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中村俊三 ブログ

中村ギター教室内のレッスン内容や、イベント、また、音楽の雑学などを書いていきます。

偽作の名曲いろいろ 2


ハイドン : セレナーデ(弦楽四重奏曲第17番ヘ長調作品3-5 第2楽章)




ハイドンのセレナーデとして親しまれてきた曲だが

 「ハイドンのセレナーデ」 として親しまれている曲で、私の教室でも独奏曲に編曲して教材として用いたり、またギタ―合奏で演奏したりしています。 シンプルですが、なかなか美しい曲です。

 この曲の正確なタイトルは 「6つの弦楽四重奏曲作品3 第5番 第二楽章 アンダンテ・カンタービレ」 となります。 弦楽四重奏曲が6曲セット、しかも作品番号までついているというわけですから、曲のタイトルを見た限りでは偽作などとうていあり得なさそう・・・・・   しかし、これがまぎれもなく別人の作曲・・・・・・   本当に世の中、何を信じれば。




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ハイドンの弦楽四重奏曲 「セレナーデ」 「5度」 「皇帝」 が収録されたCD。 解説ではしっかりと「ハイドン作」となっている。 聴いている感じでは他の2曲と全く遜色ない。 ただ残念ながら最近のハイドンの弦楽四重奏曲のアルバムには、この「セレナーデ」は含まれなくなった。  ・・・・・かつては、あんなにもてはやされたのに。 スキャンダルをおこしたアイドル同様、世間は冷たい?



解説では「ハイドンならではの作品」

 私の持っているCD(1980年代のもの)の解説では、この曲が偽作などということは全く書いてなく、それどころが 「ハイドンらしく機知に富んで、楽しい ・・・・・・いかにもハイドンならではの作品の一つ」 と書いてあります。

 この曲(6つの弦楽四重奏曲作品3)がロマン・ホッフシュテッターと言うハイドンの同時代の人物の作品であることは1960年代くらいからわかっていたようですが、そういった話が出てからもこの曲をハイドンの真作として疑わなかった音楽関係者は多かったようです。 このCDの解説を書いた音楽評論家も、おそらくそうだったのでしょう (それで 「ハイドンらしい」といったことを強調した?)。




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ギター独奏版  わりと弾きやすい




そんな言いがかり、誰が付けとるんじゃ!

 この5番(セレナードを含む)以外の曲は聴いていませんが、この第5番ヘ長調を聴いた限りでは、確かにまぎれもなくハイドンの曲と言った感じで、ハイドンの真作以上にハイドンらい曲とも言えます。 「この曲が偽物だって? そんなの何かの間違いじゃ、変な言いがかり、誰が付けとるんじゃ」 なんて思うのも無理からずかなとも思います。




真の作曲家はハイドン・オタク?

 この ”真” の作曲者のロマン・ホッフシュテッターはアマチュアの音楽(修道士)だったそうですが、ハイドンにあこがれ、ハイドンの音楽を研究し、ハイドン的な作品を書くようになったそうです。

 その自らの作品を出版社に持って行ったのですが、ホッフシュテッターのような無名の作曲家の出版は出来ないと断られ、その代わりにハイドンの作品として出版することを同意させられたそうです。 その結果「作品3」の番号が付いたわけです。




出版社が勝手に出版する

 今では考えられないことですが、こうした事は当時よくあることだったそうで、似たような形で偽作になってしまった作品もかなりあるそうです。 もっともその作曲家の真作でさえ、出版社が勝手に出版して販売すること(いわゆる海賊版)もよくあったそうです。 

 特にハイドンは当時抜群の知名度だったようで、ハイドンに関してはそうしたものがかなりあり、同じ作品番号の曲が複数あったりすることもありました。 また楽譜の出版がお金になるほど、一般の音楽愛好家も増えた時代だったのでしょう。




モーツァルトやベートーヴェンにはこうした偽作はあまりない

 同じ時代でもモーツァルトにはあまりそうしたものがありませんが(ヴァイオリン協奏曲など若干はある)、はやりネーム・バリューとしてはハイドンのほうがずっと上だったのでしょう。 モーツァルトが本当に評価されるようになったのは20世紀以降と言えます。

 またベートヴェンにも偽作は少ないですが、ベートーヴェンの時代になると、作曲家も、また出版社も作品の管理をしっかりするようになったのでしょう。




ソナタ形式の確立が偽作を生んだ?

