中村俊三 ブログ

中村ギター教室内のレッスン内容や、イベント、また、音楽の雑学などを書いていきます。

明後日(3月2日)にギター文化館のミニ・コンサートに出演します。


プログラムは、.2:00からは「古典派のギター曲」ということで、

練習曲イ長調 Op.6-12 (フェルナンド・ソル)

ヴァイオリンとギターのためのカンタービレ、同ソナタ・ホ短調 Op.3-6 (ニコロ・パガニーニ~中村編)

魔笛の主題による変奏曲 Op9 (フェルナンド・ソル)
 
大序曲 Op.61 (マウロ・ジュリアーニ) 



pm.4:00からは「スペイン音楽」で     

亡き王女のためのパヴァーヌ  (モーリス・ラヴェル~ガベイ編) 

スペイン・セレナード(ホアキン・マラッツ~タルレガ編) 

朱色の塔、コルドバ、セビーリャ (イサーク・アルベニス~中村編)  



なおチケット等はありませんが、入館料8000円となっています。
 


                
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<初めてのギター曲>

中学生になると、それまでの単旋律から卒業して、いよいよ伴奏などの付いた「ギター独奏曲」に取り組むようになるのですが、相変わらず全く指導など受けず、また音楽の基礎知識もなく、相当ひどい「我流」状態で、本人は一応弾けていると思っているのですが、実際は相当怪しいものだったでしょう。今回はそういった話です。


クリスマス・パーティーで

 小学6年生の時、その当時通っていたそろばん塾でクリスマス・パーティがありました。最初の話でも出てきたこのそろばん塾、その先生はなんと現役の高校生! 私が習っていた時は栃木市内の商業高校の2年生で、塾の生徒も3、40人くらいはいました。私からしても5歳くらいしか上ではなかったのですが、すっかり大人というか、まぎれもなく「先生」という感じでした。昔の高校生は本当に大人だったのですね、今では考えられませんが。

 そのクリスマス・パーティで「曲あてクイズ」のようなことが行われ、正解するとクリスマス・プレゼントがもらえました。当時知っている曲は少なく、私はほとんど答えられなかったのですが、1曲聴き覚えのある曲が出てきました。聴いたことはあるのですがが、曲名はわかりません。別の子が「禁じられた遊び」と答え、プレゼントを貰いました。おそらく家にレコードもあり、また時には長兄が弾いているのをで聴いていたはずなのですが、曲名はその時までわかりませんでした。

 この時始めて、この曲がギターでたいへん有名な曲であることを知ったわけですが、自分が、まがりなりにもギターを弾いているのにもかかわらず、このギターの名曲がわからなかったが、ささやかな自尊心に触れたのか、それを機にこの曲に取り組みました。

 今まで単音の曲しか弾いたことがなく、アルペジオどころか、それまで同時に二つ以上の音を弾いたことがありませんでした。指の記号などはわかっているような、わかっていないような。楽譜の読み方は学校で習っただけという状謡で、本当に暗号を解くような感じで楽譜を読んでゆきました。ハイポジションなどはどうやってわかったのか、はっきり覚えていませんが、「全音」と「半音」の関係はわかっていたかも知れません。

 そんな感じで、どうにか最初の方の伴奏が開放弦のところはなんとか出来たのですが、セーハが出てくるところからは音がよく出ません。そこでセーハするところも全部開放弦にしてしまいました。響きは変だがメロディだけは「禁じられた遊び」には聴こえるので、しばらくはそれで弾いていました。



