中村俊三 ブログ

中村ギター教室内のレッスン内容や、イベント、また、音楽の雑学などを書いていきます。

クイーン・ヒミコ・ストーリー  ~なあんちゃって 6 最終章



仄かに灯る命の炎

  ヒミコは宮の奥で臥していた。 周囲には側近や女官、親族などが詰めていた。 日頃は女王の寝所に立ち入ることが許されない大臣たちの何人かも、この時ばかりは立ち入りを許された。 その女王の寝所は、かなりの人数がいるにも関わらず静寂のままだった。  その女王の寝所にいたすべての者は、息の音一つで、仄かに灯る女王の命の炎が消え去ってしまうとでも思っているかのようだった。



CIMG0848.jpg



 ヒミコは朦朧とした意識の中で、もうすぐ自分に課された幾千の山も重さにも匹敵する重荷を下ろすことが出来ると思った。 自らの死が悲しいとも、辛いとも、苦しいとも思わなかった。 しばらくすれば身も心も軽くなる、むしろ弾む思いだ。




母の膝の上にいた

 いつしかヒミコは7歳で別れた母の膝の上にいた。 今のヒミコにはそれが現実なのか、ただ、過去の記憶なのか、判断はつかなかった。  優しく、美しい顔だった。  柔らかくて、暖かい膝だった。  なんとも言えない母の匂いもする。  母が着ているのは緋の衣だ。 そうだ、自分でもこの緋の衣は着ていた!   お母上様!   
 
 父の顔も見える!  なんという高貴なお顔立ちだろう。 幼い頃、いずれは父のような殿御を婿に迎えたいと、密かに思っていた。  父と母は本当に仲睦まじかった。 母が亡くなった時、父は幾晩も泣きとおしていたのを覚えている。

 父はいつも私のことを慈しんでくれた。 そして父の言うことはすべて正しかった。  私は父から言われたことを本当にやれただろうか。 女王になってから父と会うことはかなわなかったが、何かある度にいつも 「こういう時、父ならなんとしただろうか? どう判断なされたろうか?」 と思いながらやってきた。 

 私は父の言うとおりに出来たでだろうか? 父は私のことを誉めてくれるだろうか?    お父上さま!  お父上様の言った通りには出来ませんでしたが、自分に出来ることはすべて行ったつもりでおります!  至らぬところは、切にお許し下さい!  




もうすぐ皆に会える

 弟もいる!  弟は本当に私のために尽くしてくれた。 弟がいなかったら私は今日までヤマトの女王など続けることは出来なかった。 何かあるたびにくじけそうになる私を、いつも励ましてくれた。 弟に泣き言を言うと、なぜか心が晴れた。

  私にとっては本当にかけがえのない、いい弟だった、私より先に旅立ってさえ、しまわなければ。    タケル!   行かないで!   先に行かないで!   私を置いて行かないで!
 
 妹も来た! 父が亡くなったことを知らせに、わざわざヤマトまで来てくれたが、その後会っていない。 ナ国の王子を婿に迎えて、子も幾人か設け、今では孫や、ひ孫も数多くいると聴く。 本当なら妹のような一生を送りたかった・・・・・・ 
 
 もうすぐ皆に会える、楽しみだな・・・・・・・・  




三輪山の聖水で清めども

 ・・・・・・・でも、そうだろうか?  本当に私は父や母や弟と同じところに行けるのだろうか?  それは叶うまい。 皆と同じところに行くには、私は穢れ過ぎた。 本当に神のような父や母に比べると、私は余りにも穢れている!  三輪山から流れ落ちる聖水で幾度身を清めたとしても、その穢れは落とせるものではない。 私がこれまで犯した罪は、どの海の深さよりも深い。


CIMG0840.jpg



 これまで神の名のもとに、幾度自分の考えを押し通してきたか!  またそのことにより、いかに多くの人の自由を奪い、命を奪ってきたか!  私は神などではない、神の名を借りた、いや騙っただけだ! 

