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中村俊三 ブログ

中村ギター教室内のレッスン内容や、イベント、また、音楽の雑学などを書いていきます。

本 006



  進化しすぎた脳   池谷裕二   BLUE BACKS  講談社


 今回は音楽の本ではありませんが、ギターを弾くことにまんざら無関係なことではありません。特に私の仕事にはとても関係の深いものだと思います。この本のタイトルからすると人間がだんだん宇宙人かエスパーのようになってゆくような内容に思われるかも知れませんが、決してそういったものではなく、またオビに「しびれるくらいに面白い!」と書いてあり、確かに面白い本だとは思いますが、この本を読みながら「しびれた」人がいるのかどうかはわかりません。要するにわりと「普通」の脳関係の本と言えると思います。普通と多少違う点があるとすると、この本は著者が「高校生と会話」するといいた形をとっており、この種の本としてはわかりやすく、また読みやすいといった点だと思います。そういった点では確かに「オススメ」の本と言えます。



「読譜」や「暗譜」にも

 この著者の専門分野は神経薬理学だそうで、記憶をつかさどると言われている海馬の研究家でもあるようです。この本では記憶に関するものだけでなく、脳の働きなどに関して全般的に書かれています。この本を読んで今まで知らなかった点もたくさんありましたが、私自身で今までなんとなくそう思っていた事などが、整理されて文章で書かれていると感じた点もあります。特に第3章で書かれている「人間はあいまいな記憶しかもてない」では、一つ一つの内容に納得のゆくものでした。前に私がこのブログで、「ギター上達法」の「読譜力」や「暗譜」のところで書いた内容には、この章からの影響はかなりあります。


忘れるのも理由がある

 「正確な記憶」といった点では人間よりもむしろ他の動物のほうが優れていると言っています。人間は例えば風景などを見たとしてもそれを写真のように記憶することは出来ません、普通は「遠くに山が見えた」とか「高い建物」があったとか、そんな感じだと思います。稀に一度見ると写真のように記憶する人がいるようですが、これは逆に脳になんらかの障害があった場合のようです。この本で書かれているのは人間はある理由があって、あるいは進化の過程であいまいな記憶しか持てなくなったのだそうです。


記憶よりもカン

 人間は何らかの情報を得た時。それを抽象化あるいは一般化して記憶するのだそうで、それによってその情報をいろいろな場面で利用するのだそうです。もし完璧な記憶だとそれを他の事柄に利用でないということなだそうです。今まで出くわしたことのない事柄でも(厳密には同じことは二度と起こらないから、すべては初めての出来事かも)、なんとなく「カン」でその対処法がわかるというのも、その「抽象化」のおかげだそうです。


いかに抽象化するか

 「ギター上達法」の中で「暗譜が速いことが、必ずしも上達につながらない」と書いたと思いますが(こういった内容のことは書いたと思いますが、正確にこう書いたかどうかは『記憶に』ありません!)、まさにこのことだと思います。特に「丸暗記」のようなことはかえって害があるなどということも言ったと思います(これも同様)。曲をわりと短期間で丸暗記するタイプの人は意外と楽譜が読めなくなる、特にハイポジションなどがよくわからない人が多いなどということも、この「一般化」あるいは「抽象化」に問題があるのかも知れません。またこれまでたくさんの曲を練習してきたのに、新しい曲になるとまた弾き方がわからなくなったり、間違えた弾き方、あるいはこれまでの経験を活かせないと言う人もいますが、それもこの「抽象化」に関係があるようです。ギター上達のためにはこれまで練習してきた曲そのものを記憶することではなく、それらの曲を練習してきたことをいかに「抽象化」出来るかということのようです。


「魔笛」は誰々流

 例えば有名なギタリストのマスタークラスなどを受講したとしても、大事なのは「この音はやや強く」とか、「ここは絶対にテンポをキープしなければならない」とかいった個々の事柄を克明に記憶することではなく、そのギタリストのレッスン、あるいはそのギタリストの考え方を、自分の中でいかに「抽象化」するかといったことなのでしょう。場合によっては一回そうしたレッスンを受けることにより、それ以後の音楽や演奏についての考え方などが一変することもあるでしょう。また逆に「魔笛」は誰々流で、「アルハンブラの想い出」は別なギタリスト、「シャコンヌ」はさらに別なギタリスト流と、受講したギタリストの教えそのままにバラバラに身に付けてしまっている人なども現実にはいるのではないかと思います。


