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中村俊三 ブログ

中村ギター教室内のレッスン内容や、イベント、また、音楽の雑学などを書いていきます。

水戸維新~近代日本はかくして創られた マイケル・ソントン 10



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私と水戸



栃木市は水戸に近いのだが

 私は茨城県の西隣の栃木県旧都賀町で生まれました。 旧都賀町は現在栃木市には編入されています。 栃木市は水戸からはほぼ真西に80キロくらいで、北関東自動車道を使うと1時間くらいで水戸に行けます。

 私は18歳まで、つまり高校生の時までその旧都賀町で暮らし、栃木市の高校に通っていました。 距離的には水戸は近いのですが大学受験で水戸に来るまで、特に用事もなく、全く水戸には行ったことがありませんでした。

 子供のころから地理は好きで、日本や世界の各地などそれなりに知識はあったのですが、水戸はあまりにも近すぎるせいか、あまり興味が湧かず、ほとんど印象に残っていません。



北関東どうしでは行き来が少ない

 他の北関東の人もそうかもしれませんが、栃木県人としては、東京にはよく行くもの、その ”横隣り” の茨城県や群馬県にはあまり行く機会がありません。

 水戸市にある茨城大学に入学したのは、希望学科があったとこや、受験科目等の関係で受験し、結局、他に合格した大学がなかったからということになります。



中心街をちょっとそれると

 初めて水戸に来た時、茨城県の県庁所在都市の割には、なんかこじんまりした街だなと思いました。 水戸駅の駅舎は当時まだ2階建てで、2階は大衆レストランになっていました。

 栃木県の県庁がある宇都宮市の二つの宇都宮駅(旧国鉄と東部鉄道)と比べると、やや都会らしさに欠ける感じもしました。

 泉町と南町にいくつかデパートがあり、その屋上から水戸の街を眺めてみると、市の中心街はなんか細長い感じで、ちょっと脇にそれるとすぐに田園地帯となり、随分狭い街だなと感じました。

 またそのいくつかのデパートを除くと高い建物はほとんどなく、平べったい感じもしました。 今では高層ビルが立ち並んでいる水戸駅の南側は本当に何もなく、湿地のようになっていました。



買いもの客であふれ

 しかしそのあまり広くない街のメイン・ストリート(旧国道五十号線)には買い物客などで人があふれ、気を付けないと人にぶつかってしまいます。 またバスもかなりたくさん走っていて、特に駅から大学まではかなりの本数がありました。

 当時はまだ自家用車などが普及してなく、人々の足としては電車かバスだったので、そのバスと電車の便がよい水戸の繁華街は大変賑わっていたのでしょう。 

  繁華街といえば泉町から大工町にかけては ”夜の歓楽街” ということで、特に週末の夕方頃からは大変賑わっていました。 学生の頃はよくこの辺りで飲み会などがあったものです。



かつての水戸市を知っている人は

 水戸市の人口は、私が水戸に来た年(1969年)は約17万人でしたが、2015年の国勢調査では約27万人で、今現在もほぼ同じと思います。

 今現在の人口は私が水戸に来た時より10万人ほど数字上は増えているものの、近隣町村の合併による効果も大きく、また市街地が郊外に広がって、ドーナツ化現象もあり、かつての中心街ではかえって人出が大変少なくなっています。

 また移動手段が電車やバスから車に代わって、特にメイン・ストリートを歩く人は、かつての水戸市を知っている人からすると、驚くほど少なくなっています。 今現在では多少よそ見をして歩いていても人にぶつかる可能性は低いです・・・・・ でも歩きスマホはやめましょう。

 さらに大工町などのかつての歓楽街も人出はめっきり減り、空きテナントも多くなっています。 こうした傾向は、特に1990年頃から目立つようになってきました。



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水戸市内原のイオン・モール  最近は水戸市の中心街よりことのような郊外の施設のほうが人出が多い



あまり城下町らしくなく

 また水戸は徳川御三家の城下町だったということは知っていましたが、どうも街の中にはその名残はなく、せいぜい「三の丸」とか「大工町」とか言った町の名前に残っているくらいです。

 お城の跡は水戸一高になっていましたが、特に城門などお城らしき建物は残っていませんでした。 また武家屋敷、その他古い家などもなく、後から分かったことですが、そういった古いものは空襲で皆焼けてしまったそうです。
 
