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中村俊三 ブログ

中村ギター教室内のレッスン内容や、イベント、また、音楽の雑学などを書いていきます。

気をつけなければならないミス

これには前提があって

 前回までの話では、「ミスをしてもなるべく気にせず、流れを止めずに先に進む」ということで、ミスそのものについては全く問題にしませんでした。実はこれには前提があって、その前提とは、演奏している本人がそのミスを自覚しているということです。もちろん自覚しているからこそ声を出したり、止まったりするわけです。もしミスの自覚がなければそうしたこともしないでしょう。人はミスをした自覚があれば、自然と同じ間違いを繰り返さないようにしようとし、練習を重ねるにつれてそのミスはだんだん少なくなって行きます。確かにミスをしないためのいろいろな工夫などもあり、そのことについてはまた後で述べますが、多くの場合そのミスを自覚するだけでも自然と直ってゆきます。


何の音が聴こえましたか?

 しかしその裏を返せば、ミスをした時、本人にその自覚がなければそのミスが直ることはないということにもなります。ということでレッスン中に同じミスでも生徒さん自身で気付いていないと思われる場合は、演奏の途中でも止めて指摘することもあります。たいていの場合はは一応最後まで演奏が終わってから言いますが、弾き終わってからだと、その生徒さんが自分でどのように弾いていたか全く記憶がなくなる場合もあるので、その場で指摘することもあります。その場合、「この音が違っています」と言うより、「今、何の音を弾きましたか?」とか、「ここ、何の音が聴こえましたか?」などと生徒さんに聴くようにしています。


低音が聴き取りにくい

 このように生徒さんが音を間違えても気が付かないという場合は、メロディ、あるいは高音部ではあまりなく、ほとんどの場合は低音に関するもので、特にメロディと同時に弾く低音が最も多くなります。特に開放弦の低音はいっそうその頻度が多くなります。これは人間の生理的なことに関係あるのだと思いますが、二つの音が同時に鳴ると、一般の人では高い方の音がよく聴こえ、低い音の方は聴きとりにくくなります。本当に聴こえないというより、脳のほうで認識しにくいようです。子供の頃や、若い時から音楽をやっている人ですと特に問題はないのですが、大人になってからギターを始めた人ではそのように低音が聴き取りにくくなる傾向があるようです。


高音部を聴かないで  

 そうした傾向のある人の場合、低音に神経を集中して練習するのが大事だと思います。これは音感そのものというより、言ってみれば注意力の問題だと思いますので、神経を集中することでだんだん聴こえてくるのではないかと思います。どうしても聴き取れないときには、高音部のメロディなどを聴かないで、低音だけに集中してみて下さい。高音部は聴こうとしなくても耳に飛び込んでくるので、ともかく聴き取りにくい低音に集中してみるわけです。しかし実際に、低音が聴き取りにくい他人の場合は、逆に聴き取りやすいメロディとか高音部のほうにしか注意がいかない他人の方が多いようです。聴き取りやすい音には注意が行くが、聴き取りにくい音には注意が行かないでは当然弾き間違いも多くなり、なお且つ自分ではそれに気がつかないという、ギターを弾く上ではたいへん困った状況になってしまいます。


聴くしかない

 繰り返しになりますが、生徒さんが低音などを間違えた時、私のほうでは「この音間違えています」とはあまり言わず、「今、何の音を弾きましたか?」とか、「ここ、何の音が聴こえますか?」と言うように、まず自分で弾いた音をしっかり聴くように言っています。というのも低音を間違える最大の原因は、その音が聴き取れないからなので、仮にその間違ったところの音だけを直したとしても、自分で聴き取れない限り、何度も間違いを繰り返したり、あるいは別なところを間違えたりしてしまい、なかなか間違えずに弾けるようにはなりません。ちょっと難しいかも知れませんが、ギターを弾く以上、がんばって聴き取るしかありません。


