セゴヴィアの生い立ち~自伝が出版されていたが
セゴヴィアの生い立ちについては1970年代に自伝が出版されていて、それを読んでみるのがベストなのですが、この本は現在入手不可能となっています。残念ながら私も持っていなくて、従って読んでいません。CDのブックレットなどに書かれているセゴヴィアの幼少時や青年期のことについては、この自伝がもとになっているようです。
何と言っても歴史的な大ギタリストの自伝ですから、いずれはまた入手出来るようになることを期待します。またアルベニスやタレガのように、客観的な資料などを基にした研究者による伝記等も書かれるようになればさらによいと思います。
アンダルシア地方の出身
さて、手元のいくつかの資料によると(現代ギター誌、音楽ノ友社「ギター基礎講座」他)、アンドレス・セゴヴィアは1893年の2月21日に、スペインのアンダルシア地方(スペイン南部)のリナレス市で生まれています。タレガやリョベットがカタルーニャ地方出身であるのに対して、セゴヴィアはフラメンコの盛んなアンダルシア地方に生まれています。
叔父夫婦に育てられる
父は大工で、あまり豊かな家庭ではなく、3歳の時に叔父夫婦に預けられ、幼少時はこの叔父夫婦によって育てられたようです。そうした状況からすると、セゴヴィアはスペインの民衆の音楽、つまりフラメンコが常に鳴り響く環境で幼少時を過ごしたようです。もちろんそのことがいろいろな意味で後のセゴヴィアに大きな影響を与えたのでしょう。
物乞いのギター弾きからギターを習う
幼少時にヴァイオリン教師からソルフェージュなどを習ったこともあるようですが、それはすぐに放棄し、6歳の時に物乞いのギター弾きからギターを少しだけ習ったようです。1ヶ月くらいでそのギター弾きから習うことはなくなり、その後は独学でギターを続けることになります。この時点でセゴヴィアが弾いていたのはフラメンコということになるのでしょう。ギタリストとして世に出てからも若い時にはフラメンコを弾くこともあったようです。

セゴヴィア10才頃の写真。 この頃まではセゴヴィアはフラメンコ・ギターを弾いていた
10才頃からクラシック・ギターに目覚める
10才頃からソル、ジュリアーニ、アルカス、タレガなどのクラシック・ギターに目覚めたとうことですが、叔父夫婦の反対や近くに適切な指導者もいなかったこともあって、相変わらず独学だったようです。おそらく楽譜などを読んで弾くようになったのはこの頃からなのでしょう、後にギターの楽譜に最初に出会った時の苦労などを語っています。
1909年、16歳グラナダでデビュー・リサイタル。 マドリッド・デビューは苦い思い出
16歳の時、1909年にグラナダで内輪のコンサートを行い、こらがセゴヴィア初のコンサートとされています。この年にタレガが亡くなり、セゴヴィアがタレガの演奏を聴くことは、結局なかったようです。1912年にはギター製作家のマヌエル・ラミレスから楽器を贈られます(1937年まで使用、その後はハウザーⅠ世、1960年からはホセ・ラミレスⅢ世)。マドリッドでもコンサートを行ったようですが、反響は今一つだったようです。
1915年バルセロナで成功
1915年にミゲル・リョベットと知り合うことになりますが、リョベットはこの当時、タレガ亡き後の第一人者といえるでしょう。その年からリョベットのホームとも言えるバルセロナでいくつかのコンサートを行い、絶賛を得ます。さらに1917年頃からはマドリッドをはじめ、スペイン各地で演奏を行い、その評価を確かなものとします。1912年のリベンジと言えるでしょうか。

1915年頃と思われる写真。左上アンドレス・セゴヴィア(22歳)。右上ミゲル・リョベット。左下ダニエル・フォルテア。右下エミリオ・プジョール。
タレガの再埋葬に参列、タレガ門下の一員に?
