中村俊三 ブログ

中村ギター教室内のレッスン内容や、イベント、また、音楽の雑学などを書いていきます。


ギター部を退部

 指揮者を務めた3年生の時の定期演奏会が終わってしばらくすると、私は自分の将来などのことを考えギター部をやめました。それまで生活も友達付き合いも、すべてギター部中心だったので、ギター部をやめると私の周囲には誰もいないということに気が付きました。それまで大勢の仲間たちと楽しく過ごしてきただけに、それはとても辛く感じました。ギター部にいた最後の頃には「ギターが好き」というより「ギター部が好き」というようになっていたのかも知れません。


1日のうちで言葉を発するのは

 下宿も変わったこともあって、ギター部をやめてしばらくの間は、友達どころか、話をする相手もいなくなりました。1日のうちで言葉を発するのは、夕方、近くの食堂に行って「定食」と言うだけ、などという日が何日も続きました。さらにこの頃になると物理の授業には完全についてゆくことが出来なくなり、授業にはほとんど出なくなりました。何かすべてが行き詰まりになってしまい、どうしてよいかわからない状態になってしまいました。ほとんど食べ物がのどを通らなくなったり、一晩中寝付かなかったり、精神的にも、肉体的にも明らかに異常な状態となって行きました。


精神的に自立するために

 一時期は心も体もひどくバランスを失い、極端な孤独感に襲われ、先の見えない暗闇に放り出されたような心境でした。この時あらためて自分の弱さに気づきました。次第に、これではいけないと考えるようになり、もっと自分が強くならなければならないと思うようになりました。それまで高校時代なども含めて文学などはほとんど興味がなく、小説などもあまり読まなかったのですが、この頃から読むようになりました。スタンダール、ロマン・ローラン、トルストイなどを読みましたが、特にロマン・ローランの「魅せられたる魂」には共感し、何度か読み直したりしました。同じロマン・ローランの「ジャン・クリフトス」も音楽家が主人公だったので、興味を持って読みました。トルストイの「戦争と平和」は歴史論的なことが書いてあって、それに啓発され、歴史、特にヨーロッパ史に興味を持つようになりました。それまでの私はこうした一般教養に欠けるところがありましたが、精神的に自立するためにはもっと教養を深めなければならないと感じるようになりました。


その頃聴いた音楽は

 その頃の私にはギターを弾くこと、本を読むこと、そして音楽を聴ことしかなくなってしまいましたが、こういう時に聴いた音楽というのは体にというか、心にしみ込んでしまうようです。バッハの「マタイ受難」。シューベルトの「冬の旅」。モーツアルトの「クラリネット5重奏」、「フィガロの結婚」、「交響曲40、41番」、「ピアノ協奏曲」、「レクイエム」。ベートヴェン、ブラームス、ブルックナーの交響曲。ドビュッシーの「海」。ストラビンスキーの「春の祭典」。バルトークの「弦、打、チェレスタ・・・・」・・・・・などなど、 その頃聴いた曲は今でも私の愛聴盤になっています。



                      スコットランド

クラウディオ・アバド、ロンドン交響楽団のメンデルスゾーン作曲交響曲第3番「スコットランド」のジャケット。この美しいジャケットに惹かれてこのLPを買った。「スコットランド」の冒頭の感傷的な旋律を聴くと、今でも当時のことがフラッシュ・バックする。



                      イタリア

裏面は第4番「イタリア」となっている。この底抜けに明るい写真と、「イタリア」の音楽は当時の私には眩しすぎた。
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私のギター修行 16 理学部物理学科



理学部物理学科に入学したはずだが

 これまでの話のとおり、私は1969年に茨城大学の理学部物理学科に入学したのですが、これまではギターの話ばかりで、その物理学の方の話はほとんど出てきませんでした。

 だいたいのことは皆さんのご想像どおりですが、しかし私は決して最初から勉強の方を捨ててしまったわけではありません。

 1年生では授業は教養部だけですが、もちろん授業はちゃんと出て、語学など必要な単位はすべて取りました。 2年生になると専門の授業がはじまり、私としては普通程度に出席し、予習などもそれなりにやっていたのですが、試験の成績が及第点に及ばず、最終的に重要な科目の単位を2つ落としてしまいました。




自分だけは大丈夫

 当時の物理学科は規定の点数に1点でも足りないと即、落第となりました。 私だけでなく、クラスの半数以上が単位を落としたと思います。

 1年生の時から物理学科の厳しさは先輩たちから聞かされていましたが、その時はまだ、自分だけは大丈夫と思っていました。 しかし、だんだんそれを実感するようになってゆきました。




中学生レヴェル

 2年生の後半頃だったと思いますが、物理学科では厳しいことで有名なS先生の物理数学の授業で演習問題があり、私にも1問課題が出されました。

 授業ではやったことのない問題だったので、あれやこれやいろいろ調べて、そのうち図書館でその問題に関する本を見つけ、その問題の解法が書いてあったので、それに従って計算し、答えがなんとか導き出せました。それを授業の時、黒板に書くと、S先生は、


 「これ誰やったの?   君?   何これ・・・  これ、中学生の解き方だろ。 ただの代入計算なんて・・・・  この式を導くのが問題じゃないのか、  えっ?・・・・   話にならん。   次っ・・・・・  」


 もちろん私のショックは大きいものでした。しかしこの件に関しては2年後にもう一度ショックを受けます。4年生になって固体力学という授業がありましたが、その授業の中でこの問題が出てきたのです。

 その授業では細かく道筋を踏んで話を進めてくれたので、さすがに私にも理解出来ました。 それにしてもS先生は当時2年生の私に、4年生の授業でやる内容の問題を課したのです。 確かにそれを平気でこなす学生もいたのですが。




