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中村俊三 ブログ

中村ギター教室内のレッスン内容や、イベント、また、音楽の雑学などを書いていきます。


最終回

 この「楽譜を読む」もずいぶんと長くなってしまいました。楽譜を読むということは少なくともクラシック音楽にとっては根幹的なことなので、それをやむをえないでしょうが、きりがないのでとりあえずこの辺で一旦終わりにしましょう。

 弾き語りの譜面から始まり、カルリ、パガニーニ、アグアード、ソルなどの譜面の話をし、特にタレガについては昨年触れられなかったこともあって、譜面だけでなくその人物像にも触れてみました。さらに現代曲の譜面、プロのギタリストの間でも意見の分かれる「グレーな音」。そして最後はバッハにも話が及びました。



タレガの音楽は音楽史になった

 タレガについては、20世紀の半ばくらいまでは、直接タレガに指導を受けた人や、その孫弟子に当たるギタリストも活動、あるいは生存していて、言って見れば最初からタレガ的奏法や感性を身に付けていたギタリストも多かったと思います。また比較的最近までは「現代のギターはタレガの延長線上にある」などとも言われていました。

 しかし20世紀が去ってからすでに10年が過ぎた今日、タレガも没してから100年という年月が経ちました。現在のギター界もタレガの時代からは様変わりしたのは当然でしょう。タレガについては、今後は益々「『音楽史上の』偉大なギタリスト」としての面をいっそう多く持つことになるでしょう。



ロマン派の音楽の演奏様式

 これまでタレガの曲の演奏については感覚的に解釈し、演奏する面も多かったと思いますが、今後はバッハやソルなどと同じく、客観的に様式感を踏まえた演奏ということが要求されてくるでしょう。

 「演奏様式」と言うと、これまでバロック時代や古典派時代の音楽について言われることが多かったのですが、これからは19世紀後半から20世紀初頭、つまりロマン派の音楽についても客観的に演奏様式を考えてゆかなければならない時代となるでしょう。現在は決してロマン派の時代と同時代ではないのですから。



頂上は雲の彼方
 
 バッハの音楽については、もちろん私自身その音楽のごくわずかな断片についてしか理解できていません(それすらもただの思い込みか)。とても険しく、その頂上が見えないほど恐ろしく高い岩山と言った感じです。間違いなくその頂上に行き着くことはないのですが、不思議なことに、手や、足をかけるちょっとした突起は結構あります。慎重にそうした突起に手や足をかけてゆくと、本当に少しずつですが、上に登ってゆくことが出来そうな気がします。それもまたバッハの音楽の魅力の一つでしょうか。



またまたWカップの話ですが

 この記事を書いている頃は、ちょうどワールド・カップの時期で、ちょっと脱線してずいぶんとサッカーの話になってしまいました。私を含めて大方の予想に反した(?)日本代表の活躍、勝てそうで勝てないはずのスペインの優勝ということでしたが、本田選手は「ポスト・中田英寿」ということになるのでしょうね。今後世界的な活躍が期待できそうです。

 終わってみれば優勝候補筆頭で、華麗なテクニックを誇るスペインの優勝ということで、下馬評どおりの結果と言えますが、実際のスペイン代表の戦いぶりはある意味予想外の感じがしました。

 特に初戦では圧倒的なボール保持率と華麗なパス回しでスイスを圧倒しながらも、結果敗北という最悪のスタートでしたが、にもかかわらずスペインにとって最終的には最良の結果となったのは、ある意味スペインらしからぬ勝利への執念に満ちた戦いぶり、ビジャなどホワードの選手の労を惜しまない前線からボールを追い回し、プジョルらを中心とした必死の守りで、勝つための泥臭い試合に徹した結果かなと思いました。

 スマートでカッコいいサッカーも見てて楽しいのですが、スター選手のこんなに必死な姿も、こうした機会でないと見られないかも知れませんね。

 

・・・・・・・・

 「演奏をするということは、朗読や演劇の台詞と同じ」などということをどこかで書きましたが、台詞の場合でも、まずは台本をよく読んで、その演劇の全体像や自分の役のキャラクターをしっかり掴むのが大切だと思います。音楽を演奏する場合も、「どう演奏するか」、あるいは「どう弾けば」上手そうに聴こえるか」の前に、まず、楽譜をしっかりと読み、その音楽が「どういう音楽か」ということを把握することが重要でしょう。