某国の首相

 話がそれますが、ちょっと前、某国の首相の漢字の読み間違えが話題になりました(漢字を使う国はそれほどありませんが)。漢字を読み間違えたからといって、その首相があまり本を読まないとか、まして教養が不足しているということでは全くなく、私の勝手な推測からすればいわゆる「思い込みの激しい」タイプの人なんだろうと思います。一度覚えるとそれに特に疑問を挟んだりせず、ずっと記憶する人なのでしょう、ある意味自信家なのかも知れません。また幼少の頃からそれなりの地位の人なので、周囲にそれを注意する人などもいなかったのでしょう、裸の王様的な環境もあったかも知れません。


他人事ではない
   
 似たようなことが音楽の世界にもあって、世界的なギタリストやピアニストでもずっと長年にわたって覚え間違いをしていたなどということもあります。お弟子さんなどがそのことに気が付いても、ちょっと言い出しにくいのかも知れません。場合によっては誰かに言われたとしても「これが正しい」と居直ってしまうこともあるそうです。もっとも、私自身でも覚え間違いをしている可能性は十分あり、決して他人事ではありません。もともと音感も記憶力もよくない私ですから十分にありえます。


時間をかけて覚える

 私自身のことになってしまいましたが、私自身では覚え間違いをしないためには、曲を覚える場合、特に重要なコンサートで弾く予定の場合では、弾いて覚えるだけでなく、譜面だけを読んだり、また書いたりして覚えます。また曲のアナリーゼなども自分の出来る範囲で行います。その主な目的は暗譜をより完全にするためですが、覚え間違いをなくす意味もあり、それによって記憶違いなどはかなり防げます(完全にゼロには出来ないでしょうが)。また特に暗譜で弾く予定のない場合でも、新しい曲を始める時は、結構長い期間にわたって楽譜を見ながら練習し、一応覚えた段階でもある程度譜面は見て練習します。その間、音符だけではなく、表情記号とか、あるいは「行間を読む」など楽譜上のいろいろなところから作曲者の意図を読み取ることにも心がけています。あまり早い段階から暗譜で練習すると、その曲の内容とか、作曲者の意図とかが伝わって来にくくなるように思います。


ゼロからスタート

 また、何回かステージで弾いているような曲でも、また演奏する予定があると、もう一度譜面を見ながら練習し、それまでの弾き方でよかったかどうか見直します。「前回上手く弾けたから、今回も前と同じように」などと思って弾くと、ほとんどの場合よい結果は出ません。覚え間違いとは直接関係ないかも知れませんが、ステージで演奏する時にはいつでもゼロからスタートする気持ちでやっています。
 

ミスとして認識されていれば

 ちょっと話がそれてしまいましたが、結局「ミス」というのは、それがミスとして認識されていれば特に問題はないのですが、それが認識されなかった時にはたいへん大きな問題になるということです。
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今日=3月28日(土)、つくば市アルス・ホールで行われた北口功さんのリサイタルを聴きました。
プログラムの前半はギタリストの作品ということで、

フェルナンド・ソル : モーツアルトの主題にによる変奏曲
フランシスコ・タレガ : アデリータ、マリーア、マリエッタ、アルハンブラの思い出
アウグスティン・バリオス : 祈り、ワルツ第3番、第4番

後半はギタリストでない作曲家による作品で、

武満徹編曲 : ロンドンデリーの歌、早春賦
フェデリコ・モンポウ : コンポステラ組曲
エイトール・ヴィラ・ロボス : 練習曲第11番、第12番

というものでした。北口さんは「これらのギターの作品はたいへん大事な宝物」で、今回のリサイタルは時間をかけて準備したものと言っておられました。


 アルハンブラの思い出は私の場合、仕事上、聴いたり、弾いたり、またレッスンしたりと触れる機会もたいへん多い曲ですが、北口さんの演奏ではトレモロが美しいだけでなく、旋律がたいへんよく歌っていて、改めて美しい曲だなと思いました。そういえば北口さんの演奏を初めて聴いたのもバリオスの「森に夢見る」で、その時もトレモロのたいへん美しいギタリストだなと思いました。

 コンポステラ組曲は両端のプレリュードとムニェイラはやや速めに、他の4曲(コラール、クーナ、レシタティーヴォ、カンシオン)は遅めに演奏されました。その中間の4曲では本当に1音1音大事に発音され、モンポウの音楽は、音は少なめだが、その音の余韻が大きな役割を占めているのかなと感じました。中間の4曲がゆったりと演奏されたため、終曲のムニェイラはとても軽快で、またユーモラスに聴こえました。

