中村俊三 ブログ

中村ギター教室内のレッスン内容や、イベント、また、音楽の雑学などを書いていきます。


来年期待

 金沢から帰ると、翌日はすぐ東京理科大の試験。初めての寝台列車では結局一睡もできず、また翌日も早朝まだ暗いうちに起きなければならず、旅の疲れと、睡眠不足でかなりぼうっとした状態で試験に臨みました。数学ではたいして難しくない問題でも再三やりなおすなど、集中力はサッパリと言った状態で、結局こちらも不合格でした。残るは茨城大学だけということになりましたが、学校でサッカー部の仲間に合うと、聞こえてくるのは落ちた話ばかり。「どっちみち今年は捨ていたからね、まあ模擬試験のつもりだったし。もう1年きっちりやって、来年もっとグレードの高いところ受けるんだ」などと異口同音に言っていました(結果的にそれは実現していて、彼らは翌年早稲田大学や東京教育大学[筑波大学の前身]などに入学しました)。だんだん私も翌年期待しようという気になり、茨城大学のほうは経験を積む程度にと考えようになってきました。


水戸は近くて遠い

 という訳で、足取りも重く、今風に言えばテンションも上がらないまま、茨城大学に向かいました。私の実家(栃木県の栃木市の近く)から水戸までは直線距離にして約80キロ程度で、近いといえば近いのですが、それまで水戸はおろか、他の茨城県内にも行ったことがありませんでした。当時の私としては水戸は近くて遠いところだったのです。地図を見るのが好きだった話はしましたが、なぜかこのあたりには興味がわかず、地図上でも行ったことがなく(ちょっと変な表現ですが)、水戸という町のイメージが湧きません。

 私の実家から水戸に行くには(もちろん車でではなく)、最初は東武日光線で栃木駅に行き、そこで両毛線に乗り換え、さらに小山から水戸線に乗り換えます。乗り換え時間も考えると3時間以上はかかるでしょうか、東京に出るよりずっと時間がかかります。やはり水戸は近くて遠いのです(車だと2時間前後)。水戸線もこの時初めて乗りました。電車の窓から見る景色は、金沢に行った時ののような日本海の暗くて厳しいものではなく、明るくのんびりとした感じでした。確かに季節も春に近づいていました。


旅館で

 まだ2階建てだった水戸の駅舎に着くと、案内係りの学生がいました。旅館名などを告げると「あ、ここ、じゃあね、そこ左のほうにずうっと行って、○○メートルくらい行くと、○○の近くにあるから」と口頭で道順などを教えられました。金沢の時は旅館が駅から遠かったのですが、係の学生が一緒にバスに乗ってわざわざその旅館まで案内してくれて、その途中、大学や金沢の町のことなどいろいろ説明してくれました。

 水戸駅から常磐線沿いに5分程歩いたところにその旅館はありました。部屋に案内されてびっくりです、なんと8畳か10畳くらいの和室に受験生が7、8人もいるではありませんか、布団を敷き詰めるともう隙間はありません、一人、畳一枚といった感じです。もちろん豪華な部屋など期待はしていませんでしたが、でもこれではあんまりではないかと思いました。さらに夜になって、工事用のヘルメットなどをかぶった集団が旅館に押し寄せてきて、その旅館にいた受験生を一つの部屋に集め、「我々は・・・・  国家権力の・・・・  断固として・・・・ 粉砕・・・・ 」など意味不明の言葉を、独特の言い回しで叫んでいます。当時(1969年)は大学紛争の真っ只中だったのです。


さらに

 私は本当にとんでもない所に来てしまったなと思いましたが、でもまだ終わりではありません。翌朝、つまり試験当日になって、朝食がなかなか来ません。やっと来たと思ったら、ご飯がとても熱い。あまりゆっくりもしていられないので無理して食べるとなんと「ガリッ」。ほとんど生煮え状態。文句を言いたい気もしましたが、それどころではないので、食事も早々に、旅館を出て試験場である茨城大学へと向かいました。

