中村俊三 ブログ

中村ギター教室内のレッスン内容や、イベント、また、音楽の雑学などを書いていきます。

ヴィヴァルディ:ヴァイオリン協奏曲集

「四季」作品8−1〜4   ヘ長調(3つのヴァイオリン)RV.551   ニ短調 RV.128

『人間的情熱』
ホ短調 RV.277「お気に入り」   ニ長調 RV.234「不安」   ハ短調 RV.199「疑い」
ホ長調 RV.271「恋人」      ハ長調 RV.180「喜び」   ト短調 RV.153「変わり者」

『祝祭日のための協奏曲集』
ニ長調 RV.212「パドヴァの聖アントニウスの聖なる舌の祝日のために」   ホ長調 RV.270「安らぎ」
ヘ長調 RV.286「聖ロレンツォの祝日のために」         ニ長調 RV.582「聖母昇天のために」
ハ長調 RV.581「聖母昇天のために」              ニ長調 RV.208「LDBV」

violin : Giuliano Carmignola Sonatori de la gioiosa Marca


耳にタコが出来るほど

 
 今年の夏はそんなに暑くないなんて思っていたら、このところだいぶ暑くなってきました。でもまだ35度を超えたりはしていないのですから、まだまだなのでしょうけど。


 ヴィヴァルディは普段あまり聴かないのですが、なぜか暑くなると聴いてしまいます。ヴィヴァルディの音楽の風通しのよさが夏向きなのかも知れません。


 ヴィヴァルディは、確かに最近はあまり聴かなくなりましたが、クラシック音楽を聴くようになった当初はよく聴きました。当時は一般的にもバロック音楽、特にヴィヴァルディの「四季」の人気が高かった頃でした。私自身ギター以外で最初に買ったLPレコードが、イ・ムジチ合奏団のヴィヴァルデイのバイオリン協奏曲「海の嵐」と「3つのヴァイオリンのための協奏曲ヘ長調」がそれぞれ表裏に入っていた17センチのLPだったと思います。当時は他にほとんどレコードを持っていなくて、そのレコードを1日に何度も聴いていたように思います。文字通り「耳にタコが出来るほど」聴いたレコードです。


サービス過剰?

 「海の嵐」のほうは有名な曲ですから、後にCDでも買いましたが、いわゆるB面の「3つのヴァイオリン」のほうは相当マイナーな曲のようで、なかなかCD化されないようでした。しばらく前からそのCDを探していたのですが、今回なんとか見つかりました。「3つのヴァイオリンのための協奏曲ヘ長調」と書きましたが、実は何調かはわからなくなってしまっていて(もちろんRV551などということも)、「もしかしたらこれかも知れない」と買ってみたら、ビンゴだったというわけです。


 あまり一般的に知られている曲ではなさそうですが、個人的にはヴィヴァルディの中では結構気に入っている曲です。特にピチカートの伴奏に乗ってヴァイオリンが美しいメロディを奏でる第2楽章はなかなかのものだと思います。


 というわけで久々にこの曲を聴くことが出来たのですが、昔聴いたイ・ムジチのものとはだいぶ違っており、特に第2楽章はヴァイオリンがかなり装飾を加えて、ほとんど元のメロディ・ラインがわからなくなってしまっています。オリジナル楽器系の演奏だったので買う前からある程度覚悟はしていたのですが、ちょっと残念でした。演奏者としては原曲をさらに楽しめるようにとあれやこれや装飾を加えるのでしょうが・・・・ウーン、なくてもいいかな・・・・


夏にはやはり

 このCDを買ったもう一つの理由に「恋人」、「不安」、「疑い」、「安らぎ」の4曲が入っていたからなのですが、これもかつて「愛の詩」と題されたイ・ムジチのLPでよく聴いた曲です。これもまえから探していたもので、懐かしい曲を久々に聴けてたいへん嬉しかったです。演奏はいかにもオリジナル系らしく、きびきびとしていて決して悪くはないのですが、でもこれを聴くと、やはりイ・ムジチの何とも物憂げな、まとわり付くような、あの感じが懐かしい、あの演奏をもう一度聴いてみたい、特に夏の暑い日にはあのベトベト感がたまらない・・・・・・・