 それなしに技術的なことだけを配慮したとしても、無表情な、あるいは無意味な演奏になるだけでしょう。学芸会の棒読みセリフも、小さい子供がやれば愛嬌ですが、大の大人がコンサートのステージで棒読み演奏しても笑いもとれないでしょう。


  ・・・・・・無理やり(相当むりやり!) 前フリの話にオチをつけたところで、「楽譜を読む」本当に終わりです・・・・
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昨日(8月22日)石岡市ギター文化館で、「佐藤純一&タケオ・サトー ジョイント・コンサート」を聴きました。

 佐藤純一君については、おそらく皆さんもご存知と思います。現在はギター文化館の講師をやめていますが、FM放送のパーソナリティーを務めるなど、いっそう幅広く活動しているようです。

 タレガの「グラン・ホタ」からコンサートが始まりましたが、楽器の特徴もあってか、技巧的で華やかな曲というより、優雅で繊細な感じの演奏でした。いろいろな特殊奏法も、なかなか効果的に面白く演奏されています。続いてジブリの曲=「風の谷のナウシカ」、「海の見える街」、「となりとトトロ」が演奏されましたが、こちらは伴奏を抑えて、メロディを歌わすことに集中している感じでした。

 次にタレガ編のショパンのノクターン(Op.9-2)が演奏されました。このアレンジはただピアノの原曲をギターに移し変えただけでなく、随所にギター的なパッセージが挿入されていて、美しくメロディを歌わせるだけでなく、ギターのテクニックを聴かせる曲にもなっています。佐藤君はそうした難しいパッセージも、まるで何事もなかったかのように、力まず、さらりと弾いています。

 さらにアニメのテーマから、今度はディズニーの曲で「美女と野獣」、「ホール・ニュー・ワールド」、星に願いを」が演奏され、そして最後にマヌエル・ポンセの「南のソナチネ」が演奏されました。

 佐藤(純一)君のプログラム全体を見ると、クラシックの3つの大曲の間に、アニメのテーマを2組、3曲ずつ挟むといった構成で、本格派の曲と、カジュアルな曲とのバランスをうまくとったプログラミングと思いました。

 さすがにこの暑さでは、演奏もたいへんだったと思いますが、演奏そのものにはそうした影響は感じられませんでした。



 タケオ・ペーター・サトー君はドイツ在住のギター制作家のカズオ・サトー氏の子息で、私自身は彼がまだ10代半ばの頃、1999年の東京国際ギター・コンクールの時に、その演奏を聴いています。4位入賞だったと思いますが、その繊細な感性が印象的でした。

 最初にバッハのプレリュード(二長調 BWV998)が演奏されました。彼の演奏を聴くのはその時以来と言うことになりますが、当然当時とは演奏は変わっているでしょう。父であるカズオ・サトー氏の楽器から出る音は質感のある音で、演奏内容も、持ち前の感性を、技術と知性がしっかりとサポートしていて、美しく、かつ充実したバッハといった感じでした。

 次に武満徹の「エキノクス」が演奏されました。自らが生まれ育った国ドイツの音楽と、父の生まれ育った国日本の音楽をそれぞれ一曲づつ演奏したわけですが、それぞれを同じようにたいへん美しく、しかし全く異なる性質の音楽として演奏していました。

 武満の音楽は幽玄の世界とでも言うべく、日本の伝統的な情緒を表現した音楽と言えます。特に日本的な作曲技法を用いているわけではないと思いますが、このような音楽はヨーロッパには存在せず、やはり日本的な音楽としか言いようがないのでは。でもやはり武満の音楽は美しい! 理屈ぬきで!

 さらにその後武満編の「イェスタディ」、バリオスの「マシーシ」、ジュリアーニの「ロッシニアーヌ第5番」、タレガの「グラン・ワルツ」、トゥリーナの「ソナタ」と続きましたが。もちろんどの曲のすばらしいものでした。アンコールとしてホルヘ・モレルの「ダンサ・ブラジレイラ」が演奏されましたが、現代の青年らしく、たいへん生き生きとしたリズムで演奏していました。

 最後に両「サトー」の二重奏で、カルドーソの「ミロンガ」が演奏されました。因みに両「サトー」君、苗字は同じですが、特に親戚関係などはありません。
 前回の続きですが、ヴァイオリン・ソナタの「グラーヴェ」で、最後の部分を完全な形に書き換えると、2段目のようになるかと思います。和声進行が「メヌエット」と同じになっているのがわかると思います。 Ⅳ-Ⅴ/Ⅴ(属和音の属和音)-Ⅴ の形になっていて、最後のところのバス、すなわち和声は5度進行になっています。


