中村俊三 ブログ

中村ギター教室内のレッスン内容や、イベント、また、音楽の雑学などを書いていきます。

 またワールド・カップの話から始まってしまいますが、今頃は日本代表の次期監督の話題でもちきりと思いきや、なんとまだ日本代表は南アフリカにいる、何とも不思議な感じがします。この1年、というよりこの4年間で最もよいゲームを最も大事な時にした、と言えるかも知れません。これまでの4つのゴールは、すべてとてもすばらしいものだったと思います。その4つゴールすべてに絡んだ本田選手には(遠藤選手のフリーキックも、ボールの奪い合いにならなかったことも含めて、本田選手の無言のアシスト?)、やはり最上級の賛辞がふさわしいでしょう。


 それにしても前回の優勝と準優勝国が、それぞれ1勝も出来ずに帰国するなんて考えられなかったことですね。それだけ実力の差が縮まっているのでしょうが、「盛者必衰のことわり」でもあるのでしょうか。パラグアイは簡単な相手ではなく、結果は予測できませんが、間違いなくよい試合になるでしょう。もしパラグアイに勝つと次の対戦相手はスペイン・・・・ ちょっと気が早いかもしれませんが、そこまで楽しめたら言うことないですね。




タレガの楽譜

 ずいぶん遠回りをしましたが、なんとか楽譜の話に戻れそうです。これまで主にタレガの人物像について話をしてきました。確かにその作曲家の音楽を知るには、その人物像というのは重要な情報ではありますが、しかし最も重要な情報は、やはり楽譜を措いて他にはありません。

 残念ながらこの二つの本(プジョールとリウスの)は、タレガが書き残した、あるいは出版した楽譜についての情報が豊富とは言えません。リウスの書のほうに実筆譜に書き込まれた日付などが若干記されている程度です。

 タレガの楽譜の出版は1902年、つまりタレガ50歳の時に初めて行われ、その後タレガが最期を迎えるまで、作曲、編曲合わせて数十曲が出版されました。タレガの死後も弟子や愛好家の手に渡っていたタレガの手書き譜などが出版され、タレガのギタリストとしての評価が高まると、ほとんど走り書きのような、曲の断片までもが出版されました。

 こうしたことは現在でも進行中と言え、まだ出版されていな自筆譜なども存在していると思われます。今後もタレガの新たな作品などがに出版されることもあるかも知れません(現在知られている曲の異稿などが多いかも知れませんが)。

 以上の経緯などからしてタレガの譜面の信頼度はその譜面によってまちまちで、特に生前自らの校訂により出版されたものと、その後第3者により出版されたものもとには、かなりの違いがあります。タレガの曲を演奏するには、その譜面がどのような経緯で出版され、その信頼度がどの程度なのかも考慮する必要がありでしょう。


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アデリータ ~マズルカ

 さて、それでは具体的にタレガの譜面について話を進めましょう。最初の曲はよくご存知の「アデリータ~マズルカ」です。この曲は1902年に、バレンシアの「アンテック・イ・テナ」社でタレガが始めて自らの作品を出版したものの中に含まれます。この時同時に「アラビア風奇想曲」、「前奏曲第1、2番」、「ラ・マリポーサ」、「グラン・ワルツ」、「ラルゴ~ベートーヴェン」が出版されています。



信頼度 トリプルA

 これらの譜面はタレガの最初の出版とあって、とても入念に準備をしたものと思われます。もちろん曲としてもタレガ自身が高く評価できるものと思いますが、譜面としてもたいへん細かいところまで目が行き届いている感じがします。誤植と思われる箇所も見当たりませんし、曖昧な点なども見当たりません。

 これらの譜面にはタレガの意思が、ほぼ100パーセント込められているように思います。この「アデリータ」をはじめ、この時期に出版された譜面(1903年にも同様に数曲出版されている)は、タレガの譜面の中では極めて信頼度が高く、最上級のものです。評価「AAA」といったところでしょうか。