 もっともこのCD(Carmignolaの)の「四季」の方は、情景描写など、確かにおもしろい演奏で、このCD全体的にも演奏そのものはたいへん優れていると思います。21世紀の今現在ではイ・ムジチのような演奏は時代遅れというか、正しいヴィヴァルディの演奏法とは言えないかも知れません。でも一度その味を知ると・・・・・


 ただ暑くてたまらない時にはヴィヴァルディの協奏曲が合うのは確かだと思います。

フェデリーコ・モンポウ:ピアノ作品全集   ピアノ:フェデリーコ・モンポウ

 ギター愛好者には「コンポステラ組曲」の作曲家として知られている、フェデリーコ・モンポウの4枚組のピアノ作品全集を聴きました。演奏もモンポウ自身によるものです。


 モンポウ(1893〜1987年)はスペインのバルセロナ出身ですが、この1893〜1987年という生没年はアンドレ・セゴビアと同じです。そういえばスペインの音楽家は長寿の人が多いですね、カザルスやモレーノ・トローバも90歳以上の長寿でしたし、ロドリーゴは1901〜1999年と、ほとんど20世紀の間生きていました。


 このCDの録音は1974年、つまりモンポウが81歳の時と記してあります。作品としては1911〜1967年にかけてのもので、初期の作品はいわゆるロマン派風の感じで、ショパンや、シューマンに近い感じがあります。アルベニスやグラナドスに近いといってもよいかも知れません。また全作品を通じて静かな曲が多いのはこの作曲家の特徴なのでしょう。ピアノ演奏の技術的なことは私にはよくわかりませんが、なんといっても作曲者自身の演奏なので、この音楽がというものなのかを知るには、最も信頼できる演奏だと思います。


 この全集の中で私達にとって最も身近に感じるのは、やはり1921〜1962年に作曲された12曲の「歌と舞曲」でしょう。これはスペイン、特にカタルーニャ地方の民謡をもとにしていて、ギターをやっている人には馴染みのあるメロディがいろいろ出て来ます。第3番には「聖母の御子」、第7番には「あととりのリエラ」、第8番には有名な「アメリアの遺言」と「糸をつむぐ娘」など、リョベットの編曲カタルーニャ民謡集で馴染みのある曲が次々に出てきます。「アメリアの遺言」もリョベットとは違う和声付けですが、メロディ・ラインにはあまり違いはなく(ト短調になっていますが)、雰囲気としてはあまり変わらない感じがします。ギターで聴きなれた曲を別の楽器とアレンジで聴くのはなかなか興味深いものです。


 また前述の第3番の「舞曲」の部分はコンポステラ組曲の終楽章「ムニェイラ」によく似ていて、同じリズムで出来ています。また第6番の「舞曲」は南米風のリズムをもち、なかなか面白いです。またこの全集には入っていませんが、「第13番」はギターのためにかかれ、カザルスの演奏で有名な「鳥の歌」のメロディを用いています。その他の曲も有名な旋律を用いているものと思われ、私達の知らない素材の曲でも、とても親しみやすく感じます。これらの曲はギターをやっている人にとってはとても楽しめる曲だと思います。


 1938〜1957年に作曲された「ショパンの主題による変奏曲」はショパンの前奏曲Op28-7をテーマにし、それに12の変奏が付けられています。どちらかといえばやはり静かな変奏が多いのですが、マズルカ風とかワルツ風というのもあります。テーマはショパンの原曲どおりのようです。因みにこの曲はタルレガもギターに編曲しています。


