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中村俊三 ブログ

中村ギター教室内のレッスン内容や、イベント、また、音楽の雑学などを書いていきます。

                     

第1ポジション

 運指には右手と左手があり、もちろん右手の運指も大事なのですが、ここでは左手の運指に絞って話を進めましょう。まず最も基本的な左手の運指として単旋律などを弾く場合、1フレットは人差し指(1)、2フレットは中指(2)、3フレットは薬指(3)、4フレットは小指(4)で押さえるというものがあります。これを「第1ポジション」と言いますが、ギターを始める人はまずこれを習得しなければなりません。これにはいろいろな意味があって、ギターを弾くことの最も基本的なこととなります。中には正しい第1ポジションを習得しないまま難しい曲に入ってしまう人もいますが、仮にそれが弾けたとしても、後でたくさんの問題点が出てくることになるでしょう。



親指の位置はやや右より(中指と薬指の間)

 第1ポジションの場合、親指は中指と薬指の間くらいになければならないのですが、人差し指のほうに寄ってしまう人が多いようです。また左手全体に左、つまりネックのほうに寄ってしまう傾向もあります。これにはいくつかの理由が考えられますが、一つには日常生活などでは小さいものを掴む時、普通親指と人差し指で挟みます、ケガでもしていないかぎり、親指と中指、または薬指で挟んだりはしないでしょう。また無意識にナットを基準にしてしまい、何となくそちらに寄ってしまうということもあるようです。


1フレットから4フレットまで各指を拡張

 人差し指と、親指の位置が正しく取れたら、次は他の指を出来るだけ拡げて、1フレットから4フレットまで正確な位置を押さえられるようにしなければなりませんが、小指が4フレットの位置まで届かない場合は、ハイポジションで練習するか、あるいは最初は4フレットは出てこないので、3フレットまでの練習にするとよいでしょう。


自分で思った指が動く

 第1ポジションでのハ長調の音階などの場合、⑤弦の3フレットの「ド」は薬指、④弦の2フレットの「ミ」は中指と、フレットによって押さえる指が決まります。仮に薬指を動かそうと思ったら、中指が動いてしまったなどということがあれば、当然ギターは弾けません。この第1ポジションを練習している間に、必ず自分で思った指が動くようになっていなければなりません。



ポジションという考え方

 第1ポジションが習得出来たら、第2、第5などのハイポジションの練習になりますが、特に単旋律の場合、この「ポジション」という考え方は重要だと思います。この「ポジション」の考え方というのは仮に人差し指が5フレットにあったとしたら、6フレットは中指で押さえ(弦に関係なく)、7フレットは薬指、8フレットは小指というようにするものです。もちろんいろいろな事情で完全にそうなるわけではありませんが、特に理由がなければこのように押さえる指を決めます。こうすることにより、たとえ指を見なくてもそれぞれのフレットの位置が正確にわかるためです。


                    
ポジション移動の回数はなるべく少なく

 また例えば①弦上でローポジションからハイポジションまで音階を弾くような場合、同じ指を連続使用などして頻繁にポジション移動すれば、もちろんそれだけ音の「はずれ」が多くなってしまいます。実際には普通2,3個の音は同じポジションで弾き、押さえられなくなったところで次のポジションに移動すというような方法をとります。ポジション移動の回数が少なければそれだけミスも少なくなるはずです。



第2ポジションの場合は特に親指の移動に注意

 第1ポジションから第5や第7ポジションなどに移動する場合は誰でも親指を移動すると思いますが、第2ポジションの場合は第1ポジションの親指の位置からでもある程度とどいてしまうので、親指を移動しないで弾いてしまう人も結構います。たとえ音が出たとしても当然左手のフォームが不自然になり、余計な力も入り、音の出しそこないも多くなります。また第1ポジションと同じく、このあたりはフレットの幅が広いので、親指の位置が悪いと小指などが届かなくなったりします。したがって特に第2ポジションの場合でも確実に親指を移動して下さい(少なくともフレットの幅分は移動しなければなりません)。また第5や第7ポジションの場合でも親指が左寄りにならないように注意して下さい。



