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中村俊三 ブログ

中村ギター教室内のレッスン内容や、イベント、また、音楽の雑学などを書いていきます。

水戸攘夷 ~近代日本はかくして創られた  マイケル・ソントン 8
 



水戸学と幕府の終焉



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水戸学の精神は明治憲法にも取り込まれる

 これまで書いてきたとおり、またこの本の副題どおり、水戸学は明治維新を理念上から支えました。 また明治憲法(大日本国憲法)第1条に 「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」 とあるように明治憲法にもその理念が織り込まれています。

 水戸学から始まった尊王攘夷の思想は幕末期に薩摩や長州など全国の武士たちに広まり、倒幕運動へと繋がってゆきます。 また桜田門外の変など、水戸学を学んで育った水戸藩士たちの果敢な行動は全国の志士たちを奮い立たせ、より積極的な行動へと導きます。

 明治維新は水戸学が思想的背景となり、その実行も水戸藩士の行動に触発されたといえ、この本にあるように、まさに明治維新派水戸から起きたと言って過言ではないでしょう。



儒学的思想を日本にあてはめた

 しかし水戸学の創始者ともいえる徳川光圀は倒幕まで考えていたのだろうか? もちろんそんなことはないでしょう。 光圀からすれば、儒学的な発想を日本に当てはめることを意図したものと考えられます。

 儒教では皇帝の地位は天から授かるもの、その ”天” を日本においては脈々と古代から続く天皇家に例え、日本という国は神の時代から天皇によって統治される国で、徳川幕府はその天皇から政権を預かったものとしています。

 これによって徳川家が日本を治める論理的根拠とし、徳川家による支配をより強固なものにするためと考えれます。 また君主は善政を行うことを義務としながら、その上下関係をはっきりさせ、身分制度もゆるぎないものとします。




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水戸駅の近くにある水戸東照宮  徳川家康が祭られている



徳川家は実力で政権を取ったのだが

 もちろん現実では徳川家が政権を担っているは、天皇から依頼されたものではなく、実力、すなわち軍事力によるものです。 朝廷から征夷大将軍を任ぜられたから徳川家が他の大名たちを支配しているのではなく、徳川家が他の大名たちを力で支配したから征夷大将軍となったわけです。

 形の上では幕府の上位に朝廷があるのですが、朝廷や公家の収入は幕府によって管理されていて、実質上は幕府が朝廷を管理していた面もあったでしょう。

 因みに天皇家の石高は3万石、つまり小大名程度だったようです。 ただし必要があれば幕府から献金があったそうです。    ・・・・・このシステムもちょっと裏がありそうですね、幕府に逆らえばお金もらえないとか・・・・・・



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水戸東照宮にはこの急な階段を上がってゆく(もう一つ別の階段もある)



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東照宮の下ある宮下銀座商店街はかつては賑わっていたアーケード街だったが、訪れた時(3月23日)は平日の昼間のせいか、あるいはコロナの影響か、閑散としたシャッター街となっていた。



水戸学は徳川家が政権を担う根拠

 しかし、世の中が平和になってきて武士たちが武芸だけでなく学問なども積極的に行うようになると、幕府の支配もただ武力だけでなく学問的な根拠も必要としたのでしょう。

 そこに現れたのが水戸学ということになるのだと思いますが、そう考えると水戸学が起こる必然性といったものも見えてくるような気がします。 また徳川御三家から起こったということ理解できそうです。

 最終的には幕府を終わらせる役割を果たす水戸学ですが、その時点では幕府にとっても必要なことだったのでしょう。




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旧県庁前の堀の桜  もうすぐ満開になりそう(3月23日撮影)




幕府の力が弱まると

 幕府が安泰な時期には水戸学で 「日本は2500年以上続く(古事記などによれば)代々の天皇によって統治される国」 と論じていても、それはあくまで理念上の問題であって、現実的には徳川幕府が権力の頂点に存在するjことに何ら問題はありませんでした。 というより、むしろ徳川政権を強固にするものでした。

 しかし、幕府も200年以上を経て制度的疲弊も深まり、あちこちほころびも見え始め、各藩への統制が揺るぎだし、さらに徐々に海外からの圧力が強まり、そしてペリー来航ということになります。