上の写真はアンドレス・セゴヴィア、 ミゲル・リョベット、 ダニエル・フォルテア、 エミリオ・プジョールとタレガの高弟たちと一緒に写っています。おそらく1915年のタレガの再埋葬の時の写真と思われます。セゴヴィア22才の時ですが、これを機にセゴヴィアもタレガ一門に加わったのでしょうか? おそらく「リョベットの弟子」ということで参列しているのではと思います。
セゴヴィアのギタリストしての実力が認められるようになるのと、このイヴェントへの参加し、タレガ門下のギタリストなどと知己を得るのとが時を同じくし、おそらくこの二つのことは大いに関係あるものと推測されます。
リョベットの力が関与していると思われるが
この時代、つまり1915年~1919年頃の間に、セゴヴィアはなんらかの形でリョベットから指導をうけたようですが、セゴヴィア自身は「リョベットからほんの少し助言を得た」とかなり”控えめに”言っています。結果から見ると、バルセロナでの成功やその後のセゴヴィアのギタリストとしての活動に、リョベットの力がかなり関与しているのではと想像出来ますが、そういったことについてはセゴヴィアはほとんど触れていないようです。
セゴヴィアの演奏はリョベットの影響を強く受けているということは以前にも書きましたが、それはレッスンと言う形でリョベットから指導されたというより、リョベットの演奏を注意深く聴き、それを自分の中に取り入れていったのでしょう。リョベットとタレガの関係もまさに同じと言えるでしょう。
独学の天才
独学と言えば、セゴヴィアは10歳の時に小学校に入学したと書かれていますが、その後、学校に関してはなにも書かれていません。中学校や大学どころか、その小学校さえも卒業したかどうかわかりません。かなりの読書家だったようですが、セゴヴィアはギターや音楽知識だけでなく、一般教養も独学だったようです。
国際的な大ギタリストへ
1919年頃には南米でも演奏を行い、1923年頃からは、パリはじめソビエト(現ロシア)を含むヨーロッパ各地で演奏を行い、高い評価を受けるようになります。1927年にはロンドンでレコーディングも行い、1929年には初来日となります。この時点ではセゴヴィアはリョベットを凌ぐ知名度を得、また高い評価も受けていたのでしょう。一方リョベットは1930年を過ぎるとあまり演奏活動をしなくなり、1937年に世を去ります。
セゴヴィアの生い立ちについては1970年代に自伝が出版されていて、それを読んでみるのがベストなのですが、この本は現在入手不可能となっています。残念ながら私も持っていなくて、従って読んでいません。CDのブックレットなどに書かれているセゴヴィアの幼少時や青年期のことについては、この自伝がもとになっているようです。
何と言っても歴史的な大ギタリストの自伝ですから、いずれはまた入手出来るようになることを期待します。またアルベニスやタレガのように、客観的な資料などを基にした研究者による伝記等も書かれるようになればさらによいと思います。
アンダルシア地方の出身
さて、手元のいくつかの資料によると(現代ギター誌、音楽ノ友社「ギター基礎講座」他)、アンドレス・セゴヴィアは1893年の2月21日に、スペインのアンダルシア地方(スペイン南部)のリナレス市で生まれています。タレガやリョベットがカタルーニャ地方出身であるのに対して、セゴヴィアはフラメンコの盛んなアンダルシア地方に生まれています。
叔父夫婦に育てられる
父は大工で、あまり豊かな家庭ではなく、3歳の時に叔父夫婦に預けられ、幼少時はこの叔父夫婦によって育てられたようです。そうした状況からすると、セゴヴィアはスペインの民衆の音楽、つまりフラメンコが常に鳴り響く環境で幼少時を過ごしたようです。もちろんそのことがいろいろな意味で後のセゴヴィアに大きな影響を与えたのでしょう。
物乞いのギター弾きからギターを習う
幼少時にヴァイオリン教師からソルフェージュなどを習ったこともあるようですが、それはすぐに放棄し、6歳の時に物乞いのギター弾きからギターを少しだけ習ったようです。1ヶ月くらいでそのギター弾きから習うことはなくなり、その後は独学でギターを続けることになります。この時点でセゴヴィアが弾いていたのはフラメンコということになるのでしょう。ギタリストとして世に出てからも若い時にはフラメンコを弾くこともあったようです。

