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中村俊三 ブログ

中村ギター教室内のレッスン内容や、イベント、また、音楽の雑学などを書いていきます。

またまたシャコンヌ 11 最終回



4小節、8小節、12小節のまとまりを使い分けている

 前回の記事では、バッハのシャコンヌは、一見8小節のテーマと30の変奏(最後にテーマの繰り返し)と言った形になっていますが、実際には8小節の変奏とはなっていないということを書きました。

特にニ短調の第1部からニ長調の第2部に移るところでは、8小節を一つの変奏と考えた場合、変奏の真ん中で転調することになってしまい、あり得ないことになります。

 もちろんそうしたことはバッハが意図的に行ったものと思えます。 こうしたことが起こるのは、確かに多くの場合、この曲は8小節ひとまとまりの形、つまり8小節で一つの変奏となるように作曲されていますが、時々4小節の接読部分のようなものが現れるからです。


他に誰が?

 一般に、音楽の最少の単位は8小節とされ、8小節だと落ち着くが、その半分の4小節だとあまり落ち着いた感じにならないという訳です。 バッハはこの落ち着かない4小節を有効に用いて、よりいっそう音楽に動きを生じさせています。

 さらに後半のほうでは12小節が一つのまとまりとなるような部分も出てきます。バッハは4小節、8小節、12小節と、まとまりを使い分け、それらを有効に用いてこのシャコンヌを作曲したとも言えるでしょう。

 でもこんなこと他に考える人がいるでしょうかね? 普通、変奏曲だったら、各変奏の小節数は同じにするでしょうね。たまたま何かの都合で、長くなったり、短くなったりすることはあるでしょうが、このように4小節と8小節の性格の違いを考慮した上で、使い分けるなんて、こんなことバッハくらいしか考えないでしょうね。

 やはりヨハン・セバスティアン・バッハ、恐るべし・・・・・・ ということでしょう。

 


縦がだめなら横?

 シャコンヌがゴールドベルク変奏曲のように一つ一つの変奏が完結するように作曲しなかった理由としては、やはりこの曲が無伴奏のヴァイオリンのために書かれたということでしょう。

 確かにバッハは1台のヴァイオリンで複旋律の音楽が演奏出来るように作曲しましたが、でもやはり鍵盤楽器やオーケストラのようにはゆきません。 ヴァイオリン1台ではさすがに ”縦方向” には音楽を構成でないということでしょう。

 縦に音楽を作れないら、横方向に音楽を作る! といった考えが、このシャコンヌにはあるように思えます。

 そんな苦労するくらいなら、最初から鍵盤とか複数の楽器の為にシャコンヌを作曲すればいいんじゃないかと普通は考える訳ですが、この不自由なところ、矛盾したところがバッハの好みであり、バッハがバッハである所以なのでしょう。

 前にも書きましたが、バッハと言う人は困難があればあるほど、制約があればあるほどファイトが湧くタイプなのかも知れませんね。



ありがとうございました

 さて、”書き始めた流れで” ということでまたまたシャコンヌの話を書きましたが、とりあえずここまでにしておきましょう。 

 今回は以前書いたことの焼き直し的なものになってしまいましたが、いずれにしても私自身の無知と偏見による内容で、決して正しくシャコンヌを語っているものではありません。

 仮にその内容がそれほど見当違いでないとしても、バッハの音楽のごく一部分と言えるでしょう。

 私がこれまで書いたことの多くは解説書に書いてあることとか、あるいは権威ある音楽学者の講義で聴いたものではありません。

 ただ、私なりにバッハが残した譜面を、じっくり読んで、そこから得たものです。 古典の演奏はやはり楽譜を読むこと、それに尽きるのではと思います。

 それでは、長々とお付き合いくださった方々、本当にありがとうございました。
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またまたシャコンヌ 10



水戸ギターアンサンブル演奏会 ~10月31日(日曜日)ひたちなか市文化会館小ホール予定   開催中止



 今年の演奏会などイヴェントのほとんどが中止となる中、10月予定の水戸ギターアンサンブル演奏会もどうしようかと考えていましたが、中止とすることにしました。

 今現在は市民センターでの練習も出来ない状態ではなくなっているので、全く開催不可能といった状況ではありませんが、しかしやはり今から練習に入ったりしても十分な状況とも言えず、その他準備不足は否めないところなので、そのように判断しました。

