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中村俊三 ブログ

中村ギター教室内のレッスン内容や、イベント、また、音楽の雑学などを書いていきます。

平城宮



現在の奈良市はかつての平城京の位置と少しずれている

 今回の旅行では、この平城宮は最初に行ったのですが、記事のほうは年代順ということで最後に書きます。 奈良の観光といえば、まず何といっても大仏のある東大寺、それから興福寺、奈良公園、春日大社、若草山といったところでしょうか。

 これらの寺社などのある場所は、かつては、平城京の中核部分である長方形の右京、左京の東側に付け足された ”外京” と呼ばれた部分にありました。


 
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現在の奈良市は、外京にあった東大寺や興福寺の門前町として残ったもの

 平城京は710年に前述の藤原京から遷都し、さらに784年に長岡京に遷都します。 遷都となると、天皇、および大臣や官吏、その下で働く人など、すべての人が移動してしまいます。 往時には人口10万人と言われ、日本で最も賑わっていた平城京もゴースト・タウンになってしまいました。 大極殿などの主要な建物などは解体して長岡京に移築されたそうです。

 一方、外京の寺社のなどは引っ越しせずその地に残されたので、それらの寺社を中止とした門前町として外京のみ残り、それが現在の奈良市の中心街となっている訳です。 上の地図を見ると、かつての外京と、現在の奈良市街地がちょうど重なるのがわかると思います。




再建された大極殿

 さて、かつては何もなかった平城宮跡ですが、今現在は天皇が公式行事などを行う建物である大極殿と、平城宮の正門、あるいは玄関にあたる朱雀門が再建されています。 大極殿は2010年、朱雀門は1998年に再建されたとありました。



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6年ほど前に再建された大極殿。 天皇が臣下などを前にして公務を行うところ。



 再建された大極殿はかなり大く、写真のように朱色に塗られてたいへんきれいな建物で、遠くからでも見ることが出来ます(付近に高い建物がない)。 バスを降りて敷地内に入ってみると、小雨模様のこともあってか、観光客などは私たち以外に見当たりません。




恐る恐る中に入ると

 大極殿の中まで入ってよいのかどうかわかりませんでしたが、一応 ”入り口” とあるので階段を上がってみました。 すると警備の人がいて、「入ってはいけません」 と言われるのかと思いましたが、「どうぞ、お入りください」 と案外、丁寧な応対。

 こういったところは、無料のはずはないと思いましたが、料金所のようなものは見当たりません。 中に入ると、さらに2,3人の警備の方がいましたが、相変わらず観光客は私たち二人だけで、警備の方も、なんとなく手持無沙汰な感じでした。



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天皇の御座らしい、ガラスが光ってしまったのがちょっと気になる。 ボランティアのガイドさんに撮ってもらった(ガイドさん指定のアングルによる)。



 少しすると、私と同じくらいの年齢の男性が近づいてきて、「私はボランティアで、この大極殿のガイドをしています。 もしよければご説明いたしましょうか」 と声をかけてきました。 「では、お願いします」 というと、 「どちらから来ました? イバラキ? ああ、私も栃木県の生まれなんですよ。  それでは、 えー、  この平城京は710年に藤原京から遷都し、東西××キロメートル、南北・・・・・・ 」





警備員とプラヴェート・ガイド付きで、 無料!

 柱の跡などで建物の大きさと高さなどはわかるのですが、装飾品のようなデティールは、はっきりとはわからず、推測によって再現されているそうです。 それにしても、再建されたばかりのピカピカの大極殿に、警備員とプライヴェート・ガイドも付いて、まるごと貸し切り状態!  しかも無料!  最高ですね!




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大極殿を引きで撮っても人影はない。 別にアングルを選んだわけではない。






朱雀門

 ガイドさんには、いろいろ詳しく説明していただいたのですが、次の予定もあるので、その大極殿を離れ、 再建されたもう一つの建物の朱雀門まで歩いてゆきました。 これは先ほどの大極殿の南約800メートルのところにありますが、少し歩いてみても相変わらず人はいません。

 

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朱雀門   ちょっと見た感じでは大極殿と区別が付きにくいが、柱の本数が違うようだ




朱雀門の前を電車が走る?

