ヴィヴァルディ:ヴァイオリン協奏曲集
「四季」作品8-1~4 ヘ長調(3つのヴァイオリン)RV.551 ニ短調 RV.128
『人間的情熱』
ホ短調 RV.277「お気に入り」 ニ長調 RV.234「不安」 ハ短調 RV.199「疑い」
ホ長調 RV.271「恋人」 ハ長調 RV.180「喜び」 ト短調 RV.153「変わり者」
『祝祭日のための協奏曲集』
ニ長調 RV.212「パドヴァの聖アントニウスの聖なる舌の祝日のために」 ホ長調 RV.270「安らぎ」
ヘ長調 RV.286「聖ロレンツォの祝日のために」 ニ長調 RV.582「聖母昇天のために」
ハ長調 RV.581「聖母昇天のために」 ニ長調 RV.208「LDBV」
violin : Giuliano Carmignola Sonatori de la gioiosa Marca
耳にタコが出来るほど
今年の夏はそんなに暑くないなんて思っていたら、このところだいぶ暑くなってきました。でもまだ35度を超えたりはしていないのですから、まだまだなのでしょうけど。
ヴィヴァルディは普段あまり聴かないのですが、なぜか暑くなると聴いてしまいます。ヴィヴァルディの音楽の風通しのよさが夏向きなのかも知れません。
ヴィヴァルディは、確かに最近はあまり聴かなくなりましたが、クラシック音楽を聴くようになった当初はよく聴きました。当時は一般的にもバロック音楽、特にヴィヴァルディの「四季」の人気が高かった頃でした。私自身ギター以外で最初に買ったLPレコードが、イ・ムジチ合奏団のヴィヴァルデイのバイオリン協奏曲「海の嵐」と「3つのヴァイオリンのための協奏曲ヘ長調」がそれぞれ表裏に入っていた17センチのLPだったと思います。当時は他にほとんどレコードを持っていなくて、そのレコードを1日に何度も聴いていたように思います。文字通り「耳にタコが出来るほど」聴いたレコードです。
サービス過剰?
「海の嵐」のほうは有名な曲ですから、後にCDでも買いましたが、いわゆるB面の「3つのヴァイオリン」のほうは相当マイナーな曲のようで、なかなかCD化されないようでした。しばらく前からそのCDを探していたのですが、今回なんとか見つかりました。「3つのヴァイオリンのための協奏曲ヘ長調」と書きましたが、実は何調かはわからなくなってしまっていて(もちろんRV551などということも)、「もしかしたらこれかも知れない」と買ってみたら、ビンゴだったというわけです。
あまり一般的に知られている曲ではなさそうですが、個人的にはヴィヴァルディの中では結構気に入っている曲です。特にピチカートの伴奏に乗ってヴァイオリンが美しいメロディを奏でる第2楽章はなかなかのものだと思います。
というわけで久々にこの曲を聴くことが出来たのですが、昔聴いたイ・ムジチのものとはだいぶ違っており、特に第2楽章はヴァイオリンがかなり装飾を加えて、ほとんど元のメロディ・ラインがわからなくなってしまっています。オリジナル楽器系の演奏だったので買う前からある程度覚悟はしていたのですが、ちょっと残念でした。演奏者としては原曲をさらに楽しめるようにとあれやこれや装飾を加えるのでしょうが・・・・ウーン、なくてもいいかな・・・・
夏にはやはり
このCDを買ったもう一つの理由に「恋人」、「不安」、「疑い」、「安らぎ」の4曲が入っていたからなのですが、これもかつて「愛の詩」と題されたイ・ムジチのLPでよく聴いた曲です。これもまえから探していたもので、懐かしい曲を久々に聴けてたいへん嬉しかったです。演奏はいかにもオリジナル系らしく、きびきびとしていて決して悪くはないのですが、でもこれを聴くと、やはりイ・ムジチの何とも物憂げな、まとわり付くような、あの感じが懐かしい、あの演奏をもう一度聴いてみたい、特に夏の暑い日にはあのベトベト感がたまらない・・・・・・・
もっともこのCD(Carmignolaの)の「四季」の方は、情景描写など、確かにおもしろい演奏で、このCD全体的にも演奏そのものはたいへん優れていると思います。21世紀の今現在ではイ・ムジチのような演奏は時代遅れというか、正しいヴィヴァルディの演奏法とは言えないかも知れません。でも一度その味を知ると・・・・・