 アメリカから強い態度で国交を求められた時、幕府は独断で政策、鎖国の継続か、開国かといった難題を解決することが出来なくなっていました。 

 徳川幕府といっても、それは確固たるものではなく、執行部となる老中たちも、各譜代大名からでており、それに御三家や親藩大名も絡んできて一枚岩という訳ではありません。

 さらに幕末となれば薩摩や長州といった外様大名の発言権も大きくなり、そうした状況からもこうした問題となれば各藩の意見などを無視するわけにはゆかなくなります。



朝廷から勅許を得ようとしたが

 世論は攘夷の方向ですが、ペリーらと接触した幕府の首脳たちはアメリカとの国交を拒否することは出来ない状況であることを認識します。

 そこで、この状況を乗り切るには朝廷から勅許をもらい、それによってそれによって各藩などの異論を抑え込もうと考えるわけです。 

 しかし朝廷からはそれを拒否されます。幕府としては朝廷が ”忖度” して幕府の意に沿う事を期待したと思われますが、朝廷側からは ”足元を見られた” 形となります。

 勅許を得られなかったことにより、幕府はさらに苦しい立場となります、まさに ”やぶへび” だったわけです。



これらの問題により、水戸学は全国に広まる

 彦根藩の井伊直弼を大老として幕府んも独断で日米和親条約を結び、これに反対する勢力を安政の大獄によって弾圧します。 当然朝廷はじめ、各藩などから強く非難の声が上がります。 そしてそれは水戸の過激な武士たちによって井伊大老を暗殺する桜田門外の変に繋がります。

 幕府が開国問題に関して朝廷から勅許を得ようとしたことにより、各藩の大名や、武士たちが改めて日本の国家元首は天皇であり、徳川家は絶対的な存在ではなく、強大ではあるが、基本的には1つの大名に過ぎないといったことを再認識します。 

 そんな中、会沢正志斎や藤田東湖らの著書によって尊王攘夷を基とする水戸学は全国へと浸透してゆきます。 そしていつの間にか、もともとは体制を擁護するための学問だった水戸学が全、く逆に体制を崩壊さえるための論理とすり替わってしまいます。
 


なぜ尊王=攘夷?

 ところで、なぜ尊王は攘夷なのか、なぜ 尊王=攘夷 なのかということは私たちには今一つピンとこないところです。 「日本は国が出来た時から天皇の国であるから天皇を敬うべき」 というこはなんとなくわかりますが、それがなぜ外国を排除することにつながるのか、すぐには理解しにくいところです。

 攘夷の「攘」は打ち払うといった意味で、「夷」は野蛮人といった意味ですが、これは中国から来た考え方で、「攘夷」で野蛮な外国人を打ち払うといった意味になります。

 「尊王」の意味の中には天皇は神の子孫であって、日本は神の子孫によって統治される特別な国といった意味があります。 ゆえに日本以外の国はすべて野蛮人の国といったことになるわけです。 中華思想の日本版といったところですね。



日本版中華思想と、海外からの圧力

 また現実的には徳川幕府はキリスト教の浸透と強く警戒していました。さらに江戸時代中頃からロシア船などの接近が頻繁となり、ロシアに領土、とくに蝦夷地を侵略されるのではないかということも警戒していました。 さらに近隣アジア諸国がヨーロッパ列強から植民地化されている情報も入ってきます。

 これらが結びついて 「尊王攘夷」 となったわけですね。 つまり日本版中華思想と外国からの侵略の危機によって出来上がった考え方ともいえるのでしょう。 水戸藩が蝦夷地の防衛と開拓に常に強い関心があったのもこの流れです。

 また列強国を相手に攘夷を行おうとすれば、これまでのように日本が各藩に分かれていたのでは太刀打ちできない。 どうしても中央集権的な国にしなければならいといった面もあり、攘夷が尊王にフィードバックしてゆくわけです。



結果は攘夷ではなく開国となった
 
 尊王攘夷の思想を背景として起こった明治維新は、確かにこれまであった藩を廃位し日本を天皇を中心とした中央集権的な国家へと生まれ変わらせます。 しかし攘夷ではなく、結果は開国で、しかもかなり積極的に欧米の文化や技術、さらに欧米的な軍隊や国家制度などを受け入れます。