 行ってみて試験場にびっくり! そこは朽ちかけたような木造校舎で、窓は所々割れていたり、床板もあちこち抜けている。何と言っても汚く、あまり掃除をしている様子もない。こんな校舎今まで見たことがない、これが本当に大学の校舎なんだろうかと思いました。


また来ることはないと思うけど

 このボロ校舎、「3ゴウカン」と言って、実はその後たいへんお世話になることになります。教養部の授業も1部ここで受けましたし、なんといってもクラシック・ギター部の練習場になっていたのです。ボロ校舎が幸いして、我クラシック・ギター部で独占して使用し、授業さえなければ(実際はかなり少ない)どの部屋も使い放題だったのです。合宿中など、深夜に練習しても全く問題ありませんでした。木造だったので、音響的にも結構よかったでした。2年くらいしてその校舎が取り壊されてしまった後は練習場には不自由しました。だがもちろんその時はそんなこと知るよしもありません、水戸に来てから最悪のことばかり、ますます「またここに来ることはない」という確信を深めるだけでした。

 受験生といっても基本は高校生ですからたいていは制服姿で、金沢の時にはほとんどの受験生が制服でした。でもこの茨城大学ではジャケットなどの制服以外の姿が目立ちます、浪人生が多いのでしょうか。私の斜め後ろにはグレイのジャケットを着た受験生がいて、見た目は大学生というより、社会人といった感じで、なんとなく斜に構えた感じでした。その人はどの教科も終了時間を待たずに答案用紙を出して退室してしまいます。よほど出来る人なのでしょうか、それとも入学する気が全くなく、模擬試験のつもりで来ていたのでしょうか(その後入学しなかったのは確かです)。

 この年は全国で大学紛争が荒れ狂い、東京大学と東京教育大学(前述の筑波大学の前身)では入試がありませんでした。どちらも理学部が評価の高いところだったので、そのしわよせが他の大学に及び、全国的に理学部の競争率が上がることになりました。それで私も入試に苦戦した、などいうのは単なる言い訳でしょう。またそれによって多くの浪人生を生み出したり、本命の大学をあきらめて第2、第3志望の大学に入学する人も多かったと思います。

 試験の方で、英語や国語は難しく感じ、特に国語は後の自己採点でも2、30点くらいでした。それに対し理科や数学はほぼ正解といった感じで、自己採点では低く見てもそれぞれ80~90点くらいにはなっているのではないかと思いました。でも合否はどちらでもよいと思いました、合格の場合でも入学はしないことに決めていましたから。

 試験から10日ほど経って、合格の電報が来ました。電報を受け取った時は、入学はしないと思っていましたが、でもその考えはあまり長く維持できませんでした。時間が経つにつれて考えも変わって行き、2時間もすると、「せっかく合格したのに行かない手はあるものか、またもう1年受験勉強するなんてとんでもないことだ」と考えるようになりました。確かに現実的な考えです、次の年にどこかの大学に合格できる保障はありません。と言うわけで数日後、もう行くことはないと思っていた水戸へ、部屋を探しに出かけました。
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           木村大



 4月6日(日) つくば市 ノバ・ホールで、話題の若手ギタリストの一人、木村大のコンサートがあります。今回のコンサートは6名による弦楽器グループ「ヘキサ・ノイズ」(ヴァイオリン3、ヴィオラ、チェロ、コントラバス)との共演で、「威風堂々」、「アメージング・グレイス」、「アランフェス第2楽章」、レッドツェッペリンの「天国の階段」など、ジャンルにこだわらない内容になっています。

 木村大君は私も小さい頃(0歳の頃から)知っていますが、強靭なテクニックと強い意志を感じさせる演奏で、10代半ばで東京国際ギター・コンクールなどを優勝しています。最近では今回のプログラムのように、一般のクラシック・ギターとは一線を画した、独自の「ジャンル横断」な活動が目立ちます。今回のプログラムでは、親しみやすい曲も多く、特にクラシック・ギターに詳しくない人でも十分に楽しめる内容だと思います。

