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中村俊三 ブログ

中村ギター教室内のレッスン内容や、イベント、また、音楽の雑学などを書いていきます。

最近聴いたCD ジュリアーニ:ギター協奏曲集 2


 これまでこのジュリアーニのギター協奏曲第1番はほとんど弦楽合奏版で演奏されていたと言いましたが、その半数くらいは展開部(中間部)を大幅に省略していることも言いました。スコアを見ながら聴いていると、これがびっくりするくらいの、とんでもない省略なのです。音楽的には最も変化に富み、作曲する側からすれば力の見せ所と思われる展開部のほとんど全部を切り捨て、再現部の少し手前のほうで、ただ調性的に矛盾しないというだけでつないでしまっています。その結果3~4分ほどの時間短縮になるのですが、その意味はどれほどあったのでしょうか。このショート・カットを最初に行ったのはジュリアン・ブリーム(1960年代後半の録音)と思われますが、それをウィリアムス、ペペ・ロメロ、フェルナンデスなどが踏襲しているのはなぜなのでしょう。


 もっともブリムームの”つぎはぎ”やショート・カットは一種の「お家芸」で、ジュリアーニの「ロッシニアーナ」やデアヴェリの「ソナタ」などでも行っていますし、大序曲にも若干省略があったように記憶しています。カッテイング編の「グリーン・スリーブス」もその一つでしょう。そう考えると、ドイツのギタリスト、ジークフリート・ベーレントがやはり1960年代にイ・ムジチ合奏団と録音したものは原曲どおりで好感が持てます。隅々まで原曲に忠実かどうかはわかりませんが、展開部をちゃんと演奏していたように思います。LPの再生装置をかたずけてしまったので確認は出来ません、CD化はされているのでしょうか? また山下和仁、ウイリアムスの再録なども省略なしで演奏しています。


 というわけで、たいへん親しみやすく、内容的にも優れた曲であるわりには、これまでだいぶ邪険な扱いをされてきたジュリアーニのギター協奏曲第1番ですが、これからは正しく演奏され、正等な扱いをされてゆくことを期待します。


 第1番の話だけになってしまいましたが、「第2番」、「第3番」となるとさらに演奏されたり、録音されたりすることは少なくなります。「第2番」、「第3番」は1970年代の半ばにペペ・ロメロが指揮者のネビル・マリナーと録音していて、おそらくそれが初録音だと思います。こちらはそれまで演奏されなかったことが幸いして、省略する習慣も簡略版のようなものもなく、最初から「原曲どおり」の演奏になっています(たぶん)。


 「第2番」はギターと弦楽合奏の形になっていて、第1番と同じイ長調で書かれていますが、フォルテの和音と行進曲風のメロディで溌剌と始まる第1番と対照的に、弦の静かな調べで始まり、3曲の中では最も落ち着いた曲になっています。また一方では主要なメロディやギターのパッセージなどは第1番と類似した点もあります。弦のみオーケストラは柔らかい響きがしますが、1番と同様、明るく透明な響きがします。


 なおこCDのソロは第1番と同じマッカリ、使用楽器も同じという事で、やはりちょと不明瞭です。ペペ・ロメロ盤では、モダン楽器(ベラスケス?)を用いたぺぺ・ロメロの音が華麗でクリヤーなのと、ソロ・ギターがやや大きめにも録音されていて、少なくともギター・ソロに関しては、たいへん聴きやすいCDになっています。多少リアルでない点もあるかも知れませんが。オーケストラもモダン・オーケストラで(ネヴィル・マリナー指揮、アカデミー・オブ・セント・マーチン・イン・ザ・フィールズ)、弦の数も、そう多くはないとしても、このCDのオーケストラ(アンサンブル・オットチェント)よりは多いでしょう。


 「第3番」は通常のギターよりも短3度、つまり3フレット分高い「テルツ・ギター」で演奏するようになっています。 オーケストラは弦5部の他、フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴット、ホルン、トランペット、ティンパニ、と「第1番」のフル・オーケストラ版よりさらにトランペットとティンパニーが加えられ、文字通りの「フル・オーケストラ」になっていて、ベートーヴェンの交響曲などの編成とほぼ同じになっています。弦のピッチカートとティンパニーの掛け合いで始まるところなど工夫がされており、オーケストラの扱いも第1番よりもずっと進歩がみられ、3曲中最もオーケストラ部の聴き応えがあります。このCDでもギターの音域が短3度高せいか、1、2番に比べるとギターの音は比較的よく聴こえます。なおこの曲は、プリエーゼが演奏し、Vite e Antonio Garganese 1880のテルツ・ギターを使用しています。ペペ・ロメロ盤ではさらにギターは華麗に聴こえます。