トラウマ

 余談になりますが、S先生から「中学生レヴェル」、と言われたことについては、その後の私にとって、一種のトラウマになってしまったようです。 大学を卒業してからも物理や数学の試験の夢をよく見ました。 もちろん全く出来なくて苦しんでいる夢です。

 するといつの間にか私は中学生にもどってしまい、中学校の問題がわからなくて苦しんでしまいます。散々苦しんだ後目が覚めて 「そうだ、オレは中学どころか、大学までちゃんと卒業したんだっけ」 と胸を撫で下ろします。

 また別な時には大学は卒業したのだけれど、中学校の勉強が不十分だったからといってまた中学校に入学し直します。まわりは普通の中学生なのですが、私だけ30代か40代になっていて、とても居心地の悪い状況です。

 卒業後はそんな夢をしょっちゅう見ていて、見なくなったのはせいぜいこの10年くらいです。 もっとも今現在は大学の数学どころか、三角関数とか対数、微分方程式などの高校の数学も全くわからなくなっていますから、私の数学などの実力は本当に「中学生レヴェル」です。




あの中村はどうしている

 それからしばらくして、私がもうほとんど授業には出なくなっていた頃、同じ下宿の後輩がS先生がゼミについていて、S先生はその後輩(とても真面目で、成績も優秀)に、こう訪ねたそうです。


 「ところで、あの中村はどうしてる、 君と同じ下宿だったよな。 彼、ギターまだやっているのか・・・・   そう、 なるほど。 そういえば、俺も昔ギターに凝っていたことがあったよなあ・・・・ 」


 その話をその後輩から聴いた時、私は目頭が熱くなりました。 私は物理学科の学生でありながら、物理の先生とほとんど話をしたことがありません。



私がギターをやっていることも知っていた

 特に厳しいことで有名なS先生は”赤鬼”と呼ばれ、私にとっては文字通り鬼よりも怖く、話をするどころか、半径3メートル以内にも近寄った事がありませんでした。

 また、当然、私のような出来の悪い学生などS先生が顔も名前も知っているはずがないと思っていたのです。 そのS先生が私の名前を知っているだけでなく、私のことを気にかけてくれて、ギターをやっていることなどもよくご存知だったのです。




ついてゆける学生と、そうでない学生

 大学入学後、私は確かにギターには熱中していたのですが、でも3年生くらいまでは将来の仕事、つまりプロのギタリストになることなどは考えていませんでした。 ギターはあくまでも趣味で、自分は物理学の関係で仕事をして行くつもりで、勉強もそれなりにはやっていました。

 しかし物理学というのはそんな中途半端な気持ちでは出来るものではなかったようです。 高校の担任の先生が 「物理はやめた方がいいぞ」 と言った意味がこの頃になってようやくわかってきました。 ちなみにその担任の先生は物理の先生でした。

 3年生くらいになると、物理学科の学生は、授業についてゆける学生とそうでない学生とにはっきりと分かれてしまいました、もちろん私は後者のほうです。




大学に入る前から物理の勉強をしていた

 授業についてゆける学生は、まず大学に入る前からすでに大学の物理学を勉強していて(受験の物理ではない)、1年生の時からすで専門の学科の勉強を始め、常に先生たちの研究室に出入りし、先生たちにいろいろ聴いたり、また物理学について議論しあったりしていたようです。

 高校の延長のような気持ちで”とりあえず”授業に出て、授業以外の時間はほとんどギター部の部室か練習場ですごしていた私などとは全く比較になりませんでした。

中村俊三 ギター・ミニ・コンサート の曲目解説の続きです。

 後半はバッハの作品で、最初の「アンダンテ」は無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第2番イ短調」の第3楽章です。曲の感じはヴィバルディの協奏曲の中間楽章ような感じで、バッハの曲としてはあまり複雑ではなく、親しみやすい曲だと思います。

 次の「ガボット」はリュート組曲第4番の第3楽章で、この組曲は無伴奏バイオリン・パルティータ第3番からのバッハ自身の編曲です。明るく、ユーモラスな感じを持つこの曲はこの組曲の中でも、よく単独で弾かれる曲です。ロンド風となっていて最初のテーマが5回繰り返され、その間に4つエピソード(挿入句)が入りますが、それぞれのエピソードは原調のホ長調で始まり、嬰ハ短調、ロ長調、嬰へ短調、嬰ト短調とそれぞれ違った調で終わります。そのあたりがバッハらしいところでしょうか。

 次の「主よ人の望みの喜びよ」はカンタータ第147番「心と口と行いと生きざまをもって」からで、オルガンやピアノなど様々か形で演奏され、バッハとしてはたいへ有名な曲です。「イエスはいかなる時も私の喜び、私の慰め、生きる糧・・・・」と歌われています。

 次の「ガボット」は無伴奏チェロ組曲第6番からで、この組曲は通常のチェロの最高弦の上にもう1本弦を追加した「5弦チェロ」のために書かれた曲で、第1弦がギターと同じ「ミ」になっていて、ギターとほぼ同じ音域の楽器となっています。したがって今回演奏する譜面もほとんどチェロの譜面をそのままギターで弾くような形で、特に音の追加などもありません。曲は「ガボットⅠ - ガボットⅡ -ガボットⅠ」の順で演奏されます。

 最後は無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第2番の「シャコンヌ」ですが、これは昨年も演奏し、また当ブログ「名曲ススメ」でもいろいろ書きましたので、若干手短に書きますが、シャコンヌは”低音部に主題を持つ変奏曲”で、この曲は基本的には、最初と最後に演奏される8小節のテーマに30の変奏、計256小節からなります。しかし実際にはそれほど単純ではなく、同じ和声進行を持つ4小節のフレーズをもとに様々な変化や起伏のある音楽が組み立てられています。大きくは、 「ニ短調 - ニ長調 - ニ短調」というように3つの部分に分かれ、擬似的な3楽章構成のようになっています。編曲は私自身のものですが、原曲から離れないように注意しながら、若干低音部を補充しています。



