中村俊三 ブログ

中村ギター教室内のレッスン内容や、イベント、また、音楽の雑学などを書いていきます。


勘の鋭い人は

 2番目の妻のアンナ・マグダレーナが、夫、ヨハン・セバスティアン・バッハについて書いた本の続きですが、勘の鋭い人はもう気が付いたかも知れません。またすでにこの本を読んだという人、この本について知っていたという人もいるでしょう・・・・・・・  そうです! そのとおりなのです。この本は実は真っ赤なニセモノ! マグダレーナ本人が書いたものではありません。ネット検索によれば、20世紀にイギリスの女流作家が書いたものだそうです・・・・


なりゆきで

 つい私の方も「なりゆきで」前回は本物であるかのような書き方をしてしまいました、ごめんなさい、多少ヒントは入れておいたのですが。私自身もこの本を読んでいる間は偽物とは疑わずに読んでいました。確かにリュートの件の他、多少気になった点もあったのですが、せいぜい何かの手違いとか翻訳の問題くらいにしか思いませんでした。”あとがき”で訳者が「本書が本当にバッハの二度目の妻アンナ・マグダレーナ・バッハの筆になったものだったろうか、という疑念・・・・」と書いているところを読み、はじめて合点がいきました。確かにここで書かれているバッハ像とか、バッハの音楽的評価は20世紀的です。またなぜこの本の中に出てくる逸話がほとんど聴いたことのあるものなのか、ということも理解出来ました。


活き活きと描かれて

 というわけで、とんだオチになってしまいました。しかし見方を変えると、この本はフィクションとすれば結構よく出来ています。なんといってもバッハやクラシック音楽に興味のある人、場合によっては全く興味のない人にもとても楽しめる本だと思います。またこの作者はバッハの音楽や、バッハに関する様々なことをたいへんよく研究していて、バッハについて一般的に言われていることと、特に矛盾点もありません。さらに一般的な人物評伝や音楽史などよりもマグダレーナにしろバッハにしろ、たいへん活き活きと描かれていて、その人間像がとてもよく伝わってきます。なんと言っても作家が女性だけに「一人の女性としてのマグダレーナ」がたいへんよく描かれていてます。というわけで、なかなか魅力のある本なのですが、ただ唯一の問題は「本人のあずかり知らぬ」ところで書かれているということだけです。唯一の問題ですが、残念ながら小さな問題ではないでしょう。


ちょっと現代的過ぎ

 さらに細かい問題点をあげれば、これは当然というか、やむを得ないことでしょうが、バッハの音楽に対する見方が現代的過ぎるという点でしょうか、この本の中で書かれているマグダレーナのバッハの音楽に関するコメントは21世紀の我々にとって違和感がなさ過ぎる気がします。とはいっても「本物」のマグダレーナが夫の音楽をどのように考えていたか、などということはわかるはずもないでしょうし、この作家が得られるバッハについての知識も当然その人が生きていた時代、つまり20世紀のものということになります。となれば「本当の」マグダレーナが夫の音楽をどのように考えていたかということが気になりますが、実際のマグダレーナはそれについて何も書き残していないようなので(たぶん?)わかる術はありません。


この楽器が妙に気になる

 あまりリュートのことにこだわるのも何ですが、この作家はリュートに関する知識はあまりなかったよいですが、リュートのことを「ギターに似た楽器」ということで、「ギター」としてしまったのでしょうか。またなぜ「ラウテンクラヴィツィンベル」の説明をあえてしたのでしょうか、もしよくわからなかったとしたら、別に詳しい説明などする必要もなかったと思うのですが。でも気になったのでしょうね、この楽器が。


尊敬と深い愛情

 この本を読む限り、この作家はバッハの音楽はとても好きで、またバッハのことを尊敬していたと考えられます。さらに、この本を書いている時には作家はアンナ・マグダレーナ・バッハになりきって、バッハの音楽を崇拝すると共に、バッハその人にも愛情を感じていたのではないかと思います。この本の最初のところで、老いたマグダレーナがバッハについて書くことの喜びを語っていますが、この作家もマグダレーナになりかわってバッハについて書くことに喜びを感じていたのでしょう。また女性の心理は私にはよくわからないところもありますが、この本で書かれているマグダレーナの「女性的な部分」は実はこの作家のものだったのかも知れません。


この本を食べる人がいたとしたら

 他のバッハに関する本では、この本のことについては全く触れられていません(だから私もこの本の存在を最近まで知らなかったのですが)。ということはこの本が偽りのものであることは音楽関係者にとっては周知の事実のようです。しかし特に音楽などに詳しくない人が(例えば私のように)本屋さんの棚でこの本を見かけた場合、間違いなくホンモノと思うでしょう。この本の表紙やオビなどにはどこにも「フィクション」であることは書いてなく、それどころか「「最良の伴侶の目を通しての叙述・・・・・ バッハ理解に必読の古典的名著」と書かれてあります。前述の「あとがき」にしても、この訳者はこの本を書いたのがマグダレーナ本人ではないことははっきりわかっていたはずで、「一抹の疑念を拭いされきれないでいた」などと言う表現はちょっとどうかと思います。また一般の読者が「あとがき」まで読まなかったとしれば、ずっとこの本がマグダレーナ本人が書いたものと思ってしまうでしょう。やはりこの本の表紙やオビなどに「この本はマグダレーナ本人が書いたものではありません」と表記すべきではないでしょうか、もしこの本が食べ物だとしたら、立派な犯罪となるわけですから(本を食べる人はいないかも知れませんが)。


情状酌量?

