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中村俊三 ブログ

中村ギター教室内のレッスン内容や、イベント、また、音楽の雑学などを書いていきます。

<ひたちなかギター・マンドリン合奏フェスティヴァル>

 10月17日(土) 13:30~  ひたちなか市文化会館小ホール



 ひたちなかギター・マンドリン合奏フェスティヴァルの概要が決まりました。 各団体出演順、および演奏曲目は次の通りです。



1.水戸ギター・アンサンブル (水戸市 22名) 
   亡き王女のためのパヴァーヌ (M.ラヴェル)
   ペルシャの市場 (A.ケテルビー)

2.アクアプレットロ・マンドリンアンサンブル(水戸市  6名)
   南蛮渡来 (湯浅 隆 ~御崎恵 編曲)
   詩人の瞑想 (G.マネンテ Giuseppe Manente)
   ラッパ吹きの休日(L.アンダーソン Leroy Anderson ~武藤理恵 編曲)

3.Guitar Ensemble SIT (桜川市 7名)
   ハバネラ、セギディーリャ、間奏曲、トレアドール ~「カルメン組曲」より (G.ビゼー)

4.音和102 (ひたちなか市 9名) 
   コーヒー・ルンバ (J.ペローニ Jose M Perroni ~千葉慶博 編曲)
   春の足音  (千葉慶博 )
   氷雨 (とまりれん ~千葉慶博 編曲)
   花は咲く(菅野よう子 ~千葉慶博 編曲) 

5.水戸ジュピター・マンドリンクラブ (水戸市  9名)
   ペンシルバニア・ポルカ(アメリカ民謡)
   牧場にて(F.ジュリアン)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

6.ブリランテ・ギタークラブ (ひたちなか市 10名)
   秋桜(さだまさし)
   クワイ河アトム(アルフォード~三枝)
   黒猫のタンゴ(M.パガーノ)
   愛しのエリーゼ(ベートーヴェン)

7.アマービレ・マンドリン・クラブ (水戸市 15名)
   カントリー・ロード (J.デンバー他)
   シャンソン・メドレー

8.マルバ・ギター同好会 (水戸市 13名)
   G線上のアリア(J.S.バッハ)
   ヴェニスの謝肉祭変奏曲   津軽のふるさと
   夜明け   ラ・クンパルシータ(G.ロドリゲス)

9.ラ・ジュネス (ひたちなか市 25名) 
   中島みゆきメドレー(中島みゆき 魚津信一編曲)
   前奏曲とマズルカ ~「コッペリア」より(L.ドリーブ ~魚津信一編曲)



 なお、当初このフェスティヴァルは 「ひたちなかギター合奏フェスティヴァル」 としていましたが、マンドリンの出演団体が多くなり、上記のように 「ひたちなかギター・マンドリン合奏フェスティヴァル」 と改称しました。 入場は無料ですので、ご来場いただければと思います。 

 


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第47回水戸市民音楽会 

 7月26日(日)13:00~18:00  水戸芸術館ATMホール



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 昨日水戸市芸術館で第47回水戸市民音楽会があり、私の教室で行っている水戸ギター・アンサンブルも出演しました。 これまで水戸ギター・アンサンブルは10名程度でしたが、今年から22名と、リニューアルいたしました。 これまで私自身は演奏しながら指揮的なことも行ってきましたが、人数が増えたことにより、指揮に専念することになりました。 

 実際に演奏しながら指揮するということは思った以上に難しいことなので、指揮に専念することにより、これまで以上にを客観的に音を聴くこと出来るようになったかなと思います。

 今回初めてこの音楽会に出演するメンバーも多く、若干混乱も予想されたのですが、特に問題もなく、演奏に臨めました。 演奏内容につきましては、まだまだ修正する部分も多いですが、現段階としてはそれなりに演奏出来来たのではと思います。

 特に音量については人数が増えただけの事はあるなと感じました。 講師の先生(鈴木陽子先生)のコメントでも 「音量の変化があると」 いった言葉もいただきました。

 今回の音楽会では、参加団体も29団体(1団体が欠場)と、ますます出演団体、出演者数も多くなってきましたが、その割には客席に空席が目立つ(特にコンサート終盤)のがちょっと気になるところです。 当音楽会では、本当にいろいろな楽器によるアンサンブルが聴けるので、ぜひ多くの方々に来場していただければと思います。


