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中村俊三 ブログ

中村ギター教室内のレッスン内容や、イベント、また、音楽の雑学などを書いていきます。

<バッハ・シャコンヌ再考 27>



編曲と演奏




チャコーナをヴァイオリン以外で演奏するのは可能?

 2008年の記事では演奏や編曲についてはあまり触れなかったので、今回はこの件についても書いてゆきましょう。 このバッハのチャコーナは、これまで書いてきたように、あくまで無伴奏のヴァイオリンのために書かれてきたもので、もしこれが他の楽器の為に書かれたとしたらその姿は全く別のものになっていたでしょう。

 バッハはチャコーナを作曲するには非常に制約の多い無伴奏のヴァイオリンのために、あえて書いたと言えるでしょう。 制約が多いからこそチャコーナを書く意欲が湧いたのではないかとさえ想像出来ます。 とすればこのチャコーナを他の楽器の為に編曲し、演奏するのは不可能、あるいはその本質を損なうことになるのでしょうか。



バッハ自身で無伴奏ヴァイオリン・ソナタ、パルティータをチェンバロやリュートのために編曲している

 バッハは自らの無伴奏ヴァイオリン曲のうち、「パルティータ第3番ホ長調」 をリュートのために、「ソナタ第2番イ短調」、ソナタ第3番」 の 「プレリュード」 をチェンバロの為に、 「ソナタ第1番」 の 「フーガ」 をリュート、およびオルガンのために、「パルティータ第3番」 のプレリュードをカンタータのシンフォニアに編曲しています。

 これらの中にはバッハ自身のてによるものかどうか疑わしいものも含まれますが、このようなことからも、バッハは自らの無伴奏ヴァイオリン曲を他の楽器の為に編曲して演奏することについては否定的ではありません。 また当時の習慣からすればそれは当然なことだったと考えられます。

 とすれば、チャコーナを他の楽器の為に編曲して演奏することには何の問題もないと考えられます。 しかし、たまたまそうした機会がなかっただけなのかもしれませんが、チャコーナを含む 「無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第2番」 については、特に編曲はしなかったようです。



チャコーナを編曲しなかったのは、たまたまか?

 当時の一般通念としては、チャコーナ、及びチャコーナを含む無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第2番をチェンバロやリュートなどで演奏することは問題なが、しかしやはり無伴奏のヴァイオリンに特化して作曲されている点は否めないと言うところでしょうか。




歴史的編曲

 チャコーナの編曲として歴史的に有名なものとしては、19世紀末から20世紀初頭かけてのピアニスト、フェルッチョ・ブゾーニのアレンジがあります。 ピアノでこの曲を演奏する場合は、ほとんどのピアニストがこのアレンジを用いています。

 私もバッハのチャコーナを最初に聴いたのはこのブゾーニ編でした。 その時の記憶は、ただうるさいだけで、ちっとも良い曲だとは思わなかったと言うこと以外に、残念ながらありません。 



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バッハ:シャコンヌも含まれるブゾーニ作品集のCD(ナクソス盤)


 一言で言えば ”後期ロマン派的アレンジ” と言えると思いますが、旋律のオクターブ・ユニゾンが目立ち、音域を拡大し、その部分によって音量の差がかなりはっきり出るようになっています。 確かに音の数はかなり多くなっていますが、声部の追加などは意外と少なく、音の重複による音量の拡大を目指した感じです。



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ブゾーニ編のバッハ:シャコンヌ  オクターブの重複が目立つ。



他のバッハの作品からすれば、やはり異質

 最初からこのアレンジでバッハのチャコーナに親しんだ人は別にして、オリジナルのチャコーナに親しんだ人からすれば、やはりかなり違和感のあるアレンジでしょう。 同じピアノで演奏するパルティータやイギリス組曲などと比較しても、このブゾーニ編のチャコーナは異質なものを感じます。



なぜピアニストは自分で編曲しない?