ばれてしまっては

 もうすぐ中学生という頃だったと思います、2才上の次兄は家に遊びに来ていた自分の友達に、

   「こいつ『禁じられた遊び』弾けるんだぜ」

と自慢そうに言って、私にその友達の前でその「禁じられた遊び」を弾くように言いました。私の演奏を聴いたその兄の友人は、

   「それ、なんか変じゃない」

と言い出しました。私はばれてしまったようなので、

   「うん、本当はちょっと違うけど」

と小さな声でカミングアウトしました。

   「え! 何! お前、ちゃんと弾いていたんじゃなかったの、ごまかして弾てたの」

その時始めて次兄は私のインチキに気づきました。ばれてしまってはしかたがないと、やむなくその後楽譜どおりに練習することにしました。最初はなかなか音が出てこなかったのですが、そのうちだんだんと音になるようになってきて、前半が弾けるようになると、後半の方もなんとか弾けるようになりました(自分ではそう思っていただけですが)。


日本の歌、映画音楽

 「禁じられた遊び」をきっかけに、中学生になるとそれまでの単旋律を卒業して、伴奏の付いた曲を弾くようになりました。といっても全く知らない曲は出来なかったので、家にあった楽譜の中から、「荒城の月」とか「浜辺の歌」などの日本の歌や、「太陽がいっぱい」などの映画音楽の曲を弾いていました。

 中学2年生くらいの時だったと思いますが、トレモロ奏法の入った「さくら変奏曲」を練習し始めました。「さくら変奏曲」といっても最近よく演奏される「横尾幸弘編」ではなく、別の人の編曲(国枝和枝編)です。トレモロ奏法の右手の動きは「禁じられた遊び」のアルペジオの動きと同じなので、わりと自然に出来ました。学校の行きかえり、自転車の片手運転をしながら右手をポケットの中に入れて、右手の練習をしていた記憶があります。

 当時、家にイエペスの禁じられた遊びのレコード(いわゆるドーナツ盤)がありましたが、それには有名なテーマの間に「間奏」(ド・ヴィゼー、ラモー、コストなどの曲をメドレー式にしたもの)が入っているものでした。当時の私にはそれがとてもギターっぽくというか、いかにもスペインっぽく聴こえて(本当はフランスの曲ですが)、ぜひ弾いてみたいと思っていました。最初のうちは楽譜が手元になく、中学3年生頃になってようやく楽譜が手に入り、練習し始めました。これはそれまでの曲よりずっと難しく、かなり手こずった記憶がありますが、ある程度弾けるようになった時は、結構嬉しかった覚えがあります。中学校卒業の時の謝恩会の時にはそれを弾きました、それが人前でギターを弾いた初めての経験です(本当にプライヴェートなものを別にすれば)。
<ギターを弾き始める>

前置きが少々長くなってしまいましたが、私がギターを弾き始めた頃の話です。今こうしてギターなど教えている立場からすれば、本当に恥ずかしくなるような状況でギターを弾き始めたので、本来ならあまり口外したくないところですが。


小学5年生頃
 
 前にお話しましたが、長兄(14才上の兄)は私が小学校に入学する頃ギターを買い、その後栃木市のギター教室に通うようになりました。最初はカルカッシ教本などをやっていましたが、だんだんと歌謡曲中心となり、しかも弦をフレットに叩きつけるような、ノイズの多い音で弾いていたので、ギターの音はあまり好きにはなれませんでした。3年生くらいの頃でしょうか、その兄が、ギターを教えてやると言うので、兄の言うとおりに少しやってみたのですが、弦を押さえたりすると指が痛くて、すぐやめていまいました。
 
 その後しばらくはギターを弾きませんでしたが、5年生になった頃、次兄(2才上の兄)がギター弾き始めたので、私も一緒に始めました。手や体も多少大きくなり、あまり指も痛くならなくなったのでしょう。またその頃には長兄のほうは以前ほどあまりギターを弾かなくなり、私達が弾いても特に何も言わなくなっていました。ギターを弾き始めたといっても習ったりしたわけでもなく、また教本のようなものもやらず、だいたいの音階の位置を手探りで覚え、学校で習った曲などのメロディを弾いていました。学校から家に帰ると、畳の上に直接座って(家にイスなどなかったので)メロディだけをぽつりぽつりと弾いていましたが、当時はそれで結構満足していました。歌を歌うのがあまり得意ではなかったので、その代わりといったところだったかも知れません。

