中村俊三 ブログ

中村ギター教室内のレッスン内容や、イベント、また、音楽の雑学などを書いていきます。

藤原宮



酒船石、飛鳥資料館などに立ち寄り

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酒船石。 竹藪の中にぽつんとある。



 飛鳥板蓋宮を出て、酒船石、飛鳥資料館などに立ち寄り、道路沿いのお蕎麦屋さんに入りました。 そのお蕎麦屋差さんはあまり目立たないお店だったので、一度通り過ぎてしまいましたが、他に食事をするところが見当たらなかったので、戻ってそのお店に入りました。 お腹が空いたこともあって、とてもおいしかったです。



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お花畑越しの天の香久山。 持統天皇の和歌で有名。 このあたりも藤原京の内部。



 お店を出て藤原宮跡に向かいました。 ちょっと距離はあります。 電動自転車は確かに疲れないのですが、この辺はほぼ畑地なので、虫が飛んでいて目に入りそうです。 私は眼鏡をかけているので大丈夫だったのですが、家内は目に入ってしまい、ちょっと痛かったようです。




近所の人が公園として来ている

 地図と案内に従って飛鳥資料館からやく2キロほどして、藤原宮跡に着きました。 道路から入ると、そこはたいへん広いスペースとなっていました。 ちょと見た感じでは、1キロ四方くらいはあるのではないかと思いました。 そのスペースにはもちろん家などはなく、ちゃんと整地されていて、芝生のようになっていました。 広大なグランドと言った感じです。

 近所の子供たちとそのお母さんと思われる何組かが遊びに来ていました。 観光客らしき人は相変わらずいなかったのですが、ここは近所の人たちの公園のようになっていて、ボール遊びなどをやっています。 ポケモン・ゴーをやっているような人もいました。 




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広大な敷地の藤原宮跡。 芝地のようになっていて、近所の人たちの公園のようになっているようだ。 中央の人はポケモン・ゴーをやっているのかも。


 今現在は立札のようなものがあるだけで、建物らしきものはありませんが、工事機材などが置かれていて、整備計画があるのかも知れません。 いずれは観光の目玉になるのかも知れません。 




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一応、藤原宮の説明の立て看板はある




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赤い筒状のものは柱の位置らしい。 整備計画などがあるようで、何年か後には観光の目玉になるかも。





宮と京

 ところで、藤原 ”宮” というと、基本的には天皇の住居、および政務を行う場所を言い、この藤原宮では、だいたい1キロメートル四方くらいあるようです。 その約1キロメートル四方の中に、国家行事を行う広場や、天皇の私的な住居、各省庁の建物などが建っていたようです。

 藤原 ”京” というと、その宮のまわりの、碁盤の目のようになっているところで、官僚や貴族(同じ意味かも知れないが)、及び一般人などが住む、いわゆる ”町” ということになります。 その藤原京は約5キロメートル四方あって、官僚たちはその京内の住居に寝起きし、毎朝、宮内に出勤するということになります。 

 おそらく、位の高い官僚(もちろん貴族)は宮の近くに住居があり、低い身分の官吏は京の端のほうに住んでいたのではないかと思います。 場所によっては片道2~3キロはあったと思われますので、下級官僚は、いろいろな意味で大変だったでしょう。

 


平城京や平安京に匹敵

 藤原宮、及び藤原京はこれまでの飛鳥浄御原宮などとは比較にならない膨大な大きさで、後の平城京や平安京にも劣らない広さです。 この膨大な規模の藤原京は天武天皇時代により計画、建設がなされ、持統天皇時代(694年)に ”一応” 完成し、遷都しました。 遷都してからも工事は続いたようで、おそらく最後まで”完成”はしなかったのではないかと思います。






内外にその力を示す

 天武天皇が、このような桁外れに大きい京を計画したのは、内には天皇の圧倒的な権威を示し、外には日本の国力を知らしめる、といったことなのでしょう。 確かにこの時代、こうした事が可能なほどに、天皇に権力が集中したのでしょう。

 しかし、膨大な財とエネルギーを費して建設した藤原京ですが、結局のところ⒑数年間、都が置かれただけで710年には、平城京に引っ越してしまいます。




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藤原京の想像再現図。  藤原京は宮が中央に作られている。




ちょっとした間違い?

 藤原京は、平城京や平安京と同じく唐の都、長安を模して建設されているのは、言うまでもありません。 京全体は長方形で、京内の町は東西南北に碁盤の目状になっています。 そして天皇の住む宮は一番北の端に作られます。 古来より中国では 「天子南面ス」 といって、人々は北の方を向いて皇帝を拝礼するしきたりになっているからです。

 しかしこの藤原京では、宮が京の中央に作られています。 これでは人々が天皇を取り囲むようになってしまいます。 そうしたことが、完成してすぐに平城京に遷都した最大の理由かどうかは、わかりませんが、ちょっとした情報不足の可能性はあるのでしょう。


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畝傍山に雲間から光が。 なんだか神様が降りてきそう。

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飛鳥宮



電動自転車で飛鳥をめぐる

 纏向駅でJR線に乗車し、桜井駅で下車。 そこからタクシーで近鉄線飛鳥駅へ。 飛鳥は電車やバスの便はよくないので、飛鳥駅で自転車を借ることにしました。 電動自転車に乗るのは初めてで、それほど普通の自転車と変わりありませんが、乗り出しの時に、急に加速する感じになるので、気を付けなければなりません。 そう言えば、新聞に最近の電動アシスト自転車は ”アシストし過ぎ” と書いてありました。


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高松塚古墳

 まず、飛鳥駅に一番近い高松塚古墳に寄りました。 場所がよくわからなかったので、一度通り過ぎてしまいましたが、そんな時も電動自転車だと残念さも薄らぎます。 普通の自転車だったら、あきらめてそのまま次の目的地へ行ってしまったかも知れません。

 また、車だと目的地の比較的手前で駐車しないといけないのですが、自転車だとほとんど目的地のそばまで乗って行けます。 確かに飛鳥は自転車が便利に出来ています。


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 高松塚古墳は、これまで見た崇神天皇陵などに比べると、かなり小さいものですが、きれいに整備されています。 この古墳は壁画が有名なのですが、それは見ずに次の場所へ移動しました。




天武、持統天皇陵

 次は天武、持統天皇陵です。 この両天皇は夫婦で、当時、天皇夫妻が同じ墓に入るのは珍しかったそうですが、天皇陵といっても古墳時代ではないので比較的小さな円墳です。



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 この両天皇の時代は、壬申の乱などを経て、天皇の力が最も大きくなった時代で、 万葉歌人、柿本人麻呂が、 「大君は 神にしませば 天雲の 雷の上に いほりせるかも」 と歌ったように、”神である天皇” の概念が生まれ、そして我が国が ”倭国” から”日本” に変わった時代と言われています。

 ”天皇を国家元首とした日本国” は今日まで続いているわけですが、その礎を築いたのが、この両天皇の時代と言われています。 すごい天皇夫妻の墓にしては、ちょっと地味ですが、そこがいいところなのでしょう。






飛鳥板蓋宮

 そこから1~2キロ(たぶん)くらい、細い道を入ったりしながら、今回の旅行の2番目の目的地、飛鳥板蓋宮跡に着きました。 案内などはあるので、比較的迷わず行けました。 



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3代の天皇によって宮が置かれたところだが、相変わらず私たち以外に訪れる人はいない



3代の天皇が宮を置いた

 写真や動画で見ていた通りと言った感じですが、やはり私たち以外に観光客らしい人は見当たりません。 一般にここは ”飛鳥板葺宮” となっていますが、同じ場所に何度も王宮が建てられ、その都度名前も変えられたようです。 最初にこの地に宮を置いたのは629年、舒明天皇で 「岡本宮」 。 次は643年、皇極天皇で 「飛鳥板蓋宮」。 3度目は673年、天武天皇で 「飛鳥浄御原宮」。

 最初の岡本宮は火事で焼けてしまったので、次の板蓋宮は、場所は同じでも建物は全く別のようです。 3度目の浄御原宮は、まえあの板蓋宮の建物が残っていたので、それに別の建物を増築したようです。



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井戸の跡のようなものが残っている



こだわりのあった地

 今現在は敷石のようなものと、井戸の跡と思われるものが残っています。 この宮跡の周囲の3方は小高い山となっていて、北側だけに平地が拡がっています。 藤原宮などと比べると圧倒的に狭いところなのですが、この時代の天皇たちには、この地への強いこだわりがあったのでしょう。


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周囲三方は小高い山となっている
纏向遺跡



奈良市から桜井線に乗り

 一昨日まで(25~27日)奈良の、”古代王宮めぐり” に行っていました。 卑弥呼の都と言われている纏向遺跡などを見に行った訳です。 JR奈良駅から桜井線に乗りました。 電車から東の方の山を見ると、雲、あるいは霧がかかっていて、ちょっと神秘的です。 この山々は、神山と言われる三輪山につながっています。



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電車の窓から見た奈良の山々は神秘的



電車って信号待ちするの?