 晩年の作品で1959〜1967年に書かれた「Musica Callada」は「沈黙の音楽」または「静かな音楽」と訳すのでしょうか、これは曲名どおり静かな曲ばかりで、コンポステラ組曲とは作曲年代もほぼ同じで、近い印象があります。この頃になると作風は初期の調性的な音楽から教会旋法などを用いた音楽に変わっているようです。コンポステラ組曲は自然短調、またはフリギア調などの教会旋法を用いています。


 因みにフリギア調とは長音階(普通のドレミファソラシド)を3番目の「ミ」からはじめたもの、「レ」からはじめたものは「ドリア調」、「ラ」からはじめたものは「自然短調」となります。これらの音階は、おおよそで言えば、「明るさ」が違うようです。参考までに、これらを暗い方から順に並べると以下のようになると思います。なお、比較しやすいように、すべての音階を「ミ」を主音とするものにしました。



フリギア調(「ミ」を主音とした場合)

  ミ   ファ   ソ   ラ   シ   ド   レ   ミ



自然短調

  ミ   ファ#  ソ   ラ   シ   ド   レ   ミ



ドリア調

  ミ   ファ#  ソ   ラ   シ   ド#  レ   ミ



長調
  
  ミ   ファ#  ソ#  ラ   シ   ド#  レ#  ミ


と言うわけで単純に#の数が少ない方が暗く、多い方が明るいと考えてよいのではないかと思います。フラメンコやスペイン音楽でよく用いられるフリギア調は短調(自然短調)よりも暗いというわけです。ドリア調は短調と長調の間で、もちろん長調が一番明るい感じがします。ドリア調で有名な曲といえばS.サイモンの「スカボロ・フェア」が挙げられると思いますが、この曲の透明感というか、中性感のようなものは、この短調と長調の間のドリア調を用いていることと深くつながっていると思います。


 話がちょとそれてしまいましたが、モンポウの晩年の作品は、主にこれらの自然短調を含めた教会旋法によって作られています。前衛的という訳ではありませんが、伝統的なヨーロッパの音楽、特に19世紀のロマン派的な音楽とは一線を画しているようです。モンポウにはもともと派手な感じの曲は少ないのですが、晩年になると益々静かな曲ばかりになります。ちょっと聴いてすぐに面白いと思える曲は少ないのですが(前述の聞き覚えのある曲を別にすれば)、聴いているうちに、いつの間にか心に残ってしまうというような、そんな作品の数々だと思います。

最近聴いたCD ジュリアーニ:ギター協奏曲集 2


 これまでこのジュリアーニのギター協奏曲第1番はほとんど弦楽合奏版で演奏されていたと言いましたが、その半数くらいは展開部(中間部)を大幅に省略していることも言いました。スコアを見ながら聴いていると、これがびっくりするくらいの、とんでもない省略なのです。音楽的には最も変化に富み、作曲する側からすれば力の見せ所と思われる展開部のほとんど全部を切り捨て、再現部の少し手前のほうで、ただ調性的に矛盾しないというだけでつないでしまっています。その結果3〜4分ほどの時間短縮になるのですが、その意味はどれほどあったのでしょうか。このショート・カットを最初に行ったのはジュリアン・ブリーム(1960年代後半の録音)と思われますが、それをウィリアムス、ペペ・ロメロ、フェルナンデスなどが踏襲しているのはなぜなのでしょう。


 もっともブリムームの”つぎはぎ”やショート・カットは一種の「お家芸」で、ジュリアーニの「ロッシニアーナ」やデアヴェリの「ソナタ」などでも行っていますし、大序曲にも若干省略があったように記憶しています。カッテイング編の「グリーン・スリーブス」もその一つでしょう。そう考えると、ドイツのギタリスト、ジークフリート・ベーレントがやはり1960年代にイ・ムジチ合奏団と録音したものは原曲どおりで好感が持てます。隅々まで原曲に忠実かどうかはわかりませんが、展開部をちゃんと演奏していたように思います。LPの再生装置をかたずけてしまったので確認は出来ません、CD化はされているのでしょうか? また山下和仁、ウイリアムスの再録なども省略なしで演奏しています。


