藤原宮
酒船石、飛鳥資料館などに立ち寄り

酒船石。 竹藪の中にぽつんとある。
飛鳥板蓋宮を出て、酒船石、飛鳥資料館などに立ち寄り、道路沿いのお蕎麦屋さんに入りました。 そのお蕎麦屋差さんはあまり目立たないお店だったので、一度通り過ぎてしまいましたが、他に食事をするところが見当たらなかったので、戻ってそのお店に入りました。 お腹が空いたこともあって、とてもおいしかったです。

お花畑越しの天の香久山。 持統天皇の和歌で有名。 このあたりも藤原京の内部。
お店を出て藤原宮跡に向かいました。 ちょっと距離はあります。 電動自転車は確かに疲れないのですが、この辺はほぼ畑地なので、虫が飛んでいて目に入りそうです。 私は眼鏡をかけているので大丈夫だったのですが、家内は目に入ってしまい、ちょっと痛かったようです。
近所の人が公園として来ている
地図と案内に従って飛鳥資料館からやく2キロほどして、藤原宮跡に着きました。 道路から入ると、そこはたいへん広いスペースとなっていました。 ちょと見た感じでは、1キロ四方くらいはあるのではないかと思いました。 そのスペースにはもちろん家などはなく、ちゃんと整地されていて、芝生のようになっていました。 広大なグランドと言った感じです。
近所の子供たちとそのお母さんと思われる何組かが遊びに来ていました。 観光客らしき人は相変わらずいなかったのですが、ここは近所の人たちの公園のようになっていて、ボール遊びなどをやっています。 ポケモン・ゴーをやっているような人もいました。

広大な敷地の藤原宮跡。 芝地のようになっていて、近所の人たちの公園のようになっているようだ。 中央の人はポケモン・ゴーをやっているのかも。
今現在は立札のようなものがあるだけで、建物らしきものはありませんが、工事機材などが置かれていて、整備計画があるのかも知れません。 いずれは観光の目玉になるのかも知れません。

一応、藤原宮の説明の立て看板はある

赤い筒状のものは柱の位置らしい。 整備計画などがあるようで、何年か後には観光の目玉になるかも。
宮と京
ところで、藤原 ”宮” というと、基本的には天皇の住居、および政務を行う場所を言い、この藤原宮では、だいたい1キロメートル四方くらいあるようです。 その約1キロメートル四方の中に、国家行事を行う広場や、天皇の私的な住居、各省庁の建物などが建っていたようです。
藤原 ”京” というと、その宮のまわりの、碁盤の目のようになっているところで、官僚や貴族(同じ意味かも知れないが)、及び一般人などが住む、いわゆる ”町” ということになります。 その藤原京は約5キロメートル四方あって、官僚たちはその京内の住居に寝起きし、毎朝、宮内に出勤するということになります。
おそらく、位の高い官僚(もちろん貴族)は宮の近くに住居があり、低い身分の官吏は京の端のほうに住んでいたのではないかと思います。 場所によっては片道2~3キロはあったと思われますので、下級官僚は、いろいろな意味で大変だったでしょう。
平城京や平安京に匹敵
藤原宮、及び藤原京はこれまでの飛鳥浄御原宮などとは比較にならない膨大な大きさで、後の平城京や平安京にも劣らない広さです。 この膨大な規模の藤原京は天武天皇時代により計画、建設がなされ、持統天皇時代(694年)に ”一応” 完成し、遷都しました。 遷都してからも工事は続いたようで、おそらく最後まで”完成”はしなかったのではないかと思います。
内外にその力を示す
天武天皇が、このような桁外れに大きい京を計画したのは、内には天皇の圧倒的な権威を示し、外には日本の国力を知らしめる、といったことなのでしょう。 確かにこの時代、こうした事が可能なほどに、天皇に権力が集中したのでしょう。
しかし、膨大な財とエネルギーを費して建設した藤原京ですが、結局のところ⒑数年間、都が置かれただけで710年には、平城京に引っ越してしまいます。

藤原京の想像再現図。 藤原京は宮が中央に作られている。
ちょっとした間違い?
藤原京は、平城京や平安京と同じく唐の都、長安を模して建設されているのは、言うまでもありません。 京全体は長方形で、京内の町は東西南北に碁盤の目状になっています。 そして天皇の住む宮は一番北の端に作られます。 古来より中国では 「天子南面ス」 といって、人々は北の方を向いて皇帝を拝礼するしきたりになっているからです。
しかしこの藤原京では、宮が京の中央に作られています。 これでは人々が天皇を取り囲むようになってしまいます。 そうしたことが、完成してすぐに平城京に遷都した最大の理由かどうかは、わかりませんが、ちょっとした情報不足の可能性はあるのでしょう。