 この電車は、時々駅でないところで止まり、「ただいま信号で停車しております」 のアナウンス、。 電車って、信号待ちするんだっけ?  どうやら、このJR桜井線は単線のようだ。 



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JR桜井線 柳本駅 




私ら、普通に住んどる


 天理駅の少し先の柳本という駅で下車。 駅を降りて案内版などを見ていると、犬を連れた年配の女性が声をかけてくれました。 「あんたら、どこにいかはるの?   ・・・・・・・・・あ、そう。 ここらへんでは、なんだか、しょっちゅう掘っては埋め、掘っては埋めやっとるね、 私らにとっちゃ、普通に住んどるとこやけどね。 あんたらどこから来なはった?   ・・・・・・へえ~ そう、 水戸って何県?  ・・・イバラキケン?    ・・・・・・・・黒塚古墳なら、その道まっすぐ行けばええで、結構来る人いはるし。  ・・・・・え、 そこじゃあらへん?」



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柳本駅で声をかけてくれたおばさん。勝手にアップしちゃいました



3世紀の前方後円墳らしいが

 とりあえずの目的地は「崇神天皇陵」と「景行天皇陵」。 途中で先ほどのおばさんが言っていた黒塚古墳があった、この古墳はここに来るまでノー・マークだったが、きれいに整備されていて公園のようになっています。

 天皇陵ではないので、発掘研究もされ、またきれいに整備されていて、訪れるにはよい所と思います。  後で調べてみると、どうやら3世紀末の前方後円墳らしく、、ヒミコの墓と言われている箸墓古墳と比較的近い時期のもののようです。



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黒塚古墳 長径が130メートルくらいの前方後円墳。 卑弥呼の時代の前後らしいが、被葬者は不明。
 



実在の可能性のある天皇の古墳


 黒塚古墳は写真を撮っただけで去り、さらに歩いて、崇神天皇陵に着きました。 駅から約1キロ強といった感じです。 崇神天皇といえば、実在したであろうとされる天皇の中では最も早い時期の天皇で、その陵墓かもしれないということで、かなり大きな古墳です。 墳丘の長径は242メートル。



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崇神天皇陵



 何といっても天皇陵なので、発掘などはもちろん、立ち入りも禁止なので、自然な状態となっています。 もちろん作られた時と同じ状態ではありませんが、自然な形で残されている貴重なものでしょう。 考古学ファンなどにはたいへん有名な古墳だとは思いますが、訪れる人はほとんどいません。 

   


ヤマトタケルノミコトの父

 景行天皇陵は、その崇神天皇陵から少し歩いたところ(だいたい500メートルくらい)にあり、似たような感じといえば、似たような感じで、崇神天皇陵より少し大きいようです。 因みに景行天皇は崇神天皇よりも2代後で、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の父とされている天皇です。


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景行天皇陵 





三輪山と三輪そうめん、どっちが有名?


 そこからさらに歩いて纏向遺跡の方に向かいました。 途中、三輪そうめんの看板がありました。 一般には三輪山よりも三輪そうめんのほうが有名かな、おそらく本社はこの辺にあるのでしょう。


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 喫茶店があったので、一休み。 午前10時前後でしたが、モーニング・セットにホット・ケーキが付いていて、朝食か、昼食かわからない食事をしました。


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細い路地を通って

 さらに歩いて、三輪駅の脇に出ました。 そこから地図や、案内板を頼りに細い路地をいくつか曲がりました。 途中牛乳を配っている人や、中学生などを見かけました。 本当にただの細い生活道路といったところです。 




予想通り(?)のただの草地

 案内通りに道路のような、そうでないようなところを進むと、やや広めの草地に出ました。 ごく普通の草地です。 案内板によれば、間違いなくここが纏向遺跡のようです。 何もないことはよくわかっていたのですが、 本当に何もない草地です! 

 その草地の草は、比較的最近刈られたようですが、刈りとった草を見た感じでは、ちょっと前までは草の丈が相当長く、歩くのがたいへんだったようです。 何も予備知識なしにここに来たら、誰もがただの空き地としか思えないでしょう。 付近には住宅が立ち並んでいて、おそらくその下も遺跡ということになるのでしょう。

 

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ここ本当に纏向遺跡? 纏向駅と三輪山方面を見ている



 予想通りと言えば、確かに予想通りなのですが、笑っちゃうほど何もありません、かつて、ここが日本の首都だったなんて。 この草地が今回の旅行の最大の目玉だったわけですが、結局ここには5分か10分くらいしかいられませんでした。 期待していた纏向遺跡越しの三輪山も、家などにさえぎられてあまりよく見えません。


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遺跡からちょっと外れたところから見た三輪山





 纏向駅から桜井行の電車に乗りました。 無人駅で、かなりさっぱりしています。 その駅から乗った人は私たち以外に3人くらいでした。 


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纏向駅 かなりさっぱりしている




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駅のホームから見た遺跡。 正面の高層住宅の手前が先ほどの草地、いや纏向遺跡





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ホームから見た箸墓古墳(卑弥呼の墓という説もある)。 崇神天皇陵や景行天皇陵よりも大きい

クイーン・ヒミコ・ストーリー  ~なあんちゃって 4




誤算

ヒミコの一行は港を出た。

10日余りの滞在期間中、キビ王は、ヒミコのまだあどけない美しさと、

微笑んだ時の愛らしさ、

そしてその外見と年齢に不釣り合いな程の、細心の心配りと、幅広く、

かつ深い知識、即座に事態を正確に把握する思考の速さ、 そして謙虚さ、

それらすべてのものに王は魅了された。

王自身だけではなく、側近や、女官、兵士から、奴婢に至るまで、

ヒミコが出会ったすべての王宮の人々の心を和ませ、

幸せな気持にさせ、キビの宮を後にした。 



ヒミコの、そのいかなる者の気持ちも掴んでしまう、まさに魔力とも言える魅力に、

キビ王は一抹の不安を覚えた。

もしかしたら、この王女は単なる飾りには収まらないかも知れない。

大いなる誤算を悔やんだが、もう遅い。

決まってしまったことだ。





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ヤマトへ

ヒミコの船団はキビの港を出てさらに東へと向かい、ナニワの港に着いた。

まだ予定の日まで日にちがある。

ヒミコはこのナニワから陸路で直接ヤマトには行かないで、紀伊半島を船で回って、

イセやオワリの方も行って見たいと言った。

しかし紀州灘は極めて波が荒く、

玄界灘を行き来する強者揃いのイトの船乗りたちも尻込みした。 

またイセやオワリからヤマトに入るには、険しい山道を通らねばならず、

さらにオワリではヤマトには従わない国もあるということで、

いずれにしても、その願いはかなわなかった。





吉野を経て


結局、ナニワの港で船を国に返し、陸路でヤマトに向かうことになった。

ヒミコは自分の足で歩いて行きたかったが、ヒミコは倭国の女王ということで、

輿に載らなければならなかった。

ヒミコの一行には警護の兵士なども加わって、さらに大きな行列となった。

建設中の王宮へは、ほぼこのまま東に進めばよいのだが、 

西方から王宮に入るのは方角が悪いということで、

一旦南へ向かってから吉野川沿いに東に向かい、

そこから山を越えて、新たに建設中の王宮に入ることになった。

少し遠回りだが、そのことはヒミコにとってはかえって嬉しかった。

カワチから生駒連山を超えてヤマトに入ると、道のあちこちに警護の兵士たちがいた。

また何事かと、人々が行列を見に集まってくる。

しかし行列が人々の前を通るときには、人々はひざまずき、ひれ伏さなけばならない、

それを怠るものは、兵士によって叩かれたりしていた。

イト国では、父である王自ら、民たちと分け隔てなく話を交わしていたので、

ヒミコにはこの光景は異様に映った。

しかし倭国全体からすれば、この時代、こうした事の方は当然であった。




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カツラギを経て吉野川に出ると、そこから川沿いに東に向かった。

