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中村俊三 ブログ

中村ギター教室内のレッスン内容や、イベント、また、音楽の雑学などを書いていきます。

ロンド風ガヴォット ~リュート組曲ホ長調(第4番)BWV1006aより


リュート組曲第4番と呼ばれているが
 
 バッハのリュートのための組曲は計4つあり、BWV996=第1番、 BWV997=第2番、 BWV995=第3番、 BWV1006a=第4番と一般に呼ばれていますが、これは以前にも触れた20世紀の音楽学者、H.D.ブルーガーが出版の際に付けた番号です。


 この番号は、もちろんバッハ自身には関係なく、また特に根拠があってのことではないようです。新バッハ全集にはこの番号は付いていません。そうしたことで、最近ではこの番号では呼ばずに、BWV番号で表記することが多いようですが、ブルーガー番号のほうがピンと来ると言う人の多いのではないかと思います(私のその一人です)。


無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第3番の編曲だが、何の楽器のための編曲か明記されていない 

 このホ長調の組曲は「無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第3番BVW1006」からのバッハ自身による編曲です。この作品には、バッハの自筆譜が残されていますが(例のごとく鍵盤譜で)、何の楽器のための作品かは表記されていません。

 かつてはチェンバロのための作品と考えられたこともあったようですが、内容的に鍵盤楽器ではあり得えないようです。またハープのための曲ではとも言われましたが、それもおかしいということで、旧バッハ全集では「楽器不明の作品」とされていました。

 新バッハ全集になって、様々な研究の末、「リュートのための作品」以外にありえないと結論付けられたようです。


4つの組曲のうち最も華やかで、ギターとの相性もよい

 リュートのための4つの組曲の中で、このホ長調のものが最も華やかで、そうした理由から前述のブルーガーも4つの組曲を閉める意味で、この組曲を「第4番」としたのでしょう。特にこの組曲のプレリュードは華麗なもので、バッハはカンタータのシンフォニアとしても転用しています。

 またホ長調と言う調を考えると、リュートよりも、むしろギターの方にによく合い、ギターで演奏するのはとても自然のように思えます。



ガヴォットは人気の小品、セゴヴィアの愛奏曲でも

 この組曲の第3曲「ロンド風ガヴォット」は、明るく親しみやすい曲で、バッハの作品の中でもたいへん人気のある曲です。ヴァイオリンでも古くから単独で演奏されており、ギターではセゴヴィアの愛奏曲にもなっていました(ただしセゴヴィアはリュートのための譜面からではなく、無伴奏ヴァイオリン・パルティータのほうから編曲しています)。なお「ロンド風」とは最初のテーマが何度か繰り返して登場する形の曲です。




リュートのためのプレリュード、フーガ、アレグロBVW998


バッハの自筆で「リュートのための」と書き込まれている

 この作品はバッハの自筆譜も残され、またバッハのてによって「Prelude pour la Luth. o' Ce'mbal. ParJ.S.Bach」、つまり「リュート・チェンバロのための曲」と書き込まれています。正真正銘のバッハのリュートのための作品といえるでしょう。正確には”リュートの音の出るチェンバロ”のためですが、まあよしとしましょう・・・・・


ソナタの出来損ない?

 この曲については前回のコンサート(アコラでの)の時にも書きましたが、この3曲セットというのも、ちょっと珍しい形で、フーガとアレグロの後にアンダンテなどの楽章が入れば立派に(?)”リュートのためのソナタ”となるでしょう。この作品は、本来ソナタになるはずだったのが、何かの事情でソナタになりきらなかったのでしょうか。


この形、意外といい

 その辺のところはよくわかりませんが、しかしこの形で、長大なフーガの後、一気にアレグロへとなだれ込む感じは何ともスリリングで、バッハがあえてアンダンテなどのゆっくりした楽章を入れなかったと考えることも出来ます。

 また演奏時間も13分前後ということで、コンサートのプログラムに入れやすく、そういったところもこの曲が現在たいへんよく演奏される理由の一つなのでしょう。


私の版だが

 今回演奏する譜面のほうは私自身の版ということになりますが、基にした資料は、CDのオマケについていた旧バッハ全集の鍵盤譜(変ホ長調)と、現代ギター誌の2010年7月の臨時増刊号の鍵盤譜を通常ギターで弾く調に移調して一段譜にした譜面です(新バッハ全集による)。