 ちなみに、この曲の第2楽章はモーツァルトの「ピアノ・ソナタイ長調 K331」の第1楽章を引用しています。第1変奏も似ていることから、何となく似てしまったのではなく、明確に「引用」しているのでしょう。いずれにしてもこの第3番は第1番に勝るとも劣らない名曲だと思いますが、やはり演奏される機会は極めて少ないようです。この曲が、国内で原曲どおりフル・オーケストラ版で演奏された記録があるかどうか私にはわかりませんが、今後、どこかの冒険心のあるオーケストラがベートーヴェンの序曲や交響曲などと組み合わせてプログラムに載せたりすることはないのでしょうか。ギターには特に興味のない一般の音楽ファンにとっても、たいへん興味深いコンサートになるのではないかと思います。
 

 このマッカリとプリエーゼには3枚組のCDに収めた「ジュリアーニ:二重奏曲全集」もあって、有名な「協奏的二重奏曲作品130」など他、珍しい曲などもたくさんあり、こちらもなかなか楽しめます。

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最近聴いたCD  ジュリアーニ:ギター協奏曲集


ジュリアーニ:ギター協奏曲第1番イ長調 Op.30
       同 第2番イ長調 Op.36
       同 第3番ヘ長調 Op.70
       ギターと弦楽のための大五重奏曲ハ長調Op.65
       ジェネラーリの「ローマのバッカス祭」の主題による変奏曲Op.102

 クラウディオ・マッカリ(g) OP.30 OP.36
 パオロ・プリエーゼ(g) Op.70 Op.65 Op.102 
 オーケストラ  アンサンブル・オットチェント



 ジュリアーニのギター協奏曲は3曲残されていて(4曲という話もあって、もう1曲の作品番号は129なのだそうですが本当なのでしょうか?)、特に第1番(Op30)は、有名で演奏される機会も多いものです。第1楽章は行進曲風の主題を持ち、はつらつとした躍動感に溢れ、とても親しみやすい曲です。第2楽章はシチリアーナ風の感傷的なメロディ、第3楽章は軽快なポロネーズになっています。モーツアルト風とか、ベートーヴェン風とか言われたりもしますが、よく聴けばやはり”ジュリアーニ風”と言ったほうがよいでしょう。イタリア的な明るさと透明感を持った曲だと思います。


 この第1番の初版(1908年)は二管編成のフル・オーケストラのために書かれていましたが、後に弦楽合奏とテンパニー(省略される場合も多い)版、あるいは弦楽四重奏版なども出版されました。これまでの録音ではほとんどが弦楽合奏版で、さらに半数以上がジュリアン・ブリームのように展開部のほとんどを省略した形になっていました。私自身ではこれまでフル・オーケストラ版のスコアだけ持っていましたが、そのフル・オーケストラ版の演奏は一度も聴いた事がなく、今回このCDを入手し、やっと聴くことができました。このCDがフル・オーケストラ版の初録音かどうかはわかりませんが、少なくとも現在手に入るものでは唯一のフル・オーケストラ版なのではないかと思います。


 フル・オーケストラ版と弦楽合奏版では冒頭のオーケストラによる主題提示部はかなり違っていて、弦楽合奏版は単純に管楽器のパートを弦楽器に移し変えただけではなく、ほとんど作曲しなおしている感じです。もっともギターが入ってからの後続の部分はほとんど変わりませんから主題などの素材は同じものを用いてということです。弦楽合奏版の方がどちらかと言えば、簡潔によくまとまっていて、効率的に主題を提示している感じです。それに比べフル・オーケストラ版は接続部分などのやや「無駄」が多いのですが、本格的な管弦楽曲にしようという意志も感じられ、その「無駄」も味わいの一つかなと思います。


 このCDの解説では、ソリストのクラウディオ・マッカリ(Claudio Maccari)は、19世紀初頭のギターであるカルロ・ガダニーニ(Carlo Guadagnini 1812)を使用し、オーケストラも半数くらいは当時のオリジナル楽器を使用しているとのことです。オーケストラは、フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴット、ホルンがそれぞれ2本、弦楽は5部で13人、計23名の編成となっています。


 このCDを聴いた限りでは、他の弦楽合奏版による演奏に比較すると、このフル・オーケストラ版は重量感や迫力がある、というよりむしろ繊細な感じに聴こえます。演奏のしかたにもよると思いますが、他の弦楽合奏版による演奏の方が、勢いとか躍動感とかはあるように思います。このCDのギター・ソロは19世紀ギターを使用し、それに従い、爪を使用しない「指頭奏法」と考えられ、高音は柔らかいといえば柔らかいのですが、あまりクリアーには響かないようです。また録音環境の影響でか、ギターの響きや余韻は豊かなのですが、その分個々の音は不鮮明に感じます。


