前回の続きですが、ヴァイオリン・ソナタの「グラーヴェ」で、最後の部分を完全な形に書き換えると、2段目のようになるかと思います。和声進行が「メヌエット」と同じになっているのがわかると思います。 Ⅳ-Ⅴ/Ⅴ(属和音の属和音)-Ⅴ の形になっていて、最後のところのバス、すなわち和声は5度進行になっています。

このほうがなめらか
このようなケースでは、私たちがよく聴くケース、つまり古典派やロマン派の音楽では3段目のようになることが多いと思います。特にアグアードの曲などではこのような形が多いでしょう。聴いた感じではこのほうがずっとなめらかで、耳に馴染みやすいのではと思います。もちろん2段目のほうでも特におかしくはありませんが、なんとなくゴツゴツした感じがします。
3段目の場合、中央の和音(ファ、ラ、レ#)は「イタリアの6」と呼ばれ、よく使われる和音です(ポピュラー音楽では『裏コード』などと呼ばれる)。この場合、ソプラノ(上声部)もバス(低声部)も半音ずつ動くので、とても滑らかな感じがします。おそらくこの和音はバロック時代でも使われていたと思いますので、このような形にも出来たはずです。
どうやら、バッハの音楽においては、音楽が流麗に進む、あるいは自然に聴こえるということは最優先事項ではないようです。私たちは和声法と言うと、音楽が自然に、違和感なく聴こえるようにするための規則、つまり車が安全に、かつ円滑に運転できるようにするための道路交通法のようなものと考えていますが、バッハの場合はそうした方法的な問題より前に、音楽が成り立つための根本的な原理、あるいは理念といったものがあるように感じます。
バッハとニュートン
無理な”こじつけ”とは思いますが、バッハが生まれたのは1685年。その1年後の1686年にはニュートンが、万有引力などを説いた「プリンキピア」を出版します。この本の中でニュートンは、私たちの身近な日常的に起こっていることも(リンゴが木から落ちる話が書いてあるかどうかはわかりませんが)、神の領域とされていた遠い遠い天空の星々の運行なども、宇宙の中のすべての現象は、同一の物理法則に基づいていることを述べています。
この「プリンキピア」と言う書は極めて難解な書らしく、専門家でもなかなか解読できないといったもののようで、バッハがこの本を読んだ可能性は少ないと思いますが、それでも私にはこの両者には何か共通したものを感じます。
森羅万象は一つの根本原理から
バッハの作曲においては、一見多様に見える音楽も、それらは一つの根本原理から成り立つ。言い換えれば、様々な音楽は、一つの根本原理から演繹されなければならない、と考えていたのかも知れません。
余談ですが、その後はニュートンの諸法則は近似的にしか成り立たないということで、相対論や量子論などがさらに生まれました。現在、物理学においては、万有引力、電磁力、強い力、弱い力の4つの力があるとされていますが、現在の物理学者はこの4つに分かれた力を、統一した理論で表記すべく「大統一論」に取り組んでいるされています。物理学においては、今も昔も、宇宙のすべての現象を説明できる「一つの根本理念」というのが究極の目標のようです。
確かにこじつけですが
物理学においては、質量のあるもの同士には必ず引力が働く。バッハにおいては、音には必ず5度の引力が働き、音楽とはその「5度」の力学関係により成り立つものと考えていたのでしょうか。よくバッハとキリスト教の関係を説く本などはありますが、バッハと物理学、あるいはニュートンと比較した話は私もあまり聴いたことがありません。確かに無理やりのこじつけではありますが、こんな比較もたまにはよろしいのでは。
光り輝く純白
話がまたあらぬ方向に行ってしまいましたが、最初に戻して、このメヌエットの「シ・ナチュラル」は聴いた感じちょっと変だが、紛れもない”白”、それも”光り輝く純白”。バッハの音楽の本質が透けて見える白といったところでしょうか。
音の間違い(と思われるものも含めて)もいろいろありますが、中には別にどっちでもたいした違いのないものもあります(どちらかと言えば、そのほうが実際には多いかも)。しかし中には、一つの音の変化記号により、その音楽のあり方や、その作曲家の音楽観をも決定してしまうものもあるのかも知れません。