5月11日(日)に石岡市のギター文化館で「中村俊三 ギター・ミニ・コンサート」を行います。

演奏曲目は以下のとおりです。


   pm.2:00~  ルネサンス時代の音楽

作者不詳 : イタリアーナ、 曲名不詳の小品

ロンカルリ : パサカリア

作者不詳 : アリア

チェザレ・ネグリ : 白い花

作者不詳 : ダンツァ

作者不詳 : ガリアルダ

作者不詳 : カンション

ビンチェンツォ・ガリレイ : サルタレッロ

イギリス民謡~カッティング編 : グリーン・スリーブス



     pm.4:00~ J.S.バッハの作品

アンダンテ~無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第2番より

ガヴォット~リュート組曲第4番より

主よ、人の望みの喜びよ~カンタータ第147番より

ガヴォット~無伴奏チェロ組曲第6番より

シャコンヌ~無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第2番より



 2:00~ はルネサンス時代(16世紀)の主にイタリアのリュート曲の演奏です。最初のイタリアーナと曲名不詳の小品は20世紀前半頃のイタリアの作曲家オットリーノ・レスピーギが弦楽合奏曲=「リュートのための古代の舞曲とアリア第3組曲」に編曲したものをもとにギターに編曲したものです(「私のギター修行」でも触れましたが)。イタリアーナは現代ギター誌に掲載されていたもの、曲名不詳の小品は私自身の編曲です。

 2曲とも原曲の譜面、あるいは原曲から直接現代譜に直したものが存在するとは思われますが、不勉強ながら私自身はよくわかりません。「曲名不詳の小品」はもともとの譜面には曲名が書かれておらず、レスピーギは「シシリアーナ」としていますが、曲の内容と合わないということで「コレンタ」としている譜面もあります(私の教材ではそうしています)。いずれにしてもはっきりとした根拠がないので、ここでは「曲名不詳の小品」としました。曲名がはっきりしないながらもこの「曲名不詳の小品」はたいへん有名で、おそらくほとんどの人は聞き覚えがあるのではないかと思います。かつてリュート奏者の「つのだたかし」さんが、カゴメのコマーシャルで弾いていました。


 ロンカルリの「パサカリア」も同様に「リュートのための古代の舞曲とアリア第3組曲」に含まれる曲ですが、実はこの曲、リュートの曲でもルネサンス時代の曲でもなく、17世紀のバロック・ギターの曲です。厳密に考えればこの曲がこの組曲の中に入るのは不自然なのですが、当時(20世紀前半)はそのあたりはアバウトだったのでしょう、何と言ってもこのような曲を知っている人はほとんどいなかったわけですから。というわけで、このコンサートでもタイトルとは矛盾しますが、カタイことは抜きでこの曲も演奏します。

 次の「アリア」~「サルタレッロ」の6曲はセゴビアが「リュートのための6つの小品」として演奏していたものです。もともとはそれぞれ特に関係のない別個の曲でしたが、音楽学者のキレソッティが現代譜に直した時に、この組み合わせにしたようです。今日演奏する譜面はそのセゴビアなどが演奏していたものとは若干異なり、阿部保夫、恭士編によるもので、比較的原曲に忠実なものと考えられます。「サルタレッロ」の作曲者としてビンチェンツォ・ガリレイの名を書き入れておきましたが、これもあまりはっきりとはしていないようです。ビンチェンツォ・ガリレイはガリレオ・ガリレイの叔父にあたるそうで、リュート奏者だったのは確かなようです。またガリレオ自身もリュートを弾いたそうです。

 グリーン・スリブスはこの時代から有名な曲で、リュートでもよく演奏されていたようです。ただしメロディなどは特に確定していなくて、低音部、つまり和声進行が決まっていただけのようです。今日演奏するのは現在、ギターでよく演奏される形のもので、16世紀のイギリスのリュート奏者フランシス・カッティングのものをもとに、イギリスの現代のギタリスト兼リューティストのジュリアン・ブリームが編曲したものです。

 ルネサンス時代の音楽は曲名などはあまり馴染みのないものが多いですが、たいへん親しみやすい曲が多いと思います。もっとも当時の声楽などはたいへん複雑で高度なものになっていて、その声楽を模したリュート曲などはやはり高度な音楽なのですが、今日演奏する曲はシンプルでとても馴染みやすい曲だと思います。ぜひ聴いてみて下さい。なお後半のバッハの曲についてはまた後日解説させていただきます。

新入生の指導

 年度が替わり2年生になると、新たに入った新入部員の指導が始まります。1年前とは逆に今度は教える立場ですが、これは私にとってたいへん勉強になりました。教えるということは自分の考えなどがまとまっていないといけません。漠然とした考えをちゃんと整理するのは最適な機会でした。またその新入生がうまく出来ない時、なぜそれが出来ないのかと一緒に考えるのは、たいへん良い経験になりました。それは直接今の仕事につながっています。でも少し熱心にやりすぎて、新入生には嫌われていたでしょう。


初めての独奏

 この年の定期演奏会(1970年11月)では独奏を行いました。曲目は、出来ればあまり弾かれない曲で、なおかつ好感度が高く、また難しすぎないものというので、ムソルグスキーの「展覧会の絵」から「古城」にしました。これはセゴビアのレコードを聴いて(実際にはレコードを買わずに、店頭で試聴しただけ)決めたのですが、結果的には当時の私の実力に合っていた曲だったと思います。その年の定期演奏会は茨城県民文化センターの大ホールで行われ、入場者数約1200人という、おそらく茨城大学クラシック・ギター部の定期演奏会の歴史の中で、最高の入りだったと思います。私自身にとっても最初のステージが、生涯の中で最も大観衆のステージとなりました。おっと、まだ私の生涯は終わっていませんが、この先もこのような大観衆の前でギターを弾くことはないでしょう。