言葉は感情や思考の道具

 話がこの本から少し離れてしまいましたが、この本の中では「言葉」に関しても書いてあって、もともと言葉は他の人とのコミュニケーションのために生まれたものと思われますが、人間はその言葉を自分自身の中で思考することにも用いています。思考だけでなく悲しいとか嬉しいとかいった感情にも関り、いわゆる人間らしさとかいったものも言葉に大きくかかわっています。脳の活動すべてではないにしろ、人間の脳の活動には言葉が大いに関係しているのは確かでしょう。またそれが人間と他の動物との違いを鮮明にしている点かも知れません。


だいたい

 この話題については、まだまだ話したいことはあるのですが、この辺でやめておきましょう。因みにこの本についてのことは私の中で「抽象化」されたものにより書かれているので「だいたい」のことは合致していますが、あくまでも「だいたい」です。


 ・・・・・・・もしかしたら 『だいたい』 というのは私の好きな言葉かも知れません。


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 前回の続きといった感じになりますが、サリエリのCDを聴きました。一つは「序曲集」でオペラの序曲を12曲集めたものと、もう一つはサリエリの代表作の一つと言われるオペラ「オルムスの王アクスール」全曲です。サリエリの曲は例の「アマデウス」でちょっと聴いたはずですが、もちろんほとんど覚えていません。確かその映画の中では凡作の象徴のような形で出てきたような気がします。


 と言うわけでサリエリの曲を聴くのは実質上初めてということになります。序曲集の方から聴いてみると、とても親しみやすい感じというか、それぞれどこかで聴いたことのあるような旋律が出てきます。かといってそれが何の曲だったかは思い出せません。本当は聴いたことがあるわけではなく、一度聴くと何となく耳について、聴いたことがあるような気がするだけなのかも知れません。ハイドンやモーツアルトの曲より覚えやすい感じがします。メロディの美しさ、劇的効果といったものは十分ある感じがしますが、構造的にはあまり複雑ではないようです。


 「オルムス王のアクスール」はダ・ポンテの台本による1787年頃の作品で、時期的には同じポンテの台本で書かれたモーツアルトの「フィガロの結婚(1885年)」、「ドン・ジョバンニ(1787年)」などとほぼ同じ時期に書かれています。もともとは「タラール」というフランス語のオペラ、つまりパリでの公演のために作曲されたオペラだったそうですが、パリで当たったために、オーストリア皇帝、ヨーゼフⅡ世の命でイタリア・オペラに書き直されたものだそうです。この序曲こそ本当にどこかで聴いたことがあるように思うのですが、思い出せません。もしかしたらギターに関係ある曲かも知れません。


 このCDはRene Clemencic指揮、Orchestra Firarmonica di Russe他の演奏ということで、その演奏者などについては全くわかりません。1980年代の録音ですが、ライブ録音らしくあまり音質はよくなく、特にオーケストラの音は何か遠くで鳴っているような感じです。サリエリの音楽としては声楽が入った方がより優れているのではないかと感じます。またマンドリン伴奏のアリアが出てきたり、テンパニーを効果的に用いたりとか楽しめる曲が結構あります。フィガロの結婚の有名なアリア「もう飛ぶまいぞ、この蝶々」を彷彿させる曲などもあります。


 19世紀中頃から20世紀後半くらいまで、おそらくほとんど演奏されなかったと思われるサリエリのオペラですが、最近では結構上演もされているそうで、またCDもたくさん出ています。もしかしたら映画「アマデウス」とサリエリの音楽の復活とは何らかの関係があるのかも知れません。だとすると、とんだ「ぬれぎぬ」だったこの映画もサリエリにとっては悪いことばかりではなかったかも知れません。


 話は変わりますが、先日、家で水戸ギター・アンサンブルの新年会をやった時、メンバーのSさんがモーツアルトのピアノ協奏曲第23番の第2楽章が好きだという話になり、CDをかけてみました。この曲はシチリアーナ風の嬰へ短調の憂いを帯びたとても美しい曲で、「アマデウス」でも確かタイトル・バックになっていたような気がします。モーツアルトが作品を残した様々なジャンルの中でもこの「ピアノ協奏曲」というのは格別な気がします。モーツアルトのピアノ協奏曲ではピアノ「だけ」が主役ではなく、他の楽器、特に管楽器にも大きな役割が与えられています。特に第2楽章ではそれぞれの楽器がまるで会話をするごとく美しい旋律を奏で合い、それにピアノが、そのパーティのホストのように会話にからんできます。もちろんそのピアノはモーツアルト自身が弾くためのものだったでしょう。

