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中村俊三 ブログ

中村ギター教室内のレッスン内容や、イベント、また、音楽の雑学などを書いていきます。

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今現在水戸ギターアンサンブルのメンバーは私を含めて石川惠子さん。石川さんは、大学時代にはギター部に入っていて、後で紹介する中川さんの後輩だそうです。またご主人は私の大学のギター部の後輩にあたり、演奏会などにはよく来てくれます。アルト・ギターは普通のギターよりも小さく、音域も5度高くなっていて、オーケストラ曲の編曲ではなくてはならない楽器ですが、柔らかい音やのびのある音を出すのはたいへん難しい楽器でもあります。
 
その次からプライム・ギター(ギター合奏の場合は「普通」のギターのことをこう呼びます)となり、2人づつ4パートと分かれます。その「プライム1」として丹朋子さんと中川真理子さん。丹さんと中川さんは昨年の私のアコラ(ひたちなか市)でのコンサートと、前述の水戸ギター・アンサイブル演奏会の時二重奏をやってもらいましたが、とても素晴らしい二重奏でした。

 次が「プライム2」で中居直也君と萩野谷稔さん。中居君はまだ中学生ですが、ギターは4歳の頃からやっています。私の家内と中居君お母さんとが従妹どうしということで、普段は私も「直也」と呼んでいます。萩野谷さんは蔵王の近くにロッジをもっていて、若い頃はスキーの時など泊まらせてもらったりしていました。この二人とも音が大きく、ある意味最強のパートかも知れません。

 次は「プライム3」で、佐藤智美さんと、後関信一さん。佐藤さんはギターを始めてから約5年とメンバーの中ではギター歴は一番短いのですが、仕事でピアノの調律をしているなど、音楽は得意で、貴重な戦力です。後関さんは1990年頃からアンサンブルに加わっており、若い頃はスポーツ・カーを飛ばしながらロックに夢中になっていたそうですが、今はクラシック・ギター一筋のようです。

 次の「プライム4」は石川博久さんと、市毛和夫さんで、どちらかといえば低い音域を担当しています。石川さんがギターを習いにきたのは、私も、石川さんもお互いに20代の半ば頃だったと思います(1977年頃)。さすがに今は個人レッスンはしていませんが、合奏はほとんど休みなくずっとやっています。市毛さんはかつて音大受験を試みたことがあるそうで、ピアノやフルートも演奏し、またギターも若い頃からやっています。最近指の具合がよくないそうで、気がかりです。

 客席から見て、一番右側に座るのがコントラ・バス・ギター担当の佐藤眞美さんで、コントラ・バス・ギターは普通のギターよりも1オクターブ低い音が出ます。そのため6弦などはかなり太く、ワイヤーのような感じです。楽器も大きく、ほとんど単音で弾き、なおかつ他のパートに比べて音も少ないのですが、他のギターの3,4台分くらいの音量があり、低音はこれ1台でかなりの威力です。佐藤眞美さんはプライム3の「佐藤さん」と名前が似ていますが、特に親戚とかではありません、ちなみに「智美さん」は女性で、「眞美さん」は男性です。眞美さんは昨年はアルト・ギターでしたが、佐藤さんの体格を考えるとこのコントラ・バス・ギターのほうが似合いそうです。

 予定としては、このメンバーとこのパート編成で2,3年やって行きますが、最近の演奏予定としては6月30日(土曜日 pm.5:00~)に水戸芸術館で水戸市民音楽会がありそれに出演します。これはたくさんの団体が出演するので、1団体あたりの演奏時間は7分ですが、私たちはドボルザークの交響曲第8番の第3楽章「アレグレット・グラッチオーソ」を私のギター合奏へのアレンジで演奏します。曲名はピンとこない人も多いと思いますが、たいへん親しみやすく、また美しい曲で、ギター合奏にもよく合うと思います。ぜひ聴きに来て見てください、水戸ギター・アンサンブルの演奏時間は午後6時前後だと思います。また今年の11月11日に予定している中村ギター教室発表会ではホルストの惑星から「ジュピター」を演奏する予定です。
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 ・・・・・・・つづき 