 もとより、私には神の御心を知る力などない!  霊力など微塵もないことは、この私が一番よく知っている。 ただそれがあるように振舞っただけだ。 しかしそれはヤマトの女王である限り避けられぬものだった。 神もそのことはよくご存じのはず。

 いや、もうやめよう、そんな言い訳するのは。 私はこの倭国のためにすべてを捧げた、身も、心も。  その結果地獄に落ちようが、どうしようが、それはまさに神の御心次第!

  願わくば、この倭国が永遠に続きますよう!   倭国の人々が末永く、永遠に幸せに過ごせますよう!



0319-44.jpg



卑弥呼以死 

 ヒミコは生前に、自の死に伴って殉死することを厳しく禁じた。 自分と死を共にするものは地獄に落ちるとも、人々に説いた。 しかし百名を超える者がその禁を破って死を共にした。 女王がこの世を去ればこの世も終わりと思った者、女王がどこに行っても一緒についてゆきたいと思った者・・・・・  死を共にした者の動機は様々であった。

 そうでない者たちは、この偉大な女王のために、これまでにない大きな墓を、数年かけて女王の宮殿の近くに作った。 人々が手渡しで大きな石を運んだ。 周囲に青々と水を湛えた堀をめぐらしたその墓においては、毎年女王の命日になると大々的な行事が行われた。

 ヒミコの意に反して、ヒミコは世を去ってからも倭国の女王であり続けた。 むしろ死んでからの方が女王ヒミコの威厳は一層増したともいえる。 人々の間で、ヒミコは本当に神となった。


CIMG0863_20161108085659956.jpg



 ヒミコが去ったあとの倭国は、一時、大臣の一人が王に就いたが、まとまらず、結局はヒミコの妹の孫の、トヨが王に就くことになった。 トヨはヒミコの政策を手本とし、倭国をまとめることに尽力し、その後の大和政権の礎となった。


      
スポンサーサイト
クイーン・ヒミコ・ストーリー  ~なあんちゃって 5




長い年月が流れた

 ヒミコがヤマトの女王の座に就いてから長い年月が流れた。  尾張から三河、駿河にかけての東海地方は、相変わらずヤマト政権の傘下に加わる村や国と、そうでないものがが混在していた。



東国で反乱

 また、これまでヤマト政権に従っていた国や村においても、ヤマトの役人と、その地の豪族や民たちとの間で、税の取り立てや、役人の不正などを巡って争いが時折あったが、 ここにきて、そうしたものが頻発するようになった。

 そして東海地方の多くの地域が ”反ヤマト” を掲げて連合する動きが現れた。 さらにそれらの小国連合に、東国の覇者とも言えるケヌ国が支援する形となり、「ヤマト政権」 対 「反ヤマト連合」 という構図が出来上がった。  両者は一触即発の様相を示してきた。

 東海のいくつかの国ではヤマトの役人の館が襲われ、長官たちが一族と共に滅んだり、またヤマトに逃げ戻ったりする事態が起きた。



000196847.jpg



東国征伐を奏上

 ヤマトの大臣たちは宮殿内において会議を開き、近畿から中国、四国、九州などで、ヤマト政権下のすべての地域で兵を招集し、東国の反乱勢力を一気に攻め滅ぼすべき、という結論に至った。 そしてそれを女王ヒミコに奏上した。

 これまでの通例では、女王に最終的な決断を求めるといっても、それは形だけのもので、大臣たちが下した判断に、女王が異を唱えることはなかった。 大臣の誰もが今回の場合も、通例通りに事が運ぶと信じて疑わなかった。



23123_004_20161106135720bf6.jpg



御簾の奥から甲高い声が鳴り響いた

 大臣の筆頭が女王の御簾の前で会議の結果を奏上し、下がろうとした時、御簾の奥から、これまで聴いたことない甲高い声が鳴り響いた。 その場に居合わせた大臣一同は何事が起きたのかと、一瞬呆然となった。



