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中村俊三 ブログ

中村ギター教室内のレッスン内容や、イベント、また、音楽の雑学などを書いていきます。

ポリフェモ



12個の半音が出揃う

 譜面の方をもう少し詳しく見て行きます(もう一度楽譜の方を載せておきます)。冒頭の2小節をよく見ると、12個の半音がきっちりと重複なしに出揃います。シェーンヴェルクの「12音技法」では、まずこのように12個半音をすべて用いた(重複なしに)音列=セリーを提示し、その後は、それを反転させたり、拡大、縮小させたり、移調したりなどして組み合わせてて曲を構成してゆきます。



無調ではあるが12音技法ではない

 確かにこの曲の冒頭では、12音技法と同様に12個の半音を提示しているのですが、その後は12音技法的な方法はとっていません。無調ではありますが、12音技法の曲ではありません。そういった意味では「折衷的」と言えるのかも知れません。



無調であっても主音はある

 この楽章では、最初と最後は同じ和音(厳密な意味で”和音”と言えるかどうかはわかりませんが)になっています。無調とは言っても12個の半音をすべて対等に扱っているわけではなく、「ミ」の音には”主音”的な役割が与えられています。これは第4楽章の最後の低音も「ミ」になっていて、これは全楽章を通じて言えるようです。

 特にこの楽章では、最後の和音の直前の和音(下から2段目)の低音は「シ」になっていて(ほとんど属和音)、古典的な主音、属音、つまり5度関係が成り立っています。この曲は無調で、12音技法的な要素もありますが、同時に完全に古典的な要素を排除したものではないようです。


ソ#は和音らしさ? 人間味?

 もちろん一般的な協和音的な響きは避けられていて、例えば最初の和音(ミ、ソ#、ファ、シ♭)では、ミ-シ♭、ミ-ファと減5度、短2度といった不協和音程が組み合わされています。一方、ソ#はミに対して長3度で、古典的な協和音程になり、こうした無調の曲には合わないような気がしますが、和音らしさを出すためにあえて付け加えているのでしょう。空虚な不協和音程だけでは音楽にならないと考えたのでしょうか、確かにこの音があるために、不協和音ながら、ちょっと温かみというか、人間ぽさみたのが感じられます。



でもやはり覚えにくい

 とはいっても、このような無調的な曲だと、やはり音程関係は聴き取りにくい(私を含め、大部分の人はそうなのではないかと思います)。またこの楽章は、様々の長さの音符で書かれ、一定の”刻み”が感じにくいようになっています。結果的に聴く側の人も、普通の曲のようにメロディとか、リズムとかで音楽を感じ取りにくくなっています。



1音1音の響きは古典的な曲より重要

 つまり聴く側にとっては音どうしの関連性が感じ取りにくく、1音1音がばらばらな感じに近くなります。別な言い方をすれば1音1音の独立性や、存在感が高いとも言えます。ということは1音1音の、音色、強弱など、音程やリズム以外の要素がたいへん重要になり、一般的な曲に比べれば、いっそう演奏者の音色や音量の幅、あるいはそれらをコントロールする感性などが要求されことになるでしょう。

 確かに細かい書き込みの多い曲ですが、実際にどのような音色、音響を作り出すかは、演奏者次第ということになります。今までの話と若干矛盾するかも知れませんが、いかに精密に楽譜が書かれようと、楽譜はあくまで楽譜で、最後はやはり演奏者の感性で音楽が出来上がるのでしょう。いくら作曲者といえど、演奏会場まで出かけていって、NGを出すわけにもいかないでしょうから。



速い楽章はなかなか面白い

 もっとも第2、第4楽章はほぼ一定の長さの音符(16分音符)で書かれ、軽快に進みます。また同じ音形が繰り返されたりして、最初の楽章に比べるとかなり聴きやすくなっています。特に最後の楽章は結構”ノリ”がよく、また盛り上がりように出来ています。



12音技法はクラシック音楽の究極の進化形?

 最近はこのような無調や12音技法の曲といのはあまり聴かれなくなったような気がします。こうした曲はやり人間の感受性とは相容れない部分もあるのかも知れません。私が音楽を始めた頃は、「12音技法こそが古典的な音楽の進化した形」と言われ、「いま時、古典的、あるいはロマン派的技法で作曲する人は作曲家にあらず」などと思われていました。

 当時の考えでは、21世紀のクラシック音楽界では12音技法の曲が圧倒的に主流となり、それはポピュラー音楽まで浸透し、ひょっとしたらアイドル歌手までが無調で歌うようになる、なんて思われていました(私が思っていただけ?)。もちろん現実はAKBが無調で歌うこともなく、クラシックの演奏会も相変わらずモーツアルトやベートーヴェンが主流で、相変わらずストラヴィンスキーやバルトークは「ゲンダイ音楽」とされ、一般の音楽ファンからは敬遠され・・・・