グレーバッハ 001

 

このほうがなめらか

 このようなケースでは、私たちがよく聴くケース、つまり古典派やロマン派の音楽では3段目のようになることが多いと思います。特にアグアードの曲などではこのような形が多いでしょう。聴いた感じではこのほうがずっとなめらかで、耳に馴染みやすいのではと思います。もちろん2段目のほうでも特におかしくはありませんが、なんとなくゴツゴツした感じがします。

 3段目の場合、中央の和音(ファ、ラ、レ#)は「イタリアの6」と呼ばれ、よく使われる和音です(ポピュラー音楽では『裏コード』などと呼ばれる)。この場合、ソプラノ(上声部)もバス(低声部)も半音ずつ動くので、とても滑らかな感じがします。おそらくこの和音はバロック時代でも使われていたと思いますので、このような形にも出来たはずです。

 どうやら、バッハの音楽においては、音楽が流麗に進む、あるいは自然に聴こえるということは最優先事項ではないようです。私たちは和声法と言うと、音楽が自然に、違和感なく聴こえるようにするための規則、つまり車が安全に、かつ円滑に運転できるようにするための道路交通法のようなものと考えていますが、バッハの場合はそうした方法的な問題より前に、音楽が成り立つための根本的な原理、あるいは理念といったものがあるように感じます。

 

バッハとニュートン

 無理な”こじつけ”とは思いますが、バッハが生まれたのは1685年。その1年後の1686年にはニュートンが、万有引力などを説いた「プリンキピア」を出版します。この本の中でニュートンは、私たちの身近な日常的に起こっていることも(リンゴが木から落ちる話が書いてあるかどうかはわかりませんが)、神の領域とされていた遠い遠い天空の星々の運行なども、宇宙の中のすべての現象は、同一の物理法則に基づいていることを述べています。

 この「プリンキピア」と言う書は極めて難解な書らしく、専門家でもなかなか解読できないといったもののようで、バッハがこの本を読んだ可能性は少ないと思いますが、それでも私にはこの両者には何か共通したものを感じます。



森羅万象は一つの根本原理から

 バッハの作曲においては、一見多様に見える音楽も、それらは一つの根本原理から成り立つ。言い換えれば、様々な音楽は、一つの根本原理から演繹されなければならない、と考えていたのかも知れません。

 余談ですが、その後はニュートンの諸法則は近似的にしか成り立たないということで、相対論や量子論などがさらに生まれました。現在、物理学においては、万有引力、電磁力、強い力、弱い力の4つの力があるとされていますが、現在の物理学者はこの4つに分かれた力を、統一した理論で表記すべく「大統一論」に取り組んでいるされています。物理学においては、今も昔も、宇宙のすべての現象を説明できる「一つの根本理念」というのが究極の目標のようです。



確かにこじつけですが

 物理学においては、質量のあるもの同士には必ず引力が働く。バッハにおいては、音には必ず5度の引力が働き、音楽とはその「5度」の力学関係により成り立つものと考えていたのでしょうか。よくバッハとキリスト教の関係を説く本などはありますが、バッハと物理学、あるいはニュートンと比較した話は私もあまり聴いたことがありません。確かに無理やりのこじつけではありますが、こんな比較もたまにはよろしいのでは。



光り輝く純白

 話がまたあらぬ方向に行ってしまいましたが、最初に戻して、このメヌエットの「シ・ナチュラル」は聴いた感じちょっと変だが、紛れもない”白”、それも”光り輝く純白”。バッハの音楽の本質が透けて見える白といったところでしょうか。

 音の間違い(と思われるものも含めて)もいろいろありますが、中には別にどっちでもたいした違いのないものもあります(どちらかと言えば、そのほうが実際には多いかも)。しかし中には、一つの音の変化記号により、その音楽のあり方や、その作曲家の音楽観をも決定してしまうものもあるのかも知れません。

 
 今回はバッハの音符についてです。バッハの話はまた別の機会にと思ったのですが、話の行きがかり上、この話もしておこうと思います。

グレーバッハ


バッハ : メヌエット(無伴奏チェロ組曲第1番より)