 上の「アデリータ」の譜面はその1902年の初版の譜面を、そのままコピーして出版されたもので(Chanterelle1社から出ている)、まさにタレガが出版した譜面そのものといえます。この譜面を見ると、まず運指が入念に書き込まれているのが目に付くと思います。特に弦の指定はほとんど曖昧さがないようになっています。それについては他の譜面(多少信頼度の落ちるものでも)でも同じで、タレガの場合、運指はたいへん重要なものであることを意味していると考えられます。

 プジョールの本の中でも、タレガが背中越しに弾いている生徒のギターの運指を、背中を向けたままアドヴァイスしている様子を書いています。その生徒が「マエストロはどうして見ないで私の運指がわかるのですか」と言うと、「そこのところが繋がっていないから」と答えたと言っています。タレガ自身運指にはかなりこだわったでしょうし、生徒たちにも細かく指導していたようです。



表情記号なども細かく

 この譜面にはさらに強弱記号やテンポの変化なども入念に書き込まれています。こうしたことは当然のように思うかも知れませんが、タレガの譜面ではこのように強弱記号などが細かく、矛盾することなく書き込まれているものは決して多くはありません。

 同時に出版された「アラビア風奇想曲」でもクレシェンドやリタルダンドの指示は細かく書き込まれていますが、フォルテやピアノなどの記号はありません。全くそれらの記号が書き込まれていないものも少なくありません。



対比だけではない

 この曲に書き込まれた強弱記号などは、この曲を演奏する場合に重要なだけでなく、他のタレガの作品を演奏する場合にもたいへん役立つと言えるでしょう。それらの記号を細かく見てゆくと、まず冒頭に「p」、そしてホ長調に変わったところに「f」が付けられています。

 短調の部分は「弱く」、長調の部分は「強く」ということですが、「強く」といってもタレガの場合金属的な音やノイズを含んだ音は徹底して嫌ったといえますので、決して美しさを損なう「強さ」であってはならないということになります。

 刺激的な音ではなく、ふくよかな、拡がりのある、明るく、美しい音、というところでしょうか。「p」も同じく、ただ「小さく」ではなく憂いを帯びた美しさが必要でしょう。強弱の対比が付けばよいというわけではなく、それぞれが違った美しさになることが重要でしょう。

 最初の3小節の2拍目にアクセント記号(>)が付けられています。主な理由としてはマズルカとしてのリズムを出すためと考えられますが、これもやはり音色感を損なうものであってはならないと思います。

 4小節目にはクレシェンドの記号の他に「un poco cresc.」と書いてあります。これは「少しクレシェンド」ということで、極端なクレシェンドでないことを意味します。6小節目の再度「p」の指示がありますが、これは5小節目が前の小節のクレシェンドを引き継いで、ある程度音量が上がっていることを意味します。確かに配慮が細かいですね。



後半部分をちゃんと弾くのはかなり難しい
 
 前にも触れたとおり、この曲はタレガ自身がコンサートで弾くためのものではなく、生徒や愛好者のための曲です。したがってこの曲は技術的には易しく、少なくともタレガはそう考えて作曲したものと考えられます。

 確かに前半部分は易しいのですが、後半は決して易しいとは言えません。ホ長調になってからの3,4小節目を和音と装飾音をクリヤーに出しながら、メロディをレガート弾くにはかなりの技術が必要でしょう。

 さらに5小節目の4弦に現れるメロディをクリヤーに歌わせるのはもっと難しいところです。タレガにとってはそうしたことは何でもないことだったかも知れませんが。

 ホ長調の部分も強弱記号や、テンポに関する指示が入念に、また的確に書き込まれています。こうした曲は演奏者の主観や感覚的なもので演奏されることが多いのですが、まずはやはりこうした指示を守るべきでしょう。

 時折このホ長調の終わり部分でテンポを上げてしまう演奏を耳にしますが、もちろん指示は「rit.」で、最後でテンポが上がることはありえません。



他のタレガ曲を弾くのにたいへん役立つ

 しかしそれらの指示は道路標識のように「違反しなければよい」のではなく、まずは演奏者の感性で受け止める必要があります。言い換えれば、それらの指示を基に、自らの感性とタレガの感性を同調するとといってもよいでしょうか。

