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中村俊三 ブログ

中村ギター教室内のレッスン内容や、イベント、また、音楽の雑学などを書いていきます。

私のギター修行 20



<スタート・ライン~最終回>



5年生でも定期演奏会に

 3年生の冬頃ギター部をやめ、4年生の頃は精神的にも行き詰っていましたが、しだいに落ち着きをとりもどし、5年生(?)になって復部しました。

 とはいってもこの頃にはギター教室の仕事も始まり、また地学科に移って授業にも出るようになったので、正規の練習にはほとんど出ず、暇な時に部室にたむろする程度でした。

 でも定期演奏会にはしっかりと独奏(グラナドス:スペイン舞曲第5番、トロバ:マドロニョス)と協奏曲(バッハ:ヴァイオリン協奏曲ホ長調)のソロ・パートをやらせてもらいました(強引にやってしまった?)。

 またこの頃から、顧問の先生やギター部の後輩たちと麻雀をやるようになり、卒業してからも結構やっていました。

 多い時には週に3、4回やっていたと思います。 そのメンバーとは今でも時折、卓を囲んだりしますが、相変わらず麻雀は強くならないようです。



現役なのに講師?

 6年生になると、私は在学中にもかかわらず荻津先生に代わって「講師」に任命されました。 まあ、ていの良い追い出しといったところでしょう。

 その後20年間ほど断続的に後輩たちの指導をしましたが、90年代の半ば頃にはその講師の肩書も自然消滅となってしまいました。




吉田秀和氏の著作

 ギターの方は松田先生に習ったあと、特に先生について習う機会もなくなってしまいましたが、それ以後はギターの演奏技術よりも一般的な音楽を勉強しようという気持ちの方が強くなり、いろいろな音楽を聴いたり、音楽に関する理論書や評論集などを読んだりすることの方が多くなりました。

 その頃からFM放送で聴いたのをきっかけに吉田秀和氏の著作も読むようになりました。

 また音楽史には特に興味を持ちましたが、音楽史を理解するにはヨーロッパ史、あるいは美術史も勉強しなけらばならないと思い、それらの関係の本も読むようになりました。




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水戸芸術館の館長でもあった音楽評論家、吉田秀和の若い頃の写真。 吉田氏の著作は大部分読んだ。




「茨城大学6年生の中村さん他」

 6年生の時、ギター部の後輩で、当時4年生だった高矢君と小笠原君と一緒に茨城県民文化センターで、コンサートをやりました。

 それが自分で企画した最初のコンサート、あるいは自分の独奏を中心とした初めてのコンサートでした。

 その時新聞社者の人から電話があり、いろいろ聞かれたあと、「何年生ですか」という質問に「6年生です」と答えたら、新聞にそのまま「茨城大学6年生の中村さん他」と紹介されてしまいました。

 自分のコンサートを新聞などで紹介してもらったのも、この時が初めてです。

 高矢君、小笠原君は、音楽的な知識も、音楽を聴く耳も優れていれ、彼らには音楽的にたいへん啓発されました。




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大学6年の時には高矢君(左、現在ギター・ショップ・カリスのオーナー)などと初めてのコンサートを行った。




教える事の難しさ

 5、6年生の頃は、一応授業に出ながらも、週に4~5日くらいギター教室の仕事をしていて、結局卒業してからはそれが本業となりました。

 しかしまだまだ自分のギターの演奏能力や、音楽的な知識、経験はもちろん、教え方など全くわかっていなくて、勉強しなくてはならないことだらけでした。

 同じ教えるといってもギター部の学生を教えるのと、一般の人、それもレッスン料をいただいて、なお且つ生活をかけて教えることとは雲泥の差です。

 教えることの難しさは今もって大いに感じる事ですが、ともかくもその試行錯誤の毎日が始まりました。

 卒業しても日々の生活そのものは特に変わりませんでしたが、しかし学生でなくなったということは気持ちの上では大きく、本当にこの仕事を続けて行けるのだろうかという不安、あるいはプレシャーは大きくなりました。