 チケットは、前売り4500円、 当日5000円で、当教室でも取り扱っています。
<進路>


受験の物理は得意だったが


 子供の頃から将来は理科系の仕事に就こうと思っていました。当時は工業高校が人気が高く、私も小学生くらいの頃は将来工業高校に進学するつもりでいましたが、だんだんに自分は電気関係や機械いじりなどはあまり好きでないことに気づき、中学生の頃には普通高校に進もうと思うようになりました。はっきりと物理学を意識するようになったのは高校に入ってからで、同じ理科系の科目でも数学や化学などはイマイチだったのですが、なぜか物理だけは成績がよく、自分に合っているように思いました。特に大学の受験問題などでは難問とされているような問題でも解けない問題はあまりなく、模擬試験などでも物理だけはかなり高い点をとっていました。しかしこれが大きな誤解だったことはまた後でお話するかも知れません。「受験の物理」と本当の「物理学」とは全く別物です。また前にお話したとおり、地理も結構得意だったのですが、将来の仕事となるとあまりイメージが湧かなかったので、こちらのほうは将来の進路としては考えませんでした。



その意味を理解するには

 大学のほうは国立の金沢大学、茨城大学、私立の東京理科大のそれぞれ理学部物理学科を受験しました。面談の時、担任の先生から「お前なんで物理学科だけ受験するんだ、○○大学だったら工学部のほうが評価が高いんじゃないか。それにお前の成績だったら○○大学の○○学部のほうが確実なんじゃないか」と言われ、「でも自分は物理学をやりたいと思っていますので・・・・・」と言うと、先生は「そうか、でも物理ってあんまりよくないぞ、結構苦労するしな」と付け加えましたが、それ以上目の前にいる小柄で色の黒い生徒に、自身の考えを押し付けることはしませんでした。私がその先生の言葉の意味を理解するには、それから約3年ほど必要でした。ちなみにその担任の先生も物理学科卒業です。


その町が気に入って

 最初に受験した金沢大学は城跡がそのまま大学構内になっていて、さらに堀を隔てて日本3大公園の一つ、「兼六園」もあり、ほとんど観光地です。雪の兼六園は確かに美しいものでした。また3泊ほどした旅館はなんとも風情があり、夫妻の言葉使いや立ち居振る舞いも品があり、さらに20代と思われるそこの娘さんも、その旅館にぴったりの日本的なしとやかな女性でした。私はすぐにこの町が好きになり、ぜひともこの大学に入学したいと思いました。試験の初日は国語と社会でしたが、苦手な国語はいつになく快調で、得意な地理は相変わらず絶好調。初日を終えた段階で、内心合格を確信していました。


金沢大学で滑る

 当時、大学構内へとかかる橋のたもとに「金沢大学」と書いた建て看板がありました。二日目の朝、私は身も心も軽く、旅館を出て、橋を渡って大学構内へ行こうと、その看板の横を通りかかりました。その時、横目でその看板を見ながら「これから毎日この看板を見ることになるかも知れないな」と心の中でつぶやきました。すると突然、私の体は宙に浮き、次の瞬間、尻に強烈な痛みを感じました。


よそ者

 3月上旬ではこの地方はまだまだ雪が残り、雪のシーズンは地元の人たちは皆、長靴を履いています(今はどうかわかりませんが)。老若男女、美しく着飾った女性でも足元を見ると皆長靴です。いわゆるブーツなどではありません。普通の靴を履いている人がいたら、それはみなよそ者ということになります。この「金沢大学」の看板の前は傾斜している上に、足元の雪は受験生などによって踏み固められ、アイス・バーン状態です。そんなところを革靴で、しかもよそ見をしながら歩いている者などいれば転倒しないはずはありません。物理的にも、精神的にも「地に足が付いて」いなかった私は格好の餌食になってしまったわけです。