過ぎ去った20世紀へのオマージュ

 無調や12音技法、あるいは現代音楽そのものも、もしかしたら20世紀独特の一つの現象なのかも知れません、アルス・ノヴァ(新芸術)が14世紀の音楽現象を指すように。この「黄金のポリフェーモ」は、ギリシャ神話からインスパイアーされて作曲したもではありますが、過ぎ去った20世紀へのオマージュとして聴いていただければ、と思います。





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スミス・ブリンドル作曲「黄金のポリフェーモ」

 タレガの次にヴィラ・ロボスやバッハなどの譜面の話をしようかと思ったのですが、このタイトルもずいぶん長くなってしまったので、それらの作曲家についてはまた別の機会にしまして、最後に、ちょっと話が飛びますが現代の作品の譜面、スミス・ブリンドルの「El Polifemo de Oro~黄金のポリフェーモ」の話をして、この「楽譜を読む」を閉じたいと思います。



今年唯一の独奏 = 9月18日ひたちなか市文化会館

 この数年”それなりに”がんばって練習やら、コンサートやらやってきた反動でしょうか、今年の私は、昨年の12月以来全然人前で独奏を行わず、またあまり集中した練習などもやらず、なんとなく、だらだらとした生活を送っています。今年の唯一の独奏をする機会というのが、9月18日の「ひたちなかギター・フェスティヴァル」ということになります(15分だけですが)。当日の演奏予定曲目としては、この「黄金のポリフェーモ」の他、ジョン・ダウランドのプレリュード、ファンシー、エリザベス女王のガリヤルドで、結果的にはイギリスの作曲家の作品ということになりました。



あれこれ弾いているうちに

 今年になってからは、気の向くまま、昔買った楽譜などをあれこれ弾いていましたが、まずテデスコの「プラテーロと私」や「タランテラ」などに興味がゆき、次に気持ちが止まったのが、この「黄金のポリフェーモ」です。この「黄金のポリフェーモ」は1956年にイギリス人の作曲家、スミス・ブリンドルが、ガルシア・ロルカの詩をもとに作曲した曲です。



20代の頃ジュリアン・ブリームのLPで

 「ポリフェーモ」とはギリシャ神話に登場する一つ目の巨人だそうで、曲のほうは無調で4つの楽章からなります。この曲を私が初めて聴いたのは1972~3年頃だったと思いますが、ジュリアン・ブリームのLPで聴きました。このLPは「コンテンポラリー・ミュージック」と題され、他にブリテンの「ノクターナル」やヴィラ・ロボスの練習曲(第5、7番)、マルタンの「4つの小品」などが入っていました。当時私が何度も繰り返して聴いたLPの一つです

 
ポリフェモ



書いてあるとおりに弾けばよいのだけれど

 上の楽譜はこの「黄金のポリフェーモ」最初の楽章です。古典的な曲の場合は、これまで話してきたとおり、当時の演奏スタイルとか、楽譜を読む場合の常識とか、習慣とか、そういったものをある程度身に着けておかないと正確には楽譜が読めないといったことを話しました。その点この楽譜は一見難しそうですが、そういった要素は少ないので、まずは「楽譜に書いてあるとおりに」弾けばよいということになります。

 その代わりに「言葉」による書き込みが多いのに気付くと思います。言語としては主にイタリア語が使われていますが、ギターの奏法などに関しては英語も使われています。運指を書き込んだジュリアン・ブリームによるものなのでしょうか。



語学力が必要になるが

 古典の曲の場合、楽譜に書き込まれる言葉は、音楽用語として限定されたものになるので、イタリア語で書かれているからといって、特にイタリア語がわからなければ楽譜が読めないと言うことはありません。しかしこの曲では普通音楽用語として用いられない言葉もいろいろ出てくるので、語学に弱い私としては若干困りますが、幸いに文章として書かれるわけではなく、単語だけなので辞書を引けばある程度わかります。


 Adagioの前についている「Ben」は、「よく」といったような意味で、「しっかりと遅く弾く」といったような意味になるのでしょうか。その下に書かれている「tastiere」は「指板」といった意味で、「指板にかかるくらい左の方で、柔らかい音で弾く」といった意味です。「pont.」は「ponticello」の略で、それと反対の「駒(ブリッジ)のほうで硬い音で弾く」。

 下から2段目に英語で書かれている「bring out F to F#」は 「ファ#までファを保持する」と言った意味でしょうか。ブリームが書いたのかも知れません。



ワルツ二長調  =楽譜信頼度 C


 今回は曲としてはなかなかよい曲なのいですが、楽譜の精度としてはタレガの曲の中でも最悪に属するケースの話です。楽譜のコピーがあまり上手く行かなくてちょっと見にくくなってしまいましたが、内容的には皆さんの手元にある譜面とほぼ同じですので、そちらをご覧になりながら読んでいただければと思います。


 タレガはいくつかのワルツを書いていますが、その中でもこのワルツは弾きやすく、また弾き方しだいでは表情豊かにもなるので、コンサートにも、また教材としてもたいへんよい曲だと思います。いつ作曲されたかは情報がありませんが、出版されたのは「ラグリマ」よりも少し後の時代、少なくともタレガの没後と考えられるでしょう。


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スペースの割り振りを誤る?