 この話は、何年か前に、「バッハと5度」というタイトルでアコラで話したことなのですが、バッハの音楽の本質に関ることかなと思いますので、改めて書くことにしました。曲は無伴奏チェロ組曲第1番の「メヌエットⅡ」の前半の終わりのところです。もちろん原曲はチェロのための曲で、調はト長調(この部分はト短調)ですが、一般的にギター弾く譜面にしてあります(二長調~ニ短調)。

 1段目と2段目はほとんど同じで、それぞれ4小節目が若干異なりますが、それは”つなぎ”ということですので、実質上はリピートと考えられますが、大きな違いは四角で囲った2段目の「シ」の音です。

 この部分はニ短調ですから「シ」は♭で、1段目の場合、この「シ♭」は次に半音下って「ラ」に落ち着きます。半音で下るのはメロディ的にも自然で、とても滑らかに「ラ」に進む感じで、和声進行的にも、Ⅳ-Ⅴ の進行となり、何の問題もありません。



当然間違いだと思い

 しかし2段目のほうではこの「シ♭」にはナチュラル記号が付けられ、「シ-ナチュラル」となっています。実際に弾いてみても決して滑らかなメロディとは言えず、ここだけ妙に浮いた感じに聴こえます。

 そこで私はかつて、このナチュラルは何かの間違いでは、とあまり深く考えずに♭に直して弾いたり、また楽譜も書いていました。でもある時、生徒さんから「ここ、チェロではナチュラルで弾いているようなのですが」と言われ、改めて何種類かのチェロのCDを聴いてみると、確かに皆ナチュラルで弾いていて、さらにバッハの自筆譜で確かめてみると、しっかりとナチュラル記号が付けられていました。



間違い、いや間違いでないことはわかたのだが

 私が間違えてしまったのは確かなのですが(残念ながらよくあること)、しかし「シ-ナチュラル」が間違いではないとすると、なぜバッハはちょっと聴くと不自然に聴こえるようなナチュラル記号を付けたのか、私としてはとても悩んでしまいました。

 バッハの場合、何の理由もなく音符を書くことはありませんし、特にこのように、あえてメロディが不自然に聴こえるようにナチュラル記号を付けたのは何か理由があるはずです。まず考えられるのが、ト短調からト長調に転調するということですが、この音だけ半音上げてもト長調にはならないし、またここをト長調にする理由も見当たらない。 ・・・・他にどんな理由があるんだろう・・・・



偶然にも

 このことがずっと私の頭から離れないまま、1~2週間ほど過ぎたと思います。偶然にもその時、別の生徒さんに、バッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第2番の「グラーヴェ」をレッスンしていましたが、その「グラーヴェ」のエンディングのところの譜面を眺めているうちに、「あれ、これ例のメヌエットの終わり方と同じじゃない?」と突然思いました。


グレーバッハ 001

 この譜面の四角の中の下の声部の「ファ-ファ#-ミ」で、「ファ」が半音上がってから「ミ」に進むのはあまり滑らかではなく、「ファーナチュラル」のまま「ミ」に進んだほうがずっと自然に聴こえます。ですから少なくともメロディの関係で半音上がったわけではないことがわかります。となればあとは和声的な問題しかないということになります。



そうか、属和音にするためか!

 でも、この譜面のように「レ#」と「ファ#」の和音といった形になっていると、さすが私でもここがB7、つまり次の和音の属和音になっていることがわかります。「なるほど、どちらの場合も次の和音の属7になるように半音上げたのか」と納得しました。

 このことがわかった時、私はちょっとしたショックを受けました。一つはバッハの属7-主和音、つまり和声の5度進行へのこだわり、さらにはそのことを一つの音を半音上げることによって成し遂げてしまうバッハの凄さ、またメロディの自然な流れよりも和声進行を優先させると言うバッハの音楽・・・・・



みんなが言うから凄いのかな

 若干大袈裟に言えば私はバッハの音楽の本質を、本当に少しだけ垣間見た気がしました。バッハの音楽の凄さはいろいろな人が言っているわけですが、ただこれまで、「みんなが言うんだから、やはりバッハは偉大なんだろうな」といったところはあったと思います。

 また私たちがバッハの音楽の特徴と思っていることでも、実はそれは単なる時代性といったようなもので、同時代の作曲家なら皆同じような傾向があるといったこともあるでしょう。しかし、今度のことで、ほんの少しですが、具体的にバッハの音楽と、他の同時代の音楽家との違いが、なんとなく感じられた気がしました。