 特に今回の演奏会は若干難しい曲目ともなっていて、これからまた1年間準備し直して、来年同時期に内容もより充実させて行いたいと思います。

 それに従い、隔年開催の 「ひたちなかGMフェスティヴァル」 も再来年とする予定です。

 その代わりと言っては何ですが、11月前後くらいに5月に行う予定だった教室の発表会を行おうかと思っています。まだ具体的には日にちなど決めていませんが、5月の時の状況よりはかなり良くなっているのではと思います。 

 5月開催だった場合は出演者のみの、いわゆる ”無観客” 発表会として行わざるを得ませんでしたが、11月頃であれば、そうした状況はだいぶゆるやかになっているのではと思います。





変奏曲としてのシャコンヌ



小節数からすると30の変奏があるように思えるが

 前回は一般的に変奏曲というものはどんなものかということについて書きました。 今回はバッハのシャコンヌはどんな変奏曲かということについて書きましょう。

 バッハのシャコンヌはあまり変奏曲らしくない変奏曲だということを前に書きました。 まずテーマの長さが4小節なのか8小節なのかはっきりせず、したがって変奏がいくつあるのかはっきりしません。

 小節数が256小節あると言ったことも以前書きましたが、数字的には8小節のテーマが最初と最後に置かれ、その間に30の変奏があると考えると、ちょうどその数字になります。

 バッハのゴールドベルク変奏曲も最初と最後にテーマが置かれ、その間に30の変奏があり、それに準じれば、シャコンヌもそう考えるのが普通に思われます。 

 因みに、ゴールドベルク変奏曲のテーマは32小節あり、シャコンヌの4倍の長さがあります。さらに各変奏とも繰り返し記号が付いてますから、それを忠実に行った場合、恐ろしい長さになりますね。 
 



最初の部分では8小節のテーマとその変奏と言ったようになっているが

 確かにシャコンヌも冒頭の部分では、テーマも4小節+4小節の8小節と見られ、次の9~16小節はそのテーマの音型に沿ったもので、一つのまとまりが感じられます。いかにもテーマを変奏したものだなとわかる感じになっています。

 次の17~24小節も前の8小節の声部を入れ替えたものになっており、このあたりまではテーマとのかかわりがはっきりわかるようになっています。

 その先の25小節以降は音型が変わり、テーマの音型とは関係なく和声進行、あるいはバスの進行を基にした変奏、つまりシャコンヌらしい変奏となります。

 この後しばらくは8小節ごとにまとまりがあって、通常の変奏曲的で、第1変奏、第2変奏、など、番号付ければ付けられるようになっています。

 しかし、このシャコンヌには。元々変奏の番号のようなものはついていませんね、 もちろんゴールドベルク変奏曲にはちゃんと(?)30まで変奏の番号がバッハによって付けられています。




CCI_000010シャコンヌ変奏
バッハのシャコンヌの冒頭の部分。 ここを見るだけだと8小節のテーマとそれに8小節の変奏が続くように見える。




なぜ 「第10変奏」 とか「第23変奏」 とかって言わない?

 かつて、なんでシャコンヌには変奏の番号が付いていないのかな、暗譜したりする時わかりにくいと思って、自分で変奏の番号を付けてみました。

 しかし途中で混乱してしまい、いつの間にか変なところに変奏の切れ目が出来てしまいます。 どこかで切れ目を間違えたかなと、もう一度最初からやり直してみても同じでした。

 特に、アルペジオの部分が終わって一区切りし、ニ長調に転調するところで、その転調するところが変奏の真ん中に来てしまいます。

 短調から長調に変わるところは誰が見ても(聴いても)はっきりとした区切りとなっています。 演奏の際にも、多くのヴァイオリニストやギタリストはここをフェルマータで区切って演奏しています。

 そうした箇所が変奏の真ん中などあり得ないことです。 と言った訳で、番号付けるには結局変奏に番号を付けるのはやめました。 確かにこのシャコンヌの場合、「第何変奏」 などと言われることもなく、また解説書などにも番号は書いてありません。




ここまでは確かに8小節単位になっている

 この短調から長調に転調する箇所の前には、例の長いアルペジオの部分があります。

 この部分はこの曲の大きな山場と言っていいでしょう。 演奏の際にもこの部分が上手く弾けるかどうかということが演奏の出来に大きく関わってきます。

 このアルペジオ部分は8×4で、8小節まとまりとなっていて、そこまでは各変奏(そういったものがあれば)とも8小小節単位となっています。 



4小節の接読部分がある

 そのアルペジオの後に最初の8小節のテーマが再現されますが、そのアルペジオとテーマの間に4小節の接続部分があります。

 つまりこの4小節があるために8で割り切れない箇所で転調することになるのです。 この4小節がないか、あるいは接続部を8小節にすればちゃんと割り切れるところで転調することになります。





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アルペジオとテーマの再現の間におかれた4小節の接読部分。 これがあるために第2部は8で割り切れないところから始まってしまう。



なぜ8小節にしなかった?