 しかしまたそれはそれとして、最初からフィクションとして読むより、最初は本物として読み、後から種明かしをされて「なあんだ」という風になったほうがずっと面白いもは確かで、私も最初からフィクションだとわかっていたら確かに読まなかったかも知れません。私もすっかり「被害者」になってしまったわけですが、情状酌量の余地としては、この本の中でバッハについて書いてあることはほぼ正しいく、この本を読んでバッハに関して誤った知識を身に付けてしまうということは、それほどなさそうです(少しはあるかも知れません)。ただしマグダレーナのキャラクターを除いてですが。


 皆さんはどう思いましたか、この本を読んでみようと思いましたか? 

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         マグダレーナ


13人の子を生んだ2人目の妻

 2ヶ月くらい前だったでしょうか、本屋さんの本棚でこの本を見つけました。バッハについての本などはそれなりに読んだりしていたのですが、こんな本があったのは知りませんでした。アンナ・マグダレーナはバッハの二人目の奥さんで、バッハがケーテンの宮廷にいた頃、バッハ35才、マグダレーナ20才の時に結婚し、13人の子を産みました。有名なメヌエットが入っている「アンナ・マグダレーナの音楽帳」でも知られていますが、これはバッハが妻の音楽の勉強のために書いたものです。


孤独な晩年に

 この本には、マグダレーナがバッハと死別して孤独な生活をしている頃、バッハのことをよく知る人物から「あなたは他の人の誰も知らない先生をご存知なのですから」と勧められ、書いたものとなっています。別の資料などによると、バッハが亡くなった時マグダレーナは50歳、その後は子供たちとは同居せず、孤独な年金暮らしとなり、60歳で世を去っています。この本の中では、この本を書いたのが57歳の時で、亡くなる3年前ということになります。


夫は音楽史上最大の音楽家

 この本ではマグダレーナから見たバッハの音楽と、その人物像ということについて書かれています。なんといっても自分の夫について書いたわけですから、「音楽史上最高の音楽家」と言った感じで書かれているのは当然でしょうが、でも現在一般的に語られているバッハの評価とあまり違わない感じもします。「夫の音楽は、今は忘れられたり、あまり高く評価されていないが、後世においては必ず正しく評される。夫の生存中はヘンデルやテレマンなどが高く評価され、現在では息子達、エマニュエルやクリスティアンの評価が高いが、夫の音楽とは比較出来ない」といった感じで書いています。現在では確かにその通りになっていて、マグダレーナには先見の明があったのでしょうか。


人間バッハ

 またバッハの人物像について、肖像画などの印象では厳格な感じがするが、実際はとても温か味や人間味のある人で、たいへん家族想いであると言っています。時には忙しい時間を割き、家族を連れてハイキングに出かけ、子供たちと大はしゃぎをしたり、また子供達の教育には特に熱心だったと書かれています。マグダレーナにもオルガンやチェンバロを教え、前述のテキストも書いています。作曲のことでは時にはマグダレーナに相談したり、また新しい曲が出来ると真っ先にマグダレーナに聴かせたとも言っています。ある時はマグダレーナをひざの上に載せたままフーガを演奏したこともあったそうです。人間バッハとしては理想的な父親像、および夫像として書かれています。


ドラマティックな出会い

 バッハとの出会については、「ハンブルグの聖カタリーナ教会の前を通ると、教会の中からオルガンの音が聴こえて来て、思わず中に入ってみると、あまりにすばらしい音楽で体が動かなくなってしまった。その弾き手が自分の方にやってくるのに気付き、慌てて外に逃げ出した。その話を両親に話すと、そのオルガンを弾いていたのはヨハン・セバスティアン・バッハという人であることを教えられた」と書いてあり、その後のマグダレーナにはバッハは音楽家としても、一人の男性としても特別な存在になったと言っています。バッハの若い頃から「順を追って話を進める」としながら、話は時々時代を超え自分と一緒に過ごした頃の話になってしまい、「彼の思い出のあれもこれも、あんまりたくさん一遍に押し寄せてくるものですから」と言っていますが、確かにありうることでしょう。


意外と現代的

 ここで書かれているマグダレーナの「バッハ観」は前にも言ったとおり、音楽的にもまた人物像的にも意外と今現在私たちが持っているバッハ観と近い感じがします。普通に考えると、バッハの音楽に対する評価は、18世紀中頃と今日とではかなり違うのではと思いますが、この本の中で書かれているマグダレーナのバッハの音楽観は私たちのもとそう変わらないというか、ほとんど違和感がありません。バッハの人物像にしても、多少美化されているとしても私たちが「こうあって欲しい」といったイメージにかなり近いものになっています。むしろ本当はもっと頑固で扱いにくい人だったのではと思いますが、結構物分りもよく、特にマグダレーナには優しかったようです。また時々出てくる逸話などは、別の本などで読んだようなものも多いのですが、身近で直接見聞きした人の言葉ということで、やはり重さは違います。


バッハの音楽を正しく理解できるのは

 またバッハの名言といえるような言葉もいくつか書いてありますが、特に印象的だったのは、「僕が演奏するのはね・・・・ 世界の一番優れた音楽家聴いてもらうためなんだ。おそらくその人はその席にいないだろうけど・・・・ しかしいつもその人がいるつもりで演奏するのさ」。それに対しマグダレーナは「その人はいつもそこにいるじゃありませんか」と応えたとしてあります。確かにそのとおりだと思います。バッハの音楽を正しく理解出来るのは確かにヨハン・セバスティアン・バッハ、その人しかいないかも知れません。


私しか・・・・

 これまでアンナ・マグダレーナ・バッハについては、バッハの二人目の妻で、子供を13人生み、メヌエットで有名、と言った程度のことくらしか知らず、実際にどんな性格の女性だったかなどは全くわからなかったのですが、この本を読むと、そのキャラクターもだいぶはっきりわかってきます。 マグダレーナがこの本の中で最も言いたかったのは、もちろんバッハの音楽的偉業でしょうが、それに加え自分自身のこととして「私は自らの人生すべてを音楽史上最大の音楽家、ヨハン・セバステイアン・バッハに捧げた。その音楽もさることながら、生身の人間としてのバッハを最もよく知っているのはこの私。またバッハが最も愛した女性も、この私!」といったことも言いたかったようにも読み取れます。もちろん実際の文章はたいへん丁寧に、また謙虚に書いてあります。


1台のギター?