体が宙を浮いて・・・・

 初めての大ステージでの独奏で、もちろん相当緊張しましたが、その緊張が良い方に働いたのか、練習を含めて、その時がもっともよい演奏が出来たと思いました。その曲の演奏が進むにつれて、今日の演奏は最高だと感じ、最後の和音を弾く時は、演奏が終わってしまうのがとても残念に思いました(最近は全く反対ですが)。また自分の演奏を多くの人が聴いて、楽しんでくれているということも夢のようでした。

 演奏会が終わってからもその興奮はなかなか醒めず、その後一週間くらいは体が宙を浮いていうるような感じでした。道を歩いていても、いつも見ている景色がなにか光輝いてい見えました。その後いろいろ自信をなくしたり、失望したり、苦しいことなどがたくさんあっても、なんとか今現在までギターをやっているのは、この時の興奮がまだ少し残っているせいかも知れません。


指揮者として

 定期演奏会が終わると役員改正があり、その時念願叶い指揮者に選ばれました。前述のとおり、この時までには基本的なことは一応勉強し終えて、合奏でやる曲の選曲と編曲ということになりますが、まず選んだのがレスピギー作曲「古代の舞曲とアリア第3組曲」から「シシリアーナ」で、オーケストラ曲ですが、もともとリュート曲なのでギターにはよく合う曲だと思いました。因みにこの曲は、リュート奏者の”つのだたかし”氏が、かつてカゴメのコマーシャルでも弾いていて、現在私の教室の教材にもなっています(「コレンタ」として)。オーケストラ・スコアからギター合奏用に編曲するのはこの時が始めての経験でした。

 次にヴィヴァルディの「協奏曲イ短調Op.3-6」で、これもオーケストラ・スコアからアレンジしました。他にバッハの2声のインベンション、アルベニスの「グラナダ」、ヘンデルの「サラバンド」、バッハのブーレ、ソルのグラン・ソロなど、すべて自分でアレンジしました。もちろんそのアレンジについては、未熟な点はたくさんあり、不満の残る結果となってしまった曲もありましたが、私自身にとっては、たいへん貴重な経験となり、これらの作業を通して、さらに音楽の基礎が学べたと思います。

 指揮をするということは、音楽的なことだけでなく、他のメンバーとの意志の疎通がなければなりません。私は当時は(今も?)人付き合いが下手で、お世辞にも部員の気持ちを掌握していたなどとは言えず、常に自分一人の考えで突っ走っていたようなところもあり、他の部員にいろいろ迷惑をかけたことが多々あったとのではないかと思います。


                  アンサンブル 002


            1971年の定期演奏会。左端指揮をしているのが私(20歳) 
               この頃はまだ足台を使っていなかった。


 この年は、なんといっても指揮者として定期演奏会全体のプランから選曲、編曲、合奏練習の取りまとめ、さらに下級生や新入生の基礎の指導、そして演奏会当日は合奏の指揮と独奏と大忙しでした。しかし毎日たいへん充実した日を送っていた気がします。全力投球の毎日でしたが、それはとても楽しい日々でした。指揮者として迎えたこの年の定期演奏会は前年のものとはまた違った感動で、合奏の楽しさや、多くの仲間と演奏会をやることの楽しさ、またそれを多くの人に聴いてもらえる楽しさなどを十分味わえたと思います。独奏ではバッハのチェロ組曲第3番のブーレを弾きましたが、記憶の不安から途中で弾き直しをしてしまいました。弾きなおしの後はそれなりに弾けた感じはありましたが、この経験から、これ以後暗譜の仕方をいろいろ工夫し、それ以後はそうしたことはあまりなくなりました。


                   アンサンブル 001


              独奏(バッハ:チェロ組曲第3番「ブーレ」
        独奏の時は足台を使っていたが、かなり前傾姿勢になっている。楽器は富田修
 今日(4月20日 日曜日) つくば市の、つくば恵光文化センターで行われた ”リベルタ First Consert”を聴きに行ってきました。”リベルタ”は、つくば市を拠点に活動しているギター・アンサンブルで、「誕生してから8年目」の初めてのコンサートとのこと、メンバーは15名で、そのうち女性が14名、つまり男性は一人ということになります。指導、および指揮は黒田公子さんと記されています。プログラムは以下のとおりです。


イタリアーナ(O.レスピーギ)
メリー・ウイドー・ワルツ(F.レハール~黒田公子編曲)
エル・ビート(スペイン民謡~佐藤弘和編曲)

     [小編成]
ジ・エンターティナ(S.ジョプリン)
シチリアーナ(J..S.バッハ)
Love Love Love(中村正人)
こきりこ、砂山、見上げてごらん夜の星を

     ・・・・・休憩・・・・・

ラ・クンパルシータ(M.ロドリゲス)
ブーレ、サラバンド、ポロネーズ、バディネリ(管弦楽組曲第2番より~J.S.バッハ)
ラデツキー行進曲(J.B.シュトラウス)


 今日私がこのコンサートと行ったのはこのアンサンブルのメンバーの一人、圷英子さんからご招待を頂いたからなのですが、圷さんとは茨城大学クラシック・ギター部の同期で、かつての仲間が今でもこうしてギター・アンサンブル活動をしている姿を目にするのは、何かとても嬉しい気がします。

 1曲目の「イタリアーナ」はレスピーギの「古代のリュートのためのアリアと舞曲第3組曲」からのアレンジと思われますが、指揮者なしで演奏されたにもかかわらず、音の出などのタイミングがかなりよく合っていて、驚きました。当たり前のように思われるかも知れませんが、実際にギター合奏をやっていうる者からすると、これはなかなか難しいことなのです。仮に練習では合っていても、本番で、なおかつ1曲目で、しかも指揮者なしというと、どうしても多少の誤差は出てしまうものです。おそらく日頃精度の高い練習をしているのでしょう。

