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中村俊三 ブログ

中村ギター教室内のレッスン内容や、イベント、また、音楽の雑学などを書いていきます。

 明けましておめでとうございます。久々に本格的に寒いお正月です、どんなお正月をお過ごしでしょうか。さてそれでは今年最初の更新ということで、お正月にふさわしい話題から始めましょう。

ドビュッシー:海

 元日といっても、もともと便宜上決めただけ、特に他の日と変わりがあるわけではありませんが、もの心付いた時から1月1日は特別な日とされてきたので、やはり私の中ではどこかいつもとは違った日と刷り込まれてしまっているようです。いつ頃からでしょうか、元日の朝(要するに元旦ですが)は決まってドビュッシーの「海」を聴くようになりました。

 ドビュッシーの音楽はたいへん美しい音楽で、私自身でも好きな音楽ですが、モーツアルトやベートーヴェンなどに比べれば聴く機会はやや少なく、私の中では美しいすぎて、どことなく敷居の高さを感じています。ドビュッシーの音楽はヨーロッパの音楽史上でも独自の位置を占め、他に類する作曲家はいないのではないかと思いますが、その音楽の透明感、清潔感は、何か身を切るような厳しささえ感じます。

 どのようなきっかけでこの曲を元旦に聴くようになったか記憶は定かではありませんが、たまたま聴いたらその時の気分とぴったりあったのかも知れません。この無色透明で、厳しいまでの美しさは、これから始まる1年の幕開けにふさわしい感じがしたのでしょう。いつの日からか、新年最初の朝にぶ厚い新聞のページをめくりながら、このドビュッシーの「海」を聴くのが習慣になっています。

 ドビュッシーの曲でも特にこの「海」になった理由を考えてみると、一つは「海」と言えば初日の出を連想するのかも知れません。またCDのケースには北斎の富士の絵があったりして、それが元旦のイメージと重なったのかも知れません。理由ははっきりしないのですが、聴いてみるとやはり元旦のイメージに重なるのです。同じ元日でも午後ではちょっと違うと思いますし、2日、3日でも違うと思います。やはり元日の朝で、出来ればお雑煮を食べる前がいいと思います。もしかしたら、いつも起きるのが遅い私にとっては、これが初日の出を拝む代わりなのかも知れません。ドビュッシーの管弦楽曲には他に「夜想曲」、「牧神の午後」、「管弦楽のための映像」などがありますが、やはりこの「海」が元旦にはよく似合うようです。


ヨハン・シュトラウス:ワルツ集

 私がいつもお正月の聴く音楽としては、他にヨハン・シュトラウスのワルツなどもありますが、これはご承知のとおり、ウイーン・フィルののニューイヤー・コンサートなどでもおなじみで、一般的にもお正月の音楽のイメージがあると思いますが、やはりお正月にはなくてはならない音楽だと思います。シュトラウスのワルツやポルカを聴くと、子供の頃遊園地に行った時のわくわく感のようなものを今でも感じて、私の好きな音楽の一つです。このシュトラウスの晴れ晴れとした感じはやはりお正月には欠かせないものではないかと思います。シュトラウスのワルツには「美しき青きドナウ」、「ウイーンの森の物語」、「皇帝円舞曲」、「南国のバラ」など楽しい曲がたくさんありますが、和つぃ個人的には「春の声」などが最もメルヘンを感じます。もちろんポルカや行進曲にもわくわくする曲はたくさんありますが、シュトラウスの曲を聴くのは、同じ元日でも午前中ではなく、午後のほうがよりふさわしいと思います。