同じフレットの音に進む場合

 ②弦の3フレットの「レ」→①弦の3フレットの「ソ」などのように同じフレットの音が続く場合、これを薬指→薬指と押さえると、どうしても音が切れやすくなります。それを防ぐために、このような場合は①弦の3フレットのほうを小指で押さえます。こうすることによりなめらかに「レ」→「ソ」と弾くことが出来ます。同様に④弦の2フレットの「ミ」→③弦の2フレットの「ラ」の場合は中指→薬指、⑥弦の3フレットの「ソ」→⑤弦の3フレットの「ド」の場合は薬指→小指、とすることもありますが、比較的低い音の場合、音が重なると響きが濁ってしまったりするので、特にレガート(なめらか)に弾く必要がなければ、同じ指の連続使用のほうがよいでしょう。長い音の場合も同じです。



セーハの使用

第5ポジションの①②弦で「ラ」→「ミ」→「ラ」と弾く場合、5フレット→5フレット→5フレットとなり、これを一つずつ押さえているとなかなかスムーズには弾けないので、このような場合はセーハを使用します。つまり和音の場合だけでなく単旋律の場合でもセーハは使うことがあります。また連続はしていないがそのフレーズに何回か同じフレットの音が出てくれば、セーハを使用します(もちろんセーハを使用することが可能ならですが)。しかし逆にセーハを使わないでも弾けるのなら、私の場合あまり使いません、なるべく左指に負担をかけないためと、音色的にもセーハしないほうがよいからです(音色のコントロールは左指でもします)。

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 今日、ギター文化館で村治奏一君のリサイタルを聴きました。 奏一君の演奏はCDなどでは聴いていますが、コンサートとしては7、8年ぶりだと思います。奏一君の経歴や、今日の詳しいプログラムなどはどこかに書いてあると思いますので省略しますが、今日の演奏を聴いた率直な感想としては私の期待値をはるかに超えたものでした。

 最初に演奏したコストの「カチュチャによるカプリスOp.13」は、たいへんクリアーな音で、音楽もクリアーに、曲の内容もよくわかるように演奏していました。

 ソルの幻想曲作品30が始まった時、プログラムは見ていたはずなのですが、いったい何の曲が始まったのかわかりませんでいた。というのも「ミ」の音の連打が一般的なものと違うアクセントで始まったからです。しばらくするうちに意図的なものであることがわかりましたが、確かに非常に印象的な出だしでした。この曲は古典派とロマン派の両方の特徴を持つ曲で、技術的にも難しい曲ですが、感性と音楽の構築性、あるいは古典的な語法の習得など、いろいろなことが演奏者に要求される曲です。主部はソナタ形式で出来ていますが、ソルの初期の作品とはかなり違い、すぐにはそれとわかりにくいようになっています。なんといっても大きな流れで曲を構成して行かなければならない曲ではないかと思います。奏一君の技術や、感性の人並み優れていることは前から十分わかっていたことですが、こうした曲の構成力といった点でもたいへん優れた力を発揮していたと思います。

 3曲目に「アルハンブラの想い出」を弾きましたが、久々にこの曲を真剣に聴いてしまいました。トレモロの音がきれいに粒が揃っているとか、伴奏部のアクセントがタルレガの指示どおりに弾かれているなどということは、あえて言う必要もないでしょうが、奏一君の演奏が美しい理由の一つに、トレモロが単なる音の連打ではなく、はっきりとメロディ、すなわち「歌」になっている点だと思います。

 4曲目のレゴンディの「カプリース」ようなヴィルトーゾ的な曲はもともと奏一君の得意なレパートリーで、今日もそれを十分に発揮していたと思いますが、かつてと違う点はこの日はそれが十分にコントロールされた中で行っているといった点だと思います。