 些細なことかも知れませんが、この本を読んでいて、ちょっと気になる点がありました。この本の中でバッハの遺品として、いろいろな楽器の中に1台のギターがあったと書いてあります。他の資料からすれば、おそらくリュートのことを言っているのではないかと思いますが、どうしてギターになってしまったのでしょう? まさかマグダレーナがギターとリュートの区別が付かなかったなどというこはないでしょう。あるいは翻訳の時に「リュート」が「ギター」になってしまったのでしょうか。ドイツ語ではギターは「Gitarre」、リュートは「Laute」と表記され、だいぶ違うはずですが? 


ラウテンクラヴィツィンベル?

 さらに「ラウテンクラヴィツィンベル」なる楽器が登場しますが、この楽器についてマグダレーナは通常のチェンバロよりも「ずっと長く音を保持することができるもの」と言っています。しかし「ラウテン」とはリュートのこと、「クラヴィツィンベル」はだいぶ変なカタカナ表記ですが、チェンバロで、まとめれば「リュート風チェンバロ」と言うことになります。この楽器は我々ギターをやるものにとっては、バッハが自分で作曲した「リュートのための作品」を演奏するための楽器として知られています。リュート風の音を出すわけですからどちらかと言えばミュート気味の音だったでしょうから、この説明では全く逆になってしまいます。これはいったいどうしてなのでしょう? この本の中ではマグダレーナは特に上手ではないが、オルガンをはじめ、鍵盤楽器は一通り弾けると言っていて、鍵盤楽器については詳しいはずです。本筋とは関係のない話ですが私たちにはちょっと気になる話です。

 今日(7月25日土曜日)、水戸芸術館で水戸市民音楽会があり、水戸ギター・アンサンブルも参加し、演奏しました。今年は25日(土曜日)、26日(日曜日)とも24団体の参加があり、ますます出場者も多くなっています。

 水戸ギター・アンサンブルは6月のひたちなかでの演奏会で弾いた曲から、「剣の舞」と「ファランドール」を演奏しました。


 これだけ多くの団体が出演しているにもかかわらず、ほとんど予定通りに進行出来ているのは、参加者や関係者の気遣いと努力によるものでしょう。
 

 「ジャンベ」というアフリカの太鼓を伴奏に用いた「ヤマハ・ゴスペル・かわまた」の演奏は観客からも熱い拍手がおこり、印象的でした。
譜例 001


タレガ : エンデチャ

 前回は強弱を中心とした、古典的、あるいは穏やかな曲の場合の歌わせ方について話をしました。今回はもっと強い表現、つまりテンポの変化を主とした表現法の話をしましょう。譜例はタルレガの2曲セットの小品「エンデチャ、オレムス」の「エンデチャ」の方です。曲の説明は省略しますが、エンデチャとは「エレジー」、つまり悲しい歌です。美しく弾くことも大事でしょうが、やはり悲しさが伝わってこないとならないでしょう、今回はそのための方法についての話です。


クレシェンドとデクレシェンドで

 上記の譜面を、前回お話したように、まず2小節ごとにクレシェンド、デクレシェンドを繰り返し、そのフレーズ(正確には動機)の終わりでほんのちょっとテンポを落とすといった方法で弾いてみてください(五線譜の下に書いてあるように)。もちろんこの時、美しい音でレガートに弾けると言った事が前提となります、もしそうできない時は主旋律だけ単音で弾いてみて下さい。なおフレーズの終わり、つまり2小節目や4小節目の冒頭のところは和音の繋がり的にもデクレシェンドとなります。また6小節目からは和音が2つずつ「解決」となるので、それぞれデクレシェンドとなります(括弧の付いたデクレシェンド)。ということは7小節目などは小さなデクレシェンドをしながら、全体にはクレシェンドするような形になります。


テンポの変化も加える

 以上のことが出来れば、この曲の感じはだいぶ出てきます。またさっぱり感もあり、好みによってはこうした演奏のほうがよいかも知れません。しかし「エレジー」として、聴いている人を「泣かせ」ようと思う場合は、ちょっともの足りないのではないかと思います。そこで五線譜の上に書いたように強弱の変化にアチュレランドとリタルダンドを加えます。記号だけではわかりにくいと思いますので、直線のグラフを添えました。線が上にある時は速度が速く、下にある場合は速度が遅いと考えてください。大雑把に言えば、クレシェンド=アチュレランド、 デクレシェンド=リタルダンドと考えてよいですが、9小節目からはデクレシェンドしながらテンポを上げた方がよいでしょう。また最初の「ラ」の音は長めにするとよいでしょう、アウフタクト(裏打ち)で始まる場合はその方がよいとされています。


今はとても楽しい気分でも

 以上のようにすると、より強い表現、つまりとても悲しい感じになったのではと思います。人間本当に悲しい時には冷静にはしていられませんから揺れ動く感じがあったほうが、よりリアルなのではと思います。時に9小節目あたりから悲しみが込み上げてくる感じが出れば最高だと思います。この時前に話した俳優さんたちのように「なりきる」ことも大事なのではと思います。特に皆さんが今日、悲しいことなんて何にもないとしても、このような曲を弾く時、あくまでもバーチャルな世界でですが、とても悲しい気持ちになりきるのも必要なことでしょう。そういった自分の気持ちや気分をいろいろ変えて遊ぶのも音楽の楽しみ方の一つかなと思います。