 90年には創(私の長男)のためにイギリスの楽器のポール・フィッシャーを買いました。
これはふくよかな低音で、高音にも気品が漂う感じでしたが、やはりハウザーのほうが音が前に出るので、創がコンクールに出る場合はハウザーのほうを使わせ、その間は私がこポール・フッシャーを弾いていました(現在この楽器は後関新一さんが所有)。


 94年に別な用事で東京の楽器店に行きましたが、そこでぼろぼろのポール・ジェイコブソンを見ました。
たいして古くないのに表面板などかなり傷んでいます(今は修理していますが)、よほど使い方の荒い人がオーナーだったのかも知れませんが、でもとても気に入りました。
ジェイコブソンはアメリカの楽器で、杉材を使用し、明るくよく鳴る楽器で、スコット・テナントなどが使用して知られるようになりました。
このジェイコブソンはさらにソフトで、甘い音色感があります。私の好みで選んだ楽器でしたが、創に弾かせると、ハウザーより合う感じでしたので、結局創の楽器ということになりました。
音量があるので、曲の強弱が付けやすく、確かにコンクール向きで、また甘い音色は当時の創に合っていたと思います。
この楽器で創はクラシカル、東京国際、アレッサンドリアの3つのコンクールで入賞しています。


 2002年に創が水戸芸術館でリサイタルを開くことになりますが、それを機に福田先生の勧めでホセ・ルイス・ロマニロス&サン(1993年)を買いました。
創はこの楽器で水戸芸術館をはじめ、いくつかのリサイタルを行い、またフランス留学にも持って行きましたが、今はギターから遠ざかっているので、この楽器も私の手元にあります。
ロマニロスは基本的にアントニオ・トーレスをモデルにした楽器と言われ、この時期のロマニロスは低音が太いのが特徴です。


 今現在、手元にある主な楽器はヘルマン・ハウザーⅢ(1983年)、ポール・ジェイコブソン(1991年)、ホセ・ルイス・ロマニロス&サン(1993年)、創がクラシカル・ギター・コンクールの時にいただいた桜井正毅(1996年)となっています。
こう振り返って見るとこれまで確かにいろいろと迷走してきて、無駄な出費とか、家族に迷惑をかけたりもしてきたと思いますが、今思えば必要な経験だったかも知れません。
特に楽器のことで生徒さんからアドヴァイスを求められた時などは、その経験がたいへん役に立っています。
何事にも「無駄」はとても「重要」なのでしょう、矛盾する言い回しですが。



 前述の通り、今はハウザーをメインに使っていて、重要なコンサートはこれを使っています。
私のホーム・グランドとも言えるひたちなか市文化会館との相性もよく、そこでのコンサートの録音を聴いてみると、なかなかいい音をしていると思います。
音の「通り」もよく、大きな会場でも遠くまで通る音をしていますが、柔らかい音を出すのは難しく、弾き方によっては硬めでノイズの多い音になってしまいます。

 ジェイコブソンは低音、高音ともよく鳴りますが、鳴りすぎてしまう音もあるので注意が必要です。
スペイン系などの華やかな曲に合いますが、ピアノ曲のアレンジものもよく合うと思います。
また日頃のレッスンや練習、また合奏にとたいへん便利な楽器です。

 桜井は安定した太めの音で、各ポジションともよく出て使いやすい楽器ですが、音が太い分、微妙なニュアンスを出すのは少し難しいようです。時々練習や、レッスンに使ったりしています。
 
 ロマニロスは低音が「深い」響きをするので、和音などは美しく、自然に響きます。
中、高音の音量はあまりないので二重奏や合奏には向きませんが、弾く人の技術があって、音響のよい会場だと中、高音もきちんと響き、なんといっても美しい音が出ます。
現在はこれらの楽器を曲目や演奏会場など、あるいはその日の気分などで使い分けています。