 「当時の演奏スタイルに出来る限り忠実に」というコンセプトに基づいてCDを制作しているものと思われ、録音的にもギターの音量はかなり抑えられています。おそらくこの曲の初演時には、コンサート会場で「このように響いたであろう」ということでCDを製作したものと思われます。確かに考え方としては十分納得出来、このようなCDは絶対に必要なものと思いますが、一方では曲の内容や、ギタリストの意図などがイマイチ伝わって来にくく、多少欲求不満も感じてしまうのも事実です。オーケストラのほうは、ヴィヴラートを使用していないのと、音程がとてもよいことで、たいへん澄んだ響きになっています。


 ところで、このジュリアーニのギター協奏曲のCD、現在では他にどのようなものが入手可能なのでしょうか。インターネットで調べた限りでは、カテマリオ(おそらくイタリアのギタリスト)のCD(このCDとほぼ同じような企画。オリジナル楽器使用と思われますが、第1番は弦楽合奏版)が入手可能なようで、あとはウィリアムスとフェルナンデスのものがアランフェスのオマケとしてあるくらいなようです。以前はもう少しいろいろなものがあったようなのですが、最近はかなり少なくなってしまったようです。アランフェス協奏曲などはは次から次と新たにCDが発売され、また古い録音も再発されたりするのですが、ジュリアーニなど他の作曲家のギター協奏曲のCDはあまり新譜も再発も少ないようです。ギター協奏曲の世界も格差がいっそう激しくなっているのでしょうか。


 実演となるとさらに極端で、オーケストラの演奏会でアランフェス以外のギター協奏曲が演奏されることなど滅多にないのが実情のようです。ジュリアーニに限らず、ヴィラ・ロボスやテデスコ、ポンセ、ブローウェル、アーノルドといったギター協奏曲の名曲が、通常のオーケストラの公演でプログラムにのるのは極めて珍しいことでしょう。もっともオーケストラ側からすれば協奏曲はあくまで「客寄せ」で、少しでも知名度が高く、人気のある曲をということになり、当然のごとくアランフェス協奏曲に集中するのでしょう。またギタリストのほうで協奏曲によるコンサートを企画し、オーケストラに出演を依頼するということなれば、曲目等は自由になりますが、それはそれで膨大な費用がかかり、やはり実現は難しくなります。


 私自身、アランフェス協奏曲以外のギター協奏曲を演奏会で聴いたのは2回だけで、1回目は1972年に、「ギター協奏曲の夕べ」と題して、当時たいへん人気のあった若い4人のギタリスト、菊池真知子さん、芳志戸幹雄さん、荘村清志さん、渡辺範彦さんが、東京フィル・ハーモニーと、それぞれテデスコ:ギター協奏曲第1番、ジュリアーニ:ギター協奏曲第1番、ある貴紳のための幻想曲、アランフェス協奏曲を弾くといったものでした。人気ギタリスト4人の共演と、めったに聴けないギター協奏曲の演奏会とあって会場はとても熱気に溢れていた記憶があります。このコンサートはその4人のギタリストの人気と、当時のギター・ファン(みんな若かったが)の熱気とで実現したコンサートかも知れません。菊池真知子さんのテデスコは、多少緊張した様子も見られましたが、とても印象的でした。


 もう一つは1976年、イエペスが東フィルとアランフェス、ある貴紳、とルイス・ピポーの「3つのタブラス(事実上ギター協奏曲)」を演奏したコンサートです。この時のピポーの「3つのタブラス」はとても印象に残っています。これはイエペスというカリスマ的ギタリストによって実現したコンサートでしょう。でもやはりアランフェスはプログラムに載りますね、これをはずすと演奏会が成り立たないのかも知れません。
今日(5月25日 日曜日) つくばカピオホールで行われた「第7回ギターフェスティバル in つくば」を聴きに行きました。出演団体は以下のとおりです。


ギターアンサンブル”ルピナス”
守谷ギターアンサンブル
SUMIギターアンサンブル
ホーム・ギターアンサンブル
ギターアンサンブル・リベルタ
玉里ギターフレンズ
筑波大学ギター・マンドリン部
アコースティック・ライフ・フレンズ

ゲスト出演  ギター・デュオ・いちむじん



このコンサートは第7回目ということですが、私自身は初めて聴きました。つくば地区のギター合奏愛好団体が集ってということですが、それにしても県内にこんなにギター・アンサンブルのサークルがあったとは知りませんでした。


 1983年~2001年にかけて「ギターのつどい」というコンサートがあって、これには茨城大学、筑波大学、茨城キリスト教大学などの各ギター部の他、私のところの水戸ギターアンサンブルなどが出演していました。多い時には7~8団体くらいの参加団体があったのですが、最後には茨城大学、キリスト教大学のギター部が部員不足から事実上活動停止となり、残念ながら2001年が最後になってしまいました。偶然なのでしょうが、その「ギターのつどい」が終わった次の年にこの「ギターフェスティバル in つくば」が発足したことになります。かつてはギター合奏の担い手は、主に大学のギター部だったのが、現在は一般の愛好団体が中心というように、ギター合奏の重心がシフトしたことを象徴しているのかも知れません。