 大極殿からこの朱雀門を見ていた時、その前を電車が走っているのを見ました。 ちょっと不思議な感じですね、例えるなら、家の門と母屋の間に電車が通るみたいなものですから。 しかし平城宮跡といっても、一時期何もなくなってしまったわけですから、それは家も建つし、道路や電車も走りますよね。 再建、整備計画なんて比較的最近のことですし。


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朱雀門のすぐ前を近鉄線が走る、後ろに大極殿の屋根が見える。 





次の日にこの電車に乗った


 それにしても再建された朱雀門のすぐそばを近鉄線が通っています。 じつはこの翌日、飛鳥方面から帰る時にこの電車に乗りました。 電車に乗った時には前の日見たあの電車だということはわからなかったのですが、電車の窓に見たことのある赤い建物が見えたので、その時前日に見たあの電車に乗ったことがわかりました。

 こうした光景も面白いといえば面白いですが、この近鉄線は、奈良駅の近くになると地下鉄になるので、いずれは地下を走ることになるのでしょう。 そうでないと観光スポットとしては成立しないでしょうね。
 
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藤原宮



酒船石、飛鳥資料館などに立ち寄り

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酒船石。 竹藪の中にぽつんとある。



 飛鳥板蓋宮を出て、酒船石、飛鳥資料館などに立ち寄り、道路沿いのお蕎麦屋さんに入りました。 そのお蕎麦屋差さんはあまり目立たないお店だったので、一度通り過ぎてしまいましたが、他に食事をするところが見当たらなかったので、戻ってそのお店に入りました。 お腹が空いたこともあって、とてもおいしかったです。



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お花畑越しの天の香久山。 持統天皇の和歌で有名。 このあたりも藤原京の内部。



 お店を出て藤原宮跡に向かいました。 ちょっと距離はあります。 電動自転車は確かに疲れないのですが、この辺はほぼ畑地なので、虫が飛んでいて目に入りそうです。 私は眼鏡をかけているので大丈夫だったのですが、家内は目に入ってしまい、ちょっと痛かったようです。




近所の人が公園として来ている

 地図と案内に従って飛鳥資料館からやく2キロほどして、藤原宮跡に着きました。 道路から入ると、そこはたいへん広いスペースとなっていました。 ちょと見た感じでは、1キロ四方くらいはあるのではないかと思いました。 そのスペースにはもちろん家などはなく、ちゃんと整地されていて、芝生のようになっていました。 広大なグランドと言った感じです。

 近所の子供たちとそのお母さんと思われる何組かが遊びに来ていました。 観光客らしき人は相変わらずいなかったのですが、ここは近所の人たちの公園のようになっていて、ボール遊びなどをやっています。 ポケモン・ゴーをやっているような人もいました。 




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広大な敷地の藤原宮跡。 芝地のようになっていて、近所の人たちの公園のようになっているようだ。 中央の人はポケモン・ゴーをやっているのかも。


 今現在は立札のようなものがあるだけで、建物らしきものはありませんが、工事機材などが置かれていて、整備計画があるのかも知れません。 いずれは観光の目玉になるのかも知れません。 




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一応、藤原宮の説明の立て看板はある




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赤い筒状のものは柱の位置らしい。 整備計画などがあるようで、何年か後には観光の目玉になるかも。





宮と京

 ところで、藤原 ”宮” というと、基本的には天皇の住居、および政務を行う場所を言い、この藤原宮では、だいたい1キロメートル四方くらいあるようです。 その約1キロメートル四方の中に、国家行事を行う広場や、天皇の私的な住居、各省庁の建物などが建っていたようです。

 藤原 ”京” というと、その宮のまわりの、碁盤の目のようになっているところで、官僚や貴族(同じ意味かも知れないが)、及び一般人などが住む、いわゆる ”町” ということになります。 その藤原京は約5キロメートル四方あって、官僚たちはその京内の住居に寝起きし、毎朝、宮内に出勤するということになります。 

 おそらく、位の高い官僚(もちろん貴族)は宮の近くに住居があり、低い身分の官吏は京の端のほうに住んでいたのではないかと思います。 場所によっては片道2~3キロはあったと思われますので、下級官僚は、いろいろな意味で大変だったでしょう。