 私自身の考えでは、楽器は、楽器自体が優れた楽器であるかどうかということよりも、自分のイメージを、なるべく忠実に具体的な音に換えてくれるかどうかと言うことが一番重要だと思っています。
どんなに評判の高い名器でも、あるいは高価な楽器でも自分のイメージに合わなければ無用の長物となります。
また、どんなよい楽器でも一長一短があり、オールマイティーな楽器はないと思います。
名器といわれる楽器ほど個性も強くなり、したがって合うか合わないかもはっきりしてくると思います。
結局のところあまり一般的な評判などには惑わされることなく、自分に合った楽器を選ぶのが大事なのでしょうが、そのためにはやはりいろいろ経験してみるのがたいへん重要です。
なにはともあれ、いろいろな名器を弾いてみるのは理屈ぬきに楽しいものだと思います。
ギターをはじめた以上、弾けても弾けなくても、やはり名器には触れてみたいと思うのは人情?でしょう。
また、その名器によって自分のイメージそのものを上げてゆくことも可能ではないかと思います。


  おわり
 ギターを始めて40数年、これまで私が使った楽器はいろいろ合わせると、だいたい13本くらいになります。
私がギターを弾くようになったのは小学5年生の頃で、最初に弾いたギターは14歳上の兄が買ったギターで、詳しいことはよくわかりませんが、あまりよい楽器ではなかったと思います。
高校1年生の頃、その兄が「高級手工品(当時の価格で2万円前後?)」と書かれた楽器を買い、確かにそれまでの楽器よりは格段に音が出て、特に低音はよく出ると感じました。
しばらくするとその兄もあまりギターを弾かなくなって、結局この楽器は私がほとんど弾いていました。


 茨城大学に入学し、クラシック・ギター部に入っても、1年間くらいはその楽器を弾いていましたが、だんだんその楽器では満足ゆかなくなって、大学2年生になる頃、当時県内でギター製作をしていた富田修さんにギターを作ってもらいました。
富田さんは河野賢氏の弟子で、どちらかと言えば重厚な音質の楽器だったと思います。
その楽器で、当時茨城県民文化センターで行われていたギター部の定期演奏会で、2回ほど独奏などをしました。


 ギター教室の仕事を始めるようになった頃(まだ茨大在学中)、休憩時間にふと壁にギターを立てかけてしまい、それが倒れて側板を割ってしまいました。
ギターは側板を割ると致命的になり、音は即出なくなります(それ以来生徒さんたちにはギターを壁に立てかけないようにしつこく言っています)。
それを機にスペインの楽器で、当時たいへん人気の高かったホセ・ラミレスⅢ世を買いました。
この楽器は弦長が664mmあり(通常は650mm)、私のように手の小さいものには向かない楽器でしたが、なんと言っても音がたいへんよく出るのと、1960年以降のアンドレ・セゴビアが使っていたことや、当時習っていた松田晃演先生も使用していたことなどで、結局この楽器にしました。
確かによく鳴る楽器で、高、中、低音問わず明るくよく鳴り、また重厚さもあったと思います。
この楽器は30才くらいまで使用し、デビュー・リサイタルもこれで行いました。この楽器とともに私の今の仕事が始まったといえます。


 30才くらいになると、音楽の興味の対象が現代音楽や、ルネサンス、バロック音楽などになり、この「鳴りすぎる」というのが邪魔に感じるようになりました。
1981年頃ギター専門店のほうからヘルムート・ブッフシュタイナーと言う楽器を紹介されました。この楽器は、その頃雑誌でも「精緻な工作技術」というような内容で紹介されていて、話題にもなっていました。
それを手にとってみると、気品と透明感があり、もちろん「鳴りすぎる」こともなく、また標準サイズで弾きやすく、すぐにその楽器を買いました。
この楽器で2度のリサイタルを行いましたが、どちらもバッハのリュート組曲を中心としたプログラムでした(第1番と第2番)。


 この楽器は、確かにバランスもよく弾きやすい楽器でしたが、音量はあるとはいえない楽器でした。
音量は大きければよいというものではないでしょうが、ある程度はないと曲の抑揚が付けられなくなります。
またスペインものなどの華やかな音楽ではたいへん困ってしまいます。
この楽器を選んだのは「鳴りすぎる」ラミレスの反動だったかも知れません。
その頃「家内のため」ということで井田英夫氏の楽器を買い、私も結構弾いていました。
マイルドな音で結構使いやすく、発表会などでも弾きました。