 指揮者が入った2曲目以降も、もちろんタイミングのずれのようなものはほとんどなく、特に曲の始まりとか、休符の後など、気持ちよいくらい音の出が合っていました。メンバー一人一人がよく周囲の音を聴いて弾いているということなのでしょう、また指導もたいへんきめ細かくなされているようです。どの曲も非常に安定したテンポで演奏されていました。

 「ジ・エンターティナ」は小編成のアンサンブルではありましたが、テンポ・ルバートで始まった冒頭部分などほとんどソロのようなテンポ・コントロールでした。

 「管弦楽組曲」からの4曲はホ短調に移調して演奏されていましたが、通常のギターのみの合奏と考えると、たいへん適切な選択だと思います。またギター合奏では演奏がなかなか難しい「ポロネーズ」や「バディネリ」もそれらを感じさせない見事な演奏だったと思います。ソロ・パート(ある程度分担)もたいへんよく弾けていました。

 アンコールとしてピアソラの「リベルタンゴ」(このアンサンブルのテーマ曲?)が演奏されましたが、演奏も編曲もたいへん良かったと思います。パーカッションを担当された方、たいへん見事でした。

 会場はお寺の中にあるホールで、床がじゅうたんなので、音のとおりはどうかなと思ったのですが、全く問題なく、たいへんクリアーに聴こえました。また立ち見の人も出るほど超満員で、会場全体が熱気を帯びた感じで、その分チューニングが不安定になりがちでしたが、それらにも配慮が行き届いていたようです。

 コンサート全体として、メンバーのギターや、コンサートにかける意気込みなどがたいへんよく伝わってきたコンサートだったと思います。同じギター合奏をやっている者として、とても刺激になりました。

 

 

 

バッハやヴィヴァルディ

 前回の話の通り、入学して2、3ヶ月くらいはただギターを弾くだけで、聴くのもギターのものだけだったのですが、夏くらいからはギター以外のクラシック音楽も聴くようになりました。ギター部の仲間には、ギターはあまり弾いたことがないが、一般のクラシック音楽やジャズなどに詳しい人も結構いて、彼らから「なんでそんなにギター弾けるのにいろいろ音楽聴かないの」と不思議がられました。彼らにはバッハやヴィヴァルディ、モーツアルト、ベートーベン、ショパンなどを聴かせてもらいましたが、それらのほとんどは初めて聴く曲ばかり。ヴィヴァルディの「四季」はその頃ブームになっていて、イ・ムジチ合奏団の「四季」は、クラシック・レコードの売り上げではそれまでの「運命、未完成」を抜いて第1位になっていましたが、私はその時初めて聴きました。バッハなどというのは中学校の音楽室の肖像画くらいでしか知りませんでした。ジョン・コルトレーンとかオスカー・ピーターソンなどのジャズも聴かせてもらいましたが、そちらの方はあまり馴染めないまま終わって(?)しまいました。


英語の授業で

 また一年生の教養部の英語の授業ではサリバン著の「ベートーヴェン」がテキストに使われました。この本は熱烈にベートーヴェンの音楽を讃えたもので、「ベートーベンの音楽はすべてが有機的に結びつき、苦悩、闘争、勝利、そして全人類へ向けての賛歌である」といったような内容だったと思います。音楽というのは聴いて耳ざわりが良ければよいというものではなく、その中に作曲家の思想や人生観が込められたものだということでした。その本の中でベートーヴェンの後期の弦楽四重奏は最高の音楽であると書いあったので、そのレコード(第15番)を買って聴いてみましたが、その時は重苦しい音楽であること以上のことは分かりませんでした(今では結構好きな曲になっています)。


FM放送

 またこの頃からFM放送でクラシックの音楽番組も聴くようになりましたが、最初のうちは知らない曲がほとんどでした。前述の英語の授業で出てきた「英雄」もその時はどんな曲だかわかりませんでしたが、FM放送で初めて聴きました、確かに英雄が馬に乗って走っているような感じかなと思いました(それはあの有名な肖像画のせいかもしれません)。またある時、なんかいい曲だなと思って、その曲(結構長かったが)が終わったあとのアナウンスを聴いてみると「ブルックナーの交響曲第何番」といっていて、この時ブルックナーなどという作曲家を始めて知りました。いい曲のような気がするけど、やたら長いなというのが感想でした。


卒業するまでには

 多少はギター以外の音楽も聴くようになったとはいえ、ギターはもちろんその後も弾きまくっていて、下宿で、部室で、練習場(例の3号館)で、と若干授業に出る以外は相変わらずギターを弾いていました。9月頃イエペスの「ゴールデン・アルバム」という2枚組のレコードを買いましたが、これは当時の感覚からすると、タイトルどおり超豪華なレコードで、レコード屋さんに何度も足を運んで、やっと決心して買ったものです。買ってから何度も繰り返して聴いたのは言うまでもありません。そのレコードには楽譜が付いており(当時はこういったものがよくありました)、その中でアルベニスの「朱色の塔」が気に入って若干弾いてみたのですが、当時は全く歯が立たず、なんとか大学を卒業するまでには、この曲が軽く弾けるようになりたいと思ったものでした。結局卒業するまでには間に合いませんでしたが、一応今は弾いています、軽くではないですが。


指揮者をめざして

 その年の12月には、ギター部の最大の行事である定期演奏会が行われて、私達1年生も全体合奏として4、5曲ほど合奏に加わりました。この定期演奏会へ向けての練習をしてゆく中で、私はぜひ指揮をしてみたいと思うようになりました。定期演奏会で指揮台に立つ先輩の姿はとてもすばらしいものに見え、ぜひ私もその場に立ってみたいと思いました。それ以来、私は指揮者になるための準備を始めました。