メヌエットに戻って

 話のほうがちょっと先に進んでしまいましたが、話をチェロ組曲の「メヌエット」に戻します。上の段のほうは完全には終わらないので、3~4小節目のところは、和声進行的には、Ⅳ-Ⅴ ということで2度進行になっています。したがって「シ」は当然♭のわけです。しかし2段目のほうは、半終止ですが、一応終わるので、Ⅳ-Ⅴ/Ⅴ-Ⅴ となり、和声の5度進行が挿入されます。そのⅤ/Ⅴ(属和音の属和音)を形成するために「シ」にはナチュラル記号が付けられていると解釈できるでしょう。



ないはずの音が! ~バッハのイリュージョン

 その下の段に和声を完全な形にしものを書きましたが、実際には弾かれない「ミーラ」というバスの進行がある訳です。バロック時代の音楽はバスの音を基に音楽が作られているわけですが、この曲ではその最も重要な音を省略してしまっています。しかしながらバッハは一つの変化記号によって、ないはずのバスをしっかりと感じ取らせてしまう、これはまさにイリュージョンとしか言いようがない!

 
グレー 004


バリオスの「ワルツ第3番」

 バリオスの「ワルツ第3番」の話は以前にも話しましたが、比較的重要なところと思いますので、改めて書いておきます。この「ワルツ第3番」は、A-B-A-C-A という形になっていますが、上の譜はその「B」の部分です。

 線で示した「シ」と「ソ」の重音には特に変化記号が付いていないので、譜面どおりだと、この「シ」は♭ということになります。しかし前にCD紹介のところで紹介したオランダのギタリスト、エンノ・フォルホーストはナチュラルで弾いていました。



一件落着?

 バリオスの自演のCDも聴きなおしてみましたが、ノイズの彼方から聞こえてくる音はどうやらナチュラルのようです。バリオスの自筆譜も見る機会があり、確かめてみると、確かにナチュラル記号は付いていないのですが、幸いに運指が付いていて、その運指からすると明らかにナチュラル、つまり「シ♭」だと弾くことが出来ない運指になっています。

 また和声的に考えても、次がハ長調の主和音、つまりC-メジャー・コードになっているので、ここはハ長調の属和音、つまりG7になっていなければなりません。したがって「シ」はナチュラルでなければならないということになります。

 以上のことからこの「シ」にはナチュラル記号が脱落していると結論してよさそうです。つまり完全な「クロ」ということになります。今のところCDなどではこのフォルホースト以外のギタリストはすべて「シ♭」で弾いていますが、今後はナチュラルで弾くギタリストも多くなってくると思います。私も今後この曲を弾く時には、ナチュラルで弾くことにします。




ジュリアーニの「大序曲」

 次の曲はジュリアーニの「大序曲」からですが、譜面はその展開部、つまり曲の中ほどのハ長調になった部分です。この譜面の初版や自筆譜などは見たことがないのですが、現在市販されているどの譜面も、またいろいろなギタリストの演奏も上の譜面のようになっていますから、おそらく初版もこのようになっていたのではないかと思います。

 問題の音は、線で示した「ソ」の音なのですが、私がこの曲を弾き始めた頃(20代)、ここは明らかな間違い(音符が5線上で1段ずれる、つまり3度間違えることはよくあるので)と思い、ずっと「シ」に直して弾いていました。というのも譜面どおりだと、とても変な音程の動き(4度-8度)になるからです。

 しかし一昨年、リサイタルのために練習している時、改めていろいろなギタリストの演奏を聴いてみたのですが、私の聴いた限りでは、すべてのギタリストは譜面どおり「ソ」で弾いていて、私のように「シ」で弾いている人はいません。



空気読みすぎ?