 それにしても、このホッフシュテッターは全くハイドンの真作に見劣りしない作品を書いたわけで、称賛すべきところもあるのではと思いますが、ハイドンの作曲法はソナタ形式など、ある程度公式化されていて、そこにいくつかの楽想を代入すると作品が出来上がるという点もあったのではと思います。 これがモーツァルトやベートーヴェンとなると、偽作はなかなか難しくなってくるのでしょう。
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偽作の名曲いろいろ



名曲になってしまった偽作

 偽作にもいろいろあって、ポンセの作品の場合は作曲者、またはその関係者が意図的に作り出したわけですが、意図的にではないが、結果的にそうなってしまったものや、その作曲家の真作であるにも関わらず、偽作の疑いをかけられてしまったものもあります。 また、真作か偽作かはっきりわからないグレーな作品なども数多く存在します。

 そうした作品の中にもたいへん優れたものや、また人気の高い作品などもあります。 今回は、そんな ”偽作の名曲” の紹介をしましょう。





 弦とオルガンのためのアダージョ : トマゾ・アルビノーニ



バロック名曲集の看板曲だが

 ”アルビノーニのアダージョ” の名でバロック音楽の名曲中の名曲として知られている曲で、たいへん美しいメロディで人気の高い曲です。 「バロック名曲集」 としたLPやCDのアルバムには必ずと言ってよいほど取り上げられ、写真のようにメイン・タイトルにもなったりします。 

 この曲は、まさにバロック音楽を代表する曲の一つといった扱いをされてきた訳ですが、その曲が本当はバロック時代の曲ではないと言う訳ですから、世の中何を信じれば・・・・・



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イムジチ合奏団のバロック名曲集のCD。 こうしたバロック名曲集のアルバムにはこのアルビノーニのアダージョは欠かすことが出来ないのみでなく、このようにメイン・タイトルになることもよくある。  ・・・・でも本当はバロック作品ではない




当初から ”編曲” とはされていた
  
 しかし当初からこの曲は 「アルビノーニが残した数小節の断片を基に、アルビノーニの研究者であるレモ・ジャゾットが弦とオルガンのために編曲した曲」 とされていて、最初から完全なアルビノーニの作品ではないとされていたので、まあ、そのショックも半分くらいといったところでしょうか。




アルビノーニの名を知らしめるため?

 前述のとおり、真の作曲者のレモ・ジャゾットはアルビノーニの研究家ということで、もしかしたらアルビノーニの名を一般に知らしめるためにこのような作品を世に出したのかも知れません。 そうだとするとその試みは十分過ぎるくらいに成功したのではないかと思います。

 実際に、多くの音楽愛好家がこの作品でアルビノーニと言うイタリア・バロックの作曲家を知ることになたのではと思います。 さらには、ヴィヴァルディの 「四季」 や、パッヘルベルの 「カノン」 などとともに1960~70年代のバロック・ブームの隆盛に大きく貢献した曲とも言えます。




ギター二重奏でもよく演奏される

 また、この曲はギター二重奏にもよく合い、伝説のデュオ、プレスティ&ラゴヤのレパートリーにもなっていました。 昨年私もコンサートで弾きましたが、なかなか評判がよかったです。




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    ギター二重奏版(中村編)




アルビノーニの真作は

 ”真作”よりも ”偽物” で有名になってしまったアルビノーニですが、アルビノーニの真作についても若干触れておきましょう。 トマゾ・アルビノーニ(1671~1751) はイタリアのベネチアの作曲家で、時代的にはヴィヴァルディやバッハとほぼ同世代となります。




協奏曲集や室内楽などのCDが入手できる

 主な作品としてはオペラなどの声楽曲ですが、現在ではそれらはあまり演奏されておらず、CDなども出ていません。 他にヴァイオリンやオーボエのための協奏曲や、室内楽などの作品も多数残されていて、それらの録音は、現在かなり出ています。




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アルビノーニの作品7と作品9の協奏曲集のCD




ヴィヴァルディよりは旋律的

 アルビノーニはヴィヴァルディど同世代で、しかも同じベネツィアで活動したということで(交流はなかったようだが)、 作風などは近いところもありますが、アルペジオなどの同じ音型を繰り返すヴィヴァルディの作品に比べると、アルビノーニの作品はメロディを歌わせるタイプが多いようです。




やはりアダージョとは若干感じが違う

 協奏曲の両端楽章はヴィヴァルディ的に明るくシンプルな感じですが、第2楽章はしっとりと歌う感じで、確かにジャゾットの「アダージョ」と近い感じもありますが、さすがにアダージョほどロマンティック、あるいは感傷的な感じはなく、やはりジャゾットの作品とはちょっと印象が違います。



ジャゾットのアダージョがなかったら

 確かにアルビノーニの作品はたいへん優れたもので、ヴィヴァルディの音楽よりも耳になじみやすい点もありますが、一方で一般の音楽ファンの耳に止まるような、これといった特徴的な作品はなく、もしジャゾットのアダージョがなかったら、一部の専門家やコアな音楽ファンを除いて、この作曲家が注目を浴びることはなかった可能性もありますね。

 
 
偽作って、違法じゃないの?