ただ暑くてたまらない時にはヴィヴァルディの協奏曲が合うのは確かだと思います。
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昨日(7月20日)は、午前中つくば市で行われた<ギター・フェスティバルinつくば>の実行委員会に出席した後、水戸市民会館で行われた<あひる会合唱団第47回定期演奏会>を聴きに行きました。プログラムは、前半がガブリエル・フォーレの曲と野口雨情作詞の曲、後半はモーツァルト最晩年の大作、レクイエムです。
私自身はあまりこうした合唱関係のコンサートにはあまり行く事がないのですが、あひる会の演奏は市民音楽会で時々聴いていました。でもこうしてまとまった形で聴くと、やはり実力の高い合唱団なjだなと思いました。美しく、しっかりとした響き、何と言っても演奏者全員の意思統一がなされているような気がしました。
なんと言ってもこの日のメインは後半のレクイエムだと思いますが、私がめずらしくコーラスのコンサートに足を運んだのもこの曲に大いに関係があります。会場いっぱいに広がる響きに、モーツァルトが最後の力をふりしぼって書いた名曲の魅力が生で、直接伝わってきた感じがしました。「ラグリモサ」の最後のアーメンなど、演奏者も聴衆も、その会場にいた人は皆、同じような感動を覚えたのではないかと思います。
「音楽はどんな時にも美しくなければならない」と語り、実際にそれを実行していたモーツァルトですが、死に直面した時、ベートーヴェンのように悟りきったような穏やかな音楽は書かなかったようです。死に直面したモーツァルトは、その死を恐れ、悲しみ、振り乱して絶叫しているような感じが、私にはします。でもそれは裏返せば生きる事を讃えることなのかも知れません、モーツァルトのオペラではどんな端役にでも生命感溢れる音楽を書いています。
同じ死に関する音楽でも前に書いたシューベルトの「冬の旅」のように、ともすれば聴くことに苦痛を感じるようなことは、このモーツァルトの曲にはないように思います。死を恐れ、悲しむことは、言い換えれば生を喜ぶことに他ならないからなのでしょう。「冬の旅」では前に言ったとおり、最後には死を悲しむどころか、死を望むこともしなくなり、生とか死とかに全く無関心になってしまいます。これこそ本当に恐ろしいことだと思います。
それにしてもこのレクイエムは前述の「ラグリモサ」の「アーメン」のところを聴くと、ここで曲が完結してしまったような感じがします。実際はここのところがちょうど曲の半分にあたります。モーツァルトはこの曲の最初の<イントロイトゥス>と<キリエ>をほぼ完成させた後、この<ラグリモサ>の8小節まで声楽部分とバスを書いて力尽きてしまいました(よくご存知のことかも知れませんが)。曲全体は弟子のジェスマイアーによって完成され、特に後半はジェスマイヤーの作曲といってもいいようです。そんなこともあってこの曲の前半と後半とでは、聴く人に訴えかけるものはやはり違うようです。
このコーラスの伴奏に使用したのは2台のエレクトーンでした。以前ヤマハ音楽教室などで仕事をしていたので、当時よくエレクトーンの音は聴いていたのですが、今回聴いたエレクトーンの音は実際のオーケストラの音をかなり忠実に再現していて、本当にオーケストラのように聴こえます。またこれはクラリネット、これはトロンボーン、などと楽器の種類も判別できます(もっともこのクラリネットはオリジナルではバセット・ホルンなんだそうで、そのどちらの音を出していたのかはわかりません)。弦の響きもかなりリアリティがあり、テンパニーの音も本当にテンパニーに聴こえます。以前に比べるとエレクトーンもだいぶ変わったようです、これならギター協奏曲などにも十分使えそうです。