 アルバイト気分でギターを教えていた時と、本業としてギターを教えるのとでもかなり違いました。




中村ギター教室

 大学を卒業すると、それまで住んでいた部屋を出て、現在の住居に比較的近い所に家を借りました。

 その自宅でもレッスンをするようになり、「中村ギター教室」 が発足しました。

 さらに数年ほどして現在のところに引越し、今現在に至っています。




スタート・ライン

 以上のように私は、1975年に茨城大学を卒業し、ギタリスト(自称?)としての生活が始まりました。

 しかしこの段階では前述の通り、ギターの方もですが、特に人間的には本当に未熟で、「私のギター修行」 はまだまだこれからというところですが、でも何とかスタート・ラインには立てたということで、話はこの辺にしたいと思います。




心から感謝の気持ちを

 こうして振り返ってみると、私が成長し、この仕事に就くにあったっては、本当にいろいろな人の暖い気持ちに支えられてきたことを、あらためて感じました。

 この場がふさわしいかどうかわかりませんが、そうした方々に心から感謝の気持ちを伝えられればと思います。

 長い、長い自己紹介になってしまいました。

 お付き合い下さった方々、本当にありがとうございました。

 
  
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私のギター修行 19



<大学卒業>



理学部地学科    

 大学4年生の頃は一時期、精神的な不安定も手伝って、大学をやめようと思っていました。

 しかし4年生の終わり頃にはやや落ち着きを取り戻し、また荻津先生からギター教室を何ヶ所か任されるなど、多少ギターの方でやってゆく見通しもつきかけてきたので、多少年数はかかっても大学は卒業しようと考えるようになりました。

 当時茨城大学の理学部には地学科(現、地球物理学科)もありましたが、その頃はまだ正式な学科になっていなくて、教養部から専門の学部に進級する際に他の学科などから転科する形になっていました。

 幸いにして転科に必要な単位はとっていたので、普通の学生より2年遅れにはなりますが、新規一転、地学科に転科して卒業を目指すことにしました。

 もっとも地学科は正式の学科ではないので、形の上では物理学科在籍で、卒業も物理学科卒業ということになります。




地学科の授業

 地学科は当時、先生が3人に学生が私を含め6~7人と、こじんまりした学科でしたが、とても家庭的な感じで、先生や他の学生たちと親しくすることが出来ました。

 時折先生方はじめ、地学科のメンバーで飲みにいって、いろいろ話を聴かせていただいたり、また語り合ったりしました。

 地学の授業は、時には野外実習があったり、また資料作成などの細かい手作業があったりで、いつもピリピリとした雰囲気だった物理の授業に比べ、何かほっとするものがありました。

 地学科に移ってからはギター教室の仕事も結構ありましたが、授業にはちゃんと出て、必要な単位は修得し、卒業研究も仕上げることが出来ました。

 卒論の先生である高橋先生には、とても親身に指導していただきましたが、私がギターの方に進むということも理解していただき、また私の演奏会にも聴きに来ていただきました。




卒研発表会

 私の卒業研究は 「水戸層における放散虫の研究」 というものでした。

 放散虫というのは海中の微生物の殻の化石で、当時まだよく研究されていない分野でした。

 偕楽園や那珂川沿いに露出している地層(水戸層=新生代、第4紀、更新世)から岩石を取り出し、研究室でそれを砕いて、顕微鏡を見ながら小さな化石を一つずつ筆先で拾い出しました。

 合計数千個ほど集めて、当時なされていた分類法によって分類しました。

 卒論発表会は地学科のOB(ほとんどの人は地学の先生!)がたくさん列席している前で行います。

 拙い卒論ではあったと思いますが、そういう人たちの前で発表するのは、緊張もしましたが、自分も一端の地学科卒業生になれた気がして、今では楽しい思い出の一つです。



Haeckel_Cyrtoidea.jpg 私の卒業研究は 「水戸層における放散虫」 の研究だった。  新生代更新世の海中に浮遊している生物の微化石の収拾と分類といったもの。




僕の卒業証書ありますか?