”偽” が付く言葉はたいてい違法行為だが

 メキシコの著名な作曲家、マヌエル・ポンセはアンドレス・セゴヴィアと共謀(?)して、二つの組曲(イ短調、ニ長調)の他、「バレー嬰ハ短調」、「前奏曲ホ長調」 を発表しました。 これってどうなんでしょうか? 違法行為にはあたらないのでしょうか。

 食品の産地偽装、 偽造パスポート、 私文書偽造、 偽札と、だいたい「偽」 の文字が付く事柄はたいてい違法行為となっています。 また美術品などでは”贋作”という言葉もありますが、これは間違いなく犯罪ですね。




例のゴースト・ライター事件では

 記憶に新しいところでは 例のゴースト・ライター事件などありましたね、そのゴースト・ライター(本当の作曲家)は、最近テレビでよく見かけるのですが、”作曲家” を名乗った人のほうは、その後はどうなったのでしょうか。 刑事事件とまではならなかったようですが、ただ世間からは作曲家としては認められず、いわゆる社会的制裁を受けた形になたようですね。




発覚以前に高く評価した人は

 またその作品も、一時期は非常に高く評価されましたが、その後はほとんど演奏されなくなりましたね。 しかし、作曲者が違っtとしても、その作品には変わりないはずですから、事件発覚前に、その作品を高く評価した人や、いい曲だと思った人は、その後もその作品を聴いたり、評価すべきではないかとも思います。




価値判断の難しさ、あるいはいい加減さを考えさせられた事件


 ともかく、音楽の価値判断などというものはかなりいい加減なものですね。 「バッハの作品は、本当に素晴らしい」 などと言ったり、思ったりしている人も、本当に自分で感じている訳ではなく、知らず知らずのうちに世間の評価や、他人の評価を受け入れてしまっているのでしょう。 ・・・・自分の力で価値判断するのは決して簡単なことではない・・・・・・そんなことを考えさせられる事件でしたね。




違法性があるのでは? などと考えたのは私くらい?

 ちょっと話がそれたので、話をポンセの作品の方に戻します。 ヴァイスなどのバロック時代の作品として自らの作品を発表したマヌエル・ポンセは、この件で、どこかの国の法律に抵触し、問題になったというこは全くなかったようです。 というより、法律上問題になると考えた人も、いなかったのではないかと思います(そんなバカなこと考えたのは私くらい?)。




でも主犯はセゴヴィアのほう

 もっとも、問題になったとしても、ポンセの方は、ただバロック風の作品を書いただけで、ヴァイスなどの名で発表したのはアンドレス・セゴヴィアの考えのようです。 つまり”主犯” はあくまでセゴヴィアのようです。 おそらくポンセがバロック風の作品を書いたのも、セゴヴィアの要望によるものでしょう。




恩恵を受けたのは私たちギター愛好家

 自分の作品を他人の名前で発表するということは、著作権などの利益を一切放棄することになり、そのことで少なくともポンセが利益を受けることは全くなく、したがって、このケースではどの国においても違法とはならないのでしょう。

 ポンセが、これらの作品を自らのものとしなかったことにより、わたしたちギター関係者は、誰もがこれらの曲を著作料を払うことなく演奏したり、出版したり、CDを発売したり出来ることになり、大変な恩恵を受けることになります。

 つまりこれらの作品は、ポンセとセゴヴィアからギター愛好者へのたいへん素晴らしい贈り物ともいえるでしょう (もっとも今現在はポンセの死後50年以上経つので、ポンセの他の作品も著作権料はフリーとなっています)。

  


セゴヴィアの「ジーグ」

 ところで、セゴヴィアはポンセの作品だけでなく、自らの作品もバロック時代の作品として発表していたようです。 セゴヴィアは1939年に ”フロ-ベルガー作曲「ジーグ」” 1949年に ”ロベルト・ド・ヴィゼー作曲「ジーグ」” 1961年には作曲者不明の 「ジーガ・メランコリア」 という曲を録音していますが、これらはすべて同じ曲です(さらに他にも録音があったような)。



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セゴヴィア作曲と思われるジーグ(セゴヴィアの名は私が入れた)。 セゴヴィアの愛奏曲中の愛奏曲で、何度も録音し、リサイタルでも弾いていた。 セゴヴィアは認知しなかった子のほうが可愛かったのか?





自供はしていなが

 おそらくリサイタルでもこの曲を頻繁に取り上げていると思いますので、セゴヴィアの愛奏曲中の愛奏曲と言えます。 ポンセの曲同様、セゴヴィアは生涯この曲を自らの作品とはしてきませんでしたが(つまり自供はしていないが)、現在では状況証拠的に間違いなくセゴヴィアの作品とされています。




認知出来なかった子のほうが可愛い?

 セゴヴィアは 「光のない練習曲」 他、いくつかの作品を自らの作品として出版したり演奏したりしていますが、この「ジーグ」については最後まで自らの作品とはしませんでした(つまり認知していない?)。 しかし自らの名で発表した曲より、そう認めなかったジーグのほうが圧倒的に演奏の頻度が多く、たいへん気に入っていた曲に違いありません。  

  ・・・・・・・正式な自分の息子より、いろいろ訳あって自分の子とは出来なかった子のほうがずっと愛着があり、可愛がったということかな?  ・・・・ちょっとヤバイ例え?