最終回
この「楽譜を読む」もずいぶんと長くなってしまいました。楽譜を読むということは少なくともクラシック音楽にとっては根幹的なことなので、それをやむをえないでしょうが、きりがないのでとりあえずこの辺で一旦終わりにしましょう。
弾き語りの譜面から始まり、カルリ、パガニーニ、アグアード、ソルなどの譜面の話をし、特にタレガについては昨年触れられなかったこともあって、譜面だけでなくその人物像にも触れてみました。さらに現代曲の譜面、プロのギタリストの間でも意見の分かれる「グレーな音」。そして最後はバッハにも話が及びました。
タレガの音楽は音楽史になった
タレガについては、20世紀の半ばくらいまでは、直接タレガに指導を受けた人や、その孫弟子に当たるギタリストも活動、あるいは生存していて、言って見れば最初からタレガ的奏法や感性を身に付けていたギタリストも多かったと思います。また比較的最近までは「現代のギターはタレガの延長線上にある」などとも言われていました。
しかし20世紀が去ってからすでに10年が過ぎた今日、タレガも没してから100年という年月が経ちました。現在のギター界もタレガの時代からは様変わりしたのは当然でしょう。タレガについては、今後は益々「『音楽史上の』偉大なギタリスト」としての面をいっそう多く持つことになるでしょう。
ロマン派の音楽の演奏様式
これまでタレガの曲の演奏については感覚的に解釈し、演奏する面も多かったと思いますが、今後はバッハやソルなどと同じく、客観的に様式感を踏まえた演奏ということが要求されてくるでしょう。
「演奏様式」と言うと、これまでバロック時代や古典派時代の音楽について言われることが多かったのですが、これからは19世紀後半から20世紀初頭、つまりロマン派の音楽についても客観的に演奏様式を考えてゆかなければならない時代となるでしょう。現在は決してロマン派の時代と同時代ではないのですから。
頂上は雲の彼方
バッハの音楽については、もちろん私自身その音楽のごくわずかな断片についてしか理解できていません(それすらもただの思い込みか)。とても険しく、その頂上が見えないほど恐ろしく高い岩山と言った感じです。間違いなくその頂上に行き着くことはないのですが、不思議なことに、手や、足をかけるちょっとした突起は結構あります。慎重にそうした突起に手や足をかけてゆくと、本当に少しずつですが、上に登ってゆくことが出来そうな気がします。それもまたバッハの音楽の魅力の一つでしょうか。
またまたWカップの話ですが
この記事を書いている頃は、ちょうどワールド・カップの時期で、ちょっと脱線してずいぶんとサッカーの話になってしまいました。私を含めて大方の予想に反した(?)日本代表の活躍、勝てそうで勝てないはずのスペインの優勝ということでしたが、本田選手は「ポスト・中田英寿」ということになるのでしょうね。今後世界的な活躍が期待できそうです。
終わってみれば優勝候補筆頭で、華麗なテクニックを誇るスペインの優勝ということで、下馬評どおりの結果と言えますが、実際のスペイン代表の戦いぶりはある意味予想外の感じがしました。
特に初戦では圧倒的なボール保持率と華麗なパス回しでスイスを圧倒しながらも、結果敗北という最悪のスタートでしたが、にもかかわらずスペインにとって最終的には最良の結果となったのは、ある意味スペインらしからぬ勝利への執念に満ちた戦いぶり、ビジャなどホワードの選手の労を惜しまない前線からボールを追い回し、プジョルらを中心とした必死の守りで、勝つための泥臭い試合に徹した結果かなと思いました。
スマートでカッコいいサッカーも見てて楽しいのですが、スター選手のこんなに必死な姿も、こうした機会でないと見られないかも知れませんね。
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「演奏をするということは、朗読や演劇の台詞と同じ」などということをどこかで書きましたが、台詞の場合でも、まずは台本をよく読んで、その演劇の全体像や自分の役のキャラクターをしっかり掴むのが大切だと思います。音楽を演奏する場合も、「どう演奏するか」、あるいは「どう弾けば」上手そうに聴こえるか」の前に、まず、楽譜をしっかりと読み、その音楽が「どういう音楽か」ということを把握することが重要でしょう。
それなしに技術的なことだけを配慮したとしても、無表情な、あるいは無意味な演奏になるだけでしょう。学芸会の棒読みセリフも、小さい子供がやれば愛嬌ですが、大の大人がコンサートのステージで棒読み演奏しても笑いもとれないでしょう。
・・・・・・無理やり(相当むりやり!) 前フリの話にオチをつけたところで、「楽譜を読む」本当に終わりです・・・・
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