明けましておめでとうございます。久々に本格的に寒いお正月です、どんなお正月をお過ごしでしょうか。さてそれでは今年最初の更新ということで、お正月にふさわしい話題から始めましょう。
ドビュッシー:海
元日といっても、もともと便宜上決めただけ、特に他の日と変わりがあるわけではありませんが、もの心付いた時から1月1日は特別な日とされてきたので、やはり私の中ではどこかいつもとは違った日と刷り込まれてしまっているようです。いつ頃からでしょうか、元日の朝(要するに元旦ですが)は決まってドビュッシーの「海」を聴くようになりました。
ドビュッシーの音楽はたいへん美しい音楽で、私自身でも好きな音楽ですが、モーツアルトやベートーヴェンなどに比べれば聴く機会はやや少なく、私の中では美しいすぎて、どことなく敷居の高さを感じています。ドビュッシーの音楽はヨーロッパの音楽史上でも独自の位置を占め、他に類する作曲家はいないのではないかと思いますが、その音楽の透明感、清潔感は、何か身を切るような厳しささえ感じます。
どのようなきっかけでこの曲を元旦に聴くようになったか記憶は定かではありませんが、たまたま聴いたらその時の気分とぴったりあったのかも知れません。この無色透明で、厳しいまでの美しさは、これから始まる1年の幕開けにふさわしい感じがしたのでしょう。いつの日からか、新年最初の朝にぶ厚い新聞のページをめくりながら、このドビュッシーの「海」を聴くのが習慣になっています。
ドビュッシーの曲でも特にこの「海」になった理由を考えてみると、一つは「海」と言えば初日の出を連想するのかも知れません。またCDのケースには北斎の富士の絵があったりして、それが元旦のイメージと重なったのかも知れません。理由ははっきりしないのですが、聴いてみるとやはり元旦のイメージに重なるのです。同じ元日でも午後ではちょっと違うと思いますし、2日、3日でも違うと思います。やはり元日の朝で、出来ればお雑煮を食べる前がいいと思います。もしかしたら、いつも起きるのが遅い私にとっては、これが初日の出を拝む代わりなのかも知れません。ドビュッシーの管弦楽曲には他に「夜想曲」、「牧神の午後」、「管弦楽のための映像」などがありますが、やはりこの「海」が元旦にはよく似合うようです。
ヨハン・シュトラウス:ワルツ集
私がいつもお正月の聴く音楽としては、他にヨハン・シュトラウスのワルツなどもありますが、これはご承知のとおり、ウイーン・フィルののニューイヤー・コンサートなどでもおなじみで、一般的にもお正月の音楽のイメージがあると思いますが、やはりお正月にはなくてはならない音楽だと思います。シュトラウスのワルツやポルカを聴くと、子供の頃遊園地に行った時のわくわく感のようなものを今でも感じて、私の好きな音楽の一つです。このシュトラウスの晴れ晴れとした感じはやはりお正月には欠かせないものではないかと思います。シュトラウスのワルツには「美しき青きドナウ」、「ウイーンの森の物語」、「皇帝円舞曲」、「南国のバラ」など楽しい曲がたくさんありますが、和つぃ個人的には「春の声」などが最もメルヘンを感じます。もちろんポルカや行進曲にもわくわくする曲はたくさんありますが、シュトラウスの曲を聴くのは、同じ元日でも午前中ではなく、午後のほうがよりふさわしいと思います。
イーゴリー・ストラヴィンスキー:春の祭典
いつもではありませんが、ストラヴィンスキーの「春の祭典」などもよくお正月に聴きます。この曲を最初に聴いたのが、学生の頃たまたまお正月に帰省していた時に、テレビでやっていたのを聴いたからなのかも知れません。たまたまテレビをつけたらなんかすごい曲をやっている、いったいなんだこれは、これは音楽なのか、と訳の分からないうちに最後まで聴いてしまったように思います。この曲が初演された時も、かなりセンセーションをまき起こしたそうですが、私が初めて聴いたときもかなり衝撃を覚えました。その頃はまだあまりいろいろな音楽を聴いていなかった頃だったので、こうした曲はちょっと刺激が強すぎたのかも知れません。3歳児が激辛カレーを食べたようなものかも知れません。
その曲がストラヴィンスキー作曲のバレー音楽「春の祭典」であるということは少し後になってからわかりました。それから1、2年してからズビン・メータ指揮、ロサンゼルス・フィルのLPを買いました。これはアルタミーラの壁画をあしらった豪華なジャケットに入っていて、録音も最新式のマルチなんとかというもので、当時の私の粗末な装置(今もあまり変わりませんが)でも、結構いい音が出たように思います。メータはインド出身の指揮者で、最近はどちらかといえば、堅実で穏健な指揮者といったイメージですが、この演奏は速めのテンポで突き進み、オーケストラも華麗に鳴らして、まさに新進気鋭の指揮者といった感じでした。このLPを隣りの住人(同じ大学の学生ですが)の迷惑などまったく考えず結構な音量で聴いていた記憶があります。