 ではなぜ、バッハはこの接読部を4小節にしたのか、まずやはりこの接読部なしでテーマに戻ると、その勢いが減じてしまうとうことなのでしょう。

 それはよく理解できるが、ではなぜ8小節ではいけないのだろうか? これは私の勝手な想像ですが、8小節にすると、多少速いパッセージでも (この接続部は主に32分音符で出来ている) 落ち着きが出てしまうと考えたのかも知れません。

 ここを4小節にすることで、この部分が不安定となり、最初のテーマに戻る勢いがさらに増すようにという、意図だったのかも知れません。



動きを与えるため?

 もしそうだとするとこのシャコンヌは、前述の2拍目から始まると件と合わせ、非常に動的に出来ているということになります。 

 各変奏ごとにひと落ち着きするゴールドベルク変奏曲とはかなり違ったタイプの変奏曲ということになりますね。

 もっとも、ゴールドベルクのほうは不眠に悩んでいる王族のために書いたとされているので (本当かどうかわからないが)、当然落ち着いた曲でなければならないのでしょう。

 その点、このシャコンヌはあくまでも動的に作曲されているようです。

  前にも言いましたが、「このシャコンヌは非常に雄大な音楽だから、肩に力を入れて演奏してはいけない」 と言ったことをよく耳にしますが、私自身としてはこの曲はそんなに落ち着いて演奏すべき曲ではないように思います。




ニ長調は何食わぬ顔で始まる

 この結果、第2部の言われるニ長調の中間部は、8小小節を一つの変奏とした場合、中途半端なところから始まる訳ですが、もちろん最後は最初の8小小節のテーマで終わるので、どこかでその”ズレ”を修正する訳です。

 ニ長調の第2部は ”何食わぬ顔で” 何事もなかったように8小節の変奏的に静かに進んでゆきます(本当は4小節ずれているのだが)。 確かにこの第2部に関しては ”雄大な音楽” と言ったことが当てはまるでしょう。




特徴的な音型

 第2部をある程度進むと 「ラ・ラ・ラ」 と 「ラ」 が3回鳴らされる音型が出ていきます。 比較的印象的なので、この曲を聴いたことのある人は思い浮かぶのではと思います。

 その3つの音は次には低音に移り、次には和音の連打へと発展していって、大きな山場となります。 ちょろちょろと湧き出た水が、小さな川から大河になってゆくような感じですね。

 曲全体のシリアスさからすると、ちょっとユーモラスでホンワカした感じのところですが、ここも最後には大きな流れへと発展してゆくわけです。

 この文章流れからするお察しのとおり、とこの 「ラ・ラ・ラ」 の部分の前に、また4小節の接読部が出てくることになります。

 こう考える、なにか重要なものが出てくる前に、4小節の接読部が出てくるようですね。 ここに4小節の接読部が出てくるということは、やはりバッハとしてもこの部分を重要視していたのでしょうね。




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「ラ」が3個鳴らされる音型が始まる。 この3つの音は次第に発展していって、大きな流れを作る。 この音型が始まる個所の前にも4小節の接読部分が置かれている



せっかくズレが解消されたのに

 なにはともあれ、これで ”ズレ” は解消! めでたし、めでたし、 と行きたいところですが、せっかくズレが治っても、バッハまたズレを生じさせてしまいます。
またまたシャコンヌ 9




シャコンヌは一応変奏曲だが

 前回は本題なしになってしまいましたね、今回は早速本題に入りましょう。 バッハのシャコンヌは変奏曲ということになっていますが、一般的な変奏曲とやや違う点もあります。

 まずテーマが4小節なのか8小節なのかはっきりせず、したがってこのシャコンヌはいくつの変奏で出来ているかはっきりしません。

 そのように主題の長さが曖昧とか、変奏の数がはっきりしない変奏曲は、あまり例がないのでないかと思います。 もちろんそれにはバッハのはっきりとした意図があるのでしょう。




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隣の空き地はお花畑状態  (本文には関係ないが)