そんなの出来すぎ

 とても痛かったのですが、それよりも恥ずかしい方が先にたちました。まわりを歩く受験生たちは「これで一人落ちたな」と思ったでしょう。まわりが気になって痛がることも、尻に付いた雪を払うことも出来ず、しばらくそのまま歩いてから雪を払いました。「え、冗談だろ! 看板の前で滑る=試験不合格、 そんな馬鹿な、 出来すぎだろ、そんなの! 馬鹿な! 受かるってことじゃないの、逆に! 」などと自分に言い聞かせながらその日の試験に臨みました。二日目以降の得意としていた理科系の科目は、確かに多少手こずった感じがありました。「若干イマイチの科目もあったが、まあトータルそこそこだろう、大丈夫! 」と思いながら初めて乗る寝台列車で栃木の家に帰りました。それから10日ほどして合格者の新聞発表がありましたが、自分の名前がありません。それでも「物理学科だけ発表が翌日なんじゃないか」などと、合格しなかったことがすぐには信じられませんでした。
 
クラシック・ギター

エレキ・バンド

 ビートルズが活動始めたのは1961年頃だそうですが、私が中学に入学した頃(1963年)から日本での人気が高まり、テレビからは日本人の歌手などがビートルズの曲を歌っているのが、よく聞こえていました。またその頃エレキ・ギターによるバンドのベンチャーズなども人気が高まり、いわゆる「エレキ・ブーム」が到来と言うことになります。しばらくしてタイガースやブルー・コメッツなど日本人によるバンドも登場し、「GSブーム」に移行して行きました。


言葉の上だけ

 私の方は、エレキ・ギターにはどうも馴染めず、自分のやっているギターはそれとは全然違うものだと感じるようになりました。エレキ・ギターが流行ったことで、自分がやろうとしているものはそれとは別で、「クラシック・ギター」と呼ばれるものだと認識するようになりました。当時言葉の上では「クラシック・ギター」ということは認識出来ても、実際上はクラシック・ギターについてほとんど知識がなく、どんな曲があるのかさえもわかっていませんでした。実際にはそれまで映画音楽や、日本の歌しか弾いていなかったわけですから。


サッカーと受験勉強

 1966年に栃木高校に入学しました。この高校は県内でも有数の進学校で、中学まではほとんど家で勉強などしませんでしたが、さすが高校に入学してからは家で毎日3時間くらいは勉強するようになりました。それでも成績の方は良くも悪くもない程度でした。高校ではサッカーをやっていた話は前にしましたが、練習が終わって家に帰ると7時は過ぎていて、それから食事をして3時間ほど勉強するとほとんど時間は残りません。したがって高校に入ってからはギターを弾く時間はだいぶ少なくなり、どちらかと言えば前に覚えた曲を弾くだけで、新たに曲を覚えることはあまりありませんでした。


多少時間が出来て

 3年生の夏くらいまでは毎日のようにサッカーの練習に出ていましたが、その頃からは受験勉強などの関係で「引退」ということになり、練習には毎日は出なくなりました。もっとも他の同学年の部員はずっと前にやめていました。それにより確かに家での勉強時間は増えましたが、それでも時間が出来るので、ギターの方もただ今まで弾いていた曲を弾くだけでなく、本格的なクラシック・ギターの曲を弾いてみようと思いました。


知らないことがかえってイメージを膨らます

 とは言っても、当時の私にはクラシック・ギターの知識や情報など全くありませんでした。楽譜は多少あったようなのですが(後からわかったことですが)、クラシック・ギターのレコードなどは全くなく、せいぜいテレビのギター教室から断片的聞こえてくる程度でした。私の周囲にクラシック・ギターをやっている人もいなく、クラシック音楽そのものに興味のある人もいませんでした。私の中では「クラシック・ギター」という言葉だけが先行していて、その内容については全くわからないままでしたが、それがかえってイメージを膨らませて、クラシック・ギターとは、これまで経験したことのない、とてもすばらしいものではないかと感じていました。