 また最後のヴィラ・ロボスの2曲はモンポウの曲と対照的に、6本しかないはずのギターの弦が、まるで7本か8本あるように聴こえました。2曲ともとても豊かな響きで演奏されました。
ミスしても止まらないためには

止まりたくて止まっているわけでは

 前回は、間違えたからといって演奏を中断したり、また弾き直しをしてはならないという話をしました。しかしそういう場合でも、弾いている本人としては止まりたくて止まっている訳ではないしょう。気が付いた時には指が止まっていたり、自分の意志に反して同じ個所をもう一度弾いていたりするものです。確かにミスをしても止まったり、テンポを乱したりせずに先に進むということは決して易しいことではありません。でもギターを弾く上で、ミスは完全には避けられないものとすると、ミスをする度に止まったり、戻ったり、テンポを乱したりしていたのでは演奏になりません。ギターが弾けるようになるためには、多少トラブルがあっても先に進められる力を身に付けなければなりません。それもたいへん重要な能力の一つだと思います。今回はそういったことを身に付けるための練習法について、具体的に話しを進めます。


ミスしても2,3個先の音まで弾く
 
 大部分の生徒さんはミスをした時、その瞬間に指を止めてしまいます。予定と違った音が出たり、また予定の音が出なかったりすると反射的に指が止まってしまう訳です。ギターをやっている人なら誰しも経験のあることだと思います。しかしそうした時、なんとかがんばって2,3個先の音まで弾くようにします。2,3個弾けなければ1個でもよいでしょう。多少リズムなどが乱れたとしても、ともかくミスした瞬間、あるいはミスした音でやめないことが重要です。そのまま最後まで弾ければさらによいかも知れませんが、そう出来なくても、まずはミスした瞬間に反射的に指が止まるのを防げばよいでしょう。


自分の意志で止まる

 2,3個弾いたところで中断するなら、それほど問題になりません、つまり中断する場合は通常に「弾けている音」のところで中断するわけです。その場合ですと、もしその先へ進もうと思えば進むことも出来ると思います。またこれが一番重要なことですが、中断は「自分の意志」で行うということです。つまり「止まってしまう」のではなく自分の意志で「止める」ということです。自分の意志で「止める」ということは、逆に自分の意志で「止まらない」こともできるからです。


ゆっくり、出来るだけ一定の速さで

 もっとも初見に近い状態とか、まだその曲がほとんど弾けていない場合などでは、一定の速さで弾くことそのものが難しいと思いますので、その場合はまた別と考えてよいでしょう。練習の段階によっては、特に先に進むことを優先させずに、楽譜をよく読んだり、音を耳で確かめたり、運指などをじっくり考えてよいと思います。しかしある程度弾けるようになったら、本当にゆっくりでよいですから、出来るだけ一定の速さで練習するようにしましょう。仮にその曲がテンポの速い曲だからといっても、最初から速く弾こうとすると、止まったり、戻ったりが多くなるだけでしょう。


少し先の音符を読む

 また楽譜を見ながら弾く場合(視奏)は、今弾いている音ではなく、少し先の音符を見るようにします。そのことにより、現在弾いている音に何かトラブルがあったとしても、その先の音を弾くことが出来ると思います。もっともそのことは止まらないためにというより、指の動きを滑らかにしたり、またミスそのものをなくすことにもつながるので、ぜひ実行してみて下さい。暗譜で弾く場合も同じで、現在弾いている音の少し先の音を記憶から呼び戻すようにします。これは譜忘れの防止にも繋がると思います。