現代ギターバッハ増刊
現代ギター誌 2010年7月 臨時増刊号


 この現代ギター社版は、一見普通のギター譜のようですが、全く編曲しておらず、原典の音をそのままギター譜にしたものです。この譜面には通常のギターにはない音域の低音(ミ以下の音)があったり、またどうやっても押さえられない和音も出てきます。また運指も全く付いていません。


これはなかなか便利

 つまり購入者が自分でアレンジしないと演奏することが出来ないわけですが、でもこれは自分の版を作るにはとても便利なものです。また自ら編曲しなくとも、市販の実用版の比較検討にもたいへん便利です。なんと言ってもヘ音記号だのハ音記号だのを読まなくてすむし、また頭の中で移調しなくてもすむ。

 バッハのリュート曲を練習しようと思っている人は是非購入してみるとよいでしょう。特に多弦ギター(7弦以上のギター)で弾く場合は最適です(また宣伝にになってしまったかな?)
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パルティータロ短調 ~無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第1番BWV1002
 Ⅰアレマンダ  Ⅱコレンテ  Ⅲサラバンダ  Ⅳテンポ・ディ・ボレア



 前の曲の「アンダンテ」と同じく無伴奏ヴァイオリンのための曲からですが、こちらは「パルティータ」の方で、パルティータは基本的に舞曲が中心となります(例外もあるが)。


イタリア語で曲名表記

 バッハは曲名を、主にイタリア語で表記しますが、時にはフランス語の時もあります。このパルティータ第1番は、上記のようにイタリア語で表記されていますが、普通は、どちらかと言えばフランス語の「アルマンド」、「クーラント」、「サラバンド」、「ブレー」のようにフランス語で表記し、呼ぶことが多いです。また「アルマンデ」、「クーランテ」、「サラバンデ」とドイツ語で呼ぶこともあります。


「コレンテ」と「クーラント」はちょっと違う

 これらは国によって若干綴りや発音が違うだけですから、特に違いはないのですが、ただしバッハの場合、イタリア語の「コレンテ」とフランス語の「クーラント」とは、厳密には別な舞曲と考えているようです。

 「コレンテ」というのは「走る」といった意味の言葉に由来する4分の3拍子の速い曲、「クーラント」のほうは付点音符を多用した8分の6拍子の舞曲で、多くの場合部分的に4分の3拍子となります。

 ギターでよく演奏されるバッハの曲のうち、「コレンテ」に相当するのは、この「無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第1番」のものと、「無伴奏チェロ組曲第3番」などのものがあります。「クーラント」に相当するのは「リュート組曲第1番」などです。


本来はドゥーブル(変奏)が付いているが

 この「無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第1番」は、本来この4つの舞曲の後に、それぞれ「double」と記された変奏が付いています。今回の私の演奏ではそれらは省略して、それぞれの舞曲本体のみを演奏します。ドゥーブルを省略した最も大きな理由は、技術的に難しいからということで、本来オリジナルどおりドゥーブルも付けた形で演奏することのほうがベストであるのは間違いありません。


曲の特徴は出しやすいかも

 あえてドゥーブルを省略することの利点としては、舞曲本体のみを4曲弾くことにより、それぞれの特徴を際立たせることが容易になると思います。また曲としてコンパクトになり、より聴きやすくもなるのではと思います。


バッハにとってはロ短調は特別な調

 この曲はギターではそれほど使われないロ短調という調になっています。バッハにとってはこのロ短調は特別な調と言われ、「ミサ曲ロ短調」、「管弦楽組曲第2番」などの名曲があります。このパルティータにおいても「ロ短調」という調は特別な響きがするように感じます。




まるで序曲のようなアレマンダ

 第1曲目の「アレマンダ」は、通常、中庸で穏やかな舞曲ということになっていますが、ここでは付点音符や三連符を多用し、まるで序曲のような重々しさがあります。まさにロ短調というところでしょう。


走るコレンテ

 第2曲目の「コレンテ」は前述のとおり4分の3拍子で、終止音以外はすべて8分音符で書かれ、無窮動的な速い舞曲となっています。


緊張感漂うサラバンダ

 第3曲目の「サラバンダ」はリョベットやセゴヴィアなどにより、かなり以前からギターでも演奏されていて、ギター弾くバッハの曲としては定番的な曲となっています。ゆっくりとした舞曲ですが、最初の小節の2拍目からすでに転調に向かうなど緊張感のある曲です。今回の演奏では、ドゥーブルを省略した分、繰り返し部分では装飾を加えて演奏する予定です。