 「一同の者たち!  お前たち大臣一同の下した判断は聴いた。  お前たちはこの度の事態に対して、全国から兵を集め、東の諸国と大戦をすると言っている。  しかし、今、全国から兵を集めたらどうなる?  この度の東国の反乱の事態を考えると、生半可の兵の招集では、東国の勢力を打ち破ることは出来まい。  それこそ、ヤマトに従うすべての国から根こそぎ若者たちを集めての、徹底した招集が必要なのは自明だ。 でも、それを今行ったらどうなる? 」



 通例では、女王の話は側近を通して大臣たちに伝えられるので、大臣たちは女王の声を直接聞くことなどなかった。 このように大臣たちを前にして女王自身が声を張って話をするなどということは、前代未聞のことであって、皆、呆然となったのは無理もない。 女王はさらに続けた。
 


  「戦場となった村々が荒廃し、あるいは村ごと消え去ったりするのは当然だが、戦場とならない村でさえ働き盛りの男を兵にとられ、また、その兵のために米などを送らなければならなくなる、女手や老人中心にだ。 そうでなくとも村々では、昨今の日照りなどで厳しい状況である。  ここで全国を巻き込んだ戦など始めては、これまでヤマトに従っていた村や国でさえ反乱を起こしかねない。

 確かに兵力においては我が方が上だ。 東国勢がどのように兵をかき集めたとしても、我が方の半分にもみたないであろう。  しかし戦の勝ち負けは兵力だけで決まるものではない。 我が方が東国に攻め入った時、東国勢は自らの存亡をかけての戦いとなる。 おそらく兵も、民もなく、皆死を恐れず我が方に戦いを挑んでくるであろう。 我が方は数で勝るといえ、村々から強いて集められた者たちが中心だ。 戦意に差が出るのは明々白々。 




私は大倭国の女王ヒミコである! 私は神である! 

 この度の戦は簡単に勝てないだけなく、長引くことも往々にしてある。 戦が年をまたぐことにでもなったらどうする?  今、倭国を二分しての戦いなど、誰にも利するものではない。 事態が悪い方向に進めば、このヤマトを中心とした倭国が、漢などのように滅びることすらあり得る。 私はこのヤマトを滅ぼすために王になったのではない・・・・・・

 一同の者!  それでも戦がしたいなら、まずこの私を、死たらしめよ!   私は彼の世に行き、そして事の次第を神にお告げ申す。 その時、神がどういう判断をなされるか、神の御心次第である。  お前たちが正しいのであれば神はお前たちを許すであろう。  しかし、もし、そうでなかったら・・・・・     

 さあ!  お前たちが、自分たちの考えが正しいと思うならば、 あるいは、この女王ヒミコが間違っていると思うのであれば、 この場ですぐ私を殺しなさい!  さあ!  私を刺しなさい! 

 ・・・・・・それが出来ぬのであらば、 この場で私を刺すことが出来ぬのであらば、 この件については、すべて私に任せよ!  そして一同の者! 今後すべて私の命に従いなさい!   私には、この倭国の、あまねくすべての王や民たちを守ることを、神から委ねられている!  私は大倭国の女王ヒミコである!  私は神である! 」





皆、女王の命に従うことを誓った

 大臣たちは神の声を聴いた。  そして、その神の言葉のあまりの恐れ多さに、ただただ、ひれ伏すのみであった。  今後すべて女王の命に従うことを皆誓ったのは言うまでもない。 






・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・





不満を吐露させた


 大臣たちから完全な委任を取り付けたヒミコは、まず信頼できる腹心の者たちを、反乱を起こした村や国に使者として送った。 ヒミコは使者たちに、決して説得するな、まず黙って話を聴けと命じた。 そしてヤマト国や、ヤマトの役人たちへの不満を洗いざらい話させるように言った。 そうすると、これまでヤマトに不満や反意を持っていた者たちも、次第に気持ちも和らいでいった。

  しかし、その一方で、近江や伊勢、美濃などの東国勢と接する箇所に精鋭軍を配置して、これ以上戦禍が拡がるのを防ぐことも怠らなかった。 そして、兵を出した地域からの年貢等を免除し、民たちの疲弊に備えた。 




