勘の鋭い人は
2番目の妻のアンナ・マグダレーナが、夫、ヨハン・セバスティアン・バッハについて書いた本の続きですが、勘の鋭い人はもう気が付いたかも知れません。またすでにこの本を読んだという人、この本について知っていたという人もいるでしょう・・・・・・・ そうです! そのとおりなのです。この本は実は真っ赤なニセモノ! マグダレーナ本人が書いたものではありません。ネット検索によれば、20世紀にイギリスの女流作家が書いたものだそうです・・・・
なりゆきで
つい私の方も「なりゆきで」前回は本物であるかのような書き方をしてしまいました、ごめんなさい、多少ヒントは入れておいたのですが。私自身もこの本を読んでいる間は偽物とは疑わずに読んでいました。確かにリュートの件の他、多少気になった点もあったのですが、せいぜい何かの手違いとか翻訳の問題くらいにしか思いませんでした。”あとがき”で訳者が「本書が本当にバッハの二度目の妻アンナ・マグダレーナ・バッハの筆になったものだったろうか、という疑念・・・・」と書いているところを読み、はじめて合点がいきました。確かにここで書かれているバッハ像とか、バッハの音楽的評価は20世紀的です。またなぜこの本の中に出てくる逸話がほとんど聴いたことのあるものなのか、ということも理解出来ました。
活き活きと描かれて
というわけで、とんだオチになってしまいました。しかし見方を変えると、この本はフィクションとすれば結構よく出来ています。なんといってもバッハやクラシック音楽に興味のある人、場合によっては全く興味のない人にもとても楽しめる本だと思います。またこの作者はバッハの音楽や、バッハに関する様々なことをたいへんよく研究していて、バッハについて一般的に言われていることと、特に矛盾点もありません。さらに一般的な人物評伝や音楽史などよりもマグダレーナにしろバッハにしろ、たいへん活き活きと描かれていて、その人間像がとてもよく伝わってきます。なんと言っても作家が女性だけに「一人の女性としてのマグダレーナ」がたいへんよく描かれていてます。というわけで、なかなか魅力のある本なのですが、ただ唯一の問題は「本人のあずかり知らぬ」ところで書かれているということだけです。唯一の問題ですが、残念ながら小さな問題ではないでしょう。
ちょっと現代的過ぎ
さらに細かい問題点をあげれば、これは当然というか、やむを得ないことでしょうが、バッハの音楽に対する見方が現代的過ぎるという点でしょうか、この本の中で書かれているマグダレーナのバッハの音楽に関するコメントは21世紀の我々にとって違和感がなさ過ぎる気がします。とはいっても「本物」のマグダレーナが夫の音楽をどのように考えていたか、などということはわかるはずもないでしょうし、この作家が得られるバッハについての知識も当然その人が生きていた時代、つまり20世紀のものということになります。となれば「本当の」マグダレーナが夫の音楽をどのように考えていたかということが気になりますが、実際のマグダレーナはそれについて何も書き残していないようなので(たぶん?)わかる術はありません。
この楽器が妙に気になる
あまりリュートのことにこだわるのも何ですが、この作家はリュートに関する知識はあまりなかったよいですが、リュートのことを「ギターに似た楽器」ということで、「ギター」としてしまったのでしょうか。またなぜ「ラウテンクラヴィツィンベル」の説明をあえてしたのでしょうか、もしよくわからなかったとしたら、別に詳しい説明などする必要もなかったと思うのですが。でも気になったのでしょうね、この楽器が。
尊敬と深い愛情
この本を読む限り、この作家はバッハの音楽はとても好きで、またバッハのことを尊敬していたと考えられます。さらに、この本を書いている時には作家はアンナ・マグダレーナ・バッハになりきって、バッハの音楽を崇拝すると共に、バッハその人にも愛情を感じていたのではないかと思います。この本の最初のところで、老いたマグダレーナがバッハについて書くことの喜びを語っていますが、この作家もマグダレーナになりかわってバッハについて書くことに喜びを感じていたのでしょう。また女性の心理は私にはよくわからないところもありますが、この本で書かれているマグダレーナの「女性的な部分」は実はこの作家のものだったのかも知れません。
この本を食べる人がいたとしたら
他のバッハに関する本では、この本のことについては全く触れられていません(だから私もこの本の存在を最近まで知らなかったのですが)。ということはこの本が偽りのものであることは音楽関係者にとっては周知の事実のようです。しかし特に音楽などに詳しくない人が(例えば私のように)本屋さんの棚でこの本を見かけた場合、間違いなくホンモノと思うでしょう。この本の表紙やオビなどにはどこにも「フィクション」であることは書いてなく、それどころか「「最良の伴侶の目を通しての叙述・・・・・ バッハ理解に必読の古典的名著」と書かれてあります。前述の「あとがき」にしても、この訳者はこの本を書いたのがマグダレーナ本人ではないことははっきりわかっていたはずで、「一抹の疑念を拭いされきれないでいた」などと言う表現はちょっとどうかと思います。また一般の読者が「あとがき」まで読まなかったとしれば、ずっとこの本がマグダレーナ本人が書いたものと思ってしまうでしょう。やはりこの本の表紙やオビなどに「この本はマグダレーナ本人が書いたものではありません」と表記すべきではないでしょうか、もしこの本が食べ物だとしたら、立派な犯罪となるわけですから(本を食べる人はいないかも知れませんが)。
情状酌量?
しかしまたそれはそれとして、最初からフィクションとして読むより、最初は本物として読み、後から種明かしをされて「なあんだ」という風になったほうがずっと面白いもは確かで、私も最初からフィクションだとわかっていたら確かに読まなかったかも知れません。私もすっかり「被害者」になってしまったわけですが、情状酌量の余地としては、この本の中でバッハについて書いてあることはほぼ正しいく、この本を読んでバッハに関して誤った知識を身に付けてしまうということは、それほどなさそうです(少しはあるかも知れません)。ただしマグダレーナのキャラクターを除いてですが。
皆さんはどう思いましたか、この本を読んでみようと思いましたか?
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