 卒業式の日になりました。私は2年遅れで、卒業式に出るのが恥ずかしかったので、式が終わった頃を見計らって、事務局に卒業証書をもらいに行きました。

 不思議に思うかも知れませんが、この時は私はまだ自分が卒業できたかどうかはっきりわからなかったのです。

 卒業近くなっても特に大学の方から通知が来るわけでもなく、ただ自分自身で修得した単位数を計算して 「単位は足りている」 と思っているだけですから、どこかで計算違いとか手違いなどあれば 「あなたの卒業証書はありません」 と言われる可能性もあったのです。

 事務局で 「物理学科の中村ですが、僕の卒業証書ありますか?」 と聴くと、その事務の人は私の質問には答えず、

 「物理学科の中村君ね・・・・  はい、これ」

 といって卒業証書と卒業証明書を渡してくれました。

 とてもほっとしました。 ちゃんと単位は足りていると確信はしていたのですが、証書をもらうまでかなりドキドキでした。

 私自身としてはそれほど卒業にこだわったわけではないのですが、両親のことを考えると、絶対必要なものと思いました。

 卒業証書はつい最近まで、栃木の実家の、いつも父が座っているところのすぐ上にずっと掛けてありました。

 卒業証明書の方は、結局使うことは一度もありませんでした。




大学生活6年間

 という訳で普通の人より2年余計に大学生をやりましたが、そのほとんどはギターや、音楽に携わって過ごしていました。

 肝心な勉強、特に専門の物理学の方はたいして理解できずに終わってしまいました。

 しかし結果的に数学、物理学、地学などをほんの少しずつ学び、またそれまであまり興味のなかった文学や、芸術、西洋史などにも興味を持つようになりました。

 6年間が終わってみれば、どの分野においても深い知識は得られませんでしたが、「広く、浅い」 知識は身に付けることが出来たと思います。

 今の仕事を考えれば、それはかえって良かったのではないかと思います。

私のギター修行 18



<ギターへの道>



将来のための唯一の選択肢

 4年生になってしばらくすると、物理学の授業には完全についてゆくことが出来なくなり、ほとんど授業にも出なくなりました。

 さらにそれまで生活のすべてだったギター部もやめ、精神的にも行き詰ってしまいました。

 学業のほうでの将来の見通しが全くつかなくなったその状況では、私は自分の将来をギターにかけるしかありませんでした。

 それが冷静考えて、自分の将来の仕事としてふさわしいかどうか、あるいは私にその資格があるかどうかではなく、それがその時の私が、私自身の将来のために出来た唯一の選択でした。




荻津節男先生

 もちろんプロのギタリストになるために具体的にどうしたらよいかなど全くわかりませんでしたが、まず何と言っても自分の実力を付けるしかないと思い、ギター部のOBでもあり、講師でもあった荻津節男先生のところに習いに行くことにしました。

 荻津先生には時には時間を忘れ、たいへん丁寧にレッスンをしていただきましたが、私がギターをちゃんと習うのはこの時が初めてです。

 先生からは「カルカッシ25の練習曲」などのレッスンを受けました。

 入門してすぐに発表会にも出していただきました。 

 「曲は何にする?」 と聞かれ、発表会まで1ヶ月足らずにもかかわらず、その時点でほとんど弾いていなかったポンセのイ短調組曲の 「アルマンド」 と、ヴィラ・ロボスの 「練習曲第1番」 と答えていました。 今では考えられません。



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私(中央)の左側が荻津節男先生。 荻津先生に習い始めるとすぐにそこの音楽教室の講師になった。



ギターのほうだけじゃなく、話し方とかもね

 荻津先生にはレッスンだけでなく個人的にもいろいろ相談に乗っていただきました。

 自分から切り出した訳ではないとは思いますが、確かにそんな雰囲気を醸し出していたのでしょう。

 荻津先生の方から 「中村君、プロになりたいの?」 と言って下さいました。

 「そう、じゃ、いろいろ勉強しなくちゃね・・・・ ギターだけじゃなく、話し方とか、弾けるだけじゃ教えられないからね」

 といった内容のことを、その時先生はおっしゃられた思います。

 その頃の私は、どちらかと言えば無口な方でしたが、たまに口を開くと、相手の考えや立場など全く考えず、また何の気遣いもせず、一方的に自分の考えをしゃべりまくったりしていたと思います。