 いずれにしてもこれらの指示を十分に考慮して演奏することには、他のタレガの曲の演奏することにたいへん役立つのは間違いないでしょう。

 この「アデリータ」は他のタレガの作品、あるいは同時代の作品を演奏する上での、たいへんよいエチュードでしょう。どちらかと言えばタレガが想定した中級者よりも、ある程度の難曲でも弾きこなすことの出来る上級者に是非練習してほしい曲かも知れません。
 
 
 
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 昨日はオランダの負けてしまいましたが、しかし最小失点での敗戦ということで、得失点で現在グループ2位というのはたいへんよい結果ですね。実質引き分けに匹敵する結果となりました。デンマーク=カメルーン戦で、カメルーンがもう1点失点すると全く違った状況になるので、終盤はひやひやしながら見ていました。カメルーンもよくがんばってくれました。

 昨日の試合では大久保、闘莉王などがよかったですね。大久保は期待されながらも、なかなか結果が付いてこなかった時期もありましたが、昨日の試合はたいへんよかったように思います。闘莉王のヘディングの強さはヨーロッパの強豪国にも十分に通用しますね、親善試合でのオウン・ゴールの名誉挽回というところでしょう。

 やはり(?)スペインは「無敵艦隊ぶり」を発揮してしまいましたね、無敵艦隊はもしかしたら闘うための船ではなく、絢爛たる豪華客船なのでしょうか。でもやはり見ていて惚れ惚れするサッカーですね、芸術点を2,3点くらい付けてやりたいところですが、残念ながらサッカーに芸術点はありません。



タレガの生徒たち

 またサッカーの話から始まってしまいましたが、タレガの話に戻りましょう。タレガにはたくさんの弟子たちがいたことを言いましたが、今日はそうした人たちついての話をしましょう。

 これらの本に書かれているタレガの生徒たちは、大きく分けると3種類になると思います。まず一つは、いわゆる一般の愛好者たちで、プロの演奏家を目指してタレガの下で修練を積むというより、タレガのファンと言ったたほうがよい人々です。これらの本の中では風変わりなイギリス人として詳しく紹介されているレッキー博士、裕福な未亡人のコンチャ夫人などが含まれます。

 こういった人たちは、タレガのコンサートには必ずといってよいほど行っていたようで、演奏旅行に同行することもしばしばだったようですが、あまりタレガの教えは実行しなかった(できなかった)ようです。しかしタレガはこうした一般の愛好者たちにも真摯な態度で接していたのでしょう。



ミゲル・リョベート

 次のカテゴリーは、タレガに師事した時にはすでに技術的にはある程度出来上がっていて、場合によってはプロのギタリストとして演奏活動なども行っていた人たちです。代表的な人としては、私たちのよく知るミゲル・リョベートが挙げられ、「パガニーニの主題による変奏曲」のところで名前の挙がったセベリーノ・ガルシア・フォルテア、イタリアの女流ギタリスト、マリア・リタ・ブロンディなどが挙げられます。

 私たちがタレガの弟子として真っ先に思い浮かべるのは、カタルーニャ民謡の編曲で知られているミゲル・リョベートだと思います。リョベートは1878年生まれということで、タレガより26歳年下で、1902年にプロ・ギタリストとしてデビューし、タレガが亡き後はクラシック・ギター界の第一人者として活動していました。

 リウスの本には、雑誌に掲載されたタレガへの追悼文が載せられ、追悼文の中ではリョベートはタレガのことを「わが師」と呼んでいます。タレガのほうはリョベートに対しては、「わが友」といったように弟子というよりは一人の優れたギタリストとして尊敬していたようです。



リョベートの演奏をたよりに

 プジョールはリョベートのことを「ギターだけでなく、絵画など芸術一般に優れた才能を持つ人」と述べており、「タレガから多くのことを学んだが、その音楽的傾向は異なる」と言っています。しかし100年後の私たちにとっては(私は1951年生まれなのでタレガとはほぼ100歳違います)やはりタレガとリョベートは近いギタリストと考えられます。