この周辺では春には山桜が咲き、秋には木々の葉が紅色に色づくと言う。

残念ながら、今はそののどちらでもないが、深緑の山々も美しい。

ヒミコは人気の少ない山道などでは、輿を降り、自分の足で歩いた。

とても気持ちが良かった。

そこから北に向かって山道を進み、平地に出ると、もう王宮は近かった。






王宮

キビ王から聴いていたとおり、宮はまだ建設中だが、主な建物はほぼ出来上がっていた。

いくつかの大きな建物が、同一線上に三輪山と竜王山の間あたり、

つまり日が昇る方向を向いて並んでいる。 

そしてそれらの建物は柵にによって囲まれ、そこが神聖な場所であることを示している。

その範囲はたいへん広大なものであった。





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宮の建設のために多くの人が出ていて、物を持ち上げたり、

運んだりする時の掛け声やら、何やら打ち付ける音などで騒然としている。

また付近の道路も、物を運ぶ人などであふれかえっている。

確かに今、倭国のなかで最も賑わっているところかも知れない。

柵の外側には、おそらく人夫たちの仮の住居と思われる建物がたくさん建ててある。

それらはすべて高床式となっているのも驚きだ。

 

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王宮は三輪山と竜王山の間から流れる川が二股に分かれたところに建てられ、

キビ王が言った通りそれらは掘られた運河で結ばれている。

物資の運搬にはたいへん便利だ。

ヒミコたちは、その建設中の王宮ではなく、仮の住まいに案内された。

ここでしばらく過ごした後、秋にはヒミコの女王就任と、宮の落成、

および収穫を祝う祀りなど、長期にわたって盛大なイヴェントが行われる予定になっている。 

まさに倭国史上最大言える大イヴェントだ。 

そしてその後、ヒミコはこの偉大な王宮の主として君臨することになる。




クイーン・ヒミコ・ストーリー  ~なあんちゃって 3




イトの港を出る

 
ヒミコは半年ほど前にイト王である父からヤマトの国で王になることを告げられ、

多くの女官、渡来人、兵士、船乗り、そしてヒミコのたっての願いにより、

同母弟を伴い、イトの港を出た。 

イト王は同行せず、5歳年下のヒミコの妹はじめ、

多くの官や兵士などと共に港まで見送りに出た。 

王の目は心なしか、潤んでいた。

ヒミコが父の顔を見たのはこの時が最後だった。



ヒミコが倭国の女王となってからは、

自由にいろいろなところに行くことや、

様々の人に自由に合うことは出来ないということなので、

ヤマトまでの行程は、なるべくゆっくり、各地を見聞したり、

また各地の王たちに会ったりしながら、ということになった。




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誰しも倭国の女王は、この王女しかいないと思った


ヒミコを乗せた船団はナガト、スオウ、アキ、イヨ、などの港に停泊し、

その地の王などに会った。

どの地でも一行は大歓迎され、豪華な食事などが供応された。

どの王も、初めてヒミコを見た時には、

その目の輝きと、言葉の美しさ感動すると共に、

華奢な体と、まだあどけなさの残る顔には、

今後倭国の運命を委ねることになる女王してふさわしいのかどうか、

一抹の不安を隠せなかった。

しかし一行がその地を去る時には、

誰しもが倭国の最初の王はこの王女しかいないと、確信するに至った。

 


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ヒミコは今現在、倭国で最も勢いのあるキビ王にも会うことになった。

港からキビ王の宮に行く途中、いくつかの墳丘を見た。

聴くと先代の王のたちの墓だという。

この墓を見るだけでも、このキビ国が倭国最大、最強の国だあることが力がわかる。

また、その勢力はキビ地方にとどまらず、ハリマやアキの一部にも達している。

その勢力はイト国とは比べ物にならない。




20130505001255!楯築墳丘墓_頂上





キビ王の宮にて


  「これは、これは、おおきみ(大王)さま、

  ようこそ、このキビの国にお越しくださいました。

  さぞ長旅でお疲れになったことでしょう。

  このキビの宮でゆっくりなされませ、

  ヤマトでのお住まいが出来るまでには、まだまだ月日がかかりますゆえ」




 「まあ、 キビ王さま、 ”おおきみ” なんておやめ下さい、

  私のような年端もゆかない娘子に」



 「何をおっしゃる、ヒミコさまは、

  すでにこの倭国全土の王とお決まりになっておられます。

 私などが拝謁出来ますことは、誠に恐れ多いことであります。

 それにしても、お美しい。 

  イト国王殿が、あれほど手放したがらなかったことが、まことにうなずけます」



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  「やめて下さいませ、あまりざれ言が過ぎると、

  今度の件、ご辞退申し上げますよ!

  いえ、ご安心下さい、そんなこと出来申さぬことはよくわかっております。

  キビ王さまには、多少なりとも私の気持ちを、ご察し存じますれば」



  「いや、 まあ、 なんと申しましょうか、

  イト国王殿とヒミコさまには、今度のことでは、ただただ感謝の限りでございます。 

  倭国の王は、何といってもヒミコさましかおりませぬ。 

  こうして直接拝謁させていただいて、 

  そのことはいっそう、このキビ王の心に刻み付けられました。

  倭国全土と王や民も、すべてヒミコさまが女王になられることを喜んでおります」

 