畝傍山に雲間から光が。 なんだか神様が降りてきそう。
酒船石、飛鳥資料館などに立ち寄り

酒船石。 竹藪の中にぽつんとある。
飛鳥板蓋宮を出て、酒船石、飛鳥資料館などに立ち寄り、道路沿いのお蕎麦屋さんに入りました。 そのお蕎麦屋差さんはあまり目立たないお店だったので、一度通り過ぎてしまいましたが、他に食事をするところが見当たらなかったので、戻ってそのお店に入りました。 お腹が空いたこともあって、とてもおいしかったです。

お花畑越しの天の香久山。 持統天皇の和歌で有名。 このあたりも藤原京の内部。
お店を出て藤原宮跡に向かいました。 ちょっと距離はあります。 電動自転車は確かに疲れないのですが、この辺はほぼ畑地なので、虫が飛んでいて目に入りそうです。 私は眼鏡をかけているので大丈夫だったのですが、家内は目に入ってしまい、ちょっと痛かったようです。
近所の人が公園として来ている
地図と案内に従って飛鳥資料館からやく2キロほどして、藤原宮跡に着きました。 道路から入ると、そこはたいへん広いスペースとなっていました。 ちょと見た感じでは、1キロ四方くらいはあるのではないかと思いました。 そのスペースにはもちろん家などはなく、ちゃんと整地されていて、芝生のようになっていました。 広大なグランドと言った感じです。
近所の子供たちとそのお母さんと思われる何組かが遊びに来ていました。 観光客らしき人は相変わらずいなかったのですが、ここは近所の人たちの公園のようになっていて、ボール遊びなどをやっています。 ポケモン・ゴーをやっているような人もいました。

広大な敷地の藤原宮跡。 芝地のようになっていて、近所の人たちの公園のようになっているようだ。 中央の人はポケモン・ゴーをやっているのかも。
今現在は立札のようなものがあるだけで、建物らしきものはありませんが、工事機材などが置かれていて、整備計画があるのかも知れません。 いずれは観光の目玉になるのかも知れません。

一応、藤原宮の説明の立て看板はある

赤い筒状のものは柱の位置らしい。 整備計画などがあるようで、何年か後には観光の目玉になるかも。
宮と京
ところで、藤原 ”宮” というと、基本的には天皇の住居、および政務を行う場所を言い、この藤原宮では、だいたい1キロメートル四方くらいあるようです。 その約1キロメートル四方の中に、国家行事を行う広場や、天皇の私的な住居、各省庁の建物などが建っていたようです。
藤原 ”京” というと、その宮のまわりの、碁盤の目のようになっているところで、官僚や貴族(同じ意味かも知れないが)、及び一般人などが住む、いわゆる ”町” ということになります。 その藤原京は約5キロメートル四方あって、官僚たちはその京内の住居に寝起きし、毎朝、宮内に出勤するということになります。
おそらく、位の高い官僚(もちろん貴族)は宮の近くに住居があり、低い身分の官吏は京の端のほうに住んでいたのではないかと思います。 場所によっては片道2~3キロはあったと思われますので、下級官僚は、いろいろな意味で大変だったでしょう。
平城京や平安京に匹敵
藤原宮、及び藤原京はこれまでの飛鳥浄御原宮などとは比較にならない膨大な大きさで、後の平城京や平安京にも劣らない広さです。 この膨大な規模の藤原京は天武天皇時代により計画、建設がなされ、持統天皇時代(694年)に ”一応” 完成し、遷都しました。 遷都してからも工事は続いたようで、おそらく最後まで”完成”はしなかったのではないかと思います。
内外にその力を示す
天武天皇が、このような桁外れに大きい京を計画したのは、内には天皇の圧倒的な権威を示し、外には日本の国力を知らしめる、といったことなのでしょう。 確かにこの時代、こうした事が可能なほどに、天皇に権力が集中したのでしょう。
しかし、膨大な財とエネルギーを費して建設した藤原京ですが、結局のところ⒑数年間、都が置かれただけで710年には、平城京に引っ越してしまいます。

藤原京の想像再現図。 藤原京は宮が中央に作られている。
ちょっとした間違い?
藤原京は、平城京や平安京と同じく唐の都、長安を模して建設されているのは、言うまでもありません。 京全体は長方形で、京内の町は東西南北に碁盤の目状になっています。 そして天皇の住む宮は一番北の端に作られます。 古来より中国では 「天子南面ス」 といって、人々は北の方を向いて皇帝を拝礼するしきたりになっているからです。
しかしこの藤原京では、宮が京の中央に作られています。 これでは人々が天皇を取り囲むようになってしまいます。 そうしたことが、完成してすぐに平城京に遷都した最大の理由かどうかは、わかりませんが、ちょっとした情報不足の可能性はあるのでしょう。

畝傍山に雲間から光が。 なんだか神様が降りてきそう。
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