 水戸には”日本3大公園” の一つの偕楽園というのがあることは知っていましたが、光圀が作ったものかな? なんて思っていました。 もちろん本当は9代目藩主の徳川斉昭が弘道館と対で作ったものですね。 しかし当時は水戸といえば徳川光圀、というより水戸黄門くらいしか知りませんでした。



言葉の違いに驚いた

 もっとも、水戸に来て一番驚いたのは、その言葉です。 これは水戸に来た人が皆そう感じるようなのですが、水戸と私の生まれた栃木市とでは80キロほどしか離れていないのに、言葉はかなり違います。 

 それまで茨城弁など、その存在も知りませんでしたし、実際に全く聞いたことがなかったので、本当に驚きました。 同じ北関東でも栃木弁と茨城弁はまるで違います。

 「ごじゃっぺ」 とか 「いしこい」 とかいった初めて聞く単語もありましたが、それよりも気になったのはその抑揚というか、イントネーションです。 さらに 「来ない」 を 「きない」 と、学校で習った 「か行変格活用」 を全く無視した言葉使いをするのは一番驚きました。

 栃木にいる頃、こんな近くにありながら、こんなに違った文化圏があるということは全く想像できませんでした。 しかし今現在となってはネイティヴな茨城弁をしゃべる人はだいぶ少なくなってしまいました。 今となってはまるで喧嘩しているみたいにしゃべっていた大学時代の下宿のおじさん、おばさん、その子供たちの茨城弁が懐かしいです。



水戸人を気取っているが

 それから50年以上、 ”よそもの” だった私が、今では自分の教室でやっているギター合奏を 「水戸ギターアンサンブル」 と名付けたり、またメールアドレスを 「mitoguitar」 とするなど勝手に水戸のギター界を代表しています。  さらにギター関係者などとあいさつする際には 「水戸の中村です」 などと名乗るなど、すっかり水戸人気取りもしています。

 その割には、ちゃんと茨城弁もしゃべれず、これまで水戸についての知識もほとんどなく、まだまだ栃木からの ”出稼ぎ” 気分も抜けきれず・・・・・・   水戸人を名乗るのはお恥ずかしい限りということに気が付きました。



この本を読んで

 この本を読んで、水戸藩でおこった水戸学が近代日本形成に大きく関わるとか、また幕末には水戸を舞台に壮絶な戦いがあったとか。 そして徳川御三家の水戸藩は江戸時代約300の藩の中でもたいへん個性的、あるいは特異な藩であったとか。 今現在水戸がなんとなくこじんまりと見えるのは、逆にこのような歴史を持つからとか・・・・・

 さらには江戸時代から明治時代へ、この全く異なる国家制度への移行のひとつのキーワードが水戸学であるということとか、いろいろなことで水戸に関する認識を新たにしました。



帰水って?

 かつて水戸生まれの友人からの手紙に ”帰水” という熟語がありました。 最初は何のことかよくわからず、ただ文面からすると帰省のことのようなので ”水” のように見えるけど ”省” の漢字の省略形かな、なんて思っていました。

 しばらくして帰水とは ”水戸に帰る” という意味だと分かった時、なんかとても粋な言葉だなと思いました。 水戸の人は家に帰ることを 「帰水」 というのか、なるほど、カッコイイ・・・・

 その友人はやはり水戸人なんだなと思いました。 また水戸への誇りと強い愛情も感じました。 同時に私などには一生使うことの出来ない言葉だとも思いました、 ”本物” の水戸人はその意識からして違う。
 


自覚と誇りを持って言えるように

 私も水戸に来てから半世紀超え、間違いなくこの地に骨を埋めることになるでしょう。 若干遅きに失した部分もありますが、このあたりで多少なりとも水戸人としての自覚と誇りを持たなければならない時期といえるでしょう。 ”偽水戸人” と言われないためにも。

 この本に出合ったのも何かの縁、今後さらに水戸のことを勉強しようと思い始めた今日この頃です。
 
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水戸攘夷 ~近代日本はかくして創られた マイケル・ソントン 9



なぜ水戸に水戸学




水戸学は明治憲法や教育勅語にも反映されている

 会沢正斎や藤田東湖ら水戸学派の著作は、幕末の動乱期において薩摩、長州、土佐などの武士たちに熟読され、明治維新の根本理念となった他、桜門外の変をはじめとする水戸藩士たちの過激ともいえる行動により全国の志士たちが鼓舞され、明治維新が遂行されます。