普通の変奏曲とは

 ところで、一般的に変奏曲というのはどういったものかをちょっと考えておきましょう。 変奏曲という形式はたいへんわかりやすくあえて説明することでもないかも知れませんが、一応やっておきましょう。

 例えば、歌の伴奏をする時、1番と2番でアルペジオの形を変えたりすることもありますよね、 まだ歌であれば歌詞がありますから、1番と2番を同じように伴奏してもいいでしょうけど、楽器で演奏する場合は何回も同じことをやるのは若干抵抗も感じるでしょう。

 従って、楽器で歌などを演奏する時には、歌詞の1番、2番みたいに同じメロディを繰り返す時、何らかの形で伴奏の方法を変えることが普通です。 

 ただアルペジオの弾き方を変えるだけのものから、楽器編成とか和声とかリズムとか大幅に変える場合もあります。





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紅白のバラ



ラリアーネ祭も変奏曲だが

 ギターの有名な曲では、「ラリアーネ祭」 は一応(?)テーマに二つの変奏が付いた変奏曲となっていますが、3つともメロディも和音も全く同じになっています。

 アルペジオとトレモロと言うように右手の弾き方を変えているだけですが、こうしたものも変奏曲と言えるのでしょうね。 

 そのやり方でいけば、 「禁じられた遊び」 もアルペジオの形を変えたり、トレモロ奏法にしたりすれば(ラリアーネ祭と全く同じやり方が出来る)、一応、変奏曲の出来上がりとなるのでしょうか。



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ご存じの「ラリアーネ祭」。 主題、お及び二つの変奏ともメロディも和声も同じ、なおかつ左手もほとんど同じ。 右手の弾き方だけが違う。 これも変奏曲といえば変奏曲。 もちろん目的としては右手のトレーニングのための曲と考えられる。




変奏曲には二つのタイプがある

 こうした例はやや特殊な例かも知れませんが、変奏というのはそれほど特別のことでもなく、日常的に行われている事と言ってもいいでしょう。 

 ただ、完成された一つの作品としての変奏曲ということでであれば、それなりの内容も備わっていなければならないでしょう。 

 一般的に変奏曲の作曲の仕方としては、大ざっぱに2種類あります。 




主題のメロディを変化させてゆく

 その一つはテーマの ”メロディ” を基にし、それを変化させてゆく方法です。 

 19世紀以降の変奏曲はこの形をとる場合が多く、おそらく私たちが持っている変奏曲のイメージもこちらのほうだと思います。

 また、このようなテーマとなる旋律を変化させてゆくタイプの変奏曲は、ヨーロッパの音楽だけでなく他の世界各地の音楽でも普遍的に行われていると思われます。

 日本古謡で有名な 「さくら」 はもともとお琴の練習曲だったそうですが、おそらく当初から、あるいはかなり早い時期から変奏曲として演奏されていたと思われます。

 ギターでも横尾幸弘氏をはじめ多くのギタリストが 「さくら変奏曲」 を作曲していますが、それら多くはこの 「さくら」 の旋律を変化させてゆく方法を取っています。

 因みに、横尾氏の変奏曲の第3変奏は旋律には関係なく、さくらの持つ構造の A - B - B - A - C という形のみを基にしています。




バロック時代では低音、あるいは和声進行をテーマとする場合が多い

 もう一つの方法はテーマの和声進行を用いて、それに合わせて旋律やパッセージを添えてゆくと言った方法です。 バロック時代の変奏曲はほとんどこの形を取っています。

 バロック時代の変奏曲は和声進行というより低音の旋律をテーマとしますが、バッハの曲、特にこのシャコンヌでは具体的に書かれている低音はかなり変化しているので、その背景にある和声進行の方を主題としていると言っていいでしょう。

 ジャズのアドリブもまさにこの方法とっていて、原曲のコード進行に合わせてソロ・プレーヤーや自由に演奏しますが、もちろんコード進行に合わせなければならないので、自由と言っても当然ながら制限もあります。 

 この和声進行を基にすると言ったものは、まさにヨーロッパの音楽独自のものと考えられます。  和声の概念そのものもヨーロッパの音楽固有のものとも言えるかも知れません。

 バロック時代においては、変奏曲の主題は低音部、つまりバス声部となることが一般的ですが、ルネサンス時代においては主題にあたる定旋律はテノール声部におかれることが通常だったようです。

 

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16世紀のスペインのビウエラ奏者、ナルバエスの「牛を見張れによるディファレンシャス」 ディファレンシャスは変奏曲といった意味だが、テーマは上声部ではなく、赤丸の低音部の ド ー ソ - ラ ー ミ の4つの音。 時代的にはバラック時代というより、ルネサンス時代末期といえるが、演奏上の問題で、定旋律が低音部に置かれていると考えられる