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 私の場合、当音楽会では出演者であるとともに、実行委員として、裏方の仕事もありますが(どちらかといえば、裏方のウエイトの方が大きい)、 水戸市及び水戸芸術館の方々、当音楽会の参加者、及び実行委員の方々のお骨折りもあって、今回は特に問題なく、スムーズに進行できたのでは思いました。 皆様ありがとうございました。

 
<角圭司ギターリサイタル ~帰国10周年記念>  7月18日(土) 東京文化会館小ホール


 昨日東京文化会館で角圭司君のリサイタルを聴きました。 角君は私の息子(創)より少し年長で、小学生の頃から知っており、最近ではギター文化館のイヴェントなどでよく顔が合います。 今回のリサイタルはアメリカ留学から帰国し、日本でギタリストとして活動を始めて10年を記念してのものということです。

 師である尾尻雅弘さんがゲストとして出演しました。 またこの東京文化会館はアメリカでの師のマヌエル・バルエコ氏の演奏を最初に聴いた、角君にとっては思い出深い会場だそうです。 プログラムは以下の通りです。


<第1部> 

A.ロイエ : 協奏風二重奏曲 *

F.ソル : モーツァルトの「魔笛」の主題による変奏曲

M.ジュリアーニ : ソナタ・エロイカ  


<第2部>

F.モレーノ・トロバ : ソナチネ

H.ヴィラ=ロボス : 前奏曲第5番、第1番

R.ゲーラ : 組曲「道」*



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<アンコール曲> 

レノン&マッカートニー : ペニー・レーン(ブロウェル編)*

R.ディアンス : タンゴ・アン・スカイ


 *は尾尻雅弘氏との二重奏




現代ギター社から譜面が出ていたが

 最初のロイエの二重奏曲は、現代ギター社から譜面が出ていますが、聴くのは初めてです。 古典派時代のギタリストで、おそらくソルやカルリと同じく、パリで活動していたのではと思います。

 作風は時代的に、ソル、カルリ、ジュリアーニ、ディアベリなどと共通した部分もありますが、独創的なところもかなり感じられます。 テクニカルな部分も多く、決して簡単な曲ではないと思いますが、二人の高度な技術と音楽性による演奏で、とても楽しめました。



より一層完璧な演奏

 角君の「魔笛」は、これまで何度か聴きましたが、今回は、より一層完璧な演奏に感じました。 ジリアーニの「ソナタ・エロイカ」も、きびきびと演奏され、またさわやかで、すっきりした演奏でした。

 モレーノ・トロバの「ソナチネ」や、ヴィラ・ロボスの前奏曲も、しっかりと時間をかけて、このリサイタルに臨んでいることが窺われ、今回のリサイタルにかける角君の気持ちが十二分に伝わってきました。



角君のために作曲された

 ルイ・ゲーラの作品は、最近我が国でもよく演奏されますが、この組曲「道」は角君のために書かれた曲だそうで、ウェミレ(オリシャスの祭礼)、 ボレロ、 ソル通り(グアグアンコ)、 コンパイ(友人コンパイ・セグンドを讃えて)、 グアテーケ(サパテオ)の5曲からなる組曲です。 これも始めて聴く曲ですが、なかなか聴きごたえのある曲です。 



10周年にふさわしい内容

 今回の角君のプログラム全体を見ると、独奏曲に関しては、角君がこれまで何度も(おそらく)演奏して来たもので、すべて完璧な演奏でした。 それに対して二重奏曲の方は、これまであまり演奏されないが、とても楽しめる曲、といった組み合わせのようです。 10周年記念に相応しい内容のリサイタルでした。

 アンコール曲については、電車の時間などで2曲を聴き終えたところで会場を後にしたので、おそらく他にも演奏された曲があるものと思います。



ひたちなかギター・マンドリン合奏フェスティヴァルにも出演する

 なお角君には、10月に行われるひたちなjかギター・マンドリン合奏フェスティヴァルにも、ギター・アンサンブル”SIT” の一員として出演していただけるとのことです。
いろいろなシャコンヌ 4 ~ドイツのリュート音楽のその後




