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中村俊三 ブログ

中村ギター教室内のレッスン内容や、イベント、また、音楽の雑学などを書いていきます。

バッハ : シャコンヌ 5 



コンサート終わりました

 昨日(29日)アコラでのジヴェルニー・コンサートで演奏しました。 今回参加者が多かったのは前に言ったとおりですが、ここで初めて演奏する人も何人かいて、私の生徒さんも3人ほど演奏しました。 客席とステージが近いので、最初はちょっと緊張していたようですが、それぞれギターらしい音色を出していたのではないかと思います。

 埼玉ギター・コンクール第2位の鈴木幸男さんの入賞記念演奏があるのかなと思ったのですが、指を休ませるためということで、今回は聴けませんでした。

 私の演奏のほうは前述のとおりコストのエチュードとバッハのシャコンヌでしたが、ここでのコンサートに聴きに来る人はほとんどがギターを弾いている人なので、こうした練習曲などはこれからも時々弾いてみたと思います。 

 このシャコンヌについては弾くのも、書くのもなかなかたいへんですが、この前(17日)よりほんのわずか前進したかなと思います。

 ではまた本題に戻ります。





48~75小節

 ここで気が付いたのですが、これまで小節数を一般的な方法に従い、最初の不完全小節を数えないで、次の完全小節を「1」と数えていましたが、この音楽の友社の楽譜では最初の不完全小節を「1」と数えています。

 従って、小節の数え方が1つずれてしまいましたが、 これまでこの方法で書いてきてしまいましたので、このままの数え方で話を進めてゆきます。 その方がバッハの意図どおり、最後が256小節となります。




64~75小節は48~63小節を装飾したもの = 変奏の変奏

 さて、この48~75小節の4×7=28小節は一つのまとまりを成しています。 後半の64~75小節の4×3は32分音符による部分で、弾く方としてはなかなかたいへんなところですが、第1部の一つのクライマックスにもなっています。

 またその64~75小節は48~63小節を装飾したもので、64~67は48~51と、68~71は52~55小節とそれぞれ対応していますが、72~75ははっきりしません。



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の部分(64小節~75小節  譜面の小節番号と文章の小節番号は1小節ずれている) はの部分(48~63小節)を装飾したもの


 この部分(48~75小節)では、上声部の動きが激しいので、低音は省略気味になっていますが、「レ、ド、シ、ラ」と言うような順次進行に簡略化されているところが多いようです。 また音型的な動きが活発なために、和声的には単純になっています。




76~87小節

 76~87小節はその前の32分音符のパッセージを受け、それを32小節にわたるアルペジオを部分に入るための導入部といった感じになっています。

 76~83小節は16分音符で出来ていて、動きとしては前後の部分より大人しいのですが、和声的には複雑になっていて、例えば76小節では、Ⅰ-Ⅵ-Ⅴ/Ⅴ (コード・ネームでは、Dm-B♭-E7)と1小節の中で3つの和音が出てきます。



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76~83小節(線)は、次のクライマックスへのつなぎとも考えられるが、和声的にはむしろ複雑になっている。 またアルペジオ(★印以降)の部分はコラールのような書き方をしている。 オルガンなどで演奏すれば普通に聴こえるかも知れないが、ヴァイオリンで演奏すると、より緊張感が高まる。



和声的により複雑に

 80小節からはさらに和音が複雑になり、最初の小節と言えどもⅠの和音(Dm)にはなっていなくて、はっきりはわかりませんが、Ⅱ9の和音(E9-♭5)の転回形のようです。

 いずれにしてもたいへん緊張感のある部分です。 84小節からは再び32分音符の部分となり、高音域まで上がり、第1部のクライマックス、その2とも言えるアルペジオの部分に入ります。




88~119小節 ~アルペジオの部分

 ここは4×8=32小節のアルペジオの部分ですが、楽譜には和音が書いてあるだけで、それに「アルペジオ」と但し書きがされています。

 具体的な弾きか方ははっきりとは書いていないので、演奏者がある程度自分の判断で演奏します。 ギターのほうでもいろいろ凝った弾き方をする人もいます。 




クライマックスがクライマックスとして

 基本的には4声または3声のコーラスのように出来ていて、これをオルガンやコーラスなどで演奏したら割りと普通なのでしょうが、ヴァイオリンでこれを弾くとなると話は別で、相当な技術が必要となるでしょう。

 それに比べればギターで弾くのは 簡単とは言えませんが、それほど無理ではないでしょう。 もっともヴァイオリンに過酷な要求をしたことにより、いっそうクライマックスがクライマックスとして聴こえるのかも知れません。