 しかもそのスピードは異常なほどにも思え、”尊王攘夷” ではなく、”尊王開国” ともいえ、完全にねじれ現象が起きています。 では ”攘夷” は完全に捨て去ったのかというと、そうとも言えない点もあります。 

 明治になってから(実際は少し前から)積極的に欧米の文化や技術を導入したのは、あくまで列強国と同等の国力、軍事力を持つためで、いわば方便として国を開いたとも言えます。 そうしたことが後の日清、日露、日中、第二次大戦へと繋がってゆくのでしょう。

 水戸学は確かに日本を中央集権的近代国家に変貌させましたが、おのずと限界はあり、日本が本当に国民主権の民主国家となり、国際協調、平和を重んじる国になるには、まだまだいくつかの段階を経なければならなかったのは私たちのよく知るところです。 

 ・・・・・いや、まだそうした国になっているとは言えないが、そうした理想に向かっている途中段階かな?
 
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水戸維新~近代日本はかくして創られた マイケル・ソントン 7



弘道館戦争



本國寺党

 水戸では1844年以来慶喜の兄の慶篤がその父斉昭の隠居により藩主となっていました。 天狗党の乱(1864年)以降、藩の実権は家老、市川弘美ら諸生党の手に渡ります。 その間、水戸にいた天狗党の家族などを殺害、拘束するなどしたことは前に書きました。



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諸生党のリーダー市川弘美(三左衛門)




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弘道館脇にある古地図  この地図によれば市川弘美の家は今現在水戸駅のすぐ東(この地図では左側)の常磐線の線路上にあったようだ。当時は千波湖を見下ろす場所だったらしい。 水戸では家格が高いほど水戸城の近くに家を持ち、市川家も水戸藩では家格の高い家柄だったことが窺われる。 




 江戸開城となって中央の権力が旧幕府から薩長連合に移ると、1868年(慶応4年)京都にいた水戸藩士(本國寺党という)に諸生党を討伐すべく勅書が出されます。

 武田耕雲斎の孫、武田金次郎などがまず江戸の水戸藩邸を諸生党から奪い返します。 さらに水戸において諸生党、およびその家族などを殺害し、諸生党への復讐を始めます。



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弘道館の正門付近 二の丸方面から




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弘道館の正門



攻守入れ替わる

 天狗党の乱では諸生党が幕府軍を後ろ盾に有利に戦いましたが、今度は天狗党の残党や本國寺党など改革派は朝廷、および新政府軍を味方にし、諸生党を水戸から追い出すことになります。 攻守が入れ替わったわけです。 

 改革派はかつて諸生党が行ったように諸生党の家族や、諸生党に近い人々を殺戮、拘束などを行っています。

 このような情勢で諸生党は水戸を抜け出し、会津にゆき、奥州越列藩同盟軍と共に新政府軍との闘いに加わります。 しかし会津が降伏すると、再び水戸に向かい改革派が守る水戸城を攻めます。 

 かつては諸生党が水戸城に籠り、それを天狗党ら改革派が攻めたのですが、今度は逆に改革派が城を守り、諸生党が城を攻める形になりました。




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復元された大手門  1868年(明治元年)10月1日、門の向こうが二の丸。



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復元された二の丸の塀  かつて復元前の塀越しに銃撃戦が行われたようだ




弘道館と水戸城で銃撃戦

 しかしかつてと同様、三方を険しい崖に囲まれ、北側からしか攻撃できない水戸城を簡単に落とすことは出来ません。 やむを得ず諸生党は三の丸にある弘道館を占拠します。

 1868年(明治元年)10月1日、水戸城と弘道館の間で銃撃戦が行われ、その戦いで正庁や正門などを残して弘道館の多くの建物は消失しました。 その時の銃弾の跡は今でも正門などに残っているそうです。



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弘道館正門の柱の傷。 銃撃戦の跡?