魏に使者を出し、倭王の称号を得る

 ヒミコにはさらに奥の手があった。 これまで大陸の遼東半島から楽浪郡を押さえていた公孫氏に使者を出していたが、その公孫氏が滅んだ。 そうした情報を素早く得ていたヒミコは、すかさず魏に使いを出し、魏から倭王の称号を得、ヤマトの王は魏が認めた倭国の唯一の王であることを倭国全土に知らしめた。 また詔書、黄幢も得て、ヤマトには魏が後ろ盾になっていることを、反勢力に対して強く誇示した。

 ヒミコは焦らなかった。 ヤマトの王、つまり自らが魏も認める大倭国の正統的、かつ唯一の王であることを全国に知らしめ、東国勢に心理的圧力を加えつつ、その一方でヤマトに反感を持っている者たちの気持ちを少しずつ和らげる手だてを行っていった。

 そして、ヤマトに心を開いた国や村には最新式の鉄製農具や、また優れた品種の種もみなどを与え、また新たな作物の栽培方法なども伝授した。 それらにはヒミコの腹心の部下である渡来人たちの尽力が大きかった。




s_s_DSCF8759.png




三角縁神獣鏡

 また、そうした国などの王や首領たちに対しては、神の御心を映す鏡として魏から下された鏡も与えた。 国が一つになるには、まず同じ神を崇める必要があると、ヒミコは考えた。 そしてその魏鏡を持つということは倭国唯一の王であるヤマトの王、つまりヒミコからその地方を治めることを認められた証となった。

 そうしたヒミコの硬軟にわたる策で、徐々にではあるが、ヤマト政権に、よりを戻したり、新たにヤマト政権の一員に加わる国も、次第に出てきた。 中には陸奥や出羽のような遠隔地にもかかわらず、ヤマトとの繋がりを求める国もあった。 

 結果的に、ヒミコは戦争で大勝利して得られるもの以上のものを、全く血を流さずに得た。 さらに混迷していた倭国も、東国の含めた、本当の意味での ”大倭国” が、ここに成立した。  ヒミコはヤマトの大臣や民たちからだけでなく、倭国全土の者たちから、神と崇められるようになった。



Bronze_Mirror_in_Ancient_Japan.jpg


 

平城宮



現在の奈良市はかつての平城京の位置と少しずれている

 今回の旅行では、この平城宮は最初に行ったのですが、記事のほうは年代順ということで最後に書きます。 奈良の観光といえば、まず何といっても大仏のある東大寺、それから興福寺、奈良公園、春日大社、若草山といったところでしょうか。

 これらの寺社などのある場所は、かつては、平城京の中核部分である長方形の右京、左京の東側に付け足された ”外京” と呼ばれた部分にありました。


 
blog_import_50a5dc4e8835f.jpg



現在の奈良市は、外京にあった東大寺や興福寺の門前町として残ったもの

 平城京は710年に前述の藤原京から遷都し、さらに784年に長岡京に遷都します。 遷都となると、天皇、および大臣や官吏、その下で働く人など、すべての人が移動してしまいます。 往時には人口10万人と言われ、日本で最も賑わっていた平城京もゴースト・タウンになってしまいました。 大極殿などの主要な建物などは解体して長岡京に移築されたそうです。

 一方、外京の寺社のなどは引っ越しせずその地に残されたので、それらの寺社を中止とした門前町として外京のみ残り、それが現在の奈良市の中心街となっている訳です。 上の地図を見ると、かつての外京と、現在の奈良市街地がちょうど重なるのがわかると思います。




再建された大極殿

 さて、かつては何もなかった平城宮跡ですが、今現在は天皇が公式行事などを行う建物である大極殿と、平城宮の正門、あるいは玄関にあたる朱雀門が再建されています。 大極殿は2010年、朱雀門は1998年に再建されたとありました。



CIMG0780.jpg
6年ほど前に再建された大極殿。 天皇が臣下などを前にして公務を行うところ。



 再建された大極殿はかなり大く、写真のように朱色に塗られてたいへんきれいな建物で、遠くからでも見ることが出来ます(付近に高い建物がない)。 バスを降りて敷地内に入ってみると、小雨模様のこともあってか、観光客などは私たち以外に見当たりません。