一見同じように見えるが、それぞれ特徴がある

 この 「8×4小節」 はもちろんそれぞれに特徴があって、決して皆同じようではありません。 88~91はその前の高く上がった音域を受けてだんだん下がって行きますが、声部の逆転があるのが特徴です。

 これはヴァイオリンの開放弦の関係だと思いますが、これはギターでも同じなのでたいへん都合がよいです。 92~95は低音に動きを持たせています。

 96~99はその低音の動きを上声部に持ってきています。 100~103ではそれが中声部に現れます。 104~107は半音階的な動きが特徴でしょうか。

 108~111は半音階的に上昇してゆき、112小節で頂点を作っています。 クライマックスのクライマックスというところでしょうか。 アルペジオの部分の最後の”しめ”となる116~119は前の112~115での半音階的な下行を受け、上声部は半音階的に下がりますが、低音部は全音階的です。



120~131小節

 いよいよこれで第1部が終わりとなり、この部分は第1部のコーダのような役割をしています。32分音符が中心の120~123でそれまでのアルペジオの部分を受け、124から最初のテーマが少し変えられた形で再現され、この第1部が終わります。

 このテーマの再現は冒頭のものより全体に音域も高く、より高らかに鳴り響くように書かれ、この第1部が壮大に終わります。



だいたい半分だが、正確に半分ではない

 厳密にはこの第1部は132小節の1拍目までとなり、全体の256小節のほぼ半分にあたります。 正確に半分ということなら128小節となるはずですが、なぜか4小節多くなっています。 

 理由はよくわかりませんが、少なくとも8小節単位ではなく、4小節単位で作曲されてきたことがわかります。


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 29日(土)アコラのジヴェルニー・コンサートに出演します。といってもこもコンサートは基本的に愛好者によるコンサートで、その「おまけ」として私も演奏するものです。曲目はあちこちに書いてあると思いますが、コストの練習曲を7曲とバッハのシャコンヌです。他にコストの「秋の木の葉作品41-9」も場合によっては弾きます。


 シャコンヌのほうは「名曲の薦め」のほうで書いているので、コストのほうについてだけコメントいたします。


 ナポレオン・コストは1805年に生まれたフランスのギタリストですが、その名の「ナポレオン」はもちろんナポレオン・ボナパルトにちなんでということですが、確かに1805年と言えばナポレオンの絶頂期だったと思います。成人してからはパリを中心に活動していたようですが、そこでカルリ、カルカッシ、アグアード、ソルといったギタリストからの影響を受け、特にソルとは師弟関係にあり、一般にソルの後継者と言われています。


 作風はソルを思わせる多声部的な書き方にさらに内声を厚くした感じで、装飾的な楽句が多いのはイタリアのギタリストからの影響かも知れません。亡くなったのは1883年と当時としては長生きだったと思います。


 今回演奏する「25の練習曲作品38」は1873年に出版されましたが、1880年に第2版が出版され、今回使用するのはShanterelle社から復刻されたこの第2版です。もともと個人所有の譜面だった関係で、おそらく所有者のものと思われる書き込みなどもそのまま印刷されています。


 これまでわが国では全音出版から小船照子氏の監修で出されていて、これを用いて練習した人もいると思います。私も最近までこの譜面しか持っていなかったのですが、おそらく小船氏による変更などがかなり多いのではないかと思い、今回演奏するにあたり、上記の譜面をとりよせました。本当に「当時のまま」といった譜面ですが、決して読みにくくも、弾きにくくもありません、運指などもよく書かれていると思います。

 コストの使用した楽器は7弦ギター(第7弦は通常「レ」)で、これを6弦ギターで弾くには6弦を「レ」に下げるか、または「レ」をオクターブ上げるかしないと弾けません。また22フレット(通常は19フレット)まで出てきます。


 今回演奏するのは3、6、8、14、18、20、22番の7曲ですが、それぞれ美しい曲だと思います。なお6番は映画「禁じられた遊び」にも使用されました。


 
 なお、ジヴェルニー・コンサートも久々とあって、今回はすでに定員に達してしまい、受付は終了とのことです。



 またアコラのメンバーのひとり鈴木幸男さんが9月23日の埼玉ギター・コンクールで第2位となりました。指の不調をおしての出場とあって、本当におめでとうございます。

バッハ : シャコンヌ 4


 ではこの曲を最初から見てゆきます。話はオリジナルのバイオリンの譜面(音楽の友社)でしますが、ギターの編曲譜でも大丈夫だと思います。なお以下は一般論というより、私の個人的考えと理解して下さい。




<第1部 0~131小節>



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バッハのシャコンヌの冒頭部分、一つの変奏は4小節とも、8小節とも考えられる。 このように2拍目から始まるシャコンヌは決して多くはない。