 指揮者になるためには、ギターが弾けるだけではなく、音楽一般の深い知識や、理解力が必要だと思い、まず和声法の勉強を始めました。最初は音楽の友社から出ていた「ギター基礎講座」を使いましたが、それだけでは不十分なので、一般の音大などで使われるようなテキストも使いました。指揮法は、小澤征爾の師でもある斉藤秀雄氏の「指揮法教程」を使いました。このテキストではいわゆる「叩き」を重要視しているので、「音の出」を合わせなければならないギター合奏にはたいへん向いていると思いました。ただ、部屋で一人で指揮の練習しているところを他の人に見られたりすると、ちょっとアブナイ人と思われてしまいそうです。

 今日=4月13日(日)、ひたちなか市アコラで、高田元太郎ギター・コンサートを聴きました。高田さんのプロフィールについてはアコラのホーム・ページの方で紹介されていますが、南米に渡り、A.カルレバーロ、 エドアルト・フェルナンデスなどの下でギターを学んだとのことです。プログラムは以下のとおりです。

J.S.バッハ : 無伴奏チェロ組曲第1番変ロ長調(原曲ト長調)

H.ヴィラロボス : 前奏曲第3番

A.カルレバーロ : 南米風前奏曲第1番、 第5番

レノン&マッカートニー ~ 武満徹編曲 : イエスタディ、 ヒア・ゼア・アンド・エブリフェア

A.バリオス : 郷愁のショーロ、 告白のロマンサ

A.ラミレス : アルフォンシーナと海

A.ピアソラ : ブエノスアイレスの秋

 最初のバッハのみ、19世紀ギターで演奏されました。19世紀初頭はギターでバッハの作品を演奏する習慣はまだなかったと思いますので、現実にはありえなかった組み合わせだと思いますが、高田さんの演奏はその19世紀ギターをリュートと見立てての演奏といった感じでした。サラバンドなどテンポの遅い曲は当時の流儀に従った装飾が十分になされ、また19世紀ギターの比較的軽めの音質ともあいまって、確かにリュートの演奏を彷彿させるものだったと思います。

 2曲目のヴィラ・ロボスの前奏曲第3番は、この曲が「バッハへの賛歌」と副題されていた関係で演奏されたものと思われますが、演奏は前の曲から一転して、現代のギター(今井勇一)の響きを十分に引き出したものだったと思います。本人の言葉では「会場の響きや、足台の高さなどを確かめる意味で」この曲を演奏したとのことでしたが、実際には19世紀ギターと現代のギターの違いを際立たせるためという意味があったのではないかと思われます。

 高田さんの音質は基本的には明るく、クリヤーな音だと思いますが、必要に応じて重厚な音や、ソフトな音など、いろいろな音を多彩に音を弾き分けられる人にも感じました。コンサートの前に行われたマスター・クラスでもわかるとおり、音楽を客観的捉える人だと思いますが、その一方ではギターという楽器から様々な響きや、ニュアンスを引き出す人で、聴いている人にギターの楽しさや、美しさを十分に伝えられる人にも感じました。

 休憩を挟まず、1時間と少々のコンサートでしたが、たいへん内容の濃いコンサートだったと思います。前述のマスター・クラスも具体的、且つ実践的なもので、すぐに役に立ちそうなものでした。

 なおアンコール曲としてブローウェルの「キューバの子守歌」が演奏されました。

クラシック・ギター部の練習が始まって

 私は1969年に茨城大学に入学すると、すぐにクラシック・ギター部に入部しました。このギター部では4月下旬から6月くらいまでは新入部員の指導期間ということで、上級生と新入生、合わせて10人前後のグループに分かれての基礎を中心とした練習を行っていました。教材としては溝渕講五郎編の「カルカッシ・ギター教本」が使われていました。これは当時のギター教室の教材として最も一般的で、他の大学のギター部などでも使われていたようです。当時のクラシック・ギター部では新入部員の指導には力を入れていて、約3ヶ月間は上級生と新入生が、ほぼマンツーマンで練習を行っていました(もっともこの年は圧倒的に新入生の方が多かったのですが)。さらに夏や春の合宿でも集中して基本の指導をしています。これは新入部員にとってだけではなく、教える側の上級生にとっても基礎をやり直す上で、たいへん良いことだったと思います。全くギターに触ったことのない人でも2、3年生くらいになると、かなり弾けるようになっていました。

 私はそれまで、それなりの年数ギターは弾いていたので、指だけは多少動きましたが、ギターの弾き方の基礎も、また音楽的な能力や経験、知識など全くゼロに近い状態で、この茨城大学クラシック・ギター部に入って初めてそれらのことを学ぶようになりました。例えばメトロノームに合わせたり、拍子を取るなどして、正確なテンポで音階やアルペジオを弾くこととか、それまではそうしたことをしなければならないこと自体全くわからなかったのです。もちろんすぐには出来ませんでした。またそれまですべての曲は暗譜してから弾いていたので、楽譜を目で追いながら弾くことは出来ず、どんな簡単な音階や単旋律などでも初見では弾けませんでした。またそれまで人前で弾くこともなかったので、音が小さく、か細い音だったのですが、ギター部の練習では同じ部屋で何人もの人が弾くので、自分の音が聴こえなくなり、自然と音も大きくなって行きました。また音色を気にしたり、爪を手入れすることなどもこの時から始めました。