 1984年の1月だったと思いますが、その前の年にリュート組曲第2番をやったことがきっかけで、多弦ギターに興味を持ち、今井博水氏の10弦を買いました。
この楽器はもともと特注品ということで、上質のハカランダを使用し、見た目もたいへん美しい楽器で、やわらかな音がしていました(この楽器は現在鈴木幸男さんが所有)。
その後ホセ・ラミレスⅢの10弦の出物があり、それも入手しました。この楽器は低音にはかなり重みがありましたが、高音、とくに1弦の12フレット付近の音色にはちょっと不満がありました。
これらの2台の10弦ギターで何度かコンサートも行いましたが、やはり難しい点もあり、使用していたのは約2年半くらいの間で、1986年には再びラミレスの6弦にしましたが、最初のラミレスに比べると影の薄いラミレスでした。


 その後もあまり落ち着くことなく、いろいろ楽器を見たり、弾いたり、時にはもう一歩で買いそうになったりしていましたが(スペインの楽器でサンチャゴ・マリンをほとんど買うつもりで1ヶ月近く弾いていました)、1988年に現在も弾いているヘルマン・ハウザーⅢ世に出会いました。
ハウザーⅠ世は弾いたことがないのでよく分かりませんが、一般にⅡ世、Ⅲ世の場合、力強い低音というのが特徴ですが、このハウザーⅢは中音から高音にかけて、特に2弦がよく鳴るのが特徴です。
1983年製作で、NO.88、ハウザーⅢとしては初期のもので、Ⅱ世がまだ存命中だったと思います。
この楽器との付き合いは私の使った楽器の中では最も長く、もう20年近くになります、その間創が使っていたこともありましたが、これ以後、私の主なコンサートはこの楽器を使用しています。
結果的に言えばこれまでいろいろ迷走してきましたが、やっと落ち着き先が決まったようです。

つづく
 最近では「ブラックホール」とか「ビッグバン」など言う言葉はごく普通に会話で使われていますし、子供たちもみんな知っていると思います。学校でも習っているでしょうし、その存在に疑問を持つ人は少ないのではないかと思います。
もちろん今の物理学ではそれらは実証済みとなっていて、現在の物理法則や観測データからは必然的に導き出されるものとされています。
もしそれらの存在がなかったら今の物理学は成り立たないそうです。

 でもこうしたことは意外と最近のことで、私が大学で物理を学んだのは1970年前後ですが、ブラックホールについては先輩から「星でもなんでも、光さえも吸い込んでしまうブラックホールというものが、宇宙には存在すると言う説もある」などと聞いた記憶がありますが、その時はほとんどSF上の話くらいにしか感じられませんでした。
大学の授業では出て来ませんでしたし、まだ実証はされていなかったと思います。
しかし今では太陽の10倍以上の質量の星は最終的にブラックホールにならざるをえないとされていて、実際に星空のなかで観測されていろようです。
また私たちの銀河やお隣のアンドロメダ銀河などの美しい渦巻銀河は中央に巨大なブラックホールを持ち、その巨大な重力によってその形を保っているんだそうです。
またいろいろな銀河の中には、その中央の巨大なブラックホールに多量のガスや星などが吸い込まれて、強烈な光を放つものもあり、数十億光年の彼方にあるにもかかわらず青白い星のように観測されます(クェーサーと呼ばれている)。

 私の大学時代には「ビッグバン」という言葉はあまり聞いたことがなく、「火の玉宇宙」とか、「進化宇宙」とか言われていたように思います。
宇宙論の授業の先生も「今現在は『定常宇宙論』というのと『進化宇宙論』という二つの考え方がありますが、私はどちらかといえば定常宇宙論をとっています」と言っていたような記憶があります。
定常宇宙というのは宇宙は無限大の過去から存在し、無限大の未来まで存在するといった考え方で、確かに宇宙というイメージには「無限」という言葉がぴったりです。
しかし当時でも宇宙が膨張していることは通説になっており、もし無限大の過去から宇宙が膨張していたら宇宙の物質は希薄になってしまいます。
その場合、「宇宙が希薄になったらその分だけ物質が真空から生まれる」など、ちょっと苦しい言い訳がされていました。

