私のギター修行 2
<生まれた頃は>
戦争が終わってまだ10年
私は昭和26年生まれ。西暦では1951年ということになります。 もちろんその頃の記憶はありません。
私が ”もの心” 付いたのはたぶん3才頃、1954年(昭和29年)頃だと思います。
「もうすぐ昭和30年だ、今までとは違った、新しい時代が来る」 そんな風に家族の誰かが言っていたのを聴いた記憶があります。
とはいっても戦争が終わってからまだ10年、大人たちのその戦争の記憶は鮮明で、その心の傷、また体の傷もまだまだ癒えてはいませんでした。
その頃大人が2人以上集れば、すぐに戦争中の話、子供の頃はいろいろと恐いものがありましたが、一番恐かったのはその大人たちから聞かされていた戦争でした。
”昭和30年代” というのはそんな時代とは決別した、新しい、夢のある、幸せな時代なのでは、という期待は当時の人みんなにあったのではないかと思います。
そして ”新しい” という言葉はすべてに勝る、最もすばらしい、魔法の言葉のように思えた時代でした。
映画館から音声が大音量で
この時代にはテレビ放送は始まっていたようですが(テレビ放送が始まったのは昭和28年?)、一般家庭には普及しておらず、まだ話題にもなっていなかった頃です。
それに代わる娯楽としては映画とラジオがあったわけですが、街の繁華街を歩くと、映画館から音声だけが、それもかなりの音量で聴こえてきます。
今では考えられないことですが、それを聴くと、その建物の中には、きっと楽しいことがいっぱい詰まっているのではと思っていました。
ラジオのサザエさん
私と同世代以上の方はよくご存知と思いますが、テレビ・ドラマならぬ「ラジオ・ドラマ」と言うのがあって、今ならテレビ・アニメで放送されているような、「サザエさん」 とか 「月光仮面」、 「怪人二十面相」 などはラジオで放送されていました。
ラジオ・ドラマというのは実際に画像があるわけではありませんから、言葉を聴きながら一人一人がそれぞれの場面を頭の中でイメージするわけで、きっと昔は一人一人違ったサザエさん像があったのでしょう。
銀座通り?
夕飯の支度は、今のように冷蔵庫などありませんから、その日、その日で買い物に行かなければなりません。
文字通り 「買い物かごをぶらさげたサザエさん」 の世界です。 また車がある家などなく、基本は歩きで、せいぜい自転車です。
となれば買い物は当然近くでしなければなりませんから、私の住んでいたところにも、小さな商店街のようなものがありました。
十数件ほど商店が並んだその通りは、なんと 「銀座通り」 と称されていて、夕方よく母や姉などと一緒に買い物に行っていました。
そんな極微銀座ですが、時間になると買い物客でたいへん賑わっていて、子供の頃、そんな雰囲気が好きでした。
<大通りの風景>
通りを走るのは
私の家の近くを片側一車線の県道が走り、今見れば決して広くはない道路ですが、子供の頃はかなり広く感じました。
私がもの心付いた頃は、バスや4輪トラック、乗用車などは非常に少なく、その道路を通行するのは、最も多いのが「人」で、次に自転車、人や自転車に曳かれたリヤカー、オート三輪などでした。
もちろん砂利道で、雨が降ればあちこちに大きな水溜りが出来、人や自転車はそれらを巧みによけながら通行しなければなりません。
また当時の車は水溜まりなど気にせず走るので、車が通る時にはとっさに逃げなければなりませんでした。
馬車もまだ結構通っていて、その砂利道のあちこちに馬糞が落ちていました。
よく学校や家で「道路で遊んではいけない」と言われていましたから、当時は遊ぼうと思えば遊べる程度の車の往来だったのでしょう。
しかし年を経るごとに車の数は増え、舗装もされ、そんな道路もだんだんと危険な場所となってゆきました。 小学5年生頃には危うく轢かれそうにになった経験もあります。
路面が丸見え
当時商店や、多少裕福な農家などで使っていたのが 「オート三輪」 です。
この「オート三輪」も、後にはダイハツ・ミュゼットなど見た目も、乗り心地もよさそうなものが発売されましたが、当時のものは本当にオートバイの後ろに荷台が付いているようなものでした。
初期のオート三輪には前面に簡単な風防が付いている程度で、屋根も床もありません。
運転席の左側に付いているささやかな助手席に座ると路面が丸見えで、うっかりすると落ちそうです。
運転中にその助手席に座るには、かなり勇気が必要です。
リヤカー付きの自転車
普通の農家など、オート三輪のない家では自転車の後ろにリヤカーを付けて物などを運んでいたようです。
隣の農家のお父さんにその家の子供たちと一緒に、そのリヤカー付きの自転車で隣町のお祭りに連れて行ってもらったことがあります。
道路も今のように舗装されていませんから、普通に自転車で隣町まで行くのも結構たいへんだったと思いますが、その自転車にリヤカーを付け、そこに4、5人子供をのせて漕ぐのですから、相当なものだったと思います。
でも当時の大人たちはそんなことを当たり前のようにやっていました。
<生まれた頃は>
戦争が終わってまだ10年