 その是非はともかくとしても、バッハのアレンジとしてはかなり個性的で、特殊なものと言えるのは確かです。 このような個性的、あるいは一時代を代表する編曲はあってよいと思いますが、ただ今現在も多くのピアニストがこの編曲を用いることには疑問を感じます。

 もちろんピアノでチャコーナを演奏することそのものには何の問題もないと思いますが、もし演奏するのであれば、そのピアニスト自身の考え方に沿ったアレンジ、出来ればそのピアニスト自身の手でアレンジすべきと、私は考えます。





バッハの弟子の一人? グスタフ・レオンハルト


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バッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ、及びパルティータ、無伴奏チェロ組曲などが収録されているCD。 今現在入手できるかどうかは不明だが、バッハ好きにはぜひ聴いてほしいCD。 残念ながら楽譜は出版されていないようだ。



 チェンバロのアレンジと演奏、としては、グスタフ・レオンハルトのものがあります。 レオンハルトはほとんどのバッハの無伴奏ヴァイオリンとチェロのための曲をチェンバロに編曲し、演奏しています。

 それ等のうち、私の手元には無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第1番、第3番、 同パルティータ第1、第2、第3番、 無伴奏チェロ組曲第4、5、6番 の8曲の演奏のCDがあります。 残念ながら楽譜は出版されていないようです (耳コピーしている人もいるようだが)。

 レオンハルトのアレンジはバッハのオリジナルのチェンバロ曲と区別が付かないほど ”バッハ的” にアレンジしており、バッハの作品として全く違和感がありません。 まさにバッハが現代によみがえった感じがします。




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バッハの弟子の一人としてもいいようなグスタフ・レオンハルト



よく聴くと大胆なアレンジだが、でもバッハ的

 「パルティータ第2番」のアレンジは原曲のニ短調をト短調に移調しています。 バッハ自身楽器を変えてアレンジする場合は、ほとんどその楽器の音域に合わせ移調するので、こうした点もバッハ的です。

 追加された声部としてはブゾーニ編よりもずっと多く、よく聴くと大胆なアレンジとも思えますが、しかし紛れもなくバッハ的です。 もしバッハ自身がチェンバロにアレンジしたとすればこれくらいのことはしているのではと思います。  
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バッハ・シャコンヌ再考 26



重力波検出

 2,3日前、新聞やネットでアメリカのマサチューセッツ工科大学の観測施設 ”LIGO” で重力波が検出されたというニュースが流れました。 確かに重力波なるものがあるということは以前にも聴いたことがあるのですが、非常に微小な現象で、現実には観測されないだろうと言われていました。

 実際に、その現象は陽子の千分の1くらいだそうです。 分子とか、原子ではなく、陽子ということですから、メチャクチャ小さい領域での話で、よくもそのような現象を捉えたなと、本当に驚きます。 話を聴いた時には 「本当かな?」 といった疑問も感じましたが、いろいろ読むと、研究者たちの、まさに血のにじむような努力により、かなり確かな成果を得たようです。 研究者たちに心からの称賛を送りたいと思います。   Congratulation!



突然太陽が消えたら

 当たり前のことかも知れませんが、重力も波動であるなら、光同様 瞬時に伝わるわけではなく、 ”光速” で伝わります。 つまり突然太陽が消えてしまったとしても、しばらくの間(確か8分くらいだったかな?)地球はなくなってしまったはずの太陽の周りを回るということです。

 それから8分ほどしたところで太陽の引力から解き放たれて地球はほぼ直線運動に移るわけです。 しかし光も同じ速さで伝わるわけですから、地球から見れば太陽がなくなるのと、引力から解き放たれるのは同時の現象と感じるでしょう。

 もっとも、突然太陽がなくなるということはありえません。 爆発したとしてもその中心部にはかなりの質量が残るでしょうし、ブラック・ホールになってしまったとしても引力は当然残ります(安心してください、太陽は爆発することはあっても、ブラック・ホールにはなりません)。




さらに微小な現象の観測

 微小な現象の観測と言えば、今現在の宇宙空間は3次元ですが、もともとは10次元、または11次元あって、残りの7~8次元は小さい領域に縮退しているという節があり、 それを証明するために非常に近い距離での重力を測定している人たちもいるんだそうです。