テンポはしっかりとコントロール

 ただし前にも言ったとおり、テンポを変えるといのは強い薬とと同じで、その使い方を間違えるとその曲を台無しにしてしまうことがあります。それを避けるには、テンポを変える時しっかり「テンポをとる事」が大事です。矛盾する言い方かも知れませんがテンポを速くしたり、遅くしたりする時、しっかりと、場合によっては体でテンポをとるわけです。むしろ一定のテンポで弾く時よりテンポを変える時の方がしっかりとテンポを刻む必要があります。結果的には速くする時も、遅くする時も「だんだん」に、つまり一定の割合で速くなったり、遅くなったりしなくてはなりません。確かにこれは言葉で言うほど簡単ではなく、かなり練習しなければなりませんが、ここで前に言った「正確なテンポでメロディが弾ける」と言うことが必要になってきます。正確なテンポで弾けなければ、「だんだん速く」とか「だんだん遅く」とかも出来ないからです。


あまり台所事情は知られたくない

 これらのテンポの変化をどの程度させれば良いのかという事ですが、結局のところは弾く人の感性ということでしょう。しかし聴いている人にはあまりそのテンポの変化をわからせたくない、ぼうっと聴いていれば一定の速さで弾いているように弾けたらよいと思います。聴いている人には速さを変えていることではなく、悲しい気持ちの方を聴きとってもらいたいと思います。おそらく一流の料理人たちは、お客さんにどういった食材をどの様にさばいたか、とか隠し味に何を使っているか、など厨房の事情などを知ってもらうより、その料理をおいしく食べてもらうことを一番に考えているのではと思います。


オレムスの方は

 「オレムス」のほうについても若干触れておきましょう。「エンデチャ」と「オレムス」もともとは別な曲ですが、タレガとしてはセットで演奏することを念頭に置いているのではないかと思います。「オレムス」は8小節しかない短い曲で、無窮動的に16分音符が続きますが、やはり「歌」と考えてよいのではと思います。4小節のフレーズ2つで出来ていますので、基本的な方法としては「エンデチャ」と同じでよいと思いますが、演奏する時の気持ちとしては物理的に強弱や、テンポを変化させるというより、前に言った「力をいれて、抜く」といったような気持ちで弾くとよい思います。また無窮動的な曲であるが上に、4小節目や8小節目の「ブレス感」はちゃんとあった方がよいでしょう。

 
譜例


フェルナンド・カルリ : アンダンテ イ短調

   *上がってゆく場合はクレシェンド、下がってゆく場合はデクレシェンド

 今回から具体的な例を用いて話を進めます。まずシンプルな例からですが、譜例の上の曲は前にも出てきたカルリのイ短調の「アンダンテ」の後半の8小節です。このメロディは4小節ごとに「上がって、下がる」というようにたいへんシンプルに出来ていて、歌わせ方(フレージングと言った方がよいかも知れませが)を練習するには都合が良いものです。このような場合は楽譜にも書いたとおり(強弱記号などは私が付けたものです)、メロディが上がってゆく場合は「クレシェンド」、下がってゆく場合は「デクレシェンド」と単純に考えてよいでしょう。


   *人生のピークは後にある方が

 もうすこし細かく言うと、クレシェンドの方がデクレシェンドよりも長くなり、譜面で一番高い「ソ」はフレーズ(4小節)の中央ではなく、やや後ろ目になっています。何事においても「これからどんどん盛り上がってゆく」のは楽しいのですが、「下り坂」はあまり楽しくありません。したがって「上り」が長く、「下り」が短いほうがよいのです。人生のピークも後のほうにあるほうがよい人生と言えると思います。またこのフレーズ中最も高い音の「ソ」だけを大きくするより、その前後の「ファ」も同じくらい大きくして、槍ヶ岳のような「尖った」山にするのではなく「高原」状にするほうが穏やかなフレーズとなります。


   *基本はイン・テンポ

 このようなシンプルな曲の場合、歌わせるといっても、基本的には音量の変化だけで表現し、テンポは変えない方がよいでしょう。確かに8小節目のところ、つまりこの譜面の最後のところで本当にわずか、聴いている人にはわからないくらいテンポを落としてもよいでしょうが、テンポを落とすという意識で弾くと、どうしても不自然になりがちですから、テンポを落とすという気持ちではなく、最後で力を抜くといった気持ちの方がよいでしょう。そのことで音量が落ちるとともにテンポがほんの少し落ちるでしょう。もっとも本来、フレーズの最後で音量やテンポを落とすのも、結局最後で力が抜けた感じを出すためです。


   *実際は2声になっている

 蛇足かも知れませんが、メロディである上声部の「ド、ド、レ、レ、」という音が切れたりしては強弱どころではありませんから、それらをレガートに弾けるようにしなければなりません。またこの曲の場合は単旋律ではなく、低音部にも「ド、ド、シ、シ」といったメロディもあるので、それもメロディとして聴こえるように弾いてください。また4小節目の8分休符は右手で消音をしているとテンポが乱れるので、左指を離すだけでよいでしょう。もちろん8小節目の4分休符は消音しないと「一区切り」になりません。またその休符が短くなると落ち着きません、気持ち長めくらいの方がよいと思います。ただしあくまで「イン・テンポ」の範囲内です。