イーゴリー・ストラヴィンスキー:春の祭典

 いつもではありませんが、ストラヴィンスキーの「春の祭典」などもよくお正月に聴きます。この曲を最初に聴いたのが、学生の頃たまたまお正月に帰省していた時に、テレビでやっていたのを聴いたからなのかも知れません。たまたまテレビをつけたらなんかすごい曲をやっている、いったいなんだこれは、これは音楽なのか、と訳の分からないうちに最後まで聴いてしまったように思います。この曲が初演された時も、かなりセンセーションをまき起こしたそうですが、私が初めて聴いたときもかなり衝撃を覚えました。その頃はまだあまりいろいろな音楽を聴いていなかった頃だったので、こうした曲はちょっと刺激が強すぎたのかも知れません。3歳児が激辛カレーを食べたようなものかも知れません。

 その曲がストラヴィンスキー作曲のバレー音楽「春の祭典」であるということは少し後になってからわかりました。それから1、2年してからズビン・メータ指揮、ロサンゼルス・フィルのLPを買いました。これはアルタミーラの壁画をあしらった豪華なジャケットに入っていて、録音も最新式のマルチなんとかというもので、当時の私の粗末な装置(今もあまり変わりませんが)でも、結構いい音が出たように思います。メータはインド出身の指揮者で、最近はどちらかといえば、堅実で穏健な指揮者といったイメージですが、この演奏は速めのテンポで突き進み、オーケストラも華麗に鳴らして、まさに新進気鋭の指揮者といった感じでした。このLPを隣りの住人(同じ大学の学生ですが)の迷惑などまったく考えず結構な音量で聴いていた記憶があります。

 ストラヴィンスキーといえばバルトークやシェーンベルクなどと並び、現代音楽の有名な作曲家の一人となっていて、この「春の祭典」も代表的な現代音楽というイメージがありますが、よく考えてみればこの曲の作曲が1913年で、それからもう100年近く経っています。100年も前の曲を「現代音楽」と呼ぶのはちょとおかしいでしょう。とはいっても普通聴いているモーツアルトやベートーヴェン、ブラームスなどと比べればやはりぜんぜん違った音楽なので、とりあえずはそう呼ぶしかないのかも知れません。狭い意味での分類としては「バーバリズム」と呼ぶこともあり、確かに内容とあってはいますが、他に含まれる曲も作曲家もほとんどいないのが欠点です。

 この曲を聴いたことのある人はわかると思いますが、この曲は不規則で激しいリズム、和声も楽器法も含めた激しい音響、文字通り大地から湧き上がるような生命力、躍動感と言った曲で、好きか嫌いかは別にして、誰が聴いても印象的、あるいは衝撃的な曲だと思います。この曲というとどうしてもその衝撃的な部分だけクローズアップされがちですが、よく聴くと結構馴染みやすい曲でもあります。例えば、シェーンベルクの無調、あるいは12音技法の曲だと何回聴いても(そんなに何回も聴いたことはありませんが)そのメロディ(メロディがあればの話ですが)などが覚えられません。それに比べ、「春の祭典」では主要なメロディは覚えていますし、口ずさむことも出来ます。この曲は以外と親しみやすいメロディの断片から出来ていて、それを激しいリズムと音響で装ったようになっています。確かにこの曲の特徴、あるいは魅力は躍動感あふれるリズム感、そして鮮やかな原色系のオーケストレーションということになりますが、それらの構成要素としては馴染みのあるテイストも使用していて、それらのこともこの曲の人々を引き寄せる要素となっているようです。

 この「春の祭典」はこれまでは、「新時代を築いた衝撃的な前衛作品」とか、あるいは「訳のわからないハチャメチャな現代音楽」などと言われたりもしていましたが、これからはきっと「躍動感あふれる華麗なオーケストラ曲」とか「民謡をふんだんに使った親しみやすい楽しい曲」といったイメージに変わってくるのではないかと思います。お正月の話からそれてしまいましたが、年の初めに「今年もがんばるぞ」という時には、この曲の躍動感あふれる感じが最適なのではないかと思います。