恐る恐る中に入ると

 大極殿の中まで入ってよいのかどうかわかりませんでしたが、一応 ”入り口” とあるので階段を上がってみました。 すると警備の人がいて、「入ってはいけません」 と言われるのかと思いましたが、「どうぞ、お入りください」 と案外、丁寧な応対。

 こういったところは、無料のはずはないと思いましたが、料金所のようなものは見当たりません。 中に入ると、さらに2,3人の警備の方がいましたが、相変わらず観光客は私たち二人だけで、警備の方も、なんとなく手持無沙汰な感じでした。



CIMG0771.jpg
天皇の御座らしい、ガラスが光ってしまったのがちょっと気になる。 ボランティアのガイドさんに撮ってもらった(ガイドさん指定のアングルによる)。



 少しすると、私と同じくらいの年齢の男性が近づいてきて、「私はボランティアで、この大極殿のガイドをしています。 もしよければご説明いたしましょうか」 と声をかけてきました。 「では、お願いします」 というと、 「どちらから来ました? イバラキ? ああ、私も栃木県の生まれなんですよ。  それでは、 えー、  この平城京は710年に藤原京から遷都し、東西××キロメートル、南北・・・・・・ 」





警備員とプラヴェート・ガイド付きで、 無料!

 柱の跡などで建物の大きさと高さなどはわかるのですが、装飾品のようなデティールは、はっきりとはわからず、推測によって再現されているそうです。 それにしても、再建されたばかりのピカピカの大極殿に、警備員とプライヴェート・ガイドも付いて、まるごと貸し切り状態!  しかも無料!  最高ですね!




CIMG0781.jpg
大極殿を引きで撮っても人影はない。 別にアングルを選んだわけではない。






朱雀門

 ガイドさんには、いろいろ詳しく説明していただいたのですが、次の予定もあるので、その大極殿を離れ、 再建されたもう一つの建物の朱雀門まで歩いてゆきました。 これは先ほどの大極殿の南約800メートルのところにありますが、少し歩いてみても相変わらず人はいません。

 

CIMG0790.jpg
朱雀門   ちょっと見た感じでは大極殿と区別が付きにくいが、柱の本数が違うようだ




朱雀門の前を電車が走る?

 大極殿からこの朱雀門を見ていた時、その前を電車が走っているのを見ました。 ちょっと不思議な感じですね、例えるなら、家の門と母屋の間に電車が通るみたいなものですから。 しかし平城宮跡といっても、一時期何もなくなってしまったわけですから、それは家も建つし、道路や電車も走りますよね。 再建、整備計画なんて比較的最近のことですし。


CIMG0789.jpg
朱雀門のすぐ前を近鉄線が走る、後ろに大極殿の屋根が見える。 





次の日にこの電車に乗った


 それにしても再建された朱雀門のすぐそばを近鉄線が通っています。 じつはこの翌日、飛鳥方面から帰る時にこの電車に乗りました。 電車に乗った時には前の日見たあの電車だということはわからなかったのですが、電車の窓に見たことのある赤い建物が見えたので、その時前日に見たあの電車に乗ったことがわかりました。

 こうした光景も面白いといえば面白いですが、この近鉄線は、奈良駅の近くになると地下鉄になるので、いずれは地下を走ることになるのでしょう。 そうでないと観光スポットとしては成立しないでしょうね。
 
藤原宮



酒船石、飛鳥資料館などに立ち寄り

CIMG0889.jpg
酒船石。 竹藪の中にぽつんとある。



 飛鳥板蓋宮を出て、酒船石、飛鳥資料館などに立ち寄り、道路沿いのお蕎麦屋さんに入りました。 そのお蕎麦屋差さんはあまり目立たないお店だったので、一度通り過ぎてしまいましたが、他に食事をするところが見当たらなかったので、戻ってそのお店に入りました。 お腹が空いたこともあって、とてもおいしかったです。