 参加団体も、演奏された曲数も多いので、個々の感想などは控えますが、500人程のキャパと思われる、このカピオ・ホールが熱気につつまれていたことは間違いのないことです。4時間にも及んだこのコンサートですが、途中で帰った人はあまりなく、ほとんどの人は最後まで熱い拍手を贈っていました。


 ゲストの「いちむじん」の演奏ですが、評判などは聞いていましたが、実際に聴いたのは初めてです。若くて、テクニックのあるデュオということで、「ジョンゴ」などは得意なレパートリーなんだろうなと思っていましたが、思った以上というか、リズムも音色も、あるいは音楽そのものがしなやかで、柔軟性に富み、変化のあるものでした。ショパン(ワルツ第7番を原曲どおり「嬰ハ短調」で弾く)やドビュッシーもそれぞれに合った音で演奏するなど、音色の幅が極めて広いのには驚かされました。すぐれた技術を持っているのは確かですが、それ以上に音楽的イメージの豊かなデュオなんだろうと思いました。


 
 本県の新たなギターの文化と伝統が生まれつつある、などというとちょっと大袈裟かも知れませんが、少なくとも本県のギターの愛好熱は益々高まってゆくのかなという気がしました。


 個人的ですが、圷さん、本当にお疲れ様でした。
 今日のミニ・コンサート(ギター文化館)に来ていただいた方々、本当にありがとうございました。今回はルネサンスやバロックなど古いものの演奏で、曲名などはピンとこないものも多かったかも知れませんが、とても耳になじみやすい曲だと思います。

 カポタスト使用とかダウン・チューニングとか、ギターの音域を変えると、また違ったギターの音色とか、表情が出て、面白いのではないかと、自分では思っています。

 シャコンヌはここでは2度目で、前回よりは少しよくなったかなと思います。技術的とか、音楽的とかはもちろんですが、10数分間集中を持続するといった意味でも、やはり難しい曲ですね。

 なおアンコール曲はシルビウス・レオポルド・ヴァイス作曲の 「ファンタジア ハ短調」 でした。
 明後日(5月11日 日曜日)、ギター文化館で中村俊三ギター・ミニ・コンサートを行います。なお詳細は4月25日、26日の当ブログの記事を参照して下さい。



2:00~2:30  イタリアのルネサンス・リュート曲 (実際の演奏時間は2:00~2:40)

4:00~4:30 シャコンヌなどのバッハの作品 (実際の演奏時間は3:50~4:30)


     使用楽器  ヘルマン・ハウザーⅢ(1983年)


ぜひ聴いていただければと思います。
私のギター修行 20



<スタート・ライン~最終回>



5年生でも定期演奏会に

 3年生の冬頃ギター部をやめ、4年生の頃は精神的にも行き詰っていましたが、しだいに落ち着きをとりもどし、5年生(?)になって復部しました。

 とはいってもこの頃にはギター教室の仕事も始まり、また地学科に移って授業にも出るようになったので、正規の練習にはほとんど出ず、暇な時に部室にたむろする程度でした。

 でも定期演奏会にはしっかりと独奏(グラナドス:スペイン舞曲第5番、トロバ:マドロニョス)と協奏曲(バッハ:ヴァイオリン協奏曲ホ長調)のソロ・パートをやらせてもらいました(強引にやってしまった?)。

 またこの頃から、顧問の先生やギター部の後輩たちと麻雀をやるようになり、卒業してからも結構やっていました。

 多い時には週に3、4回やっていたと思います。 そのメンバーとは今でも時折、卓を囲んだりしますが、相変わらず麻雀は強くならないようです。



現役なのに講師?

 6年生になると、私は在学中にもかかわらず荻津先生に代わって「講師」に任命されました。 まあ、ていの良い追い出しといったところでしょう。

 その後20年間ほど断続的に後輩たちの指導をしましたが、90年代の半ば頃にはその講師の肩書も自然消滅となってしまいました。




吉田秀和氏の著作

 ギターの方は松田先生に習ったあと、特に先生について習う機会もなくなってしまいましたが、それ以後はギターの演奏技術よりも一般的な音楽を勉強しようという気持ちの方が強くなり、いろいろな音楽を聴いたり、音楽に関する理論書や評論集などを読んだりすることの方が多くなりました。

 その頃からFM放送で聴いたのをきっかけに吉田秀和氏の著作も読むようになりました。

 また音楽史には特に興味を持ちましたが、音楽史を理解するにはヨーロッパ史、あるいは美術史も勉強しなけらばならないと思い、それらの関係の本も読むようになりました。




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水戸芸術館の館長でもあった音楽評論家、吉田秀和の若い頃の写真。 吉田氏の著作は大部分読んだ。