 「アントンのやつ今日ばかに調子いいな、この前、カミさん出て行ったなんていっていたけど、戻ってきたのかな・・・・ ハンスめ、なんだって一番いいところではずすんだ、そらそうだよな、昨晩あんなに飲んじゃ、だからここらでやめとけって言ったのに・・・・」なんてまわりに気を配りながら自らは楽譜には書いていないパッセージを・・・・・

そんなこと思っていたかどうかもちろんわかりませんが、少なくともモーツアルトは自分の音も他の人の音も同じように聴いていたのは確かでしょう。あらためてモーツアルトの音楽を聴いてみるとモーツアルトの音楽には美しいとか面白いとかを超えた何かがあるように思います。それを「生きることの実感」などと言ってしまうと言葉の一人歩きになってしまうでしょう。もちろんモーツアルトの曲すべてにあてはまるわけではありません。


 いつのまにか「宿敵」モーツアルトの話になってしまいました。サリエリ先生、ごめんなさい。
             本 005



サリエーリ  モーツアルトに消された宮廷楽長    水谷彰良著  音楽の友社
                   


 だいぶ前(たぶん20年位前)に「アマデウス」という映画がありました。しばらくしてテレビでも放送しましたから見た人もいるのではないかと思います。そこに描かれているモーツアルトは、それまでの純真で天使のような天才音楽家のイメージからはかけ離れた、なんとも品のないキャラクターになっていて、面食らった人も多かったのではないかと思います。そしてもう一つ、そのモーツアルトの才能に嫉妬し、毒殺したのが当時ウイーンの宮廷楽長をしていたこのアントニオ・サリエーリということになっていました。


モーツアルトにはあったとしても

 現在ある程度クラシック音楽の知識がある人なら、それを鵜呑みにする人はいないと思いますが、このサリエリの「モーツアルト暗殺説」は1820年頃、モツアルトの死後30年ほどしてから浮上してきたようです。この時まだ当のサリエリは存命中でした。もちろん根も葉もない話、「モーツアルトにサリエーリを暗殺する動機」はあったとしても、「サリエーリにモーツアルトを殺害する動機」などありえなかったようです。種々の理由でこのような噂が流布してしまったようですが、これはいわゆる風説被害といったものなのでしょう。


不運なめぐりあわせ

 暗殺説は信じなくとも現在多くの人は、同時代に生きたモーツアルトと比較するとサリエリの音楽などとるにたりないもの、モーツアルトの引き立て役くらいにしか思っていない人も多いのではないかと思います。サリエーリの曲をちゃんと聴いたことのある人など、たとえクラシック音楽ファンの中でもどれだけいるでしょうか(かく言う私もちゃんと聴いたことがありません)。確かにモーツアルトと比較されてはたいていの音楽家は困ってしまうでしょう。どう考えてもサリエーリという人は不運なめぐり合わせにあるようです、もしモーツアルトがいなければサリエーリも、もっと高く評価されていたでしょう。


宿敵の息子も

 そんな音楽史の表舞台には立てなかったウイーンの宮廷楽長、アントニオ・サリエーリについて、その生い立ちからウイーンでの栄光ある地位と活動、そして晩年に湧き上がったモーツアルト暗殺説などが、この本に書かれています。この本で書かれているサリエーリは映画「アマデウス」に描かれた人物とは全く異なり、およそ正反対といってもいいようです。少なくとも他人を妬むような性格ではなく、勤勉で礼儀正しく、特に晩年には無償で多くの若い音楽家を育て、その仕事に関するまで面倒みていたようです。サリエーリが無償でレッスンした音楽家の中には、ベートーヴェン、シューベルト、リスト、ツェルニー、フンメル、さらには映画の中では宿敵のはずのモーツアルトの息子までレッスンしていて、就職のための推薦状まで書いてやっています。またウイーンの音楽界全体の発展にもたいへん尽力したとも書いてあります。因みに、そのモーツアルト(有名な方の)やベートーヴェンなどは主に貴族の子女を相手にレッスンし、結構な謝礼をもらっていたようです。