曲名と譜面(ふづら)で

 当時クラシック・ギターについて、唯一の情報としては、楽譜の裏面にある曲目のリストだけでした。そのリストを眺めながら、いかにもクラシックらしい名前の曲を何曲か目をつけ、さらに楽器屋さんでその譜面の模様を眺めて、特に難しそうに見えるものを選んで買いました。その曲がソルの「アンダンテ・ラルゴ作品5-5」で、確かに作曲者名も、曲名もいかにもクラシックっぽい名前で、楽譜のほうも細かい音符が多く、譜面(ふずら)はかなり難しそうに見えました。楽譜の裏に作品や作曲者の解説があり、「フェルナンド・ソル」が古典派時代の有名なギターの作曲家だということを知ったのはこの時です。実際にその曲がどんな曲だか全くわからないのですが、その曲名と譜面、あるいは解説などからすると、何かとても凄そうな曲に感じました。


相当ひどかった?

 確かになかなか難しい曲でした。速い曲ではないので、技術的に難曲とは言えないかも知れませんが、和音や細かい音符(16分音符や32分音符)が多く、当時の私の読譜力からすると難し過ぎたと思います。どのように弾いていたのかは詳しくは覚えていませんが、相当めちゃくちゃだったのは確かでしょう。その後しばらくその曲を弾いていませんでしたが、一昨年30数年ぶりに弾いてみました。渋くてなかなかよい曲ですが、今弾いても易しい曲ではありません。


名曲中の名曲「アルハンブラ宮殿の思い出」

 それから少しして、サッカー部の仲間と話している時、
「○○はすげーよな、アルハンブラの想い出弾けるんだってよ、なんといってもアルハンブラの想い出はクラシック・ギターの名曲中の名曲で、すごく難しい曲だっていうじゃん」

 当時の私はこのあまりにも有名過ぎるギターの名曲も知らなかったのです。自分が知らなかったことにも、特にギターをやっているわけではない同級生が知っていることにも、なんといっても他の高校生が弾けるということにも大きな衝撃を感じました。もちろんすぐに楽譜を買いに行き(実は家に楽譜がすでにあった!)、練習を始めました。トレモロは前にやったことがあるので、あまり問題はなく、またその前にやったアンダンテ・ラルゴが難しすぎたせいか、楽譜を読むことについては、あまり難しさは感じませんでした。かなりむきになって練習したので、一週間とはかからず覚えたと思いますが、ただ曲の感じがいまいちピンときません。一度ラジオの深夜放送でイエペスの演奏を聴いたのですが、あまりいい曲とは感じませんでした。その曲の感じやよさがわかるようになるには、それから半年くらいかかりました。


サッカー2


栃木高校サッカー部時代の私(下)。 FW、公式戦約10試合で、2得点、1アシスト
               ・・・・・・「禁じられた遊び」について・・・・・・

 私がギターを始めたのは1960年代の始め頃ですが、この頃ギターを始めた人にとってはこの「禁じられた遊び」はたいへん影響の大きかった曲で、この曲をきっかけにギターを始めたという人も少なからずいたのではないかと思います。しかし最近ではこの曲や映画のことをあまりよく知らない人も多いのではないかと思いますので、今回はこの曲の話をします。


禁じられた遊び=お墓ごっこ

 この映画は1950年頃封切られたもので、監督はルネ・クレマン。舞台は第2次世界大戦が始まった頃のフランスで、ドイツ軍機の銃撃で両親をなくしてしまった女の子と、その女の子が引き取られた農家の少年との話です。少年は死んだ動物のためにお墓を作ってあげますが、二人はさらに、亡くなった女の子の両親のために、お墓から十字架などを盗み出してしまいます。それが「禁じられた遊び」ということなのでしょう。