 この譜面を見てまず目につくところとしては、”2ページ、1段目の最後の小節”でしょう。この小節だけやたら広く、2小節分のスペースがあり、あきらかにスペースの配分を間違っています。確かに演奏に差し障りのあることではないのですが、版下を作った人が熟練した人であればまずありえないことだと思います。



なぜここだけ強弱記号?

 次に”1ページ目、5段目、3小節の1拍目”に付いている「p」(=2ページ、2段目、5小節も同じ)。この曲全体を見ると強弱記号はこの2箇所に「p」が付いているだけです。どう考えても他のところには強弱記号が全くついていないのに、ここだけ「p」がついているのはたいへん不自然で、またこの部分を弱く弾かなければならない理由は思い当たりません。何かの間違いと考えるのが自然でしょう。



笑ってしまいそうな話だが

 よく見るとこの「p」の記号のすぐ上の音(ド#とソ#)には、「波線」がつけられ、この二つの音をアルペジオ奏法で弾くことが指示されています。もうお分かりと思いますが、この「p」は強弱記号の「p」ではなく、右手の親指を表す「p」なのでしょう。しかしこの譜面では、どう見てもこの「p」は運指の「p」ではなく、強弱記号の「p」にしか見えません。おそらく版下を作った人が、ギターの譜面に慣れてなく、親指を表す「p」を強弱記号の「p」と勘違いしてしまったのでしょう。

 笑ってしまいそうな話ですが、ここをあえて親指で弾くように指示してあるとすれば、その前後の4弦のメロディも当然親指を用いなければならないということになると思います。親指によって4弦のメロディをたっぷりと鳴らすようにとのタレガの指示ではないかと思います。



最も問題になるのが

 この譜面で最も問題になるのが、この曲の終わり方です。この譜面の最後には何も書かれていませんから、この譜面どおりに弾くとこの2ページ目の終わりのところで終わることになります。しかしこの曲は二長調で始まり、2ページの後半からシャープが一つ減って、ト長調に変わります。当時の常識として曲が冒頭と違う調、つまり転調したまま終わることは考えられません。とすればこのページの最後のところから冒頭に戻るための「D.C.」記号が脱落していると考えられます。



ダ・カーポ記号が抜けているだけでなく

 しかし問題はそれだけでは済まず、ダ・カーポした場合の終わり方がはっきりしません。譜面上だけ見れば2ページも5段目あたりで終わればよさそうなのですが、しかしこの和音は主和音(Dメジャー)ではなく属7(Dセヴンス)の和音になっていて、この和音では終われません。なお且つ、1ページの4段目、3小節目からこの2ページ、5段目、1小節目までのところは同じものが2回書かれていて、実質上のリピートとなっていて、ダ・カーポした場合は習慣的にリピートを省略しますから、曲の終わりは2ページ、1段目の4小節目あたりになります。



実際にはこのように終わっている

 しかしこの1段目の4小節目の1拍目の音は、4弦の7フレットのハーモニックスになっています。この音は実際には「ラ」の音になりますから、この音では曲は終われません。終わるためには二長調の主和音(レ、ファ#、ラの和音)または「レ」の音になければなりません。そこで実際にこの曲を演奏するギタリストは、次のような3種類くらいの方法をとっています。


 ① 1段目、3小節目の3拍目の和音で終わる(次の小節は弾かない)


 ② 1段目4小節目の1拍目で、4弦の12フレット、または5フレット。6弦の12フレットなど「レ」になるハーモニックスで終わる。


 ③ 1段目4小節目の1拍目で、前の小節の1拍目と同じ和音を弾いて終わる(譜面に書いたとおり)。


 私の場合は③の方法をとっていて、生徒さんにもそのように薦めています。この方法がもっとも自然な感じがします。①の方法も確かに考えられるのですが、弱拍で終わってしまうので、唐突な感じは否めません。②の方法もちょっと頼りなく感じます。またここ以外の場所で終わっている演奏は聴いたことがありません。

 

エチュードとして生徒に書いて与えた譜面?