 どうしようかと悩んだのですが、私だけが正しいと言い切る自身もなく、また自分だけが突出したことをする勇気もなく、若干割り切れないものも感じつつ、結局は他のギタリストと同様に「ソ」で演奏しました。皆さんはどう考えますか。 ・・・・・正真正銘の「グレー」といったところか。
 ギタリストを悩ます「グレーな音符たち」の話ですが、今回は前回に引き続き、現代ギター社版、中野二郎編のソルの「モーツァルトの主題による変奏曲」についてです。

 この譜面(現代ギター社版)はソルの生存中(19世紀初頭)に出版されたMeissonnier-Heugel版を基にしていると書かれ、その初版を忠実に再現したものと考えられます。そうした経緯からすれば、この譜面は第一級の資料と言え、現在のすべての出版譜や演奏が、この譜面(Meissonnier-Heugel版)を基にしているといってよいでしょう。



最も信頼できるはずだが

 ということは、この譜面に出来る限り忠実に従って演奏するのが作曲者の意思を反映することになるのですが、ところがこの譜面は前回の話のとおり、そう一筋縄ではゆかない。

 前にも話したとおり、ソルという人は作曲や演奏については(それ以外のことも?)かなりの”こだわりや”だった訳ですが、同時にかなりアバウトな面も持っているようです。一般に”こだわりや”というのは自分が関心のある部分とそうでない部分とがはっきりする人なのかも知れません。

 ソルは、タレガとは違い、自らの作曲家としての面を強く意識していたと思いますので、楽譜の出版には力を入れ、実際にかなりの量の楽譜を出版しています。それだけ強い意識があれば、出版に際しては細心の注意を払うべきところなのでしょうが、残された譜面からすると、どうもそうとは言えないようです。出版社の問題などすべてがソルの責任とは言えないでしょうが、努力すればもう少し譜面のトラブルを少なくすることは出来たでしょう。同時代に出版された譜面の中には、ミスの少ない譜面もたくさんあるわけですから。



あまり迷う人はいないが

グレー 001


 ”グチ」から始まってしまいましたが、上の譜面は「モーツァルトの主題による変奏曲」の序奏の最後の部分です。ここははっきりミスとわかる部分なので、あまり問題にはなりませんが、一応挙げておきました。

 あまり説明もいらないと思いますが、ここは単純な繰り返しと考えられるところなので、全く同じでよいと思います。ほとんどのギタリストがそうしていると思います。「グレー」というよりほとんど「真っ黒」でしょうか。




あえて変えるなら

グレー 002

 上は第5変奏で、ここは逆に普通は間違いとはされていないところです。前半と後半のそれぞれの中央付近で、それぞれほぼ同じなのですが、譜面のように微妙に違います。もちろん楽譜通りに弾いたとしても何の問題もなく、従ってほとんど、あるいはすべてのギタリストは譜面どおりに弾いています。もちろん私も楽譜どおりに弾いています。

 こだわり屋のソルですから、前半、後半を微妙に変えたということはもちろん十分に考えられ、普通そう解釈されています。しかしこの違いがあまりにも微妙すぎて、特にその効果もないのではないか、聴いている人もその違いはほとんどわからないのではと思います。



なんとなく変わってしまった?

 あえて変えるなら、当然それなりの効果がなくてはならず、実際ソルの場合も、他の曲ではそうしていると思います。もしかしたらここは、ソルが意識的に変えたのではなく、何らかの理由で、うっかり「変わってしまった」のではないか、単純なミスである可能性も否定出来ないでしょう。

 しかしそうは言っても譜面どおりに弾いて特に問題はなく、難しくもなく、また他のギタリストも皆譜面どおりに弾いているので、心のどこかでは間違いかも知れないとは思いつつも、これからも譜面どおりに弾いて行くでしょう。 ・・・・色で言えば一応「白」だが、ちょっとゴミも付いている ・・・・そんなところでしょうか。


ここも特に問題にはならないが

下のほうはコーダの終わりの方で、ご覧のとおり最後の和音の音が一つ少なくなっていますが、単純ミスと考えてよいでしょう。




ギター曲ではないが

 グレー 006


 上の譜面の、上の方は「無伴奏チェロ組曲第1番」の「プレリュード」の後半の始めくらいのところです。原曲はもちろんチェロですが、ここでは一般的に弾かれるギターの譜面を載せておきました。

 問題の箇所は線で示した「ファ」の音で、おそらく皆さんがお持ちの楽譜でもこのように「ファ-ナチュラル」になっていると思います。私がもっているチェロの譜面(Edition Peters)でもナチュラルになっています。

 しかしカザルスやフルニエ、藤原真理などのチェリストはここを#で弾いています。もちろんヨーヨーマやマイスキー、シュタルケルなどナチュラルで弾いているチェリストもたくさんいます(私が持っているCDではナチュラルのほうが多い)。


増2度を嫌った?