 
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バッハ : シャコンヌ 7  ~最終回



擬似的な3楽章構成

 これまで楽譜に沿ってやや細かく話しを進めてきましたが、この曲を全体的に見ると大きく3つの部分に分けられます。 長さだけを見ると、だいたい3:2:1の比になっていて、これは3楽章構成の協奏曲など時間配分と一致します。 このシャコンヌは擬似的な3楽章構成で作曲されており、その3つの部分の性格もそれぞれ違っています。

 第1部は荘厳な感じで始まり、緊張感も全体的に高く、いかにもバロック音楽といった構築美が感じられます。 長調に変わる第2部は全体にリラックスした感じで、和声も比較的シンプルで、ゆっくりと歌う歌や、ユーモラスな感じや雄大な感じもあります。

 再び短調に戻る第3部ですが、ニュアンスは第1部とは異なるようです。 第1部をフォーマルな感じとすれば第3部は、何か内面的というか、感傷的な感じがさえします。

 第1部=バロック、 第2部=古典派、 第3部=ロマン派、 などというのはちょっと考えすぎでしょうが、第3部の最初の和音に付け加えられた6度の音などはなんとなくロマン派的な音楽を感じてしまいます。 もちろんバッハはロマン派の音楽なんて知らないはずですが。
 



シャコンヌの魅力は

 この曲を 「変奏曲」 と見た時、一般的な変奏曲とはかなり違っている点はありますが、逆に言えば一見変奏曲に見えなくても、やはりこの曲は 「低音を主題に持つ変奏曲」 ということもできます。

 普通変奏曲は各変奏が独立していて、作曲する時もそれぞれ別に作曲し、演奏効果などを考えてその変奏の順序などを決めたりします。 場合によってはその変奏の順序を変えて演奏したりすることもあり、それでもそれほど内容は変わらない場合が多いようです。

 しかしこのシャコンヌの場合は、いくつかの変奏を組み合わせて一つの部分を構成し、そしてそれらの部分から全体が構成されるように作曲されています。 全体の構成を考えた上でそれぞれの変奏が作曲されているので、変奏の順序を変えるなど全くの論外です。

 このシャコンヌが多くの人に好まれている理由の一つに、聴く人の興味や集中力をきらさない、この全体の構成があるのではないかと思います。 長い曲ですが、聴く人に 「次はどうなるのだろう」 という気にさせる曲だと思います。




イリュージョニスト?

 それにしても、バッハがなぜこの 「無伴奏ヴァイオリンのための6つの作品」 を書いたか、ということですが、バッハは言うまでもなくポリフォニー、つまり多声部的な音楽を作曲し、おそらくバッハ自身その技術にはかなりの自信を持っていたと思います。

 一方で無伴奏のヴァイオリンのために作曲するということは、多声部的な音楽にはかなりの制限が加えられるということになります。 また、バッハはこれらの曲を誰かにに依頼されたなど、何かの必要があってこれらの曲を作曲したのではなさそうです。 おそらく自発的な動機で、なお且つかなり意欲的に作曲されたものと考えられます。

 バッハはこうした一見作曲上の制限や困難、不都合などをまるで楽しんでいるようにも思えます。  無伴奏のヴァイオリンのために作曲するということ自体は、確かに他の作曲家も行っていますが、このように高度な和声法や対位法を織り込んだ作曲家はいなかったでしょう。

 バッハはそのことも十分に認識していて、この仕事ができるのは自分をおいて他にいないと考えていたでしょう。 この曲の楽譜はバッハ自身の手により丁寧に清書されており、同時代の人に弾かれるだけでなく、後世に「残す」ということもかなり意識していたように思います。

 バッハはこれらの曲では、非常に少ない音で複雑な和声進行を実現したり、一つの音を半音上げ下げすることにより、和声の流れをがらりと変えてしまったりもしています。 それはまるでイリュージョンのようでもあり、自らの手足を縛り、水中において鍵のかかった箱から脱出するような行為にも連想させられます。
 