 確かにギターの弾き方の基本など全くわからずやっていたので、そのことは決してよいことではなかったでしょうが、ただ、ギターを単旋律から始め、その期間がある程度あったことは、今思えば、決して悪くはなかったと思います。今ギターのレッスンをしていて「歌うように弾く」ことの大事さをとても痛感します、これは言葉で説明してもなかなかわかってもらえることではありません。一般に音楽の3要素として、「メロディ」、「リズム」、「ハーモニー」が挙げられますが、この中で「メロディ」つまり歌うということはもっともプリミティヴなことではないかと思います。


適当な弾き方で

 当時指使いなどはどのようにしていたのかよく覚えていませんが、右手のほうはアポヤンド奏法などまだ知らなかったので、アルアイレ奏法で弾いていたのは確かだと思います。低音弦は親指、高音弦はそれ以外の指といった感じです。左手の方は、1フレットは人差し指、2フレットは中指と、押さえる指をある程度使い分けていたように思います。チューニングの方は、弦どおしでは(5フレットを使って)合わせていたと思いますが、ピッチ、つまり絶対的な高さはほとんど適当だったと思います。大学のギター部に入るまで音叉を使うことは知りませんでした。

 しかし、一番問題だったのは音符の長さだったでしょう、8分音符は4分音符の半分の長さとか、そう言った意味はわかるのですが、拍子をとったり、拍数を数えたりしなければならないことは全く知りませんでした。「だいたいこれくらいが半分かな」とか「3拍はこれくらいかな」いったような感じで弾いていたと思います。これが最も大きな反省点でしょうか、時おり現在の私の生徒さんにもこのような方がいますが、「拍子を必ず取って下さい、拍子(ビート)のない音楽は存在しませんから」と強く指導しています。


 
タイムマシンに乗って

 そんな感じで、ギターを弾き始めたといっても、本当に問題だらけの状況で、アニメ「ドラえもん」の中で、「大人になったのび太」がタイム・マシンで「子供の頃ののび太」のところへ行き、「子供ののび太」に勉強を教えるというシーンが出てきますが、とても共感を覚えます。もっとも私の小さい頃は結構偏屈だったので、「今の私」の指導をちゃんと受けるかどうかは疑問です。でも理路整然と説明してやると以外と納得して素直に従うかも知れません。

 ところでタイムマシンなどというのはネス湖のネッシーよりもはるかにあり得ない話しですが、仮に私がタイムマシンに乗って子供の頃の私にギターを教えに行くとすると、今の私は当然もっと上手くなっていますから、その場合、あえてタイムマシンに乗って「子供の頃の私」を教えには行かないかも知れません。そうすると私は結局今のままで、やっぱりタイムマシンに乗って・・・・・などと考えるともう寝られなくなります。やっぱりタイムマシンはないほうがよいのでしょう。もっとも上手くなるのは全く別の世界の自分ということになれば多少矛盾は少なくなりますが、それではタイムマシンに乗る必要もないでしょう、別の世界の自分が上手くなってもどうでもよいことですから。


<小学生の頃>

 このシリーズ、ちょっと間があきましたが、今回は、おとなしいが偏屈なところもあった(今ではとても反省していますが)、私の小学生の頃の話です。


漢字の横棒が1本くらい足りなくても

 小学校では自習の時間とか、宿題などでよく漢字の書き取りがありました。当時これが大嫌いで、もちろん宿題はやらず、書き取りの自習の時間もノートにいたずら書きをしていました。それをよく近くの女の子に見つかり、「先生、シュンゾウ君は自習の時間に漢字の書き取りをやらないで、ノートにいたずら書きしていました」などと先生に言いつけられたりしていました。特に「10回ずつ書きなさい」などいうのが大嫌いで、「なんでそんなことする必要があるのか」といつも思っていました。漢字の横棒が1本くらい足りなくても一応読めるし、場合によってはひらがなでも書けるんだし、などと考えていました。漢字は習っていない字でもほとんど読めるのですが、書くと少しどこかが違っていたりして、正確には書けませんでした。さらに、字をきれいに書くとか、字の書き順を覚えるなんていうのは何の意味もないことと思っていました。