CIMG0893.jpg
お花畑越しの天の香久山。 持統天皇の和歌で有名。 このあたりも藤原京の内部。



 お店を出て藤原宮跡に向かいました。 ちょっと距離はあります。 電動自転車は確かに疲れないのですが、この辺はほぼ畑地なので、虫が飛んでいて目に入りそうです。 私は眼鏡をかけているので大丈夫だったのですが、家内は目に入ってしまい、ちょっと痛かったようです。




近所の人が公園として来ている

 地図と案内に従って飛鳥資料館からやく2キロほどして、藤原宮跡に着きました。 道路から入ると、そこはたいへん広いスペースとなっていました。 ちょと見た感じでは、1キロ四方くらいはあるのではないかと思いました。 そのスペースにはもちろん家などはなく、ちゃんと整地されていて、芝生のようになっていました。 広大なグランドと言った感じです。

 近所の子供たちとそのお母さんと思われる何組かが遊びに来ていました。 観光客らしき人は相変わらずいなかったのですが、ここは近所の人たちの公園のようになっていて、ボール遊びなどをやっています。 ポケモン・ゴーをやっているような人もいました。 




CIMG0896.jpg
広大な敷地の藤原宮跡。 芝地のようになっていて、近所の人たちの公園のようになっているようだ。 中央の人はポケモン・ゴーをやっているのかも。


 今現在は立札のようなものがあるだけで、建物らしきものはありませんが、工事機材などが置かれていて、整備計画があるのかも知れません。 いずれは観光の目玉になるのかも知れません。 




CIMG0899.jpg
一応、藤原宮の説明の立て看板はある




CIMG0895.jpg
赤い筒状のものは柱の位置らしい。 整備計画などがあるようで、何年か後には観光の目玉になるかも。





宮と京

 ところで、藤原 ”宮” というと、基本的には天皇の住居、および政務を行う場所を言い、この藤原宮では、だいたい1キロメートル四方くらいあるようです。 その約1キロメートル四方の中に、国家行事を行う広場や、天皇の私的な住居、各省庁の建物などが建っていたようです。

 藤原 ”京” というと、その宮のまわりの、碁盤の目のようになっているところで、官僚や貴族(同じ意味かも知れないが)、及び一般人などが住む、いわゆる ”町” ということになります。 その藤原京は約5キロメートル四方あって、官僚たちはその京内の住居に寝起きし、毎朝、宮内に出勤するということになります。 

 おそらく、位の高い官僚(もちろん貴族)は宮の近くに住居があり、低い身分の官吏は京の端のほうに住んでいたのではないかと思います。 場所によっては片道2~3キロはあったと思われますので、下級官僚は、いろいろな意味で大変だったでしょう。

 


平城京や平安京に匹敵

 藤原宮、及び藤原京はこれまでの飛鳥浄御原宮などとは比較にならない膨大な大きさで、後の平城京や平安京にも劣らない広さです。 この膨大な規模の藤原京は天武天皇時代により計画、建設がなされ、持統天皇時代(694年)に ”一応” 完成し、遷都しました。 遷都してからも工事は続いたようで、おそらく最後まで”完成”はしなかったのではないかと思います。






内外にその力を示す

 天武天皇が、このような桁外れに大きい京を計画したのは、内には天皇の圧倒的な権威を示し、外には日本の国力を知らしめる、といったことなのでしょう。 確かにこの時代、こうした事が可能なほどに、天皇に権力が集中したのでしょう。

 しかし、膨大な財とエネルギーを費して建設した藤原京ですが、結局のところ⒑数年間、都が置かれただけで710年には、平城京に引っ越してしまいます。




IMG_20161031005020e45.jpg
藤原京の想像再現図。  藤原京は宮が中央に作られている。




ちょっとした間違い?