なぜ「ブレー」と書かなかったのかは、わからないが

 終曲となる第4曲目は単に「ブレー」ではなく「テンポ・ディ・ボレア」、つまり「ブレーのテンポで」となっています。バッハがなぜこのような表記にしたのかはよくわかりませんが、曲そのものは普通に「ブレー」と言ってよいと思います。通常こうした舞踏組曲の場合の終曲は「ブレー」ではなく「ジグ」となるので、そういったことに関係があるのかも知れません。


ギターとの相性もよい

 この曲も古くからギターでも弾かれ(タレガも編曲している)、やはりギターで弾くバッハの定番となっています。確かにギターとの相性もとてもよい曲です(バッハとしては、ギターで演奏されるなど、全く念頭にはなかったと思いますが)。
 昨日(11月23日)ギター文化館の創立20周年記念式典に招待され、出席しました。浜田滋郎氏をはじめ、多くのギター関係者、労音関係者、地元の自治体の方々など多数の人が出席し、スぺインから当館所蔵楽器の元のオーナーのアントニオ・マヌエル・カーノ氏の子息で父と同様にフラメンコ・ギター奏者のホセ・マヌエル・カーノ氏も出席していました。式典終了後にはイタリアのギタリストのステファノ・グロンドーナ氏のリサイタルもありました。

 ギター文化館の創立の時の記念式典にも出席しましたが、あれから20年経つわけですね。この20年の間に茨城県のギターの状況もだいぶ変り、以前よりも多くの愛好者が育ち、多くのギタリストが当地で活躍するようになりました。そうしたことにこのギター文化館の果たした役割はたいへん大きかったと思います。


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 木下代表や労音、石岡市の代表の方の挨拶の後、ホセ・マヌエル・カーノ氏が挨拶とともに2曲ほど演奏しました。フラメンコ・ギターとクラシック・ギターは一見似ているようでかなり違い、カーノ氏のそれはまさに本場のフラメンコ・ギターの音と演奏ぶりといった感じで、久々に本格的なフラメンコ・ギターを聴きました。 

 グロンドーナ氏はアントニオ・トーレス(当館所蔵のものとは別の楽器)を使用しての演奏でしたが、こちらはまさに”しぶい”といった音。グロンドーナ氏の演奏はアコラでも聴きましたが、力強く、またたいへんよくメロディを歌わせるといった演奏で、アルベニス、グラナドス、リョベットなどの曲を演奏しました。
アンダンテ ~無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第2番より


バッハ壮年期の作品

 最初の曲は「無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第2番イ短調BWV1003」の第3楽章の「アンダンテ」です。バッハの無伴奏ヴァイオリンのための3つのソナタと3つのパルティータは、遅くとも1720年までには、つまりバッハ35歳までには作曲されたようです。

 あえて「無伴奏」としているのは、当時のヴァイオリン・ソナタは、通常チェンバロ、及びチェロなどによる通奏低音を伴うからです。1台のヴァイオリンで通奏低音の分も弾いてしまおうという訳ですから、当然演奏も、また作曲も難しくなる訳です。


誰がこの難曲を弾いた?

 もちろん、これらの難曲を当時のヴァイオリニストが誰でも演奏出来たわけではないでしょう。そこで誰が演奏するためにこの曲が作曲されたかということですが、バッハ自身が演奏するためと言う説が有力のようです。オルガンやチェンバロの名手として知られていたバッハですが、ヴァイオリンの腕も普通ではなかったようです。


バッハ自身の編曲によるチェンバロ版もある

 この「ソナタ第2番」はバッハ自身のチェンバロのための編曲(二短調)もありますが、この編曲はバッハ自身のものではないという説もあるようです。しかしバッハはこれらの無伴奏ヴァイオリン・ソナタなどをチェンバロでも演奏していたという証言は残されているようです。


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無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第2番のチェンバロ版の冒頭部分 =旧バッハ全集より。
新バッハ全集ではBWV964とされている。



第2楽章「アンダンテ」は協奏曲の第2楽章のようなメロディックな曲

 プレリュード、フーガ、アンダンテ、アレゴロの4つの楽章からなる曲ですが、この第3楽章「アンダンテ」はハ長調で、8分音符で刻まれる低音の上にメロディが載るという、協奏曲の第2楽章のようなメロディの美しい曲になっています。