  「それはそうと、今度の旅は急ぐものではないので、

  ここまでの道すがら、いろいろな国に立ち寄ってまいりました。

  見るもの、聞くもの、はじめてのものばかりで、身も、心も踊っております。

  疲れなど、どこ行く風といったところでございます」





  「ヒミコさまのお口に合うかどうか、

  この地で美味、珍味とされているものをいろいろ取り揃えました。

  また当地の歌や踊りなども、後ほど披露させていただくつもりです」



  「厚かましいとは存じますが、お言葉に甘えて、連れのものと共に、

  幾晩か逗留させていただきます。

  なにとどよろしゅうお願い申し上げます」



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  「父から布など、預かってまいりました。 

  キビ王さまには、くれぐれもよろしくと、お伝えするように申し使っております。

  これらは筑紫の国の特産でございます」



  「これはまた、たいへん貴重なものを。

  筑紫の布は、それはまた、格別なものでございます。

  わがキビでも最近では養蚕なども行うようになってまいりましたが、

  まだまだ筑紫のようにはまいりません、有り難く拝領いたします。

  何か月か前、イト王殿と余人を交えず、

  腹を割ってゆっくりとお話することが出来ました。 

  イト王殿は、さすがかつて漢から倭王の称号を得た王一族とあって、

  本当に出来た方だ。

  イト国だけでなく、倭国全体のことをいつも考えておられる。

  今もって、イト国は倭国の盟主でございます」




  「我がイト国は、かつて漢から倭王の称号を得ていたことは、

  父などから聞き及んでおります。

  しかし、それは昔日のことで、

  今はどの国が最も力があるかといった時代ではありませぬ。

  ただ、父は自身のことよりも、常々、民たちのことを考えて、

  またイト国だけでなく、倭全体のことも考えておられます」




この先100年まとまることはない

  「イト王殿も、今度のヒミコさまの件につきましては、

  格別の苦慮があったと存じますが、

  最後は倭国のためと、折れていただきました。

  ヒミコさまを倭の大王として頂くことは、

  このキビ国はじめ、諸々の倭国の王と民の喜びです」




  「昨年父から、この話を最初に伺いました時には、

  父が何をおっしゃっているのか、全くわかりかねました。

  だんだんその意味が解るにつけ、その重大さに身も、心も打ち震え、

  幾晩も寝付かれませんでした。

  このような恐れ多い大役、私ごときにつとまるはずもございません。

  もしお断わり出来るものでしたら、

  なんとしてでもお断りしたいところでしたが」




  「初代の大倭国王はヒミコさまをおいて、他にはだれもおりませね。

  これは私だけの考えではなく、諸王、

  また諸国の民たちの考えでもあります。

  ここでヒミコさまにお断りされますと、

  倭国がまとまることはこの先100年はありませぬ」




  「確かに、先ほども言いましたとおり、私がお断り申せば、

  これまで多くの方々がご苦労なさって、まとまりかけた話も、

  水泡に帰すと聴かされております。

  また、私のゆくすえは父にゆだねております。
 
  その父がお受けした以上、

  私としては父の命に従う以外の道は、あろうはずもござりませぬ」




  「まことに、これからヒミコさまには、

  いろいろとおすがり申し上げることとなるでしょう。 

  どうか、この禿頭に免じて、このキビ国も、また倭の諸々の国々も、

  くれぐれもよろしくお願い申し上げます」




  「まあ、滅相もございません、 頭をお上げください。 キビ王さま」




  「イト国はまさにカラへの玄関口であります。

  イト王殿にはこれからも一大率の長として、

  倭国のために働いていただくことになるでしょう。  

  何といってもカラとの通商は、

  イト王殿抜きには成しえようもありません」




  「父には大役をいただきまして、キビ王さまはじめ、

  諸王方に厚く御礼申し上げます。

  父も、これからはイト国のためだけでなく、

  倭国のすべて王や民たちのために働くのだと申しております」




イトの日向峠とヤマトの三輪山

  「ヤマトのほうにはすでに私の息子たちが行っておりまして、

  宮の造営にかかっております。 

  人夫なども、多数このキビから出しておりまして、

  今このキビでは、田畑などに行っても人影がまばらになっております。

  イズモやオウミ、オワリなどからも多数人が出ております。

  おそらく、今は倭国の中で、ヤマトが最も人があふれたところと存じます。

  何分、これまで倭国では見たこともないような、

  まるで、漢の洛陽の王宮のような宮を建てるつもりでおります。  

    ・・・・といっても見たわけではありませんがね、ワッハッハッハ。

  そのように、多くの人手を出しても、まだ少し日にちがかかります。

  また宮の周りには運河を掘って、

  人や物の行き来の便を図りたいとも思っております」




  「まことに、キビ王さま始め、キビ国のみなさま、さらに諸国の方々には、

  申し上げる言葉もございません。

  ところで、ヤマトには三輪山という神山があると聴くのですが?」



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  「そうでございます。 いま宮を建ております、ヤマトの纏向というところでは、

  三輪山と竜王山の間あたりから毎朝日が昇り、

  宮もそちらを向くように建てております。

  ヒミコさまには、あちらに行かれましてからは、

  その三輪山や竜王山越しに日の神にお祈りしていただくことになります」




  「そうですか、 イト国にいた時には、毎朝、

  日向峠に向かって日の神に拝礼しておりました。 

  これからは日向峠の代わりに、三輪山ということになるのでしょうね。

  日の神は、この世のいずれの地にも等しく日を照らし奉りますので、

  どの地で拝しても変わらぬことと存じます」
クイーン・ヒミコ・ストーリー  ~なあんちゃって 2




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ヒミコという名は正しい名前ではない


ヒミコという名は、もちろんこの王女の正しい名前ではない。 

西暦239年に魏に使者を送った際、魏の役人に倭国の王について聞かれ、

倭の使者が 「今の倭国の王はヒメコ(女子)でございます」 

と答えたことにより、後世ではヒミコと呼ばれるようになった。

したがって、当時、倭国ではこの女王のことを ”ヒミコ” と呼んでいたわけではない。

まして女王になる以前の、イト国の王女時代は全く別の名であったのは当然だが、

ここでは現在の呼び名に従い、「ヒミコ」 と記す。



イト国では王女の中で最も優れたものを ”日の神の妻” とする習慣があった。

日の妻となった女性は一生涯独身を通し、結婚して子供はもうけることはない。

あくまで日の神の妻として一生を送り、日の神よりの神託を聴く。

そしてそれを王に伝え、国を神の導く方へといざなう。

ヒミコもそうした王族の女性の一人で、ゆくゆくはヒミコの叔母に引き続いて、

イト国で、日の神の妻になる予定であった。




イト国

イト国は現在の福岡県糸島半島にあった。

古来より朝鮮半島の貿易、特に鉄製品の流通で富を成し、

九州の中でも、あるいは倭国の中でも最も富んだ国だった。

そしてその財力と物資の流通、そして大陸の情報、

および知識において、九州、および本州の諸国をリードし、

漢の都へ使者を送り、漢より倭王の称号を得ていた。

しかし2世紀も後半に入るとキビ、イズモ、コシ、オウミなどの諸国が台頭し、

イト国およびナ国など北九州の諸国の圧倒的優位には陰りが見え始めた。 

かつては独占していた鉄製品の輸入においても、

諸国が独自のルートを持つようにもなってきた。





現実主義者、キビ王

それらの国の中で、最も力を付けてきたのはキビの王で、

この ”倭国連合構想” もキビ王の主導で進められた。

当初はキビの王自身が倭国連合の王となることを前提として考えていたが、

なかなか話はまとまらなかった。

キビ王といえども、武力で自らが大倭国の王となるだけの力はなかったのである。


キビ王は考えた。

今現在、この倭国で最も力のあるのは、このキビ国、

その王である自分こそが大倭国の王に最もふさわしい。

それは間違いないことだが、それをすべての倭国の王に納得させるには現状では難しい。

特にライバル関係にあるイズモの王が絶対に首を縦に振らない。 

まあ、戦でも仕掛けて力ずくと言う手もある、 今、戦で我がキビ国に勝てる国はない!




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確かにイズモだけだったら何の問題もないが、しかしオウミやコシ、

それにサヌキやスオウなどまで敵に回したら勝ち目はない。

それに、いまは戦などやっている場合ではない。

せっかくあの ”暗闇の時代” から抜け出したところなのに、

ここでまた戦など始めたら、今度こそ本当に倭国は滅びる!

やはり大倭国の王には、かつて漢から倭王の称号を得ていた、

イト国の王を立てるしかないのかも知れない。

イト王であれば、これまでの伝統から、諸王もある程度納得するだろう。

しかしそのイト国に都を置くことは出来ない。

今の倭国は東のケヌ国あたりまで広がっていて、

その中心となれば、やはり畿内のどこかだ。

交通の便などを考えるとオウミあたりが最も良いかもしれないが、

オウミにはオウミの王がいる、

出来れば強い王がいないところがよい。




ヤマト以外にはない

そう考えると都はヤマト以外にはないだろう。 

ヤマトは水の便もよいし、また平地も広がっている。

都はヤマトで決まりとして、では王はイト王でよいのかということになる。

イト王を王に据えたのでは、かつてのイト国連合の継続、

あるいは復活ということで、元も子もない。  

私以外のものが王になるとすれば、出来るだけ力のないものがよい、

イト王では危険だ、いずれ強い権力を持つようになってしまうかもしれない。 

それならイト王ではなく、イト国の王族の誰かを王すればよい、

それには男子ではなく、女子がよいだろう、




力など持ちようのない女子が

しかも出来るだけ若く、力などを持ち得ようがない女子、

形だけの王となる女子が最もい。 

確か、イト国の王女の中に、霊力に優れ、

たいへん賢く、字も読めるという、噂の王女がいたと。

その子がよいだろう。

その王女の霊力を強くアピールすれば諸王たちも納得するだろう。 

我ながら良い考えだ!  

霊力だの、美貌だの、才などというのは、

実のところたいして意味はないが、諸王を納得させるは重要だ。




名を捨て、実をとる

そんなことよりも、イト国の王女を倭国の女王にすることによって、

当然イト国も大倭国に引き入れることが出来、

朝鮮半島や中国とのコネクションをそのまま大倭国に引き継ぐことが出来る。

これが最も大きい!

さらに、北九州で最も影響力の大きいイト国が、

我が大倭国になびけば、他の北九州諸国も当然それに従うだろう。 

近畿以東の諸国も、都をヤマトに置くということになれば離反は少ない。

これで本当に大倭国が完成だ! 

しかもその実権は、わがキビ国が握れる!  