やれば出来るんじゃない

 そんな訳で漢字のテストはいつも30点台(もちろん100点満点で)でした。いつだったか先生や母などにあまり言われるので、1回だけテスト前に勉強したことがあります。するとほぼ満点となり、そのテストではクラスで一番になりました。「なんだ、やれば出来るんじゃない」と思い、それからまた漢字の勉強はしなくなり、いつもの30点台に戻ってしまいした。「やれば出来る」時にやらないと、いずれは「やっても出来なくなる」ということをその当時は知るよしもありませんでした。おかげで今でもというか、キーボードを使うようになって、ますます漢字が書けなくなりました。


算数の場合でも

 国語に比べ算数は得意な方でしたが、でも計算問題などは大嫌いで、これも宿題や自習の時間などでもあまりやりませんでした。テストの計算問題もほとんどやる気がないので、よく間違え、あまり高い点は取れませんでした。でも応用問題や、教科書には出てこなかったような問題になると、急にやる気が出ました。また同じ問題でも教科書にない解き方をするのも好きでした。つまり決められたことをやるのがとても嫌いで、自分だけの考えとか、やり方にこだわっていました。そういうのを一人よがりと言うんでしょうか。


テストの前は

 家での勉強はあまりしませんでしたが、特にテストの前の勉強は一切やりませんでした。テストとはその人本来の学力を試すものであって、そのためにだけ勉強するなど、本来の勉強の目的から外れると考えていたのです(本来の勉強もしませんでしたが)。これは中学生の時まで続きましたが、さすがに高校生になってからは「試験のための勉強」をするようになりました。


地図オタク

 子供の頃は地図を見るのが大好きで、これはおそらく3、4歳頃から始まっていたのではないかと思います。よく姉達の地図帳を勝手に引っ張り出したりして、よく見ていました。地図を見ていると、見ているだけでいろいろな土地に行っているような気がして楽しかったのです。地図の上では北極でも南国の島でも、ヨーロッパでも、アメリカでもどこにでも行けて、なんとなくその風景まで浮かんでくるような気がしました。時々姉たちに「また私の地図帳出して見ている」などと言われたりするので、見つからないようにこっそり見てたりしました。小学4年生頃になって、真新しい地図帳が自分のものになった時はたいへん喜びました。次第に地図帳の後ろの方に載っている世界や日本の大きな川や高い山などの順位やその数値、国や都市などの人口、各国の生産物などの統計も興味の対象となり、地図帳は頭から尻尾まで全部楽しめました。

 小学3年生頃からは、地理に関する本も読むようになり、土曜日にはいつも図書室で「関東地方」とか「中国地方」とか言うような地理の本を借りてきて、家で寝転んで読むのが楽しみでした。結局その小学校にあった地理の本は全部読んでしまい、さらに同じ本を何回か借り出していました。中学や、高校でも特に地理の勉強はしませんでしたが、最も得意な科目でした。今現在の私の地理の知識はほとんどが小学生の時に得たもので、おそらくそのデータは今となっては、少々古くなっていることでしょう。
3月2日(日)のギター文化館での私のミニ・コンサートのプログラムが決まりましたので、お知らせ、および紹介します。プログラムは以下のとおりです。  