実際にはこれらの両方を用いる場合が多い

 19世紀以降の変奏曲でも、実際にはその両方の方法を用いていることが多く、その例として、 ギターの変奏曲で最も有名なソルの 「魔笛の主題による変奏曲」 を例にとってみます(よくご存じの曲だと思いますので譜例は省略します)。


 第1、第2、第5変奏は主題の旋律を変化させたものですが、第3変奏はテーマの旋律を思わせるところはほとんどなく、主題の和声進行のみを用いている形です。

 因に、主題となっている旋律は魔笛の中でモノスタートスたちが歌う 「なんと素晴らしい鐘の音」 という短い歌ですが、ソルはその旋律をそのまま使わず、自分流に変更してテーマとしています。

 和音で出来ている第4変奏はどちらかと言えば和声的ですが、音程の上下は主題に若干関連していて、中間型といえるでしょうか。



変奏の数
 
 このソルの「魔笛の主題による変奏曲」 は5つの変奏 (それに序奏、テーマ、コーダがある) で出来ていますが、一般的に変奏の数というのは5~6個くらいが最も多いのではないかと思います。

 ヨーロッパでは ”6” という数字は区切りのよい数字とされているので、「6つの変奏」などが最も多いのではと思います。

 主題が短ければそれだけ変奏の数は多くなり、パガニーニのカプリース第24番などは14個、タレガのグランホタは楽譜によって違いますが、だいたい20~30くらいでしょうか。

 変奏の数が多くなれば、それだけ主題を聴かせるというより変奏の方にウェイトがかかり、多くは技巧的な曲になるようです。 確かに上記の2曲とも演奏者の技量を発揮させる曲となっていますね。




変奏の並べ方

 変奏の並べ方にもある程度傾向があります。 テーマに続く第1変奏は、普通テーマからあまり離れないものが多く、いきなり何の曲かわからなくなるような変奏は少ないようです。
 
 主題の旋律から遠い変奏、あるいは短調から長調に変わると言った変奏は主に中間に置くことが多いようです。 6つ位変奏がある場合、変奏の一つは長調、短調を入れ替えることが多くあります。

 最後の変奏はコーダを兼ねることが多く、テンポを速くして華麗な変奏とすることが一般的です。 変奏曲の多くは演奏者の技量を発揮させるものが多く、このような終わり方となります。

 またテーマ自体を重く見る場合、最後にテーマをもう一度演奏して終わるということもしばしばあります。 バッハのゴールドベルク変奏曲はそのような形で、シャコンヌのも若干変えられていますが、最後にテーマが現れます(中間部でも出てくるが)。



自由なところもあるが

 変奏曲は、その作品や作曲家によっては変奏の順番は常に確定している訳ではなく、変奏の順番を入れ替えて演奏することもできる曲もあります。

 タレガは自らのリサイタルで 「グランホタ」 を必ず演奏し、場合によってはリサイタルの前半、後半にそれぞれ一回ずつ演奏していたこともあったようです。

 毎回演奏していたといっても、その内容は日によってことなり、変奏の数も、順番も変えて演奏していたようです。 1回のリサイタルで2度グランホタを弾いたと言っても、おそらく別の変奏、あるいは別の組み合わせで演奏していたのでしょう。

  因に曲目のほうも、「スペイン幻想曲」 とか「スペインの調べ」 など日によって異なり、この 「グランホタ」 という曲名は出版の際の曲名で、実際にはタレガはこの曲名ではあまり演奏していなかったようです。

 現在、タレガの残したグランホタの譜面が数種類あるようですが、当然のことながらそれらは皆異なっています。 おそらくタレガのグランホタには完成された形、あるいは決定版とでも言えるようなものは存在しなかったのでしょう。

 このように変奏曲にはフレキシブルな面もありますが、かつてソルの 「魔笛の主題による変奏曲」 を変奏の順番を入れ替えて演奏していたギタリストがいました。

 しかしこれは作品の性質上、あるいはソルと言う作曲家の性格上あり得ないことかなと思います。 多くの場合、変奏の順番を変えると、作曲者の意図に反することになるでしょう。
またまたシャコンヌ 8