どの譜面を使おうか

 この曲にはこれまで、様々なヴァイオリンの名手による演奏があり、またギターをはじめとして、リュート、ピアノ、チェンバロ、ハープ、オーケストラなどへの編曲もあり、それらについてもお話したいところですが、これはまたの機会にしましょう。

 本当に長くなりましたが、この曲に取り組んでいる人、あるいは取り組もうとしている人などにとっては、この曲のことをあらためて考え直すきっかけくらいにはなったのではないかと思います。

 編曲についてもあまり触れられませんでしたが、どんな編曲を使うかとか、どのように編曲するか、あるいはどのように弾くかということの前に、この曲がどんな曲なのかということを考えるのが第1歩ではないかと思います。




 *「名曲のススメ」として5曲ほど書いてきましたが(なんとまだ5曲しか書いていない!)、ここでこのシリーズは一休みにして、また「ギター上達法」に戻りたいと思います。再開の最初は「読譜力」についてです。

バッハ : シャコンヌ 6



<第2部  132~207小節> 
 


132~147小節 ~ニ長調となる

 ここからニ長調に転じ、第2部ということになりますが、ここは全体にリラックスした、のびやかな感じとなります。 和声的にも比較的単純となり、また速いパッセージもありません。

 この132~147の4×4の16小節は基本的には冒頭のテーマと同じ音価で書かれていますが、全体に「歌」が感じられます。 2声が中心で部分的に3声になりますが、和声の変化は少なくのびやかで落ち着いた感じになります。



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印からニ長調となり、よりのびやかな音楽となる。  赤線の部分では低音がテーマの音価となっている。 黒丸では低音が レード♯ーシーラ と単純化されている。


148~159小節 ~16分音符となるが

 ここからは16分音符で書かれていますが、リラックスした感じは持続し、シンプルな和音のアルペジオとなっているところが多く、動きはやや速いものの、穏やかな感じになっています。 低音も「レ、ド#、シ、ラ」と単純化されています。



160~175小節 ~「ラ」の連打が現れる

 この部分は16分音符で出来ているのはその前と同じなのですが、「ラ」を3回あるいは4回連打する形になっていて、ちょっとユーモラスな部分です。 バッハの”遊び心”が感じられます。

160小節では「ラ」を3回連打した後アルペジオとなり、以後和音が変わっても「ラ」の連打は変わりません。 164小節からはその「ラ」が1クターブ下になります。

 168小節からは 「ラ」 の連打が4回なり、さらに1オクターブ下がり低音となります。 いわゆる「保持低音」となるわけですが、168小節からはそれが5度下がり 「レ」 となります。 上声部の方は2声の掛け合いのようになりますが、同じ音を2回または3回ずつ連打するようになっています。



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保持低音

 ここでちょっと「シャコンヌとは低音部に主題を持つ変奏曲」ということを思い出していただきたいのですが、低音を「勝手に」保持低音に変えてしまったら「シャコンヌ」ではなくなってしまうのではないかと思います。 バッハはその「ぎれぎれ」のことをしているようです。 「その代わり和声進行が変わらないから、いいじゃないか」 ということかも知れません。



176~183小節 ~クライマックスに向かうための

 この部分は中間部の冒頭の部分(132~139)が回帰したような部分ですが、2度で音がぶつかるところもあり、やや緊張感があります。 おごそかな感じといってもいいでしょうか、次のクライマックスに向かうための部分と思われます。



184~199小節 ~朗々と歌い上げる

 この部分はテーマの音価を踏襲したコーラス的な部分ですが、3声または4声で書かれています。 4小節ごとに音域を上げて、196小節で頂点になります。 ここは朗々と和音を鳴らしたいところですが、ヴァイオリンでそれをするのはかなり難しいことかも知れません。



200~207小節

 ここはアルペジオの指示があり、各部の最後はそれぞれアルペジオで締めくくるようになっています。 前にも出てきたとおり、アルペジオの弾き方は決められていないと思いますが、一般に低音と高音を交互に弾くような弾き方で演奏されます。 