ストラヴィンスキーといえばバルトークやシェーンベルクなどと並び、現代音楽の有名な作曲家の一人となっていて、この「春の祭典」も代表的な現代音楽というイメージがありますが、よく考えてみればこの曲の作曲が1913年で、それからもう100年近く経っています。100年も前の曲を「現代音楽」と呼ぶのはちょとおかしいでしょう。とはいっても普通聴いているモーツアルトやベートーヴェン、ブラームスなどと比べればやはりぜんぜん違った音楽なので、とりあえずはそう呼ぶしかないのかも知れません。狭い意味での分類としては「バーバリズム」と呼ぶこともあり、確かに内容とあってはいますが、他に含まれる曲も作曲家もほとんどいないのが欠点です。
この曲を聴いたことのある人はわかると思いますが、この曲は不規則で激しいリズム、和声も楽器法も含めた激しい音響、文字通り大地から湧き上がるような生命力、躍動感と言った曲で、好きか嫌いかは別にして、誰が聴いても印象的、あるいは衝撃的な曲だと思います。この曲というとどうしてもその衝撃的な部分だけクローズアップされがちですが、よく聴くと結構馴染みやすい曲でもあります。例えば、シェーンベルクの無調、あるいは12音技法の曲だと何回聴いても(そんなに何回も聴いたことはありませんが)そのメロディ(メロディがあればの話ですが)などが覚えられません。それに比べ、「春の祭典」では主要なメロディは覚えていますし、口ずさむことも出来ます。この曲は以外と親しみやすいメロディの断片から出来ていて、それを激しいリズムと音響で装ったようになっています。確かにこの曲の特徴、あるいは魅力は躍動感あふれるリズム感、そして鮮やかな原色系のオーケストレーションということになりますが、それらの構成要素としては馴染みのあるテイストも使用していて、それらのこともこの曲の人々を引き寄せる要素となっているようです。
この「春の祭典」はこれまでは、「新時代を築いた衝撃的な前衛作品」とか、あるいは「訳のわからないハチャメチャな現代音楽」などと言われたりもしていましたが、これからはきっと「躍動感あふれる華麗なオーケストラ曲」とか「民謡をふんだんに使った親しみやすい楽しい曲」といったイメージに変わってくるのではないかと思います。お正月の話からそれてしまいましたが、年の初めに「今年もがんばるぞ」という時には、この曲の躍動感あふれる感じが最適なのではないかと思います。
ドビュッシー:海
元日といっても、もともと便宜上決めただけ、特に他の日と変わりがあるわけではありませんが、もの心付いた時から1月1日は特別な日とされてきたので、やはり私の中ではどこかいつもとは違った日と刷り込まれてしまっているようです。いつ頃からでしょうか、元日の朝(要するに元旦ですが)は決まってドビュッシーの「海」を聴くようになりました。
ドビュッシーの音楽はたいへん美しい音楽で、私自身でも好きな音楽ですが、モーツアルトやベートーヴェンなどに比べれば聴く機会はやや少なく、私の中では美しいすぎて、どことなく敷居の高さを感じています。ドビュッシーの音楽はヨーロッパの音楽史上でも独自の位置を占め、他に類する作曲家はいないのではないかと思いますが、その音楽の透明感、清潔感は、何か身を切るような厳しささえ感じます。
どのようなきっかけでこの曲を元旦に聴くようになったか記憶は定かではありませんが、たまたま聴いたらその時の気分とぴったりあったのかも知れません。この無色透明で、厳しいまでの美しさは、これから始まる1年の幕開けにふさわしい感じがしたのでしょう。いつの日からか、新年最初の朝にぶ厚い新聞のページをめくりながら、このドビュッシーの「海」を聴くのが習慣になっています。
ドビュッシーの曲でも特にこの「海」になった理由を考えてみると、一つは「海」と言えば初日の出を連想するのかも知れません。またCDのケースには北斎の富士の絵があったりして、それが元旦のイメージと重なったのかも知れません。理由ははっきりしないのですが、聴いてみるとやはり元旦のイメージに重なるのです。同じ元日でも午後ではちょっと違うと思いますし、2日、3日でも違うと思います。やはり元日の朝で、出来ればお雑煮を食べる前がいいと思います。もしかしたら、いつも起きるのが遅い私にとっては、これが初日の出を拝む代わりなのかも知れません。ドビュッシーの管弦楽曲には他に「夜想曲」、「牧神の午後」、「管弦楽のための映像」などがありますが、やはりこの「海」が元旦にはよく似合うようです。
ヨハン・シュトラウス:ワルツ集