水戸市民音楽会、1日目が終わりました。年々参加団体が増え、今年は52団体となり、今日の出演団体も26団体ということで、13:00~17:00までたっぷり4時間のコンサートとなりました。特に器楽関係の団体が増え、中国の民族楽器の「二胡」のアンサンブルや、大正琴などが今回新たに加わりました。
私たちの水戸ギター・アンサンブルはホルストの惑星よりジュピターを演奏しました。いつも講師の長谷川先生からは、とても丁寧な励ましの言葉をいただいていますが、先生の講評を原文どおりに載せておきます。
水戸ギター・アンサンブル
組曲「惑星」よりジュピター グスタフ・ホルスト作曲 中村俊三編曲
音に一体感のある、まとまりのよい響きをつくり出していました。ゆっくりのテーマから始まり次第に盛り上げてゆく手法も見事であったと思います。中間部のテンポはもう少し速めの方が効果的であったかも知れません。ギター・アンサンブルの「ジュピター」は初めて聴かせていただきましたが、中音域がとても効果的で面白かったです。アンサンブルとしては、とても完成された美しい演奏でした。ありがとうございました。
講評 水戸市教育委員会 指導主事 長谷川眞人
なお、私自身はまた明日もステージのドア・マンをやります。
7月12日(土)、13日(日)、13:00~16:00 水戸芸術館で水戸市芸術祭市民音楽会がおこなわれ、7月12日(土)に、私たちの水戸ギター・アンサンブルが出演します。この音楽会は両日あわせると、出演団体が52団体あります。開演時間は両日とも13:00で、私たちの出番は12日の7番目なので、14:00少し前くらいになるでしょう。
各団体の持ち時間は7分ということで、私たちの水戸ギター・アンサンブルではホルストの組曲「惑星」より「ジュピター(木星)」を演奏します。
出演団体の約3分の2くらいは合唱関係ですが、他に、マンドリン、オカリナ、ハンドベル、弦楽、ブラスなどのアンサンブルもあります。入場は無料です。
私個人的には実行委員となっているので、両日にわたって、裏方をやらなければなりません。
今日(7月6日)、つくば市、ノバ・ホールで村治奏一ギター・リサイタルを聴きました。曲目は以下のとおりです。
F.ソル : 第7幻想曲 作品30
G.レゴンディ : 序奏とカプリス 作品23
J.S.バッハ : シャコンヌ BWV1004
G.レゴンディ : ノクターン「夢」 作品19
I.アルベニス : セビーリャ
A.バリオス : ア・ミ・マドレ 過ぎ去りしトレモロ
アーレン/武満徹編 : オーバー・ザ・レインボー
ジョビン-モラエス/ディアンス編 : フェリシダーヂ
*アンコール曲として
R.ディアンス : フォーコ(リブラ・ソナチネより)
F.タルレガ : アルハンブラの想い出
奏一君の演奏は去年の12月以来と言うことになります。前回は本当に久々に奏一君の演奏聴いたので(CDなどを別にすれば)、以前とはずい分違った感じで、数段成長した姿に驚きました。今回はある程度様子もわかっていたので、その分落ち着いてじっくりと聴けました。
今回のプログラムは前回にも増して、古典やロマン派の音楽に重点を置いたものになっています。最近の若いギタリストは現代的でおしゃれな曲を弾くのが本当に上手になっていますが、こうした19世紀くらいまでの音楽に正面から取り組む人は、決して多くはないと思います。技術や感性だけでは済まない点もあるのでしょう。
レゴンディの2曲の演奏は奏一君ならでは演奏で、華麗で、なお且つ表情の変化にも富むものでしたが、今回特に印象的だったのはソルの曲で、和声の動きや変化を、聴く人にたいへんよくわかるように演奏していたことです。何か和音の中の一つ一つの音の役割を考え、それに応じた音を出しているような感じでした。決して和音のバランスがよいとか、低音がきちんと鳴っているとかいったようなレヴェルではないように感じました。
バッハのシャコンヌを、奏一君は原曲(ヴァイオリン)の譜面をそのまま、低音を付け加えたり、オクターブ下げたリしないで演奏しています(6弦も「ミ」のまま)。1998年に東京国際ギター・コンクールで優勝した時からそう弾いていたと思います。全体にとてもさわやかなシャコンヌになっていましたが、低音を付加しない分だけ、どうしても和声感が出にくいと思いますが、余韻を残したり、重ねたりしながらそれを補っていたように思いました。