 後半のプログラムは「スマートでかっこいいニューヨーカー」といった奏一君のもう一つの面を出したプログラムで、こうした曲をこれほどかっこよく、ハイセンスに弾ける人はいないと感じました。この日も会場は超満員でしたが、もっともっと人気が出てよいギタリストだと思いました。またどのように派手なパフォーマンスをしても、あくまで爽やかで、エレガンスさが失われません。こうしたものはやはり「もって生まれたもの」としか言いようはないのでしょう。「ギター界の貴公子」などというとマネージメントのキャッチフレーズみたいですが、そんな言葉の最も似合うギタリストでしょう。

 些細なことかも知れませんが、音程のよいことでも驚きました。一昨日私も同じ場所で弾いていて、チューニグに苦労した話はしましたが、決してチューニングの簡単な場所ではないはずですが、音程の不安定なところなど微塵も見せませんでした。ヴァイオリストなどと違って、ギタリストは普通あまり音程のことは話題にはならないのですが、ギタリストの音程はたいへん大事なものだと思います。

 久々に奏一君の演奏を聴いて、私に期待値をはるかに超えるものだったことは前述のとおりですが、「早熟の天才」と思われていた奏一君ですが、その後着実に研鑽に励みしっかりと実力を蓄えたことには私自身少々熱いものを感じました。奏一君には「早熟の天才」ではなく「大器晩成」であることを願っています。

 また、久々に奏一君のご両親(もちろん村治佳織さんのご両親でもあるのですが)ともお話が出来、とても楽しい一日でした。
 
 
 一昨日はギター文化館でフリー・コンサートと私と佐藤君との二重奏がありました。


 フリーコンサートのほうは22組、30数人の人が出場しました(そのうち2名は私の教室の生徒さん)。同じギターといってもかなり様々な演奏があり、普通の教室の発表会にはない雰囲気でした。その中でもバーデン・パウエルの「イパネマの娘」などを弾いた人はたいへん上手だったと思いました。


 私達の二重奏のほうは、アマチュア・ギタリストの方たちの好演、熱演の後で、とても弾きにくかったのですが、幻想曲の後半のエスパニョールなどはまあまあ弾けたかなと思いました。ただ控え室とステージの温度(湿度?)の違いなどで、チューニングが途中から不安定になり、ピアソラの「来るべき者」(一応アンコール曲)などははちょっと残念な結果になってしまいました。最近エレキ・ギターでは楽器のほうで勝手にチューニングしてくれるものが出来ているそうですが、そういうのがあるとこういう時のは便利でしょうね、ただ自分でチューニングが出来なくなってしまうかも知れませんが。


 最後まで聴いていただいた方々、本当にありがとうございました。

 先日お話したとおり、22日(土)、ギター文化館で、フリーコンサートのゲスト演奏として、佐藤君と二重奏をやります。

 フリーコンサートは12:00からで、私の生徒さんでは、菅原潤君と吉本保暉君が出演します。今回は出演者がかなり多いとのことです。

 佐藤君との二重奏のほうは16:00からですが、曲目は前回書いたとおり、サティのジュ・ト・ヴ、ソルの幻想曲作品54、アサドの「夏の庭」からファーウェルです。ジュ・ト・ヴはとても親しみやすい曲、ファーウェルは静かな美しい曲、幻想曲はなかなかの大曲で、前にも弾いたことはあるのですが(鈴木幸男さん、および創と)、やはり難しい曲です。



 この前のシューマンのピアノ曲のことでアコラの熊坂さんと、ギター文化館でギターを教えている大島さんからコメントをいただきました。熊坂さんからは「オレムス」の原曲は「アルバムレター(音楽張)作品124」の第5曲目「ファンジータンツ(幻想的舞曲)」だとのこと。さっそく聴いてみましたが、1分にも満たない短い曲で、急速なアルペジオの後、確かにオレムスの旋律線が聴こえてきます。予想どおりテンポはかなり速いものですが、メロディ自体はあまり変わっていないようです。この「アルバムレター」自体はカツァリスの演奏でCDを持っていて、一応は聴いていたはずなのですが、CDの最後の方にあったので、途中で聴くのをやめてしまったり、ほとんど聴いていなかったりだったのでしょう。もっともこの曲集の最後の方に出てくる「Schlummerlied(子守歌)」がタルレガの編曲した「Berceuse(ゆりかご)」だということはわかっていたので、あまり短くて気が付かなかったのかも知れません。熊坂さん有難うございました。