アウフタクト

 冒頭のテーマは2拍目から始まるアウフタクト(不完全小節)となっています。 前述のとおりあまりたくさんのシャコンヌを知らないので、こうした始まりがシャコンヌとして一般的なのかどうかわかりませんが、.S.L.ヴァイスのシャコンヌをはじめ、 ヘンリー・パーセル、 ロベルト・ド・ヴィゼー、 コルベッタなどのシャコンヌを聴いた限りでは、2拍目から始まるものはないようです。

 シャコンヌが一般的にアウフタクトで始まるかどうかということについては、音楽辞典などには書いてありませんが、他の少ない例からすれば1拍目から始まるのが最も普通のようです。 場合によって8部音符などのアウフタクトが付くのではないかと思います。 

 少なくとも、このバッハのシャコンヌにおける2拍目からの開始は、一般的な習慣に従ってというより、バッハが何らかの意図、あるいは理由があってこの開始を採用したのではないかと思います。




ヴァイスは同じ和音が2小節続くのを嫌って、一つの変奏を7小節とした

 まずそのことの一つとして考えられるのは「小節数」ではないかと思います。 ヴァイスのシャコンヌはアウフタクトを持たず、1拍目から始まりますが、テーマおよび各変奏はは7小節で出来ていて、最後の変奏だけ終始の小節が付き、8小節になっています。

 各変奏を8小節にしなかった理由は、おそらく、8小節にすると次の変奏に移る時、前の変奏の最後の小節と、次の変奏の最初の小節は、それぞれ主和音になると思いますが、そうすると同じ和音が2小節続くことになります。

 ヴァイスの場合はそれを嫌って各変奏の8小節目になるはずの小節を省略し、各変奏の終止の小節が、次の変奏の最初の小節になるようにしたものと思います。


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ヴァイスのシャコンヌの冒頭部分、 1拍目から始まっている。 前の変奏の最後の小節が後続の変奏の最初の小節を兼ねるために、一つの変奏が7小節となっている。



バッハは4の累乗数にこだわった

 バッハという人は、数にはたいへんこだわる作曲家で、バッハのシャコンヌは、8×32=256小節と、4の累乗数になっています。バッハにとって音楽と数というのは何かとても神聖な関係があって、重要な作品はこうした小節数になならければならないという考えがあったのかも知れません。

 バッハのシャコンヌではアウフタクトを用いることより、巧みに同じ和音が2小節続かないようにすることも、全体を4の倍数の小節で構成することも実現されています。




いきなり

 もっとも小節数の問題は他にも解決方法があるでしょうから、この理由は仮にあったとしても付随的なものと思われ、他にもう少し大きな理由があるのではないかと思います。

 和声的に見てみると、最初の不完全小節は常識どおり下から「レ、ファ、ラ」の主和音となっていますが、次の小節(1小節目)の1拍目は「レ、ソ、シ♭、ミ」という不協和和音になっています。

 これは「レ、ソ、シ♭」のⅣの和音に6度の音の「ミ」を加えたもので(コード・ネームで言えばGm6)、ありえなくはないですが、「増4度」や「9度」の音程を含み、不協和度の強いものです。

 普通こうした不協和音に進むためにはなんらかの準備をしますが、なんの準備もないばかりか、「ラ」からいきなり「ミ」まで5度跳躍になっています。


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1小節目の1拍目の和音(〇印)はコード・ネームで言えばGm6だが、7度や減5度などの不協和音程を含み、緊張度の高い和音となっている。 この緊張感をいっそう強くするために2拍目から始まるのではと考えられる。




最初の小節の1拍目が最も緊張感が高い

 つまりこの1小節目の1拍目に和声上に強いアクセントが付き、このテーマの中では最も緊張感の高いところになっています。 この曲を聴く人はこの冒頭の部分を聴いただけでも何か 「凄そうな曲」 とか 「ただならぬ曲」 といった印象を受けると思います。

 バッハは冒頭から聴く人を自分の世界に引き寄せることを狙ったのでしょう。 バッハはこの和声上のインパクトをリズムの上からも支えるべく、このような不完全小節を採用したのではないかと思います。

 不完全小節の最後に置かれた8分音符も次の小節の1拍目に力点が置かれることに役立っているのもまた確かでしょう。 もっともこの8部音符はしばしば16分音符として演奏されますが、次の小節のインパクト度を増すためには有効でしょう。



どちらにしても

 以上のことは本当のバッハ自身の考えにどれだけ近いかはわかりませんが(相当遠いかも知れません)、バッハの作曲の仕方に 「なんとなく」 というのはなく、それぞれに意味があるのは確かでしょう。 またこの曲の冒頭を聴いただけでも「偉大な音楽」と感じられるのも確かでしょう。