下宿の住人、大家さん 

 入学した当初は、茨城大学のすぐ裏手のところに下宿していました。3畳の部屋で、最初はとても狭くてびっくりしましたが、一週間もするとすっかりと馴染んでしまい、文字通り「狭いながらも楽しい我が家」となりました。下宿人は私を含めて5人いましたが、各部屋の間仕切りはベニヤ板程度で、私の弾くギターの音はどの部屋にも筒抜けでした。でも皆、最後まで苦情らしきことも言わず、それどころか演奏会にもいつも来てくれました。また大家さん夫婦には、本当に親代わりとなりいろいろ心配していただき、私がそこを引越してからも、私を心配してわざわざ引越し先まで訪ねて来てくれました(確かに当時の私は安心して見ていられない状態だったのでしょう)。


一日中

 クラシック・ギター部に入部したことにより、それまでほとんど無に近かったギターに関する刺激や情報が、急激に私に入り込むことになりました。またそれまで全く一人きりでギターを弾いていたのが、突然大勢の趣味を共にする先輩や仲間も出来ました。これらのことにより、ギターを弾く楽しさが一気に増大し、ほぼ一日中ギターを弾いているようになりました。それまではギターを弾いていたとは言え、すごく好きというほどでもなく、暇つぶしに近い程度だったのですが、この時になって初めて、ギターが本当に好きになったと思います。ギター部に入ってからの数ヶ月間は、ギターさえ弾いていれば他に何もいらないといった状態で、どこかへ出かけたり、友達と遊んだりはもちろん、食事やお風呂の時間さえ惜しいくらいでした。

 そんなわけで、当時の私は楽譜さえあれば手当たり次第になんでも弾くという状況でした。前回の話の「アストゥリアス」や「モーツアルトの主題による変奏曲」など弾けるかどうかわからない曲から、「月光」、「ラグリマ」などの小品、音階やアルペジオ練習、カルカッシ・ギター教本。この中ではこの時期に音階やアルペジオ練習や比較的簡単な練習曲で出来ているカルカッシ・ギター教本をやったことはたいへんよかったと思います。これらによりそれまでギターに関して欠けていたものをかなり補うことができ、夏休みの合宿頃まではなんとか必要最低限の基礎は習得できたと思います。

 今いろいろ考えてみるとその当時は私がギターを弾くことについては好条件がいろいろ揃っていたのだと思います。まずなんと言ってもクラシック・ギター部に入部したことで、基礎から指導を受けることが出来たこと。クラシック・ギターに関していろいろな情報や知識を得ることが出来たこと。さらにギターを弾く場所や時間もあったこと(入学して2ヶ月もすると大学紛争で授業もなくなり、いっそう時間ができるようになりました)。また自分の演奏を聴いてもらう機会も増え、ギターを弾く楽しさだけでなく、聴いてもらう楽しさを味わったのもこの頃からでした。


何も考えずに

 ギターのレコード(もちろん当時はLPレコードです)を聴くことにも夢中になっていました。といっても自分で買ったの当時2枚しかなく(当時のレコードの価格は今のCDとほぼ同じくらいで、かなり高価なものでした)、よくギターのレコードを持っている先輩や仲間のところに聴かせてもらいに行きました。その先輩や仲間からすれば、遊びに来たのかと思えばただ黙ってレコードを聴いているし、変な、というか困った後輩、あるいは仲間だと思ったでしょう。私の方はそんなこと気にしませんでした。

 確かにこの時期は私の人生の中で、いろいろな意味でもっとも幸せな時だったかも知れません。ただギターさえ弾いていれば、それだけで楽しいという時で、他に何も考えませんでした。特に上手になりたいとか、コンサートで弾くとか、ましてコンクールに出たいとか、プロになりたいなど全く頭にはありませんでした。ただギターを弾いていればそれでよかったのです。

 入学して2、3ヶ月間はギター以外の音楽には全く興味がなく、音楽理論だの、音楽史だの、そんな理屈っぽいことなどにも全く興味がありませんでした。しかその年の夏を迎える頃から少しずつ状況も変化して行きます。これにもギター部の仲間たちがかかわってきますが、その話はまた次にしましょう。
 今日(4月6日)、「威風動々」と題された、つくば市ノバ・ホールで行われた木村大君のコンサートに行ってきました。今回は弦楽器グループ「ヘキサ・ノイズ」との共演で、以下の曲を演奏しました。

  エルガー:威風堂々
  アルビノーニ:アダージョ(弦楽とオルガンのためのアダージョ)
* ディアンス:フォーコ(リブラ・ソナチネより)
** チャイコフスキー:弦楽セレナードより
* ヨーク:ムーン・タン

  ディアンス:タンゴ・アン・スカイ
  アイルランド民謡:アメイジング・グレイス
  ロドリーゴ:アランフェス協奏曲第2楽章
  エルトン・ジョン:ユア・ソング
  レッドツェッペリン:天国への階段
* ヴィラ・ロボス:練習曲第12番
  サルトーリ:タイム・トゥ・セイ・グットバイ
  ヴィヴァルデイ:四季より「夏」第3楽章

  *は木村大の独奏、 **はヘキサ・ノイズのみの演奏
 
 主な曲のアレンジは木村大君自身がしたそうです。なお「アメイジング・グレイス」はつくばフィル合唱団が共演しました。

 約1000人ほど入る当ホールは満席状態で、木村大君の人気を物語っています。大君はヤマハのエレ・アコを使用とのことですが、スピーカーはステージの両端に置かれ、私の席から聴くと、ギターの音だけそのスピーカーの方から聴こえてくる感じでした。弦のほうはステージ中央から聴こえてくるので、ちょっと戸惑いました。最近では生の音に限りなく近いギター用のスピーカー・システムも存在しますが、大君の使用しているのは文字通り「エレ・アコ」で、一般のクラシック・ギターとは違ったサウンドになっています。

