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中村俊三 ブログ

中村ギター教室内のレッスン内容や、イベント、また、音楽の雑学などを書いていきます。

幸福の硬貨の楽譜



楽譜が発売されていた

 いつの間にか「マチネの終りに」で福山雅治が弾いている「幸福の硬貨(菅野祐悟作曲)」の楽譜が発売されていたのですね。 

 届いた楽譜の記載によれば発売は1月17日で、アマゾンの広告で私が見て注文したのが20日ですから、まあそれほど遅れた訳でもなさそうです。



アマゾンに見透かされている?

 アマゾンの広告はその個人の傾向を見て入るようですね、マチネと終わりにの小説とかCDとか購入したので、楽譜の広告も入ったのでしょう。

 いいのか、悪いのか、詳しく傾向を知られているというのは、ちょっと不気味な感じもしますね、家族や友人よりもアマゾンの方が私のことを知っているみたいで。



譜面は3種類

 譜面は3種類あるようですが、とりあえずその中で最も価格の安いものを取り寄せてみました。 税込み660円で送料無料でした。

 タブ譜も付いている関係で音符は小さく、高齢者には不向きかも知れません。 運指も付いていません。

 譜面を掲載したいところですが、こういったものは勝手に掲載するとまずいと思うので、表紙だけにしておきます。




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税込660円と価格は一番安いが、音符は小さい。 他に福田進一運指付きや複数の曲が入っているものもある。



作曲者が書いたものではなく、耳コピー譜

 作曲は菅野祐悟となっていますが、譜面の方は直接作曲者が書いたものではなく、福山雅治の演奏から起こしたもののようです。 

 ポピュラー音楽においてはこうしたケースの方が普通なのでしょうね、作曲家というのは楽譜を書くのが仕事みたいに思うのですが、これはあくまでクラシック音楽の場合だけのようです。



忠実にコピーしている

 CDと比べてみるとほとんど福山の演奏を忠実にコピーしているようで、特に問題点はないと思います。 

 この譜面では10小節目の1拍目の和音が 「C」 となっていますが、CDを聴いた感じではここも2小節目同様 「C-maj7」 になっているようです。

 どちらでもあまり変わりありませんが、 「C」 だとポジション移動の必要があるので、どちらかと言えば 「C-maj7」 のほうが弾きやすいです。




買った人じゃないとわからない?

 他、1小節目と9小節目が同じようで、若干違っていますが、どちらでも大差はありません(どっちみちBm7の響きになるので)。

 また3小節目のスライド(S)は、福山の演奏では後の音を弾いています。こうしたケースでは、アコースティック・ギターの場合、スライド(S)ではなく、グリサンド(g)とすることが多いようです。

 ・・・・・・この話、楽譜買った人じゃないとわからない?



冒頭から音がかすれている?

 この曲の冒頭のメロディは 「シ ー ラシレーファミー 」 となっています。 映画を見た時もちょっと気になっていたのですが、福山の演奏(CDと映画は全く同じ音源)では、その3番目の 「シ」 がよく聴こえません。 

 同じメロディは何回か出てくるのですが、2回目以降ははっきりと聴こえます。 1回目だけ別なのかなとも思ったのですが、よく聴くと微かに 「シ」 が聴こえます。

 これは明らかに右指が弦を捉えられなく、”かすって” しまった状態です。 もちろん生演奏ではよくあることで、特にどうこう言う問題ではありませんが、しかしこれはもちろん生演奏ではありません。



当然編集すべき箇所

 このような音のカスレなど簡単に編集できるはずで、こうした映画のサウンドトラックであれば編集するのが当然のことと考えられます。

 こういった箇所を編集しないということは、逆に強い力が働かなければ起きないことではと思います。 誰かが強い意志で編集を拒んだ、とすればそれはやはり福山本人しかいないのではと考えられます。



男気?