<pm.2:00~2:30  古典派のギター曲>

フェルナンド・ソル: 練習曲イ長調 Op.6-12

ニコロ・パガニーニ~中村編: ヴァイオリンとギターのためのカンタービレ
                 : ヴァイオリンとギターのためのソナタ・ホ短調

フェルナンド・ソル: 魔笛の主題による変奏曲

マウロ・ジュリアーニ: 大序曲 Op.61  



< pm.4:00~4:30   スペイン音楽>     

モーリス・ラヴェル~ガベイ編: 亡き王女のためのパヴァーヌ  

ホアキン・マラッツ~タルレガ編: スペイン・セレナード

イサーク・アルベニス~中村編: 朱色の塔
                   : コルドバ
                   : セビーリャ


 2:00~2:30(終了時間は若干遅くなることがあります)は「古典派のギター曲」といことで、19世紀初頭のギターのための作品を演奏します。ソルの「練習曲イ長調Op.6-12」はセゴビア編の第14番にあたり、アンダンテで4声で書かれていて、内声部に動きがあって、室内楽的な感じのある曲です。だいぶ前になりますが、尾瀬の観光バスのテレビCMにこの曲が使われていたことがあり、尾瀬の湿原を歩いているシーンにこの曲が流れていました。速くもなく、遅くもなく歩く様子にこの曲がぴったりの感じがして、この曲をこのCMに選んだ人のセンスに関心しました。クラシック・ギターの心得があった人なのでしょうか。若干の起伏はありますが、落ち着いた感じの曲です。


 パガニーニの2曲はそれぞれヴァイオリンとギターのための曲を私がギター独奏用にアレンジしたものです。パガニーニは伝説のヴァイオリニストとして知られていて、「24のカプリース」や後にリストがピアノに編曲した「カンパネラ」を含む6つのヴァイオリン協奏曲などが有名ですが、ギターも演奏し、ギターの作品も多数残されています。ギターもヴァイオリンも演奏した関係上、パガニーニにはヴァイオリンとギターのための作品はたいへん多く、またギターを含む室内楽も多数残されています。かつてはあまりこれらの作品は演奏される機会も少なかったのですが、最近では徐々に演奏されたり、録音されたりしつつあるようです。

 「カンタービレ」はギターの伴奏に乗せて、ヴァイオリンが美しく、また甘くメロディーを奏でます。「ソナタホ短調」は美しいが憂いをおびた歌の前半と、明るく華やかな後半からなります。どちらも原曲では主役はヴァイオリンで、ギターの方は完全に脇役という形なのですが、「おいしいところ」をいつもヴァイオリンに取られてしまうのは、しのびないので、ギターで全部弾いてしまうことにしました。


 ソルの「魔笛の主題による変奏曲」はクラシック・ギターの曲としてはたいへん有名な曲なので、説明の必要がないかも知れませんが、モーツアルトの最後のオペラ「魔笛」の中でモノスタトスらが歌う「なんと素晴らしい鐘の響き」のメロディを主題として(若干変更されていますが)、それに序奏と5つの変奏、コーダを加えたものです。ホ長調の明るい感じで、ギターの楽しさが十分に伝わる曲だと思います。


 マウロ・ジュリアーニはイタリア出身で主にウイーンを舞台に活躍した19世紀初頭のギタリストです。その作品はたいへん華やかなものが多く、おなじイタリア出身のパガニーニなどと近いところもあります。 「大序曲」は古典的な形式で作曲されていますが、たいへん華やかで、ヴィルトーゾ的な曲と言えます。ジュリアーニの作品の中ではたいへんよく演奏されます。




 4:00~4:30からは(開始時間は10分ほど早くなることもあります)スペインの曲を演奏します。モーリス・ラヴェル作曲の「亡き王女のためのパヴァーヌ」はフランスの曲ですが、スペインのお隣ということと、次に演奏するマラッツやアルベニスとほぼ同じ時代ということで、演奏します。ラヴェルの曲としては「ボレロ」に次いでよく知られた、美しい小品で、ラヴェル自身によりオーケストラへも編曲されています。このギターへの編曲は、アラン・ガベイという人によるものです。