妨害したのは

 サリエーリのモーツアルト暗殺説の一因となったことの一つに、モーツアルトが手紙の中で「サリエリとその一派が僕の仕事を妨害している」と書いてあることがありますが、その当時サリエーリは押しも押されもしないハップスブルグ家の宮廷楽長、モーツアルトはたとえ才能豊かだったとしても、まだ若い音楽家、年功序列的な当時の宮廷ではサリエーリのほうを重んじて当然だったでしょう。サリエリが意図的に妨害などしなくても、自然と重要な仕事はサリエーリにまわっていったでしょう。もっともモーツアルトの妨害をしたのはサリエーリではなく、先代の女帝のマリーア・テレージアだったようで、モーツアルト親子のことを「乞食親子」と呼んで毛嫌いし、息子達(ヨーゼフ2世、レオポルド大公)にモーツアルトに仕事をまわさないように言っていたようです。


二人仲良く

 この二人、モーツアルトの晩年にはかなり関係もよくなったようで(それ以前も悪かったかどうかはわかりませんが)、サリエーリもモーツアルトの作品をよく演奏していましたし、モーツアルトの最後の手紙ではサリエーリを「魔笛」の公演に招待し、二人ならんで「魔笛」を鑑賞したと書いてあります。「サリエーリは序曲から最後の合唱まで、実に注意深く、観たり、聴いたりしていたが、『ブラボー』とか『美しい』とかおよそ感激の言葉を吐かなかった曲はなかった」とその手紙に書かれてあり、多少大袈裟に書いてあるところはあるかも知れませんがたぶん事実なのでしょう。この本を読んだかぎりではサリエーリは美しいものを美しいと感じ、またそれを言葉にする人なのだろうと思いました。この本の中でもモーツアルトの最後の手紙にこのように書かれたことはサリエーリととっても救いだったのではと言っています。


代表作

 サリエーリには完成されたオペラは40ほどあり、他に多数器楽曲もあるそうです。代表作としては「タラール」「やきもち焼きの学校」「トロフィーオの洞窟」などで、現在では「ファルスタッフ」が高く評価されているようです。最近ではCDも結構出ていて、今私も注文しようと思っています。聴いた感想についてはいずれ書こうと思います。


政治的状況

 この本では、サリエーリのモーツアルト暗殺説が流れた最大の理由は1820年頃のヨーロッパの情勢やウイーンの音楽的な状況が深くかかわっていると書いてあります。時代的にはフランス革命やナポレオン戦争が終わり、絶対王政の時代から帝国主義の時代となり、ヨーロッパ各地にナショナリズムが湧き上がります。それまではどちらかといえば、支配者階級 VS 被支配者階級といった構図でしたが、この頃から「国家」というものの意味が増してゆきます。前世紀でウイーンの宮廷の音楽界で重要な地位に就いていたのはほとんどイタリア人でしたが、この頃から音楽界でも外国人、特にイタリア人排斥運動のようなものが起こったようです。またその頃ウイーンの音楽界ではロッシーニ旋風が巻き起こり、それがイタリア人排斥運動に油を注いだようです。本来ならその矛先はロッシーニに行くべきだったのでしょうが、年老いて無抵抗になっていたサリエーリの方に向いたのかも知れません。「祖国が生んだ天性音楽家ヴォルフガング・アマデウス・モーツアルトが生前十分に認められなかったのはサリエーリなどのイタリア人が妨害したからだ」と言うことなのでしょう。


ミャーミャー

 最後にちょっとギターに若干関係のあることとしては1810年頃、サリエーリがある文章の中で、「こうした楽器奏法の流行により、オーケストラはハーモニーの統一体ではなく、泣いている子供はミャーミャー鳴く猫の集りになってしまいました」と書いていて、その弦楽奏者たちにグリサンドが流行っていることを嘆いています。おそらくギターについても同じで、この頃からグリサンドが多用されるようになったようです。
 
 この年末から年始にかけて約2週間ほど休みなのですが、特に出かけることもなく、教材の手直しと、編曲、ギターの練習なで過ごしています。強いて休みらしいことと言えばテレビ、特にサッカーを見ることくらいでしょうか。