自分の時間はもう、お腹いっぱい

 特に教室を休みにしている訳ではありませんが、3月頃から実質的に来る人が少なくなり、また週に一度行っていた藝文センターもしばらく休止となり、さらにコンサートなどはほぼ中止になり、水戸ギタ―・アンサンブルの練習も休止中、と言った訳で、もともとそんなに忙しい仕事をしていなかった私ですが、さらに時間が出来るようになりました。

 数年前くらいはレッスンが比較的 (比較的ですが) 詰まっていて、「もっとゆっくり練習したいな」 などと思ったりすることもありましたが、さすがに今は自分の時間も結構たくさんあり、 「自分の時間は十分。 もうお腹いっぱい」 という感じですね。




教材の手直しや録音をしている

 そこでとりあえず教材の手入れと録音などをやっていたのですが、私の場合、教室で使う教材はほぼすべて自分で作っています。

 自分で教材を作るギター教室の先生は特に珍しくはないと思いますが、私のようにほぼ100パーセントというのはあまりいないんじゃないかと思います。



教材はすべて手作りで、多岐にわたっている

 私の教材は入門から上級までも基本の教材(練習曲などを主とした)から、各レヴェルに応じた曲集、これはクラシックからポピュラー、Jポップに至るまで多岐にわたります。

 さらには、アコースティック・ギター・コースのための教材、子供用の教材などなど。

 クリヤーファイルに入れて生徒さんに渡している関係で、一つの教材は40ページなのですが、これが数10種類あります。



時々修理をしている

 特に1990年代後半、パソコン・ソフトを使うようになってから教材がどんどん増えだしたのですが、これらは使っているうちにどうしても不備な点が出てくるので、何度かか作り直しをしています。

 今現在は基本てきな所ではほぼ固まっているので、あまり大掛かりな変更はないのですが、かつては全体のシステム自体を大きく変更するなどといったこともありました。これは複数年かかり、本当にたいへんでしたね。




運指や音符を見やすく直している

 最近やっていること言えば、かつての教材は使用していたソフトの関係で運指などが見にくくなっているので、それらをあたらしいソフトに入れ直して、運指などを見やすく直しています。

 ちょっと前(といっても10年以上)までは私も、また生徒さんたちも若かったので、少々運指が小さくてもあまり問題にはならなかったのですが、今現在それらの譜面を見ると、私自身でも 「運指小さいくて読めない!」 と言った感じです。



なんでこんなに小さい!

 CDジャケットもそうですが、音楽ソフトなど作る人は若い人なんでしょうね、60歳以上の人が作ったら。絶対こんな小さな字にはならない!

 教材があまりたくさんあり過ぎて、なかなかその手入れが行き届かず、特に運指の間違いは多く (ほとんどギターを弾かないで運指を付けるので) その通りに弾いたりするととんでもない指使いになってしまいます。




よく運指を間違えるが

 もちろん賢明な生徒さんはそっと正しい運指にして弾きます。 そうすると私のほうでは運指の付け間違いに全く気が付かないわけです。

 でもたまにその間違った運指を”忠実に”まもる人がいて、 「その運指、弾きにくくないですか、書いていある運指よく見て下さい」 なんて言ったら、その生徒さんは私が書いた運指通りに弾いていた、なんてことよくあります。

 特に2と3、あるいは1と4などでよく間違えます。 1と4が逆だったら本当にとんでもない指使いになっちゃいますね。




楽譜に間違いがあるなどあり得ないと思う人もいる


 でもこのようにあり得ないような運指でも忠実に守る人は、私が 「すみません、ここ運指間違っています」 といっても、そのことを理解するのに時間のかかる人もいます。

 楽譜に間違いがあるということがピンとこないのかもあり得ません、楽譜の書かれていることは絶対的に正しいと半ば無意識に思い込んでいるのでしょうね。 新聞に書いてあることは絶対に正しいと思うみたいに。




上手になる人は判断を間違えない

 もっとも逆に私の運指を全く無視する人もいて、確かに時にはあまり常識的ではない運指を付けることもありますが、いろいろ意味があってのこともあります。 変だと思っても一応やってみて下さい。 

 でも不思議ですよね、ギターが上手くなる人は私が間違って付けた運指、あるいは間違って言ったことは実行しないで、私が苦心した運指、あるいは自身を持って言ったことはちゃんと実行する。

 非常に的確に選択するのわけです。そんな人は誰に習っても上達しますよね。 発信する側より受信する方のキャパシティが高くないと情報は伝わらないということかな。




クラシック名曲
ギターで弾くクラシック名曲   セレナーデ(ハイドン)、 ボレロ(ラヴェル)、 青く美しきドナウ(シュトラウス)、 亜麻色の髪の乙女(ドビュッシー)、主よ、人の望みの喜びよ(バッハ) 他   中級くらい(やや難しいものもある)