アルベニスのセビーリャは私などにとっては相当な難曲ですが、奏一君にとっては普通の曲でしょう、確か小学生の頃から弾いていたように記憶しています。この曲では奏一君の「熱い」一面も聴けました。バリオスも得意なレパートリーなのでしょう、ア・ミ・マドレは音色にとても気を配った美しい演奏、過ぎ去りしトレモロはトレモロの1音1音に神経の行き届いた演奏でした。
最後に演奏したフェリシダーヂはやはりすばらしく、拍手もひときわ大きかったようでした。アンコール曲として演奏されたフォーコはかなり速く演奏されましたが、決して暴走ではなく、適度な速さに感じました。この曲はエンディングが面白いのですが、その「特殊効果音」もよく出ていて、とても楽しめる演奏でした。アルハンブラの想い出は2小節の「序奏」付。
奏一君は今後しばらくはニューヨークに本拠をおいて活動してゆくとのことです。しばらくはアメリカと日本を行ったり来たりしながら演奏活動ということになるそうですが、国内でのコンサートも今後増えてゆくでしょう。
昨日(7月5日) ひたちなか市、アコラで、Giverny Salon(愛好家の集い)が行われました。自由演奏会の演奏者と曲目は次のとおりです。
中川真理子、中村俊三 : カンタービレ(ランクラージュマンより~ソル)
熊坂勝行 : ロンド作品48-6(ソル)
代永英雄 : ひまわり(マンシーニ)、 メヌエット(ボッケリーニ)
名川晴美 : アルハンブラの想い出(タルレガ)
西田尚輝 : 月光(ソル)
尼子 : 練習曲作品6-2、6-11、6-1 (ソル)
熊坂勝行 : 前奏曲第2番(カルレバーロ)、愛のワルツ(ノイマン)
またミニ・コンサートとして私が以下の曲を弾きました
ホアキン・マラッツ : スペイン・セレナード
イサーク・アルベニス : アストゥリアス、グラナダ、カディス、朱色の塔、コルドバ、セビーリャ
(アンコール曲として) ローラン・ディアンス : タンゴ・アン・スカイ
今回はいつもに比べると、演奏した人はやや少なめでしたが、聴きに来た人を含めると約十数名の参加者でした。アコラ管理人の熊坂さんは今回上記の3曲を披露しましたが、そう言えば毎回異なる曲を演奏しているのではないかと思います。今回は高橋達男氏製作によるアントニオ・トーレスの小型ギターのレプリカによる演奏でしたが、よく響いていました。演奏内容も3曲ともすばらしかったと思います。
私の演奏曲目のうち、アルベニスの6曲は11月29日のひたちなか市文化会館でのリサイタルで弾く予定の曲で、それぞれ2~30年くらい前から弾いている曲なので、もう少し完成度を上げたいところもありますが、それは11月の時までとっておきましょう。
フェデリーコ・モンポウ:ピアノ作品全集 ピアノ:フェデリーコ・モンポウ
ギター愛好者には「コンポステラ組曲」の作曲家として知られている、フェデリーコ・モンポウの4枚組のピアノ作品全集を聴きました。演奏もモンポウ自身によるものです。
モンポウ(1893~1987年)はスペインのバルセロナ出身ですが、この1893~1987年という生没年はアンドレ・セゴビアと同じです。そういえばスペインの音楽家は長寿の人が多いですね、カザルスやモレーノ・トローバも90歳以上の長寿でしたし、ロドリーゴは1901~1999年と、ほとんど20世紀の間生きていました。
このCDの録音は1974年、つまりモンポウが81歳の時と記してあります。作品としては1911~1967年にかけてのもので、初期の作品はいわゆるロマン派風の感じで、ショパンや、シューマンに近い感じがあります。アルベニスやグラナドスに近いといってもよいかも知れません。また全作品を通じて静かな曲が多いのはこの作曲家の特徴なのでしょう。ピアノ演奏の技術的なことは私にはよくわかりませんが、なんといっても作曲者自身の演奏なので、この音楽がというものなのかを知るには、最も信頼できる演奏だと思います。