 もしこの宇宙が3次元でなければ、非常に小さな領域では、これまでの物理法則から、ごくわずかな差が生まれるとのことで、それを観測するのだそうです。 それが本当に観測出来たとすると、これまでの物理学は一変するかも知れません。 



いずれは常識に

 しかしこれこそ、本当に微小な、微小な現象なので、どう考えても観測されるはずはないとは思います。 しかし最近の物理学ではいろいろなことが急速に書きかえられ、 「そんなのウソだろ」 と言ったことが2~30年後には常識になっていたりします。

 私の若い頃はブラック・ホールだのビック・バンだのクォークだの、そんなのただの空想の産物だろう、などと思われていました。 いずれは 「この宇宙は11次元で出来ている」 などということは常識になっているかも知れませんね。    ・・・・・・余計なおしゃべりが長くなりました、本題に移りましょう。







バッハ :チャコーナ 第3部 ~ニ短調



同じニ短調でも印象はだいぶ違う

 210小節から再びニ短調となり、第3部となります。 第1部と同じニ短調でも、この第3部はずいぶんと印象が異なります。まず和声的にはたいへん複雑で、どのように考えればよいのかよくわかりませんが、 Ⅳ - Ⅶ - Ⅴ - Ⅵ - Ⅳ - Ⅴ ということなのでしょうか、少なくとも最初の4小節には完全な形ではⅠの和音(主和音)は出てきません。 転調したようにも聴こえますが、そうではないようです。 

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たいへん繊細な味わい

 いずれにしても第1部のような強い緊張感はありませんが、たいへん繊細な表情を感じる部分です。 力強く、緊張感のある第1部、 おおらかでユーモアさえ感じる第2部、 そしてたいへん繊細な味わいの第3部と、それぞれが際立った好対照を成しているといってよいでしょう。 第1部や第2部と違った意味で、ヴァイオリニストやギタリストの腕の見せどころと言えます。




いろいろ紆余曲折があったが、最後にテーマが力強く回帰する

 このページの最後の段から「ラ」、つまり属音の保持音部となりますが、これはバッハのフーガなどのもよく見られ、曲が終わりに近づいていることを示しています。 さらに技巧的な部分を経て、最後に冒頭のテーマが表れます。 久々に再会した人のように、何か、とても懐かしい感じがします。 再開するまでに本当にいろいろあったからなのでしょうか。

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ギターで演奏する場合は

 ちょっと細かい話になりますが、最後から3小節目の16分音符のパッセージは、ヴァイオリンだと、当然旋律として演奏しますが、音をよく見れば ラ、 ド#、 ミ、 ソ、 シ♭、 の属9の和音になっています。

 その中の ド# と ソ の三全音(減5度)が レ と ファ の短3度に解決する形になっているので、 少なくともギターで演奏する場合はド#は次の小節までキープしておかなければならないでしょう。 つまりセゴヴィア編のようにこのパッセージをハイポジションを用いて弾くのはお薦め出来ません。


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セゴヴィア編ではこのような運指になっているが



最後の最後は完全1度で完結

 最後の最後は3和音によるⅠの和音ではなく、1度、つまり同音で終わっています。 この大曲を閉じるのは、やはり最も始原的な音程、つまり完全1度しかないのかも知れません。 確かにこの大曲の最後に鳴らされる1度(ギターでは8度を添える場合が多いが)を聴いた時、たいへん充実した気持ちになります。
<バッハ・シャコンヌ再考 26>


第2部(ニ長調の部分)




同じリズムで書かれているが、全く違う印象

 中間部、つまり第2部はニ長調に変わり、その最初の変奏は冒頭のテーマに準じた音価で書かれています。 しかし聴いてわかるとおり、その印象は冒頭は全く違います。 もちろん短調、長調の違いはありますが、テーマのような緊張度の高い和音は出てきません。



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3段目からニ長調になり、テーマと同じリズムで書かれているが、緊張感はない。和声的にも穏やか。 



不協和音の代わりに長3度の重音 =たいへん穏やかな印象

  テーマでは4声で書かれていたものが、ここでは2声となり、テーマでは最初の完全小節の1拍目に、減5度や9度といった不協和音程を含む和音がありましたが、そこには長3度の重音があるのみです。 以下も鋭い響きや、緊張感のあるリズムは現れず、おおらかにメロディを歌う感じになっています。 




普通のチャコーナぽい?