ポピュラー2
ポピュラー名曲2   ある愛の詩、ひまわり、鉄道員、コンドルは飛んでゆく、マイウェイ、夜霧のしのびあい、他   これも中級くらい(気持ち難しい方)




教材用のCD製作

 楽譜の手直しの他、教材の録音もしています。 今回は「ポピュラー名曲 2」 と 「ギターで弾くクラシック名曲」 の二つのCDを作りました。

 中級程度の教材用なので、アレンジは比較的シンプルなものですが、実際に弾いてみるとなかなか簡単に、あるいはなかなか正確に弾けません。

 確かに譜面を作ってほぼ練習なしで録音に入るのですが、意外と簡単なことが出来ていなかったりします、音符の長さとか、音量のコントロールとか。

 また、生演奏では気にならない様々なノイズも、録音だとたいへん気になってしまいます。 編集で直したりもしますが、やはりノイズを発生させないことが大事。 最近ではだいぶ気を付けるようになりました。 

 こうしたものを作るは本当に勉強になりますね。





 ・・・・・・・・・・今回の記事は 「またまたシャコンヌ 8」 だったかな?  前フリが長くなってしまいましたので、本題のほうは次回ということで・・・・・・・・
 
 
またまたシャコンヌ 7



今年の教室発表会、市民音楽会は中止

 5月になりましたね、ちょっと外に出てみましたが (狭い家の敷地内だが) 今日など天気も良く、気温も暖かく、いろいろな花が咲き、本当によい季節ですね。

 とはいえ、相変わらずそんな気になれないところですね、5月31日に予定していた教室の発表会とか、7月の水戸市民音楽会だとか、8月くらいまでのイヴェントはすべてなくなってしまいました。

 10月31日に予定している水戸ギター・アンサンブル演奏会も、まだ練習が始まれてない状態なので、開催できるかどうかはかなり危ぶまれているところです。 今年のコンサートなどはすべて中止となる可能性もありますね。

 一方で、このところ全国の新たな感染者数が、以前に比べやや少なっているようです。また韓国や中国の新たな感染者もたいへん少なくなっているという報道もあります。まだまだ楽観はできないところとは思いますが、少しでも良い方向に行ってくれればと思います。




「なぜバッハのシャコンヌは2拍目から始まるか?」 の続き

 さて、前回まで3つの無伴奏パルティータの話をしていましたが、そう言えばその前になぜバッハのシャコンヌは2拍目から始まるかということについて書いていました。 その理由の一つは小節数を4の4乗の256小節にするためであるといったことを書きました。

 そのごいろいろあって別の話になってしまい、もう一つの理由については話していませんでしたね。 と言ってもそのことも以前の記事で書いているですが、そのページを開くのも面倒と思いますので、そのことについて改めて書いておきましょう。




サラバンドとシャコンヌの譜面はよく似ている

 小節数の問題よりもこのことの方が重要ではないかと思いますが、 まずはこのパルティータのサラバンドとシャコンヌの冒頭のの譜面を見て下さい。





CCI_000014サラバンド

サラバンドの冒頭




CCI_000010シャコンヌ冒頭

シャコンヌの冒頭  サラバンドとほぼ同じ位置に同じような不協和音があるが、その前の小節が1拍目からはじまるか、2拍目から始まるかで、その印象度は大きく異なる。





 どちらもたいへんよく似ていますね。 確かにシャコンヌとサラバンドは比較的ゆっくりした3拍子の舞曲と言うことでよく似ています。 さらいこのパルティータは全体が ”変奏曲” 的な要素もあって、低音もモチーフなどはほぼ同じものを使っています。

 特にシャコンヌの1小節目 (最初の不完全小節を数えないで) の和音と、サラバンドの2小節目の和音は、共に不協和音的ですがたいへんよく似ています。

 シャコンヌのほうの低音は 「レ」 で、サラバンドのほうは 「ド#」 となっている以外は全く同じ音です。 サラバンドの方は有名な(?)不協和音の 「減7」、 シャコンヌの方はⅣの和音(下属和音)の6度の音を付加したものとなっています。

 Ⅳの和音に6度音が付け加えられることはよくあることで、一般的には特に不協和音と言う訳でもないのですが、この和音の場合、配置が転回されていて、両外側の音、つまり低音と最高音が9度、そして最高音と2番の音が増4度という不協和音程がはっきりと現れるので、不協和度は結構高いと思います。