 また水戸学は封建制を終わらせ、明治新政府を樹立させただけでなく、その後の日本の歩みを論理的な部分から支えます。 水戸学の内容は明治22年に公布された大日本帝国憲法(明治憲法)にも反映され、教育勅語にもその影響が刻まれていると言われています。



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桜満開!  旧県庁前堀(3月30日撮影)



明治政府も大日本史完成を大いに評価した

 一時は朝敵とされた徳川慶喜も本来尊王派であり、それは明治政府も認めるところとなり明治35年には徳川宗家とは別に公爵となっています。 また水戸徳川家の13代当主圀順(くにゆき)もまた昭和4年に大日本史の完成の功によって公爵位を授かっています。

 公爵は戦前の貴族(華族)のなかでも最高位で、計19家のみで、摂関家や旧薩長藩主、明治の元勲、徳川宗家などと並び、水戸出身の慶喜家と水戸徳川家当主がともに公爵となっています。

 他の徳川御三家や御三卿はそれよりランクの低い侯爵や伯爵となっていて、明治政府により水戸家は徳川家の中でも特別扱いされています。 それだけ水戸学をおこした水戸徳川家の功績を評価しているのでしょう。




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私に家の近くの沢渡川の桜も満開 ・・・本文には関係ないが



水戸学派の学者たちは
 
 この本で紹介されている立原翆軒、会沢正志斎、藤田幽谷、藤田東湖ら、大日本史編纂に関わった学者、すなわち水戸学派たちの多くは、もともと身分の低い藩士、あるいは武士ではない階層の人たちです。

 彼らはその学力を評価されて彰考館のトップになり、大日本史の編纂の責任者になる共に、藩主の側近となって藩政をリードしてゆきます。さらには藩士や藩主の子息たちの教育も司り、次世代の藩主の師といった立場にもなります。



水戸藩士にとって学問が立身出世の唯一の道

 こうしたことから藩内では彼らは藩主に次ぐ発言力も持つようになります。 つまり水戸藩では下級藩士やまた武士でもなかった身分のものが、学問に秀でることにより、藩内で想定できる最も高い地位に就くことが出来る訳です。

 もちろんこうしたことが水戸藩士たちの向学心に火をつけることになります。特に苦しい生活を送る下級武士たちにとって、学問は立身出世の最大の武器、あるいはそれしかないといったものになります。



水戸学派=改革派

 また水戸学派の学者たちは藩主の側近となって藩政を行ってゆくわけですが、何分水戸は江戸での浪費などで慢性的な財政赤字で、また年貢も重く農村も疲弊しがちです。 そうした状況を何とか打開してゆかなければなりません。 つまり常に藩政改革に邁進してゆかなければならないことになります。

 彼らの学問は、ただ考えるだけでなく実行力を伴わなくてはなりません。 つまり水戸学派の学者たちは常に改革派であるわけです。 さらに彼らの指導を受けた藩士たちも多くは改革派となります。 さらに藩主たちも幼少時から水戸学派の学者たちに教育されおり、改革派に近いものがあります。



争いの構図
 
 その一方で歴代家老などを出している上級家臣たちからすれば、自分たちより身分の低い家臣、場合によってはもともと武士でもないものが学問に秀でているといっただけの理由で藩の重役となり、また石高においても自分たちと同様、あるいはそれ以上になるのを快く思うはずはありません。

 また生活もそれなりに成り立っているので、特に藩政を改革というより、現状維持に傾く傾向があります。 藩主がどちらかといえば下級武士たちの改革派に近いことの裏腹に、上級家臣=門閥派はその頭越しに幕府との距離を縮めて行きます。

 斉昭が藩主になる際、門閥派は将軍家斉の子推し、改革派は水戸家出身の斉昭を推したのは、その典型的な例といえます。 門閥派は水戸家の家臣でありながら、水戸出身の藩主を嫌った訳です。

 さらに最終的には  <改革派(天狗党)=新政府  VS  門閥派(諸生党)=旧幕府> といった構図で天狗党の乱、および弘道館戦争を同じ水戸藩士どうしで戦うことになります。 歴代の藩主は両勢力のバランスに苦慮するわけですが、心情的には改革派に近いものだったようです。
 