 現在ビッグバンを否定する学者はいないと思いますが、でもやはりイメージ的には難しいところがあると思います。
よく言われるのが「ビッグバンが起こる前の宇宙ってどんなだったの?」とか、「ある時突然ビッグバンが起こったと言うけど、それっていつ?」とかと言うことですが、前も、どんなも、いつも、すべてがなかったと言うしかないでしょうが、一般的には納得できる答えではないと思います。
しかも質量も空間も、限りなく0に近い状態(物理学的には完全な0はないそうです)から、極めて短い時間で(10のマイナス35乗秒)、文字通り天文学的数字の質量(エネルギーとして)や空間が生まれたなんて本当に信じられない話ですが、現在では「宇宙のインフレーション」といって通説になっているようです。

 近年の物理学の進歩は目覚しく、私の大学時代には空論に思えたようなことでも、現在ではごく当たり前のようになり、宇宙発生当時の物理学についてもかなりよくわかってきているようです。
そのビッグバンがどれくらい前に起こったかは、宇宙の膨張速度が一定と仮定すれば、それを逆算すれば出てきます。
10年くらい前までは約150億年前くらいと言われていましたが、最近この1,2年では、新聞やテレビなどで137億年という数字をよく見かけます。
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モーツァルトを不道徳と批判したベートーヴェンだが


 不倫をテーマにしたオペラ「コシ・ファン・テュッテ」を作曲したモーツアルトを「不道徳」と非難したベートーベンですが、二人の人妻との間にそれぞれ一人ずつ、しかもほとんど同時期に生まれた子供がいたと言う話は、最近まで一般には知られていませんでした。



ベートーヴェンそっくり?

 その人妻のひとりはヨゼフィーネといって、1805~1806年くらいにかけてベートーベンが親しくしていた女性で、末の子のミノナを産んだのが1813年。 女の子ですがミノナの写真を見ると確かにベートーベンそっくりで、多くの研究者も父親がベートーベンであることに異論がないようです。

 ヨゼフィーヌとは1807年以降はしばらく交際はなかったようなのですが、彼女の2度目の夫の失踪(借金が原因で)を機に、1812年頃にはよりを戻したのかもしれません。 かなりの美女だったそうですが、彼女はこの頃には精神的にも、また経済的にも行き詰っていたようです。



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ベートヴェンの”娘”とされているミノナの写真。 確かにベートーヴェンの面影がある。



不滅の恋人

 もう一人はアントニエ・ブレンターノといって1810年頃から交際があったようですが、こちらは正真正銘の人妻で裕福な家の夫人でしたが、夫婦関係は形だけだったとも言われています。

 アントニエは気高く、教養ある貴婦人で、1812年の段階ではベートーベンの本命だったようで、最近の研究ではベートーベンが亡くなるまで人目に触れないように大事に保管していた宛先不明の熱烈なラブレター、「不滅の恋人へ」の宛先人だということです。



楽聖に1か月間に子供が二人生まれる?

 ヨゼフィーネが出産する約1ヶ月前に男の子を産んでいますが、ベートベンの子供であることを否定している研究者もいます。 ブレンターノ家とは家族ぐるみの付き合いで、夫のフランツはベートーベンの熱心な支援者の一人です。

 特に経済的にベートーベンに多大な援助していたことで知られ、夫人のアントニエとはあくまでプラトニックな関係とされといましたが、種々の状況からしてアントニエの末の子カールの父親がベートーベンであった可能性は十分にあるようです。

 アントニエとはその後、手紙や楽譜などのやりとりのみで、直接会うことはなく、結果的には確かに「プラトニック」なものになり、夫のフランツもその後も変わりなくベートーベンを支援していたようです。



不滅の恋人への熱烈な愛の告白はただの言い訳?

 もっとも前述の「不滅の恋人」の手紙の中で 「他の女性が私の心を占めることなどけっしてありえません、けっして、けっして・・・・・」 なんて書いておいて、別な女性に子供を産ませたことで疎遠になったのかも知れません。

 一方、いろいろ困っていたヨゼフィーヌに対しては、ベートーベンのほうから経済的に援助していたようで、自らの責任を感じていたのかも知れません。



本当は女性にもてた?