 おそらく相手の人に不快な感じを与えたりしたことも多々あったのではないかと思います。

 さらにそのことに気が付かなかったことが大きな問題だったでしょう。




ギター教室の仕事

 荻津先生に習うようになって数ヶ月経った頃(4年生の夏)から、先生の暖かい心遣いで、土浦市や水戸市内などのギター教室の講師の仕事をいただくようになりました。

 それまでギター部で後輩たちを指導したりはしていたのですが、実際に一般の人を教えるのはずい分と違いました。

 また年齢や個人差も大きく、使用している教材もほとんど人によって違うので、それにも困惑しました。

 初めて見る曲も結構多く、初見で生徒さんに弾いて聴かせたり、楽譜を見るだけで曲の内容を把握しなければならないこともよくありました。

 もちろんそれが十分にこなせたわけではありませんが、私自身にとってよい訓練になったのは確かです。

 翌年になると(5年生=まだ在学中)さらに仕事をいただき、日立市や、石岡市、水戸市などの音楽教室で週に4~5日、ギターを教えるようになりました。




松田晃演先生

 また荻津先生に習い始めて7~8ヶ月くらいたった頃(4年生の秋)、荻津先生から他の先生に習ってみるように薦められ、石岡の一ノ瀬(現性、北村)さんの紹介で、当時東京にいらっしゃった松田晃演先生のところに習いに行きました。

 松田先生は、アンドレ・セゴビアに師事し、また渡辺範彦さんや、菊池真知子さんなどのすぐれたギタリストを育て、NHKテレビのギター教室の講師なども担当した、たいへん評価の高い、権威ある先生でした。




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松田先生のレッスンでは、音色、音量、テンポの変化など、先生の弾いた通り、つまり ”完コピー” が要求された。
チューニングは順番を待つ間に、そっと先生のギターに合わせておかなければならない。





初級から

 松田先生のところではカルカッシやカルリなどの初級の練習曲を中心にレッスンを受けました。

 松田先生のレッスンは簡単なものから、きっちり表情付けを行うというレッスンで、先生の意図をその言葉や先生のギターの音から読み取らなければならないのですが、それは当時の私にとってとても勉強になりました。

 また簡単な曲でもちゃんと弾けばやはり良い曲になるということも学びました。

 さらに間近で聴く先生のギターの音はとても美しく、開放弦ですらとても柔らかく、ふっくらとした音でした。




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このような単旋律の簡単な曲でも細かな表情付けを指導された。 譜面の書き込みはすべて松田先生によるもの。




他の生徒さんのレッスンを聴いて覚えた方が多かった

 目黒のあった松田先生のレッスン室には私と同年代くらいの多くの生徒さんが習いに来ていました。

 したがってレッスンの番が回ってくるまでにはかなり時間がかかり、実際にレッスン受ける時間は10~20分程度でした。

 それだけでは、わざわざ東京まで出てくる意味がないので、順番が回ってくるまでの間と、自分のレッスンが終わった後に、楽譜を見ながら他の人のレッスンをずっと、3時間くらいは聴いていたと思います。