 というわけで、たいへん親しみやすく、内容的にも優れた曲であるわりには、これまでだいぶ邪険な扱いをされてきたジュリアーニのギター協奏曲第1番ですが、これからは正しく演奏され、正等な扱いをされてゆくことを期待します。


 第1番の話だけになってしまいましたが、「第2番」、「第3番」となるとさらに演奏されたり、録音されたりすることは少なくなります。「第2番」、「第3番」は1970年代の半ばにペペ・ロメロが指揮者のネビル・マリナーと録音していて、おそらくそれが初録音だと思います。こちらはそれまで演奏されなかったことが幸いして、省略する習慣も簡略版のようなものもなく、最初から「原曲どおり」の演奏になっています(たぶん)。


 「第2番」はギターと弦楽合奏の形になっていて、第1番と同じイ長調で書かれていますが、フォルテの和音と行進曲風のメロディで溌剌と始まる第1番と対照的に、弦の静かな調べで始まり、3曲の中では最も落ち着いた曲になっています。また一方では主要なメロディやギターのパッセージなどは第1番と類似した点もあります。弦のみオーケストラは柔らかい響きがしますが、1番と同様、明るく透明な響きがします。


 なおこCDのソロは第1番と同じマッカリ、使用楽器も同じという事で、やはりちょと不明瞭です。ペペ・ロメロ盤では、モダン楽器(ベラスケス?)を用いたぺぺ・ロメロの音が華麗でクリヤーなのと、ソロ・ギターがやや大きめにも録音されていて、少なくともギター・ソロに関しては、たいへん聴きやすいCDになっています。多少リアルでない点もあるかも知れませんが。オーケストラもモダン・オーケストラで(ネヴィル・マリナー指揮、アカデミー・オブ・セント・マーチン・イン・ザ・フィールズ)、弦の数も、そう多くはないとしても、このCDのオーケストラ(アンサンブル・オットチェント)よりは多いでしょう。


 「第3番」は通常のギターよりも短3度、つまり3フレット分高い「テルツ・ギター」で演奏するようになっています。 オーケストラは弦5部の他、フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴット、ホルン、トランペット、ティンパニ、と「第1番」のフル・オーケストラ版よりさらにトランペットとティンパニーが加えられ、文字通りの「フル・オーケストラ」になっていて、ベートーヴェンの交響曲などの編成とほぼ同じになっています。弦のピッチカートとティンパニーの掛け合いで始まるところなど工夫がされており、オーケストラの扱いも第1番よりもずっと進歩がみられ、3曲中最もオーケストラ部の聴き応えがあります。このCDでもギターの音域が短3度高せいか、1、2番に比べるとギターの音は比較的よく聴こえます。なおこの曲は、プリエーゼが演奏し、Vite e Antonio Garganese 1880のテルツ・ギターを使用しています。ペペ・ロメロ盤ではさらにギターは華麗に聴こえます。


 ちなみに、この曲の第2楽章はモーツァルトの「ピアノ・ソナタイ長調 K331」の第1楽章を引用しています。第1変奏も似ていることから、何となく似てしまったのではなく、明確に「引用」しているのでしょう。いずれにしてもこの第3番は第1番に勝るとも劣らない名曲だと思いますが、やはり演奏される機会は極めて少ないようです。この曲が、国内で原曲どおりフル・オーケストラ版で演奏された記録があるかどうか私にはわかりませんが、今後、どこかの冒険心のあるオーケストラがベートーヴェンの序曲や交響曲などと組み合わせてプログラムに載せたりすることはないのでしょうか。ギターには特に興味のない一般の音楽ファンにとっても、たいへん興味深いコンサートになるのではないかと思います。
 

 このマッカリとプリエーゼには3枚組のCDに収めた「ジュリアーニ:二重奏曲全集」もあって、有名な「協奏的二重奏曲作品130」など他、珍しい曲などもたくさんあり、こちらもなかなか楽しめます。