 


平城京や平安京に匹敵

 藤原宮、及び藤原京はこれまでの飛鳥浄御原宮などとは比較にならない膨大な大きさで、後の平城京や平安京にも劣らない広さです。 この膨大な規模の藤原京は天武天皇時代により計画、建設がなされ、持統天皇時代(694年)に ”一応” 完成し、遷都しました。 遷都してからも工事は続いたようで、おそらく最後まで”完成”はしなかったのではないかと思います。






内外にその力を示す

 天武天皇が、このような桁外れに大きい京を計画したのは、内には天皇の圧倒的な権威を示し、外には日本の国力を知らしめる、といったことなのでしょう。 確かにこの時代、こうした事が可能なほどに、天皇に権力が集中したのでしょう。

 しかし、膨大な財とエネルギーを費して建設した藤原京ですが、結局のところ⒑数年間、都が置かれただけで710年には、平城京に引っ越してしまいます。




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藤原京の想像再現図。  藤原京は宮が中央に作られている。




ちょっとした間違い?

 藤原京は、平城京や平安京と同じく唐の都、長安を模して建設されているのは、言うまでもありません。 京全体は長方形で、京内の町は東西南北に碁盤の目状になっています。 そして天皇の住む宮は一番北の端に作られます。 古来より中国では 「天子南面ス」 といって、人々は北の方を向いて皇帝を拝礼するしきたりになっているからです。

 しかしこの藤原京では、宮が京の中央に作られています。 これでは人々が天皇を取り囲むようになってしまいます。 そうしたことが、完成してすぐに平城京に遷都した最大の理由かどうかは、わかりませんが、ちょっとした情報不足の可能性はあるのでしょう。


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畝傍山に雲間から光が。 なんだか神様が降りてきそう。

飛鳥宮



電動自転車で飛鳥をめぐる

 纏向駅でJR線に乗車し、桜井駅で下車。 そこからタクシーで近鉄線飛鳥駅へ。 飛鳥は電車やバスの便はよくないので、飛鳥駅で自転車を借ることにしました。 電動自転車に乗るのは初めてで、それほど普通の自転車と変わりありませんが、乗り出しの時に、急に加速する感じになるので、気を付けなければなりません。 そう言えば、新聞に最近の電動アシスト自転車は ”アシストし過ぎ” と書いてありました。


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高松塚古墳

 まず、飛鳥駅に一番近い高松塚古墳に寄りました。 場所がよくわからなかったので、一度通り過ぎてしまいましたが、そんな時も電動自転車だと残念さも薄らぎます。 普通の自転車だったら、あきらめてそのまま次の目的地へ行ってしまったかも知れません。

 また、車だと目的地の比較的手前で駐車しないといけないのですが、自転車だとほとんど目的地のそばまで乗って行けます。 確かに飛鳥は自転車が便利に出来ています。


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 高松塚古墳は、これまで見た崇神天皇陵などに比べると、かなり小さいものですが、きれいに整備されています。 この古墳は壁画が有名なのですが、それは見ずに次の場所へ移動しました。




天武、持統天皇陵

 次は天武、持統天皇陵です。 この両天皇は夫婦で、当時、天皇夫妻が同じ墓に入るのは珍しかったそうですが、天皇陵といっても古墳時代ではないので比較的小さな円墳です。



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 この両天皇の時代は、壬申の乱などを経て、天皇の力が最も大きくなった時代で、 万葉歌人、柿本人麻呂が、 「大君は 神にしませば 天雲の 雷の上に いほりせるかも」 と歌ったように、”神である天皇” の概念が生まれ、そして我が国が ”倭国” から”日本” に変わった時代と言われています。

 ”天皇を国家元首とした日本国” は今日まで続いているわけですが、その礎を築いたのが、この両天皇の時代と言われています。 すごい天皇夫妻の墓にしては、ちょっと地味ですが、そこがいいところなのでしょう。