「茨城大学6年生の中村さん他」

 6年生の時、ギター部の後輩で、当時4年生だった高矢君と小笠原君と一緒に茨城県民文化センターで、コンサートをやりました。

 それが自分で企画した最初のコンサート、あるいは自分の独奏を中心とした初めてのコンサートでした。

 その時新聞社者の人から電話があり、いろいろ聞かれたあと、「何年生ですか」という質問に「6年生です」と答えたら、新聞にそのまま「茨城大学6年生の中村さん他」と紹介されてしまいました。

 自分のコンサートを新聞などで紹介してもらったのも、この時が初めてです。

 高矢君、小笠原君は、音楽的な知識も、音楽を聴く耳も優れていれ、彼らには音楽的にたいへん啓発されました。




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大学6年の時には高矢君(左、現在ギター・ショップ・カリスのオーナー)などと初めてのコンサートを行った。




教える事の難しさ

 5、6年生の頃は、一応授業に出ながらも、週に4~5日くらいギター教室の仕事をしていて、結局卒業してからはそれが本業となりました。

 しかしまだまだ自分のギターの演奏能力や、音楽的な知識、経験はもちろん、教え方など全くわかっていなくて、勉強しなくてはならないことだらけでした。

 同じ教えるといってもギター部の学生を教えるのと、一般の人、それもレッスン料をいただいて、なお且つ生活をかけて教えることとは雲泥の差です。

 教えることの難しさは今もって大いに感じる事ですが、ともかくもその試行錯誤の毎日が始まりました。

 卒業しても日々の生活そのものは特に変わりませんでしたが、しかし学生でなくなったということは気持ちの上では大きく、本当にこの仕事を続けて行けるのだろうかという不安、あるいはプレシャーは大きくなりました。

 アルバイト気分でギターを教えていた時と、本業としてギターを教えるのとでもかなり違いました。




中村ギター教室

 大学を卒業すると、それまで住んでいた部屋を出て、現在の住居に比較的近い所に家を借りました。

 その自宅でもレッスンをするようになり、「中村ギター教室」 が発足しました。

 さらに数年ほどして現在のところに引越し、今現在に至っています。




スタート・ライン

 以上のように私は、1975年に茨城大学を卒業し、ギタリスト(自称?)としての生活が始まりました。

 しかしこの段階では前述の通り、ギターの方もですが、特に人間的には本当に未熟で、「私のギター修行」 はまだまだこれからというところですが、でも何とかスタート・ラインには立てたということで、話はこの辺にしたいと思います。




心から感謝の気持ちを

 こうして振り返ってみると、私が成長し、この仕事に就くにあったっては、本当にいろいろな人の暖い気持ちに支えられてきたことを、あらためて感じました。

 この場がふさわしいかどうかわかりませんが、そうした方々に心から感謝の気持ちを伝えられればと思います。

 長い、長い自己紹介になってしまいました。

 お付き合い下さった方々、本当にありがとうございました。

 
  
私のギター修行 19



<大学卒業>



理学部地学科    

 大学4年生の頃は一時期、精神的な不安定も手伝って、大学をやめようと思っていました。

 しかし4年生の終わり頃にはやや落ち着きを取り戻し、また荻津先生からギター教室を何ヶ所か任されるなど、多少ギターの方でやってゆく見通しもつきかけてきたので、多少年数はかかっても大学は卒業しようと考えるようになりました。

 当時茨城大学の理学部には地学科(現、地球物理学科)もありましたが、その頃はまだ正式な学科になっていなくて、教養部から専門の学部に進級する際に他の学科などから転科する形になっていました。

 幸いにして転科に必要な単位はとっていたので、普通の学生より2年遅れにはなりますが、新規一転、地学科に転科して卒業を目指すことにしました。

 もっとも地学科は正式の学科ではないので、形の上では物理学科在籍で、卒業も物理学科卒業ということになります。




地学科の授業

 地学科は当時、先生が3人に学生が私を含め6~7人と、こじんまりした学科でしたが、とても家庭的な感じで、先生や他の学生たちと親しくすることが出来ました。

 時折先生方はじめ、地学科のメンバーで飲みにいって、いろいろ話を聴かせていただいたり、また語り合ったりしました。

 地学の授業は、時には野外実習があったり、また資料作成などの細かい手作業があったりで、いつもピリピリとした雰囲気だった物理の授業に比べ、何かほっとするものがありました。

 地学科に移ってからはギター教室の仕事も結構ありましたが、授業にはちゃんと出て、必要な単位は修得し、卒業研究も仕上げることが出来ました。

 卒論の先生である高橋先生には、とても親身に指導していただきましたが、私がギターの方に進むということも理解していただき、また私の演奏会にも聴きに来ていただきました。