 何となく現場でのやりとりが想像されますね、



 「福山さん、ここ、ちょっと直しておきましょうか」

 「いや、このままにしておいて下さい。 これもオレの実力ですから。 素のオレで行きたいです」 



 本当にこんな会話があったかどうかわかりませんが、そう聴くと他にも低音がちゃんと鳴っていなかたり、他の弦に指をひっかけてノイズが発生していたり、今現在のクラシック・ギターのCDではあまりないことが起きています。

 そう考えると、このサウンドトラック盤は、ほぼ編集なしなのかなとも思われます。

 これも福山の ”男気” なのかも知れません。 ギター演奏のシーンで代役を使うことを拒否した福山ですから、ありそうなことですね。



胆に命じるべき

 もう一つ、通常こうしたケースではあまり下手だと思われない程度に、なるべくミスなく無難に演奏しようという気持ちが強くなるところだと思いますが、福山の演奏では、例え技術的に問題があったとしても(そんなにあると言っている訳ではないが)、自分の音楽を伝えよう、表現しようといういう意思が強く感じられます。

 やはり演技にしろ、音楽にしろ、常に表現しようとしている人は、やはい違うのかなと思います。 ギター愛好者の方々も見習う部分もあるのでは。

 ・・・・・その前に自分の胆に命じろ?   ごもっとも。
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他の芥川賞受賞作品




 前回は 「マチネの終りに」の作者、平野啓一郎のデビュー作で芥川賞受賞作品の「日蝕」などについて書きましたが、今回はエッセーの「私とは何か」他、また最年少で芥川賞を受賞した綿矢りさと「蹴りたい背中」などについて書きます。




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分人

 「分人」とは平野氏によって定義された言葉と言えると思いますが、例えば、職場では厳密で怖い上司であっても、家に帰ると奥さんや子供たちには優しいお父さん(その反対もあるが)。

 あるいは正義の味方のヒーローだが、普段は冴えないサラリーマン、いったいどっちが本当の人格?

 まあ、それほど極端でなくても人は接する相手によって、あるいは置かれた環境によって人格が変わるのは確かです。

 となると、本当の自分はどれなのか? と悩むところかも知れません。

 


私もギター教室の先生を演じている?

 確かに私自身もギター教室でレッスンをしている時と、昔の仲間とマージャンをやっている時、家族といる時、あるいは親戚の家に行った時、確かにそれぞれ言葉の使い方やふるまいが違います。

 私はただギター教師という役を演じているだけなのだろうか?

 こうした事は誰しもやっていることと思いますが、中には 「オレは自分に正直に生きていない」 なんて悩む人もいるかも知れませんね。



どれかが本当の自分と言う訳ではない

 でも悩み無用!  それらのキャラはすべて本当の自分で、どれかが本当の自分で、他はかりそめの姿ということではない! 

 というのが、この平野氏の説です。 つまり一人の人間は一つの人格で出来ているのではなく、多数の人格から出来ているという訳ですね。



個人は複数の分人からなる

 家族といる時の優しいお父さんも本当の自分、会社での怖い上司も本当の自分、また昔の友達と会った時、床屋さんに行った時、そういった自分もすべて本当の自分で、自分とはそうした数々の自分を合成したものだという訳です。
 
 このようの相手や状況で変わる人格を「分人」と名付け、一つの「個人」は複数の「分人」からなると言っています。

 そのように考えることにより 「偽りの自分」 ということで悩む必要もなく、また相手によって自分を変えることも、決して後ろめたいことではないのだそうです。

 「本当の自分」 ということで悩んでいる人は読んでみるといいかもしれませんね。






蹴りたい背中 ~10数年前、芥川賞最年少受賞ということで話題となった

 平野啓一郎氏の小説などを読んだついでに、他の芥川賞作家がどんな作品を書いているのかなと、以前最年少で芥川賞受賞したということで話題となった綿矢りさの「蹴りたい背中」、金原ひとみの「蛇にピアス」なども読んでみました。



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18歳での作品

 綿矢りさ氏は2004年に19歳で芥川賞を最年少で受賞しています。受賞作品の「蹴りたい背中」はその前年に発表しているので、18歳で書いたということになります。

 さらに17歳で発表したの「インストール」」は文芸賞を受賞していて、まさに文学界の天才少女ということいえるでしょう。



さびしさは鳴る

 この「蹴り背中」は 「さびしさは鳴る。耳が痛くなるほど高く澄んだ鈴の音で鳴り響いて、胸を締めつけるから、せめて周りには聞こえないように、私はプリントを指で千切る。細長く、細長く・・・・・・」 と言った書き出しで始まる。