飛鳥板蓋宮

 そこから1~2キロ(たぶん)くらい、細い道を入ったりしながら、今回の旅行の2番目の目的地、飛鳥板蓋宮跡に着きました。 案内などはあるので、比較的迷わず行けました。 



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3代の天皇によって宮が置かれたところだが、相変わらず私たち以外に訪れる人はいない



3代の天皇が宮を置いた

 写真や動画で見ていた通りと言った感じですが、やはり私たち以外に観光客らしい人は見当たりません。 一般にここは ”飛鳥板葺宮” となっていますが、同じ場所に何度も王宮が建てられ、その都度名前も変えられたようです。 最初にこの地に宮を置いたのは629年、舒明天皇で 「岡本宮」 。 次は643年、皇極天皇で 「飛鳥板蓋宮」。 3度目は673年、天武天皇で 「飛鳥浄御原宮」。

 最初の岡本宮は火事で焼けてしまったので、次の板蓋宮は、場所は同じでも建物は全く別のようです。 3度目の浄御原宮は、まえあの板蓋宮の建物が残っていたので、それに別の建物を増築したようです。



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井戸の跡のようなものが残っている



こだわりのあった地

 今現在は敷石のようなものと、井戸の跡と思われるものが残っています。 この宮跡の周囲の3方は小高い山となっていて、北側だけに平地が拡がっています。 藤原宮などと比べると圧倒的に狭いところなのですが、この時代の天皇たちには、この地への強いこだわりがあったのでしょう。


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周囲三方は小高い山となっている
纏向遺跡



奈良市から桜井線に乗り

 一昨日まで(25~27日)奈良の、”古代王宮めぐり” に行っていました。 卑弥呼の都と言われている纏向遺跡などを見に行った訳です。 JR奈良駅から桜井線に乗りました。 電車から東の方の山を見ると、雲、あるいは霧がかかっていて、ちょっと神秘的です。 この山々は、神山と言われる三輪山につながっています。



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電車の窓から見た奈良の山々は神秘的



電車って信号待ちするの?

 この電車は、時々駅でないところで止まり、「ただいま信号で停車しております」 のアナウンス、。 電車って、信号待ちするんだっけ?  どうやら、このJR桜井線は単線のようだ。 



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JR桜井線 柳本駅 




私ら、普通に住んどる


 天理駅の少し先の柳本という駅で下車。 駅を降りて案内版などを見ていると、犬を連れた年配の女性が声をかけてくれました。 「あんたら、どこにいかはるの?   ・・・・・・・・・あ、そう。 ここらへんでは、なんだか、しょっちゅう掘っては埋め、掘っては埋めやっとるね、 私らにとっちゃ、普通に住んどるとこやけどね。 あんたらどこから来なはった?   ・・・・・・へえ~ そう、 水戸って何県?  ・・・イバラキケン?    ・・・・・・・・黒塚古墳なら、その道まっすぐ行けばええで、結構来る人いはるし。  ・・・・・え、 そこじゃあらへん?」



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柳本駅で声をかけてくれたおばさん。勝手にアップしちゃいました



3世紀の前方後円墳らしいが

 とりあえずの目的地は「崇神天皇陵」と「景行天皇陵」。 途中で先ほどのおばさんが言っていた黒塚古墳があった、この古墳はここに来るまでノー・マークだったが、きれいに整備されていて公園のようになっています。

 天皇陵ではないので、発掘研究もされ、またきれいに整備されていて、訪れるにはよい所と思います。  後で調べてみると、どうやら3世紀末の前方後円墳らしく、、ヒミコの墓と言われている箸墓古墳と比較的近い時期のもののようです。



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黒塚古墳 長径が130メートルくらいの前方後円墳。 卑弥呼の時代の前後らしいが、被葬者は不明。
 



実在の可能性のある天皇の古墳


 黒塚古墳は写真を撮っただけで去り、さらに歩いて、崇神天皇陵に着きました。 駅から約1キロ強といった感じです。 崇神天皇といえば、実在したであろうとされる天皇の中では最も早い時期の天皇で、その陵墓かもしれないということで、かなり大きな古墳です。 墳丘の長径は242メートル。