 ホアキン・マラッツの「スペイン・セレナード」は、原曲はピアノ曲ですが、タルレガの編曲により、ギター曲としても知られています。タルレガの編曲はグリサンドなどを多用し、たいへんギター的な曲に仕上がっていると言えます。


 イサーク・アルベニスの3曲、「朱色の塔」、「コルドバ」、「セビーリャ」はそれぞれピアノのための作品ですが、ギター曲としても人気の高い曲で、ギター愛好者にとっては馴染みの深い曲ではないかと思います。スペインの香りと美しいメロディで、それぞれ魅力的な曲です。ギターに詳しくない人でもすぐに馴染める曲だと思います。

  
 入館料は800円(通常300円)で、前半、後半どちらかだけでも、また両方聴いていただいても結構です。また特に予約等の必要はありません。



シューベルト:冬の旅

 昨日は朝から雪の降るとても寒い日、久々に「冬の旅」を聴いてみる気になりました。ゲルハーエル(バリトン)のCDを手に取りました。このCDは1年ほど前、往年の名盤と言われるハンス・ホッターとか、バリトン歌手としては第一人者である、ディートリッヒ・フィッシャー・ディスカウの「冬の旅」のCDを買うついでに買ったようなもので、とりあえず店にあったのと、廉価版でもあったので買いました。歌手の名前はその時あまりわかりませんでしたが、比較的若い年代の歌手としては評価は高いようです。


 買った時少しは聴いたのですが、あまりちゃんと聴いていなかったので、あらためてこのCDを聴いてみようと思いました。あらためて聴くと、なかなかよいCDだと思いました。ゲルハーエルの音質は明るく、透明感のある感じで、年齢的なものもあるのかも知れませんが、美しい声です。表現はどちらかと言えば控えめで、少し距離を置いた表現と言えるかも知れませんが、それがこの曲には合っているように思います。でも特に関心したのはピアノとのバランスの良さで、バランスを取っているというより、歌とピアノが一体となって一つの音楽を作っている感じです。おそらく歌手とピアニストが同じようなイメージをもって演奏しているのではないかと思います。 


 午前中に前半の数曲と後半の2曲ほどを聴きましたが、仕事が終わった後、というか、サッカーの日本代表の予選の初戦の勝利を見届けた後、もう一度聴きなおそうと思いました。どうせ聴くなら別なCDにしようと思い、前述のハンス・ホッターとフィッシャー・ディスカウのものをちょっとかけてみましたが、ホッター盤は高く評価する人もいる割には私にはあまり良さがわからず、ディスカウ盤は、シューベルトの音楽と言うよりは、ディスカウの音楽に聴こえてしまって、結局またゲルハーエルのCDを聴くことにしました。今度は1曲目から途中を飛ばさず24曲目まで通して聴きました。


 この「冬の旅」は前半の12曲と後半の12曲ではかなり内容が違うようです。前半は1曲目の「おやすみ」とか5曲目の「菩提樹」、6曲目の「雪解けの水流」など、まさにシューベルトらしい美しいメロディの曲が多く、確かにこの「冬の旅」は悲しい曲なのですが、一方ではその美しさに酔うことも出来ます。詩の内容も失恋の悲しさを歌っていて、「ぼくの熱い涙で雪と氷を溶かしつくそう、土の肌が見えるまで」(第4曲「氷結」)と、辛く、悲しいが、文字通り青年の熱い情熱も十分感じ取れます。また聴いている人の気持ちにも強く訴えかける音楽となっています。私も12曲目くらいでは、テレビを見て笑っている家内の隣で、CDプレーヤーのイヤホンを耳に差込ながら、だんだん目から涙が流れ出てきてしまいました、もちろん見られないようにしましたが。