 いかにも「野人」といった風貌や、「苦悩から勝利へ」といった音楽の内容からいって、女性にはあまり縁がなさそうに思われていたベートーベンですが、実際には多くの女性に支えられていたようです。

 「英雄」や「運命」など傑作を次々と生み出していた1805~1806年頃にはヨゼフィーヌとの親しい関係があったようで、この女性はその姉のテレーゼとともにベートーベンの音楽のよき理解者であったようです。




女性なしにはベートーヴェンは語れない?

当時、すなわち19世紀初頭には、上流階級の各家庭に音楽とピアノが浸透し、特に女性にとっては音楽はなくてはならないものだったのでしょう、難解とも思われるベートーベンの音楽を理解し、また的確に演奏できる女性はたくさんいたようです。

表立ってベートーベンを支えたのはルドルフ大公や、リヒノフスキー侯爵などの貴族たちですが、その裏では、多くの女性たちがその作品の誕生から、普及まで大きな貢献していたのかも知れません。

 私のCD棚でモーツアルトの次に多いのはベートーベンで、その中でもやはり交響曲が多く、全集としては8種類、第5番の「運命」だけだと17種類あります。 その中では、カルロス・クライバー=ウイーン・フィルの純粋でストレートな演奏が気に入っています。
映画「アマディウス」



20年近く前でしょうか、「アマデウス」という映画が話題になりました。アマデウスとはもちろんヴォルフガング・アマデウス・モーツアルトのことです。

 映画館には滅多に行かないほうですが、久々に家族といっしょに見に行きました。 それまでモーツアルトといえば、「高貴で、天心無垢な天才音楽家」といったイメージだったのですが、この映画でのモーツアルトは、ちょこまか動き回り、甲高い声で大笑いし、下ネタ連発の、お世辞にも上品とは言えないキャラクターに描かれています。

 子供の頃、音楽の時間にならったのとはずい分違ったモーツアルト像ですが、いろいろな本を読むと、まんざら当たってなくもないようです。

 「下ネタ」の根拠となっているのは、やたら「ウンチ」とか「お尻」を連発している、従妹の女の子にあてた手紙によるものですが、モーツアルトの親族や周囲の人たちの間では、それは普通のことだったと言う説もあります。 言ってみれば親密さを表すものだったのかも知れません、モーツアルトの母親も同じような手紙を書いているそうです。



  この映画の中ではイタリア出身のオペラ作曲家のサリエリがモーツアルトの才能に嫉妬して毒殺したとなっていますが、文字通りこれは根も葉もないこと、サリエリにはモーツアルトを毒殺する動機が全くありませんし、嫉妬する理由もありません。

 当時のサリエリは押しも押されもしないハップスブルグ家の宮廷作曲家で、むしろ嫉妬するとすればモーツアルトのほうかも知れません。

 また性格的にも私欲にとらわれない高潔な人らしく、才能ある若い音楽家には無償でレッスンをしていたようです。 その弟子にはベートーベン、シューベルト、リストなど後の音楽界を担う人たちの他、後にヴォルフガング・アマデウス・モーツアルト2世を名乗ることになるモーツアルトの末の子のフランツ・クサヴァー・モーツアルトなどがいます。 またモーツアルトの才能も認め、モーツアルトの作品もよく演奏していたようです。



  モーツアルトはいろいろな女性にもちょっかいを出していたなどと言う話もありますが、実は奥さんのコンスタンツェ一筋だったという話もあります。

 一方で、前述の末の子、フランツ・クサヴァーは実はコンスタンツェとモーツアルトの弟子のジェスマイヤーの間に生まれた子供という話もあり、いろいろな状況からするとほぼ確かなようです。 なお且つモーツアルトはそれを十分知っていたようで、その名の 「フランツ・クサヴァー」 はジェスマイヤーのファーストとミドル・ネームだったわけですから。



その後、といってもその子の誕生から半年弱でモーツアルトは他界しますが、3人の関係はすくなくとも表面上は変わらなかったようです。

 モーツアルトもその後、さすがに妻に愛情あふれる手紙は書かなくなったようですが、相変わらずジェスマイヤーを助手として使い、晩年の作品の「皇帝ティートの慈悲」や、「クラリネット協奏曲」などにはジェスマイヤーの手が入っています。