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崇神天皇陵



 何といっても天皇陵なので、発掘などはもちろん、立ち入りも禁止なので、自然な状態となっています。 もちろん作られた時と同じ状態ではありませんが、自然な形で残されている貴重なものでしょう。 考古学ファンなどにはたいへん有名な古墳だとは思いますが、訪れる人はほとんどいません。 

   


ヤマトタケルノミコトの父

 景行天皇陵は、その崇神天皇陵から少し歩いたところ(だいたい500メートルくらい)にあり、似たような感じといえば、似たような感じで、崇神天皇陵より少し大きいようです。 因みに景行天皇は崇神天皇よりも2代後で、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の父とされている天皇です。


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景行天皇陵 





三輪山と三輪そうめん、どっちが有名?


 そこからさらに歩いて纏向遺跡の方に向かいました。 途中、三輪そうめんの看板がありました。 一般には三輪山よりも三輪そうめんのほうが有名かな、おそらく本社はこの辺にあるのでしょう。


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 喫茶店があったので、一休み。 午前10時前後でしたが、モーニング・セットにホット・ケーキが付いていて、朝食か、昼食かわからない食事をしました。


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細い路地を通って

 さらに歩いて、三輪駅の脇に出ました。 そこから地図や、案内板を頼りに細い路地をいくつか曲がりました。 途中牛乳を配っている人や、中学生などを見かけました。 本当にただの細い生活道路といったところです。 




予想通り(?)のただの草地

 案内通りに道路のような、そうでないようなところを進むと、やや広めの草地に出ました。 ごく普通の草地です。 案内板によれば、間違いなくここが纏向遺跡のようです。 何もないことはよくわかっていたのですが、 本当に何もない草地です! 

 その草地の草は、比較的最近刈られたようですが、刈りとった草を見た感じでは、ちょっと前までは草の丈が相当長く、歩くのがたいへんだったようです。 何も予備知識なしにここに来たら、誰もがただの空き地としか思えないでしょう。 付近には住宅が立ち並んでいて、おそらくその下も遺跡ということになるのでしょう。

 

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ここ本当に纏向遺跡? 纏向駅と三輪山方面を見ている



 予想通りと言えば、確かに予想通りなのですが、笑っちゃうほど何もありません、かつて、ここが日本の首都だったなんて。 この草地が今回の旅行の最大の目玉だったわけですが、結局ここには5分か10分くらいしかいられませんでした。 期待していた纏向遺跡越しの三輪山も、家などにさえぎられてあまりよく見えません。


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遺跡からちょっと外れたところから見た三輪山





 纏向駅から桜井行の電車に乗りました。 無人駅で、かなりさっぱりしています。 その駅から乗った人は私たち以外に3人くらいでした。 


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纏向駅 かなりさっぱりしている




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駅のホームから見た遺跡。 正面の高層住宅の手前が先ほどの草地、いや纏向遺跡





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ホームから見た箸墓古墳(卑弥呼の墓という説もある)。 崇神天皇陵や景行天皇陵よりも大きい



卑弥呼の都





唐突ですが

 唐突ですが、今現在私が一番気になっている女性といえば、邪馬台国の女王、卑弥呼。 統一国家としての我が国の初代の王であるかも知れない卑弥呼のことは、 魏志倭人伝には書かれているが、日本の歴史書とも言える日本書紀や古事記には全く書かれていません。 

 つまり日本の初代の王であったかも知れない卑弥呼は、日本国内では全く語り継がれてこなかったということになります。 記紀(古事記、日本書紀の略)で編纂されたのは8世紀初頭ですが、その基になる帝紀などが書かれるようになったのは6世紀頃と思われ、その時点ではすでに卑弥呼の時代の記憶は消え去ってしまったようです。




幻の邪馬台国は何処に? 沖縄、朝鮮半島、フィリピン説まで

  その女王卑弥呼が住んでいたとされる邪馬台国も、その所在が特定されず、九州か、近畿かと、議論されています。 その両者が古今の邪馬台国論争の有力な説ですが、その他でも、吉備地方(現岡山県付近)、出雲、近江、などの説もあり、さらには沖縄や朝鮮半島、フィリピンまであります。    ・・・・・・・そうなると、もう 「倭国の女王が住む国」 にはならなくなってしまうが。