この全集の中で私達にとって最も身近に感じるのは、やはり1921~1962年に作曲された12曲の「歌と舞曲」でしょう。これはスペイン、特にカタルーニャ地方の民謡をもとにしていて、ギターをやっている人には馴染みのあるメロディがいろいろ出て来ます。第3番には「聖母の御子」、第7番には「あととりのリエラ」、第8番には有名な「アメリアの遺言」と「糸をつむぐ娘」など、リョベットの編曲カタルーニャ民謡集で馴染みのある曲が次々に出てきます。「アメリアの遺言」もリョベットとは違う和声付けですが、メロディ・ラインにはあまり違いはなく(ト短調になっていますが)、雰囲気としてはあまり変わらない感じがします。ギターで聴きなれた曲を別の楽器とアレンジで聴くのはなかなか興味深いものです。
また前述の第3番の「舞曲」の部分はコンポステラ組曲の終楽章「ムニェイラ」によく似ていて、同じリズムで出来ています。また第6番の「舞曲」は南米風のリズムをもち、なかなか面白いです。またこの全集には入っていませんが、「第13番」はギターのためにかかれ、カザルスの演奏で有名な「鳥の歌」のメロディを用いています。その他の曲も有名な旋律を用いているものと思われ、私達の知らない素材の曲でも、とても親しみやすく感じます。これらの曲はギターをやっている人にとってはとても楽しめる曲だと思います。
1938~1957年に作曲された「ショパンの主題による変奏曲」はショパンの前奏曲Op28-7をテーマにし、それに12の変奏が付けられています。どちらかといえばやはり静かな変奏が多いのですが、マズルカ風とかワルツ風というのもあります。テーマはショパンの原曲どおりのようです。因みにこの曲はタルレガもギターに編曲しています。
晩年の作品で1959~1967年に書かれた「Musica Callada」は「沈黙の音楽」または「静かな音楽」と訳すのでしょうか、これは曲名どおり静かな曲ばかりで、コンポステラ組曲とは作曲年代もほぼ同じで、近い印象があります。この頃になると作風は初期の調性的な音楽から教会旋法などを用いた音楽に変わっているようです。コンポステラ組曲は自然短調、またはフリギア調などの教会旋法を用いています。
因みにフリギア調とは長音階(普通のドレミファソラシド)を3番目の「ミ」からはじめたもの、「レ」からはじめたものは「ドリア調」、「ラ」からはじめたものは「自然短調」となります。これらの音階は、おおよそで言えば、「明るさ」が違うようです。参考までに、これらを暗い方から順に並べると以下のようになると思います。なお、比較しやすいように、すべての音階を「ミ」を主音とするものにしました。
フリギア調(「ミ」を主音とした場合)
ミ ファ ソ ラ シ ド レ ミ
自然短調
ミ ファ# ソ ラ シ ド レ ミ
ドリア調
ミ ファ# ソ ラ シ ド# レ ミ
長調
ミ ファ# ソ# ラ シ ド# レ# ミ
と言うわけで単純に#の数が少ない方が暗く、多い方が明るいと考えてよいのではないかと思います。フラメンコやスペイン音楽でよく用いられるフリギア調は短調(自然短調)よりも暗いというわけです。ドリア調は短調と長調の間で、もちろん長調が一番明るい感じがします。ドリア調で有名な曲といえばS.サイモンの「スカボロ・フェア」が挙げられると思いますが、この曲の透明感というか、中性感のようなものは、この短調と長調の間のドリア調を用いていることと深くつながっていると思います。
話がちょとそれてしまいましたが、モンポウの晩年の作品は、主にこれらの自然短調を含めた教会旋法によって作られています。前衛的という訳ではありませんが、伝統的なヨーロッパの音楽、特に19世紀のロマン派的な音楽とは一線を画しているようです。モンポウにはもともと派手な感じの曲は少ないのですが、晩年になると益々静かな曲ばかりになります。ちょっと聴いてすぐに面白いと思える曲は少ないのですが(前述の聞き覚えのある曲を別にすれば)、聴いているうちに、いつの間にか心に残ってしまうというような、そんな作品の数々だと思います。