まさに ”名を捨て、実を取る” とはこのことではないか・・・・・・・





キビ王とイト王

キビの王を ”腹黒い” などと言ってはいけない。

キビ王は現実主義者で、立派な ”政治家” だ。

ちゃんと結果を出し、ともかく大倭国連合は船出した。

キビ王の鋭い状況判断力がなければ、

倭国がまとまるには、さらに100年以上費やしたであろう。




理想主義者だが

イト王は情深い性格で、理想主義者だった。

しかし実力には乏しく、かつては少なくとも北九州では最大の勢力だったが、

最近では周辺諸国からも圧力を受けている。

そして代々のイト王に比べ、自らの力のなさを嘆いていた。

でも今現在でも倭国の盟主であることの自負は捨てきれず、

キビ王から 「大倭国の為に」 と言われると、

自らのもっとも大切なものでも手放さざるを得なかった。

そして、文字通り目に入れても痛くない愛娘を誉めちぎられては、

もうキビ王の言うなりだった。




手玉に取られた

さらに大倭国の為にということで、

これまで築いた大陸とのコネクション、あるいは最新の情報、

さらには各分野の専門家たる、多くの渡来人たちも供出せざるをえなかった。

イト国には大倭国の出先機関が置かれ、

半島や大陸との窓口機関となり、その長にはイト王がなった。

イト王としてはこれまでの持っていた朝鮮半島や大陸との交渉権を維持した形にはなったが、

倭国の一地方の出先機関の長ということで、

倭王である娘のヒミコの部下になった形にもなる。

別の言い方をすれば、ヒミコをとおしてキビ王の支配下に置かれたと言ってもよいかも知れない。

イト王は、その性格のよさから、現実主義者のキビ王の手玉にとられた形になった。





<参考> 暗黒時代

キビ王のいう ”暗黒時代” とは2世紀前半のことで、

この時期、日本列島は極端な異常気象に襲われた。

特に西暦127年は未曽有の大水害の年で、

その年間降水量は1000年、あるいは2000年に一度という凄まじいものだった。

日本列島各地で多くの住居や田畑が流され、

村ごと消滅してしまったところも少なくない。

さらにそれに続く干ばつなどで大飢饉がおこり、多くの命が奪われた。

また、少ない食糧を巡って醜い争いも絶えなかった。 

人々が、ようやくそうした状況から脱し始めた時、

これまでのように小さな国々に分かれていたのでは暮らしてゆけない。

災害や、また争いを避けるためにも、

列島全体を包括するような国が必要だと思い始めた。

そんな時代の話である。




・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




 あのう・・・・・ 

  わかっているとは思いますが、この記事は ”なあんちゃって ヒミコ・ストーリー” ですよ、

 ”なあんちゃって”。  

 こんなこと歴史の本に書いていない?    

 当然ですよ ”なあんちゃって” ですから。   

 ん?  大丈夫? わかってる?   ならいいけど。 



  
クイーン・ヒミコ・ストーリー  ~なあんちゃって  1



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西暦1××年、北九州イト国宮殿、王の間にて


  「おお、 姫、 まいったか、 入れ、 もっと近こう。

 
 ・・・・・・お前たちは下がりなさい、しばしの間、姫と二人だけにしてくれ。

   ・・・・・・ああ、その件についてはまた後で聴く。 


  今日は何をしておった、姫、 女官たちとでも遊んでおったか?」




  「いえ、 お父上様。

  先日、カラより船が入りまして、

  お頼み申しておりました書物などが手に入りましたので、

  目をとおしておりました」




  「そうか、 この宮廷でもカラの書物を読めるのは、

  お前の他には渡来人しかおらぬ。

  私も渡来人の助けがないと、どうも・・・・」




  「そうでございますね、 カラでは同じ文字でも国や場所によって、

  あるいは書かれた時代によってかなり読み方も、

  また書き方も違ってまいります。

  書物を読む場合は、いつ、どこの国の人が書いたものかを、

  考えなければなりませんので、本当に難しいものです」




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  「なるほどな、でも私にはそこまではよくわからん。

  それにしても姫はまだ年端もゆかないというのに、よくそこまで学んだのう。 

  まさしく、このイト国の才女中の才女である。 

  いや、倭国全土でも並ぶものはおらん」




  「まあ、お父上様!  

  お父上さまにそう言っていただけるのは、この上ないことではありますが、

  私より読み書きが出来るものなど、このイト国にも、

  また倭国全土にも、あまた、星の数ほどいらっしゃいます。 

  私の読み書きなど、まだまだ取るに足りないもの。 

  ただ、私は書物を読むのが好きだけでございます。

  書物などで、今まで知らなかったいろいろ知るにつけ、

  本当に自分は無知であることも知ります。

  でもそうしたことも、とても楽しいのでございます」





  「まあ、いいだろう、これは親バカというやつかな。

   ・・・・・ところで、姫はいくつになった?」




  「今年、数えで14になりました」




  「そうか、14か・・・・・・

  それにしても、だんだんお前の母に似てきたな。

  こうしてお前と話していると、なにゆえか、

  お前の母と話をしているような気になる、不思議な気持ちだ。 

  私が初めてお前の母に出会ったのは、

  母がちょうどお前くらいの歳だった。  

  美しかったなあ、 透き通るような肌で、

  本当にお前の母はお前とそっくりだったよ。

  そうして緋の衣をまとったところなど」




  「この衣は母が着ていましたものを、仕立て直したものでございます」




  「なるほど、合点がゆく」




  「この衣を着ていると、

  いつも亡き母がそばにいてくださるような気がしますので、

  ついつい、幾度となくこの衣をまとってしまいます。。

  母が亡くなった時、私は5歳でしたが、

  母に抱いていただきました時のぬくもりは、今だ忘れてはおりません」



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ヤマトの地へ


  「本当に、もう少し長く生きていてくれればのう・・・・・・・・・ 

  姫、 改まってではあるが、 今から私の話を聴きなさい。

  お前は年が明けたらキビの国の、さらに東のヤマトと言う地に行きなさい。 

  そこで日の神の妻となり、そしてヤマトの国の王となる。 

  ヤマトには倭国全土の宮が設けられる。

  つまりヤマトの国のみでなく、倭国、あまねく倭の諸々の国々の王となる」 




ヒミコは父の言葉の意味がよくわからなかった。




  「父上様。  日の神の妻になるのは、

  このイト国の女子にとってこの上ない誉に存じます。 

  しかし、 されど、 なにゆえ、 ヤマトの国に?

  私は、このイト国において、日の神の妻となるものと、

  伯母上様から、幼少より教えられてきました。

  そして、なにゆえ私が王に?

  王は男子がなるものでは? 

  それにヤマトにはヤマトの王がいらっしゃるのでは?