 ストーリー自体はおそらく自分の経験か、それに近いものと思われ、決して特別な世界を描いている訳ではなさそうです。



文章自体はわかりやすいが

 確かに比較的日常的なことが書かれてあるのですが(もちろん現代のわかりやすい文章で)、ただ、それを感じ取る感性が私たちとはだいぶ違うようです。 

 私たちの年代(around70)の男性には、こうした年齢の女性の考え、特に感じ方はよくわからないものです。 

 さらにこうした世代の女性の中でも、主人公の「ハツ」、あるいは作者は極めて感受性の高い女性のようです。



まさに異文化

 日常的な内容のストーリーですが、感覚的には意外と理解しにくいところもあります。 まさに””異文化”といったところです。

 タイトルとなっている男友達の背中を無性に蹴りたくなるといったところも、非常に感覚的でなかなか理解はしにくいところです。

 そういった意味では難しい文章で書いてある平野氏の小説のほうが理解はしやすいかも知れません。



ちょっとした場面での心の動き

 もっとも、おそらくこの小説に書かれている本筋とはあまり関係のないところでの、いろいろな場面での主人公の感じ方(作者の感じ方)そのものがこの小説の読みどころなのかなと思います。



他人のことなんかまったく気にしなかったけど

 それにしても女の子ってメンドクサイですね、対人関係にこんなにエネルギーを費やしているのかと思うと。 私の10代後半なんて、ほとんど他人のことなど気にしなかったけど。
ギター文化館所蔵銘器コンサート   


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1月12日(日) 14:00  石岡市ギター文化館



たいへんありがとうございました

昨日ギター文化館で所蔵銘器コンサートを行いました。 ご来場下さった方々本当にありがとうございます。

 1795年制作のアントニオ・パフェス・ロペスと1997年の松村雅亘という、だいぶ形も音質も異なる楽器による演奏と言うことで、若干苦労した点もありました。



足台にダイナレットで逆足

 特にパフェス・ロペスはボディの形状が現代の楽器にくらべてかなり細身で、通常の持ち方では演奏出来ず、足台とダイナレットを両方使い、さらに通常とは逆の右足に乗せて弾くという方法をとりました。

  当時の人はこの楽器をどのように持って弾いたのか知りたいところです。 ストラップを使ったのかなとも思いますが、ストラップを止めるようなものは特に付いていません。 



弦の間隔が違うのが

 また弦の間隔がやや狭く、これが意外と混乱をもたらします。 おそらく数日間その楽器を弾き続けていれば自然に馴染むところですが、この楽器を弾くのはギター文化館に行った時のみで、そうした機会は演奏会当日を含め4回でした。

 そんなこんなでしたが、昨日は午前中からこの楽器になじむようにしていたので、弦を空振りしたり、他の弦を弾いてしまったりは最小限度には留められたかなと思います。



独特の響き

 このパフェス・ロペスの音は完全に19世紀ギター(この楽器は18世紀だが)ぽくもなく、また当然現代のギターとも異なり、独特の音と言えるでしょう。 特にこのギター文化館で弾くと、味わい深いものがあると思います。




深い低音が特徴

 松村さんの楽器は音質こそ、通常私が弾いているハウザーと違った傾向にありますが、指的には何の問題もなく、パフェス・ロペスが弾きにくかった分、何かほっとする感じです。

 松村さんの楽器は、特に低音に特徴があり、重く、深い音がします。なんとなく1オクターブ下の音も鳴っているような、そんな響きです。 ヴィラ=ロボスの曲は低音が活躍するものが多いので、そういった曲ではたいへんよい効果を出します。

 高音の方は柔軟で品のある感じと言え、確かに人柄が出ているのでしょう。 ただし楽器になじむ時間が短かったので、松村さんの楽器を弾きこなすには程遠い感じだったのも確かです。

 やはり一つの楽器を弾きこなすのはそれなりの時間が必要と言うことでしょう。 でもこうした機会をいただいて、いろいろなことがわかって、本当に勉強になりました。 池田館長をはじめ、ギター文化館の方々にはたいへん感謝です。
日蝕、一月物語 ~平野啓一郎



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「マチネの終りに」を書いた平野啓一郎の芥川賞受賞作品

 「マチネの終りに」の話は何度かしましたが、そう言えば、私は小説などと言うものを読んだのは何年、いや何十年ぶりということに気が付きました。

 おそらく大学生の頃、トルストイとかロマン・ローランなどを読んで以来ではないかと思います。 「マチネの終りに」を書いた平野啓一郎と言う小説家が他にどんな小説を書いているか気になっていくつか読んでみました。

 まずこの作家の芥川賞受賞作品の「日蝕」と同じ文庫本に収められていたので、第2作目の「一月物語」、他にエッセーで、「私とは何か~個人から文人へ」、さらに短編集の「高瀬川」などを読んでみました。



まるで明治時代の小説

まず「日蝕」を読み始めてびっくり! ひらがなこそ現代のものだが、言葉や漢字などはまるで明治時代のような感じ。 ルビはふってあるが、難読漢字のオンパレード・・・・・・・

 それに何といっても主人公はフラン人で、なお且つ現代人ではなく15世紀!  そして題材もキリスト教、とか錬金術に魔女狩り! 