0~23小節

 1小節目のところだけでもたいへん時間がかかってしまいました。 この調子で行ったらいつになっても最後まで行き着きません、以下手身近に話を進めましょう。

 4小節+4小節=8小節のテーマのあと、「第1変奏」と言いたいところですが、この表現はあいまいなので小節数で言いましょう。 

 8~15小節これは文字通りテーマの変奏で、テーマのリズムや和声などを大体残していて、さきほどの「レ、ソ、シ♭、ミ」の和音の他に 「レ、ファ、ラ、ミ」 という不協和音も出てきます。

 これは正式な和音ではなく「非和声音」を含む和音ということでしょうが、「長7度」つまり半音違いの音を含む、かなり不協和度の強い和音ですが、付点音符で刻まれるテノール声部の旋律と合わせて、曲の「威厳」とか「偉大さ」を演出しているように感じます。

 なお和音に「ミ」が加えられているのは「ミ」が開放弦になっている(ヴァイオリンの場合でも)こともあるでしょう。  次の8小節(16~23)も前の変奏の声部を入れ替えたような感じで、ここまでは大体ひとまとまりになっていて、冒頭の威厳に満ちた部分を構成しています。



24~47小節

 次の24小節目からは一転し、音楽は柔らかく、流動的になってきます。 明らかに前の部分の対比になっています。 リズムの要素はなくなり、低音だけがテーマから受け継がれます。

 上声部は8分音符や16分音符で流動的な感じになり、8小節単位という感じはまだ若干ありますが、後半の4小節は前半の4小節の「変奏」あるいは「装飾」といった感じになり、4小節単位といった感じも出てきます。

 また28~31小節では低音も省略気味になりますが、ギターへの編曲では付け加えている場合も多いでしょう。 32小節~39小節では低音が半音階的な動きに変更されています。

 「低音を主題に持つ変奏曲」といっても、その低音主題は多彩に変化していることが以下を見てゆくとよくわかります。 40~47小節では前半と後半の音階の上がり、下がりが反対になっています。

バッハ : シャコンヌ 3




今日はたいへんありがとうございました

 今日ギター文化館でミニ・コンサートを行いました。 季節外れに暑い日でしたが、いつもながらにわざわざ聴きに来ていただいた方々、本当にありがとうございました。

 今日はこの「シャコンヌ」を20数年ぶりに弾いたので、いつになく汗をかいてしまいました。 「無事」といってよいのかどうか一応弾き終えて今は少しほっとしています。 もう少し「ちゃんと」弾きたかった部分もありましたが、相変わらず楽器(ハウザーⅢ)はよく鳴ってくれたと思います、会場の要因が大きいのでしょうが。

 また29日にアコラで弾きますが、少しずつ前進してゆければと思います。

 ではまた「シャコンヌ」の話に戻ります。




各変奏が有機的に結びついている

 一般的に変奏曲というのは変奏の順などはそれ程重要でないことが多いようです。もちろん似たような変奏は続けないとか、最後はなるべく華やかにとかはありますが、場合によっては変奏の順序を変えて演奏してもそれ程内容が変わらないものもあります。

 実際に変奏の順を入れ替えたり、省略したり、また新たに付け加えて演奏することもあったようです。 しかしこのシャコンヌの場合、そうしたことは全く考えられません。

 この曲では、各変奏が曲全体の構成に有機的に結びついており、その一部分でも入れ替えたり、省略は不可能と言えます。



一つの生命体

 前回、この曲は 「8小節のテーマと30の変奏」 と言いましたが、確かに形としては8小節の主題なのですが、和声進行的には4小節単位で出来ており、バッハとしては4小節単位で考えていることが多いようです。

 この4小節がこの曲の最小の単位となっていて、この曲を細かく見てみると、多少大袈裟かも知れませんが、最も連想させられるのは人間などの生命体ではないかと思います。

 その基本的に同じ低音を持つ(例外もありますが)4小節が生命体の場合の「細胞」にあたり、その細胞がいくつか集り「組織」を成し、「組織」がさらに集って「器官」となり、そして一つの生命体となる、そんな感じがします。 またその「細胞」が用途に応じていろいろと変化してゆくことも生命体によく似ています。



パッサカリアやサラバンドに似ている

 音楽辞典などにはシャコンヌとは「スペイン起源の3拍子のゆるやかな舞曲で、バロック時代ではしばしばバス(低音部)に主題を持つ変奏曲として作曲された」と書いてあります。

 ついでに「スペイン起源の3拍子のゆるやかな舞曲」と言えば、パッサカリアにも同じような説明があり、「スペイン起源の3拍子のゆるやかな舞曲」であるサラバンドにもよく変奏が付きますから、これらは大雑把に言えば大体同じものと考えられます(厳密には違う点もあるもでしょうが)。