 なんと言っても衛星放送が見られない我が家にとっては、この季節、天皇杯と高校サッカーが見られるのは楽しみです。天皇杯ではガンバ大阪が優勝しましたが、内容としてはさすがに疲労が溜まって、いつものガンバではなかったようです。それにしても切り札の播戸をなんと延長の後半までとっておいて、最後の15分にかけた西野監督の采配はみごとでしたね、まるで試合の流れと結果を読みきったような采配でした。


 最近、特に今年の高校サッカーのレヴェルはとても高くなったと思います、私がやっていた頃とはもちろん比較になりませんが、10年前、20年前と比べてもだいぶ上手くなってきているように思います。特にチームごとの差がなくなって、どのチームもレヴェルが高くなっています。以前は出場チームの中にはパスがつながらないとか、キックやトラップの精度が劣るチームが若干あったような気がしますが、最近ではどのチームも基本的なことは出来上がっているようです。


 特にロング・パスの蹴る側の精度と受ける側の技術が高くなり、サイド・チェンジなどが確実に出来ることが多いようです。ロング・パスを足元にピタリと止めるのはたいへん難しいはずで、以前はは社会人の選手や、ひょっとしたら代表選手などでもトラップが大きくなり、ボールを失うなどということをよく見かけたものです。今年の高校サッカーではそうしたシーンはかなり少なくなりました。また判断も速くなり、ワンタッチでパスがだいぶ通るようになっています。人の動きがよく見えるようになってきているのでしょうか。


 それにしても鹿児島城西の大迫選手はすごいですね。4試合で8得点ですが(準々決勝終了時点)、もちろんたまたま点を取っているわけではなく、キックが違うというのか、小さな振りで強いシュートが打てる、真のストライカーといった感じです。ダイジェストでしか見ていませんが、ゴール・エリヤ付近でもとても冷静なプレーができるようです。ゴール・シーンを見た感じでは「待望の世界に通用するストライカーの誕生」かなといった感じもしますが、でもやはりこれからでしょうね。「釜本2世」などと言われながら、その後伸び悩んだ人はたくさんいるわけですから。


 もっとも世界的に見たらこの年代(16~18歳)で、すでに一流ののプレーヤーになっている人はたくさんいるので、日本の高校サッカーだって一生懸命にやればいいとだけ言っていられる時代ではないのでしょうが、でもやはりこのところ確実に底辺のレヴェルは上がっているなと感じました。

明けましておめでとうございます。

 昨年は原油、食料などの高騰から、世界的な不況と経済的には波乱の多い年でした。今年はなんとか落ち着いた年になってほしいものですね。私個人的には昨年はリサイタル一色で、1年間を通して全力疾走した感じでした、ちょっと疲れましたが、たまにはそういったこともいいものかも知れません。昨年がんばった分、今年はあまりがんばらずに、適当に、それなりにやろうと思っているのですが、すでにいくつか予定も決まり、そんなにゆっくりもしていられなさそうです。

 今年すでに決まっているコンサート予定などを、私個人、水戸ギター・アンサンブル、中村ギター教室の順で書き出しておきたいと思います。



*中村俊三のコンサート予定


3月1日(日) pm.2:00  ギター文化館 ミニ・コンサート出演

 今年初めてのコンサートです。演奏曲目など内容はまだ決めていませんが、最近、ダウランドやバリオスの曲などを弾いたりしているので、そういった曲になるかも知れません。季節なので「さくら変奏曲」は弾こうと思っていますが、以前一応自分で作曲?した「グリーン・スリーブス幻想曲」なども久々に弾いてみようかと思っています。


3月14日(土) am.11:30頃  アコラ・ジヴェルニー・コンサート ゲスト出演

 愛好者の演奏の後に行われる40分前後のミニ・コンサートで、プライヴェートなコンサート会場(収容人数20名前後)ですがとても美しい響きがします。内容なども未定ですが、曲目は上記のミニ・コンサートとある程度重複すると思いますが、若干の曲は入れ替える予定です。詳しくは「アコラ」のホーム・ページを見て下さい。


10月24日(土) アコラ・ジヴェルニー・コンサート ゲスト出演

 上記と同じ形のコンサートですが、この日は私の古くからのギター仲間の鈴木幸男さんとの2重奏をやります。鈴木さんとは以前(水戸ギター・アンサンブルにいた頃)はよく2重奏をやっていましたが、このところでは久々となります。曲目としてはソルの幻想曲作品54などが現在決まっています。30~40分くらいの演奏になると思います。