卒研発表会

 私の卒業研究は 「水戸層における放散虫の研究」 というものでした。

 放散虫というのは海中の微生物の殻の化石で、当時まだよく研究されていない分野でした。

 偕楽園や那珂川沿いに露出している地層(水戸層=新生代、第4紀、更新世)から岩石を取り出し、研究室でそれを砕いて、顕微鏡を見ながら小さな化石を一つずつ筆先で拾い出しました。

 合計数千個ほど集めて、当時なされていた分類法によって分類しました。

 卒論発表会は地学科のOB(ほとんどの人は地学の先生!)がたくさん列席している前で行います。

 拙い卒論ではあったと思いますが、そういう人たちの前で発表するのは、緊張もしましたが、自分も一端の地学科卒業生になれた気がして、今では楽しい思い出の一つです。



Haeckel_Cyrtoidea.jpg 私の卒業研究は 「水戸層における放散虫」 の研究だった。  新生代更新世の海中に浮遊している生物の微化石の収拾と分類といったもの。




僕の卒業証書ありますか?

 卒業式の日になりました。私は2年遅れで、卒業式に出るのが恥ずかしかったので、式が終わった頃を見計らって、事務局に卒業証書をもらいに行きました。

 不思議に思うかも知れませんが、この時は私はまだ自分が卒業できたかどうかはっきりわからなかったのです。

 卒業近くなっても特に大学の方から通知が来るわけでもなく、ただ自分自身で修得した単位数を計算して 「単位は足りている」 と思っているだけですから、どこかで計算違いとか手違いなどあれば 「あなたの卒業証書はありません」 と言われる可能性もあったのです。

 事務局で 「物理学科の中村ですが、僕の卒業証書ありますか?」 と聴くと、その事務の人は私の質問には答えず、

 「物理学科の中村君ね・・・・  はい、これ」

 といって卒業証書と卒業証明書を渡してくれました。

 とてもほっとしました。 ちゃんと単位は足りていると確信はしていたのですが、証書をもらうまでかなりドキドキでした。

 私自身としてはそれほど卒業にこだわったわけではないのですが、両親のことを考えると、絶対必要なものと思いました。

 卒業証書はつい最近まで、栃木の実家の、いつも父が座っているところのすぐ上にずっと掛けてありました。

 卒業証明書の方は、結局使うことは一度もありませんでした。




大学生活6年間

 という訳で普通の人より2年余計に大学生をやりましたが、そのほとんどはギターや、音楽に携わって過ごしていました。

 肝心な勉強、特に専門の物理学の方はたいして理解できずに終わってしまいました。

 しかし結果的に数学、物理学、地学などをほんの少しずつ学び、またそれまであまり興味のなかった文学や、芸術、西洋史などにも興味を持つようになりました。

 6年間が終わってみれば、どの分野においても深い知識は得られませんでしたが、「広く、浅い」 知識は身に付けることが出来たと思います。

 今の仕事を考えれば、それはかえって良かったのではないかと思います。

今日(5月4日)石岡市のギター文化館で第3回シニア・ギター・コンクールが行われました。前日予選で、ミドルエイジ(35歳以上)、シニアエイジ(55歳以上)それぞれ6名ずつが選ばれ、今日の本選では、それぞれ10分以内の自由曲が演奏されました。本選出場者と演奏曲目、そして最終順位はつぎの通りです。

<ミドルエイジ>

第1位 志賀和浩 (東京都)  序奏とロンド イ短調 (D.アグアード)

第2位 鈴木幸男 (茨城県)  ファンタジア(ヴァイス) サラバンド、ジーグ(ポンセ)

第3位 種谷信一 (埼玉県)  「魔笛」主題による変奏曲 (ソル)

第4位 佐舗(さじき)政男 (栃木県)  そのあくる日(ゲーラ) プレリュード ホ長調(ポンセ)

第5位 村上尚代 (千葉県)  そのあくる日(ゲーラ) ワルツ第3番(バリオス)

第6位 渡辺史明 (神奈川県)  グランドソナタ Op.22より第3、4楽章(ソル)


<シニアエイジ>  

第1位 川田隆夫 (北海道)  ノクターン「夢」Op.19 (G.レゴンディ)

第2位 上野恵子 (神奈川県)  わが心よ、君ゆえに(ポンセ) アルハンブラの思い出(タルレガ)

第3位 丸田文男 (神奈川県)  ポロネーズNo.6 愛の歌 (メルツ)

第4位 河田重之 (岐阜県)  ワルツ・ファボリート (コスト)

第5位 菅原貞司 (宮城県)  「魔笛」主題による変奏曲 (ソル)

第6位 村田 浩 (栃木県)  6つの喜遊曲Op.8より第1番、第2番  ソナタOp.25よりメヌエット(ソル)



 なお、審査員は、 小原聖子  大沢一仁  藤井敬吾  佐藤純一  角圭司  の5氏で、聴衆からのアンケートも行われましたが、それぞれの第1位は同じ結果となりました。