方角が正しければ九州、 距離が正しければ奈良県

 そうした説が飛びかうのも、魏志倭人伝の地理的な説明に矛盾があるからです。 魏志倭人伝を素直に読むと、邪馬台国は九州のはるか南方の海上にあることになってしまうようです。

 多くの学者は倭人伝の距離、または方角に関する記述が不正確と考える訳ですが、距離がまっと近いと考えれば邪馬台国は九州の中に収まり、方角が間違っていると考えると、ちょうど奈良県あたりに落ち付きます。



最近では奈良県の纏向が有力候補

 そのように、これまで喧々諤々の議論が交わされていたわけですが、最近、奈良県の桜井市の纏向遺跡で、宮殿とも言える大型の建物群が発掘されました。 その建物群の年代は、まだ若干議論もあるようですが、だいたい3世紀頃とされ、卑弥呼の時代と一致することになります。

 そうしたことから、最近では近畿説が圧倒的に有力になりつつあるようです。 もちろんまだ九州説を唱える学者も少なくありませんが、そうした学者でも3世紀の大和地方に非常に強力な王権が誕生していたであろうということは否定してはいないようです。




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卑弥呼の都だったかもしれない纏向遺跡の想像復元図  三輪山から見た景観となっている




 九州説を唱える学者は魏志倭人伝や日本書紀、古事記などの文献が研究対象とする、つまり ”歴史学者” が多く、 また近畿説をとる学者は発掘など、物的証拠を根拠にする ”考古学者” が多いようです。




卑弥呼も見ていたかも知れない風景を見に

 そうしたわけで、今度その纏向遺跡をメインに、6~7世紀に日本の首都が置かれた飛鳥地方などに旅行しようと思っています。 しかし遺跡といっても、今現在は埋め戻されてあり、吉野ケ里のように建物などが復元されている訳ではありません。

 つまり行っても畑とか家など、どこにでもある普通の現在の風景となっているようです。 要するに ”何もない” ところかも知れません。 少なくとも観光スポットではないようです。

 当時のままと思われるのはその纏向の東にある三輪山でしょうか、この三輪山は昔から神山とされ、おそらくここに卑弥呼の宮殿が建てられたのも、この三輪山に関係があるものと思われます。

 また纏向遺跡のすぐ近くには”卑弥呼の墓”ともされる箸墓古墳があり、 さらに北東のほうには崇神天皇陵や景行天皇陵とされる古墳もあります。

 とりあえず、卑弥呼の宮殿があったとされる付近に立って、三輪山でも眺めてみようかと思います。 おそらく1800年前に卑弥呼が眺めたと思われる景色を。




卑弥呼ってどんな女性?

 それにしても卑弥呼ってどんな女性だったのでしょう。 たぶん若くして、おそらく10代で邪馬台国の女王となり、魏志倭人伝にもあるように高齢(おそらく50~70代)で亡くなったのでしょう。

 ネットで検索してみるといろいろな”卑弥呼”が出てきますね、 仏様のような卑弥呼から、いかにも神々しい姿、さらにはコミックの主人公のようなかわいい卑弥呼、中には若干肌の露出の多いセクシーな卑弥呼まで・・・・・・


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3世紀頃の高貴な女性の服装らしい。 卑弥呼はこのようなものを着ていたのかな?  意外と豪華! 



生存中から卑弥呼を見た人は、ほとんどいなかった

 しかしどんなに考古学などの研究が進んだとしても、卑弥呼がどんな容姿で、どんな性格だったかなどということは、わかることはないでしょう。 第一、卑弥呼の生存中から卑弥呼は特定の人以外には合わなかったとされていますから、当時から卑弥呼の姿を見た人は非常に限られていたようです。



ギターには全然関係ないけど

 となれば、これはもう、想像力を働かせるしかないでしょう。 誰もわからない分だけ、誰でもが勝手に想像し、自分の”卑弥呼像”を持つことも出来る訳です。

 そこで、次回からは私が勝手に妄想する、私の ”ヒミコ・ストーリー” を書いてゆきたいと思います。    ・・・・・ギターに全く関係ないけど。