 過去の大家がそう弾いていたのでしょうか、その根拠などはわかりませんが、その方が弾きやすいので私もそう弾いています。





<第3部  208~256小節>



208~227小節 ~再びニ短調に

 再びニ短調に戻りますが第1部とは印象は異なります。 なんといっても最初の和音はⅠの和音の「レ、ファ、ラ」でなく、それにシ♭が加わった形になっています。 印象からすれば第1部のような威厳に満ちた感じではなく、もっと内面的なというか感傷的というか、そんな感じがします。


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ト短調ぽいが

 和声的に見ると私にはよくわからないのですが、208~211ではト短調に転調しているような感じさえします。 もちろん「シャコンヌ」である以上あってはならないことです。 

 バッハは転調を巧みに使う作曲家だと思いますが、バッハの欲求不満の表れしょうか。 またここではスラーの表記も目立ち、「歌わせる」ことを示しているのかも知れません。 224~227はこの部分の締めくくりとして32分音符で書かれています。



228~239小節 ~カンパネラ奏法

 ここからは「A線」を用いたカンパネラ奏法となりますが、ギターのほうではこの音は開放弦ではないので、3弦を押さえて弾くことになりますが、235~239はオクターブ上げて1弦の5フレットで弾くほうが弾きやすいので、私もそうしています。

 低音は「レ、ド、シ♭、ラ」を守っていますが、中音部は半音階的になっていて、しだいに緊張感が増すようになっています。


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240~256小節 ~最後は堂々と曲を閉じる

 いよいよ最後の部分となりますが、まず240~243はアルペジオですが、一つ一つのポジションが変わるので、弾く方にとってはかなり難しいアルペジオになっています。

 続いて244~246は下降の3連符で、247は32分音符の音階でテーマの最後の出現を告げます。 248~256でテーマが再現されますが、比較的冒頭のテーマに近く、最後は堂々と、またゆったりと曲を閉じます。

 なお最後にトリルの指示はありませんが、当時の習慣として行っていたと考えてよいと思います。
バッハ : シャコンヌ 5 



コンサート終わりました

 昨日(29日)アコラでのジヴェルニー・コンサートで演奏しました。 今回参加者が多かったのは前に言ったとおりですが、ここで初めて演奏する人も何人かいて、私の生徒さんも3人ほど演奏しました。 客席とステージが近いので、最初はちょっと緊張していたようですが、それぞれギターらしい音色を出していたのではないかと思います。

 埼玉ギター・コンクール第2位の鈴木幸男さんの入賞記念演奏があるのかなと思ったのですが、指を休ませるためということで、今回は聴けませんでした。

 私の演奏のほうは前述のとおりコストのエチュードとバッハのシャコンヌでしたが、ここでのコンサートに聴きに来る人はほとんどがギターを弾いている人なので、こうした練習曲などはこれからも時々弾いてみたと思います。 

 このシャコンヌについては弾くのも、書くのもなかなかたいへんですが、この前(17日)よりほんのわずか前進したかなと思います。

 ではまた本題に戻ります。





48~75小節

 ここで気が付いたのですが、これまで小節数を一般的な方法に従い、最初の不完全小節を数えないで、次の完全小節を「1」と数えていましたが、この音楽の友社の楽譜では最初の不完全小節を「1」と数えています。

 従って、小節の数え方が1つずれてしまいましたが、 これまでこの方法で書いてきてしまいましたので、このままの数え方で話を進めてゆきます。 その方がバッハの意図どおり、最後が256小節となります。




64~75小節は48~63小節を装飾したもの = 変奏の変奏

 さて、この48~75小節の4×7=28小節は一つのまとまりを成しています。 後半の64~75小節の4×3は32分音符による部分で、弾く方としてはなかなかたいへんなところですが、第1部の一つのクライマックスにもなっています。