通し練習と部分練習

 また曲全体の「通し練習」と、難しい個所などの「部分練習」は必ず分けて行うべきだと思います。「通し練習」の時はいろいろミスがあったとしても、出来るだけ止まったり、やり直したりはしないで、ちゃんと最後まで弾くように心がけます。どんなトラブルがあっても最後まで弾くという習慣はとても大事だと思います。また逆に、部分練習の際には問題の部分だけを取り出し、運指や、指の動かし方など、細部に至るまで徹底してチェックしてみるとよいでしょう。しかし現実にはこれらの全体と部分をごちゃ混ぜに練習してしまう人はとても多いと思います。最初から最後まで弾くつもりだったのに、ある個所が気になりそこをなんども繰り返して練習し、しばらく先に進んでまた別の個所でひっかり、結局最後まで弾かずに止めてしまった、などということはよくあることではないかと思います。自分が今何の練習をしているかということは、常にはっきりと意識しておきたいものです。

 
音符の数だけ合わせる

 補足的なことになりますが、この「止まらずに弾く」練習としては、私が大学のギター部時代に時折やっていたことですが、「初見の二重奏」などは効果的だと思います。当時たまたま部室に二重奏の楽譜があったりすると、ギター部の仲間と「これやってみようか」と、突然二重奏を始めたりしました。私も相手の方もそんなに初見力があるわけではありませんから、弾けるところのほうが少ないくらいなのですが、弾けるところはそれなりに弾き、16分音符が続くようなところは適当に音符の数だけを合わせます。1小節でしたらとりあえず、4×4=16個の音をだいたいの音形にあわせてデタラメに弾いてしまいます。難しい和音などでは、その中の弾ける音だけ拾った弾いたり、また低音だけ弾いたり、押さえ方が違う思うときは弦をちゃんと押さえずに、適当に弾いたりします。難しいからといってそこでやめてしまうと、もちろんその先が続かなくなってしまいます。難しいところはとりあえずやりすごして(口で歌ってしまうという手もありますが)、また弾けるところに来たら気持ちよく弾けばよいと思います。皆さんも機会があったらやってみて下さい。
ミスっても

計4ヶ所間違えましたね

 一般にギター教室の先生などというのは、生徒さんのミスを指摘するのが仕事のように思われているかも知れません。一曲弾き終る度に、「ここと、ここと、それからここも間違えましたね、あとこっちと、計4ヶ所ですね」なんて・・・・・・
 もちろんそんなことはありえません。生徒さんが違うフレットを押さえてしまったり、違う弦を弾いたりしても、特にそのことを指摘することはありませんが、そうなってしまう原因とか、そうならないための対策などについて話すことはあります。また、ミスを気にしすぎる生徒さんは多いので、「特に重大なミスではありません、あまり気にしないで先を続けてください」などと言うことはよくあります。私のようにギターの教師などという仕事をしていると、ミスのない演奏を聴くことはかえって稀で、普通のギターの愛好家に比べるとミスには相当慣れているといってもよいでしょう。一般のギター愛好家の場合ですと、日常的には優れたギタリストのCDとかコンサートを聴く機会の方が多いでしょうから、むしろミスのある演奏にはあまり接しないのではないかと思います。


マイナスのアクション

 と言うように、普通ミスそのものについて「ここ間違えましたね」などと言うことはあまりないのですが、ただし、生徒さんがミスをした時、声を出したり、首をかしげたりなど何かのアクションをした場合は、やや強い口調でそうしたことはしないように言うことはあります。中には間違える度に「すみません」などと謝る人もいますが、このことについても絶対にしないように言います。確かにギタリストの中には演奏中にいろいろアクションを行ったり、うなり声を出したり、一緒に歌ったりする人がいます。聴いている方としては多少煩わしいと感じることもありますが、たいていの場合、そのギタリストが自分自身の集中力を高めたり、自らを鼓舞するために行っていることが多く、その演奏内容さえ良ければ、聴衆としてはやむを得ないことと、一般には受け入れられています。しかし間違えた時に首をひねったり、声を出したりなどのマイナスのアクションはやはり聴衆には受け入れられないことでしょう、仮にもプロのギタリストのコンサートではあり得ないことと思います。