 しかし後半の14曲目あたりからは一転して「歌わない」歌へと変わって行きます。歌もピアノの音も動きが少なくなり、前半ほどメロディとして印象に残る曲は少なくなってきます。詩の内容も、もはや「恋」も「愛」も、また「涙」も出てこなくなります。14曲「霜おく頭」では、頭に霜が乗って髪が白くなり、老人になれ、死に近づいたことを喜びます。また15曲「からす」では自分の屍をついばみに来ている、からすに、自分の最後までずっとついてきてほしいと願います。21曲「宿」では通りかかった墓が自分の宿だと言い、「空いている部屋なないか」とたずねます。ここに描かれている世界には日常的な喜怒哀楽とは違った感情が支配しているようです。自らの死だけが自らの救いということなのでしょうか。


 終曲「辻音楽士」は年老いたライヤー弾きの後を付いてゆく歌ですが、行く先も定まらず、ただ空中を浮遊するようなメロディ、体の中を冷たい風が吹き抜けるようなピアノの音。ゲルハーエルの歌もフーバーのピアノもほとんど抑揚らしい抑揚を付けづに、この無重力感を表現しています。これがシューベルト流の「悟り」の世界なのでしょうか。気が付くと曲はもう終わっていました、それにしても「冬の旅」を1曲目から24曲目まで続けて聴いたなんて何年ぶりでしょうか、ほとんど記憶がありません。シューベルト自身の「冬の旅」もこの曲を書いた次の年に終わることになります、シューベルトに「救い」は訪れたのでしょうか。

 
<ギターとの出会い>


小学校に入学するちょっと前

 私が小学校に入学するちょっと前(おそらく昭和31年頃)だったと思います。「兄ちゃんがバヨリン買って来た、でっかいバヨリン買って来た」と当時小学生だった姉の声がします。 その声がする土間の方に行ってみると、その姉が土間の棚の方を指さしています。その棚には60ワットの裸電球に照らされた、白っぽい大きな布の袋が乗っていました。「あれ、バヨリンだぞ、バヨリン。 知ってか、バヨリン」と姉が言うと、少し離れたところから「触んじゃねえぞ」とその14才上の兄の声がしました。その兄は当時20歳くらいで、近くの工場に勤めていました。流行にはわりと敏感な方だったのでしょう、ギターを弾くなど、当時の若者としては最先端だったのかも知れません。
 これが私がその後一生を共にすることになる道具との最初の出会いでした。最初の出会いは手に触れることもなく、また直接会いまみえることもなく、2メートルほど離れた布の袋越しに行われました、しかも正しい名で呼ばれず。



フレットに叩きつけるような

 しばらくしてその楽器は「ギター」と呼ばれているものだとはわかりましたが、それに触ったり、弾いたりすることはありませんでした。兄はしばらくすると栃木市のギター教室に通いようになりました。先生は荒川義男という人で、のちに南米に渡り、フォルクスローレの大家、ユパンキに師事してソンコマージュと改称し演奏活動をしています、ご存知の方もいるかも知れません。
 最初のうちはカルカッシ教本などをやっていたと思います。もちろん当時はそれが何だかわかりませんでしたが、大学のサークルでカルカッシ教本をやった時、聴いたことのある曲がかなりあったので、たぶんこの時聴いていたのでしょう。その兄は多少弾けるようになると、弾く曲は当時はやりの歌謡曲中心になり、それも弦をフレットに叩きつけるような弾き方で弾くので、それがうるさくてたまらず、兄がギターを弾きだすといつも逃げ出していました。



パッケージにギターのイラスト

 そんな訳で小学校の高学年になるまでは実際にギターを弾くことはなく、またその音が好きということもなかったのですが、家にギターがあるのはなんとなく嬉しく、また友達にも自慢でした。私にとってギターは、その当時家の中にある唯一の文化的な道具というイメージがあったのでしょう。
 小学校2年生の頃だったと思いますが、「ギターパス」というクレパスを持っていて、ただ紙のパッケージにギターのイラストがあるだけなのですが、それがとても気に入っていて、大事にしていた記憶があります。