 この譜面が不完全なものになってしまった理由は、推測するしかないのですが、まず出版の際にあまり細かい配慮はなされれず、また出版にたずさわった人の楽譜出版、およびギターや音楽に関する知識などに問題があった可能性があります。さらに基となった譜面(タレガの実筆譜、またはそれに準ずるもの)も、出版を想定したものではなかったと思われます。

 おそらくは、この譜面は生徒の誰かに教材として渡したものではないかと思われます。おそらく前もって書いておいたものではなく、次回の宿題として、その場で書いて与えたものかも知れません。今だったらコピーして渡すところなのでしょうが、当時ですからタレガが書いて渡したか、あるいは生徒自身に写譜させたかのどちらかでしょう。 ・・・・全くの推測ですが。


にもかかわらず

 理由ははっきりわかりませんが、残念ながらこの譜面はあまり正確には書かれなかったのですが、しかしそうした譜面であっても、音の間違いや、運指の間違いは見当たりません。これはタレガの譜面の特徴といってもよいかもしれません。

 タレガの他の曲でも反復記号の脱落や混乱といったことはよくあるのですが、シャープやナチュラルの付け間違いなど、音に関する間違いや、運指の間違いはタレガの曲の場合あまり見当たりません。著名なギタリストの編曲譜などでも、時折臨時記号が脱落していたり、逆に付いてしまったりということは意外とよくあることなのですが(もちろん私の場合も)、タレガの場合はそうしたことはほとんど見当たりません。


これもタレガの能力の高さか

 運指については音以上に間違いやすいものですが(心当たりおおいにあり!)、これもタレガの場合には見当たりません、おそらく譜面を一目みただけで運指の間違いが発見出来るのでしょう。タレガの場合、音感もさることながら、完全に頭の中だけでギターを弾くことが出来るのでしょう。

 

何度も何度も

 市販されている「タレガ作品集」の楽譜のページをめくっても一見それぞれの曲の音符に違いはないのですが、実際にはそれらの曲の楽譜は曲ごとにかなり違った経緯でその曲集に収められています。「楽譜を読む」といってもその譜面がどのような性質の譜面であるかによって、読み方も異なってきます。そうした問題は決してやさしいことではないのですが、何度も何度も譜面を注意深く読むことによって少しずつわかって行くのではないかと思います。 ・・・・・だから早く、安易に暗譜してはいけない!



今や音楽史上のギタリスト

 長くなってしまいましたが、今回で「タレガの場合」を終わりにしよう思います。タレガが亡くなってから100年経ちました。私がギターをちょろちょろ弾き始めた頃(1960年代)は、タレガはまだ「ちょっと前のギタリスト」だったのですが、没後100年経って、今やタレガは押しも押されもしない「音楽史上のギタリスト」となりました。この100年を機にもう一度改めてタレガの譜面にじっと目を注いでみましょう。 
 結局優勝したのはスペイン。結果だけみれば下馬評どおりということになりましたが、高い技術で圧勝したというより、しぶとく前線からボールを追いかけ、運動量と勝利への執念、そして何といっても幸運により、初の栄冠を手にした感じです。いずれもこれまでのスペインにはなかったものだと思います。現在では各国の実力も拮抗し、ある意味横綱相撲で勝てるチームはないのかも知れません。


 でもやはりスペインの技術は高い。蹴る、止める、見る、走る、予測する、といった一つ一つのプレーが正確ですね。いくらよいパスがきたからといっても、それを足元にとめられなかったらなにもならない。かつて多少やっていたので、サイドを交換するロングパスを足元に止める難しさはよくわかります。ちょっと間違えるとほとんど「キック」になってしまいます。


 それにしてもスペインの選手や国民の喜び方もすごかったですね、唯ののスポーツ大会とは思えません、ほとんど国家行事ですね。スペインも財政的にはピンチなようで、これをきっかけに改善の方向に進むとよいですね。もっとも、この日本も結構たいへんなことになっていますから、他人事ではないですね。


 ・・・・さてワールド・カップも終わって、これからは「ギター上達法」に集中してゆきましょう。




ラグリマの続き

 さて「ギター上達法」のほうは「ラグリマ」の続きです。間が空いてしまいましたので、もう一度楽譜を載せておきます。この譜面は1908年~1920年頃に出版された初版のコピーです。表情記号等については前半と後半の最後に「rit.」があるだけで、強弱記号はありません。その点も「アデリータ」とは異なっています。そうしたこもたいへん重要なことなのですが、それについては今回は置いておきます。