バッハとヴァイスで終わったわけではない

 私たちのイメージからすると、バッハとヴァイスをもって、ドイツのリュート音楽、いや、リュート音楽そのものが終わりを告げたといった感じがいます。 しかし1750年、つまりバッハとヴァイスがこの世を去ってからも、まだドイツのリュート音楽は、本当に終わったわけではありません。 少なくともその後50年間は、ヨーロッパの中で唯一ドイツではリュートは愛好され続け、新たな作品も生まれています。




バッハと親しかったヴァイラウフに師事したファルケンハーゲン

 まず、Adam Falckenhagen(1697~1754)は、バッハのリュートのための作品をタブラチュアに書き換えたリューティスト、ヴァイラウフに師事したとされていますが、バイロイトの宮廷でリューティストとして活動しました。 「6つのリュートのためのソナタ作品1」、「6つのリュートのためのパルティータ作品2」などを残しています。


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ファルケンハーゲンの「6つのリュートのためのソナタ」 それぞれ3楽章構成のソナタとなっている。 演奏 Alberto Crugnola


 バッハやヴァイスと時代的にはあまり変わりませんが、作風はかなり違い、古典派に近くなっています。 そのせいか、聴いていると何だかギターぽく聴こえてきます。




ファルケンハーゲンの弟子で、同様にバイロイト宮廷で活動したハーゲン

 Joachim Bernhard Hagen(1720~1787)は、ファルケンハーゲンの弟子で、師と同じくバイロイトの宮廷で活動しました。 時代はすでに前古典派といえ、バッハやヴァイスなどのドイツ・バロック音楽からはさらに遠くなり、いっそう古典派的な音楽となってゆきます。 リュートよる古典的な音楽はあまり聴きなれていないせいか、ちょっと不思議な感じし、前述のとおり、なんだかギターぽく聴こえます。
 

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「バイロイトの宮廷」 ファルケンハーゲン、ハーゲン、シャイトラーのリュートのための作品が収録されている。  演奏 Migue Yisraell



最後のリューティスト? クリスティアン・ゴットリープ・シャイトラー

 私の知る限りでは、最後のリュート奏者はCristian Gottlib Scheidler(1752~1815) ではないかと思います。 シャイトラーといえば、私たちにとっては横尾幸弘氏の二重奏曲集の載っている「ソナタニ長調」なじみが深いもので、私も何度か演奏したことがありす。 この曲は、元はリュートとヴァイオリン、またはフルートのための作品のようで、それを横尾氏がギター二重奏曲にアレンジしたものと思われます。

 上のCDでは、シャイトラー作曲の、「モーツァルトの『ドン・ジョバンニ』のテーマによる変奏曲」が収録されています。 変奏のしかたも、まるでジュリアーニかソルと言った感じです。 シャイトラーはハイドンよりも20歳年下で、モーツアルより4歳年上、ベートヴェンよりも12年ほど早く亡くなっています。



リュートの新たな可能性

 特に印象的な点として、この曲最後の方で、リュートの弦の多さを利用して、ハープように演奏している部分があります。 なかなか面白く、まさにリュートの新しい可能性が感じられます。 残念ながら、それを継承する人は現れず、あらたな可能性は萌芽のみに終わり、開花するまでにはいたりませんでした、




コハウトの協奏曲、ハイドンの室内楽

18世紀後半にウィーンでリューティストとして活動したK.Kohaut(1726~84)は「リュートと弦楽のための協奏曲ヘ長調」を残していて、ジュリアン・ブリームが1970年代に録音していました。 これはもう正真正銘、古典派の協奏曲となっています。


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ジュリアン・ブリームの1970年代の録音 ヴィヴァルディ、ヘンデル、コハウトの協奏曲が収録されている。