 リョベートの演奏は当時SP盤に録音されており、現在CDで聴くことが出来ます。タレガの演奏を直接聴くことが出来ない私たちとしては、このリョベートの演奏をたよりに、タレガの演奏をイメージするしかないかも知れません。ただしリョベートは、タレガの作品の演奏は残していません。



S.G.フォルテア、 マリア・リタ・ブロンディ

 セベリーノ・ガルシア・フォルテアはタレガのほぼ同年代のギタリストで医師でもあったようです。プジョールはこのS.G.フォルテアについては「マエストロ(タレガ)と同等のレパートリーを持つ」といっており(前述の「パガニーニの主題による変奏曲」も二人とも弾いていたのでしょう)、タレガの自宅には頻繁に出入りし、よくタレガと二重奏を行っていたと言っています。

 マリア・リタ・ブロンディはタレガのレッスンを受けた時には、すでに技術的には出来上がっていたようで、本人は今までやってきたことをすべて否定されるのではと心配していたようですが、そうしたことはなく、タレガは彼女がそれまでに身に付けたことを尊重しながらレッスンしたようです。ブロンディはタレガには2~3ヶ月くらいの間集中的にレッスンを受けたようで、後にリュートの演奏や研究でも知られるようになったようです。



次世代を担う

 次のグループは比較的若い年代でタレガに師事し、基礎からタレガに習い、タレガの下で一人のギタリストとして育ったギタリストたちです。このグループには著者のエミリオ・プジョールをはじめ、ホセフィーナ・ロブレド、 ペピータ・ロカ、 ダニエル・フォルテア(前述のセベリーノ・ガルシア・フォルテアとは血縁はない)などが含まれ、これらのギタリストたちはタレガの没後50年の1959年に記念コンサートを行っています。



著者プジョール

 プジョールは1902年、17歳の時からタレガに師事していますが、タレガがバルセロナの自宅にいる時には必ずタレガのもとに行き、タレガが不在の時にも他の弟子とともにタレガの自宅に行っていたようです。そうした時はヴァイオリニストをしているタレガの弟のビンセンテが指導にあったようです。

 プジョールは毎朝の基礎トレーニングも師と共に行っていて、晩年の師の介護にも当たっていたようです。おそらく晩年のタレガに公私共に寄り添うように生活していて、いわばタレガの「内弟子」的存在だったのでしょう。プジョールにしてみれば17歳から24歳の多感な時期に過ごしたタレガとの時間は、プジョール自身の生涯にとっても大きな位置を占めたのではないかと思います。こうしたことが後にタレガの伝記を書くことに繋がったと考えられます。



元祖(?)天才美少女ギタリスト

 ホセフィーナ・ロブレドは12歳の時にタレガに出会い、以来タレガのレッスンを受けたとされています。前述のとおりその出会いの時に、タレガの作品とは知らずに「アラビア風奇想曲」をタレガの前で弾いたそうなので、かなりの素質があったと思われます。「天才美少女ギタリスト」のはしりといったところでしょうか。3年後の15歳(1907年)で「家計を助ける」ためにプロ・デビューしたと書いてありますから、その上達の早さもハンパではなかったのでしょう。ロブレドは後に南米にわたり、その地で活動しました。なおリウスの本には彼女の母親などにあてた多数の手紙が掲載されています、遺族などから提供があったのでしょう。



もう一人のフォルテア

 ダニエル・フォルテアは1878年生まれで、20歳の時、つまり1898年にタレガに出会い、以後レッスンを受けています。出会いの時の話として、フォルテアはタレガが宿泊している家の前で、兵隊服の姿で降りしきる雨の中、ずぶぬれになって聴こえてくるタレガのギターに聴き入っていたところ、家人によって家の中に招き入れられたと書かれています。

 晩年のタレガは、コンサートでは自らの独奏の他、このフォルテアとの二重奏をプログラムに入れていました。曲目としてはビゼーの「アルルの女」の他ベートーヴェンやモーツァルトの曲などのアレンジが主だったようです。現在ではこうした二重奏の譜面をなかなか目にすることは出来ませんが、いずれは出版されることを期待しましょう。

 

 
祝 日本代表初戦勝利!