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運指がものを言う

 前回話したとおり、若干アバウトなところもあるこの曲の譜面ですが、運指はかなり細かく付いています。これはタレガの譜面の特徴とも言え、他の曲の場合も同様です。たとえ練習のために書いて与えた譜面でも、タレガの場合、運指はきちんと正確に書いていたのでしょう。タレガが運指に強いこだわりを持っていたのは前にも言いましたが、タレガの運指は私たちへのたいへん重要なメッセージと言えます。場合によっては運指が表情記号や、強弱記号以上にものを言うこともあります。



冒頭の運指は

 この譜面の運指が読めるかどうかわかりませんが、1小節目は、1弦のほうが順に3-2-4、4弦のほうが1-1-3と付けられています。普通あまりこのように弾いている人は少なく、1弦のほうが4-4-4、4弦が1-2-2とするのが一般的です。前者の運指ではポジション移動が少なくて済むという利点はあります。後者の場合は、特に1弦を同一指でグリサンド風に移動し、レガートにはなりやすいと思います。私としては、この箇所の運指の変更は可能と思います。



かなり凝った部分

 前半の後半つまり5~8小節はこの曲の中では特徴的な部分と言えますが、楽譜に書き込んだとおり、a、b、c、の3つの部分に分けられると思います。「a」の部分は冒頭の4小節を受けて、3声で書かれた部分、「b」の部分はカンパネラ奏法によるアルぺジオの部分、「c」はフレーズを閉じるための定石的な和音(Ⅴ/Ⅴ、Ⅴ7、Ⅰ)による部分となっています。



弦の関係が逆

 「b」の部分はメロディともいえるかも知れませんが、和音を形成していて、この調からするとやや遠い和音となっています(Ⅱ7の和音の展開形)。7小節目の1拍目の「ソ#」と「シ」は高いほうの「ソ#」のほうが低音弦になるという運指になっていて、特に前の小節の最後の音の「ラ」とは半音違いでありながら、違う弦(しかも
通常とは逆の弦の使用)となっています。



もっと弾き易い方法もあるが

 確かにこの運指では音を繋げるのが難しくなり、この「ソ#」を2弦(ソ#=②9フレット、「シ」=④9フレット)に変更して弾いているギタリストもいます。その方がメロディとしては自然で、レガートにもなりやすくなります。

 しかしそうしたことは十分承知の上で、タレガがこの運指を付けているのではないかと思います。前の小節のカンパネラ奏法を受けて、ここもあえて弦の関係を逆ににしたカンパネラ奏法としているのでしょう。またこの箇所はメロディとしての要素よりも和声的な要素のほうがより重要なのだと思います。やはりここを通常のポジション取りにすると、この曲の意味合いが変わってしまうのではないかと思いますので、多少弾きにくいからといって、使用弦などの変更は不可と私は考えます。



タレガ以外の人には付けられない

 確かにこの譜面は完全にタレガの意思を反映しているとは言い切れないところもあり、もしかしたらタレガ以外の人が運指を記入している可能性もあります。しかしタレガの譜面の運指は多少信頼度の低い譜面であっても矛盾なく書かれており、出版にたずさわった人たちもタレガの書いた運指を最大限尊重しているように思います。またこの箇所につけられているような、ある意味大胆な運指は、逆にタレガ以外の人には付けられないのではないかと思います。



あくまでも慎重に

 タレガの曲の場合、運指の変更は極めて慎重に行われなければなりません。一般的に言えば、運指はなるべく弾きやすくするために付けるもので、演奏者によって変更することは十分可能です(曲の内容をちゃんと把握していれば)。しかしタレガの場合は運指はその曲のニュアンスや内容を決定付けるものにもなりますので、慎重に行われなければなりません。



同じというわけにはいかないが

 しかし一方ではタレガの技術と私たちの技術は同じというわけにはいきません。タレガには極めて容易なことでも私たちには出来ないこともかなりあります。そうした場合は現実には変更せざるを得ないのですが(私の場合はこうしたこよく結構あります)、ただしオリジナルの運指が持っているニュアンスを十分に感じ取る必要は絶対にあります。

 長くなってしまいましたので、後半(短調の部分)についてはまたの機会にしましょう。
 




 
 
 昨日と今日(7月10~11日)、水戸芸術館で第43回水戸市民音楽会がありました。私たちの水戸ギター・アンサンブルは、10日(土)に「展覧会の絵」の抜粋(中村編)を演奏しました。

 今回は出演団体が両日で52団体と、ますます出演団体が増え、両日とも13:00~17:00まで、それぞれ4時間を要するコンサートとなりました。出演者も1000人に近いのではないかと思いますが、出演者だけでなく、水戸市、および芸術館の職員の方々、アルバイトの方々、さらに私と同様に出演者も兼ねる実行委員の方々と、音楽会の進行にも数十名の人がたずさわる、大きなイヴェントとなっています。