 ハイドンの初期の弦楽四重奏曲(作品2-2)など、ハイドンのいくつかの初期の室内楽が、リュートを含むものに編曲されている譜面が残されています。 同時代の編曲と考えられますが、編曲者は特定されていないようです。 ウィーンではこの時代でもリュートを愛好していた人たちが少なくなかったということでしょう。 




150年の眠りにつく

 19世紀に入ってからのリュートに関する情報はあまりありません。 16世紀、あるいはそれ以前から多くの人々に愛好され続けてきたリュートも、ついに永い眠りにつく時がきました。 

 再び目を覚ましたのは、20世紀の半ば頃と言え、その復興の先駆者としては、ヴァルター・ゲルビッヒ、 ジュリアン・ブリームなどが挙げられるでしょう。 この両者とも演奏したのはルネサンス・リュートの方で、バロック・リュートの功労者としては、、オイゲン・ミュラー・ドンボワ、 ミハエル・シェファーの名が挙げられます。


いろいろなシャコンヌ 3  ~ドイツのリュート音楽とヴァイスのチャコーナ



18世紀では、ドイツにおいてリュートが最も尊重されていた

 この時代、ドイツは文化や音楽などにおいては、イタリア、フランスなどからするとやや後進地域と言った感じがあり、リュート音楽もイタリアやフランスなどの影響を強く受けたものとなっていました。

 しかし、イタリアやフランスではリュートが下火になった18世紀において、逆にドイツではリュート音楽のピークを迎えることになります。 さらには、他の地域では全く忘れられた存在になっていた18世紀末においても、ドイツではリュートが演奏され続けていました。


ドイツのリューティストの代表と言えば

 ドイツのリュート音楽と言えば、まず何といってもシルビウス・レオポルド・ヴァイスの名を挙げるべきでしょう。 以前にもお話しましたが、S.L.ヴァイスは、親、兄弟など、その一族がほとんどリューティストで、本人の作品と一族の作品を合わせると、1500曲ほど現存するそうです。

 その中にチャコーナとされた曲が何曲あるのかはわかりませんが、私の手元あるCD、ブリラント・レーヴェルの「ロンドン手稿譜全集」12枚組の中に、3曲ほどチャコーナが収録されています。



ヴァイスのシャコンヌと言えば、イ短調 (原曲ト短調) のものが

 ヴァイスのシャコンヌ(チャコーナ)といえば、私たちギターを弾くものにとっては、一般にイ短調で演奏される有名な「ト短調」のものが最もなじみのある曲です。

 譜面もいろいろなものが出版されていますが、その中の一つには「組曲10番より」となっています。 基本的にヴァイスは自らの作品を組曲とはせず、ソナタと題していたようですが、ともかく「10」の数字の付くソナタ(2種類あるが)を当たってみても、このチャコーナは入っていません。 



なんと、フルートとの二重奏曲だった!

 別の譜面では「イギリス博物館所蔵」といったことも書いてあるので、このブリラント盤の中に必ずあるのではないかと思い、「もしや」、ということで、フルートとリュートのための組曲の方を聴いてみたら、なんとそこにこの有名なト短調のチャコーナがあるではないか!

  今までこのチャコーナを当然、独奏曲と思いこんでいましたが、実はフルートとの二重奏曲のパート譜だったようです。 しかし、英語で書かれてあるブックレットに目を通してみると、「reconstructed」の単語が。 どうやらフルート・パートはこのCDのための再現のようです。 



フルートのパート譜は失われ、リュートのパート譜のみ現存

 元々このチャコーナはフルート(正確にはフラウト・トラベルソ)とリュートのためのソナタト短調に含まる曲だが、リュート・パート譜のみ現存し、フルートのパート譜は失われてしまった。 そのリュートのパート譜を、これまで独奏曲と認識してリュート、あるいはギターで演奏してきた・・・・・  といったことのようです。



このCDではフルート・パートを復元(作曲)し、録音している

 あまり英語が得意でないので、なぜこのCDでは、この曲が独奏曲でなく、パート譜と認識し、失われたフルート・パートを復元(と言っても実質は作曲だが)して録音したのかはよくわかりませんでしたが、おそらくこの曲が元は二重奏曲だったという、はっきりした根拠はあるのでしょう。