 このところテレビはおろか、床屋さんに行ってもこの話でもちきり、私などがこの話をする必要もないのですが、前回「悪夢」の話をした手前、やはりお祝いの言葉は必要かなと思います。もちろんまだワールド・カップは始まったばかりですが、今回の日本代表は勝ち点を一つでも取れればOKと思っていたので、初戦での勝ち点3は、この後連敗したとしても「おめでとう」と言ってよいでしょう(また不吉なことを言っていますが)。

 試合の流れとしては、だいたい五分五分、気持ち押され気味といった感じでしたが、これまでこうした五分の試合を落としてきただけに、よく勝ちきれたと思います。おそらく選手たちは極度の緊張感の中にあったと思いますが(どのチーム選手も同じだが)、最も大事なところで極めて冷静な判断とプレーが出来たと思います。緊張の行くところまで行くと、かえって冷静になれるのかも知れません。

 また余計なことを言えばこの試合で結局出番のなかった中村俊輔、憲剛、楢崎、内田選手などはもちろん喜んだでしょうが、気持ちは複雑といったところでしょう。もしこの試合で負けていたら、こうしたことは岡田監督の「迷走」と言われたでしょうが、こうして勝ってみると「選手層の厚さ」とも解釈できるでしょう。やはり「勝てば官軍」か。

 今晩はもうすぐ真打、スペインの登場ですね・・・・



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 さて、タレガの話に戻りましょう。今日は1枚の写真の話です。上の写真は皆さんも見たことのある写真ではないかと思います。説明によればバレンシアでの内輪のコンサートの様子で、撮影はノベーリャという人だそうです。



まるで絵画のよう

 この写真、確かに写真なのですが、ちょっと見ると絵画のようです。おそらくこの上に掲載した写真はかなり不鮮明だと思いますので、特にそう見えるのではと思います。レンブラントかベラスケスの肖像画のようにも見えますし、また聖人を囲む宗教画のようにも見えます。

 どう見てもこの写真はただのスナップ写真のようなものではないようです。全体の構図、人物の配置とポーズ、背景。カメラ・アングルなど入念に考えられて撮られた写真のようです。この写真が撮られた前後に本当にコンサートがあった可能性は高いでしょうが、少なくともこの写真が撮られた瞬間はコンサートを行っているのではなく、あくまで写真を撮るために集まっているのでしょう。



微妙な角度

 タレガの写真上での位置や、ギターの角度もたいへん微妙なところです。タレガを中央に配置するとやはり不自然だし、かといって端にもしたくなかった。タレガのギターを弾く手は絶対に写さなければならないが、かといってこれ以上写真の方を向けると不自然ということで、まさに「これしかない」といった感じです。またそれ以上にタレガの演奏を聴く人たちのポーズや表情もすばらしい、本当にタレガのギターの音聴こえてきそうです。これが演技だとすれば、まさに迫真の演技といったところ。



やらせ?

 この写真を「やらせ」と言ってしまえばそれまでですが、この写真はカメラマンと登場人物が一致団結、協力し合って撮った写真であるのは間違いないでしょう。この写真が絵画的に見えるのは、この写真に携わった人々がそうした文化に馴染んでいたから、言えると思いますし、またカメラマンも、タレガの演奏に聴き入る人たちも、「タレガの演奏はこうであった」ということを写真を見る人に伝えようと、最大限努力していたようにも思えます。タレガの演奏に聴き入る人たちは、一人ひとり違ったポーズをとり、その「音」までも伝えようと意気込みまでも感じ取れます。

 ちょっと遠まわしな言い方になってしまいましたが、やはりタレガの演奏のすばらしさが、私たちに十分に伝わってくる写真です。またタレガがどれほど人々から尊敬され、また愛されていたかも感じ取れます。



 ・・・・おっとと、そろそろスペイン戦が始まってしまう。本日はこの辺で。
前半だけで5失点?