 またその64~75小節は48~63小節を装飾したもので、64~67は48~51と、68~71は52~55小節とそれぞれ対応していますが、72~75ははっきりしません。



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の部分(64小節~75小節  譜面の小節番号と文章の小節番号は1小節ずれている) はの部分(48~63小節)を装飾したもの


 この部分(48~75小節)では、上声部の動きが激しいので、低音は省略気味になっていますが、「レ、ド、シ、ラ」と言うような順次進行に簡略化されているところが多いようです。 また音型的な動きが活発なために、和声的には単純になっています。




76~87小節

 76~87小節はその前の32分音符のパッセージを受け、それを32小節にわたるアルペジオを部分に入るための導入部といった感じになっています。

 76~83小節は16分音符で出来ていて、動きとしては前後の部分より大人しいのですが、和声的には複雑になっていて、例えば76小節では、Ⅰ-Ⅵ-Ⅴ/Ⅴ (コード・ネームでは、Dm-B♭-E7)と1小節の中で3つの和音が出てきます。



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76~83小節(線)は、次のクライマックスへのつなぎとも考えられるが、和声的にはむしろ複雑になっている。 またアルペジオ(★印以降)の部分はコラールのような書き方をしている。 オルガンなどで演奏すれば普通に聴こえるかも知れないが、ヴァイオリンで演奏すると、より緊張感が高まる。



和声的により複雑に

 80小節からはさらに和音が複雑になり、最初の小節と言えどもⅠの和音(Dm)にはなっていなくて、はっきりはわかりませんが、Ⅱ9の和音(E9-♭5)の転回形のようです。

 いずれにしてもたいへん緊張感のある部分です。 84小節からは再び32分音符の部分となり、高音域まで上がり、第1部のクライマックス、その2とも言えるアルペジオの部分に入ります。




88~119小節 ~アルペジオの部分

 ここは4×8=32小節のアルペジオの部分ですが、楽譜には和音が書いてあるだけで、それに「アルペジオ」と但し書きがされています。

 具体的な弾きか方ははっきりとは書いていないので、演奏者がある程度自分の判断で演奏します。 ギターのほうでもいろいろ凝った弾き方をする人もいます。 




クライマックスがクライマックスとして

 基本的には4声または3声のコーラスのように出来ていて、これをオルガンやコーラスなどで演奏したら割りと普通なのでしょうが、ヴァイオリンでこれを弾くとなると話は別で、相当な技術が必要となるでしょう。

 それに比べればギターで弾くのは 簡単とは言えませんが、それほど無理ではないでしょう。 もっともヴァイオリンに過酷な要求をしたことにより、いっそうクライマックスがクライマックスとして聴こえるのかも知れません。




一見同じように見えるが、それぞれ特徴がある

 この 「8×4小節」 はもちろんそれぞれに特徴があって、決して皆同じようではありません。 88~91はその前の高く上がった音域を受けてだんだん下がって行きますが、声部の逆転があるのが特徴です。

 これはヴァイオリンの開放弦の関係だと思いますが、これはギターでも同じなのでたいへん都合がよいです。 92~95は低音に動きを持たせています。

 96~99はその低音の動きを上声部に持ってきています。 100~103ではそれが中声部に現れます。 104~107は半音階的な動きが特徴でしょうか。

 108~111は半音階的に上昇してゆき、112小節で頂点を作っています。 クライマックスのクライマックスというところでしょうか。 アルペジオの部分の最後の”しめ”となる116~119は前の112~115での半音階的な下行を受け、上声部は半音階的に下がりますが、低音部は全音階的です。



120~131小節

 いよいよこれで第1部が終わりとなり、この部分は第1部のコーダのような役割をしています。32分音符が中心の120~123でそれまでのアルペジオの部分を受け、124から最初のテーマが少し変えられた形で再現され、この第1部が終わります。