誰にも迷惑かからない

 コンサートなどではなく、たとえレッスン中だとしても、こうしたことを無意識にやってしまうと、習慣化、つまりくせになってしまいます。「くせ」になると、所を選ばずそれをやってしまい、それを直すのが難しくもなります。そういう傾向のある人はなるべく早い段階で、出来れば初心者のうちに直しておきたいものです。またギターを弾き間違えたくらいでは、誰の迷惑になることでもないので、もちろん謝る必要など全くありません。確かに日常生活では、何か間違いをした時、例えば誰かの足を踏んでしまったら、まず「ごめんなさい」と謝るのがモラルということになるでしょうが、演奏の場合は何かのトラブルがあったとしても、まず演奏を先に進めるのが最も正しいことです。弾き間違えて「ごめんなさい」と言うことは、かえってモラルに反する行為ということになります。


やり直し=即失格

 次の問題として、声を出したりはしないものの、間違えるとそこで止まってしまったり、その音を何度か弾き直したりする人は非常に多く、大多数の生徒さんがそうしてしまいます。確かに間違えても止まらずに先に進むというのはたいへん難しく、初心者のみでなくキャリアの長い人でもそうした人はよく見かけます。しかしミスをゼロにすることが出来ないとすれば、間違えても先に進められるか、られないかという問題はたいへん大きなことといえます。ミスの度に止まったり、やり直しをしてしまったら、演奏にはなりません。私がレッスン中によく言うことですが、もし試験に例えたら、「一つの音を間違えてもせいぜい3点か5点のマイナス、そのことでタイミングなどが狂えば10点くらいのマイナス、演奏を完全に中断すれば50点のマイナス、最初からもう一度やり直せば0点」ということになるのではないかということです。本当に、あるギター・コンクールで最初からやり直した場合は、即失格などという規定があったと思います。


命をかけて・・・・・

 確かに演奏家というのは演奏を途中で中断するというこをたいへん嫌う人種です。昔読んだ本で、あるソプラノ歌手がオペラの舞台のバルコニーから誤って落ちそうになり、手すりにつかまり宙ぶらりんになりながら、そのアリアを最後まで歌ったといったことが書かれてありました。また直接聴いた話ではありませんが、木村大君がコサートの最中に停電で真っ暗になってしまったが、それでもその曲を最後まで演奏したという話を聴いたことがあります、十分にありうることだと思います。言ってみれば演奏家というのは演奏を中断しないことに命をかけたりする人達ということになります。もっとも本当に身の危険を感じたら中断するかも知れませんが、でもプロの演奏家の多くは、それくらいの気持ちで演奏に臨んでいるのではないかと思います。

ミスとは長~~~い友達


  ミス撲滅

 ギター、あるいは楽器を弾く人にとって、「ミス」つまり弾き間違いなどこの世から消えてほしい、少なくとも自分にだけは縁遠い存在であって欲しいと思うもの。指や腕が痛くなったり、家族からいやな顔をされたり、試験の成績が落ちたりなど、いろいろ犠牲を払っても練習に打ち込むのは、これすべてこの世からミスを根絶するため。ミスなど自分に全く無縁の存在となったらどんなにすばらしいことか、もしそうなれば自分も大ギタリストの仲間入りか・・・・・・・・・


 しないようにと思えば思うほど

 もちろんそうはゆかないのが現実の世界、ギター、あるいは楽器を演奏するということは常にミスと隣り合わせ、特にステージなど他の人が聞いているところでは普段にも増してミスが多くなるものです。またどんなにたくさん練習しても常人にとってミスを完全にゼロにするのは不可能なことで、ミスをしないように、しないようにと思えば思うほどミスは発生してしまうもの。自転車に乗りたての頃、そっちにいってはいけないと思えば思うほど、その方向に進んでしまい、結局道脇の水路に落ちてしまうようなものかも知れません。


 誰も気に留めない

 とは言っても広い世の中には、ほとんどミスをしないギタリストもいるのは事実で、昨年水戸市の佐川文庫で聴いたパヴェル・シュタイドルほ最後までほとんどノー・ミスで、少なくとも私にわかるようなミスはなかったと思います。しかしこれとてコンサートが終わってしばらくしてから「そういえばミスはなっかたな」と思っただけで、このギタリストにとってミスをしないことなど、そのずば抜けた演奏能力からすれば、本当にごく些細なことでしょう。「ええっ! 何っ! へえ~! ううん? ほんとに!」など、それこそびっくりマークだらけの演奏で、おそらく会場にいた人は、その演奏がノー・ミスだったかどうかなど、誰も気にも留めなかったのではないかと思います。