私がいつもお正月の聴く音楽としては、他にヨハン・シュトラウスのワルツなどもありますが、これはご承知のとおり、ウイーン・フィルののニューイヤー・コンサートなどでもおなじみで、一般的にもお正月の音楽のイメージがあると思いますが、やはりお正月にはなくてはならない音楽だと思います。シュトラウスのワルツやポルカを聴くと、子供の頃遊園地に行った時のわくわく感のようなものを今でも感じて、私の好きな音楽の一つです。このシュトラウスの晴れ晴れとした感じはやはりお正月には欠かせないものではないかと思います。シュトラウスのワルツには「美しき青きドナウ」、「ウイーンの森の物語」、「皇帝円舞曲」、「南国のバラ」など楽しい曲がたくさんありますが、和つぃ個人的には「春の声」などが最もメルヘンを感じます。もちろんポルカや行進曲にもわくわくする曲はたくさんありますが、シュトラウスの曲を聴くのは、同じ元日でも午前中ではなく、午後のほうがよりふさわしいと思います。
イーゴリー・ストラヴィンスキー:春の祭典
いつもではありませんが、ストラヴィンスキーの「春の祭典」などもよくお正月に聴きます。この曲を最初に聴いたのが、学生の頃たまたまお正月に帰省していた時に、テレビでやっていたのを聴いたからなのかも知れません。たまたまテレビをつけたらなんかすごい曲をやっている、いったいなんだこれは、これは音楽なのか、と訳の分からないうちに最後まで聴いてしまったように思います。この曲が初演された時も、かなりセンセーションをまき起こしたそうですが、私が初めて聴いたときもかなり衝撃を覚えました。その頃はまだあまりいろいろな音楽を聴いていなかった頃だったので、こうした曲はちょっと刺激が強すぎたのかも知れません。3歳児が激辛カレーを食べたようなものかも知れません。
その曲がストラヴィンスキー作曲のバレー音楽「春の祭典」であるということは少し後になってからわかりました。それから1、2年してからズビン・メータ指揮、ロサンゼルス・フィルのLPを買いました。これはアルタミーラの壁画をあしらった豪華なジャケットに入っていて、録音も最新式のマルチなんとかというもので、当時の私の粗末な装置(今もあまり変わりませんが)でも、結構いい音が出たように思います。メータはインド出身の指揮者で、最近はどちらかといえば、堅実で穏健な指揮者といったイメージですが、この演奏は速めのテンポで突き進み、オーケストラも華麗に鳴らして、まさに新進気鋭の指揮者といった感じでした。このLPを隣りの住人(同じ大学の学生ですが)の迷惑などまったく考えず結構な音量で聴いていた記憶があります。
ストラヴィンスキーといえばバルトークやシェーンベルクなどと並び、現代音楽の有名な作曲家の一人となっていて、この「春の祭典」も代表的な現代音楽というイメージがありますが、よく考えてみればこの曲の作曲が1913年で、それからもう100年近く経っています。100年も前の曲を「現代音楽」と呼ぶのはちょとおかしいでしょう。とはいっても普通聴いているモーツアルトやベートーヴェン、ブラームスなどと比べればやはりぜんぜん違った音楽なので、とりあえずはそう呼ぶしかないのかも知れません。狭い意味での分類としては「バーバリズム」と呼ぶこともあり、確かに内容とあってはいますが、他に含まれる曲も作曲家もほとんどいないのが欠点です。
この曲を聴いたことのある人はわかると思いますが、この曲は不規則で激しいリズム、和声も楽器法も含めた激しい音響、文字通り大地から湧き上がるような生命力、躍動感と言った曲で、好きか嫌いかは別にして、誰が聴いても印象的、あるいは衝撃的な曲だと思います。この曲というとどうしてもその衝撃的な部分だけクローズアップされがちですが、よく聴くと結構馴染みやすい曲でもあります。例えば、シェーンベルクの無調、あるいは12音技法の曲だと何回聴いても(そんなに何回も聴いたことはありませんが)そのメロディ(メロディがあればの話ですが)などが覚えられません。それに比べ、「春の祭典」では主要なメロディは覚えていますし、口ずさむことも出来ます。この曲は以外と親しみやすいメロディの断片から出来ていて、それを激しいリズムと音響で装ったようになっています。確かにこの曲の特徴、あるいは魅力は躍動感あふれるリズム感、そして鮮やかな原色系のオーケストレーションということになりますが、それらの構成要素としては馴染みのあるテイストも使用していて、それらのこともこの曲の人々を引き寄せる要素となっているようです。
この「春の祭典」はこれまでは、「新時代を築いた衝撃的な前衛作品」とか、あるいは「訳のわからないハチャメチャな現代音楽」などと言われたりもしていましたが、これからはきっと「躍動感あふれる華麗なオーケストラ曲」とか「民謡をふんだんに使った親しみやすい楽しい曲」といったイメージに変わってくるのではないかと思います。お正月の話からそれてしまいましたが、年の初めに「今年もがんばるぞ」という時には、この曲の躍動感あふれる感じが最適なのではないかと思います。
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