このほうがなめらか
このようなケースでは、私たちがよく聴くケース、つまり古典派やロマン派の音楽では3段目のようになることが多いと思います。特にアグアードの曲などではこのような形が多いでしょう。聴いた感じではこのほうがずっとなめらかで、耳に馴染みやすいのではと思います。もちろん2段目のほうでも特におかしくはありませんが、なんとなくゴツゴツした感じがします。
3段目の場合、中央の和音(ファ、ラ、レ#)は「イタリアの6」と呼ばれ、よく使われる和音です(ポピュラー音楽では『裏コード』などと呼ばれる)。この場合、ソプラノ(上声部)もバス(低声部)も半音ずつ動くので、とても滑らかな感じがします。おそらくこの和音はバロック時代でも使われていたと思いますので、このような形にも出来たはずです。
どうやら、バッハの音楽においては、音楽が流麗に進む、あるいは自然に聴こえるということは最優先事項ではないようです。私たちは和声法と言うと、音楽が自然に、違和感なく聴こえるようにするための規則、つまり車が安全に、かつ円滑に運転できるようにするための道路交通法のようなものと考えていますが、バッハの場合はそうした方法的な問題より前に、音楽が成り立つための根本的な原理、あるいは理念といったものがあるように感じます。
バッハとニュートン
無理な”こじつけ”とは思いますが、バッハが生まれたのは1685年。その1年後の1686年にはニュートンが、万有引力などを説いた「プリンキピア」を出版します。この本の中でニュートンは、私たちの身近な日常的に起こっていることも(リンゴが木から落ちる話が書いてあるかどうかはわかりませんが)、神の領域とされていた遠い遠い天空の星々の運行なども、宇宙の中のすべての現象は、同一の物理法則に基づいていることを述べています。
この「プリンキピア」と言う書は極めて難解な書らしく、専門家でもなかなか解読できないといったもののようで、バッハがこの本を読んだ可能性は少ないと思いますが、それでも私にはこの両者には何か共通したものを感じます。
森羅万象は一つの根本原理から
バッハの作曲においては、一見多様に見える音楽も、それらは一つの根本原理から成り立つ。言い換えれば、様々な音楽は、一つの根本原理から演繹されなければならない、と考えていたのかも知れません。
余談ですが、その後はニュートンの諸法則は近似的にしか成り立たないということで、相対論や量子論などがさらに生まれました。現在、物理学においては、万有引力、電磁力、強い力、弱い力の4つの力があるとされていますが、現在の物理学者はこの4つに分かれた力を、統一した理論で表記すべく「大統一論」に取り組んでいるされています。物理学においては、今も昔も、宇宙のすべての現象を説明できる「一つの根本理念」というのが究極の目標のようです。
確かにこじつけですが
物理学においては、質量のあるもの同士には必ず引力が働く。バッハにおいては、音には必ず5度の引力が働き、音楽とはその「5度」の力学関係により成り立つものと考えていたのでしょうか。よくバッハとキリスト教の関係を説く本などはありますが、バッハと物理学、あるいはニュートンと比較した話は私もあまり聴いたことがありません。確かに無理やりのこじつけではありますが、こんな比較もたまにはよろしいのでは。
光り輝く純白
話がまたあらぬ方向に行ってしまいましたが、最初に戻して、このメヌエットの「シ・ナチュラル」は聴いた感じちょっと変だが、紛れもない”白”、それも”光り輝く純白”。バッハの音楽の本質が透けて見える白といったところでしょうか。
音の間違い(と思われるものも含めて)もいろいろありますが、中には別にどっちでもたいした違いのないものもあります(どちらかと言えば、そのほうが実際には多いかも)。しかし中には、一つの音の変化記号により、その音楽のあり方や、その作曲家の音楽観をも決定してしまうものもあるのかも知れません。
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