私は昭和26年生まれ。西暦では1951年ということになります。 もちろんその頃の記憶はありません。
私が ”もの心” 付いたのはたぶん3才頃、1954年(昭和29年)頃だと思います。
「もうすぐ昭和30年だ、今までとは違った、新しい時代が来る」 そんな風に家族の誰かが言っていたのを聴いた記憶があります。
とはいっても戦争が終わってからまだ10年、大人たちのその戦争の記憶は鮮明で、その心の傷、また体の傷もまだまだ癒えてはいませんでした。
その頃大人が2人以上集れば、すぐに戦争中の話、子供の頃はいろいろと恐いものがありましたが、一番恐かったのはその大人たちから聞かされていた戦争でした。
”昭和30年代” というのはそんな時代とは決別した、新しい、夢のある、幸せな時代なのでは、という期待は当時の人みんなにあったのではないかと思います。
そして ”新しい” という言葉はすべてに勝る、最もすばらしい、魔法の言葉のように思えた時代でした。
映画館から音声が大音量で
この時代にはテレビ放送は始まっていたようですが(テレビ放送が始まったのは昭和28年?)、一般家庭には普及しておらず、まだ話題にもなっていなかった頃です。
それに代わる娯楽としては映画とラジオがあったわけですが、街の繁華街を歩くと、映画館から音声だけが、それもかなりの音量で聴こえてきます。
今では考えられないことですが、それを聴くと、その建物の中には、きっと楽しいことがいっぱい詰まっているのではと思っていました。
ラジオのサザエさん
私と同世代以上の方はよくご存知と思いますが、テレビ・ドラマならぬ「ラジオ・ドラマ」と言うのがあって、今ならテレビ・アニメで放送されているような、「サザエさん」 とか 「月光仮面」、 「怪人二十面相」 などはラジオで放送されていました。
ラジオ・ドラマというのは実際に画像があるわけではありませんから、言葉を聴きながら一人一人がそれぞれの場面を頭の中でイメージするわけで、きっと昔は一人一人違ったサザエさん像があったのでしょう。
銀座通り?
夕飯の支度は、今のように冷蔵庫などありませんから、その日、その日で買い物に行かなければなりません。
文字通り 「買い物かごをぶらさげたサザエさん」 の世界です。 また車がある家などなく、基本は歩きで、せいぜい自転車です。
となれば買い物は当然近くでしなければなりませんから、私の住んでいたところにも、小さな商店街のようなものがありました。
十数件ほど商店が並んだその通りは、なんと 「銀座通り」 と称されていて、夕方よく母や姉などと一緒に買い物に行っていました。
そんな極微銀座ですが、時間になると買い物客でたいへん賑わっていて、子供の頃、そんな雰囲気が好きでした。
<大通りの風景>
通りを走るのは
私の家の近くを片側一車線の県道が走り、今見れば決して広くはない道路ですが、子供の頃はかなり広く感じました。
私がもの心付いた頃は、バスや4輪トラック、乗用車などは非常に少なく、その道路を通行するのは、最も多いのが「人」で、次に自転車、人や自転車に曳かれたリヤカー、オート三輪などでした。
もちろん砂利道で、雨が降ればあちこちに大きな水溜りが出来、人や自転車はそれらを巧みによけながら通行しなければなりません。
また当時の車は水溜まりなど気にせず走るので、車が通る時にはとっさに逃げなければなりませんでした。
馬車もまだ結構通っていて、その砂利道のあちこちに馬糞が落ちていました。
よく学校や家で「道路で遊んではいけない」と言われていましたから、当時は遊ぼうと思えば遊べる程度の車の往来だったのでしょう。
しかし年を経るごとに車の数は増え、舗装もされ、そんな道路もだんだんと危険な場所となってゆきました。 小学5年生頃には危うく轢かれそうにになった経験もあります。
路面が丸見え
当時商店や、多少裕福な農家などで使っていたのが 「オート三輪」 です。
この「オート三輪」も、後にはダイハツ・ミュゼットなど見た目も、乗り心地もよさそうなものが発売されましたが、当時のものは本当にオートバイの後ろに荷台が付いているようなものでした。
初期のオート三輪には前面に簡単な風防が付いている程度で、屋根も床もありません。
運転席の左側に付いているささやかな助手席に座ると路面が丸見えで、うっかりすると落ちそうです。
運転中にその助手席に座るには、かなり勇気が必要です。
リヤカー付きの自転車
普通の農家など、オート三輪のない家では自転車の後ろにリヤカーを付けて物などを運んでいたようです。
隣の農家のお父さんにその家の子供たちと一緒に、そのリヤカー付きの自転車で隣町のお祭りに連れて行ってもらったことがあります。
道路も今のように舗装されていませんから、普通に自転車で隣町まで行くのも結構たいへんだったと思いますが、その自転車にリヤカーを付け、そこに4、5人子供をのせて漕ぐのですから、相当なものだったと思います。
でも当時の大人たちはそんなことを当たり前のようにやっていました。
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