出している銀河、またはその銀河の中心核ということになります。


銀河の衝突

 このような巨大なブラック・ホールが出来た理由として銀河の衝突があるようです。衝突といっても銀河の星どうしが直接衝突するわけではなく(いろいろな条件から考えて直接ぶつかるのは極めて難しい)、二つ、あるいは複数の銀河が一つになると考えたほうがよいかも知れません。ただしブラック・ホールだけはその引力の強さから二つ、あるいは複数のブラック・ホールが一つになる確率が高いのだそうです。その様に衝突を繰り返して巨大なブラック・ホールが出来るようです。


身を潜めて

 このクェサーはビッグ・バンから10億年後くらいから現れ、現在から10億年くらい前、つまり私たちの銀河から10億光年以内では発見されていません。セイファート銀河というそれほど強い光は放ってはいないが、クェサーと似た性質をもつ銀河はあるのですが、クェサーそのものは現在では見あたらないようです。クェサー、すなわち巨大ブラック・ホールが消えてしまうことはありえなく、存在するが、ただかつてのように光らないだけのようで、おそらくガスなどの少ない楕円銀河になってしまっているのではないかということのようです。


ホワイト・ホール?

 私がこのクェサーのことを本で最初に読んだのは確か1970年代の終わり頃だったのではないかと思います。その頃はまだブラック・ホールなどでさえ一般にはまだあまり知られてなく、このクェサーなど本当に宇宙の果ての未知なる天体として書かれていました。確かに「その中心には巨大なブラック・ホールが潜んでいるのかも知れない」とも書いてあったと思いますが、断定的ではなく、「それはもしかしたらホワイト・ホールで、さかんにこの宇宙にエネルギーと物質を供給しているのかも知れない」、あるいは「もしかしたらこれは宇宙にあいた窓で、クェサーはこの宇宙外から来る光かも知れない」とも書いてあったような気がします。

 「ホワイト・ホール」というのはブラック・ホールの反対でブラック・ホールは光や星やガスなどすべてのものを飲み込んでしまうわけですが、ホワイト・ホールのほうは逆にそういったものを「吐き出す」天体というわけで、「ブラック」があるなら「ホワイト」があってもいいんじゃないかということのようです。最近ではこの言葉は全く聴かなくなりました。妄想の域を出ないのではないかと思いますが、しかし何があってもおかしくない物理学の世界ですから断定は出来ないかも知れません。いずれにしても30年くらい前にその本を読んだ時、私自身とても衝撃と興奮を感じたのを覚えています。


この宇宙は何次元?

 今回挙げた本は2004年の出版ですから、その後の研究や観測によりクェサーに関しては、前述のとおりかなり詳しくわかってきたようで、前に読んだ時疑問だった点などについてはっきりとした解答が出された感じで、確かにすっきりとはした感じです。しかし逆にいえばあまり「ミステリアス」ではなく、あって当然なものといった感じで、興奮度は「ホワイト・ホールか!、はたまた別の宇宙への小窓か!!」のほうがあったっかも知れません。

 宇宙などというのは多少わからないところがあるほうがロマンが掻き立てられるのかも知れません。でもいくら研究が進んだとしても未知なる部分に事欠くことはないでしょう、何かがわかれば次にまた疑問が生じるでしょういから。最近の宇宙物理で「未知」といえば差し当たり「ダーク・マター」というやつかも知れませんね、これがなければ私たちの銀河は形成されず、また美しい渦巻き形も維持出来ないのだそうですが、まだその正体は掴めていません。異次元からの重力効果という話もありますが・・・・・