 弦楽とギターによるアランフェスは普段聴くものとはちょっと違っていて、新鮮な感じでした。「ムーン・タン」はアンドリュー・ヨークが木村大君のために書いた曲で、さすがに、この曲の演奏はこの演奏者でなければといった演奏でした。「タンゴ・アン・スカイ」はディアンス自身がギターと弦楽のためにアレンジしたもので、聴き馴染んでいるせいか、自然な響きに感じました。最後に演奏された「夏」第3楽章は自他ともに認める「速弾きギタリスト」ぶりを遺憾なく発揮し、会場を沸かせました。

 独自の演奏スタイルを築きつつある最近の木村大君ですが、その演奏に共感する人もいっそう増えていることでしょう。これからもより多くの人にギターの楽しさを伝えていってもらえればと思います。なおアンコール曲として、ヘキサ・ノイズによるクライスラー作曲「美しきロスマリン」、木村大、ヘキサノイズにつくばフィル合唱団も加わって再度「威風堂々」が演奏されました。


 
この年以来

  私はこの年(1969年)から水戸に移り住むことになりますが、これを機に私の生活は一変します。一言でいえばその後現在まで約40年間にわたり、ギターを中心とした生活が始まったわけです。つまり皆さんが知っているとおりの「中村俊三」にだんだんなってゆきます。

 この当時の水戸の街はあまり高い建物が少なく、駅舎もまだ2階建てで、高い建物というと泉町に二つほどデパートがあるくらいでした。また市街地も狭く、少しそれると田畑になっていて、現在のように市街地が広く分散していませんでした。しかしその分、繁華街が旧50号線沿いに水戸駅から大工町あたりまでに集中し、今に比べるとずっと人通りも多く、とても活気溢れた感じでした。バスの本数も多く、通勤する人や、買い物袋をかかえた人などでいつも満員でした。県庁や市役所なども市街地の中にあり、また郊外に大型店なども進出してなく、街がコンパクトにまとまっているだけ、現在よりもかえっていろいろ便利だったように思います。また偕楽園や千波湖もあまり整備されていなくて、素朴な味わいを残していました。


こんなにたくさん

 茨城大学にクラシック・ギター部があるということは、案内書などで事前に知っていました。それがこの大学を受験した理由の一つといえます。もし茨城大学に入学したらクラシック・ギター部に入るということは最初から決めていました。入学式(この時も過激派の学生が乱入してきましたが)を終えたその日にクラシック・ギター部の部室に入部申し込みに行ったと思います。相変わらずの汚く、狭い部室でしたが、その頃にはもう驚かなくなっていました。入部申し込み書の「ギター歴」の欄に6年(やや少なめに)と書いたと思いますが、部室にいた先輩たちはちょっと驚いていました。新入部員の大半ははギターに触るのが初めてだそうです。何か弾いてみてと言われて、少し怪しいところもある「アルハンブラの想い出」を弾くと、先輩たちから「すごいね、君、オレらより上手いじゃない」と若干入部祝いも込められた賛辞をもらいました。「アルハンブラの想い出」を自分以外の人が聴いているところで弾いたのは、この時が初めてです。

 正式な新入部員の練習は、まだしばらくないとのことでしたが、それまでの間、部室に行って先輩などから若干指導を受けたり、例の3号館で、上級生の合奏の練習を聴いたりしていました。ギターの合奏はその時初めて聴きましたが、20人くらいの人が同時に弾く音はギターの音とは思えないような響きがしました。しばらくして新入生の正式な練習が始まってびっくり、なんと新入部員が50人くらいいるのです。せいぜい10~20人くらいをイメージしていましたが、上級生も含めれば70人前後となります。それまで私の周囲にギターを弾く人人などほとんどいなかったので、ギターをやる人がこんなにもいるのかと驚きました。


アストゥリアス

 これまでギターに関してはなんの刺激も情報もないところでやってきたので、この茨城大学のクラシック・ギター部に入ったことで、それまで経験しなかったそれらの刺激や情報が一度にやってきて、入部した当初は一日一日が驚きの連続でした。毎日が興奮状態といってもよいかも知れません。新入部員の練習が始まった頃、練習場にOBで講師の荻津節男先生(その後いろいろお世話になる先生ですが)がいらっしゃって、何曲が聴かせていただきましたが、その中に「アストゥリアス」もあり、この曲は曲名だけ知っていたのですが、実際に聴いてみてとても感激した覚えがあります。

 さっそく楽譜を買ってきてすぐに始めました。私の小さな手ではなかなか音が出ないところもあり、ちゃんとは弾けないのですが、例のごとく覚えるだけは2、3日で覚えたと思います。なおこの楽譜は阿部保夫編で、「アルハンブラの想い出」や「モーツアルトの主題による変奏曲」、「スペイン舞曲第5番」などクラシック・ギターの超有名曲が入っていて、阿部氏自身が演奏したレコードもセットになっていました。このレコードにより、やっと私もギターの有名な曲を知ることができたのです。そのレコードを溝が擦り切れるくらい聴いたのは言うまでもありません。


マテキ?

 入部してすぐの頃、部室で先輩がテレビのギター教室のテーマ曲を弾いていました。でもその曲はなかなか終わらず、10分近くあったように感じ、私が聴いたことがあるのは最初の方だけでした。弾き終えた先輩に「その曲、ギター教室のテーマじゃないんですか」と聴くと「『マテキ』って言うんだ」と言っていました。その当時モーツアルトに「魔笛」というオペラがあることなど知りませんから、その後しばらく私の頭の中にはその曲のことをカタカナで「マテキ」という風にインプットされてしまいました。おかげで前述の楽譜とレコードを買った時もなぜ、「モーツアルトの主題による変奏曲」と「マテキ」が同じ曲なのかわかりませんでした。もちろんこの曲もすぐに練習始めましたが、「アストゥリアス」よりは難しく、こちらはなかなか弾けるようにはなりませんでした。今ででもこの曲をステージで弾く時は結構練習します。