 大島さんからは今年の春、留学中のバルセロナでラドゥ・ルプーのシューマンのプログラムによるリサイタルを聴いたというコメントをいただき、いろいろな意味でたいへん驚きました。ルプーは現在でも演奏活動しているということにも驚きましたが、ルプーを知っている人が身近にいて、なお且つ最近聴いたというのですから全く予想が付かなかったことです。ルプーのリサイタルを聴きにいったわけですから、大島さんもルプーに興味があるのだと思いますが、今でも?ルプーのファンは結構いるのでしょうか。プログラムもオール・シューマンということで、イメージどおりルプーのッシューマンへの思い入れは強いのでしょう。これがショパンのプログラムだったりするとある意味ちょっとショックだったかも知れません。ルプーはやはり「ショパンを弾かないピアニスト」であって欲しいからです。もちろんこれは私がショパンが嫌いという意味では決してありません、ルプーの音楽とショパンの音楽が重ならないということです。もっともショパンを弾かない有名なピアニストはたくさんいますが、ルプーのようにロマン派の音楽をメインにしながらショパンを弾かない人は珍しいと思います。



 そのリサイタルの曲目は「森の情景」「フモレスケ」「ピアノソナタ第2番(または3番)」だということだそうですが、私個人的にはシューマンのピアノ曲の中で「森の情景」「フモレスケ」が特に好きな曲なので、勝手に「やはりルプーとは趣味が合う」と再確認してしまいました。「森の情景」は是非とも聴きたいとは思いますが、リサイタルはやるが、録音はしないということなのでしょう。CDになる可能性はあまりないようですが、ライヴ録音そのものはあると思いますので、本人の気が変わったり、あるいは死後などにCD化される可能性はあるかも知れません、ただそれまで待っていられるかどうかわかりませんが。



 大島さんのコメントは、昔あこがれていて、その後まったく音信不通になった女性(ひと)の消息を知らされたような、なんとも微妙な気持ちです(これはあくまでも「例え」で、実際にそうした経験があったわけではありません)。青春の記憶の1ページにしておきたいところもちょっとあったのかも知れません。



運指

 しばらく間が空きましたが、今回からギターを弾くためにはどうしても必要な「運指」の話をします。当たり前のことかも知れませんが、ギターを弾く時は左右の指を一本一本別々に動かします。おそらくこれは人間独特の動作だと思います。他の動物でも獲物に爪を立てたり、枝を掴んだりなど、指を使うことはありますが、指を別々に動かすことはあまり出来ないと思います(サルは多少出来るのでしょうか?)。
 

猫にギターを教える

 だいぶ前、まだ創(長男)が小さかった頃、夢で創にギターを教えていたら、いつの間にか創にではなく、当時飼っていた猫(ミミ)にギターを教えていました。もちろんなかなか弾けるようにはなりませんでした。どう考えても猫にギターを教えるのは不可能ですが、その頃時々創と猫の名前を言い間違えるなど、私の中で息子と猫のイメージが若干交錯していたのかも知れません。でもあの爪で本当にギターを弾いたらすぐ弦が切れそうですが。


脳のシステムが問題

 ギターを弾くなど、指を一本一本動かすことができるのは確かに人間だけと考えられますが、その人間もとっさの時、例えば転びそうになって何かにつかまったりする時は指は指は一本一本別には動きません。もちろんその必要がないからとも言えますが、仮にあったとしてもそれはかなり難しいことと思います。つまり反射神経では指を一本一本動かすことは出来ません、大脳で細かく指示を出すことによりはじめて指が別々に動くものと思います。指を一本一本動かすには、指を動かす筋肉以外に、それに指示が出せる大脳組織が必要ということになります。猫がギターが弾けないのはその手(足?)や指の形や、どう見てもギターが弾きにくそうな爪のせいだけでなく、脳に指を動かすシステムがないことが大きいのだと思います(音感のほうはどうなのかな?)。


ギターは最大の脳トレ!