 変奏そのものも、同じような和声進行で、分散和音化したものや、音階にしたものなど、かなりシンプルなものになっています。 言ってみれば ”普通のチャコーナ” ぽくなっているといってよいでしょう。

 低音も レ ⇒ ド# ⇒ シ ⇒ ラ と簡略化されていて、 なお且つ省略もされています。 因みに、ギターで演奏する場合は、その省略された低音、つまり隠れた低音を付け加えるのが自然と思われます。

 いろいろな意味で最初のニ短調の部分(第1部)と、この二長調の部分では、全く違ったコンセプトで曲が書かれていることがわかります。



運命ぽい?

 160小節(譜面の小節数と1小節ずれている)からは「ラ」の音が3回刻まれますが、以下4つになったり、「レ」に変わったりしながら、175小節まで変奏が作られています。 ベートーヴェンの「運命」ぽいですね。 もちろん意味合いは全く違い、こちらは ”運命的” などではなく、ユーモラスな感じです。



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3つの音の連打を基に変奏が出来ている。 ベートーヴェンの「運命」ぽいが、イメージは正反対で、こちはどちらかと言えばユーモラスな感じ。



 次に下降音型を基に8小節書かれており、その後はテーマのリズムを基にした4声のコラールのようになり、最後の部分にはアルペジオの指示があります。 ここは第1部の最後に置かれた長いアルペジオ部分に相当するところで、第2部のコーダに当たる部分と考えてよいでしょう。




第1部の長大なアルペジオ部分に相当するが、他の方法も可能

 この最後の部分は、音は分厚いですが、不協和音は現れず、雄大で落ち着く感じになっており、前後の短調の部分と完全に対照的となっています。

 ところで、この ”アルペジオ” の指定がしてあるところは、ほとんどのヴァイオリニストが下のな音型で演奏していますが(譜面はギター用)、これは特にバッハの指定ではなく、他の方法も考えられるでしょう。 特にギターで演奏する場合はたの方法の方がよいのではとも思います。 チェンバロで演奏しているレオンハルトは別の音型で演奏しています。



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ほとんどのヴァイオリストやギタリストはこのように演奏しているが、他の方法も可能(譜面はギター版)。


栃木市で行われた中学校の同窓会


 昨日(2月7日) 栃木県栃木市の栃木グランドホテルで私が卒業した都賀中学校の同窓会が行われ、私も出席しました。 約370名の卒業生のうち、約80名の出席でしたが、卒業してから50年経った同窓会としては、よく集まったのではないかと思います。 


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俺だよ、俺!

 私の場合、地元から離れ、昔の仲間たちと会う機会がほとんどないのと、子供の頃、あまり積極的にいろいろな友達と遊んだりしなかったこともあり、 「俺だよ、俺、 2年の時、隣の席だったじゃないか」 とか 「子供のころ、よく一緒に遊んだよな」 、「ほら、鳥かごの前で一緒に写真とったでしょ」 とか言われても 「そうだっけ・・・・・」 と記憶がなかなか蘇らない。


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 同じクラスだった、一部の仲間を除いて、ほとんどの同窓生が、顔など見ても誰が誰だが、まったくわからないのは当然で、名前を聞いても 「そういえばそんな人がいたような」 と大変困った状況。




昔は暗い少年だった

 こちらから話しかけようにも、昔のエピソードなどがあまり思い出せず、結局周囲の会話を黙って聞いている、などという時間が多くなりました。 そういえば昔の自分はこんな風にあまりしゃべらなかったな・・・・ なんて思い出しました。

 ギター教室でのレッスン中などでは、結構よくしゃべると思いますので、私の生徒さんなどはあまり信じられないかもしれませんね。 昔は暗い少年でした・・・・・




一応ギターも弾いた

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 また、クラシックの名曲や、当時(1960年代)流行った曲など、ギターを20分ほど演奏しました。 久々に会う同窓生どうしの会話を邪魔しない程度に。