 つまりちょっと読んだ感じだと、ヨーロッパの古典文学を明治時代の文豪が翻訳したような小説で、 これが20代の日本人が書いたとは到底思えない小説となっています。



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難しそうだが、意外と先に進める

 確かに読みやすい小説ではありませんが、でも読んでいるとなんとなく言葉のリズムみたいのがあったり、言葉の ”カッコよさ” みたいのもあって、意外と先に進みやすいです。

 文体の難しさから比べると、ストーリーのほうはそれほど複雑なものではなく、わりとわかりやすいものになっています。 



奇跡伝説を偽古典的な文体と緻密な情報で装飾

 宗教的な奇跡伝説みたいなものを扱った小説といえますが、錬金術とか両性有具者とか巨人のカップルとか出てきて、オカルト的とも言えます。

 この偽古典的な文体とか、小説の中で語られている神学問題とかは、一種の ”道具立て” ともいえるかも知れませんが、確かにこうしたものがストーリーにリアリティを感じさせているのでしょう。

 「マチネの終りに」とは全く違う文体ですが、恋愛ストーリーにクラシック・ギターという道具を用い、しかもその道具を極めて緻密に描くといったことは共通しているのでしょう。



経験したことのないことを経験したように語れる

 それにしても驚異的な知識量とイメージ力ですね。 普通の日本人には全く縁のなさそうな中世の宗教問題をこれだけ語れるなんて、本当に恐れ入ります。

 また普通、小説は何らかの形で作家の実際の体験を基に空いている場合が多いのですが、平野氏の場合は、全く経験していないことを、あたかも実際に経験しているように書くことが出来るようです。

 芥川賞を受賞した作家はたくさんいる訳ですが、そうした受賞者の中でもひときわ能力の高い人なのでしょう。

 こうした事を考えれば、「マチネの終りに」で、まるでギョウカイ人のようにギターのことを語るなんて、特に不思議なことではないのでしょうね。 

 もっとも平野氏は音楽にはかなり詳しいようで、ギターも実際に弾いたりするようです。



白薩摩?

 「一月物語」は明治30年頃の話で、これもまた現代の小説というより、明治か大正時代の小説のようです。 「日蝕」のほうで、もうこの書き方に驚かなくはなりましたが、主人公の服装を紹介っするところは、

「白薩摩に小倉の袴、流石(さすが)に高下駄は草鞋(わらじ)に穿(は))き替えているが・・・・・」
 
となっています。

 この漢字の使い方を置いておいて、「白薩摩」とか「小倉の袴」なんて知っている20代なんて、ちょっと想像出来ませんね。

 文章を読んだだけでは、作家は明治時代の人か、あるいは相当年齢の高い人にしか思えないでしょう。

 もっとも、普段着物に縁のある人だったら、こうした言葉も日常的に使うのでしょうが、20代(小説を書いた時点で)の平野氏が着物姿で京都の街を歩いていたわけではないでしょう。



夢の中であった女性に恋焦がれ

 この小説も民話を基にしているのかも知れません。  25歳の青年詩人が奈良県の山中でマムシに噛まれて倒れていたところを、山寺の僧に助けられる。

 その青年気が付くと、その僧の庵で看病されている。その庵の別棟には籟病を患った老女がいるので、そこには近づかないようにと言われる。

 しかしその青年が見たものは籟病の老女ではなく、美しく若い女性だった。 そしてその女性は、青年がかねてから夢の中で恋焦がれた女性だった。    ・・・・と言ったようなストーリーです。

 最後には僧やその女性の制止を振り切ってその女性に合う訳ですが、すると青年の姿は消え去り、残されたのは老女の遺体だけとなります。

 確かにストーリーそのものはリアリティのあるものではないのですが、「日蝕」の場合と同じく、偽古典的な文体と精密な描写でストーリーにリアリティを持たせています。



往仙岳って?