12月13日(日)  ギター文化館   イサーク・アルベニス没後100年記念コンサート

 今年(2009年)は「アストゥリアス」などでギターファンにもなじみのスペインの作曲家、イサーク・アルベニスの没後100年ということになり、これまで私個人的にもアルベニスの曲をたくさん弾いてきたので、そのアルベニスを讃え、感謝の意を表す意味でアルベニスの作品のみによるコンサートを企画しました。曲目としては昨年のリサイタルで弾いた曲の他、『組曲スペイン』の中から「プレリュード」、「マラゲーニャ」、「タンゴ」、「カタルーニャ奇想曲」。『スペインの歌』から「オリエンタル」、『旅の思い出』から「入り江のざわめき」などを加える予定です。ギター曲を一曲も作曲しなかったアルベニスですが、もしかしたらギター愛好家に最も人気のあるスペインの作曲家かも知れません。「アストゥリアス」や「グラナダ」といった有名な曲以外にもギターで弾くと美しい曲はたくさんありますので、アルベニスを満喫していただければと思います。

 なおこのコンサートはいつもの「ミニ・コンサート」ではなく正式な「コンサート」なので、入場料(2000~3000円)が必要で、事前に前売り券なども販売します。詳しいことは決まり次第、当ブログ、または中村ギター教室のホーム・ページ、ギター文化館のホーム・ページに載せますので、ご覧ください。


 *他にギター文化館でのミニ・コンサートを2~3回程度行う予定です。5月3~5日のギター文化館のイヴェントに参加し、4日のシニア・ギター・コンクールでは審査員を務める予定です。



水戸ギター・アンサンブルのコンサート予定


5月17日(日)  つくば市 カピオ・ホール   つくばギター・フェスティバル参加

 今年はつくばギター・フェスティバルに参加します。参加団体は「ギター・アンサンブル・リヴェルタ」など8団体で、入場は無料です。私のところではドボルザークの交響曲第8番の第3楽章「アレグレット・グラチオーソ」、ビゼーの「アルルの女」から「ファランドール」の2曲を演奏する予定です。


6月13日(土)  ひたちなか市文化会館  第13回水戸ギター・アンサンブル演奏会

 2年半ぶりに水戸ギター・アンサンブルの演奏会を行います。曲目としては上記に曲の他、グリーン・スリーブス、剣の舞、組曲「惑星」より「ジュピター」などですが、他に二重奏でソルの「アンクラージュマン」などとなっています。詳しいことが決まり次第ホーム・ページなどに載せます。


 *他に7月上旬に水戸芸術館で行われる「水戸市民音楽会」にも参加する予定ですが、日にちはまだ決まっていません。



中村ギター教室のコンサート予定


11月8日(日)  ひたちなか市文化会館   中村ギター教室発表会

 昨年は行いませんでしたが、今年は例年通り教室発表会を行います。長年ギターをやっている人も、最近始めたばかりの人も出演してもらう発表会です(強制ではありませんが)。一人でも多くの人に参加していただければと思います。水戸ギター・アンサンブルの演奏とか、鈴木さんとの二重奏なども行います。



 *その他

 私の教室で使う教材はすべて「私の手作り」ということは前にお話しましたが、これは少し使ってゆくと必ず問題点が出てくるので、いつも手直しをする必要があるのですが、昨年はほとんど出来ずに、したがって教材の問題点もだいぶ溜まってしまいました。今年はそれらの問題点を修正するだけでなく、出来れば大幅に改訂しようと思っていたのですが、やはりコンサート予定なども立て込みそうで、いわゆる「マイナー・チェンジ」止まりになりそうです。またその教材に添えるCDも製作したいと思っています。

 当ブログに関しては、そろそろ「ギター上達法」を復活させたいのですが、ご存知のとおり「本」の話が始まってしまいました。とりあえず「並行」と言う形で、なるべく早く復活したいと思います。「ミス」とか「歌うこと」、「発表会」についてなど構想としてはすでにあります。


 それでは今年も、当ブログ、および中村俊三とそのギター教室、また水戸ギター・アンサンブルをよろしくお願いいたします。