<5月と7月のコンサート>


日にちが決まっていなかったギター文化館での5月と7月のコンサートの日にちが決まりました、以下の通りです。




◎中村俊三ギター・リサイタル  ~19世紀のギター作品

5月15日(日)  14:00~   石岡市ギター文化館 

入場料    前売り、予約 2000円     当日2500円  (チケット発売 3月1日)



<曲目>

ジュリアーニ : ヘンデルの主題による変奏曲

ソル : ラルゴ・ノン・タント (幻想曲作品7より)

ソル : ソナタ ハ長調 作品15-2

ソル : モーツァルトの「魔笛」の主題による変奏曲 作品9

ジュリアーニ : 大序曲 作品61

パガニーニ : 大ソナタ イ長調 (Ⅰアレグロ・ルゾルート、 Ⅱロマンス、 Ⅲアンダンテ・ヴァリヤート)

メルツ : 愛の歌

レゴンディ : 序奏とカプリッチョ 作品23


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◎中村ギター教室 発表会

7月3日(日) 14:00~  石岡市ギター文化館

入場無料 



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かなり欲張ったプログラムになってしまったが

 以前にも書いた通り、5月のコンサートは19世紀のギター・オリジナル作品によるリサイタルです。 これまで私自身19世紀の作品、特にオリジナル作品はあまり演奏してこなかったので、こうした企画は初めてです。 そのせいか、大曲ばかりの、かなり欲張ったプログラムになってしまいました。

 ちょっと練習がたいへんかな? でも楽しみなコンサートです。 また近くなりましたら、曲目についてなど、詳しく書いてゆきます。 3月頃チケット発売の予定です、ぜひ聴いていただければと思います。




さらによい演奏を

 7月の教室の発表会は昨年に引き続きギター文化館で行います。 水戸ギター・アンサンブル演奏会の関係で(10月2日)で、この時期となりました。 昨年の発表会もなかなか良かった演奏が多かったのですが、今年はさらに良い演奏を期待しています。

<バッハ・シャコンヌ再考 25>



4小節単位か、8小節か?



 バッハのチャコーナのテーマは8小節か、4小節かと言うことは前にも若干触れましたが、もう一度考えておきましょう。 この曲の出だしの部分を聴いてみると、4小節のフレーズがほぼ繰り返しのようになっていて、8小節でひとまとまりとなっているように聴こえます。 全体の小節数を見ても、 8小節×32(テーマが最初と、最後に表れ、変奏が30)=256小節  となります。

 ゴールドベルク変奏曲は、明らかにテーマ及び各変奏は16小節で、計 16×32=1024小節 となっています。 ヴァイスなどのチャコーナやパッサカリアも7、または8小節なので、バッハのチャコーナも8小節単位と考えるのが自然なようです。



最初の方だけ見ると、確かに8小節だが

 これで決まりかといえば、もちろんそうではありません。 確かに、最初のテーマと、次の二つの ”8小節” (0~23小節)を見ると、前半の4小節と後半の4小節はほぼ同じものになっていて、確かに8小節で一つのテーマ及び変奏の形になっています。 この部分だけを見れば、間違いなく8小節のテーマ、および変奏と考えられます。



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この譜面では、冒頭の不完全小節を ”1” としているので、本文中の小節数と異なる



いつの間にか4小節単位、見方によっては16小節単位にも

 その後の16小節(24~39)も、後半の4小節は前半の4小節の変奏のようになっていて、やはり8小節単位と考えられます。 しかし次の小節(40小節)あたりから微妙になり、4小節ずつ独立しているようにも見えます。 特に48~63小節の16小節は、次の64~79小節で変奏され、ここでは16小節単位のようにもなっています。

 その先を見ていっても4小節ずつ対になっているものはほとんど見られず、4小節ずつ独立しているように見えます。 つまり4小節ずつ対になっていて、8小節ひとまとまりの形になっているものは、冒頭のテーマから5回のみで(最後にもう一度テーマが出てくるが)、他は4小節単位と考えられます。