 因みに、この小説の舞台となった ”往仙岳” という山を地図で探してみたのですが、見つかりませんでした。

 場所的には奈良県と和歌山県の県境付近のようで、その付近に”行仙岳” という山が地図に記載されているので、山の名前が変わっているのかも知れません。

 このあたりのことはよくわかりませんが、地図で見る限りでは、本当に人里離れてという感じで、こんな話もありそうかな、と言った感じです。
今年の予定


 明けましておめでとうございます。 お正月も、いつの間にか3日になってしましたが、今年の予定を書きます。




1月12日(日) 14:00   所蔵銘器によるコンサート   ギター文化館


 当ブログでも何度か紹介しましたが、ギター文化館所蔵の2本の楽器を用いてのコンサートです。 

 スペインの製作家 Antonio Pages Lopes による1795年製の楽器は、このギター文化館所蔵の楽器のうちで最も古いものです。

 この製作家についてはあまり詳しい情報がないのですが、スペインのカディスにおいて、少なくとも父の代からギター工房を開いていたようです。

 ほとんどの兄弟たちもギター製作に携わっていたようで、ギター製作一族の一員と言えるのでしょう。 
 
 古い楽器なので、修理の跡が多く見られます。



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 もう1本の楽器は1997年、松村雅亘製作のものです。 松村さんはロベルト・ブーシェに学んだ製作家で、この楽器もたいへん深い響きがします。

 松村さんはギター文化館にもしばしば訪れていましたが、2014年に亡くなられました。 私自身としては、この機会に松村さんの楽器を演奏出来てたいへん光栄です。



 演奏曲目 

<アントニオ・パフェス・ロペス>
ガスパル・サンス : パヴァーナ、カナリオス他
フェルナンド・ソル : ラルゴ・マ・ノン・トロッポ、 ソナタハ長調

<松村雅亘>
エイトール・ヴィラ=ロボス : ブラジル民謡組曲、ショールス第1番


入場料は前売り、当日共に1000円です。ぜひふらりと立ち寄っていただければと思います。





4月25日(土) 14:00   中村俊三ギター・リサイタル    ひたちなか市文化会館

 1年前から予定を決めていたので、上の銘器コンサートと日にちが近くなってしました。

 日にちが近いために、かえって同じ曲ではいけないかなと思い、銘器コンサートとは完全に違うプログラムを組みました。

 最近、ひたちなか市文化会館では2回ほど(2015、2016年) 「名曲コンサート」 と言った形で独奏のコンサートを行いましたが、この会場において、本格的なクラシック・ギターのレパートリーによるリサイタルとしては2008年以来となります。

 久々に重厚な内容のリサイタルといったところですね、でも2016年にギター文化館で行った19世紀のギター作品によるリサイタルもかなり重厚なプロでしたが。

 今のところまだ具体的に準備など出来ない状態ですが、来月くらいには印刷物など作ろうと思っています。


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 演奏予定曲は次の通りです。

バッハ : 無伴奏チェロ組曲第3番、シャコンヌ(中村編)
グラナドス : 詩的ワルツ集(全曲、中村編)、 スペイン舞曲第5、10番(リョベット編)
バリオス : ワルツ第4番、クエカ、大聖堂






5月31日(日) 14:00   中村ギター教室発表会   ギター文化館

 今年の発表会はギター文化館で行います。 ステージの大きさの関係上、内容は独奏と二重奏(5,6重奏くらいまでは大丈夫)ということになります。

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7月  (日)    水戸市民音楽会     水戸芸術館

 毎年出演している水戸市民音楽会ですが、日にちはまだ決まっていません。 毎年7月中の日曜日に行われます。






10月31日(土)   第19回水戸ギターアンサンブル演奏会    ひたちなか市文化会館

 隔年に行っている(ひたちなかGMフェスティヴァルと交互に)水戸ギターアンサンブルの演奏会です。 

 今年はこれまで何度か演奏した「カルミナ・ブラーナ」とピアソラのタンゴなどがメインです。 

 宮下祥子さんにもゲスト出演していただいて、私と二重奏をやる予定です(曲目はソルの幻想曲作品54bis)。 


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11月   第3回ICGアンサンブル演奏会    ギター文化館

 今年もICGアンサンブルの演奏会を行うつもりですが、日にちはまだ決まっていません。





それでは皆様、今年も中村俊三、中村ギター教室、水戸ギターアンサンブルをよろしくお願い致します。