イエペスのギターが白黒の映像に色彩を

  音楽は当時の若手ギタリストのナルシソ・イエペス(当時25才)が担当し、現在「愛のロマンス」と呼ばれているメイン・テーマの他、次の曲が演奏されています。

  サラバンド、ブーレ(ロベルト・ド・ヴィゼー)

  二つのメヌエット~第2メヌエットのみ(ジャン・フィリップ・ラモー)

  練習曲イ長調 Op.38-6(ナポレオン・コスト)

  アメリアの遺言(カタルーニャ民謡~ミゲル・リョベット編)

以上の曲がこの映画の中で流れてきますが、メイン・テーマ以外はほとんど断片的に聴こえてきます。またそれらの曲をメドレー式に繋いだ演奏もあり、子供の頃そのレコードが家にありました。映画の方はモノ・カラーで今見ると、見づらいところもありますが(草などが枯れ草なのか、緑の草なのかわからない!)、ギターの音がよく合っていて、イエペスのギターが白黒の映像に色彩を添えている感じがします。


イエペス作曲?

 メイン・テーマの「愛のロマンス」はスペインのギタリスト「アントニオ・ルビラ」の1930年代の作品と言われ、1940年頃に別のギタリストによって、別の映画にも使われているそうです。最近では「イエペス作曲」とされることもありますが、種々の状況からすると、その可能性はあまりないのではないかと思います。ただ現在楽譜にされているものや、演奏されているものはほとんどイエペスの演奏に準じているので、少なくとも「イエペス編」とは言えるかも知れません。またかつては「スペイン民謡」とされていましたが、そんな民謡は、少なくともスペインにはないそうです。


みんな弾いていた

 前述のとおりこの当時、この映画およびこのメイン・テーマとギターの関係は非常に深く、この曲をきっかけにギターを始めた人は多かったのではないかと思います。また当時、多少なりともこの曲が弾けた人は少なくなかったと思います。前述の兄の友人もこの曲を弾いていたのでしょう。また「第三の男」、「鉄道員」、「太陽がいっぱい」など、他の映画主題曲もこの当時とても人気があって、よくギターで演奏されていました。


人気ギタリスト~10弦使用の20世紀を代表するギタリスト

 ナルシソ・イエペスはこの映画をきっかけに一般的に知られるようになり、特に日本での知名度は高く、アンドレ・セゴビアの名前は知らなくても、ナルシソ・イエペスを知っている人は非常に多かったのではないかと思います。しかし決して人気先行のギタリストなどではなく、高度な技術と独自の音楽観を持ったギタリストだと思います。1960年頃からたびたび来日し、たくさんのLPレコードも売れていました。その後、自ら考案の調弦法による10弦ギターを使用し、独特の音響世界を実現しました。他にはあまり例のない個性的な演奏スタイルとも言えるので、絶賛する人と、そうでない人と分かれるのは、やむをえないところかも知れませんが、20世紀を代表するギタリストの一人であるのは間違いないと思います。1997年に69歳でなくなりました。


今は「カヴァテーナ」の方が

 もっとも最近では、ギターで有名な映画音楽といえば、「ディア・ハンター」のメイン・テーマの「カヴァティーナ」の方が有名で、人気も高くなっています。この映画も「禁じられた遊び」と同様に戦争をテーマにしたもので(ベトナム戦争)、曲の方もメロディにアルペジオ伴奏と、似た点も多いのですが、曲の感じはまるで違います。メロディもコードも「カヴァティーナ」の方がずっと複雑になっていて、ちょっと聴くと簡単そうにも聴こえるのですが、実際に弾いてみるとかなり難しい曲になっています。もっともウイリアムスの弾いているオリジナルではオーバー・ダビング(一人二重奏)になっています。また曲の感じも「禁じられた遊び」の方は悲しさが率直に伝わってくるのに対し、「カヴァテーナ」の方はシュールというか、無重力感のようなものが漂っているような気がします。最近ではこの曲をきっかけにギターを始める人もいるのではないかと思います。