単独で聴くとサラバンドの和音の方が不協和度が強い

 この両者の和音をそれぞれ単独で聴くと、両者ともあまり大差はありませんが、不協和度では、やはり本来不協和音であるサラバンドの減7の方が強いのかなとと思います。

 では、実際に曲の方を聴いたらどうなるかということですが、やはり圧倒的にシャコンヌの方がインパクトが強いですね。サラバンドの方は、 「そう言えば不協和音かな」 と言った感じではないかと思います。 

 その違いはとこから来るのだろうか。 テンポは確かにシャコンヌのほうが気持ち速めに演奏されるでしょうが、それほど大きな差はありません。 リズムもよく見とよく似ていますね、サラバンドの最初の小節の1拍目の和音と取ってしまうと全く同じリズムになっています。




演奏者が力むから?

 それは楽譜の問題ではなく、演奏者がバッハのシャコンヌだからということでいきり立って弾いているから? それともバッハの偉大な傑作だという、聴く側の思い込み? 

 確かにそんな演奏者や聴く側の思い込みといったものも小さくはないでしょうね。 

 でもやはりその大きな違いは両者が異なる唯一の点である、最初の小節の1拍目に音があるかないかということにあるのでしょう。 




最初の小節に1拍目があるかないかで不協和音にかかるウェイトが大きく異なる

サラバンドでは最初の小節が1拍目から始まるのでウェイトはその1拍目の主和音にかかります。 ですから2拍目に不協和音が出てきたとしても特にそこにリズム的なウエイトがかかる訳ではないので不協和度がさらに増大することもない訳です。

 聴いた感じからしてもサラバンドは落ち着いたリズムですね(それがサラバンドの特徴だが)。 またバッハの場合、減7の和音は属9の和音と解釈できますが、不協和音の基となっているその9の音が事前に予告されているので、インパクトはそれほど強くなく、和音の不協和度も額面以上にはならないわけです。




足を持ち上げた状態から曲が始まる

 ではシャコンヌのほうはどうかと言えば、まず最初の小節の1拍目がないために。リズム的にはたいへん不安定な状態から始まります。 つまり足を持ち上げた状態から曲が始まる訳ですね。




足を下ろした地面が

 上げた足は当然下ろさなければなりません。しかし下ろした足の下が安定した地面でなくぬかるみや石ころだらけのところだったらふらついてしまいますね。 

 当然歩く人の緊張感が高まります。 シャコンヌの場合はこうした状況といえるでしょう。

 従ってシャコンヌの1小節目の1拍目の和音が特に不協和度の強い和音でなくとも、その位置関係上、不安定さとか緊張感が増大してしまう訳です。




足を持ち上げている時間が長いほど

 もっとも、同じように1拍目から始まらないとしても、半拍とか1拍、つまり2拍目からではなく、3拍目とか3拍目裏とかで始まったらどうかというと、この場合、足を持ち上げている時間がそれだけ短いので、足を下ろす勢いもそれほど強くはならないわけです。

 2拍目から始まるということは、それだけ足を持ち上げている時間が長いので、つらくなって足を下ろす勢いも、自然とそれだけ強くなるということになります。 

 1拍目から始まるか、2拍目から始まるかでこれだけ印象が変わるんですね、恐ろしいですね、音楽は。




蛇足中の蛇足!

 ところで、確かハープでの演奏だったか、なんとシャコンヌの冒頭に1拍目を入れて演奏しているCDがありました。 これなど典型的な蛇足!

 またこのシャコンヌの演奏の解説で、「このシャコンヌはたいへん雄大な曲ですから、曲の冒頭は気負ずに、ゆったりと、落ち着いて始めて下さい」 と言ったようなことが書かれている場合もあります。




気負って始まって当然

 しかしこう考える、このシャコンヌは ”目一杯気負って始まる” のが正解なのではと思います。 この曲は決してのんびり始まる訳ではないのです。

 論法で言えば、結論を真っ先に言ってしまい、その後からとくとくとその理由を論証してゆくといったものなのでしょう。

 


あくまでも個人的見解

 最後に付け加えておきますが、この話、もちろんバッハに聴いたわけではありません。また解説書などのどこかに書いてあったり、権威ある音楽学者の方が言っている事ではなく、あくまでも私の ”個人的見解” に過ぎません。

 つまり、 信じるか、信じないかは、あなた次第です!