 ギターへの編曲は、古くはアンドレス・セゴヴィアのものなどがあり、最近ではいろいろなギタリストがこの「ソナタ第2番」全曲をギターにアレンジして演奏しています。今回演奏するのは私自身の編曲で、ヴァイオリンの譜面を全くそのままでもギターで演奏可能ですが、所々低音をオクターブ下げ、装飾音等を若干添えています。


1曲目にふさわしい、美しく、落ち着いた曲

 特に繰り返しの2回目ではチェンバロの譜面のほうを参考にし、ヴァイオリン版とチェンバロ版の両方が味わえるようにしてあります。とても心落ち着く美しい曲で、バッハのコンサートの開始を飾るのに、とてもふさわしい曲と思います。なお、調は原調のハ長調です。
中村俊三 バッハ・リサイタル    
  12月8日(土) 開場13:30 開演14:00 
  石岡市ギター文化館
  前売り2000円  当日2500円  チケット取り扱い 中村ギター教室、ギター文化館



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        <演奏曲目>
 
アンダンテ  (無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第2番BWV1003より)

無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第1番ロ短調BMV1002
  Ⅰ.アレマンダ   Ⅱ.コレンテ   Ⅲ.サラバンデ   Ⅳ.テンポ・ディ・ボレア

ロンド風ガヴォット (リュートのためのパルティータホ長調1006aより)

リュートのためのプレリュード、フーガ、アレグロ二長調BWV998

    
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  ヨハン・セバスティアン・バッハ(1685~1750)



アリア  (管弦楽組曲第3番BWV1068より)

リュートのためのパルティータイ短調BWV997(リュート組曲第2番) 
  Ⅰ.プレリュード(ファンタジア)  Ⅱ.フーガ  Ⅲ.サラバンド  Ⅳ.ジグ&ドゥーブル
  
 *ゲスト演奏(16:00~) サミュエル・クレムケ(ドイツの若手ギタリスト)
 




この際、やりたいことは、やっておこう

 バッハ・リサイタルというのは私自身、この仕事を始めた時から、いや、始める前からぜひやってみたいと思っていたコンサートです。今回に至るまで実現しなかったのは、こうしたコンサートはいろいろな意味でハードルが高く、もちろん最も問題になるのが私自身の技量ですが、またこうしたコンサートを聴きに来てくれる人がいるかどうかということもあるでしょう。

 今回そうした問題点が決して解決したわけではありませんが、最近は年齢のせいで、あまり深く考えなくなったのかも知れません。とりあえずやりたいことはやっておこう、そろそろ人生のロスタイムにも近づきつつあるし・・・・・ こういった心境を一般に”開き直り”というのでしょうね。

 2009年に同じこのギター文化館でイサーク・アルベニスの没後100年として「中村俊三アルベニスを弾く」というアルベニスの作品のみ(実際には同じ年に亡くなったタレガの小品2曲も演奏)のコンサートを行い、その流れということも言えます。アルベニスもバッハも私にとってはとても大切な作曲家です。


かなり無理なスケジュールだが

 それにしても若い頃には弾けなかった曲や手に負えなかったプログラムを60歳すぎてから弾こうというのだから”年寄りの冷や水”を通り越して、無謀な試みとしか言いようがないかも知れません。なお且つ9月には水戸ギター・アンサブル演奏会、10月にはアコラでミニコンサート、さらに6月にも県立図書館と、それぞれほぼ違うプログラムでのコンサートで、このバッハ・リサイタルのための練習だけに集中出来たわけではない・・・・



今頃は全くギターが弾けない状態になっているのでは

 きっと今頃は無理な練習による疲労がたまって全くギターが弾けない状態にでもなっているんじゃないか、などという恐れも現実的にありましたが、有難いことに、少なくとも今のところはギターが弾けないということはなく、左手親指のネックにあたる部分の魚の目が若干痛む以外は何とかなっています(練習量が多くなると、子供の頃のキズが基になって出来た魚の目が必ず痛み出す)。



回復力に感謝

 その日の練習が終わった時などは、指や腕が、これ以上ギターが弾けないくらいにはなっているのですが、一晩寝ると、まあ、なんとか普通に戻っている。回復力に感謝というところです。