ゆるやかな舞曲 = 変奏曲

 これは私の勝手な推測ですが、「ゆるやかな舞曲」は、なぜ「変奏曲」になってしまうかと言うと、「舞曲」であるからには一定の時間演奏していなければなりませんから、どうしても曲を繰り返す必要が出てきます。

 その時ずっと同じものを繰り返すのでは演奏者も踊り手も退屈になってしまいます。その曲が「ゆっくり」である場合は特にそうなので、演奏者は普通繰り返しの時、いろいろ装飾を加えてゆきます。

 その時、あまり勝手にいろいろやったのでは音楽にならなくなってしまいますから、とりあえず「低音」だけは同じにしておき(低音が決まるということは和声進行が決まるということになります)、その低音に合う音をいろいろ付け加えていったのではないかと思います。

 それらの即興で行っていたものをあらためて譜面に書いたものが、結果的に「変奏曲」になったものと考えられます。  そうしたことから、結局 「ゆるやかな舞曲」 は 「変奏曲」 にならざるを得なかったと考えられるでしょう。

<名曲のススメ>   バッハ : シャコンヌ 2



バッハの「シャコンヌ」の概要

 ご存知の方もいるとは思いますが、この曲についての概要を書いておきます。1685年に生まれたバッハは、1717年~1723年にかけて中部ドイツにあるケーテンの宮廷で仕事をしていました。

 バッハはその生涯の多くは宗教音楽に携わることが多かったのですが、ここでの仕事はその宗教音楽からは離れ、器楽関係が主で、この期間にバッハの数々の器楽の名曲が作曲されました。



1720年頃までには完成

 シャコンヌも含まれる 「通奏低音を伴わないヴァイオリンのための6つの独奏曲」 もここで作曲され、バッハ自身の手で清書された楽譜には1720年と記されています。

 これは「ソナタ」と題されたものと「パルティータ」と題されたものが交互に、「ソナタ第1番ト短調」、「パルティータ第1番ロ短調」、「ソナタ第2番イ短調」、「パルティータ第2番ニ短調」、「ソナタ第3番ハ長調」、「パルティータ第3番ホ長調」の順に並んでいます。

 現在では「3つの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ」と「3つの無伴奏ヴァイオリン・パルティータ」と呼ばれています。 あえて「無伴奏」としているのはヴァイオリンの場合は「伴奏」が付くのが普通だからです(バロック時代では通奏低音)。



他に例がない「無伴奏」

 無伴奏のヴァイオリン曲を作曲したのは別にバッハが最初ではなく、またバッハ以後も作曲されていますが、その無伴奏のバイオリンの作品にこれほどまでに高度な和声法や対位法を用いたのは、他に例がないと思います。

 本来旋律楽器であるヴァイオリンに 「それなりに」 和声を付けたのではなく、たいへん高度な、「最先端」の和声の曲に仕上げています。 しかもバッハはたいへん少ない音でそれを実現し、全く他に例がないことと思います。



無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第2番ニ短調

 このシャコンヌは「無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第2番ニ短調」に含まれます。 「パルティータ」は、普通「組曲」と訳され、アルマンドやクーラントなどの古典舞曲で構成されます。

 この 「パルティータ第2番」 はアルマンド、クーラント、サラバンド、ジグといった標準的な舞曲の後に、異例の長さのこの「シャコンヌ」が続きます。



スペイン起源の3拍子の舞曲で、低音を主題とした変奏曲

 シャコンヌとは 「スペイン起源の3拍子の舞曲」 ということですが、この時代にはその低音を主題とした変奏曲として作曲されるようになりました。 このシャコンヌも8小節のテーマ (4小節とも考えられますが) に30の変奏が続き、最後にまたテーマが現れます。

 小節数からすれば、8×32=256と数字的に割りのいいものになっています。 またシャコンヌ自体が変奏曲であるばかりではなく、よくみると先行の4つの舞曲もシャコンヌと密接な関係があるようです。 

 シャコンヌの低音は、レ--ド#--レ--シ♭ となっていますが、他の舞曲も冒頭の低音はすべて、レ--ド#--レとなっていて、このパルティータ全体が一つの変奏曲のようにもなっているようです。




シャコンヌのイメージ

 シャコンヌというと、なんと言ってもこのバッハのシャコンヌが有名なので、「高度な内容の重厚な音楽」といったイメージになると思いますが、本来シャコンヌというのはそうではないようです。

 低音が決まっているということは和声進行が決まっているということで、同じ和声進行の上に作曲するわけですから、音楽的にはむしろ単純になるわけです。

 後は如何に装飾をほどこすかということになり、それらは作曲家だけでなく、さらに演奏家が付け加える場合も多かったようです(当時は作曲家=演奏家の場合が多かったようですが)。