カタルーニャ民謡~リョベット編 : 聖母の御子

   *2+2+4

 下の譜例はカタルーニャ民謡の「聖母の御子」のメロディだけを書いてものです。こちらも「上がって、下がる」といった点は上のカルリの曲と同じですので、基本的には同様な考え方でよいと思いますが、フレーズの出来方としては4小節+4小節ではなく、2小節+2小節+4小節と考えられます。楽譜を見ると後半も2小節+2小節とも見えるのですが、そうすると全体が細切れになりすぎるので、後半は4小節のフレーズと考えた方がまとまりが付きます。強弱の付け方についてはカルリの場合と全く同じですが、この曲の場合はフレーズの最後では若干テンポを落としてもよいでしょう。でも4小節目のとところは本当に少しです。8小節目のところはある程度テンポを落としたことがわかってもよいでしょう。


   *以外と難しい曲だが、イメージだけはしっかり

 この曲はメロディはシンプルなのですが、和音が入ると結構難しくなり、レガートに弾くにはかなりの技術が必要となります、決して易しい曲とは言えないでしょう。始めから楽譜どおりに練習を始めると、和音の押さえかたばかりが気になって、全然メロディにならないこともありますから、最初にメロディだけ弾いてみて、そのイメージをしっかりと身に付けておくと良いでしょう。





テンポは効き目の強い薬、副作用に注意

 今回は二つの曲を例に取り、特に音の強弱による歌わせ方、言い換えればメロディらしく聴こえるための方法を話しました。古典的な曲やシンプルな曲では主に強弱によって表現し、テンポの変化の方は控えめにした方がよいでしょう、あくまでも不自然にならないように注意します。テンポというのは効き目の強い薬のようなもので、上手く使えばたいへん良い効果が現れますが、使い方を間違えれば思わぬ副作用が現れます。またテンポの変化はほんの少しでも効き目が十分にあらわれます。


ギターは息をしなくても死なないが

 当たり前のことですが、歌を歌う場合は息継ぎをしなければなりません。その結果、必ず「切れ目」が生じ、その息継ぎと息継ぎの間が一つのフレーズとなるわけです。ギターの場合は弾いている人は息をしなければなりませんが、ギターの音そのものは別に息をしなくても大丈夫ですから、ずっと切れ目なく弾くことも出来るわけです。しかしそれでは「歌っている」ようには聴こえず、歌っているように聴こえるようにするには、擬似的に「息継ぎ」をしなければなりません。その場合フレーズの切れ目で音を一度止めるということだけではなく、一つのフレーズの中で、「だんだん力が入ってきて、抜けてゆく」といったものが必要だと思います。つまり実際に「息を吸ったり、吐いたり」する代わりに、「力を入れて、抜く」わけです。あるいはそういったイメージでメロディを弾くと言った方がよいでしょうか。


何か言っているように聴こえる

 また「フレーズ」という言葉はもともとは文法の用語だと思いますが(フレーズ=成句)、フレーズからセンテンス(文)が出来、さらに文章が出来るというようになっています。音楽もそれとほぼ同じように、動機(モチーフ)から小楽節(フレーズ)が出来、小楽節から大楽節(センテンス)出来、さらに一つの曲となります。確かに音楽というものは基本的に抽象的なものですから、それが何を表現しているのかとかは具体的にはわかりません。しかし「よくはわからないが、この音楽は何かを語りかけているようだ」というように聴こえることが必要なのだと思います。その「何か」が聴く人によって全然ちがったものであっても。

 昨日(7月12日) 石岡市ギター文化館で大萩康司ギター・リサイタルを聴きました。大萩君については紹介は不要かも知れませんが、現在の日本を代表する若手ギタリストと言えるでしょう。もっともそろそろそういった「将来のギター界を背負って立つ若手ギタリスト」とか「日本ギター界のプリンス」といった形容詞も不要になってきているのではと思います。また「ハバナ国際ギター・コンクール第2位」とか、「パリ・コンセルバトワール卒業」とかといったことも、今となってはあまり意味を持たないでしょう。


 この日のギター文化館はいつになく聴衆で溢れ、その結果私が座れた場所はかなり端のほうになってしまいました、やはり相変わらずの人気です。


 大萩君の演奏(音楽といったほうがよいかも知れませんが)は確かに他のギタリストと違います。それを言葉にするのはたいへん難しいのですが、この会場に来ている人は多かれ少なかれ、それを感じているのは確かなことだと思います。その違い、あるいは大萩君の演奏の最も根本的な特性とか言ったものを的確な言葉で表現するのは、もちろん私には不可能ですが、的を得ていないことを恐れず言えば、「独自の音響空間」を持っているということでしょうか。優れた演奏家というのはその会場のすべての響き(空気といってもよいかも知れません)を支配してしまいますが、大萩君もその一人と言えるのではないかと思います。


 もちろん大萩君の演奏は美しいのですが、その美しさは単に一音一音が美しいとか、メロディの歌わせ方が美しいということだけでなく、ギターの「響き」そのものが美しいのだと思います。ギターの「響き」に関して独自で、またたいへん繊細な感覚を持ったギタリストなのでしょう。それはこの日の前半に演奏され、大萩君がデビュー当時から取り組んでいるキューバの作曲家、レオ・ブローウェルの作品について特に言えるように思います。前半の最後に演奏された「ギターのためのソナタ」はこれまで聴いたこの曲の演奏とはかなり違った印象を持ちました。クラシック音楽にとってはその音楽の構造も大事なのですが、美しさがなければ、それも意味を持たないのではないかと思います。特に印象に残る演奏でした。


 後半の最初に演奏されたピアソラの「5つの小品」はタンゴの巨匠アストル・ピアソラの唯一のギター独奏曲ですが、こちらは音楽の性質上、ブローウェルとは若干違ったアプローチのようです。リズムのキレとか、音の多彩さとか、あるいは曲自体の面白さとか、とても楽しめました。最後に演奏されたアッセルボーンの曲や、本日は演奏されませんでしたがルイ・ゲーラの曲では、一見自由に弾いているようですが、装飾的な部分の変更や追加などは作曲者からの了承の下におこなっているとのことで、律儀な面もあるギタリストのようです。また今現在は19世紀ギターにも興味を持っているとのこと、今後はそうしたレパートリーも聴けるかも知れません。なおこの日のリサイタルの演奏曲目は以下のとおりです。