 ちなみにこの曲に関する情報を検索してみたのですが、詳しいことが書かれてあるものにはたどり着けませんでした。 二重奏曲であることが認識されるようになったのは最近の事なのでしょうか。



リュートのパートはほぼ譜面通り

 さて、改めてこのフルートとリュートのためのソナタト短調(全6曲)の終曲のチャコーナを聴いてみると、リュート・パートは私たちが知っているものとほとんど変わりません。 装飾音なども特に追加していないので、要するに“楽譜通り”と言った感じです。




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ギターでは普通イ短調で演奏されるチャコーナ(原曲ト短調)。 ヴァイスの作品のなかでは人気曲の一つだが、どうやらこの曲は独奏曲ではなく、フルートとの二重奏曲のパート譜らしい。 たしかによく見れば動きのある変奏と和音だけの変奏とが交互になっている。 二重奏曲のパート譜だと考えれば合点がゆく。 同じ和音の小節が連続するのを避けるために一つの変奏が7小節になっているのは、以前にも書いた通り。



フルートとリュートが交互に前に出るようになっている

 リュートが8分音符や16分音符などで動いているところでは、フルートは休み、または控えめに音を出していますが、逆にリュートが4分音符で和音を弾いているところでは、フルートが活発な動きをしています。 つまりフルートとリュートが交互に主役と脇役を入れ替わる形になっています。

 確かにこの曲、メロディぽく動く変奏と、和音だけの変奏が交互にあり、「和音だけだと、ちょっと地味だな、演奏者がいろいろ装飾を加えろ、ということかな」 と思っていたのですが、なるほど、実はこういうことだったのですね。



以前にも書いたが、一つの変奏は7小節

 以前の記事(2007年)で、ヴァイスのチャコーナはケルナーのチャコーナ同様、7小節単位(最後のテーマのみ8小節)だということ書きましたが、ヴァイスの場合は3曲のチャコーナも、またパッサカリアもすべて7小節単位になっています。



ドイツのリューテスト独特の考え方か

 これは先行の変奏の最後の小節が、後続の変奏の最初の小節を兼ねる形になっているので、7小節になったわけです、おそらく、先行の最後の小節と、後続の最初の小節を別個にすると、同じ和音(主和音)の小節が2小節続くことになり、間延びした感じになると考えたのでしょう。

 こうしたことはフランスやイタリアのチャコーナにはあまりないようです。 もしかしたらドイツのリューティスト独特の考え方なのかも知れません。



ニ長調の「パッサカリア」とそっくりなチャコーナ

 もう1曲のヴァイスのチャコーナは 「ソナタ第6番(SW10)変ホ長調」 の7曲目です。 このチャコーナも聴き出すと、「あれ?」 と思います。 と言うのもこの曲のテーマは、ギターでもよく演奏される「パッサカリア ニ長調」とそっくりだからです。

 特に最初の4小節など、そのパッサカリアにトリルなどの若干の装飾を加えたと言った感じに聴こえます。   ・・・・・・ヴァイスはたくさんの曲を作曲したようだから、そんなこともまあ、あるかな・・・・



ヴァイスの場合もパッサカリアとチャコーナの区別ははっきりしていない

 その「パッサカリア」は「ソナタ第13番(SW18)ニ長調」に含まれますが、ヴァイスとしても、チャコーナとパッサカリアの区別はあまりはっきりしていないようです。

 一般的にはパッサカリアのほうが短調になりやすいとか、低音主題を厳密に守る傾向にあるとされていますが、それもあまりはっきりとはしていないようです。



イ長調のチャコーナは、親しみやすいテーマ

 さらにもう1曲のチャコーナは「ソナタ第8番(SW12)イ長調」に含まれます。 他の2曲よりのびやかで、メロディックなテーマと言え、耳に馴染みやすい感じはあるのではないかと思います。曲の構成や変奏の仕方などは他の2曲、パッサカリアも含めれば他の3曲とほぼ同じようになっています。