 つまりもともとはシャコンヌとは「決まった低音の上に演奏者などが自由に装飾を加える曲」ということで、どちらかといえば、気楽な曲だったのではないかと思います。 もちろんそのイメージを一変させたのはバッハその人です。




意外と少ないシャコンヌ

 シャコンヌというと、フーガと並び、バロック時代の典型的な曲というイメージがありますが、一般に知られている「シャコンヌ」は意外と少ないようです。

 ギター関係でもバッハの曲以外の曲ではヴァイスの曲 (明日=17日にギター文化館でこの曲も弾きますが) が知られているくらいでしょう、私もそれ以外はあまり知りません。

 バッハもシャコンヌは「この」1曲しか書いていません。 この曲の出来に満足したことも考えられますが、変奏曲という形では得意の和声法を自由に駆使しにくいからかも知れません。 

 いやそんなことはあり得ないでしょうか、なんといっても変奏曲史上最大の傑作「ゴールドベルク変奏曲」があるわけですから。





 *明日(9月17日)のギター文化館のミニ・コンサートに出演します。 詳細は以前書きましたのでそちらをご覧下さい。pm.2:00~はタルレガの小品など、4:00~はこのシャコンヌ(バッハとヴァイス)などを弾きます。

 
<名曲のススメ>   バッハ : シャコンヌ  1



ショパンどころでは・・・・


 「この季節はショパンが・・・・」などと言っていたら、その後台風が来たり、また猛暑が戻ったり、雨が続いたりと、爽やかな季節とはほど遠い感じになってしまいました。

 ブログの更新のほうも、やや滞り気味になりましたが、今度の17日と29日のコンサートの練習に追われています。
 
 前にちょっと触れたとおり、これからこの「バッハのシャコンヌ」について書いてゆきます。 アストゥリアス同様、長くなってしまうかもしれませんが、この曲を弾いてみようと思ってる人や、実際に練習している人にはなんらかの役に立つものとは思いますので、ぜひ読んで見て下さい。  また特に興味のない人も「ギターで弾く」名曲の一つとして、最初の方だけでも読んでみて下さい。




本来は演奏で語らなければならないが

 本来演奏家というのは、言葉で語るのではなく、当然演奏することによってその音楽の内容を聴き手に理解させられなければなりません。

 ですから私の場合も 「今度のコンサートに来ていただければ、シャコンヌのすべてがわかります」 と言いたいところなのですが、残念ながら私の演奏ではどう頑張っても 「すべてわかって」 いただけるはずもないので、邪道とは知りつつ言葉で語ってしまいます。



3拍子揃って?

 このバッハのシャコンヌはクラシック・ギターをやる人にとっては人気曲の一つであるのは間違いなく、アストゥリアスのところでも触れましたが、かつて私の教室アンケートを行った 「ギター名曲ベスト10」 では、この曲は本来ギター曲ではないにもかかわらず、第9位に入っていました。

 しかし一方で、特にこの曲が好きでない人にとっては 「長い、難しい、退屈」 と3拍子揃っていて、もっとも聴きたくない曲の一つかも知れません。 もちろんシャコンヌは「3拍子」の舞曲です。




バッハのシャコンヌを始めて聴いたのは

 私が最初にこの曲を聴いたのは、大学に入ってすぐの時で、親しくなったばかりのギター部の仲間に誘われてピアノのリサイタルを聴きに行った時です(日本人の男性ピアニストでしたがその名前は思い出せません)。

 コンサートの内容はほとんど覚えていませんが、プログラムにバッハのシャコンヌ (ブゾーニ編曲の) があったのは確かで、その友達に 「ピアノでバッハのシャコンヌ演奏するみたいだから、聴きに行かないか」 というように誘われた記憶があります。 

 他にショパンの曲などもあったと思いますが、これも皆初めて聴く曲ばかりでした。

 私にとってはコンサートを聴きに行くなどということは、この時が初めての体験で、あまり聴きに行きたいとは思わなかったのですが、ギターをやっている以上、聴きに行かないとまずのかなといった気持ちで、その友達の誘いに付いて行った気がします。




シャコンヌがどんな曲だったか全く覚えていない

 本格的なピアノの演奏も初めてで、その音がやたら大きく聴こえたのを覚えています。 曲の方などは、どれがどの曲なのかさっぱりわからず、シャコンヌがどんな曲だったかも全く覚えていません。

 ただショパンの曲だけは美しいと感じた記憶があります。コンサートが終わってからその友達に 「どう、シャコンヌはすげえだろう」 と言われて、とりあえず 「うん、まあ、そうだね」 と生返事するのが精一杯でした。