 実際には松田先生のところでは直接レッスン受けて覚えた事よりも、そうして他の人のレッスンを聴いて覚えた事のほうが多かったと思います。




そっと小さな音で先生のギターの音に調弦する

 また、その先生の貴重な時間を無駄遣いする訳にはゆかないので、チューニングは、順番を待っている間に、そっと先生のギターの音に合わせておきます。

 そうして実際に自分の番が、回ってきた時には、先生のギターの音と完全に同じ音にしておかなければなりません。

 たまに先生にチューニングを直されると、かなり失敗した気持ちになります。

 松田先生には、先生が東京を離れるまで、1年弱ほど習いました。




両親に

 両親にはいつ私がギターで仕事をしてゆくということを言ったのか、あまり記憶が定かでありませんが、おそらくぼちぼちギター教室の仕事などを始めていた頃だと思います。

 両親といっても相変わらず父とは正面から話が出来なかったので、母に話しただけですが、特に驚きも反対もされず、「あ、そう」というくらいな感じだったと思います。



察しは付いていた

 それまでの私の行動などから、ある程度察しはついていたのでしょう。

 母には大学在学中に2度ほど楽器(富田修、ホセ・ラミレスⅢ)を買ってもらったり、また定期演奏会には毎回来てもらっていました。

 母が「お前は私の父親の血をひいて芸事の才が・・・・」と言っていたのは、だいたいこの頃です。

 結局のところ、私は祖父の芸事の才も、また放蕩癖も受け継ぎがなかったことは、前に言ったとおりです。

 
私のギター修行 17



<先の見えない>



ギター部を退部

 指揮者を務めた3年生の時の定期演奏会が終わってしばらくすると、私は自分の将来などのことを考えギター部をやめました。

 それまで生活も友達付き合いも、すべてギター部中心だったので、ギター部をやめると私の周囲には誰もいないということに気が付きました。

 それまで大勢の仲間たちと楽しく過ごしてきただけに、それはとても辛く感じました。

 ギター部にいた最後の頃には 「ギターが好き」 というより 「ギター部の仲間が好き」 というようになっていたのかも知れません。




明らかに異常な状態に

 下宿も変わったこともあって、ギター部をやめてしばらくの間は、友達どころか、話をする相手もいなくなりました。

 1日のうちで言葉を発するのは、夕方、近くの食堂に行って「定食」と言うだけ、などという日が何日も続きました。

 さらにこの頃になると物理の授業には完全についてゆくことが出来なくなり、授業にはほとんど出なくなりました。

 何かすべてが行き詰まりになってしまい、どうしてよいかわからない状態になってしまいました。

 ほとんど食べ物がのどを通らなくなったり、一晩中寝付かなかったり、精神的にも、肉体的にも明らかに異常な状態となって行きました。




精神的に自立するために

 一時期は心も体もひどくバランスを失い、極端な孤独感に襲われ、先の見えない暗闇に放り出されたような心境でした。

 この時あらためて自分の弱さに気づきました。

 次第に、これではいけないと考えるようになり、もっと自分が強くならなければならないと思うようになりました。




ロマン・ローラン

 それまで高校時代なども含めて文学などはほとんど興味がなく、小説などもあまり読まなかったのですが、この頃から読むようになりました。

 スタンダール、ロマン・ローラン、トルストイなどを読みましたが、特にロマン・ローランの「魅せられたる魂」には共感し、何度か読み直したりしました。

 同じロマン・ローランの 「ジャン・クリフトス」 は音楽家が主人公だったので、興味を持って読みました。

 トルストイの 「戦争と平和」 は歴史論的なことが書いてあって、それに啓発され、歴史、特にヨーロッパ史に興味を持つようになりました。

 それまでの私はこうした一般教養に欠けるところがありましたが、精神的に自立するためにはもっと教養を深めなければならないと感じるようになりました。




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当時ロマン・ローランの「魅せられたる魂」や「ジャン・クリフトス」は私の愛読書だった。




その頃聴いた音楽は

 その頃の私にはギターを弾くこと、本を読むこと、そして音楽を聴ことしかなくなってしまいました。

 こういう時に聴いた音楽というのは体にというか、心にしみ込んでしまうようです。

 バッハの「マタイ受難」、 シューベルトの「冬の旅」、 モーツアルトの「クラリネット5重奏」、 「フィガロの結婚」、 「交響曲40、41番」、 「ピアノ協奏曲」、 「レクイエム」。

 ベートヴェン、ブラームス、ブルックナーの交響曲、 ドビュッシーの「海」、 ストラビンスキーの「春の祭典」、 バルトークの「弦、打、チェレスタ」・・・・・

 その頃聴いた曲は今でも私の愛聴盤になっています。



                    
私のギター修行 16



 理学部物理学科



理学部物理学科に入学したはずだが

 これまでの話のとおり、私は1969年に茨城大学の理学部物理学科に入学したのですが、これまではギターの話ばかりで、その物理学の方の話はほとんど出てきませんでした。

 だいたいのことは皆さんのご想像どおりですが、しかし私は決して最初から勉強の方を捨ててしまったわけではありません。

 1年生では授業は教養部だけですが、もちろん授業はちゃんと出て、語学など必要な単位はすべて取りました。

 2年生になると専門の授業がはじまり、私としては普通程度に出席し、予習などもそれなりにやっていたのですが、試験の成績が及第点に及ばず、最終的に重要な科目の単位を2つ落としてしまいました。




自分だけは大丈夫

 当時の物理学科は規定の点数に1点でも足りないと即、落第となりました。

 私だけでなく、クラスの半数以上が単位を落としたと思います。

 1年生の時から物理学科の厳しさは先輩たちから聞かされていましたが、その時はまだ、自分だけは大丈夫と思っていました。 しかし、だんだんそれを実感するようになってゆきました。




中学生レヴェル

 2年生の後半頃だったと思いますが、物理学科では厳しいことで有名なS先生の物理数学の授業で演習問題があり、私にも1問課題が出されました。

 授業ではやったことのない問題だったので、あれやこれやいろいろ調べて、そのうち図書館でその問題に関する本を見つけ、その問題の解法が書いてあったので、それに従って計算し、答えがなんとか導き出せました。