 モーツアルトの死後「レクイエム」や「ホルン協奏曲」を仕上げたのもジェスマイヤーです。 モーツアルトもある意味、「大人の対処」 をしたのでしょうが、自分の名前を「実の子」に付けられたジェスマイヤーの気持ちや、「実の父親」の名をもらったその息子の気持ちはどうだったのでしょうか。




  モーツアルトを毒殺したのは、実はそのコンスタンツェなんていう説もあるようで、確かにサリエリよりは動機がありそうですが、これもまた根も葉ももないこと、少なくとも私はそう思いたいです。




  と言う訳で、当家のCD棚で一番枚数が多いのはモーツアルトで約180枚、次にベートーベン、バッハ、ブルックナーなどの順になっていて、ギター以外のクラッシク音楽が約900枚、ギター関係が約300枚、その他100で、合計1300枚くらいあります。

 私がギターを教え始めた頃、ギターを習うというと「カルカッシギター教本」が一般的で、どこのギター教室でも、また大学のサークルなどでも使っていたと思います。
この教本も使い方次第では決して悪い教材ではないのですが、全くギターに触ったことのない人や、音楽経験のない人には不向きな教材です。これでギターを始めたけれど、面白くなくてギターをやめたとか言う人は多かったと思います。
またこの教本が書かれた19世紀前半の頃で、現在とはいろいろな点で違いが出てきているのも確かです。
他にも、もう少し簡単で、親しみやすい曲を中心にした教材もあって、そうしたものも使ったりもしていましたが、やはり考え方も合わなかったりで、結局ギターを教え始めて、1,2年もすると教材をすこしずつ自分で書くようになりました。
 
 最初に作ったのは単旋律の練習だったと思います。
一般にギターのテキストは最初にほんの少しだけ単旋律の練習をすると、すぐに重音や和音の練習になるものが多くなっています。
ギターの場合、メロディのみの練習というのは、あくまで予備段階で(確かにカルカッシギター教本では単旋律の練習は「予備練習」となっていました)、基本的にはメロディを和音などを同時に弾く楽器という考え方なのだと思います。
しかし私はギターを教え始めてすぐに単旋律の練習の重要さを感じました。
その練習が不十分なまま独奏曲の練習に入ると、肝心な主旋律が、聴いている方にも、また弾いている本人にもよく分からなかったりします。
また楽譜の読み方にも問題が生じたり、音の長さや、拍子がよく取れなかったりもします。
音楽経験の豊かな人や能力の高い人の場合はそれほど教材にこだわることもないのですが、一般的には単旋律の練習は非常に大事なことだったと思いました。もちろん今でも同じ考えです。

 手書きながら最初にテキストらしきものにまとめたのは、教え初めて5年目くらいだったと思います。
初級のみでしたが、1冊のテキストの半分は単音のみで、和音の練習になってからも二重奏の形で単旋律の練習はかなり取り入れています。
初級のテキストがまがりなりにもできあがれば、次に中、上級用のテキストと言うことになります。
カルカッシギター教本は使いましたが、ほかにいろいろコピーして副教材としました。
確かにとりあえずはそれでなんとかなっていたのですが、しかしこれでは「つぎはぎ」みたいなもので、ギターの教え方全体のシステムを確立しなければいけないと思うようになりました。
これには私自身の考え方をまとめる意味もあります。
初級の教材の作り直しと合わせて、中級用の教材も作ったのは80年代の後半だった思います。
さらには副教材としてポピュラー系の教材も作りました。
これも当初は市販のものを使っていましたが、これがやさしいようで以外と弾きにくいものが多く、あらためてやさしく編曲し直す必要がありました。
 
 10年ほど前からはパソコンで教材を作るようになりまして、確かにこれは便利です。なんといってもきれいに出来上がるし、また慣れると手書きにくらべて格段に速く出来ます。
また修正なども簡単で、今はこれがないと仕事が出来ません。
今現在では基本となるテキストが「レッスン1~7」で、これは私自身の考え方を反映したもので、ギターが合理的に覚えられるようになっていると思います(とはいっても頻繁に改訂していますが)。
さらに親しみのある曲を中心とした「ギター名曲集」シリーズ(そうとうやさしいアレンジからやや難しいものまであります)、中級から上級までの「クラシック・ギター曲集」、コードの練習や最近のポピュラー曲を中心とした「アコーステック・ギター」シリーズ、またジュニア用の「たのしいギター」シリーズなど、私が自分で作った教材は、2000ページを超えています。