 円柱の都市(まち)~題名のない小品による変奏曲 (レオ・ブローウェル)

 8つのコントルダンサス (マヌエル・サウメル~レオ・ブローウェル編)

 ギターのためのソナタ (レオ・ブローウェル)

 5つのタンゴ (アストル・ピアスラ)

 想いの届く日 (カルロス・ガルデル~ビクトル・ビジャダンゴス)

 老いた賢者、風の道 (アリエル・アッセルボーン)



*さらに鳴り止まぬ拍手に応え、アンコールとして、 「セリエ・アメリカーナ」より「プレリュード」、 アルハンブラの思い出(タレガ)、 タンゴ・アン・スカイ(ディアンス)、 11月のある日(ブローウェル)の4曲が演奏されました。

メロディがメロディらしく聴こえるためには

 前回の話で「メロディがメロディらしく聴こえる」ということについて若干補足します。まずは基本のことですが、音の長さを正確にとること。このことと「歌わせる」こととはあまり関係がなさそうに感じるかも知れませんが、たいへん重要なことです。次に音質や音の大きさをそろえること。メロディらしく聴こえるためにはまずメロディとしてふさわしい音、つまり豊かで美しい音でなければなりません。やせ細った貧弱な音や、雑音ぽい音や硬めの音ではダメでしょう。また音の大きさもそろえなければなりませんので、大きさのコントロールも必要です。

 
 さらに最も大事なこととしては、音の「余韻」を聴くこと。確かにギターの音は弾いた瞬間に大きな音がして、その後はだんだん小さくなってゆきます(音の減衰)。しかし小さくなるとはいってもこの余韻がギターにとってはとても大事なのです。「ギターは余韻の楽器である」などと誰かが言ったと思いますが武満徹の音楽を聴くとこのことがよくわかります。歌やヴァイオリンなどは次の音に移るまで同じ大きさですが、ギターなどの場合、音は一旦小さくなってから次ぎ音に移ります、例え小さくなったとしてもこの余韻を聴いていることはとても大事なことで、次の音に移るまで余韻が聴こえていなければなりません。その余韻が聴こえる人、あるいは聴こうとする人はギターが上手くなりますが、そうでない人は上手にはなりません。


たくさんのメロディを弾く

 私の教室では初めてギターを習う場合、単旋律の練習をたくさんやって貰う話をしました。今現在ではまるまる一冊のテキストが単音、および単旋律の練習となっています。最初の段階で音階練習などを中心にレッスンする先生もいると思いますが、私の場合、いろいろな曲のメロディをたくさん弾いてもらうことにしています。確かに指のトレーニングとしては音階練習のほうが効率的なのですが、それ以上にギターでメロディを弾く感覚はもっとも大事なので、そちらの方を重視しています。これには譜面の読み方とか、音の長さの取り方を練習する意味があることは前にもお話しました。もっともこれまでピアノなどをやっていてそうしたことに全く問題のない人もいますので、そうした人の場合は逆に音階練習を中心にレッスンを行います。


メロディに集中する

 一応単音のメロディが弾けるようになったら和音やアルペジオの練習となりますが、その時でも二重奏の形でメロディの練習も行います。低音や和音の付いたメロディ、つまり独奏曲の練習に入るには1~2年くらいしてからになりますが、そうした伴奏が付くと、どうしてもメロディがメロディらしく聴こえなくなってしまいます。その大きな理由としては当然のことながら左右の指ともそれだけ難しくなるので、なかなか思ったように指が動かないということですが、それ以上に大きな理由として、耳や神経がメロディに集中出来なくなるということがあります。

 独奏曲を弾くにはメロディと伴奏を同時に「弾く」だけでなく、同時に「聴かなければ」なりません。初心者の段階ではこれがなかなか難しいことです(もしかしたら中級者や、上級者でも)。そのような場合にはまずメロディだけを弾いて、そのイメージをしっかりとイン・プットします。そして伴奏を付けた場合でもそのメロディに意識を集中します。それらを交互にやってみると、伴奏が付いた場合でもだんだんメロディらしくなると思います。それが出来るようになったら、逆に伴奏の方に集中します。特に開放弦の低音は間違えやすいので要注意です(この話も前にしました)。


指が上手く動かなくても

 実際に低音や和音の付いたメロディを弾いた場合、なかなか単音で弾いたようにはならないのは決して初心者だけではなく、上級者にも言えることですが、そのためにも単音でメロディがきれいに弾けることが大事になるでしょう。仮に指の関係などでなかなか思うようにならない点があったとしても、単音でメロディがきれいに弾けていて、またそのイメージが自分の中にあれば、いずれはそのイメージに近づいてゆくのではないかと思います。さらに状況が許されれば、一方のパートがメロディのみ、もう一方のパートがアルペジオなどの伴奏といったシンプルな二重奏をやってみるのはとても良いことでしょう。
 今日、ひたちなか市の加瀬病院で、当病院で出産を控えたお母さん方などを対象とした、「マタニテイ・コンサート」があり、約1時間ほどギターの演奏を行いました。


 会場はこの病院のおしゃれなロビーで、これから出産を控えたお母さん、および新生児のお母さん、看護士さんなど数十名の人達に、私の演奏するギターを聴いていただきました。この病院では年に数回同様の企画が行われていますが、ギターの演奏は初めてとのことです。クラシック・ギターを聴くのは初めての人が多いのではと思い、プログラムの方は