<7人家族>


九死に一生

 私達の家のから300メートルくらい離れたところに父の生まれた家があります。父は小学校を卒業するとすぐに大工の修行で東京に行き、しばらくして、そこで母と結婚しました。戦争中は軍属としてインドネシアに行っていて、戦争の最後の年、つまり昭和20年にタンカーに乗って本土に帰りました。当時完全に制空、制海権とも握っていたアメリカ軍の潜水艦や飛行機にとって日本のタンカーなど第一の攻撃目標ですから、無事本土に帰って来れたのは奇跡的だったようです。実際に爆撃に会い、父がいつも寝泊りしていたところに爆弾が落ちたのですが、父はたまたまその時、別の場所にいたので奇跡的に助かったのだそうです。またタンカー自身も浸水して傾き、父など同乗していた人たちは甲板から海に飛び込もうとしたのだそうですが、乗組員などに「この船はこれくらいでは沈まないから」と制止され、何とか本土まで帰れたのだそうです。

 父はいわゆる昔風の職人で、仕事以外には趣味らしいものもなく、また気性も荒く、気に入らないことがあればすぐちゃぶ台をひっくりかえしたり、子供たち殴ったりしていました。雨の日は父が家にいるので、私たち子供は借りてきた猫状態になってしまいます。子供の頃は父と面と向かって話しをした記憶はありません、進学の話など、どうしても言わなければならないことは母を通じて言ってもらっていました。



わずかばかりの前借金と引き換えに

 母の生まれた家は私達の家から数キロ離れた、現在の栃木市内にありましたが、たくさんの田畑や山林、広い屋敷地などを持つ裕福な農家だったそうです。しかし母の父(私の祖父)の放蕩により財産を失い、夜逃げ同然で東京に引越し、その時母はまだ小学生だったにもかかわらず、わずかばかりの前借金と引き換えに、手伝い奉公に出されたそうです。飲む、打つ、買う、で先祖代々の財産を食いつぶした上に、歳端も行かない自分の娘まで身売り同然に奉公に出したわけですから、普通に考えれば全く身勝手極まりない父親ということになりますが、母は恨み言をいうどころか、「私の父親っていうのはほんとにいい男でねえ、若い頃お祭りなんかでやぐらの上で歌ったり太鼓叩いたりすると、村の若い娘さんたちが、きゃあきゃあ言って、それはもうたいへんだったんだから」と、さもその場にいたように、またとても愛おしそうに自分の父親のことを語っていました。

 私が小さい頃、よく「お前はこのおじいさんにそっくりだねえ」とすっかりセピア色になった祖父の日露戦争の時の写真を私に見せながら言っていました。また私がギターをやるようになってからも「お前はおじいさんの血を引いているから芸事の才があるんだよ、血は争えないねえ」とよく言っていました。その母にはたいへん申し訳ないことなのですが、現在の私の外見は、私自身の父親にそっくりになっています。また「芸事の才」もあまり受け継いではいないようです。

 私が子供の頃は、他の家族が起きるずっと前から起きて食事の支度をし、昼間は農家の手伝いに行き、夜は内職のようなもをし、子供たちなどが寝静まってから一番最後に寝ていました。子供の頃は母の寝ているところを見たことはなく、いったいいつ寝ているんだろうと思っていました。食糧事情のまだまだよくない頃で、おいしいものは自分では食べず、皆子供たちに食べさせていました。



5人兄弟の一番下

 兄弟は5人で、私はその5人兄弟の一番下。2才上の兄、4才上の姉、10才上の姉、14才上の兄となっていました。14才上の兄はもの心付いた時からすっかり大人で、兄弟というよりは「もう一人の父親」といった感じでした。
 米軍の攻撃から奇跡的に生還した父も、私が進路を急転換して「プロのギタリストになる」と言い出した時、何も言わずに賛成してくれた母も、私がギターをやる直接的なきっかけを作ってくれた14才上の兄も、今はすでに他界しています。