北陸新幹線で 2  ~金沢城



戦乱の世を生き延びた

 前回は坂道の話だけになってしまったので、金沢城の話を、もう少ししましょう。 ご存じのとおり、この金沢城は加賀、前田藩のお城で、初代は織田信長に仕えた武将で、秀吉のの同僚でもあった前田利家。 前田家は、戦乱の時代を生き抜き、さらに幕末にいたるまで将軍家を除いたなかで、約百万石という最大の大名であり続けました。

 織豊政権の中枢にありながらも、政権が徳川家に移った後でもその勢力を縮小させず生き残ったという、稀な大名と言ってもよいでしょう。 もちろんそれには前田家の人々の多大な努力や知恵があったのでしょうが、そのあたりはNHKのほうにお任せしましょう。



江戸時代から残る建物は石川門と三十三間長屋

 その百万石の大名の居城なので、その規模も大きいのは確かだとは思いますが、この金沢城は明治になってから、旧陸軍の施設になったり、また戦後は金沢大学のキャンパスになったりと、若干残念な扱いを受けてきたのは確かでしょう。 また火災などもあり、江戸時代から残る建物としては、前述の石川門と、三十三間長屋と言われる建物のみのようです。




石川門をくぐると、中はかつて見たものとは全く違っていた

 さて、例の”坂道”の写真などを撮り終え、石川門をくぐると、お城の内部は受験の時とは、まるで違う風景でした。 その当時は大学のいろいろな建物が立ち並んでいたのですが、それらはすべて取り払われ、芝生などにきれいに整備されていました。

 その芝生の先に白く輝く、お城のような建物があり、そっちへ言ってみると、新たに再建された「河北門」だということでした。  写真のとおり、特に説明がなかったら、これがお城の本体かなと思ってしまうほど、ただの”門”とは思えない立派な建物です。 おそらく当時の建物を忠実に再現したものなのでしょう。 



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まるで”お城”のように見えるが、ただの”門”。  白く輝いて、とても美しい。




石垣をくり抜いて

 さらに奥方まで行くと、石垣が残っていて、どうやらここが本丸などがあったお城の中心部分らしい。 しかしその石垣のを一部をくり抜いて、レンガで覆ってあるのが目に入りました。 案内を読むと、旧陸軍が使っていた時にあけたものだそうです。 日本にも、過去の文化や遺産を否定しようとした時代があったことは、たいへん残念なことです。


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石垣だけになっているが、かつてはこの上に本丸などがあったらしい。 いずれはそうしたものも再建されるのかも


 門などを再建しているところからすると、いずれは本丸や天守閣なども再建されるのかも知れませんね。 お城の主要な建物などが再建されると、たいへん広大なお城の姿が浮かび上がることになるのでしょう。 その時にはまた来てみたいと思います。





反対側は兼六園

 石川門を再度くぐり、石川門橋を渡ると、その先は兼六園の入り口となります。 つまり例の”坂道”の右は金沢城公園、左は兼六園となる訳です。


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緑の兼六園




 46年前も、試験が終わった日に兼六園に行きましたが、その時は”雪の兼六公園”ということで、それはそれでたいへん風情のあるものでした。 今回は”緑の兼六園”といったところでしょう。 松などに交じって楓もたくさんあり、紅葉の季節もなかなかよいのではと思われます。


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兼六園内で「あんころもちセット」。  ついつい誘惑に負けて。





東茶屋街と近江市場

 兼六園を後にして、次に向かったのは東茶屋街。 ”国指定重要文化財志麻” を見学しました。 台所なども当時のままとなっていました。


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お座敷

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江戸時代の雰囲気を残した台所

 

 夕食は近江市場で海鮮丼。 ”のどぐろ”入り。 初めて食べましたが、はまちのような感じで、確かにおいしい魚です。

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輪島など

 翌日は能登半島めぐりのバス・ツアーで輪島方面に行きました。 ”千枚田”は、実際に1000前後の水田があるとのことですが、一つ一つはかなり小さいものです。

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 ”キリコ” というのはお神輿の”あかり”なのだそうですが、 高さ15メートルくらいあるものもあり、 よくこんなものを担いだなと思います。

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 帰りは千里浜なぎさドライブ・ウェイを通りました。 砂浜をバスなどで通れるというところです。

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波打ち際すれすれをバスが走り、カモメが並走して飛んでいた