 ワールド・カップ始まってしまいましたね、3日ほど前、ワールド・カップの始まる前の日くらいだと思いますが、日本代表は韓国代表との練習試合を行い、守備崩壊で、なんと前半だけで5失点! ・・・・私の見た夢の話です。もっとも実際の親善試合では0-2ですから、ちょっと尾ひれは付きましたが、現実の話とそう異なるわけでもないかも知れません。初戦を前にして不吉な夢ですが、正夢か、逆夢かは、いやでももうすぐわかってしまいますね。



メキシコ、ウルグアイ

 あまり日本代表にこだわるとワールド・カップが楽しめなくなるので、話を変えましょう。これまで何試合か見たチームのうちで印象的だったのは、まずメキシコ。初戦南アフリカと1-1で、結果としてはいま一つだったかも知れませんが、やはり好チーム。ボールの扱いは日本代表と似ている、というよりは日本代表の上手くしたような感じがします。日本としては最も手本となるチームなのでは。

 次にウルグアイ。退場者を出しながらフランスと0-0はある程度納得の行く結果でしょう。個人の力はあるのでしょうが、しっかりと、強く守るチームといった感じ。やはりブラジルやアルゼンチンといった強豪国にかこまれている国のチームは違う。もっともウルグアイもワールド・カップ優勝暦(確か2回)のある強豪国の一つ。



無敵艦隊は本当に無敵?

 今回のワールド・カップの優勝最有力チームはスペイン代表となっています。フェルナンド・トーレス、 シャビ・アロンソ、 イニエスタなどスター選手の勢ぞろいで、チームとしてのまとまりもよい、まさに無敵艦隊と言われています。これまで優勝暦がないのが不思議とされていますが、今年こそは本当に優勝するのではと言われています。

 しかし歴史上のスペインの無敵艦隊も大勝利をあげることは出来ず、この無敵艦隊というのは「勝てそうで勝てない」ことの比喩とならなければ・・・・



サッカー強豪国は

 2番手は最多の優勝回数を誇るブラジル、その後はあまりよく覚えていませんがアルゼンチン、イタリア、ドイツ、イングランド、フランス、オランダといったところだったと思います。でもこうした国名を挙げてゆくと何か感じませんか?

 そうです、サッカーの強豪国はギターの盛んな国、あるいは優れたギターのレパートリーを生んだ国と一致しているではありませんか! こうしてみるとギターとサッカーとは密接な関係があるようです。もしかしたらサッカーを見ることがギターの上達に繋がるのかも? 


タレガ作「トレモロ」って?

 タレガのコンサート・プログラムの続きです。プログラムの後半の一曲目の、タレガ作「トレモロ」と題された曲は、「アルハンブラの想い出」や「夢」の可能性もありますが(2曲ともこの頃にはすでに作曲されていた)、「ゴットシャルクの大トレモロ」の可能性が高いと思われます。タレガの場合、こうしたトレモロ奏法の曲は「トレモロ」とか「トレモロ練習曲」、「演奏会用練習曲」といった曲名で演奏することが多かったようです。



パガニーニ主題による変奏曲

 「パガニーニ主題による変奏曲」は現在では「ベニスの謝肉祭」と呼ばれることが多い曲ですが、この曲も「グラン・ホタ」同様、タレガのコンサートでは必ずといってよいほど演奏された曲です(ごく稀にプログラム載らないことがあった)。このプログラムのように前半の最後が「グラン・ホタ」、後半の最後が「パガニーニの主題による変奏曲」というのが最も多いプログラム構成のようです。

 この曲は基本的に「グラン・ホタ」と同じ傾向の曲ですが、多少違いがあるとすれば「パガニーニ」のほうは一つ一つの変奏は長く、その代わり変奏の数は少ない(8~12程度)。「グラン・ホタ」のほうは短い変奏がたくさんある(30前後)、いったことでしょうか。またテーマは「グラン・ホタ」はスペイン人ならだれでも知っているメロディ、「パガニーニ」のほうはクラシック音楽を聴く人には有名な曲と言うことで、いろいろな人に受け入れられるように配慮しているのでしょう。

 タレガの死後(1910~1920年)にアリエール社から出された譜面には12の変奏がありますが、この譜面では、校訂者のセベリーノ・ガルシア・フォルテアとの共作となっていて、一部にフォルテアが作った変奏も含まれているのかも知れません。他にも何種類かの譜面が残されていると思いますが、この曲もタレガ自身は演奏の度にいろいろ変えていたのではと想像できます。



アルハンブラの想い出や、アラビア風奇想曲は弾かなかったの?