 健全な交際

 そのように確かにごく稀にはミスとは無縁のギタリストもいるのは確かなのですが、しかし我々普通のギタリストやギター愛好家にとっては、「ミス」とは切っても切れない深い関係にあります。好むと好まざるとに関らず、一生付き合っていかなければならない関係といっても良いでしょう。一生付き合っていかなければならない関係なら、なんとかうまく付き合ってゆくしかありません。最初から毛嫌いしたり、その存在を無視したり、またあまり邪険に扱ったりすると、相手もヘソを曲げて凶暴性を帯びてくるかも知れません。あなたにとってたいへん困ったしつこいストーカーになってしまう可能性もあります。そうならないためには、相手の存在を認め、その性格なども理解し、時にはいたわりの気持ちも持ち、なんと言っても適切な距離を保ち、健全な付き合いをしなければなりません。「ミス」とは長~~~い友達なのですから。  


 と言うわけで、久々に再開した「中村俊三のギター上達法」、再開第一弾は「ミス克服法」となりました。ミスなど好きな人はいないと思いますが、さりとて不可避なもの。その対処法などをこれから話してゆこうと思いますが、お話しすることがたくさんありそうなので、何回になるかは今のところわかりません。今回は序文だけになってしまいましたが次回から具体的に述べてゆきたいと思います。

 前回告知しましたとおり、昨日(3月14日土曜日)ひたちなか市アコラでジヴェリニー・コンサートが行われ、愛好者の演奏と、私のミニ・コンサートがありました。あいにくのお天気でしたが、今回は演奏者も多く、活発なコンサートとなりました。シニア・コンクールも間近となり、演奏にも熱が入っているのでしょう。いつものメンバーの他、千葉県から悪天候にもかかわらず来られた方や、次回のゲストの水谷さんなどが力演をされていました。


 私のコンサートのプログラムは前述のとおり、ダウランドとバリオスで、昨年弾いていた曲からすればあまり肩に力の入らない曲といった感じでしたが、それでも練習は結構しました。30~40分くらいで終わる予定でしたが終わって見ると1時間近くになっていて、しゃべりが長すぎたかなとちょっと反省。アンコールはこの時期恒例のさくら変奏曲(横尾幸弘)でした。

        本 008




吉田秀和作曲家論集   音楽の友社
 
 1.ブルックナー、マーラー

 2.シューベルト

 3.ショパン

 4.シューマン

 5.ブラームス

 6.バッハ、ハイドン




 この本の話も久々になりますが、音楽に関しての本と言えば、我々水戸市民としてはこの吉田秀和氏の著作を抜きに語る訳にはゆかないでしょう。吉田氏は1913年生まれですから、今年で96歳になるはずですが、全く衰えを見せることなく執筆活動を続けています。吉田氏はたいへん著名な音楽評論家ですが、私たち水戸市民としては水戸芸術館の館長と言った方がピンとくるかも知れません。


 白水社から「吉田秀和全集」が出版されていますが、今現在は何巻まででているのでしょうか、たぶん20巻は超えているのではないかと思います。私の本棚にはそのうち6巻あり、図書館で借りて読んだ分を合わせると十数巻ほど読んだのではないかと思います。この「作曲家論集」はそれらを作曲ごとに6巻にまとめたもので、「全集を読むのはちょっと」と言う方には手ごろなのではと思います。


 吉田氏といえばモーツアルトやベートーヴェンに関する文章が最も多いのですが、このシリーズでその二人が抜けているのは、その全集の第1巻がモーツアルトとベートーヴェンに関するものだからなのでしょう。つまりこの作曲家論集の全6巻と吉田秀和全集の第1巻とで、作曲家論集が完成するのかも知れません。


 吉田秀和氏については当ブログで、前にも書いたと思いますが、私にとっての最初の出会いは学生時代に聴いていたFM放送でした。その話口調がたいへん知性的でありながら、音楽学者とか評論家とかいった感じではなく、なんとなく身近に感じられるところもありました。声の感じからすると年齢の高い人にも思えるが、その「秀和」と言う名前は当時の若い人の名前で、いったい何歳くらいの人なのかなとも思いました。逆算すると私がFMで聴いていた頃は60歳前後ということになりますが、当時は40代くらいの人かなと思っていました。