  父上様のお言葉はにわかには、はかりかねるものでございます」





  「そうじゃのう、 俄かにはわかりかねることかも知れん。

  話は長くなるが、よく聴きなさい。

  私の先々代の王まで、倭の諸国はこのイト国を中心にまとまっていた。 

  我がイト国の王が漢に使者を出し、漢から倭王の称号も得ていた。

  しかしその後、天変地異や、相次ぐ戦などで、この倭国は乱れに乱れた。

  漢から授かった倭王の称号も、いまやその体をなしていない。

  その大漢帝国さえ、いにしえの威光はなく、風前の灯とも言える」




  「倭国では、かつて、たいへん苦難な時代があったことは存じております。

  漢も黄巾の乱をきっかけに大いに傾いていると、渡来人より聴き及んでおります」




  「倭国でも、今はそれぞれの国ともかなり旧に復してきたが、

  これからの倭国を考えた時、誰しもこのままではいけないと思っている。

  それぞれの国の王も、官も、また民も。

  やはりこれからはこのイトをはじめ、キビやイズモやコシなど、
  
  諸国がばらばらに営んでいる時代ではなくなる。

  倭国全体の王を決め、倭全体が一つの国とならなければならないと、

  多くの者が考えている」




  「そうでございますね」




霊力優れた我がイト国の王女を諸王の王に

  「これまで、何度も諸王たちが集まって新たな国作りの話し合いがもたれ、

  なんとかまとまりかけていたこともあった。

  しかし、実際に誰かが王になろうとすると、、

  必ずそれに反対するものが現れる」




  「諸王とも、他者を自らの王とし、その王に従うことは難しいのでしょうね」




  「そういうことであろう。 

  そこで、キビの王が中心となって新たな案が出された。

  それは、まず倭国の新たな宮を、

  これまであまり強い王がいなかったヤマトの三輪山の麓に設ける。

  ヤマトはこの倭国全体の中心でもある。

  そしてヤマトの王は倭国全土の王となり、

  これまでの諸王はその新しく決められたヤマトの王に従う。

  そしてそのヤマト、及び倭国全土の王には、

  古より霊力に優れていると言われている、わがイト国の王女がなる」




  「我がイト国の王女が、でございますか? 何故に?」




  「諸王も、そのキビの王の考えに賛同の意を表した。

  イト国の王女とは、まさしく姫、お前のことを言っている。

  私はお前にはこのイト国で日の神の妻となり、

  ずっと私のそばで神託を受けてほしいと思っていた。

  お前が私のもとを離れ、遠い地に行ってしまうなど、私のは耐えられない。 

  もちろん私は強く反対した。

  しかしキビの王を始め、諸王ともこの倭国の王となれるのは、

  イト国の王女である姫、お前しかいなと言う。 

  私は当初強く拒んだが、多くの者の話や、考えを聴いているうちに、

  この難題を背負えるのは、やはり姫しかおらぬと思うようになった。

  私はまさに、断腸の思いではあるが、最後には皆の考えに従うことにした」  





大八洲の王、民たちの母に

  「父上様、 

  父上様のお話は、私の身の丈で測るにはあまりにも大きく、解しかねます。 

  無論、私のゆくすえは、かねてよりお父上様の御心次第と存じております。  

  されど・・・・・」





  「お前の抜きんでた霊力、また知識や美しさなどのうわさは、

  倭国の諸王たちにも届いているようだ。

  皆、口をそろえて姫の素晴らしさを賛美し、

  そして姫以外に王の座につけるものはいないと言っている。

  
  されど、私は極めて心痛である。 

  今からすでに、姫のいない日々をどうやって過ごそうか、苦慮している。


  しかし、わが姫以外にこの重責を担える者などおらん。

  やはり私の手もとに留めておくことは許されぬこと。 

  今となっては、ただ姫が優れた霊力を持ってしまったことを悔いるしかない。  


  我が姫!  我が姫はヤマトの地に行きなさい!

  ヤマトの地で、あまねく大倭国の王となりなさい!

  そして大八洲の諸王と民たちの母となりなさい!」


 


卑弥呼の都





唐突ですが

 唐突ですが、今現在私が一番気になっている女性といえば、邪馬台国の女王、卑弥呼。 統一国家としての我が国の初代の王であるかも知れない卑弥呼のことは、 魏志倭人伝には書かれているが、日本の歴史書とも言える日本書紀や古事記には全く書かれていません。 

 つまり日本の初代の王であったかも知れない卑弥呼は、日本国内では全く語り継がれてこなかったということになります。 記紀(古事記、日本書紀の略)で編纂されたのは8世紀初頭ですが、その基になる帝紀などが書かれるようになったのは6世紀頃と思われ、その時点ではすでに卑弥呼の時代の記憶は消え去ってしまったようです。




幻の邪馬台国は何処に? 沖縄、朝鮮半島、フィリピン説まで

  その女王卑弥呼が住んでいたとされる邪馬台国も、その所在が特定されず、九州か、近畿かと、議論されています。 その両者が古今の邪馬台国論争の有力な説ですが、その他でも、吉備地方(現岡山県付近)、出雲、近江、などの説もあり、さらには沖縄や朝鮮半島、フィリピンまであります。    ・・・・・・・そうなると、もう 「倭国の女王が住む国」 にはならなくなってしまうが。




方角が正しければ九州、 距離が正しければ奈良県

 そうした説が飛びかうのも、魏志倭人伝の地理的な説明に矛盾があるからです。 魏志倭人伝を素直に読むと、邪馬台国は九州のはるか南方の海上にあることになってしまうようです。

 多くの学者は倭人伝の距離、または方角に関する記述が不正確と考える訳ですが、距離がまっと近いと考えれば邪馬台国は九州の中に収まり、方角が間違っていると考えると、ちょうど奈良県あたりに落ち付きます。



最近では奈良県の纏向が有力候補

 そのように、これまで喧々諤々の議論が交わされていたわけですが、最近、奈良県の桜井市の纏向遺跡で、宮殿とも言える大型の建物群が発掘されました。 その建物群の年代は、まだ若干議論もあるようですが、だいたい3世紀頃とされ、卑弥呼の時代と一致することになります。

 そうしたことから、最近では近畿説が圧倒的に有力になりつつあるようです。 もちろんまだ九州説を唱える学者も少なくありませんが、そうした学者でも3世紀の大和地方に非常に強力な王権が誕生していたであろうということは否定してはいないようです。




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卑弥呼の都だったかもしれない纏向遺跡の想像復元図  三輪山から見た景観となっている




 九州説を唱える学者は魏志倭人伝や日本書紀、古事記などの文献が研究対象とする、つまり ”歴史学者” が多く、 また近畿説をとる学者は発掘など、物的証拠を根拠にする ”考古学者” が多いようです。




卑弥呼も見ていたかも知れない風景を見に

 そうしたわけで、今度その纏向遺跡をメインに、6~7世紀に日本の首都が置かれた飛鳥地方などに旅行しようと思っています。 しかし遺跡といっても、今現在は埋め戻されてあり、吉野ケ里のように建物などが復元されている訳ではありません。

 つまり行っても畑とか家など、どこにでもある普通の現在の風景となっているようです。 要するに ”何もない” ところかも知れません。 少なくとも観光スポットではないようです。

 当時のままと思われるのはその纏向の東にある三輪山でしょうか、この三輪山は昔から神山とされ、おそらくここに卑弥呼の宮殿が建てられたのも、この三輪山に関係があるものと思われます。

 また纏向遺跡のすぐ近くには”卑弥呼の墓”ともされる箸墓古墳があり、 さらに北東のほうには崇神天皇陵や景行天皇陵とされる古墳もあります。

 とりあえず、卑弥呼の宮殿があったとされる付近に立って、三輪山でも眺めてみようかと思います。 おそらく1800年前に卑弥呼が眺めたと思われる景色を。




卑弥呼ってどんな女性?

 それにしても卑弥呼ってどんな女性だったのでしょう。 たぶん若くして、おそらく10代で邪馬台国の女王となり、魏志倭人伝にもあるように高齢(おそらく50~70代)で亡くなったのでしょう。

 ネットで検索してみるといろいろな”卑弥呼”が出てきますね、 仏様のような卑弥呼から、いかにも神々しい姿、さらにはコミックの主人公のようなかわいい卑弥呼、中には若干肌の露出の多いセクシーな卑弥呼まで・・・・・・


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3世紀頃の高貴な女性の服装らしい。 卑弥呼はこのようなものを着ていたのかな?  意外と豪華! 



生存中から卑弥呼を見た人は、ほとんどいなかった

 しかしどんなに考古学などの研究が進んだとしても、卑弥呼がどんな容姿で、どんな性格だったかなどということは、わかることはないでしょう。 第一、卑弥呼の生存中から卑弥呼は特定の人以外には合わなかったとされていますから、当時から卑弥呼の姿を見た人は非常に限られていたようです。



ギターには全然関係ないけど

 となれば、これはもう、想像力を働かせるしかないでしょう。 誰もわからない分だけ、誰でもが勝手に想像し、自分の”卑弥呼像”を持つことも出来る訳です。

 そこで、次回からは私が勝手に妄想する、私の ”ヒミコ・ストーリー” を書いてゆきたいと思います。    ・・・・・ギターに全く関係ないけど。
<第17回水戸ギター・アンサンブル演奏会  ~録音を聴いて2>



<7重奏>

亡き王女のためのパヴァーヌ(ラヴェル)



テンポ・コントロールがすばらしい


 7重奏は女性メンバー中心のアンサンブルですが、この 「亡き王女ノパヴァーヌ」 はたいへん美しく演奏されています。 テンポ設定も正確に出来、中間部でややテンポを上げるところ、そして最後にまたもとのテンポに戻すところなど、たいへんよく出来ていました。 メンバーの優れたテンポ感によるものだと思います。 



タイミングのズレもなく、音色も美しい

 このようにゆっくりした曲はかえって、個々の音だしのタイミングがずれやすいのですが、そうしたものはほとんどありません。 またそれぞれの音色も美しく、音量バランス、ピアノとフォルテの変化などもたいへんよく出来ています。 トレモロ奏法や、ハープ風のところなどもたいへんきれいに出来ています。 今回の演奏曲目中、最も良い演奏の一つと言えるでしょう。   ・・・・・自画自賛し過ぎ?