最近聴いたCD  ジュリアーニ:ギター協奏曲集


ジュリアーニ:ギター協奏曲第1番イ長調 Op.30
       同 第2番イ長調 Op.36
       同 第3番ヘ長調 Op.70
       ギターと弦楽のための大五重奏曲ハ長調Op.65
       ジェネラーリの「ローマのバッカス祭」の主題による変奏曲Op.102

 クラウディオ・マッカリ(g) OP.30 OP.36
 パオロ・プリエーゼ(g) Op.70 Op.65 Op.102 
 オーケストラ  アンサンブル・オットチェント



 ジュリアーニのギター協奏曲は3曲残されていて(4曲という話もあって、もう1曲の作品番号は129なのだそうですが本当なのでしょうか?)、特に第1番(Op30)は、有名で演奏される機会も多いものです。第1楽章は行進曲風の主題を持ち、はつらつとした躍動感に溢れ、とても親しみやすい曲です。第2楽章はシチリアーナ風の感傷的なメロディ、第3楽章は軽快なポロネーズになっています。モーツアルト風とか、ベートーヴェン風とか言われたりもしますが、よく聴けばやはり”ジュリアーニ風”と言ったほうがよいでしょう。イタリア的な明るさと透明感を持った曲だと思います。


 この第1番の初版(1908年)は二管編成のフル・オーケストラのために書かれていましたが、後に弦楽合奏とテンパニー(省略される場合も多い)版、あるいは弦楽四重奏版なども出版されました。これまでの録音ではほとんどが弦楽合奏版で、さらに半数以上がジュリアン・ブリームのように展開部のほとんどを省略した形になっていました。私自身ではこれまでフル・オーケストラ版のスコアだけ持っていましたが、そのフル・オーケストラ版の演奏は一度も聴いた事がなく、今回このCDを入手し、やっと聴くことができました。このCDがフル・オーケストラ版の初録音かどうかはわかりませんが、少なくとも現在手に入るものでは唯一のフル・オーケストラ版なのではないかと思います。


 フル・オーケストラ版と弦楽合奏版では冒頭のオーケストラによる主題提示部はかなり違っていて、弦楽合奏版は単純に管楽器のパートを弦楽器に移し変えただけではなく、ほとんど作曲しなおしている感じです。もっともギターが入ってからの後続の部分はほとんど変わりませんから主題などの素材は同じものを用いてということです。弦楽合奏版の方がどちらかと言えば、簡潔によくまとまっていて、効率的に主題を提示している感じです。それに比べフル・オーケストラ版は接続部分などのやや「無駄」が多いのですが、本格的な管弦楽曲にしようという意志も感じられ、その「無駄」も味わいの一つかなと思います。


 このCDの解説では、ソリストのクラウディオ・マッカリ(Claudio Maccari)は、19世紀初頭のギターであるカルロ・ガダニーニ(Carlo Guadagnini 1812)を使用し、オーケストラも半数くらいは当時のオリジナル楽器を使用しているとのことです。オーケストラは、フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴット、ホルンがそれぞれ2本、弦楽は5部で13人、計23名の編成となっています。


 このCDを聴いた限りでは、他の弦楽合奏版による演奏に比較すると、このフル・オーケストラ版は重量感や迫力がある、というよりむしろ繊細な感じに聴こえます。演奏のしかたにもよると思いますが、他の弦楽合奏版による演奏の方が、勢いとか躍動感とかはあるように思います。このCDのギター・ソロは19世紀ギターを使用し、それに従い、爪を使用しない「指頭奏法」と考えられ、高音は柔らかいといえば柔らかいのですが、あまりクリアーには響かないようです。また録音環境の影響でか、ギターの響きや余韻は豊かなのですが、その分個々の音は不鮮明に感じます。