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4小節はしっかりとまとまっていて、分解されることはない

 逆に言えば、4小節は必ず一つのまとまりを示していて、これが2小節ごとに分解されるようなことはありません。 和声進行などはそれぞれ若干異なりますが、4小節の中で、主和音で始まり、主和音で終わり、必ず完結しています。



構造を作るためには、材料は小さい方が良い

 バッハのチャコーナが一般の変奏曲と最も異なる点は、各変奏を組み合わせて、”構造” を形成しているところにあると思いますが、そのために8小節ではなく、4小節単位としたのでしょう。 4小節単位というのはちょっと短すぎる感じがしますが、そうした理由があるのではないかと思います。



一般の変奏曲とは全く概念が違う

 一般的に変奏曲というのは、各変奏ごとに音楽的には完結されていて、他の変奏とは比較的緩やかに結合されていることが普通です。 確かに変奏の順番は、動きの活発なものと、落ち着いたものを交互にするとか、だんだん盛り上がるようにするとか、同じようなものが続かないようにするなど、ある程度考慮しますが、多少変奏の順番を入れ替えたとしても、それほど違いがないことが多いようです。

 タレガの「グランホタ」や「ベニスの謝肉祭」などはタレガ自身が異なるバージョンをいくつか残しています。 おそらく実際に演奏する場合は、変奏を入れ替えたり、省略したり、順番を変えたりなど、自由に演奏していたものと思われます。

 もちろんそうした一般的な変奏曲とバッハのチャコーナは全く違う作品です。 バッハのチャコーナに於いて、変奏を入れ替えるとか、省略するとか、新たに付け加えるなどと言ったことは、全く考えることが出来ないでしょう(幸いにもそうしたものを聴いたことはありませんが)。



縦にならないから、横にした?

 バッハのチャコーナは4本しか弦がない、1台のヴァイオリンのために作曲されているので、当然のことながら、同時にたくさんの音や旋律を鳴らすことが出来ません。 つまり ”縦” にはあまり構造が出来ないということです。 縦に作れないら、横に作ればよい、それがバッハの考えだったのではと思います。 

 1台のヴァイオリンのために書かれたバッハのチャコーナは、縦に構造が作れないために横に構造を作った。 しかし原則、この曲は変奏曲なので、4小節という和声的なまとまりは厳守した。

 以前の記事で、「生命体が分子からタンパク質を作り、たんぱく質から細胞、細胞から組織・・・・」 といったようなことを書きましたが、4小節の変奏が、まるで生命体の細胞のような役割をし、そして組織が作られると言ったようなことが連想されます。



でも、やはりテーマなどの冒頭では8小節単位になるようにした

以上のように、バッハは基本的に4小節のテーマでチャコーナを作曲したが、しかしせっかくインパクトの強いテーマも4小節ではさすがに印象が弱くなる。 したがって冒頭ではその4小節を繰り返して8小節のまとまりとし、一見8小節のテーマに見えるようにした。 

 もちろんバッハはこのテーマを大事にし、それに続く8小節×2は最初のテーマをなぞる形にしてある。 仮に8小節のテーマとすると、それに続く第1、第2変奏は文字通り、テーマの変奏と言うことになります。 その後もある程度は8小節のまとまりを意識しながらも4小節が独立したようになり、アルペジオ部分では完全に4小節単位の変奏となってゆきます。 徐々にその本性を表すわけですね。


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これもバッハ・マジック?

 つまり聴いているほうからすれば、8小節のテーマとその変奏だなと、感じる訳ですが、実質はそうではない。 最後にもう一度8小節のテーマが表れるので、 特に気にするか、よほど注意深く聴かないと、この曲が4小節の変奏曲であることがわからない。

 別の言い方をすれば、当時の人も、何気なくこの曲を聴いていると、多少変わった感じではあるが、まあ、形的には普通のチャコーナかな、と聴こえるのではないかと思います。 相変わらずバッハは手品みたいなことをしますね。