何でこんなめんどくさい曲が名曲とされているのか

 その後もギター部内でシャコンヌという曲名を時々耳にするようになり、レコードを買ったり(アルトゥール・グリュミオーのヴァイオリン)、イエペスのレコードを部員から借りたりして聴き始めました。

 私がこの曲に興味を持ち出したのはまさに 「長い、難しい、退屈」 ゆえにということになるでしょう、なぜこんなめんどくさい曲が名曲とされているのか、また人気があるのか、その理由が知りたい、というのが最大の理由だと思います。

 ちょっと不純な理由ですが、動機はなんであれ聴いているうちに少しずつこの曲の魅力なども感じとれるようになり、いつしか自分でもまともには弾けないながらも、弾きかじるようになりました。

 
「のだめ」のモデル?

 天才といえば、このショパンの「ピアノ協奏曲第1番」を得意なレパートリーにしていた、天才ピアニストのマルタ・アルゲリッチ、天才の称号の安売りになってしまうかも知れませんが、このアルゲリッチも天才の称号がぴったりのピアニストです。アルゲリッチの天才ぶりについてはいろいろと語られていて、コンクールの課題曲を一夜漬けで覚えたとか、となりの部屋の学生がプロコフィエフの「ピアノ協奏曲第3番」を練習しているのを、ベットで眠りながら聴いていて覚えてしまったとか、一度覚えた曲は絶対に忘れないとか。

 そう言えば昨年話題になった「のだめカンタービレ」の「のだめ」のモデルではないかという気もします。テレビ・ドラマとか、深夜のアニメ番組とかを見た人も多いと思いますが、「のだめ」もコンクール本選の曲を2次予選を通過してから練習を始めましたが、熱を出すなどしてストラビンスキーの「ペトルーシカからの3楽章」はとうとう間に合わず、会場に向かう途中で譜面を読みがら曲を覚えるというシーンがありました。でも途中で料理番組のテーマが聴こえ、それまで記憶してしまい、本番では混乱して、結局優勝はできませんでした。

 テレビを見た人もそんなのあくまでもマンガの世界と思ったでしょうが、アルゲリッチの場合、それに近いことがあり得なくもなかったようです。のだめは優勝出来ませんでしたが、アルゲリッチの場合はそれに近いやり方で、ブゾーニ、ジュネーヴといった国際的に有名なコンクールを2つも優勝してしまったわけですから、のだめのかなり上をいっていたようです。他にも幼少の頃の厳しいレッスンのトラウマとか、練習嫌いとか、気まぐれとか、破天荒の演奏とか、さらに気持ちの入った時は凄まじいとか、アルゲリッチとのだめとは共通した部分もかなりあるようです。



ソロが恐い

 アルゲリッチはその二つのコンクールに16才で優勝しましたが、その後しばらくは特に目立った活動もなく、一時期は全くピアノを弾かなくなり、結婚して出産もしたそうです。しばらくのブランクの後周囲の人たちの強いサポートにより、再び意欲を取り戻し、7年後の23才(1964年)の時にショパン・コンクールに出場し、優勝しています。この時は納得ゆくまでちゃんと練習したそうです。

 その後は話題の人気ピアニストとして華々しく演奏活動に入るわけですが、そうしてからもアルゲリッチのキャンセルぐせは有名で、大勢のファンをいつもはらはらさせていたようです。リハーサルの出来が良すぎて、本番ではそれ以上には弾けないと言い出し、楽屋から出てこなくなったりということもあったようです。

 1980代の半ばくらいからはソロのコンサートはやらなくなり、協奏曲や室内楽などの合わせ物だけになりました。ステージに誰か他の人がいると安心できるそうで、一人でステージに上がるのは恐いんだそうです。その演奏ぶりからは全く想像できませんが、ともかく天才という人種は普通の人にはなかなか理解出来ないところがあるのでしょう。



名盤

 このショパンの「ピアノ協奏曲第1番」は、クラシック音楽の名曲中の名曲だけにCDは数多く出ていますが、その中でもこのアルゲリッチのCDは人気も評価も高く、これまでパートナーを換え、何度となく録音していています。現在でも何種類か手に入ると思いますが、私はそのうち1966年のクラウデオ・アバドとのものと、1998年のシャルル・デュトワとのものを持っています。アバドとの録音はショパン・コンクールを優勝して、まさに売り出し中の美人天才ピアニストと、これまた売り出し中のイケメン・スター指揮者との共演ということで、たいへん話題になったもので、現在でも評価はたいへん高いものです。