 「当時の演奏スタイルに出来る限り忠実に」というコンセプトに基づいてCDを制作しているものと思われ、録音的にもギターの音量はかなり抑えられています。おそらくこの曲の初演時には、コンサート会場で「このように響いたであろう」ということでCDを製作したものと思われます。確かに考え方としては十分納得出来、このようなCDは絶対に必要なものと思いますが、一方では曲の内容や、ギタリストの意図などがイマイチ伝わって来にくく、多少欲求不満も感じてしまうのも事実です。オーケストラのほうは、ヴィヴラートを使用していないのと、音程がとてもよいことで、たいへん澄んだ響きになっています。


 ところで、このジュリアーニのギター協奏曲のCD、現在では他にどのようなものが入手可能なのでしょうか。インターネットで調べた限りでは、カテマリオ(おそらくイタリアのギタリスト)のCD(このCDとほぼ同じような企画。オリジナル楽器使用と思われますが、第1番は弦楽合奏版)が入手可能なようで、あとはウィリアムスとフェルナンデスのものがアランフェスのオマケとしてあるくらいなようです。以前はもう少しいろいろなものがあったようなのですが、最近はかなり少なくなってしまったようです。アランフェス協奏曲などはは次から次と新たにCDが発売され、また古い録音も再発されたりするのですが、ジュリアーニなど他の作曲家のギター協奏曲のCDはあまり新譜も再発も少ないようです。ギター協奏曲の世界も格差がいっそう激しくなっているのでしょうか。


 実演となるとさらに極端で、オーケストラの演奏会でアランフェス以外のギター協奏曲が演奏されることなど滅多にないのが実情のようです。ジュリアーニに限らず、ヴィラ・ロボスやテデスコ、ポンセ、ブローウェル、アーノルドといったギター協奏曲の名曲が、通常のオーケストラの公演でプログラムにのるのは極めて珍しいことでしょう。もっともオーケストラ側からすれば協奏曲はあくまで「客寄せ」で、少しでも知名度が高く、人気のある曲をということになり、当然のごとくアランフェス協奏曲に集中するのでしょう。またギタリストのほうで協奏曲によるコンサートを企画し、オーケストラに出演を依頼するということなれば、曲目等は自由になりますが、それはそれで膨大な費用がかかり、やはり実現は難しくなります。


 私自身、アランフェス協奏曲以外のギター協奏曲を演奏会で聴いたのは2回だけで、1回目は1972年に、「ギター協奏曲の夕べ」と題して、当時たいへん人気のあった若い4人のギタリスト、菊池真知子さん、芳志戸幹雄さん、荘村清志さん、渡辺範彦さんが、東京フィル・ハーモニーと、それぞれテデスコ:ギター協奏曲第1番、ジュリアーニ:ギター協奏曲第1番、ある貴紳のための幻想曲、アランフェス協奏曲を弾くといったものでした。人気ギタリスト4人の共演と、めったに聴けないギター協奏曲の演奏会とあって会場はとても熱気に溢れていた記憶があります。このコンサートはその4人のギタリストの人気と、当時のギター・ファン(みんな若かったが)の熱気とで実現したコンサートかも知れません。菊池真知子さんのテデスコは、多少緊張した様子も見られましたが、とても印象的でした。


 もう一つは1976年、イエペスが東フィルとアランフェス、ある貴紳、とルイス・ピポーの「3つのタブラス(事実上ギター協奏曲)」を演奏したコンサートです。この時のピポーの「3つのタブラス」はとても印象に残っています。これはイエペスというカリスマ的ギタリストによって実現したコンサートでしょう。でもやはりアランフェスはプログラムに載りますね、これをはずすと演奏会が成り立たないのかも知れません。

シューベルト:冬の旅

 昨日は朝から雪の降るとても寒い日、久々に「冬の旅」を聴いてみる気になりました。ゲルハーエル(バリトン)のCDを手に取りました。このCDは1年ほど前、往年の名盤と言われるハンス・ホッターとか、バリトン歌手としては第一人者である、ディートリッヒ・フィッシャー・ディスカウの「冬の旅」のCDを買うついでに買ったようなもので、とりあえず店にあったのと、廉価版でもあったので買いました。歌手の名前はその時あまりわかりませんでしたが、比較的若い年代の歌手としては評価は高いようです。