北陸新幹線で



「かがやき」のほうが速かったが

 昨日まで(6月29、30日)今年、金沢まで開通した北陸新幹線で金沢に行ってきました。 金沢へは46年ほど前に大学受験のために行きましたが、とても良いところだったので、もう一度行ってみたいと、ずっと思っていました。 今度、46年ぶりにそれが実現出来たというわけです。

 あまり詳しくわからず、というか、よく考えずにネットで旅行会社に申し込んだので、往復とも、各駅停車的な 「はくたか」 になってしまい、ちょっと時間がかかってしまいました(3時間ちょっと)。  「かがやき」の方だと2時間30分弱のようです。


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上野駅を出発する北陸新幹線の「はくたか」 




46年前に大学受験で行った

 さて、金沢といえば、私にとっては46年前、1969年に大学受験のために行ったところとして、強い印象と記憶があります。 以前にも当ブログで書きましたが、 私の実家は栃木市(当時は栃木市外)で、栃木駅から両毛線(普通列車)で、高崎に行き、そこから信越本線の急行「白山」で金沢まで行きました。

 栃木市から乗り継ぎ時間も含めれば、10時間以上という長旅で、まだ若い頃でしたが、さすがにお尻などが痛くて、辛い思いをしました。 もちろんこんな長い旅も、また一人旅も、生まれて初めての経験でした。




冬の日本海は暗くて、大荒れだった

 長野を過ぎると、だんだん雪深くなり、妙高高原付近では、その雪が覆いかぶさるように積もっていました。 冬の日本海は、まさに暗く、大荒れで、波しぶきが泡のようになって海岸に押し寄せていました。

 それを見ていると、いっそう気持ちは暗くなってゆき、 「自分はどこに向かっているんだろう? この先どうなるんだろう? 自分の行動や、選択はどこか間違っているんだろうか?」 なんて気持ちになっていた記憶があります。



その時とは打って変わり、穏やかな日本海

 それに比べて、今回は快適な旅です。 心配した天気 (なんといっても梅雨真っ盛り!)も問題なく、また当時の直角の背もたれのイスとはまるで違うリクライニングだし、乗っている時間も常磐線を含めても4時間とちょっと。 また一人旅でもなく、自分の将来に関わることもない(事故や、事件などに巻き込まれなければ)・・・・・ 

 新幹線はほとんどトンネル、または海岸線からは離れたところを通りますが、時折見える夏の日本海はとても穏やか。 のんびりした旅といった感じです。


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夏の日本海はとっても穏やか・・・・  といってもこの写真は新幹線から写したものではなく、能登半島で写したもの。 写真はあくまでイメージ・・・




真っ先に向かったのは金沢城石川門

 金沢に着いて真っ先に向かったのは石川門。 石川門というのは江戸時代から残っている金沢城内の建造物だそうですが、 46年前に受験で行った時には、金沢大学が金沢城跡にあり、大学へはこの門をくぐってゆきました。 でも、すごいですよね、大学の門が国の重要文化財だなんて!

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金沢城石川門。 金沢城としては裏門にあたるそうだが、金沢城としては江戸時代から建造物の一つらしい。 国の重要文化財となっている。 かつては金沢大が金沢城跡にあり、学生などはこの門をくぐって、キャンパスに入った。




 また、この門の反対側には日本3大名園の一つの”兼六公園があります。 まさにこのあたりは金沢の観光名所の中心部といったところです。 46年前の受験の時には、兼六園下でバスを降りて、坂道を上り、さらに橋を渡り、その石川門をくぐって大学内の試験場に向かいました。



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石川門橋  かつての金沢大学(現在金沢城公園)へはこの橋を渡って入った。



大学の看板を見上げ、合格は決まったようなものと思っていたら

  試験は3日間行われましたが、初日は絶好調! 「もう合格は決まったようなもの」 と2日目に、足も軽々と坂道を登り、橋のたもとにある大学の看板の近くに来ると、その向こうに見える石川門を見上げながら、

  「どうやら自分はここに来ることになりそうだ・・・・  それにしてもいいところだな、まるで観光地みたいだし・・・・・ 」 なんて思っていたら、 突然、地と空が反対!  ・・・・・少し遅れてお尻に強烈な衝撃と痛み。 




(よそ者+革靴+よそ見) × (金沢+雪+坂道) = ?