その溝はどんどん深くなっていった

 このようにして水戸藩では下級武士や一部の農民、町人、神官などの改革派と、旧来の上級家臣の門閥派とに分かれてゆき、その溝は時を経るほど深くなり、最終的にはその家族まで巻き込む悲惨な戦闘を繰り広げることになります。

 そうした派閥争いはどの藩にも多かれ少なかれあったのでしょうが、何故水戸藩では極めて極端なことになってしまったのか? その主な理由としては、まず水戸藩士たちのたいへん強い向学心と異常なほどの生真面目さや、純粋さにあったのでしょう。

 純粋であることは美化されやすいですが、その一方で融通性のなさや、排他的、かつ不寛容にも繋がってゆき、自分の考えと違うものはすべて否定する傾向となります。



両刃の剣

 水戸学や水戸藩士の行動は中央集権的な近代国家建設の大きな原動力になったのは確かでしょう。 また憲法や教育勅語などに取り入れられた水戸学的な考え方は以後の日本の国の発展の支えにもなりました。 

 しかしその水戸学を学んで育った水戸藩士たちの純粋さや不寛容性は、他を否定して極めて悲惨な戦を導き出します。 水戸学はまさに ”両刃の剣” でもあったでしょう。

水戸攘夷 ~近代日本はかくして創られた  マイケル・ソントン 8
 



水戸学と幕府の終焉



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水戸学の精神は明治憲法にも取り込まれる

 これまで書いてきたとおり、またこの本の副題どおり、水戸学は明治維新を理念上から支えました。 また明治憲法(大日本国憲法)第1条に 「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」 とあるように明治憲法にもその理念が織り込まれています。

 水戸学から始まった尊王攘夷の思想は幕末期に薩摩や長州など全国の武士たちに広まり、倒幕運動へと繋がってゆきます。 また桜田門外の変など、水戸学を学んで育った水戸藩士たちの果敢な行動は全国の志士たちを奮い立たせ、より積極的な行動へと導きます。

 明治維新は水戸学が思想的背景となり、その実行も水戸藩士の行動に触発されたといえ、この本にあるように、まさに明治維新派水戸から起きたと言って過言ではないでしょう。



儒学的思想を日本にあてはめた

 しかし水戸学の創始者ともいえる徳川光圀は倒幕まで考えていたのだろうか? もちろんそんなことはないでしょう。 光圀からすれば、儒学的な発想を日本に当てはめることを意図したものと考えられます。

 儒教では皇帝の地位は天から授かるもの、その ”天” を日本においては脈々と古代から続く天皇家に例え、日本という国は神の時代から天皇によって統治される国で、徳川幕府はその天皇から政権を預かったものとしています。

 これによって徳川家が日本を治める論理的根拠とし、徳川家による支配をより強固なものにするためと考えれます。 また君主は善政を行うことを義務としながら、その上下関係をはっきりさせ、身分制度もゆるぎないものとします。




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水戸駅の近くにある水戸東照宮  徳川家康が祭られている



徳川家は実力で政権を取ったのだが

 もちろん現実では徳川家が政権を担っているは、天皇から依頼されたものではなく、実力、すなわち軍事力によるものです。 朝廷から征夷大将軍を任ぜられたから徳川家が他の大名たちを支配しているのではなく、徳川家が他の大名たちを力で支配したから征夷大将軍となったわけです。

 形の上では幕府の上位に朝廷があるのですが、朝廷や公家の収入は幕府によって管理されていて、実質上は幕府が朝廷を管理していた面もあったでしょう。

 因みに天皇家の石高は3万石、つまり小大名程度だったようです。 ただし必要があれば幕府から献金があったそうです。    ・・・・・このシステムもちょっと裏がありそうですね、幕府に逆らえばお金もらえないとか・・・・・・



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水戸東照宮にはこの急な階段を上がってゆく(もう一つ別の階段もある)



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東照宮の下ある宮下銀座商店街はかつては賑わっていたアーケード街だったが、訪れた時(3月23日)は平日の昼間のせいか、あるいはコロナの影響か、閑散としたシャッター街となっていた。



水戸学は徳川家が政権を担う根拠

 しかし、世の中が平和になってきて武士たちが武芸だけでなく学問なども積極的に行うようになると、幕府の支配もただ武力だけでなく学問的な根拠も必要としたのでしょう。

 そこに現れたのが水戸学ということになるのだと思いますが、そう考えると水戸学が起こる必然性といったものも見えてくるような気がします。 また徳川御三家から起こったということ理解できそうです。