 ミドルエイジの1位、志賀さんはアグアードの難曲を美しく、しなやかな音で見事に演奏しました。テンポや音量、音色、間の取り方など、たいへんよくコントロールし、音楽の起伏をうまく表現していたと思います。

 同2位の鈴木さんはヴァイスに関る3曲をたいへん美しい音で演奏しました。若干”ゆらぎ”を用いた「ファンタジア」、イン・テンポを基調とした「サラバンド」、「ジーグ」などテンポのコントロールには相変わらず優れたものがあると思いますが、やや控えめに用いたヴィヴラートもよい効果を出していたと思います。「アマチュア・ギター・コンクール」、「埼玉ギター・コンクール」と3回目の「2位」となりましたが、安定した力を持ち、それが多くの人に認められてきた証明だと思います。

 3位の種谷さんは昨年は2位で、順位を一つ落としてしまいましたが、ギターらしい美しい音を出していたのは昨年同様で、実力者であることは誰もが認めるところでしょう。コーダで若干集中を欠いてしまったのが結果の主な要因と思われますが、審査員長から譜読み違いがあったと指摘もありました。



 シニアエイジの1位の川田さんは第1回(1昨年)のミドルエイジの優勝者で、順当な結果かも知れません。レゴンディの難曲をしっかりと仕上げてきた感じです。


 2位の上野さんは独特の雰囲気を持った人のように思いました。ギターは余韻の楽器といわれますが、自分の楽器の余韻、あるいは会場に漂う響きを聴き取れる人なのかも知れません。

 3位の丸田さんの演奏は、和音をよく響かせるということが特徴だと思いました。そういう意味では出場者の中で群を抜いていたと思います。ただその分上声部などが不鮮明に聴こえてしまった気もします。



 上位入賞を逃した人の中ではシニアエイジの河田さんの演奏は印象に残りました。本選出場者のうちの最年長者(66歳)ですが、この人のイメージの中には音楽がしっかりと出来上がっているのかなという感じがしました、確かにそれが現実の音になりきってない部分もあるのですが。おそらく音楽経験がたいへん豊かな人なのではと思いました。

 また2番目の年長者(65歳)の村田さんの演奏にも好感が持てました。ほとんどの出場者は若いときからギターをやっていると思われますが、村田さんはギターを始めたのは比較的最近だそうです。、昨年よりもいっそう進歩が感じられ、また正しく音楽を学んでいる様子も感じ取れます。


 今年も昨年に増して熱い戦いが繰り広げられました。上の順位表でもわかるとおり、出場者は関東近辺にとどまらず、全国に拡がっています。残念ながら本選出場を果たせなかった方々、またあと一歩で上位入賞を逃した方々、気持ちだけは若いギター愛好家の方々、 来年も熱い演奏を期待しています。
私のギター修行 18



<ギターへの道>



将来のための唯一の選択肢

 4年生になってしばらくすると、物理学の授業には完全についてゆくことが出来なくなり、ほとんど授業にも出なくなりました。

 さらにそれまで生活のすべてだったギター部もやめ、精神的にも行き詰ってしまいました。

 学業のほうでの将来の見通しが全くつかなくなったその状況では、私は自分の将来をギターにかけるしかありませんでした。

 それが冷静考えて、自分の将来の仕事としてふさわしいかどうか、あるいは私にその資格があるかどうかではなく、それがその時の私が、私自身の将来のために出来た唯一の選択でした。




荻津節男先生

 もちろんプロのギタリストになるために具体的にどうしたらよいかなど全くわかりませんでしたが、まず何と言っても自分の実力を付けるしかないと思い、ギター部のOBでもあり、講師でもあった荻津節男先生のところに習いに行くことにしました。

 荻津先生には時には時間を忘れ、たいへん丁寧にレッスンをしていただきましたが、私がギターをちゃんと習うのはこの時が初めてです。

 先生からは「カルカッシ25の練習曲」などのレッスンを受けました。

 入門してすぐに発表会にも出していただきました。 

 「曲は何にする?」 と聞かれ、発表会まで1ヶ月足らずにもかかわらず、その時点でほとんど弾いていなかったポンセのイ短調組曲の 「アルマンド」 と、ヴィラ・ロボスの 「練習曲第1番」 と答えていました。 今では考えられません。



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私(中央)の左側が荻津節男先生。 荻津先生に習い始めるとすぐにそこの音楽教室の講師になった。



ギターのほうだけじゃなく、話し方とかもね

 荻津先生にはレッスンだけでなく個人的にもいろいろ相談に乗っていただきました。

 自分から切り出した訳ではないとは思いますが、確かにそんな雰囲気を醸し出していたのでしょう。

 荻津先生の方から 「中村君、プロになりたいの?」 と言って下さいました。

 「そう、じゃ、いろいろ勉強しなくちゃね・・・・ ギターだけじゃなく、話し方とか、弾けるだけじゃ教えられないからね」

 といった内容のことを、その時先生はおっしゃられた思います。

 その頃の私は、どちらかと言えば無口な方でしたが、たまに口を開くと、相手の考えや立場など全く考えず、また何の気遣いもせず、一方的に自分の考えをしゃべりまくったりしていたと思います。