 そうしたこともあって、時間によっては客席もほとんど満席状態になるのですが、さすがに時間が長いので、終演近くになると空席のほうがずっと多くなってしまいます。特に11日(日)の方はそれが顕著となってしまいました。演奏の方だけでなく、聴くほうにも、あと”ひとがんばり”していただければと思うのですが・・・・

 
どちらが勝っても初優勝

 ウルグアイ、オランダ、ドイツ、スペインと、4強の残ったのは結局チームとしての強さのあるチームでしたね、古豪ウルグアイは準決勝で涙を飲みましたが、本当に強いチーム。虚飾を廃し、ただワールド・カップに勝つことだけを目指したチーム。「俺たちのサッカーは遊びじゃねえ」と言っているようです。オランダ戦でも最後まで食い下がり、終了間際の得点は見事と言えます。

 ドイツはこのところ優勝こそありませんが、日韓大会から3回連続してベスト4以上と、毎回強いチームを作ってきます。その中でも今回は守備にも攻撃にも圧倒的な強さで、イングランド、アルゼンチンと強豪をなぎ倒してきました。クローゼのしぶとい得点に加え、エジルなどの新しい力が目立ちました。

 オランダは「日本が10回戦っても1回勝てるかどうか」と言われたチームですが、日本と親善試合をした頃はまだチームとしてのまとまりはいま一つといった感じもしました。しかしワールド・カップに入ってから1戦ごとに強さも、まとまりも出てきた感じです。オランダはこれまで出場32チームのうち、唯一すべての試合で勝利しています。このまま無敗のままで、このワール・カップを終えるのでしょうか。

 その強いドイツを、持ち前のパス・ワークで翻弄したのがのがスペイン。得点こそコーナー・キックからでしたが、ドイツ陣内で何度も見せる速くて正確なパス回しはただ驚くばかり、やはり他のチームとは次元が違う。オッズでは優勝の確率が最も高いとされながらも、テレビなどではスペインの優勝を予想する人は意外と少ない。ワールド・カップでは勝てないスペインというイメージが強いのかも知れません。

 しかし今回のスペイン・チームは、終盤になっても運動量が落ちず、前線でもボールを執拗に追いかける姿が見られます。勝利への執念も十分といった感じで、ある意味、予想を裏切ってここまで来ました(初戦でスイスに負けた時には「やはり」といった感じでしたが)。

 決勝はオランダ=スペイン。 スペインが「無敵艦隊は勝てない」というこれまでの歴史を塗り変えるのか、はたまた独立戦争の再現どばかりに、オランダが強国スペインを撃破するのか・・・・  答えはもうすぐですね。




ラグリマ


 今回の楽譜はラグリマです。ラグリマは前回のアデリータとは姉妹のような関係にあり、短調と長調がちょうど逆の関係になっていますが、リピートとダ・カーポの付いた16小節と、曲の構成は同じになっています。おそらくタレガもそれを意識して作曲したと考えられます。



作曲、出版年代ははっきりしない

 曲としてはこの2曲確かに似ているのですが、楽譜に関して言えば若干異なる点もあります。前述のとおり、アデリータは1902年にタレガの作品のとしては最初に出版されたものの一つで、タレガ自身により入念に校訂されたと思われます。一方ラグリマの方は正確な出版年代が不明(私がわからないだけかも)で、1908年~1920年に出版されたとされています。カタログに書かれた順番からすれば、やや早いほうで、タレガの死の前後かもしれません。


 作曲されたのは1893年にロンドンに滞在した時とされている新聞記事もあるようですが、信憑性は少ないようです。この記事は1915年に書かれたもので、少なくともその時点でこの曲が「アルハンブラの想い出」などと共に、ギター愛好者間に浸透していたのは確かでしょう。またこの曲はここに挙げたもの以外に、フォルテアによる別バージョンもあるそうです。


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「重箱の隅」で恐縮ですが

 この譜面はそのアリエール社から出版されたもの(初版)のコピーです。この譜面を詳しく見てゆくと、些細な問題なのですが、1小節目の1拍目と、3小節目の1拍目では桁(音符の横棒)の掛け方が違っています。曲全体からすれば1小節目は、当然3小節目のように書かなければならないところです。ミスといえばミスなのですが、この1拍目の4弦の「ミ」を譜面どおりに8分音符で弾く人はいないでしょうから、実際に演奏する場合は特に問題にはならないでしょう。というよりそんなことに気付かず弾いている人も多いのではないかと思います(こんなことにイチャモン付けるのは私くらい?)。


 さらに2小節目と4小節目の3拍目の「シ」の音符の「棒」の付けかたが違っていて、2小節目の本来4小節目のように書かれるべきでしょう。また7小節目の3拍目の「シ」にも4小節目のように下向きに棒が書かれるべきと思います。このようなことは本来あえて指摘すべきことではないのですが、この譜面の性格という意味では若干考慮すべき点もあります。