 このテーマの再現は冒頭のものより全体に音域も高く、より高らかに鳴り響くように書かれ、この第1部が壮大に終わります。



だいたい半分だが、正確に半分ではない

 厳密にはこの第1部は132小節の1拍目までとなり、全体の256小節のほぼ半分にあたります。 正確に半分ということなら128小節となるはずですが、なぜか4小節多くなっています。 

 理由はよくわかりませんが、少なくとも8小節単位ではなく、4小節単位で作曲されてきたことがわかります。


バッハ : シャコンヌ 4


 ではこの曲を最初から見てゆきます。話はオリジナルのバイオリンの譜面(音楽の友社)でしますが、ギターの編曲譜でも大丈夫だと思います。なお以下は一般論というより、私の個人的考えと理解して下さい。




<第1部 0~131小節>



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バッハのシャコンヌの冒頭部分、一つの変奏は4小節とも、8小節とも考えられる。 このように2拍目から始まるシャコンヌは決して多くはない。


アウフタクト

 冒頭のテーマは2拍目から始まるアウフタクト(不完全小節)となっています。 前述のとおりあまりたくさんのシャコンヌを知らないので、こうした始まりがシャコンヌとして一般的なのかどうかわかりませんが、.S.L.ヴァイスのシャコンヌをはじめ、 ヘンリー・パーセル、 ロベルト・ド・ヴィゼー、 コルベッタなどのシャコンヌを聴いた限りでは、2拍目から始まるものはないようです。

 シャコンヌが一般的にアウフタクトで始まるかどうかということについては、音楽辞典などには書いてありませんが、他の少ない例からすれば1拍目から始まるのが最も普通のようです。 場合によって8部音符などのアウフタクトが付くのではないかと思います。 

 少なくとも、このバッハのシャコンヌにおける2拍目からの開始は、一般的な習慣に従ってというより、バッハが何らかの意図、あるいは理由があってこの開始を採用したのではないかと思います。




ヴァイスは同じ和音が2小節続くのを嫌って、一つの変奏を7小節とした

 まずそのことの一つとして考えられるのは「小節数」ではないかと思います。 ヴァイスのシャコンヌはアウフタクトを持たず、1拍目から始まりますが、テーマおよび各変奏はは7小節で出来ていて、最後の変奏だけ終始の小節が付き、8小節になっています。

 各変奏を8小節にしなかった理由は、おそらく、8小節にすると次の変奏に移る時、前の変奏の最後の小節と、次の変奏の最初の小節は、それぞれ主和音になると思いますが、そうすると同じ和音が2小節続くことになります。

 ヴァイスの場合はそれを嫌って各変奏の8小節目になるはずの小節を省略し、各変奏の終止の小節が、次の変奏の最初の小節になるようにしたものと思います。


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ヴァイスのシャコンヌの冒頭部分、 1拍目から始まっている。 前の変奏の最後の小節が後続の変奏の最初の小節を兼ねるために、一つの変奏が7小節となっている。



バッハは4の累乗数にこだわった

 バッハという人は、数にはたいへんこだわる作曲家で、バッハのシャコンヌは、8×32=256小節と、4の累乗数になっています。バッハにとって音楽と数というのは何かとても神聖な関係があって、重要な作品はこうした小節数になならければならないという考えがあったのかも知れません。

 バッハのシャコンヌではアウフタクトを用いることより、巧みに同じ和音が2小節続かないようにすることも、全体を4の倍数の小節で構成することも実現されています。




いきなり

 もっとも小節数の問題は他にも解決方法があるでしょうから、この理由は仮にあったとしても付随的なものと思われ、他にもう少し大きな理由があるのではないかと思います。

 和声的に見てみると、最初の不完全小節は常識どおり下から「レ、ファ、ラ」の主和音となっていますが、次の小節(1小節目)の1拍目は「レ、ソ、シ♭、ミ」という不協和和音になっています。