 仕事の休みの日は5~6時間と、若い頃と同じくらい、もしかしたら若い頃よりも長い時間練習しているかも知れません。確かに最近では指や腕にあまり負担をかけない弾きを少し覚えたかも知れません。でも、まだまだこれからが勝負なのでオーバ・ワークには十分に気を付けないといけませんね・・・・・




「ギターによるバッハ・リサイタル」といっても、バッハは1曲もギター曲を書いていない

 ところで、バッハは1曲たりともギターのために作品を書いてはいません。そういった楽器が存在することくらいは知っていたかもしれませんが、バッハの周囲にギターを弾いていた人はいなく、またバッハが活動していた地域ではあまりギターは盛んではなかったようで、いろいろ資料をあたっても、バッハとギターとの接点は見当たりません。


バッハの遺品にギターが?

 以前バッハの2度目の奥さんのアンナ・マグダレーナが書いたと言われる伝記を読んだとき、バッハの遺品の中にギターが存在したと書いてあり、ちょっと驚いたのですが、もちろんこれはリュートの誤り、その時は訳者のミスかなと思ったのですが、同じく残されたラウテンベルク(この本の中では「ラウテンクラヴィツェンベル」と表記)の説明がなんとも変で、「チェンバロよりもずっと長く音を保持することが出来る」と実際の真逆の説明をしています。

 知っている人は知っているとおり(当ブログでも以前に書きましたが)、このアンナ・マグダレーナが書いたという伝記は真っ赤な偽物で、実際に書いたのは20世紀初頭のイギリスの女流作家だそうです。この本なかなか面白い本なのですが、残念ながらこの作家はリュートという楽器の存在については全く認識がなかったようです。それでリュートがギターになってしまったのでしょう。


無理もないことかな

 因みに、1900年頃完成された旧バッハ全集ではリュートのための作品は認知されておらず(バッハの実筆譜などにはっきりと「リュートのために」と書いてあるにもかかわらず)、それらの作品は「楽器不詳の作品」とされています。リュートという楽器が一般に認知されるようになったのは1920年頃からのようです。この作者がリュートのことを知らなかったのは無理もないことかも知れません。



にもかかわらず、なぜギタリストはバッハを弾く?

 一方で、現在クラシック・ギターのリサイタルでバッハの曲がプログラムに載るはある意味ごく当たり前。今日多くのギタリストがコンサートでバッハの曲を演奏しています。バッハの曲を演奏しないプロのギタリストというのは非常に稀で、現在行なわれているクラシック・ギターのリサイタルの半数くらいにはバッハの曲が登場しているのではないかと思います。

 この矛盾を説明するのに、バッハが残した、ギターに近い楽器でもあるリュートのための、若干の作品だけでは事足りるとはいえないでしょう。それで説明が付くなら、ヴァイスやフランチェスコ・ダ・ミラーノの作品が頻繁にプログラムに登場しないことが説明できない。


バッハとはそう言う音楽

 説明にはなりませんが、「それはバッハだから」としか言うことが出来ないのでは。バッハがリュートのために作品を書こうが、書くまいが、ギタリストはバッハを演奏し続ける ・・・・・・ギタリストとはそういう人種なのでしょう。 ・・・・・・あるいはバッハとはそう言う音楽なのでしょう。
 昨日(11月11日日曜日)ギター文化館で福田進一ギター・リサイタルを聴きました。プログラム、及びアンコール曲は以下のとおりです。


バッハ : リュートのためのプレリュード、フーガ、アレグロBWV998

同   : リュート組曲第4番ホ長調BWV1006aよりプレリュード、ルール、ロンド風ガヴォット

同   : 無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第2番BWV1003よりアンダンテ、アレグロ

  
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

武満徹 : 森の中で

バッハ : 無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第2番BWV1004よりシャコンヌ



 *アンコール曲
  
アストル・ピアソラ ~藤井敬吾編曲 : アディオス・ノニーニョ

アストル・ピアソラ ~ブローウェル編曲 : 天使の死

レオ・ブローウェル : 11月のある日

ヴィラ・ロボス : 前奏曲第1番
 



 ギター文化館での福田先生(息子の師でもあったのでこのように呼ばせてもらっています)のリサイタルは、一昨年の11月以来です。その時はバッハの「チェロ組曲第3番」、ソルの「モーツァルトの主題による変奏曲」などを聴いたと思います。