 ところで、このプログラムには、現在私たちがタレガの代表作と考えている「アルハンブラの想い出」や「アラビア風奇想曲」、あるいはギターを愛好する人にとってはたいへん馴染みの深い「ラグリマ」とか「アデーリータ」といった美しい小品の名が全く登場しません。

 「アルハンブラの想い出」については、前述のとおり「トレモロ」としてこのコンサートで演奏された可能性はあります。この曲は1899年に作曲されていますが、「アルハンブラの想い出」というタイトルは1907~8年頃に出版された時に付けられたものなので、少なくともタレガはこの曲を「アルハンブラの想い出」として演奏したことはなかったようです。この曲がタレガの代表作と考えられるようになったのも、やはり出版後、あるいは没後ではないかと思います。

 「アラビア風奇想曲」はその10年前の1889年頃の作曲で、1902年の出版の際にこのタイトルになっていますが、この2冊の本に記されているプログラムにはその「アラビア風奇想曲」という曲名は見つかりません。しかしタレガの最後の年(1909年)のプログラムに、タレガ作「セレナード」という曲があり、それが「アラビア風奇想曲」である可能性は高いと思います。



アラビア風奇想曲は当時でも有名

 プジョールが1902年に初めてタレガに合った時も、また女流ギタリストのホセフィーナ・ロブレド(後述)が12歳でタレガに出会った時も、二人ともタレガの前でこの曲を弾いています。したがって、この曲は出版される前からギター愛好者の間に広まっていたようで、この曲がタレガの代表作と考えられていたことは、当時も今も変わらないようです。



ラグリマやアデリータは?

 「ラグリマ」や「アデリータ」、「マリエッタ」など、私たちにはたいへん馴染みの深い小品は、おそらく基本的には愛好者や生徒たちへのエチュードとして考えていたようで、これらの曲がコンサートのプログラムに載ることはありませんでした。

 しかしタレガのコンサートは、当日になってから曲目の変更は多く、また「第3部」と言うべくアンコール曲も多かったようです。さらに店などに場所を移してからの「2次会」は本編よりも盛り上がったそうで、また自宅でも来客や弟子たち演奏をよく聴かせていましたから、そうした場でこれらの小品が演奏された可能性は十分あるでしょう。またこれらの曲をレッスンする時も、いろいろ言葉で話すよりも、実際に目の前で弾いて聴かせることが多かったと想像できます。生徒たちにとってはそれが一番嬉しいことだったかも知れません。



知名度を優先した

 前回載せたタレガのプログラムは、あくまで事前に知らせれたプログラムで、実際にこのとおりに演奏されたとは限りません。前述のとおり実際には何らかの変更が加えられた可能性が大きいようです。タレガは前もって決められた曲(といっても自分で決めた曲)を弾くのがあまり好きではなかったようなので、「とりあえず」無難な曲をプログラムに載せておいて、後はその時の気分(または体調)で変更するといったことをしていたのでしょう。また一般の人にもよく知られている曲をプログラムに載せていたとも考えられます。



タレガの収入

 タレガは若い頃よりそのギタリストとしても実力は高く評価され、コンサートも多く、また生徒もたくさんいたようです。したがって収入もそれなりにあったはずで、一家の家計を支えることは十分に出来たのではないかと思います。しかしタレガ自身や家族が病気になったりなどすると、家計はすぐに苦しくなったようで、あまり余裕とはいえなかったようです。

 タレガのギタリストとしての評価の高さが、ストレートには収入に結びつかなかったようですが、その理由としては優れたギタリストとはいえ、同じ音楽家でも当時はピアニストやヴァイオリニストとは社会的地位に若干に違いがあったのでしょう。

 またタレガには一部の熱狂的なファンがいたのは確かですが、大ホールに多くの聴衆を集めることは難しかったのかも知れません(そうした場ではタレガの真価が発揮されないのも確か)。前述のとおり、たくさんの生徒がいたといっても、そのレッスン代を必ずしも受け取っていたわけではないようです。