 最終的には幕府を終わらせる役割を果たす水戸学ですが、その時点では幕府にとっても必要なことだったのでしょう。




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旧県庁前の堀の桜  もうすぐ満開になりそう(3月23日撮影)




幕府の力が弱まると

 幕府が安泰な時期には水戸学で 「日本は2500年以上続く(古事記などによれば)代々の天皇によって統治される国」 と論じていても、それはあくまで理念上の問題であって、現実的には徳川幕府が権力の頂点に存在するjことに何ら問題はありませんでした。 というより、むしろ徳川政権を強固にするものでした。

 しかし、幕府も200年以上を経て制度的疲弊も深まり、あちこちほころびも見え始め、各藩への統制が揺るぎだし、さらに徐々に海外からの圧力が強まり、そしてペリー来航ということになります。

 アメリカから強い態度で国交を求められた時、幕府は独断で政策、鎖国の継続か、開国かといった難題を解決することが出来なくなっていました。 

 徳川幕府といっても、それは確固たるものではなく、執行部となる老中たちも、各譜代大名からでており、それに御三家や親藩大名も絡んできて一枚岩という訳ではありません。

 さらに幕末となれば薩摩や長州といった外様大名の発言権も大きくなり、そうした状況からもこうした問題となれば各藩の意見などを無視するわけにはゆかなくなります。



朝廷から勅許を得ようとしたが

 世論は攘夷の方向ですが、ペリーらと接触した幕府の首脳たちはアメリカとの国交を拒否することは出来ない状況であることを認識します。

 そこで、この状況を乗り切るには朝廷から勅許をもらい、それによってそれによって各藩などの異論を抑え込もうと考えるわけです。 

 しかし朝廷からはそれを拒否されます。幕府としては朝廷が ”忖度” して幕府の意に沿う事を期待したと思われますが、朝廷側からは ”足元を見られた” 形となります。

 勅許を得られなかったことにより、幕府はさらに苦しい立場となります、まさに ”やぶへび” だったわけです。



これらの問題により、水戸学は全国に広まる

 彦根藩の井伊直弼を大老として幕府んも独断で日米和親条約を結び、これに反対する勢力を安政の大獄によって弾圧します。 当然朝廷はじめ、各藩などから強く非難の声が上がります。 そしてそれは水戸の過激な武士たちによって井伊大老を暗殺する桜田門外の変に繋がります。

 幕府が開国問題に関して朝廷から勅許を得ようとしたことにより、各藩の大名や、武士たちが改めて日本の国家元首は天皇であり、徳川家は絶対的な存在ではなく、強大ではあるが、基本的には1つの大名に過ぎないといったことを再認識します。 

 そんな中、会沢正志斎や藤田東湖らの著書によって尊王攘夷を基とする水戸学は全国へと浸透してゆきます。 そしていつの間にか、もともとは体制を擁護するための学問だった水戸学が全、く逆に体制を崩壊さえるための論理とすり替わってしまいます。
 


なぜ尊王=攘夷?

 ところで、なぜ尊王は攘夷なのか、なぜ 尊王=攘夷 なのかということは私たちには今一つピンとこないところです。 「日本は国が出来た時から天皇の国であるから天皇を敬うべき」 というこはなんとなくわかりますが、それがなぜ外国を排除することにつながるのか、すぐには理解しにくいところです。

 攘夷の「攘」は打ち払うといった意味で、「夷」は野蛮人といった意味ですが、これは中国から来た考え方で、「攘夷」で野蛮な外国人を打ち払うといった意味になります。

 「尊王」の意味の中には天皇は神の子孫であって、日本は神の子孫によって統治される特別な国といった意味があります。 ゆえに日本以外の国はすべて野蛮人の国といったことになるわけです。 中華思想の日本版といったところですね。



日本版中華思想と、海外からの圧力

 また現実的には徳川幕府はキリスト教の浸透と強く警戒していました。さらに江戸時代中頃からロシア船などの接近が頻繁となり、ロシアに領土、とくに蝦夷地を侵略されるのではないかということも警戒していました。 さらに近隣アジア諸国がヨーロッパ列強から植民地化されている情報も入ってきます。