セゴヴィア10才頃の写真。 この頃まではセゴヴィアはフラメンコ・ギターを弾いていた
10才頃からクラシック・ギターに目覚める
10才頃からソル、ジュリアーニ、アルカス、タレガなどのクラシック・ギターに目覚めたとうことですが、叔父夫婦の反対や近くに適切な指導者もいなかったこともあって、相変わらず独学だったようです。おそらく楽譜などを読んで弾くようになったのはこの頃からなのでしょう、後にギターの楽譜に最初に出会った時の苦労などを語っています。
1909年、16歳グラナダでデビュー・リサイタル。 マドリッド・デビューは苦い思い出
16歳の時、1909年にグラナダで内輪のコンサートを行い、こらがセゴヴィア初のコンサートとされています。この年にタレガが亡くなり、セゴヴィアがタレガの演奏を聴くことは、結局なかったようです。1912年にはギター製作家のマヌエル・ラミレスから楽器を贈られます(1937年まで使用、その後はハウザーⅠ世、1960年からはホセ・ラミレスⅢ世)。マドリッドでもコンサートを行ったようですが、反響は今一つだったようです。
1915年バルセロナで成功
1915年にミゲル・リョベットと知り合うことになりますが、リョベットはこの当時、タレガ亡き後の第一人者といえるでしょう。その年からリョベットのホームとも言えるバルセロナでいくつかのコンサートを行い、絶賛を得ます。さらに1917年頃からはマドリッドをはじめ、スペイン各地で演奏を行い、その評価を確かなものとします。1912年のリベンジと言えるでしょうか。

1915年頃と思われる写真。左上アンドレス・セゴヴィア(22歳)。右上ミゲル・リョベット。左下ダニエル・フォルテア。右下エミリオ・プジョール。
タレガの再埋葬に参列、タレガ門下の一員に?
上の写真はアンドレス・セゴヴィア、 ミゲル・リョベット、 ダニエル・フォルテア、 エミリオ・プジョールとタレガの高弟たちと一緒に写っています。おそらく1915年のタレガの再埋葬の時の写真と思われます。セゴヴィア22才の時ですが、これを機にセゴヴィアもタレガ一門に加わったのでしょうか? おそらく「リョベットの弟子」ということで参列しているのではと思います。
セゴヴィアのギタリストしての実力が認められるようになるのと、このイヴェントへの参加し、タレガ門下のギタリストなどと知己を得るのとが時を同じくし、おそらくこの二つのことは大いに関係あるものと推測されます。
リョベットの力が関与していると思われるが
この時代、つまり1915年~1919年頃の間に、セゴヴィアはなんらかの形でリョベットから指導をうけたようですが、セゴヴィア自身は「リョベットからほんの少し助言を得た」とかなり”控えめに”言っています。結果から見ると、バルセロナでの成功やその後のセゴヴィアのギタリストとしての活動に、リョベットの力がかなり関与しているのではと想像出来ますが、そういったことについてはセゴヴィアはほとんど触れていないようです。
セゴヴィアの演奏はリョベットの影響を強く受けているということは以前にも書きましたが、それはレッスンと言う形でリョベットから指導されたというより、リョベットの演奏を注意深く聴き、それを自分の中に取り入れていったのでしょう。リョベットとタレガの関係もまさに同じと言えるでしょう。
独学の天才
独学と言えば、セゴヴィアは10歳の時に小学校に入学したと書かれていますが、その後、学校に関してはなにも書かれていません。中学校や大学どころか、その小学校さえも卒業したかどうかわかりません。かなりの読書家だったようですが、セゴヴィアはギターや音楽知識だけでなく、一般教養も独学だったようです。
国際的な大ギタリストへ
1919年頃には南米でも演奏を行い、1923年頃からは、パリはじめソビエト(現ロシア)を含むヨーロッパ各地で演奏を行い、高い評価を受けるようになります。1927年にはロンドンでレコーディングも行い、1929年には初来日となります。この時点ではセゴヴィアはリョベットを凌ぐ知名度を得、また高い評価も受けていたのでしょう。一方リョベットは1930年を過ぎるとあまり演奏活動をしなくなり、1937年に世を去ります。
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