タレガのコンサート・プログラム

 この2冊の本には、タレガの行ったコンサートのいくつかのプログラムが記されていますが、これらを見る限りでは、タレガのプログラムは少なくとも30代から晩年に至るまで、だいたい似たような構成になっています。参考として1903年にローマで行ったコンサートのプログラムを記しておきます。



  第1部

メロディ(ヴェルディ)
舟歌(メンデルスゾーン)
セレナータ『グラナダ』(アルベニス)
セギディーリャス(チュエカ)
アンダルシア狂詩曲(アルベニス)
スペイン幻想曲(タレガ)

  第2部

トレモロ(タレガ)
スペインのモチーフ(チュエカ)
楽興の時(シューベルト)
主題と変奏『ラ・パストラール』(モーツァルト)
夜想曲変ホ長調(ショパン)
パガニーニの主題による変奏曲(タレガ)




ギター曲が少ない

 一見してわかるとおり、タレガのプログラムの最大の特徴は編曲ものが多いということです。タレガの自作を除いて、このプログラムにはギタリストの作品は一曲もありません。練習としてはソルやアグアードの曲も弾いていたようですが、少なくともそれらの作品をコンサートのプログラムに載せたことはないようです。

 上記のプログラムの中にチュエカという作曲家の作品が2曲入っていますが、この作曲家はタレガと同時代、同世代のサルスエラ(スペインのオペレッタ)の作曲家で、これらの曲は当時スペインで流行っていたものなのでしょう。



やはりアルベニスは弾いていた

 アルベニスの曲が2曲入っていますが、以前にも述べたとおり、タレガはアルベニスの曲をよく演奏していて、ほとんどのコンサートのプログラムに載っています。特にこの「グラナダ」は演奏する機会も多かったようです。もう一曲の「アンダルシア狂詩曲」についてはよくわかりませんが、おそらくは私たちが知っている曲の別称なのではないかと思います。アルベニスの曲は、タレガの弟子たちや、周囲のギタリストたちもよく演奏していたようで、この時代、つまりアルベニスの生存中からよくギターで演奏されていたのは間違いないようです。

 ショパン、シューベルト、メンデルゾーン、モーツアルト、さらにこのプログラムには入っていませんが、ハイドン、ベートーヴェン、シューマンなどの作品もよく演奏していて、そうした点は現代のギター・コンサートのプログラムと最も異なるところでしょう。




タレガ作曲「スペイン幻想曲」?

 タレガの自作として3曲入っていますが、そのうち「スペイン幻想曲」は、「グラン・ホタ」の別称で、フリアン・アルカスの原曲を基にタレガが作曲したものです。私自身はアルカスの譜面を見たことがないので(演奏も聴いたことがない)、アルカスの原曲とタレガの曲がどれくらい同じで、どの程度異なるのかはわかりませんが、4つほどの変奏が同形と言われています。

 タレガは若い時からこの曲を演奏していて、記録が残っているすべてのコンサートのプログラムに載っているそうです。まさにタレガの愛奏曲中の愛奏曲と言えるでしょう。

 どのコンサートでも必ず弾いていたこともあり、この曲は「スペイン幻想曲」、「スペインの調べ」、「大衆的スペインの歌メドレー」、「スペインの歌メドレー」、「グラン・ホタ」などたくさんの曲名を使い分けていたようです。



一つの曲を、二つの曲名で演奏!

 また変奏の数も少なくとも40くらいあるそうで、コンサートによってはその変奏を二つのグループに分け、前半に「グラン・ホタ」、後半に「スペインの歌メドレー」というように、曲名もそれぞれ別なものを付け、その両者を一つのコンサートで演奏することも稀ではなかったようです。

 現在この「グラン・ホタ」の譜面は4種類以上はあるそうですが、こうした事情を考えれば当然のことかも知れません。おそらくコンサートの度に演奏内容は違ったでしょうし、即興的な部分も相当あったでしょう。また書いた譜面もその時期により当然違ったものになったでしょう。今後研究が進めば、さらに新たなバージョンも発見されるかも知れません。