 何の理由もなく音を上げることはないと思いますので、何らかの理由があるのでしょうが、私にはよくわかりません。「ソ#-ファ・ナチュラル」という増2度の動きを嫌ったのかも知れませんが、バッハの曲にはこの増2度の音程はよく出てくるので、むしろバッハらしいと思うのですが・・・・ 「カザルスがそう弾いていたから、それに倣った」などという理由ではないことを期待します。

 ギタリストのほうはシャープで弾いている人はいないように思いますが(多分)、とりあえずナチュラルでよいのではと思います。つまり私には「白っぽく」見えます。



グラナダの場合でも

 「増2度を嫌った」言えば、以前にもお話しましたが、アルベニスの「グラナダ」にもそうした部分があります(下の段の※のところ)。ピアノの譜面(音楽の友社版)ではここは#になっていて、ギターの編曲でも#になっているものがほとんどです。

 しかし、スペインの著名なピアニストの、アリシア・デ・ラローチャ、および私が持っている別のCDでも(演奏=エステバン・サンチェス)、さらにギタリストのセゴビアも、ここはナチュラルで弾いています。



結局、スペインの音楽家たちに従うべきかな

 ここもやはり「増2度」の動きを嫌ったのではないかと思いますが、増2度、つまり「レ#」のままでも、それはそれで味わいのあるものではないかと思います。私がナチュラルのほうにしたのは、こうしたスペインの音楽家がそう感じたならば、それに従うべきかなと思ったからです。

 確かにナチュラルのほうが滑らかな感じがしますが、このようにいろいろなところで、この「増2度」を避ける演奏家は多いようです。因みにタレガ編はシャープで、少なくとも私が持っている譜面ではそうなっています。
ソル : モーツァルトの「魔笛」の主題による変奏曲 第1変奏



7月号の現代ギター誌の記事

 現代ギター誌7月号に、「有名ギター曲徹底検証、どちらが正しい?」と言う記事が二橋潤一氏と小川和隆氏によって書かれていて、読んだ人も多いかもしれません。そこにちょっと気になることが書いてあったので、それについて若干コメントしたいと思います。



クラシカル・ギター・コンクール本選出場者のうち、5名が間違った音で弾いている?

 小川氏の文章で、今年の5月にあったクラシカル・ギター・コンクールの時の本選課題曲の”モーツアルトの「魔笛」の主題による変奏曲”で、「第1変奏の装飾音を6人中、山田(第1位になった)以外の5人が間違った音で弾いていることに驚愕!」 とありました。


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 問題の箇所は上記の譜面の↓印のところで、初版を忠実に再現したと言われている現代ギター社の中野二郎編の標準版ではこのように特に変化記号はなく、したがって通常の「ファ#」となっています。  一方、それ以外の一般に市販されている譜面では、この「ファ」にはダブル・シャープが付いています。

 小川氏が「間違い」といっているのは前者の「ファ#」のほうで、つまり5人が「ファ#」で弾いていて、山田さん一人が「ファ・ダブル#」で弾いたということのようです。




今現在では通常のファ# (ダブル#でなく) が主流


 この記事にはいろいろな意味で私も驚きました。 一つは、まだここはダブル#で弾いている人の方が多いのかなと思っていたのですが、若いギタリストの間では「ファ#」のほうが圧倒的主流になっているんですね。 

 また小川氏が「間違い」と断定している点は、はっきりしていてよいかも知れませんが、少なくとも今現在では、この音には諸説あり、ギタリストや音楽学者の間でも結論の出ていないところと言えるでしょう。



「ダブル#が正しい」というのは、かなり勇気がいる

 少なくとも今現在の時点で、 「『ファ#』は間違い」 とはっきり断定するのは、かなりの勇気が必要なこと、そう結論付けられるだけの確たる根拠を持っているか、または逆に情報に乏しいかどちらかでしょう。



昔だったら何の迷いもなく

 この現代ギター社の標準版が出版されたのは1970年代の前半だと思いますが、それまではどの譜面も、またLPなどの演奏もすべてここはダブル#となっていましたから、誰もが何の迷いもなくダブル#で弾いていました。

 聴いた感じも自然ですから、ここが間違っているなどと考える人はいなかったのではないかと思います (ごく一部の研究者を除いて)。 もちろん私も、周囲のギタリストたちもです。

 私もこの譜面を買った時、ダブル・シャープが付いていないことは気付きましたが、単なる脱落だと思い、時に気にもかけませんでした。 実際に70年代では「ファ#」で弾いている人はいませんでした。