有名な映画音楽を2曲・・・・・カヴァティーナ、禁じられた遊び

クラシック・ギターの有名な曲を2曲・・・・・月光、アルハンブラの想い出

お母さん方がよく知っていそうな曲を2曲・・・・・涙そうそう、LOVE LOVE LOVE

南米の曲・・・・・ブエノスアイレスの夏、鐘の響き

スペインの曲・・・・・入り江のざわめき、アストウリアス

といろいろな曲を用意しました。赤ちゃんはお母さんのお腹の中にいる時から音は聴こえているそうですが、はたして気に入った曲があったでしょうか?その赤ちゃんのために、司会を務めていただいたイ・ソリスティ・イバラキの田口先生が「シューベルトの子守歌」を原語と日本語訳で歌い、私が伴奏しました。さらに私の独奏でシューマンのトロイメライを演奏しました。田口先生は少し前に手術をなさったばかりということでしたが、だいぶ元気になられたようです。



 今日はいつもとはちょっと違った場所で、またいつもとはちょっと違った人たちに演奏を聴いていただいて、楽しい1日でした。
 このテーマも3回目になりますが、なかなか具体的な本題には入っていません。いよいよ今回から具体的な話を始めましょう・・・・・・・と言いたいところですが、またちょっと遠い話になってしまいます。


皆さんのギターの始まりは

 ところで皆さんはどんな形でギターを始めましたか? 当ブログを読んでいる人はたぶんギターを弾いている人だと思いますが、どんな風にギターを始めたのでしょうか。最初からギター教室でギターを始めた人、学校のサークルなどで始めた人、CDやレコードなどを聴きながら独学で始めた人、なんだかわからないけど今ギターを弾いている人・・・・・ などなど、いろいろな人がいると思いますが、私の場合はどうだったのかな、強いて言えば最後の「なんだかわからいけど今ギターを弾いている人」かな?


溝渕講五郎編の「カルカッシ・ギター教則本」

 私が最初に出会ったギターのテキストと言えば、溝渕講五郎編の「カルカッシ・ギター教則本」でしょうか、兄がギター教室に通っていたので小学生の頃から家にこの教則本がありました。その気になれば弾くことも出来たのでしょうが、知っている曲もなく、当時は全く弾いたことはありませんでした。この教則本で実際に練習するようになったのは、大学のギター部に入ったからで、その後ギター教室で教えるようになってからも10数年くらいこの教則本を使っていました。当時はギターのテキストとすると最もポピュラーなもので、「これをやらないとギターは弾けない」ようなイメージがありました。


悪名高き

 このテキストは19世紀始め頃のギタリストのマティオ・カルカッシ(1792~1853)が書いた教本を基に溝渕氏がキュフナーやコストなどの練習曲を追加するなどして改編したものです。若干の単音の練習とアルペジオ練習などが添えられてはいますが、すぐに独奏曲の形の練習曲となります。確かにそう難しくない練習曲ですが、全くギターを弾いたことのない人や、音楽の基礎知識がない人などが練習するのはちょっと難しいかも知れません。なんといっても有名な曲は最後の方に「アルハンブラの想い出」などがあるくらいで、初級の段階では全くありません。この教則本でギターを覚え、上手になった人はたくさんいるとは思いますが、同時にこの教則本によりギターの上達を断念したりした人は、ずっと多かったのではないかと思います。そう言った意味では「悪名高き」テキストと言えるかも知れません。しかしこのテキストもある段階においてはたいへん有用なものであるのは間違いなく、「ハサミ」ではないですが何事も「使いよう」かも知れません。今現在私の教室ではこのテキスト全体は使っていませんが、その中の練習曲はかなりの数を教材として用いています。


単音の練習なんて初心者のすること

 私がギター教室でギターを教えるようになってからは(茨城大学在学中より教えるようになったのは以前お話したとおりです)、確かにこのテキストも用いましたが、全くギターが始めての人にはもう少し易しいテキストを使いました(阿部保夫著のテキスト)。カルカッシ教則本に比べ、練習曲ではなく身近な曲を簡単にアレンジした教材が中心で、確かに初心者のレッスンには適したものでした。それでも単旋律の練習は2曲程しかなく、その後は和音を含む練習、つまり独奏曲的になっていました。難し過ぎて先に進めないとかということはないのですが、単旋律の練習の不足は後になってだんだん現れてくるような気がしました。一般的に言って、ギターという楽器は単旋律を弾く楽器ではないと考えられていると思います。上記のテキストに限らず、ほとんどのテキストはそうした考えのもとに出来ています。ギターでメロディだけを弾くというのは、あくまで「仮」の姿で、練習のためにのみ行うという考えが一般的だったのだと思います。また習う人も単旋律しか弾かないと、よほど初心者のような気がしてしまうのでしょう。


結局は自分で作るしか

 5,6年ほどギターを教えているうちに、単旋律の練習がとても重要だということを思うようになりました。これには本当にいろいろな理由があります。指に関する基本的なテクニックから、音楽の基本的な事柄(譜面の読み方、音符の長さの取り方)など、単旋律の練習でやるべきことは本当にたくさんあります。そうした基本的なことを覚えるにはなるべく単純なもので練習しないと出来ません。和音などが入ったり、多少なりとも複雑なものではそうした基本的なことに意識が行かなくなります。といったわけでその頃から手書きでテキストを自ら作るようになりました。その後何度も改定したり、増やしたりし、12~3年前からは手書きからパソコンに変わりいっそう教材も増え、今日に至っています。今現在では教材のほとんどが自分で作ったものになっていますが、最初のきっかけとしては単旋律の練習が市販のテキストには少なかったからということです。


 
これこそ上達の近道!