 よく人間は大脳が他の動物よりも発達したので、手の指を使うことが出来るようになったと言われますが、逆に、指を使うようになったので、脳が発達したとも言えるようです。よくテレビなどで、脳のトレーニングとして指の運動などをやっていますが、同じ動かすのでも無作為に動かしたり、また決まった動きだけを繰り返していたのでは、それほど脳のトレーニングにはならないのではないかと思います。複雑な動きを頭で考えながら指を動かすことにより、さらに脳のトレーニングになるのではないかと思います、それにはなんといってもギターを弾くのが最もよいでしょう!

 前回のCDの方はなんとかそれぞれ貰い手が見つかりました。全集などでCDを買ったために同じものが重複してしまったものですが、また何ヶ月かすると重複するものが出てきそうなので、その時また同じようなことをやります。


 イエルク・デムスのシューマン:ピアノ曲全集が届きました。13枚で約2000円、1枚あたりでは100円台というもので、中を開けると曲名こそは書いてありますが、解説らしきものは全くなく、なるほどという感じです。もっともあったとしてもどうせ読めないから同じなのですが。


 録音の方は70年代のわりには若干広がりに欠けたよう感じで、演奏のほうはオーソドックスと言えるでしょうか。もちろんまだ一部の曲を聴いただけですが、クライスレリアーナなどはやはりアルゲリッチとか、ホロヴィッツとかの演奏に分がありそうです、比較の対象が悪いかも知れませんが。シューマンのピアノ曲の中では個人的に好きなフモレスケを聴いてみましたが、その後でラドゥ・ルプーの演奏を聴きなおして、やはりルプーのフモレスケは最高と感じました。


 ラドゥ・ルプーは1970年頃「リパッティの再来」と言われ話題になった人で、70年代から80年代にかけていくつかの録音を残していますが、この10年以上にわたって新しい録音はないようです、詳しいことはわかりませんが、第一線を退いてしまったのかも知れません。ルプーのシューマンは本当に素晴らしいと思うのですが、残念ながらこのフモレスケの他はクライスレリアーナと子供の情景、および協奏曲しか録音していません。ルプーの話を始めると長くなりそうなのでまた別の機会にしましょう。


 デムスのCDの話に戻りますが、さすが全集とあって普通あまり聴くことのない曲がたくさんあり、そうした曲ではデムスの中庸、あるいはオーソドックスといった点がよい方にはたらいているように思います。その中で「子供のためのアルバム」を聴いてみました(全曲ではありませんが)題名どおり教材と言った曲集なので、CDとしてはあまり出ていなくて、私もこれまで持っていませんでした。1曲目の「メロディ」は昔ギターを習っていた人には馴染みの曲かも知れません。かつてギター教本としてはベストセラーだった溝渕浩五郎編の「カルカッシギター教本」のホ長調のところに載っていた曲で、懐かしく感じる人も多いのではないかと思います。また10曲目は有名な「楽しき農夫」です。


 もしかしたらタルレガの「エンデチャとオレムス」の元になった曲がどこかにあるかもしれないのですが、今のところ見つかっていません、本当にタルレガはどこから持って来たのでしょうか。
 
CD差し上げます

 以下のCDを手渡し可能な方に差し上げます。新品ではありませんが、聴くには差し支えありません。ご希望の方は電話、メール、直接などで連絡下さい。とりあえずお一人3点とさせていただきます。




◎ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ「悲愴」「月光」「熱情」
    pfウラジミール・アシュケナージ 国内盤 録音1977~1980年