 これらが結びついて 「尊王攘夷」 となったわけですね。 つまり日本版中華思想と外国からの侵略の危機によって出来上がった考え方ともいえるのでしょう。 水戸藩が蝦夷地の防衛と開拓に常に強い関心があったのもこの流れです。

 また列強国を相手に攘夷を行おうとすれば、これまでのように日本が各藩に分かれていたのでは太刀打ちできない。 どうしても中央集権的な国にしなければならいといった面もあり、攘夷が尊王にフィードバックしてゆくわけです。



結果は攘夷ではなく開国となった
 
 尊王攘夷の思想を背景として起こった明治維新は、確かにこれまであった藩を廃位し日本を天皇を中心とした中央集権的な国家へと生まれ変わらせます。 しかし攘夷ではなく、結果は開国で、しかもかなり積極的に欧米の文化や技術、さらに欧米的な軍隊や国家制度などを受け入れます。

 しかもそのスピードは異常なほどにも思え、”尊王攘夷” ではなく、”尊王開国” ともいえ、完全にねじれ現象が起きています。 では ”攘夷” は完全に捨て去ったのかというと、そうとも言えない点もあります。 

 明治になってから(実際は少し前から)積極的に欧米の文化や技術を導入したのは、あくまで列強国と同等の国力、軍事力を持つためで、いわば方便として国を開いたとも言えます。 そうしたことが後の日清、日露、日中、第二次大戦へと繋がってゆくのでしょう。

 水戸学は確かに日本を中央集権的近代国家に変貌させましたが、おのずと限界はあり、日本が本当に国民主権の民主国家となり、国際協調、平和を重んじる国になるには、まだまだいくつかの段階を経なければならなかったのは私たちのよく知るところです。 

 ・・・・・いや、まだそうした国になっているとは言えないが、そうした理想に向かっている途中段階かな?
 
水戸維新~近代日本はかくして創られた マイケル・ソントン 7



弘道館戦争



本國寺党

 水戸では1844年以来慶喜の兄の慶篤がその父斉昭の隠居により藩主となっていました。 天狗党の乱(1864年)以降、藩の実権は家老、市川弘美ら諸生党の手に渡ります。 その間、水戸にいた天狗党の家族などを殺害、拘束するなどしたことは前に書きました。



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諸生党のリーダー市川弘美(三左衛門)




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弘道館脇にある古地図  この地図によれば市川弘美の家は今現在水戸駅のすぐ東(この地図では左側)の常磐線の線路上にあったようだ。当時は千波湖を見下ろす場所だったらしい。 水戸では家格が高いほど水戸城の近くに家を持ち、市川家も水戸藩では家格の高い家柄だったことが窺われる。 




 江戸開城となって中央の権力が旧幕府から薩長連合に移ると、1868年(慶応4年)京都にいた水戸藩士(本國寺党という)に諸生党を討伐すべく勅書が出されます。

 武田耕雲斎の孫、武田金次郎などがまず江戸の水戸藩邸を諸生党から奪い返します。 さらに水戸において諸生党、およびその家族などを殺害し、諸生党への復讐を始めます。



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弘道館の正門付近 二の丸方面から




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弘道館の正門



攻守入れ替わる

 天狗党の乱では諸生党が幕府軍を後ろ盾に有利に戦いましたが、今度は天狗党の残党や本國寺党など改革派は朝廷、および新政府軍を味方にし、諸生党を水戸から追い出すことになります。 攻守が入れ替わったわけです。 

 改革派はかつて諸生党が行ったように諸生党の家族や、諸生党に近い人々を殺戮、拘束などを行っています。

 このような情勢で諸生党は水戸を抜け出し、会津にゆき、奥州越列藩同盟軍と共に新政府軍との闘いに加わります。 しかし会津が降伏すると、再び水戸に向かい改革派が守る水戸城を攻めます。 

 かつては諸生党が水戸城に籠り、それを天狗党ら改革派が攻めたのですが、今度は逆に改革派が城を守り、諸生党が城を攻める形になりました。




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復元された大手門  1868年(明治元年)10月1日、門の向こうが二の丸。



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復元された二の丸の塀  かつて復元前の塀越しに銃撃戦が行われたようだ




弘道館と水戸城で銃撃戦

 しかしかつてと同様、三方を険しい崖に囲まれ、北側からしか攻撃できない水戸城を簡単に落とすことは出来ません。 やむを得ず諸生党は三の丸にある弘道館を占拠します。

 1868年(明治元年)10月1日、水戸城と弘道館の間で銃撃戦が行われ、その戦いで正庁や正門などを残して弘道館の多くの建物は消失しました。 その時の銃弾の跡は今でも正門などに残っているそうです。



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弘道館正門の柱の傷。 銃撃戦の跡?