「アデリータ」と比べると

 タレガはそうした細かい譜面の書き方にはあまりこだわらなかった、と考える人もいるかも知れませんが、それについては「アダリータ」の譜面をもう一度見るとわかります。アデリータの1~3小節目の低音にはなんと棒が上下に付いていて、低音部と中音部を兼ねていることを表しています。このようにタレガは出版の際にはこうした「声部分け」には細心の注意を払っていることがわかります。


 これらのことは、この「ラグリマ」の譜面が直接タレガの手を経て出版されたわけではないことを示すものともいえます。もちろん出版年代からして、その可能性は高いのですが。またこの出版譜の基となった譜面も、タレガが出版を想定して書いたものではないということも言えるかも知れません。



楽譜の信頼度「A」

 これらのことを総合するとこの譜面の信頼度というか、タレガの意思の反映度といった点では「シングルA」といったところと思います。それほどいい加減なものではありませんが、さりとて入念に書かれたものでもない。もちろんその評価はあくまこの譜面の「信頼度」であって、曲の内容についてではありません。内容について言えば、「アデリータ」よりも優れている点もかなりあるように思います。
 昨日(7月4日)石岡市ギター文化館で大萩康司君のリサイタルを聴きました。昨年も同じ時期にコンサートがあり、当ブログでもそのレポートを載せました。チラシの方には今回の演奏曲目としてポンセの「ソナタ第3番」やテデスコの「ソナタ=ボッケリーニ賛歌」などが記されていましたが、実際の演奏曲目は次のとおりです。



金子仁美 : フェリシタシオン

A.バリオス : 大聖堂

F.モンポウ : コンポステラ組曲

F.ルコック~ブローウェル編 : 組曲イ短調

武満 徹~福田編 : 翼

ガーシュウィン~武満編 : サマータイム

マッカートニー~武満編 : イエスタディ

渡辺俊幸 : つづれ織りの記憶

レイ・ゲーラ : 12月の太陽 



 大萩君の演奏の特徴については前回(昨年)も書きましたが、今回の印象としてはそれに加え、安定感のようなものも感じられました。今年は大萩君にとってはデビュー10周年だそうで、それを記念しての新曲も披露されました(金子仁美、渡辺俊幸の作品)。どちらも繊細で、美しい曲です。


 「大聖堂」は普通聴くものとだいぶ違うヴァージョンのようです。特に第2楽章にはリピートがつけられていました。ルコックの「組曲」はデビュー時のレパートリーですが、とても楽しめる曲、あるいは演奏で、まるで大萩君のための曲のような感じがします。


 武満編の「サマータイム」や「イエスタディ」はかなり難しい曲で、私も弾いてみたことがありますが、「何もここまで難しくしなくても」と思うようなアレンジです。とりあえず譜面に書いてある音符を音にするだけでも結構たいへんなのですが、大萩君の演奏では譜面に書かれてあること以上の面白さが出ているように感じました。


 今回もギター文化館が満席状態と、大萩君の人気は相変わらずのようです。ギターに詳しい人も、あまりギターの演奏を聴いたことのない人でも楽しめるのが大萩君のコンサートの最大の特徴かも知れません。

手からすり抜けた

 ちょっと日にちが経ってしまいましたが、先日、日本代表はベスト8に指がかかったところで、するりと手からすべり落ちてしまいました。PK戦は、「PK戦にもちこんだ」と思ったチームのほうが有利。試合の流れからして勝利の可能性が高いと思ったのですが、世の中も、ワールド・カップのベスト8も、そんなに甘くはない。私が生きている間に、1回でもベスト8に進むのを見届けられれば極めて幸運。選手や監督は優勝を目指してがんばるのは当然だとしても、サッカー・ファンとしては高望みや、過大な期待をしてはいけない。ましてテレビの前でごろごろしながら結果だけ要求するなどもってのほか!


 結局パラグアイは120分間のプレー、特に守備、そしてPK戦と全くミスがなかった。日本チームがどうのというよりパラグアイ・チームの戦いぶりを賞賛すべきでしょう。



ラーメン? それともアイスクリーム?