 もう一つのものは一時期結婚していたこともある(アルゲリッチは3回結婚歴がある)デュトワとの共演で、録音の違いもあるかも知れませんが、私にはこちらのほうが印象が強く感じられます。ショパンのオーケストレーションにはやや物足りなさがあると言われていますが、デュトワの棒によりそのオーケストラの部分もくっきりと、かつ色彩的に描かれ、決して物足りなさは感じません。アルゲリッチのピアノも若い頃に比べいっそう表情が深くなり、恋する青年音楽家の情熱をしなやかに、また激しく表現しているように思います。

 私は持っていませんが前述のショパン・コンクールのライヴのCDもあり、これも人気が高いようです。協奏曲というのは独奏曲に比べ、なかなか個性や考え方などが出しにくいと思いますが、アルゲリッチの場合、協奏曲のほうが優れた演奏が多いようです、モーツアルトの第20番ニ短調とか、シューマンの協奏曲、ラヴェルの協奏曲など、たいへんインパクトの強いものだと思います。


 
 
秋風のコンチェルトは初恋の響き

 連日の猛暑もさすがにここに来て、勢いも衰え、涼しい風が吹く日も多くなりました。涼しくなったのは確かにいいのですが、夏の暑さが去るとなんとなく寂しさを感じるのはなぜでしょうか。過ぎ去る夏、訪れる秋、時間が過ぎ去るのがなんとなく寂しく感じるこの季節、この季節にはこの「ショパンのピアノ協奏曲第1番ホ短調」がよく似合います。ショパン20歳のワルシャワ時代の最後の歳の作品で、同じ年に書いた「第2番」とともに、当時恋していた女性への想いを音楽にした曲と言われ、まさにショパンの若き日の情熱に満ちた曲です。その女性が初恋の女性かどうかはわかりませんが、この曲の初々しさはそんな言葉もよく似合うでしょう。初演が1830年の10月11日となっていますから、作曲したのは確かに夏から秋にかけてなのでしょう、もっともワルシャワのしかも当時の夏は、こんな猛暑ではなっかたでしょうが。


古典の衣装をまとったロマン派の音楽

 オーケストラによる、堂々したテーマで始まるこの曲は、全体としてはソナタ形式という伝統的なスタイルを踏襲して作曲されています。ベートーベンが亡くなってからまだ3年しか経っていない時ですから当然かもしれません。冒頭の堂々とした部分の後には優しい、あるいは美しい歌が続きますが、これはロマン派的なもの、あるいはショパン的なものといえるでしょう。しかしピアノが登場してからがこの曲の真骨頂で、まさに音楽史上に輝くピアノ協奏曲の名曲であることが感じ取れます。20才で作曲されたこの曲はまだ後期のショパンの作品のような深遠さはないと言われたりもしますが、一方では晩年のショパンの音楽にはないものあると思います。


天才はどこからやってくる

 私にとって、ショパンという音楽家は最も「天才」を感じる音楽家です。もっとも私たちが知っている多くの作曲家はそのほとんどが天才と言えるでしょうが、ショパンの音楽からは、誰かから学んだり、努力したりとか、あるいは他の音楽家から影響うけたとかがあまり感じとれないのです。ショパンの場合、最初からショパンであったように感じさせられます。時代からすればベートーベンはじめハイドン、モーツアルト、バッハなどは必ず学んだはずですが、初期の作品と言えど、ショパンの音楽にはそれらの音楽家の影響は直接感じられません。7歳で作曲した二つのポロネーズ(第11番ト短調、第12番変ロ長調)もすでにショパンの音楽になっているように思います。

 「雨だれ」などで有名な「24の前奏曲」はバッハの平均率の影響から作曲したものですが、実際に聴いてみても直接的にはバッハの影響などはあまり感じられません、どう聴いてもやはりショパンにしか聴こえません。強いて言えばソナタ第1番や即興曲などは、ちょっぴりシューベルトを連想させます、ショパンの音楽が一番誰に似ているかと言うと、本当に無理やりですがシューベルトかも知れません。またベートーベンの「ハンマークラビア・ソナタ(第29番)」の第3楽章はたいへん美しい楽章ですが、部分的にはショパンぽく聴こえるところがあります(話が反対ですが)。

 ショパンと同世代のピアノの作曲家にリストやシューマンなどがいますが、ショパンの場合、その両者に見られるような文学的な標題の付いた作品はなく、「マズルカ」とか「夜想曲」とかいったようにその曲の形式名が付けられているだけで、ショパンの場合、音楽はあくまで音楽であるといった考えのようです。

 逆にショパン以後の作曲家で、ショパンの影響を受けた作曲家はたくさんいて、ギターの方でもタルレガ、バリオスなどが挙げられると思います。前に話したアルベニスもその一人かも知れません。まさにショパンを天才と言わずして、誰を天才呼ぶかということでしょうか。


(つづく)