◎ショパン:夜想曲集
    pfウラジミール・アシュケナージ 国内盤 録音1970~1983年


◎ショパン:4つのバラード、4つのスケルツィオ
    pfウラジミール・アシュケナージ 国内盤 録音1975~1985年


◎ショパン:ピアノ・ソナタ第1~第3番
    pfウラジミール・アシュケナージ 輸入盤 録音1977~1982年


◎ベートーヴェン:交響曲第5、第8番、レオノーレ第3番
    指揮 アルトゥール・トスカニーニ NBC交響楽団 国内盤 録音1939~1952年


◎ベートーヴェン:交響曲「英雄」、コリオラン序曲
    指揮 ブルーノ・ワルター コロンビア交響楽団 国内廉価盤(解説等なし) 録音1958、1959年


◎ベートーヴェン:交響曲「田園」
    指揮 ブルーノ・ワルター コロンビア交響楽団 国内盤 録音1958年


◎モーツアルト:交響曲「リンツ」「ハフナー」「プラハ」
    指揮 カール・ベーム ベルリン・フィルハーモニー 輸入盤 録音 1960~1966年


◎シューマン:トッカータ、子供の情景  モーツアルト:きらきら星変奏曲
    pf ウラジミール・ホロヴィッツ  クリストフ・エッシェンバッハ 国内廉価盤 録音1964年頃


◎バルトーク:ピアノ作品集
    pf ゾルタン・コチシュ  国内盤 録音1975年


◎ミラン、ナルバエス:ビウエラ曲集
    ビウエラ クリストファー・ウイルソン  ナクソス盤 1988年録音



最初の4点はアシュケナージのものですが、アシュケナージは音も美しく、癖の少ない規範的な演奏です。

 トスカニーニの「第5」は名盤ですが、前に書いたとおり、輸入盤に比べて音質がやや硬いようです。

 ワルターの「英雄」は名演ですが、廉価盤のため解説等が全くないのが残念です。また録音が1963年という表記は誤りで、実際は1958年です。ちなみにワルターは1961年に亡くなっています。「田園」は名盤中の名盤として、古くから人気の高いもので、当CDも現在国内盤として販売されているものです。

 ベームのモーツアルトは1960年代に録音されたモーツアルト交響曲全集からのもので、名前の付いた3曲が収められています。ベームの演奏はスコアが手に取るようにわかり、硬質ですが力強い演奏です。

 ホロヴィッツのシューマンも名演ですが、これも解説等がありません。「きらきら星」はドイツのピアニスト、エッシェンバッハの演奏です。

 ルーマニアの作曲家、ベラ・バルトークのピアノ作品としては「ルーマニア民族舞曲」などが有名です。

 ビウエラは16世紀のスペインで使われていた楽器で、いわば「ギター型のリュート」といった感じです。


 

ウィレム・メンゲルベルク

 先日話したウィレム・メンゲルベルク(1871~1951)とアルトゥール・トスカニーニ(1867~1957)のベートーヴェン交響曲全集を聴いてみました。メンゲルベルクのものは1940年のライブ録音ということで、それなりに覚悟して聴いてみたのですが、思ったほど音質は悪くなく、結構普通に聴けました。最近のリマスタリング技術のおかげかも知れません。もっとも当時の状態のよいSP盤を、よい再生装置で聴くと、CD化されたものよりずっとよい音なのだそうですが。


 メンゲルベルクの演奏は話でしか知らず、初めて聴くのですが、その話どおり、交響曲ながらテンポ・ルバートし、弦楽器はポルタメントという演奏です。「悪酔いしそうだ」という人もいますが、私の場合、ギターで慣れているせいか、珍しい演奏だとは思いましたが、悪酔いまではしませんでした。


 テンポ・ルバートといえば同時代のフルトヴェングラーが有名で、その緩急の差はフルトヴェングラーのほうが大きいかも知れませんが、フルトヴェングラーはわりと大きな流れでテンポを変えてゆくのに対し、このメンゲルヴェルクはかなり小刻みに、極端にいえば1音1音長さを変えるような感じです。そのあたりが「悪酔いしそう」な理由かもしれません。要するにオーケストラの演奏というより、ほとんど独奏楽器のようです。


 しかし、このような演奏が出来るというのはたいへん高い技術と練習時間があってのことと思います。ライヴ録音にもかかわらず、これだけテンポをルバートしても破綻などほとんどなく、本当に「独奏楽器」のように演奏しています。おそらくパート練習などから丹念に仕上げていったのではないかと思います。あまりテンポの変化しないところでも
1音1音よく聴くと「ジャスト」のタイミングあり、「ためぎみ」あり、「前ノリ」ありと、1音1音がすべて指揮者の意図どおりのタイミングで出されているように感じます。