 かつてはワールド・カップなどと言っても、新発売の即席めんかアイスクリームくらいにしか思われていなかったものですが、今やオフサイドの意味がわからない女性は少数派の時代となりました。本当に時代は変わったものです。10数年くらい前まで、ベスト8だの、決勝トーナメントなどというより、ワールド・カップそのものが夢のまた夢。ワールド・カップなど、どこか遠い遠いところで行われる、わが国のサッカーとは縁もゆかりもないイヴェントと思われていたわけですから。



やはり気になるのは

 予想外にと言っては失礼ですが、確かに日本代表は本田選手を筆頭に、たいへんすばらしいゲームをしたと思います。再度になりますが、南アフリカであげた4つのゴールは、今後長きにわたって語り継がれるビューティフル・ゴールだったと思います。


 そうした活躍した選手たちがいる一方で、やはり気になるのは、南アフリカの地にありながら、ほとんど、あるいは全くピッチには立てなかった選手たち、 川口、楢崎、岩政、今野、内田、稲本、中村憲剛、中村俊輔、玉田、森本、矢野・・・・・


 もちろんそれはどの大会でも、またどの国のチームでも必ずあること。遠藤や松井選手などは前回の大会でのそうした境遇の乗り越えて、今回の活躍となりました。またこうした短期的な戦いでは、好調な場合はメンバー変更を行わずに次の試合に臨むのが定石、おそらく他の監督でもそうしたでしょう。ただ今回の場合は第1戦からよい戦いをしただけに、先発メンバーとそうでない人の出番の差がはっきり出てしまったのでしょう。


 パラグアイ戦では、中村憲剛選手はたいへん短い時間の出場でしたがとてもよいプレーをしたと思います。他の選手たちも出番を与えられればよいプレーをしたのは間違いないと思います。そうした選手のプレーも見たかったというのは贅沢すぎる望みでしょうか。ワールド・カップはオールスター・ゲームではないのですから。



実は温情派

 日韓大会の時に、トルシエ監督は決勝トーナメントで先発メンバーを入れ替え、「好調な時にはメバーを入れ替えてはならない」と批判されたこともありました。ひょっとしたらトルシエ監督は試合に勝つことよりも控え選手にも活躍の場を与えることの方を優先したのかも知れません。一見冷徹そうなトルシエ元日本代表監督は意外と温情派なのかも? 因みにトルシエ氏はテレビのコメントでは、中村俊輔を先発メンバーにしていました(8年遅い?)



気まぐれな勝利の女神

 今回のワールド・カップもだいぶ進み、3位決定戦を含めても残り試合は、あと4つ。ベスト4にはウルグアイ、オランダ、ドイツ、スペインが残りました。スペイン-パラグアイ戦もたいへん厳しい試合、パラグアイもあと一歩のところでベスト4を逃してしまいましたが、やはりたいへん強いチーム。日本が学ぶべき点はブラジルやアルゼンチンなどよりもずっと多いように思います。


 スペインもヨーロッパ有数の強豪国でありながら、これまでワールド・カップにはあまり縁のなかったチームですが、今回は絶好調と言えないながらもここまで勝ち上がってきました。気まぐれな勝利の女神に微笑まれることはあるのでしょうか。





今後のコンサート予定

 ・・・・またまた余計な話が長くなってしまいましたので、今回は「ギター上達法」はちょとお休みにして、今後のコンサート予定などを紹介します。



 7月10(土) 、11(日) 13:00~16:30 水戸市民音楽会 ~水戸芸術館ATMホール


 両日で50数団体が出演するコンサートですが、当教室でやっている水戸ギター・アンサンブルが10日(土)に出演します。多数の団体が出演するので演奏時間は各団体7分と短いのですが、私のところではムソルグスキーの「展覧会の絵」を抜粋して演奏します。私たちの出番は10日の16:00頃になる予定で、入場は無料です。



 9月18日(土) 12:30~(予定)  ひたちなかギター・フェスティヴァル  ひたちなか市文化会館小ホール

 アコラ主催で行われる、一般のギター愛好家参加によるコンサートです。このイヴェントは今回初めてのものですが、私の教室でも協力ということになりました。ゲストも含めれば30人近くの出演者があるのではと思います。まだ出演者募集中なので、ご希望の方は是非連絡下さい(アコラ、または私のところに)。参加費は4000円ですが、詳細はアコラのホーム・ページを見てください。

 因みに私の教室からは私を含めて8人前後の人が出演します。私の演奏曲目はプレリュード、ファンシー、エリザベス女王のガリヤルド(ジョン・ダウランド)、 黄金のポリフェーモ(スミス・ブリンドル)です。



 11月14日(日) 18:00~  水戸ギター・アンサンブル演奏会  ひたちなか市文化会館小ホール

 昨年に引き続き「水戸ギター・アンサンブル演奏会」を行います。今回の曲目は前述の「展覧会の絵」より、バルトークの「ルーマニア民族舞曲」。 二重奏でサマータイム(ガーシュイン)、エリート・シンコペーション、ラグタイム・ダンス(ジョプリン)、セレナードト長調(カルリ)。 独奏でベニスの謝肉祭(タレガ)などです。入場無料。