 藤原京は、平城京や平安京と同じく唐の都、長安を模して建設されているのは、言うまでもありません。 京全体は長方形で、京内の町は東西南北に碁盤の目状になっています。 そして天皇の住む宮は一番北の端に作られます。 古来より中国では 「天子南面ス」 といって、人々は北の方を向いて皇帝を拝礼するしきたりになっているからです。

 しかしこの藤原京では、宮が京の中央に作られています。 これでは人々が天皇を取り囲むようになってしまいます。 そうしたことが、完成してすぐに平城京に遷都した最大の理由かどうかは、わかりませんが、ちょっとした情報不足の可能性はあるのでしょう。


CIMG0901.jpg
畝傍山に雲間から光が。 なんだか神様が降りてきそう。

飛鳥宮



電動自転車で飛鳥をめぐる

 纏向駅でJR線に乗車し、桜井駅で下車。 そこからタクシーで近鉄線飛鳥駅へ。 飛鳥は電車やバスの便はよくないので、飛鳥駅で自転車を借ることにしました。 電動自転車に乗るのは初めてで、それほど普通の自転車と変わりありませんが、乗り出しの時に、急に加速する感じになるので、気を付けなければなりません。 そう言えば、新聞に最近の電動アシスト自転車は ”アシストし過ぎ” と書いてありました。


CIMG0868.jpg




高松塚古墳

 まず、飛鳥駅に一番近い高松塚古墳に寄りました。 場所がよくわからなかったので、一度通り過ぎてしまいましたが、そんな時も電動自転車だと残念さも薄らぎます。 普通の自転車だったら、あきらめてそのまま次の目的地へ行ってしまったかも知れません。

 また、車だと目的地の比較的手前で駐車しないといけないのですが、自転車だとほとんど目的地のそばまで乗って行けます。 確かに飛鳥は自転車が便利に出来ています。


CIMG0874.jpg


 高松塚古墳は、これまで見た崇神天皇陵などに比べると、かなり小さいものですが、きれいに整備されています。 この古墳は壁画が有名なのですが、それは見ずに次の場所へ移動しました。




天武、持統天皇陵

 次は天武、持統天皇陵です。 この両天皇は夫婦で、当時、天皇夫妻が同じ墓に入るのは珍しかったそうですが、天皇陵といっても古墳時代ではないので比較的小さな円墳です。



CIMG0877.jpg



 この両天皇の時代は、壬申の乱などを経て、天皇の力が最も大きくなった時代で、 万葉歌人、柿本人麻呂が、 「大君は 神にしませば 天雲の 雷の上に いほりせるかも」 と歌ったように、”神である天皇” の概念が生まれ、そして我が国が ”倭国” から”日本” に変わった時代と言われています。

 ”天皇を国家元首とした日本国” は今日まで続いているわけですが、その礎を築いたのが、この両天皇の時代と言われています。 すごい天皇夫妻の墓にしては、ちょっと地味ですが、そこがいいところなのでしょう。






飛鳥板蓋宮

 そこから1~2キロ(たぶん)くらい、細い道を入ったりしながら、今回の旅行の2番目の目的地、飛鳥板蓋宮跡に着きました。 案内などはあるので、比較的迷わず行けました。 



CIMG0884.jpg
3代の天皇によって宮が置かれたところだが、相変わらず私たち以外に訪れる人はいない



3代の天皇が宮を置いた

 写真や動画で見ていた通りと言った感じですが、やはり私たち以外に観光客らしい人は見当たりません。 一般にここは ”飛鳥板葺宮” となっていますが、同じ場所に何度も王宮が建てられ、その都度名前も変えられたようです。 最初にこの地に宮を置いたのは629年、舒明天皇で 「岡本宮」 。 次は643年、皇極天皇で 「飛鳥板蓋宮」。 3度目は673年、天武天皇で 「飛鳥浄御原宮」。

 最初の岡本宮は火事で焼けてしまったので、次の板蓋宮は、場所は同じでも建物は全く別のようです。 3度目の浄御原宮は、まえあの板蓋宮の建物が残っていたので、それに別の建物を増築したようです。



CIMG0881.jpg
井戸の跡のようなものが残っている



こだわりのあった地

 今現在は敷石のようなものと、井戸の跡と思われるものが残っています。 この宮跡の周囲の3方は小高い山となっていて、北側だけに平地が拡がっています。 藤原宮などと比べると圧倒的に狭いところなのですが、この時代の天皇たちには、この地への強いこだわりがあったのでしょう。


 CIMG0886.jpg
周囲三方は小高い山となっている