 おそらく相手の人に不快な感じを与えたりしたことも多々あったのではないかと思います。

 さらにそのことに気が付かなかったことが大きな問題だったでしょう。




ギター教室の仕事

 荻津先生に習うようになって数ヶ月経った頃(4年生の夏)から、先生の暖かい心遣いで、土浦市や水戸市内などのギター教室の講師の仕事をいただくようになりました。

 それまでギター部で後輩たちを指導したりはしていたのですが、実際に一般の人を教えるのはずい分と違いました。

 また年齢や個人差も大きく、使用している教材もほとんど人によって違うので、それにも困惑しました。

 初めて見る曲も結構多く、初見で生徒さんに弾いて聴かせたり、楽譜を見るだけで曲の内容を把握しなければならないこともよくありました。

 もちろんそれが十分にこなせたわけではありませんが、私自身にとってよい訓練になったのは確かです。

 翌年になると(5年生=まだ在学中)さらに仕事をいただき、日立市や、石岡市、水戸市などの音楽教室で週に4~5日、ギターを教えるようになりました。




松田晃演先生

 また荻津先生に習い始めて7~8ヶ月くらいたった頃(4年生の秋)、荻津先生から他の先生に習ってみるように薦められ、石岡の一ノ瀬(現性、北村)さんの紹介で、当時東京にいらっしゃった松田晃演先生のところに習いに行きました。

 松田先生は、アンドレ・セゴビアに師事し、また渡辺範彦さんや、菊池真知子さんなどのすぐれたギタリストを育て、NHKテレビのギター教室の講師なども担当した、たいへん評価の高い、権威ある先生でした。




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松田先生のレッスンでは、音色、音量、テンポの変化など、先生の弾いた通り、つまり ”完コピー” が要求された。
チューニングは順番を待つ間に、そっと先生のギターに合わせておかなければならない。





初級から

 松田先生のところではカルカッシやカルリなどの初級の練習曲を中心にレッスンを受けました。

 松田先生のレッスンは簡単なものから、きっちり表情付けを行うというレッスンで、先生の意図をその言葉や先生のギターの音から読み取らなければならないのですが、それは当時の私にとってとても勉強になりました。

 また簡単な曲でもちゃんと弾けばやはり良い曲になるということも学びました。

 さらに間近で聴く先生のギターの音はとても美しく、開放弦ですらとても柔らかく、ふっくらとした音でした。




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このような単旋律の簡単な曲でも細かな表情付けを指導された。 譜面の書き込みはすべて松田先生によるもの。




他の生徒さんのレッスンを聴いて覚えた方が多かった

 目黒のあった松田先生のレッスン室には私と同年代くらいの多くの生徒さんが習いに来ていました。

 したがってレッスンの番が回ってくるまでにはかなり時間がかかり、実際にレッスン受ける時間は10~20分程度でした。

 それだけでは、わざわざ東京まで出てくる意味がないので、順番が回ってくるまでの間と、自分のレッスンが終わった後に、楽譜を見ながら他の人のレッスンをずっと、3時間くらいは聴いていたと思います。

 実際には松田先生のところでは直接レッスン受けて覚えた事よりも、そうして他の人のレッスンを聴いて覚えた事のほうが多かったと思います。




そっと小さな音で先生のギターの音に調弦する

 また、その先生の貴重な時間を無駄遣いする訳にはゆかないので、チューニングは、順番を待っている間に、そっと先生のギターの音に合わせておきます。

 そうして実際に自分の番が、回ってきた時には、先生のギターの音と完全に同じ音にしておかなければなりません。

 たまに先生にチューニングを直されると、かなり失敗した気持ちになります。

 松田先生には、先生が東京を離れるまで、1年弱ほど習いました。




両親に

 両親にはいつ私がギターで仕事をしてゆくということを言ったのか、あまり記憶が定かでありませんが、おそらくぼちぼちギター教室の仕事などを始めていた頃だと思います。

 両親といっても相変わらず父とは正面から話が出来なかったので、母に話しただけですが、特に驚きも反対もされず、「あ、そう」というくらいな感じだったと思います。



察しは付いていた

 それまでの私の行動などから、ある程度察しはついていたのでしょう。

 母には大学在学中に2度ほど楽器(富田修、ホセ・ラミレスⅢ)を買ってもらったり、また定期演奏会には毎回来てもらっていました。

 母が「お前は私の父親の血をひいて芸事の才が・・・・」と言っていたのは、だいたいこの頃です。

 結局のところ、私は祖父の芸事の才も、また放蕩癖も受け継ぎがなかったことは、前に言ったとおりです。