 買った時少しは聴いたのですが、あまりちゃんと聴いていなかったので、あらためてこのCDを聴いてみようと思いました。あらためて聴くと、なかなかよいCDだと思いました。ゲルハーエルの音質は明るく、透明感のある感じで、年齢的なものもあるのかも知れませんが、美しい声です。表現はどちらかと言えば控えめで、少し距離を置いた表現と言えるかも知れませんが、それがこの曲には合っているように思います。でも特に関心したのはピアノとのバランスの良さで、バランスを取っているというより、歌とピアノが一体となって一つの音楽を作っている感じです。おそらく歌手とピアニストが同じようなイメージをもって演奏しているのではないかと思います。 


 午前中に前半の数曲と後半の2曲ほどを聴きましたが、仕事が終わった後、というか、サッカーの日本代表の予選の初戦の勝利を見届けた後、もう一度聴きなおそうと思いました。どうせ聴くなら別なCDにしようと思い、前述のハンス・ホッターとフィッシャー・ディスカウのものをちょっとかけてみましたが、ホッター盤は高く評価する人もいる割には私にはあまり良さがわからず、ディスカウ盤は、シューベルトの音楽と言うよりは、ディスカウの音楽に聴こえてしまって、結局またゲルハーエルのCDを聴くことにしました。今度は1曲目から途中を飛ばさず24曲目まで通して聴きました。


 この「冬の旅」は前半の12曲と後半の12曲ではかなり内容が違うようです。前半は1曲目の「おやすみ」とか5曲目の「菩提樹」、6曲目の「雪解けの水流」など、まさにシューベルトらしい美しいメロディの曲が多く、確かにこの「冬の旅」は悲しい曲なのですが、一方ではその美しさに酔うことも出来ます。詩の内容も失恋の悲しさを歌っていて、「ぼくの熱い涙で雪と氷を溶かしつくそう、土の肌が見えるまで」(第4曲「氷結」)と、辛く、悲しいが、文字通り青年の熱い情熱も十分感じ取れます。また聴いている人の気持ちにも強く訴えかける音楽となっています。私も12曲目くらいでは、テレビを見て笑っている家内の隣で、CDプレーヤーのイヤホンを耳に差込ながら、だんだん目から涙が流れ出てきてしまいました、もちろん見られないようにしましたが。


 しかし後半の14曲目あたりからは一転して「歌わない」歌へと変わって行きます。歌もピアノの音も動きが少なくなり、前半ほどメロディとして印象に残る曲は少なくなってきます。詩の内容も、もはや「恋」も「愛」も、また「涙」も出てこなくなります。14曲「霜おく頭」では、頭に霜が乗って髪が白くなり、老人になれ、死に近づいたことを喜びます。また15曲「からす」では自分の屍をついばみに来ている、からすに、自分の最後までずっとついてきてほしいと願います。21曲「宿」では通りかかった墓が自分の宿だと言い、「空いている部屋なないか」とたずねます。ここに描かれている世界には日常的な喜怒哀楽とは違った感情が支配しているようです。自らの死だけが自らの救いということなのでしょうか。


 終曲「辻音楽士」は年老いたライヤー弾きの後を付いてゆく歌ですが、行く先も定まらず、ただ空中を浮遊するようなメロディ、体の中を冷たい風が吹き抜けるようなピアノの音。ゲルハーエルの歌もフーバーのピアノもほとんど抑揚らしい抑揚を付けづに、この無重力感を表現しています。これがシューベルト流の「悟り」の世界なのでしょうか。気が付くと曲はもう終わっていました、それにしても「冬の旅」を1曲目から24曲目まで続けて聴いたなんて何年ぶりでしょうか、ほとんど記憶がありません。シューベルト自身の「冬の旅」もこの曲を書いた次の年に終わることになります、シューベルトに「救い」は訪れたのでしょうか。