 今回のリサイタルは、比較的最近入手したというイグナシオ・フレタ(Ⅲ世?)を使用して、上記のとおりバッハの作品に武満徹の作品を加えたというプログラムです。

 バッハの「プレリュード、フーガ、アレグロ」からリサイタルが始まりましたが、プリュードでは一部カンパネラ奏法的な運指を試用するなど、音楽の構成だけではなく、響きの美しさも感じられた演奏です。楽器の音はフレタらしく明るく、よく響く音です。

 リュート組曲第4番の「プレリュード」はたいへん勢いのある演奏で、「ルール」や「ガヴォット」では華麗に装飾音を加えていました。無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第2番の「アレグロ」は、第1部のステージを閉めるのにふさわしく、速いテンポで華麗に、スリリングに演奏されました。

 確か3年ほど前にも福田先生は武満徹の作品を演奏しましたが、今回演奏された「森の中で」はやはり美しい曲、あるいは美しい演奏でした。確かに武満の曲は難解と言えるのかも知れませんが、何も考えずに聴くと本当に美しい音楽だと思います。

 アンコール曲については、いつものとおり豪華な内容ですが、ピアソラ、ブローウェル、ヴィラ・ロボスと中南米音楽でまとめ、さながらリサイタルの”第3部”といったところです。

 来月は私もこの会場でバッハのリサイタルを行なうので、たいへん参考になりました。

アンドレス・セゴヴィア/タンスマンとモンポウ  1965年8月録音

タンスマン : ポーランド組曲、マズルカ
モンポウ : コンポステラ組曲
バレーラ : 二つの細密画


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前作同様、自身に献呈された作品の発表

 このLPはポーランドの作曲家、アレクサンドル・タンスマンとスペインの作曲家、フェデリコ・モンポウのそれぞれの組曲を中心としたものですが、セゴヴィア自身に献呈された曲の発表といった点で、前回のLP(プラテーロと私Ⅱ)と同じ路線のものと考えられます。



通向けのLP

 今回のLPはタンスマンとモンポウの優れた作品ではありますが、どちらもやや地味で、マニアックな(最近では「コアな」と言うようですが)作品と言えます。私自身も若い頃からこのLPの存在は知っていましたが、曲目のハードルが高く、LP時代には購入しませんでした(お金の関係の方が大きかった?)。

 また当時は自分で買わなくても、話題のLPなら周囲に誰か買った人がいて、よくカセット・テープなどにダビングさせてもらっていました。しかしさすがにこのLPを買った人は周囲に誰もいなくて、LPとしては聴いた記憶がありません。それだけ”通”向けのLPだったのでしょう。


やはり優れたLP、あまり聴かなかったことを反省

 1990年頃にはそれぞれの曲の復刻CDを買い(CDでは別々に発売)、コンポステラ組曲のほうはそれなりに聴きましたが、タンスマンのほうはちゃんと聴いたかどうかちょっと怪しいところです。今回改めて「ポーランド組曲」を聴いてみると、やはりたいへん優れた作品で、さらにセゴヴィアの演奏もたいへんすばらしい。これまで真剣に聴かなかったことを反省しています。

 録音に関しても前作同様優れた録音で、セゴヴィアの音を美しく、またリアルに再現しています(気持ち残響がが加えられているかな)。


歌と舞曲が交互に並ぶ

 このタンスマンの「ポーランド組曲」は9曲からなるものですが、セゴヴィアは5曲目と6曲目の間に1963年にも録音した「マズルカ」を加え、10曲の組曲としています。前に述べたとおり、この「マズルカ」は1963年のものとは別に新たに録音されたもので、演奏も若干異なっています(リピート省略)。こちらの演奏のほうがやはりこなれた感じがします。

 この組曲は確かに華やかな曲はないのですが、ポーランドの民謡などを元に曲が作られているようで、たいへん美しい曲が多くなっています。3曲目の「クヤヴィアク」などはどこかで聴いたことのあるようなメロディで、なんとなく懐かしい感じです。

 この組曲は、第1、3、5、6、8曲(本来の曲順で)は歌で、第2、4、7、9曲のように軽快な舞曲となっています。この曲順だと5,6曲が続けてゆっくりした歌となるので、セゴヴィアは5,6曲の間に前述のとおり軽快な「マズルカ」を挿入し、歌と舞曲が交互に並ぶように演奏しています。