 今日(3月4日)水戸市の佐川文庫で、パヴェル・シュタイドルと宮下祥子さんのジョイント・ギター・リサイタルを聴きました。佐川文庫でコンサートを聴くのは初めてですが、いつもは室内楽や、ピアノなどを中心に質の高いコンサートを催しているそうです。確かに、いつもよくお会いするギター愛好者以外にも、おそらく一般の音楽ファンと思われる方々もたくさん来ていました。

 宮下さんの独奏(アラビア風奇想曲、アルハンブラの想い出)で始まりました。私は前から2列目というたいへん良い席だったのですが、音のほうは実際の距離(4メートルくらい)のわりには遠く感じられました、ギター文化館などに慣れすぎているからなのかも知れません。でも演奏者の間近なので指などはよく見えます。宮下さんはトレモロを通常とは反対のpimaの順で弾いているそうですが、それがよくわかります。確かに人によってはこの方がよいのかも知れません、もちろんたいへん美しい音で演奏していました。

 シュタイドルはプロフィールによれば1961年、チェコの生まれで、1982年にパリ国際ギター・コンクールに優勝しているそうです。レニャーニのカプリースを弾いたCDを持っていたので、多少は知っていたのですが、聴いてびっくり、見てびっくりでした。プログラムではパガニーニの曲から始まることになっていたのですが、実際にはメルツのロマンツァから始まりました。楽器はシュタウフェルのレプリカだそうですが、軽くよく響きます。シュタイドルの演奏は音も表情豊かですが、顔のほうもたいへん表情豊かです。パガニーニのソナタはギター独奏用の曲だと思いますが(たぶんMS84-21他)、かなりヴルトーゾ的な曲で、しかもヴァイオリン曲のように聴こえます。原曲とはかなり違うようですが、それにしてもものすごいテクニックです。ジュリアーニのロッシニアーニ(第1番)は相当な難曲のはずですが、軽々とというか、軽快で楽しい感じに聴こえます。

 宮下さんとの二重奏のソルの幻想曲はコスト編の方ですが、それにシュタイドルが自由に即興を加えて演奏していました。

 なんといっても圧巻は自作の「オブロフスカ賛歌」でしょう、どう表現していいかわかりませんが、超絶技巧の連続といった感じで、ともかくギターをやっている人というか、ギターに興味のある人は一度聴いてみる、あるいは見てみるしかないと思います。普通、ギターは左手で押さえて、右手で弾くということになっていますが、そんな常識も関係ない感じで、右手は右手、左手は左手といった感じです。おまけに笛か何かの音が聴こえてきたと思ったら、本人が声を出しているではありませんか! しかも重音で!

 もっとも演奏しながらずってハミングのような声はずっと出しているのですが、ここでの声はそれとは全く違います。どこかで重音を出す唱法があるという話を聞いたことがありますが、シュタイドルはギターを弾きながらそれをやっているわけです。

 ちょっと長くなりましたが、シュタイドルは私がこれまで聴いたギタリストとは全然違ったタイプのギタリストでした。今日のコンサートは「未知との遭遇」といった感じです。そういえばこのギタリスト、どことなく宇宙人ぽいかな。


 今日、ギター文化館のミニ・コンサートに来ていただいた方々、本当にありがとうございました。今日のコンサートは大序曲やセビーリャなど私としてはややハードな内容で、そこそこ良かった部分とイマイチとところと両方だったと思いますが、華やかな雰囲気は出せたかなと思います。それにしてもよく響くところなので、私のハウザーだとちょっときつめにというか、少しうるさく聴こえてしまうのではといったような気もしましたが、いかがだったでしょうか。

 まだまだ寒い日が続いていて、会場内もやや寒いのではと思いましたが、特に暑くもなく、寒くもなくで、そういう意味では結構弾きやすかったほうかなと思いました。チューニングもあまり不安定にはなりませんでした。


 私の次のミニ・コンサートの出演は5月11日(日)で、その時はルネサンス曲とバッハという組み合わせにしようと思っています。また次回よろしくお願いします。