リベルタンゴ(ピアソラ)



ちょっとシンプルすぎたかな?

 比較的シンプルなアレンジの分、特に目立ったミスもなく、また軽快なテンポで演奏出来ています。 有名な曲なので興味をもって聴いてもらえたのではと思いますが、ただ、録音を聴いた感じでは、他の2曲のピアソラの曲と比べ、面白さは一歩譲るように思います。     ・・・・・・・・ちょっと贅沢な感想かな? 



付け爪がはがれて・・・・・

 ちょっと気になるところと言えば、私が16分音符の音階を弾いているところで、16分音符の音階そのものはちゃんと拍に乗せて弾けているのですが、最後の音、つまり次の小節の最初の音が爪が引っかかり、遅れて出てしまいました。 ”おっとっと” という感じです。 本番前に薬指の付け爪が取れてしまい、他の曲は何とか弾けたのですが、ここのところは完全に引っかかってしまいました。    ・・・・・・・また言い訳している




ブエノスアイレスの夏(ピアソラ)


パーカッションや効果音も決まり、ともかく面白い

 この曲はたいへんよく出来ています。 パーカッションやその他効果音的な奏法がかなりうまく出来ていて、たいへん変化に富んだ演奏となっています。 やや速めのテンポで弾いているところもいいですね。 もちろんミスらしいミスもありません。

 パーカッション奏法も、ドスンと言った感じの低い音から、軽い音、堅い音、平らな音など、いろいろな音が出ています。 またチョーキングもエレキ・ギターぽく聴こえています。 



それぞれがハチャメチャに弾いているようだが、一応譜面通り

 私が弾いているレントの中間部も中川さん、丹さんの好サポートを得て、たいへんよく出来ています。 最後の部分はさらにテンポが上がってスリリングになっています。 エンディングはオリジナルの演奏を基に、各奏者がアドリブ的な演奏をするように(かなりハチャメチャに)なっているのですが、これもよく決まっていてなかなか面白くなっていると思います。



チョーキング(モドキ)も決まった!

 最後の最後は全員のチョーキングで終わるのですが、実際にはチョーキングではなくグリサンドでやっています。 でもchごっと一工夫してチョーキングのように聞かせているのですが、これも上手くいって、まるで全員でチョーキングをしているように聴こえています。 

 この 「ブエノスアイレスの夏」 は 「亡き王女のためのパヴァーヌ」 とならんで、この日の最高の演奏だと思いますが、面白さを考慮すれば、間違いなくNO.1でしょう。   ・・・・・・自画自賛がNO.1ということじゃないの?
 




ブエノスアイレスの春(ピアソラ)



かなり難しい曲だが、それなりに出来ていた


 この曲は同じピアソラの曲でも上の2曲と比べるとはるかに難しいく、弾くのも、合わせるのも難しい曲です。 それでも完璧とはいかないながら、それなりに演奏出来、変拍子のところも特に問題なくクリヤー出来ました。

 中間部のゆっくりしたところは丹さんのソロですが、たいへん美しく、情感も込められています。 難しさの関係で、多少テンポは遅めに取らざるを得ませんでしたが、まあ、結構面白く弾けてるのではといった感じです。 




ここはどこ? 私は誰?

  ・・・・・ところが、あともう少しで曲が終わるというところで、なんと私ががとんでもない ”大チョンボ” してしまい、あろうことか、2拍もずれてしまいました。 かなり動揺して、どのようにして曲が終わったのかよく覚えていない・・・・・・  ここはどこ? 私は誰?     言い訳不能!






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<全体合奏>

ロンド(ソル)



気を取り直して

 早く気持ちを切り替えないといけない。 次はソルのロンドです。 この曲はクラシック・ギターの曲としては、まあまあ知られているといったところでしょうか。 オリジナルの独奏曲もなかなか良い曲で、セゴヴィアはじめ、いろいろなギタリストに演奏されています。



ソルのオーケストラ曲をイメージして ~モツァルトをパクった?

 そのギター独奏曲を私がギター合奏に編曲したものですが、音域は5度上げています。 音域を拡げ、対旋律やバス・ライン、細かい伴奏形などを追加しています。 ソルのオーケストラ曲をイメージしたのですが、ちょっとモーツァルトぽいところもあります (意識的に ”パクッタ” ところもある)。



曲想もクリヤーに、軽快に、オーケストラぽく

 今年の7月に水戸芸術館でも演奏していますが、そうしたこともあって、この日の全体合奏の中ではたいへんよい演奏となっています。 テンポ・コントロールも比較的出来ていて、軽快なテンポで弾けています。 音量の変化なども上手く出来ていて、確かにソルのオーケストラ曲ぽい感じは出ています。



何度かためらったが

 この曲、実は数年前から編曲にとりかかり、何度かやってみようと思っていたのですが、その都度 「やっぱりあまり面白くないかも」 取りやめてしまったものです。 今回他に候補が思いつかなかったので、思い切ってやってみたのですが (その間、何度も編曲し直している) とりあえず、やってよかったなと思います。





ペルシャの市場にて(ケテルビー)


だいぶよくなってきた

 昨年から練習している曲で、確かにだいぶテンポも上がり、”こなれた” 感じがあります。 昨年練習開始早々では音量や、音域のバランスが悪く、何回も楽譜を書き直しましたが、そうした点ではだいぶまとまってきました。 

 この曲を演奏会場で演奏するのは3回目ですが、テンポ、特に速い部分のテンポはだいぶ上がり、速いところと遅いところの変化もだいぶついてきました。 また各メンバーがだんだん自信を持って音を出せるようになったのか、音量もかなり上がりました。

 この曲はもともとオーケストラ曲といっても特に複雑なものではなく、各パートがhぼ同じ音になっていたりします。 また全体が2拍子という、たいへん合わせやすい拍子で出来ています。 聴く側からしてもたいへんわかりやすい曲だと思います。 そうしたところがこの曲がギター合奏の定番曲になっている理由でしょう。




定番曲だけにハードルも高い


 となると、聴く側のハードルも自然と高くなることになります。 そうなるとどうしても、もう少し正確に、ピシッと弾かないと、聴いている人に納得してもらえないでしょうね。



単純ミスも目立ってしまう

 特に他の曲に比べてミスが多いと言う程ではありませんが、でも前述のとおり、ほとんどのパートが同じような音を弾いてる曲なので、フレット間違いのような単純ミス、あるいは各メンバーの音出しのタイミングのズレなども、結構目立ってしまいます。

 また、何といってもテンポ・コントロールが難しい、曲が進むにつれてだんだん速くなってしまうというのは、どの団体も同じかも知れません。 例えばだんだん遅くなる傾向の人が3分の1、正確なテンポで弾く人が3分の1、だんだん速くなる人が3分の1といった団体があったとすれば、この場合結果的には必ず速くなります。



重ねて

 つまり、どうしても先に行ってしまう人に合わせるしかなくなる訳です。 そういった意味では完璧なテンポ・コントロールをした「亡き王女のためのパヴァーヌ」のメンバーに改めて拍手を送りたいところです。    ・・・・・重ねて自画自賛? いや私のこと言っているのではなく、他のメンバー、特に女性メンバーについてです。





<アンコール曲>

オブラディ・オブラダ(マッカートニー)



ベースラインはクリヤーになった

 リハーサルでは低音が不明瞭だったのですが、本番では解消されましたね、音量バランスもよくなり、軽快さも出てきたようです。 でも聴いてまず気になるところといえば、最初の8分音符のメロディがかなり前のめりになっていることです。



簡単なはずのところがかえって合わない

 でも不思議なものですね、この冒頭の部分は同じ音(この編曲ではソ#)が8分音符が1小節に8個ということで、タイミングの取り方としてはかなり簡単なはずです。 その後のほうではメロディが裏打ちが中心となり、人によってはなかなかタイミングをとるのが難しくなります。  その簡単なはずの表打ち部分のテンポが速くなり、その反対に裏打ち部分の方がかえってテンポ的には安定しています。

 どうも傾向として表打ちはだんだん速くなり、裏打ちは遅くなる傾向があるようです。 表打ちの場合でも常に裏を意識出来ればテンポも安定するようです。 練習中には、時折そのjことを言っているのですが、なかなか分かってはもらえません。



厳しい耳の人にも楽しんでもらえれば

 この演奏がよかったか、そうでなかったかは、聴く人によるとは思いますが、出来れば(あくまで出来れば)、もう少し厳しい耳の人のでも楽しんでもらえるようになればと思います    ・・・・・・・最後にやっと反省らしくなった?