セゴヴィアの音楽の本当の完成期

 前作同様セゴヴィアの演奏は優れたもので、楽譜がないので作曲者の指示等はわかりませんが、曲の内容がよくわかる演奏になっています。舞曲に関しても、それぞれすっきりとしたリズムで演奏され、不必要なな強調やデフォルメ等は感じられません。歌わせ方などについては改めて言うまでもないでしょう。

 前作でも述べたとおり、セゴヴィアは多彩で質感のある音で、音楽に立体感を生み出しています。この年セゴヴィアは72歳になりますが、この時期はセゴヴィアの音楽の一つの到達点、あるいは完成期と言えるのかも知れません。


その作品のあるべき姿を世に送り出す

 これらの演奏を聴いていると、これまで持っていたセゴヴィアの印象とちょっと違ったものを感じます。セゴヴィアの演奏と言えば個性的で、ヴィルトーゾ的、特定の音にポルタメントとヴィヴラートをかけて聴衆を酔わせる、いわゆるセゴヴィア・トーン・・・・・・  そういった印象がありましたが、この時期のセゴヴィアにはそういった面をあまり感じることは出来ません。むしろその作品と正面から向かい合い、その作品のあるべき姿を模索し、そしてそれを世に送り出す・・・・ そんな姿を見ることが出来ます。



コンポステラ組曲は現在でもよく演奏される

 現在ではあまり演奏されない「ポーランド組曲」に対し、モンポウの「コンポステラ組曲」は現在でもたいへんよく演奏されます、私も演奏しました。モンポウの作品というのは、自ら「静かな音楽」と題した曲があるくらいゆっくりで静かな曲が多くなっています。この「コンポステラ組曲」も6曲からなりますが、終曲の「ムニェイラ」を除いてすべてゆっくりで、静かな曲になっています。その「ムニェイラ」もせいぜい軽快と言った感じで華やかというほどではありません。


情感を出しつつも構造をしっかりと

 これらの曲は自然短音階とか教会旋法などが用いられ、普通の長調、短調とは違った感じになっています。最初の「前奏曲」はカンパネラ奏法的に始まりますが、セゴヴィアはやや速めのテンポと明るい音で開始し、一段落ついたところで今度はトーンを落して暗く、しっとりとした音で演奏するなど、変化のある演奏を行い、決して地味な曲にも、平板な曲にも聴こえません。

 同じ音形の続き、ともすれば単調になりがちな3曲目の「子守歌」なども、色彩感や情感を出しつつも、しっかりとした遠近法が用いられ、曲の構造がよくわかるように演奏しています。


若い頃とは違った歌わせ方

 最後にバレーラというセゴヴィアの知人の作曲家の短い作品「二つの細密画」を演奏しています。あまり(ほとんど?)演奏されることのない曲ですが、じっくり歌わせる1曲目も、舞曲風の2曲目もすばらしい演奏と言えます。歌わせ方も若い頃とはだいぶ異なるようです。



改心して
   
 私個人的には、どうもタンスマンの曲は若干苦手で、これまでちゃんと取り組んだことがありません。タンスマン自身ではギターを全く弾かなかったせいか、譜面の”見た目”がどうもギターの譜面らしくなく、さらに弾き始めてみると見た目以上に弾きにくい。オマケに苦労の割にはコンサートでも一般受けしなそうだし・・・・ 

 といったわけでこれまでタンスマンの曲を回避してきたわけですが、これを機に改心し、タンスマンの曲、特にこの「ポーランド組曲」を真剣にやってみようかと言う気持ちも出てきました。昔よりは多少譜面が読めるようになったかも知れないし・・・・・


人気ラーメン店?

 しかし、私の中ではこの先、私が演奏すべき曲がいろいろ決まっていて、人気ラーメン店ではないですが、そうした曲目が私の頭の中で列をなしています。その列の中にこの曲を強引に割り込ませられるかどうかですが・・・・・ 

 その前に譜面がなかった、まず取り寄せないと・・・・・
プラテーロと私 Ⅱ  1964年録音

ポンセ : ソナタ・ロマンティカ(全4楽章)
テデスコ : 「プラテーロと私」より 
       井戸、 帰り道、 飛び出したカナリア、 春、 モゲールの空にいるプラテーロ