内乱が終わり、水戸藩は茨城県となる

 両軍に多数の死者が出ましたが、諸生党軍は水戸を抜け出し、現在の千葉県方面に逃れますが、そこで多くの諸生党員が打ち取られたり、捕縛の後処刑されたりして、幕末から明治にかけてのあまりにも悲惨だった水戸の内戦が終了します。

 水戸藩は1869年(明治2年)に亡くなった慶篤のあとをついで徳川昭武が藩主となりますが、明治4年の廃藩置県で茨城県となり、明治8年に近隣の県と統合して現在の茨城県となります。

 


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弘道館公園から見る旧茨城県庁舎(現在三の丸庁舎) 当初は弘道館を県庁舎として使っていたが、1930年(昭和5年)にこの県庁舎に移り、1999年には笠原の新庁舎に移る。





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ついでに!   私が毎週火曜日にレッスンで出かけている常陽芸文センター  ここはギレギレでかつての弘道館の外だったようだ。 隣の警察署や図書館などはかつての弘道館の敷地内に建っている。


水戸攘夷 ~近代日本はかくして創られた マイケル・ソントン 6



徳川慶喜 2




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慶喜、第15代将軍となる

 1866年、徳川家茂が21歳の若さで亡くなると、当初は主軍就任を躊躇していたものの、その年に慶喜は第15代徳川幕府将軍となります。 水戸家出身の将軍としては最初で最後で、そして明治までにはあと1年前です。

 それ以前から慶喜は幕政の中心にいましたが、将軍になってからはより積極的に幕政改革を遂行してゆきます。 たいへん短い期間ではありましたが、将軍自ら政策を行ったのは8代将軍吉宗以来のこととなります。



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ナポレオン3世から贈られたという軍服を着た徳川慶喜、ポーズもナポレオン(初代)風。 新しいもの好きは、やはり光圀の血を引いているのか。 まだ一応江戸時代だと思うが、髷もなく見た目はすっかり明治時代。



フランス式の近代国家を目指す

 慶喜は最新式の武器を輸入し、ヨーロッパ式に軍隊を整え、欧米式の軍艦を建造し、また幕府の運営もかつての老中、若年寄といった役職を廃し、ヨーロッパ式の政治機構を取り入れます。 パリ万国博覧会にも弟の昭武を派遣するなど、特にフランスとの関係が深くなってゆきます。



もともと強硬な尊王攘夷派だったはずだが

 父の斉昭同様、もともと強硬な尊王攘夷派だった慶喜ですが、幕政に関与するようになってからは、むしろ積極的に欧米との交流を図ってゆきます。

 これはその時点での日本の状況、そしてその日本を取り巻く世界情勢といったものを現実的に把握した結果なのでしょう。 今は鎖国などが許される状況ではない、外航船の打ち払いなど行えば列強諸国との戦争になり、当時の日本の軍事力では列強に太刀打ちできず、近隣アジア諸国のように欧米列強の植民地になりかねない。

 また鎖国を継続してゆけば欧米との軍事力、経済力、技術産業力の差がますます開いてしまい、遅かれ早かれ日本の独立は脅かされる。 そういったことをはっきりと認識するようになったのでしょう。 



幕藩体制では近代国家に移行できない

 そして、これまでのような幕藩体制では日本を欧米並みの軍事、経済、産業力を持つ近代国家にしてゆくのは困難と考え、日本を天皇を中心とした中央集権的な国家に変えてゆかなければならい。

 こうして考えると、この時点ですでに明治維新は始まっていたとも考えられるでしょう。 慶喜は後に薩長中心の明治政府が行うことを先取りして行ってゆこうとしたわけです。



自らの手で徳川幕府を終わらせた

 つまり慶喜は自らの手で幕藩体制を終焉させようとしたわけです。 戊辰戦争によって徳川幕府が終わったというより、慶喜が将軍になった時点でその ”終り” は始まっていたと言えるでしょう。