 もしよければ、録音のCD、出演メンバー以外の方にも差し上げます。 出来れば手渡し可能な方。
第17回水戸ギター・アンサンブル演奏会  ~録音を聴いて 




身を切る覚悟で

 水戸ギター・アンサンブル演奏会が終わって1週間ほどになります。 前回の記事では、大ざっぱに感想を述べましたが、今回は演奏会の録音を聴ながら、個々の演奏について振り返ってみようと思います。

 振り返るにあたっては、出来るだけ客観的に、他人の演奏のように1曲1曲振り返りたいと思います。 身を切る覚悟で、厳しく、メンバーや私自身を甘やかせず・・・・・・   

 しかし、当アンサンブルのメンバーは基本的にアマチュアで、高齢になってからギターを始めた方も少なくない、また私自身の能力にも当然限界がある、やはりそれは加味した上でのこととはなるでしょう。     ・・・・・・早速言い訳?

 



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<全体合奏>

グリーン・スリーブス(イギリス民謡)


 全体的にはよくまとまっていたのではと感じました。 演奏会の冒頭で演奏することを想定して編曲したので、あまり無理なことはせず、演奏しやすく譜面は作ってあるのですが、目立つミスや、アンサンブルの乱れも少なく、音量バランスも良かったと思います。

 アレンジのほうでも音域を広くとってあり、奥行きのある感じに聴こえます。 途中でテンポが速くなる部分を作っておきましたが、これも効果的だったかなと思います。 演奏の乱れもなく、ほぼ想定通りに出来ています。 付点音符がほんの気持ちずれ気味のところまありますが、この人数からすれば、やむを得ない範囲と思います。

 結果的には、コンサートのオードブルとして十分に役割りを果し、後続の曲へ期待を繋げられたのではと思います。




レット・イット・ビー(マッカートニー)

 練習の時にはいつも私が少し遅めに合図してしまう傾向があり、この日は気持速めにスタートしてみました。 確かにスタート時には適切なテンポだったと思いますが、メロディが始まってからどんどん加速してしまい、ちょっと落ち着かなくなってしまいました。 

 冒頭のメロディは簡略化して、ほぼ8分音符となっているのですが、弾きやすい分だけ、前のめりになってしまったようです。 
パートによってはオリジナル通りの譜割(16音符やシンコペーション多用の)となっていて、そちらの方は逆に難しいのでテンポ自体は安定していました。

 この曲はバス・ラインの動きにも魅力がありますが、そのバス・パートはクリヤーにたいへんよく弾けています。 例のエレキ・ギターのソロ・アドリブ部分も結構弾くのが難しいところですが、なかなか良く弾けていました。
 



<小合奏>

ラルゴ(ヴィヴァルディ)


 この曲も特に大きなミスもなく、それなりに弾けてはいるのですが、曲の内容から言って、もうちょっと落ち着いて、ゆったりと弾ければよかったかなと思います。 そうすることにより、後続の2曲も引き立ったと思います。

 もっとも、そうしたこと(落ち着いて、ゆったり弾く)が一番難しいとも言えるでしょうね、演奏会場で多くの観客 (ものすごく多い訳ではないが) の前となると、例え簡単な曲でも平常心とは行かないでしょう。 

 ともかく、こうした曲では自分の音も、他のパートの音もしっかり聴く、特に練習時にしっかりと聴く習慣を付けましょう。 「一に聴いて、二に聴く、三、四がなくて、五に聴く」 と言うところでしょう。 




目覚めよと呼ぶ声あり(バッハ)

 なかなか難しい曲で、練習中はパートごとにずれてしまうこともしばしばだったのですが、そうしたことからすればこの日はたいへんよく出来たかなと思います。 多少のミスも散見されますが、聴いた感じも、まあまあよかったのではないかと思います。 前述のとおり、弾くだけでなくさらに自分以外のパートの音もちゃんと聴き取れるようになれば、さらによくなるのではと思います。

 ・・・・・・出だしの音(ラ)が異様に大きくなってしまいましたが、私が合図をしながら弾くので、ついつい大きくなってしまいました、 反省。




涙のトッカータ(ローラン)

 前の2曲が静かな感じなので、勢いよく行きたいと思い、テンポもやや速めにとりました。 メンバーの事を考えるとギレギレといったところでしたが、よく頑張ったと思います。 多少のミスはやむを得ないところですが、間延びせず、スリリングには弾けたかなと思います。 パートごとのズレのようなものはありませんでした。





<二重奏>
メフエット(ボッケリーニ)


 特にミスもなく、また特にテンポを遅くしたりもせず、そこそこ弾けているのですが(1st は私)、 何でしょうか? イマイチいい演奏にはなっていません。 なにが悪いんだろうか、アレンジの問題? 演奏のキレの問題?   ・・・・どうもこうした曲を、軽快に、すっきりと、聴く人が楽しめる演奏にするには、かなりの技術が必要なのでしょう。




アルビノーニのアダージョ(ジャゾット)

 こちらはたいへん楽しめる演奏ですね、お客さんの反応もよかったようです。 技術的にも私たちの演奏レヴェルに合っていたのでしょう(1stは中川さん)。 バロックのような、ロマン派のような、そんなこの曲の ”中途半端さ” がギターにはたいへんよく合っているようです。

 ただし、二人とも全く同じタイミングで弾く音がかなり多く、よほど二人のリズム感というか、タイミング感覚といったものが合っていないと、ばらつきは目立ってしまいます。 同じタイミングの音を弾くのは一見簡単そうですが、同じタイミングの分、少しでもずれると誰にでも分かってしまいます。 

 そう言った点では、この日の演奏で、聴いた感じ特にずれているところはなかったようです。 中川さんの高音のメロディも美しく弾けていましたが、私の途中で入るアドリブぽいところも、若干濃い表情で、かなり気持ちが入った演奏になっていました(自画自賛?)。




パスピエ(バッハ)


 練習を始めるまでは特に難しい曲とは思わなかったのですが、実際に練習に入るとなかなかすっきりと行きません。 よくトラブルを発生させていました。 そう言った点では若干の音ヌケはあるものの、この日の演奏はよく弾けていた方でしょう。

 確かにこうした無窮動的な曲は、実際に演奏するとなかなかたいへんですね。 休みどころもないし、一度トラブルとその収拾はなかなか難しい。 本当はもっと速いテンポで弾かなければならなかったのですが、本番ではついつい無難にと、練習時よりややおそめのテンポになって(して)しまいました。 
第17回水戸ギター・アンサンブル演奏会終了しました





ありがとうございました





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 本日第17回水戸ギター・アンサンブル演奏会を行いました。 ひたちなか市文化会館に、約百数十名の方々に来ていただきました。ご来場下さいました方々、本当にありがとうございました。



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 曲目などはこれまで書いた通りで、演奏内容の方は、一部の曲では練習時とはちょっと違ってしまったものもありましたが、全体的に見れば、まあまあ予定通りに出来たかなと思います。 もちろん不十分なところは多々あるとは思いますが、曲や、演奏の面白さなどは、ある程度お伝え出来たのではと思います。



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 演奏時間も休憩を含め、2時間弱と、ちょうど良いところに収まったかなと思います。 プログラム的にも、ポユラーな曲とクラシカルな曲とのバランスもそれなりに取れていたようにも思います、少なくとも演奏している方としては、楽しめました。


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 少したら、録音を聴いていろいろ反省したいと思いますが (反省材料多発?)、 とりあえず、今日のところは、自分自身にも 「お疲れさまでした」 としておきましょう。  本当にありがとうございました。


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