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「プラテーロと私」とポンセの「ソナタ・ロマンティカ」

 この「プラテーロと私Ⅱ」は1961年の「プラテーロと私Ⅰ」の続編で、テデスコの「プラテーロと私」から5曲とポンセの「ソナタ・ロマンチカ」が収録されています。「Ⅰ」の方では小品集との組み合わせだったのですが、こちらはポンセの大曲との組み合わせとなり、たいへん内容の充実したLPとなっています。


セゴヴィアはポンセの4つのソナタをすべて全曲録音

 LPのタイトルを「プラテーロと私」としながらもA面は「ソナタ・ロマンチカ」となっていて、このポンセの作品にも力点が置かれていることがうかがわれます。ポンセは4つのギターのためのソナタを残していますが、これはほぼ1920年代に作曲されているようです。

 セゴヴィアは収録時間の関係もあると思いますが、SP時代にはいずれも全曲録音はしていません(1949年に「南のソナチネ」は全曲録音しているが)。4つのソナタのうち最初に全曲録音したのは「ソナタ第3番」で1955年、次がこの1964年の「ソナタ・ロマンティカ」、そして1967年に「ソナタ・クラシカ」と「ソナタ・メヒカーナ」を録音し、最終的にポンセの作曲したギターのためのソナタをすべて全曲を録音したことになります。

 特に1964~1967年にかけて3つのソナタを録音しましたが、まさに”満を持して”の録音、セゴヴィアは40年間機が熟するのを待っていたのでしょう。



今さら言うまでもない名演

 「ソナタ・ロマンティカ」は「シューベルトを讃えて」と副題されていますが、シューベルトの室内楽を思わせるような曲となっています。ナクソスの「ローリエイト・シリーズ」でも何人かの若手ギタリストが録音していますが、最近でもよく演奏される曲となっています。

 そこで、改めてローリエイト・シリーズの若手ギタリストの録音も聴いてみたのですが、前に聴いた時にはとてもすばらしい演奏と感じたのですが、今回セゴヴィアの演奏と聴き比べてみると、音楽の立体感、色彩感、存在感といった点ではまだちょっと違うのかなといった感じがしました。



今日のデジタル録音と比較しても優れた録音

 また録音についても、1964年のアナログ・ステレオ録音と、21世紀のデジタル録音では、録音機材の性能では比較にならないはずですが、しかしストレートに音が耳に入ってい来るのは、なぜかセゴヴィアの方。ローリエイト・シリーズの音は、確かにとてもきれいな音なのですが、残響などがまとわり付いてなかなか音の芯までたどり着けない感じです。

 とはいってもセゴヴィアの録音は1960年代のアナログ方式ですから、現在のもののように原音に忠実に録れているわけではないでしょう。しかし当時の最高の技術と最大の労力を駆使して、セゴヴィアの音を可能な限り忠実に音盤に記録しようという意図が感じ取れます。まさに”何も引かない、何も足さない”といったところでしょうか。録音スタッフの意気込みが感じられます。

 この時期(1964年)の他のクラシック音楽、あるいはクラシック・ギターの録音と比較しても、この時代のセゴヴィアの録音はたいへん優れた録音ではないかと思います。1950年代のモノラル録音もたいへん優れたものでしたが、この60年代のステレオ録音もたいへん優れたもので、セゴヴィアの魅力を余さず記録しています。

 

かつてのような恣意的な解釈とは程遠い真摯な姿勢

 「プラテーロと私」の方も言うまでもなく名演中の名演ですが、ここで聴かれるセゴヴィアの演奏には、かつてのように自らのヴィルトーゾぶりを世間に示すため恣意的にその音楽を変質させてしまう姿勢は見られず、その作品と真剣に向かい合い、その作品の内容を忠実に音にすることに強い意識が働いているように感じます。

 これらの作品を楽譜を見ながら聴くと、セゴヴィアは楽譜の隅々まで目を通し、音符だけではなく、表情記号や、作曲家の書き込み等もしっかりと読み込んでいることがわかります。しかし決してそれらに盲目的に従っているわけではなく、あくまで自分の中で消化した上での演奏となっています。

 この時期のセゴヴィアは、まさにヴィルトーゾてきであった1950年代とはまた違った意味での絶頂期であり、この時期のこれらセゴヴィアのためにかかれた作品の数々の録音は、今後何世代ものギタリストやギター愛好家たちに聴かれてゆくことでしょう。

 このLPの最後に収められた「モゲールの空にいるプラテーロ」は極め付きの名演と、言い添えておきましょう。