それを授業の時、黒板に書くと、S先生は、



 「これ誰やったの?   君?   何これ・・・  これ、中学生の解き方だろ。 ただの代入計算なんて・・・・  この式を導くのが問題じゃないのか、  えっ?・・・・   話にならん。   次っ・・・・・  」


 もちろん私のショックは大きいものでした。しかしこの件に関しては2年後にもう一度ショックを受けます。

4年生になって固体力学という授業がありましたが、その授業の中でこの問題が出てきたのです。

 その授業では細かく道筋を踏んで話を進めてくれたので、さすがに私にも理解出来ました。

 それにしてもS先生は当時2年生の私に、4年生の授業でやる内容の問題を課したのです。

 確かにそれを平気でこなす学生もいたのですが。




トラウマ

 余談になりますが、S先生から「中学生レヴェル」、と言われたことについては、その後の私にとって、一種のトラウマになってしまったようです。

 大学を卒業してからも物理や数学の試験の夢をよく見ました。 もちろん全く出来なくて苦しんでいる夢です。

 するといつの間にか私は中学生にもどってしまい、中学校の問題がわからなくて苦しんでしまいます。

 散々苦しんだ後目が覚めて 「そうだ、オレは中学どころか、大学までちゃんと卒業したんだっけ」 と胸を撫で下ろします。

 また別な時には大学は卒業したのだけれど、中学校の勉強が不十分だったからといってまた中学校に入学し直します。

 まわりは普通の中学生なのですが、私だけ30代か40代になっていて、とても居心地の悪い状況です。

 卒業後はそんな夢をしょっちゅう見ていて、見なくなったのはせいぜいこの10年くらいです。

 もっとも今現在は大学の数学どころか、三角関数とか対数、微分方程式などの高校の数学も全くわからなくなっていますから、私の数学などの実力は本当に「中学生レヴェル」です。



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あの中村はどうしている

 それからしばらくして、私がもうほとんど授業には出なくなっていた頃です。

 同じ下宿の物理学科の後輩がS先生がゼミについていて、S先生はその後輩 (とても真面目で、成績も優秀) に、こう訪ねたそうです。



 「ところで、あの中村はどうしてる、 君と同じ下宿だったよな。  彼、ギターまだやっているのか・・・・   そう、 なるほど。  そういえば、俺も昔ギターに凝ったことがあったよなあ、プロになりたいなんて思ったりして・・・・ 」




私がギターをやっていることも知っていた

 その話を後輩から聴いた時、私は目頭が熱くなりました。 

 私は物理学科の学生でありながら、物理の先生とほとんど話をしたことがありません。

 特に厳しいことで有名なS先生は”赤鬼”と呼ばれ、私にとっては文字通り鬼よりも怖く、話をするどころか、半径3メートル以内にも近寄った事がありませんでした。

 また、当然、私のような出来の悪い学生など、S先生が顔も名前も知っているはずがないと思っていたのです。

 そのS先生が私の名前を知っているだけでなく、私のことを気にかけてくれて、ギターをやっていることなども、よくご存知だったのです。




ついてゆける学生と、そうでない学生

 大学入学後、私は確かにギターには熱中していたのですが、でも3年生くらいまでは将来の仕事、つまりプロのギタリストになることなどは考えていませんでした。

 ギターはあくまでも趣味で、自分は物理学の関係で仕事をして行くつもりで、勉強もそれなりにはやっていました。

 しかし物理学というのはそんな中途半端な気持ちでは出来るものではなかったようです。

 高校の担任の先生が 「物理はやめた方がいいぞ」 と言った意味がこの頃になってようやくわかってきました。

 ちなみにその担任の先生は物理の先生でした。

 3年生くらいになると、物理学科の学生は、授業についてゆける学生とそうでない学生とにはっきりと分かれてしまいました、もちろん私は後者のほうです。




大学に入る前から物理の勉強をしていた

 授業についてゆける学生は、まず大学に入る前からすでに大学の物理学を勉強していましたて(受験の物理ではない!)。

 1年生の時からすで専門の学科の勉強を始め、常に先生たちの研究室に出入りし、先生たちにいろいろ聴いたり、また物理学について議論しあったりしていたようです。

 高校の延長のような気持ちで ”とりあえず” 授業に出て、授業以外の時間はほとんどギター部の部室か練習場ですごしていた私などとは全く比較になりませんでした。