 1年後にはじまる戊辰戦争は徳川幕府が終った後の新しい日本のリーダーを決めるための戦いで、保守か改革かといった戦いでもなく、ましてどちらが正義かといった戦いではありえません。 

 まさに ”勝てば官軍” で、勝った方の勢力が天皇を中心とした中央集権国家を作るということになります。 




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近代国家への移行のスピードを速めた

 大局的に見ればどちらが勝っても、その後の日本はそれほど変わらなかったでしょうが、革新のテンポはその結果によって若干違いはあったでしょう。

 仮に慶喜らの旧幕府側が主導権を握った場合(現実に、そうなりそうな状況はあった)、どうしても旧幕府の保守的な勢力を多数残すことになり、史実のような廃藩置県などを速やかに実行出来たかどうかは疑問でしょう。 さらに何度か内乱が起きた可能性も考えられ、近代国家への道のりは、史実よりやや遠かったかもしれません。

 史実では薩長土主体の官軍によって旧幕府の勢力をほぼ駆逐したので、新政府が樹立した段階で政策の妨げになる大きな勢力が一掃され、急激な中央政権化が可能になったのではないかと思います。

 新政府樹立の最大の功労者、西郷隆盛が反旗を翻した西南戦争などが起きましたが、それでも新政府樹立後の反乱は最小限にとどまったともいえるでしょう。

 戊辰戦争の意味は、どちらが正義かというより、どちらが勝った方がより速やかに日本の近代化を進められたかといったことにあるのかもしれません。




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幕末の薩摩藩士  西洋式の軍服に髷に刀といった、戊辰戦争時の服装が見られる。




大阪から船で江戸に逃げ帰る

 慶喜といえば、鳥羽伏見の戦いのさなか、船で大阪から江戸に逃げ帰ったという話が知られています。 江戸の幕臣たちからは、「臆病だ」 と非難ごうごうといったところでした。 慶喜へのそうした評価は今現在でも取沙汰されるようです。 
 
 慶喜のこうした行動は鳥羽伏見の戦いの状況が不利になったこともありますが、やはり最も大きな理由としては薩長連合軍に官軍を意味する”錦の御旗” が掲げられたことにあると言われています。



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薩長軍に授けられた錦の御旗



水戸家代々の教えによって

 慶喜は幼少時から水戸で 「仮に幕府と朝廷が敵味方になった場合、たとえ幕府が倒れようと、天皇に刃を向けてはいけない」 と教えられてきました。 それを実行しただけのこと考えられます。

 それに加えて恐らく慶喜は 「自分こそ最も真摯な尊王派」 と思っていたはずです。 その自分が朝廷から逆賊の扱いを受けた時の精神的な衝撃は大変大きかったのではとも考えれます。

 それならなぜ、その時点で降伏するなり、和議を図るといった行動に出なかったのか、なぜ部下たちには戦闘の継続を命じておきながら、自分だけ密かに江戸にもどったのか、など疑問な点は多くあります。

 後から考えればよりましな対処法もあったのではと思いますが、その時点での慶喜には冷静な判断が出来なかったのかも知れません。  ・・・・自ら身を引いた方が近代国家への近道だと考えたかどうかわかりませんが、少なくとも身を引く方がこれからの日本のためとは考えたのでしょうね。



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戊辰戦争で用いられた銃  スナイドル銃など世界中の銃が輸入されて使われた。 これらは単発だが後装式(元込め式)で、ゲーベール銃などの前装式(先込め式)もまだ使われていた。





明治時代を最後まで見届けて

 江戸開城となり、慶喜は上野寛永寺で謹慎となりますが、のちに水戸に送られます。 水戸に着いた慶喜は幼少時に学んだ弘道館の一室で謹慎生活に入りますが、諸政党と天狗党の残党をふくむ旧改革派との争いが激化する様相を受け、徳川宗家が移封となった駿府(のちに静岡となる)に移ります。

 晩年には東京に移りますが、長い期間その静岡で過ごします。 明治以降の慶喜は政治から一切身を引き、写真、乗馬など様々な趣味の生活に没頭します。 旧幕府関係者が訪ねてきても、渋沢栄一など一部の人を除いてほとんど会うことはなかったと言われます、


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晩年の徳川慶喜



 慶喜は明治時代を最後まで見届け、1913年、大正2年にその生涯を閉じます。