 これは「レ、ソ、シ♭」のⅣの和音に6度の音の「ミ」を加えたもので(コード・ネームで言えばGm6)、ありえなくはないですが、「増4度」や「9度」の音程を含み、不協和度の強いものです。

 普通こうした不協和音に進むためにはなんらかの準備をしますが、なんの準備もないばかりか、「ラ」からいきなり「ミ」まで5度跳躍になっています。


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1小節目の1拍目の和音(〇印)はコード・ネームで言えばGm6だが、7度や減5度などの不協和音程を含み、緊張度の高い和音となっている。 この緊張感をいっそう強くするために2拍目から始まるのではと考えられる。




最初の小節の1拍目が最も緊張感が高い

 つまりこの1小節目の1拍目に和声上に強いアクセントが付き、このテーマの中では最も緊張感の高いところになっています。 この曲を聴く人はこの冒頭の部分を聴いただけでも何か 「凄そうな曲」 とか 「ただならぬ曲」 といった印象を受けると思います。

 バッハは冒頭から聴く人を自分の世界に引き寄せることを狙ったのでしょう。 バッハはこの和声上のインパクトをリズムの上からも支えるべく、このような不完全小節を採用したのではないかと思います。

 不完全小節の最後に置かれた8分音符も次の小節の1拍目に力点が置かれることに役立っているのもまた確かでしょう。 もっともこの8部音符はしばしば16分音符として演奏されますが、次の小節のインパクト度を増すためには有効でしょう。



どちらにしても

 以上のことは本当のバッハ自身の考えにどれだけ近いかはわかりませんが(相当遠いかも知れません)、バッハの作曲の仕方に 「なんとなく」 というのはなく、それぞれに意味があるのは確かでしょう。 またこの曲の冒頭を聴いただけでも「偉大な音楽」と感じられるのも確かでしょう。





0~23小節

 1小節目のところだけでもたいへん時間がかかってしまいました。 この調子で行ったらいつになっても最後まで行き着きません、以下手身近に話を進めましょう。

 4小節+4小節=8小節のテーマのあと、「第1変奏」と言いたいところですが、この表現はあいまいなので小節数で言いましょう。 

 8~15小節これは文字通りテーマの変奏で、テーマのリズムや和声などを大体残していて、さきほどの「レ、ソ、シ♭、ミ」の和音の他に 「レ、ファ、ラ、ミ」 という不協和音も出てきます。

 これは正式な和音ではなく「非和声音」を含む和音ということでしょうが、「長7度」つまり半音違いの音を含む、かなり不協和度の強い和音ですが、付点音符で刻まれるテノール声部の旋律と合わせて、曲の「威厳」とか「偉大さ」を演出しているように感じます。

 なお和音に「ミ」が加えられているのは「ミ」が開放弦になっている(ヴァイオリンの場合でも)こともあるでしょう。  次の8小節(16~23)も前の変奏の声部を入れ替えたような感じで、ここまでは大体ひとまとまりになっていて、冒頭の威厳に満ちた部分を構成しています。



24~47小節

 次の24小節目からは一転し、音楽は柔らかく、流動的になってきます。 明らかに前の部分の対比になっています。 リズムの要素はなくなり、低音だけがテーマから受け継がれます。

 上声部は8分音符や16分音符で流動的な感じになり、8小節単位という感じはまだ若干ありますが、後半の4小節は前半の4小節の「変奏」あるいは「装飾」といった感じになり、4小節単位といった感じも出てきます。

 また28~31小節では低音も省略気味になりますが、ギターへの編曲では付け加えている場合も多いでしょう。 32小節~39小節では低音が半音階的な動きに変更されています。

 「低音を主題に持つ変奏曲」といっても、その低音主題は多彩に変化していることが以下を見てゆくとよくわかります。 40~47小節では前半と後半の音階の上がり、下がりが反対になっています。