 しかし、それは当然といえば当然。 当時地元の人は、冬にはオシャレに着飾った若い女性だろうが、誰だろうが、足元はゴム長靴(ブーツなどではない)。 革靴など履いているのは間違いなくヨソモノ。 その革靴で雪の坂道をよそ見しながらボーっと歩いていれば、それは結果は見えている!

 周囲には多くの受験生が歩いていたのですが、そのひっくり返って雪まみれになっている受験生などまったく関心ないといった様子で、誰一人私の方を振り返る人もいませんでした。

 私も、お尻はとても痛かったのですが、痛がることも、またズボンなどに付いた雪を払うことも出来ず、ただ、何事もなかったかのように起き上って、橋のほうに歩き出しました。 ようやくズボンに付いた雪を払う気になれたのは、石川門をくぐる頃だったと思います。




一人、落ちたな

 「よりもよって大学の看板のほぼ真下で”すべる”なんて、縁起でもない! これって試験に”すべる”ってことか、そんなバカバカしいこと、本当にあるわけがない、雪で”すべって”試験に”すべる” ・・・・  そんなの、出来すぎだろ!」 と思ってみたが、この2日目から調子はガタ落ち! 得意なはずの物理や数学も絶不調!   おそらくすべって転んでいる私を見た多くの受験生は、「これで、一人落ちたな」 と思ったことでしょう。




当時の面影は残っていた

 さて、そんな私にとっての 「運命の坂」 へもう一度行ってみたい・・・・・ というのが今度の金沢旅行の最も大きな目的です。 その坂なども、ずいぶん昔の話なので、今現在ではだいぶ違っているのではと思いましたが、重要文化財ということもあってか、実際に現場に行ってみると、当時の面影など、確かにありました。

 もちろん今は重要な観光名所として、だいぶきれいに整備され、また今では大学は別のところに引っ越して、かつて受験場になっていた大学の校舎などはすべて取り払われ、金沢城公園となっています。 しかし、石川門、石川門橋、およびそこに向かう坂道など、ほぼ当時のままでした。


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右側の大きな樹の左側に石川門が写っている。 だいたいこの辺で46年前に踏み固められた雪で滑ったと思う。  当時、写真左側のの樹木のあたりに金沢大学の看板があり、石川門に通じる橋(石川門橋)がある。 まさに私は金沢大学と書いてあるカンバンの真下ですべったことになる




思った以上に傾斜があった

 その坂道を、46年ぶりに改めて登ってみると、思ったよりも傾斜があり、この坂道が冬季に雪で踏み固められれば、確かに滑りやいでしょう。 間違っても革靴で歩くところではないと思いました。

 しかし、もしその当時、この坂道が雪で踏み固められていなかったら、 あるいは私が地元の人と同じく長靴など履いていいれば、 その時は、間違いなく(?)私はこの大学に入っていたでしょう。




残念ながら茨城大学入学ということになったら、ギター三昧の生活をしようと思っていた

  私は金沢大学の他に茨城大学などを受験しましたが、ガイド・ブックなどで、事前に茨城大学にはギター部があると言うことを知っていました。 もし残念ながら(?)、この茨城大学に入ることになったら(結局そうなったわけですが)、まず、ギター部に入り、ギターを楽しもうと思っていました。



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坂を上から撮ったもの。 改めて登ってみると、思った以上に傾斜があった。 この坂道こそが、私と皆さんを結び付けた”運命の坂”



皆さんと私を結び付けた運命の坂

 一方予定通り(?)金沢大学に入学した場合は、しっかりと勉強するつもりでいました。 つまりこの坂で私がすべらなかったら、私は、この水戸の地に来ることもなかったし、ギター教師などにもなっていなかったことになります。 つまり皆さんとは、出会うことともなかったということになります。 この私にとっての”運命の坂” は、皆さんと私を結びつけた ”運命の坂” でもあったのでしょう。