 「ファ#」の演奏を聴いたのは、80年代に録音されたセルシェルのCDが初めてだったと思いますが、そういう弾き方や、考えもあるのかな、くらいで自分ではダブル#で弾いていました。



福田進一先生のレッスンで

 90年代の半ば頃だったと思いますが、息子の創が福田先生(福田進一氏)のレッスンを受けた時、「ここは初版ではダブル#は付いていないので、『ファ#』で弾くように」とおっしゃっていました。

 私も 「なるほどどう見てもダブル#は付いていない、ちょっと違和感はあるが、ダブル#だというはっきりした根拠がない以上、やはり譜面(現代ギター社の)どおり、『ファ#』で弾くべきかな」 と思い、以後自分でも「ファ#」で弾き、またレッスンの時にも、そのように生徒さんに言うようにしました。



指導者たちも

 前述のクラシカル・ギター・コンクールの本選出場者たちも、おそらくですが、本人の判断というより、指導者の方々がそのように指導した結果ではないかと考えられます。 

 今現在のギタリストや指導者のうち、おそらく年齢の高い人はダブル#で弾いたり、指導したりして、比較的若い(20~40代)ギタリストや指導者は通常の#ではないかと思います。 つまりコンクールに出るような生徒さんを指導しているのは、比較的若いギタリスということになるのでしょう。






果たして結論は



ダブル#のような目立つ記号は脱落しにくい

 以上のようなところが現状ではないかと思いますが、結局のところどっちが正しいのか、ということですが、これは大変難しいところです。 「ダブル#が正しい」 と言う根拠については、現代ギター誌に書かれた小川氏の文章を読んでいたただければと思います。

 確かにダブル#が脱落している可能性がない訳ではないと思いますが、しかしソルの意志に反してダブル#が脱落する可能性は、比較的少ないのではと感じます。

 その理由として、ダブル#が脱落するには、大きく分けて二つの段階があると思います。 一つはソルが印刷の基になる手書き譜を書いた段階、もう一つは印刷作業の段階です。

 前者の場合、ソルが手書きで楽譜を書いている際にダブル#が脱落する可能性は、楽譜を手書きで書いたことのある人なら、あまり可能性が少ないことがわかると思います。 手書きで書く場合、こうした臨時記号は音符よりも先に書きます。

 もしソルの頭の中が 「ファ・ダブル#」 であるとすれば、いきなり音符から書いて、ダブル#を書き忘れてしまうということはあまり考えにくいのではと思います。

 なおかつダブル#のような記号は曲の中でそれほど頻繁で出てくるわけではありませんから、自然に注意が行くと思われます。 これが頻繁にダブル#が出てくるとなれば、ソルの性格からして付け忘れも生じるでしょう。

 また一応譜面を書いた後で、多少は見直すでしょうから(ソルの場合、あまり見直さない可能性もあるが)、 ダブル#のような目立つ記号は見落としにくいのではとも思います。

 後者の印刷の際でも同様で、校正などの段階でダブル#などんも目立つ記号の脱落は気付かない可能性が低いのではないかと思います。その点がナチュラル記号のつけ忘れなどとは違う点だと思います。

 


4つの32分音符の音型を揃える?


 音楽的な点で言えば、 ダブル#にする最も大きな理由として、32部音符4つによる他の同様の音型の1個目と2個目がすべて半音になっているという事。 ここを通常の#にするとここだけ1個目と2個目が全音になってしまいます。 通常の#で弾いた時の違和感はこの音型の違いにあります。




4つの32分音符が減3度(2フレット分)になることを嫌った?

 しかし、もしここにダブル#を付けると、この4つの32分音符(ソ#ーファ##-ラーソ#)の一番高い音(ラ)と低い音(ファ##)の音程が減3度(2フレット分)となってしまいます。 これもちょっと違和感があり、それを嫌ってダブル#にしなかったとも考えられます。 



時代の流れに・・・・

 と言った訳で、はっきりととした結論は出ません。 となれば、今現在の演奏法の主流としては、「なるべく作曲家が書いた通りに」 ということで、ダブル#ではなく、通常の#でここを弾くギタリストが多くなっています。

 私もそのように弾いている訳ですが、人間って、知らず知らずのうちに時代の流れというか、世の中の流れに沿ってしまうのですね。   ・・・・・・・・結論になっていない?