  当時を振り返ると、私の場合そのFM放送から得た知識や、興味を持った音楽はたくさんあったように思います。今でもはっきり覚えている内容としては、モーツアルトの弦楽5重奏曲第2番で、「この曲の第2主題は提示部では長調で出てくるが、再現部では短調で現れ、その時このメロディの真の姿が現れる」と話していたことで、この話は私にはとても印象的で、この曲を聴くたびにこの話を思い出します。というより、その違いを聴くためにこの曲のレコードを聴いたりしていました。


 また全集の中で特に印象的な内容としては、吉田氏が演奏を聴く時の心構えとして、「最初から自分の考えや感性で聴くのではなく、まずその演奏家の側に立ってみる、そうすることによりその演奏家が何を考え、何を表現しようとしているのかがわかる」と言っていたように思います。今現在、私がコンサートやCDを聴く時などもこの言葉を意識しています。また生徒さんのレッスンの時にも役立っているのではないかと思います。


 吉田氏とギターとの接点はあまりないようですが、確か全集の中で、ニューヨークでセゴビアを聴いた時の感想として「白くてよく動く手がきれいだった。とても小さな音だった」と書いてあったと思います。ただし昔読んだ記憶なので正確にこう書いてあったかどうかははっきりしません。少なくとも演奏内容についてのコメントはなかったと思います。


 若い頃吉田氏の著作や放送から学んだことはたくさんありましたが、その一方では私が聴く音楽がドイツ系の音楽に偏ってしまったことは否めません。しかし私にとってはギターの音楽を客観的に見るためにかえってよかったのではと思っています。


 さて、話がわが国の音楽評論界の重鎮であり、私たち水戸市民にも縁の深い吉田秀和氏に及んだところで、この「本の薦め」もとりあえず中締めということにしましょう。そしていよいよ「中村俊三のギター上達法」を再開、ということにしようと思います。再開第一弾としてはギターを弾く人なら誰でも気になる、というか出来ればなくなって欲しい「ミス」つまり「弾き間違い」について話をしてゆきたいと思います。この「ミス」、好きな人はいないと思いますが、さりとて縁を切るわけにはいかないという、確かにたいへん困った存在でしょう。
 今日(3月1日)ギター文化館でミニ・コンサートを行いました。ご来場下さった方々、本当にありがとうございました。今回はイギリスに関係のある曲と、中南米の音楽といった内容で、どちらかと言えば耳になじみやすい曲といった感じでコンサートを行いました。相変わらず響きの良い会場なので、楽器もよく鳴り、そういった点ではたいへん気持ちよく弾けます。また同時に反省しなければならない点も多々あり、そういった点は今後修正して行かなければならないと思います。また当館所蔵の楽器、ドンミンゴ・エステソも弾かせていただきました。歴史の重みを感じさせる音でした。5月5日の当館のコンサートでこの楽器を用いて演奏する予定です。



 また3月14日(土)には、ひたちなか市のアコラで行われるジヴェルニー・コンサートのゲストとして私が演奏しますが、曲目は次のとおりです。



愛好家によるコンサート  10:00~11:30

ゲスト演奏(中村俊三)  11:30~12:00



                  曲  目

ジョン・ダウランド(1563~1626) : 涙のパヴァーン
                    : エリザベス女王のガリアード
             作者不詳 : 靴屋
         ジョン・ダウランド : 靴屋の女房
                    : ヴォウ夫人のジグ 
                    : エセックス伯爵のガリアード

アウグスティン・バリオス(1885~1944): 郷愁のショーロ
                     : ワルツ第3番
                     : パラグアイ舞曲第1番
                     : 春のワルツ


以上のように16世紀末~17世紀初頭に活躍したイギリスのリューテストのジョン・ダウランドの作品と、現在のギター界では欠く事の出来ないレパートリーである、パラグアイ出身のギタリスト、アウグスティン・バリオスの作品を演奏します。なお詳細はアコラのホーム・ページをご覧ください。