35
 さて2回目の書き込みですが、これからしばらく、自己紹介をかねて個人的に、いろいろな数字にまつわる話を書いて行こうと思います(どこかのテレビ番組のパクリのようで恐縮ですが)。

 最初は「35」からですが、私がギターを教えるようになったのは35年前(1972年)で、その時、私はまだ大学生で、知人の紹介で40代くらいの男性にギターを教えるようになりました。
毎週その方の家に伺ってレッスンをする家庭教師のようなものでしたが、結局、数ヶ月足らずで終わってしまいました。
その方のギターへの興味が薄れていったということですが、もちろんそれには私の経験不足はたいへん大きかったと思います。
それまで大学のサークルで後輩たちを教えていたりはしていましたが、一般の人、しかも自分の2倍くらい年齢の高い人に教えるのは当時の私にはたいへん難しいことだったと思います。

  その年の夏には当時ギターを習っていた荻津節男先生の紹介で土浦の教室で教えるようになり、次の年には水戸市内をはじめ、石岡や、日立市などでも教えるようになりました。
大学生活の後半は、週4~5日くらいはギター教室で教えていていました。
卒業する頃になって(6年かかりましたが)、自分の実力や将来には大いに不安がありましたが、なんと言っても好きな道だったので、そのまま就職活動をせず、ギター教室の仕事を続けることにしました。
 
 ちなみに「中村ギター教室」が発足したのは、私が大学を卒業した年の1975年(昭和50年)です。
最初は今のとろから少しはなれた所にいましたが、現在の場所になったのは1980年からです。

 以上の話からでもおわかりのとおり、ギターの実力などが十分でないうちからギターを教えるようになり、文字通り「教えながら学ぶ」といった感じでした。
さらには人を指導したりするには、人間的な経験も乏しく、なおかつどちらかと言えば、内にこもるタイプで、人付き合いも下手で、それこそ世間話もうまく出来ないほうで、苦労の連続でした。
たぶん当時の生徒さんたちには不十分なレッスンしか出来なくて、こんな場でなんですが、たいへん申し訳なく思っています。
 
 なんだかんだで、いつのまにか35年たってしまい、56年の人生のうち、3分の2近くはギターを教えていることになります。
そろそろ経験も身につけ、一人前の「ギター教室の先生」と言いたいのですが、あいかわらず試行錯誤の連続です。
この仕事を始めた頃の習慣が身に付いてしまったのでしょうか。

 当たり前のことかも知れませんが、ギターを習いに来る人はみなそれぞれ、年齢も、趣味も、生活環境も全く違う人です。
これまでうまくいっていた方法でもすべての人に合うとは限りません、やはりまだまだ試行錯誤は必要なのでしょう
どう書き出せばよいかわかりませんが、やはり

・・・・ブログ始めました・・・・・

でしょうか。

相変わらずこの手のものには弱く、創に無理を言ってなんとか作ってもらいました。創も最近ではその方面の「プロ」になっているようです。創のことにつきましては、いずれあらためてお話したいとは思いますが、今はずい分と多忙なようで、あまり休みもなく仕事をしているようです。

始めた以上はなるべくこまめに更新してゆきたいと思いますが、どうなるでしょううか。

このブログを見る(読む?)人は多かれ少なかれギターに関心のある人だと思いますので、ギターの話を中心に、音楽一般の話、コンサートの話、時には個人的な話などを書いてゆきたいと思います。お付き合いいただければ幸いです。


さっそくですが、この連休の3,4日とギター文化館のシニア・ギター・コンクールなどのイベントに行ってきました。シニア・ギター・コンクールを聴くのは初めてですが、それぞれの方が、たいへん緊張する状況にもかかわらず、しっかりと自分の実力を発揮していたように思います。4日にはパーティのお誘いを受けて出席してみたのですが、根っからの出不精で、このようにギター関係者がたくさん集る場に出たのは久々です。いろいろな人に久々に合い、また、お話させていただきました。