 今回のテーマは「歌わせる」ということで、それにはいろいろ細かい技術的なこともあるのですが、まず第1歩としては、特に変わったことをするわけではないのですが、単音のメロディをたくさん弾くこと、1曲1曲を丁寧に練習するのも大事ですが、なるべくたくさんの曲を練習するのも大事です。そして自分の弾いているメロディがメロディらしく聴こえているか、しっかりと聴くこと。特にギターを始めたばかりの人にはこのことが絶対に必要だと思います。「早く伴奏の付いた曲を弾きたい」などと言わず、単旋律が上手に弾けることこそが上達の近道です!
 

前回は

 前回の話では、人はしゃべる時、無意識に抑揚を付ける、その延長線上である歌を歌う時にも何らかの心の動きが伴う、それに対して同じ音楽でも楽器、特にギターを演奏する時などでは別に心の動きなどとは全く関係なく演奏出来る、といったことを話しました。ギターを演奏する時も、「気持ち」とか「感情移入」がもっとも大事といた結論になってしまいそうですが、気持ちだけでは済まない問題もあります。前回の話に関して言えば、ギターの演奏でメロディを「歌わせる」ということは、皆さんが日常会話で無意識に付けているイントネーションというより、ドラマなどでの俳優さんたちのセリフの言い回しの方に近いと思います。


「意識的」に「無意識」を行うのは難しい

 テレビ・ドラマの中では何気なく聴いている俳優さんたちのセリフは本当に自然に聴こえますが、「無意識」に行うことを「意識的」に行うことは決して簡単なことではないと思います。それは厳しい稽古や才能などにより出来ることで、いろいろな細かいテクニックもあるでしょう。しかしまた俳優さん自身がその「役」に「なりきる」必要もあり、その役の人物がどのような性格で、どのような人生を歩んできたか、またその人物がそのシーンにあるような状況になったときどのような心の動きがあるか、などを真剣に考えたりもするのでしょう。ギターなどでメロディを「歌わせる」ということは、それらのこととよく似たことではないかと思います。ただ気持ちを込めて演奏すればよいなどということではなく、いろいろ基本的な技術の習得が必要でしょうし、「歌っているように」聴こえるための細かいテクニックもあると思います。また何といってもその音楽がどういう音楽なのかということもじっくりと勉強する必要もあるでしょう。


「そこはもっと歌って!」を連発するのは

 楽器でメロディを「歌わせる」ということは一言でいえば楽器を演奏する時、「まるで歌のように聴こえる」ように演奏するということと言えます。ということは本当に歌を歌っている場合は「歌わせる」とは言わないでしょう、声楽の先生はレッスンの時に「そこはもっと歌いなさい」とはあまり言わないのではないかと思います。第一、本当に歌っている人に「歌いなさい」も変だと思いますし。また同じ楽器でもフルートやヴァイオリンなどは音的にも歌に近いので、歌わせることはわりと自然にできるのではないかと思います。おそらくこの「歌いなさい」を最も多く発声する音楽の先生はピアノの先生ではないかと思います(勝手な推測ですが)。


歌うことが最も不得意な楽器

 ピアノの場合はポンポンといった打弦音ですから、歌っている響きとだいぶ違います。確かにピアノは便利な楽器で、これ1台でコンサートを行うこともできればオーケストラの代わりにもなり、声楽やいろいろな楽器の伴奏も出来ます。またなんといっても作曲をする場合には欠かせない楽器です。一つだけ欠点があるとすれば、それは人間の声とはだいぶ違うという点です。メロディ弾くこと、つまり「歌うこと」が最も苦手な楽器だといえると思います。ピアノが出来た頃(18世紀初頭)はチェンバロとあまり変わりがなく、音も軽く、余韻もあまり長く響かず、どちらかといえば和音やアルペジオ、細かいパッセージなどが中心で、メロディを歌わせるということはあまりしなかったようです。しかしその後19世紀になるとピアノは万能の楽器としてヨーロッパ中に普及し、「歌わせるのが苦手な楽器」などとは言ってられなくなります。楽器も改良に改良を重ね、余韻も長く豊かになり、かなり歌わせやすくなってゆきました。もちろんそれを使用するピアニストたちも「歌っているように」聴こえさせるために、いろいろな演奏上の努力や工夫を重ねていったわけです。19世紀の半ば頃には、ピアノはすっかり「歌わせる」楽器となり、ショパンの「ノクターン」やメンデルスゾーンの「無言歌」など、まさにピアノのための「歌」といえる曲が作曲されるようになります。ピアノという楽器はもともと歌わせるのが苦手な楽器なので、逆にピアニストたちは「歌わせる」ことに力を注ぎ、そのことを克服してきたと言えるでしょう。


ギターだって他人事ではない!

 弦を指で弾いて音を出すギターもピアノと同じように歌うのが苦手な楽器ですから、ピアノの先生同様にギターの先生も「そこはもっと歌いなさい」を連発してもよいのですが、でも一般にギター教室の先生はあまりこの言葉を使っていないのではないかと思います、かく言う私自身もそうです。ギターの場合はクラシック・ギターといえどもポピュラー系、あるいはラテン系の音楽の影響が強く、メロディを歌わせるというより、リズムの「キレ」とか「ノリ」とか、あるいはコードの響きなどの方を重視するギタリストが多いと言えます。もっともギタリストの中でもヨーロッパの伝統的な音楽のを一身に受けて育ったような人は別でしょう(例えばオスカー・ギリアのような)。しかしジャンルを問わずメロディのない曲というのはそんなにないでしょうから、ギターを弾く上でも、当然この「歌わせる」という技術は絶対に必要なものといえます。ただまだまだ指導する側も、学ぶ側もそれほど意識していない現実もあるのではないかと思います。