 フルトヴェングラーの演奏に比べると、全体的にテンポは速めで、力強さも十分に感じる演奏です。このような演奏は好みが分かれるところでしょうが、一聴する価値が十分にある全集だと思います、少なくとも退屈することはないでしょう。


アルトゥール・トスカニーニ

 トスカニーニのベートーヴェンは前述のフルトヴェングラーと並び、評価の高いものです。これまで第5,8番だけはCDで持っていたのですが、CD化した時ノイズをカットしたせいか、音質がかなり硬化し、また「つまり」気味にも聴こえ、良い演奏だとは思いながらも、あまり聴く機会が少ないものでした。それが、今回の全集(1951~1953)ではその音質がかなりよくなり、ほとんど不満を感じさせないものになっています。最近はこの古い録音のレマスタリング技術がかなり上がっているのでしょうね。


 全曲聴いたわけではありませんが、やはりトスカニーニの演奏はすばらしい、フルトヴェングラーやメンゲルヴェルクと違い、イン・テンポを基調とした演奏ですが、不自由だったベートーヴェンの耳の奥で鳴っていたのはこんな音だったのではないかと思わせる演奏です。ただあくまでもハイテンションで、最後まで聴いているとちょっと疲れるかも知れません、少なくともホットする演奏ではないでしょう。もっともベートーヴェンですからそれでよいのでしょうが。テンポは速めで、最近のオリジナル楽器系の演奏に近いくらいです。もっともオリジナル楽器系の演奏は、速いが全体に軽く、また「遊び」が少し入ったりもしますが、トスカニーニの演奏では余計なものなど全くなく、なおかつ重厚で、重戦車が全速力で走るような迫力を持っています。


ブルーノ・ワルター

 ついでにすでに持っていたブルーノ・ワルターの「田園」や「第9」の第1楽章なども聴きなおしてみました。ステレオ録音が始まったばかりの1958年の録音ですが、音質は前の二つとは比べ物にならないくらい良くなっています。おそらく当時の音楽界の重鎮をむりやり担ぎ出しての録音とあって、当時の最先端の技術を結集しての録音だったのでしょう、その年代としてもかなりレヴェルの高い録音になっています。おそらく各パートごとにマイク・スタンドを立てての録音と思いますが、各楽器が鮮明に聴こえ、また音の広がり感などは前述のものとまるで違います。


 ワルターの演奏はどこがどうのということはあまりありませんが、引き締まった細部、中庸なテンポと全体のゆったり感、どっぷりと「浸かれる」演奏です(もちろん「疲れる」のではなく)。ただ当時の「売り」だったのでしょうが、やや強引な「ステレオ感」がちょとじゃま。


カール・ベーム

 またまたついでにこれまでよく聴いていたカール・ベームのもの(第4,6番)も聴いてみました。録音のほうは1970年代のいわば「アナログ円熟期」とでもいえるでしょうか、もう特に言うことはありません。かつてわが国ではカラヤンと人気を二分した指揮者ですが、今はどうなのでしょうか?ベームの演奏は「廊下を直角に曲がる」ような演奏で、余計なことはいっさいせず、ひたすらスコアを音するといった演奏で、最初のメンゲルヴェルクの正反対の演奏と言えます。非常に高い技術を持ったウイーン・フィルがこの「ルーティーン」をやるわけですから、1音1音くっきりとした、極めて精度の高い演奏になっています。人によっては退屈を感じる人もいるかも知れませんが、「掛け値なし」のベートーヴェンが聴こえてきて、大きな感動に繋がることもあるでしょう。


 どちらかと言えば昔のほうが個性的な演奏家が多かったようですね、他に、シューリヒトとかムラヴィンスキー、クリュイタンス、エーリッヒ・クライバーなどの演奏も聴いてみたくなりました。