内乱が終わり、水戸藩は茨城県となる

 両軍に多数の死者が出ましたが、諸生党軍は水戸を抜け出し、現在の千葉県方面に逃れますが、そこで多くの諸生党員が打ち取られたり、捕縛の後処刑されたりして、幕末から明治にかけてのあまりにも悲惨だった水戸の内戦が終了します。

 水戸藩は1869年(明治2年)に亡くなった慶篤のあとをついで徳川昭武が藩主となりますが、明治4年の廃藩置県で茨城県となり、明治8年に近隣の県と統合して現在の茨城県となります。

 


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弘道館公園から見る旧茨城県庁舎(現在三の丸庁舎) 当初は弘道館を県庁舎として使っていたが、1930年(昭和5年)にこの県庁舎に移り、1999年には笠原の新庁舎に移る。





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ついでに!   私が毎週火曜日にレッスンで出かけている常陽芸文センター  ここはギレギレでかつての弘道館の外だったようだ。 隣の警察署や図書館などはかつての弘道館の敷地内に建っている。


水戸攘夷 ~近代日本はかくして創られた マイケル・ソントン 6



徳川慶喜 2




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慶喜、第15代将軍となる

 1866年、徳川家茂が21歳の若さで亡くなると、当初は主軍就任を躊躇していたものの、その年に慶喜は第15代徳川幕府将軍となります。 水戸家出身の将軍としては最初で最後で、そして明治までにはあと1年前です。

 それ以前から慶喜は幕政の中心にいましたが、将軍になってからはより積極的に幕政改革を遂行してゆきます。 たいへん短い期間ではありましたが、将軍自ら政策を行ったのは8代将軍吉宗以来のこととなります。



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ナポレオン3世から贈られたという軍服を着た徳川慶喜、ポーズもナポレオン(初代)風。 新しいもの好きは、やはり光圀の血を引いているのか。 まだ一応江戸時代だと思うが、髷もなく見た目はすっかり明治時代。



フランス式の近代国家を目指す

 慶喜は最新式の武器を輸入し、ヨーロッパ式に軍隊を整え、欧米式の軍艦を建造し、また幕府の運営もかつての老中、若年寄といった役職を廃し、ヨーロッパ式の政治機構を取り入れます。 パリ万国博覧会にも弟の昭武を派遣するなど、特にフランスとの関係が深くなってゆきます。



もともと強硬な尊王攘夷派だったはずだが

 父の斉昭同様、もともと強硬な尊王攘夷派だった慶喜ですが、幕政に関与するようになってからは、むしろ積極的に欧米との交流を図ってゆきます。

 これはその時点での日本の状況、そしてその日本を取り巻く世界情勢といったものを現実的に把握した結果なのでしょう。 今は鎖国などが許される状況ではない、外航船の打ち払いなど行えば列強諸国との戦争になり、当時の日本の軍事力では列強に太刀打ちできず、近隣アジア諸国のように欧米列強の植民地になりかねない。

 また鎖国を継続してゆけば欧米との軍事力、経済力、技術産業力の差がますます開いてしまい、遅かれ早かれ日本の独立は脅かされる。 そういったことをはっきりと認識するようになったのでしょう。 



幕藩体制では近代国家に移行できない

 そして、これまでのような幕藩体制では日本を欧米並みの軍事、経済、産業力を持つ近代国家にしてゆくのは困難と考え、日本を天皇を中心とした中央集権的な国家に変えてゆかなければならい。

 こうして考えると、この時点ですでに明治維新は始まっていたとも考えられるでしょう。 慶喜は後に薩長中心の明治政府が行うことを先取りして行ってゆこうとしたわけです。



自らの手で徳川幕府を終わらせた

 つまり慶喜は自らの手で幕藩体制を終焉させようとしたわけです。 戊辰戦争によって徳川幕府が終わったというより、慶喜が将軍になった時点でその ”終り” は始まっていたと言えるでしょう。

 1年後にはじまる戊辰戦争は徳川幕府が終った後の新しい日本のリーダーを決めるための戦いで、保守か改革かといった戦いでもなく、ましてどちらが正義かといった戦いではありえません。 

 まさに ”勝てば官軍” で、勝った方の勢力が天皇を中心とした中央集権国家を作るということになります。 




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近代国家への移行のスピードを速めた

 大局的に見ればどちらが勝っても、その後の日本はそれほど変わらなかったでしょうが、革新のテンポはその結果によって若干違いはあったでしょう。

 仮に慶喜らの旧幕府側が主導権を握った場合(現実に、そうなりそうな状況はあった)、どうしても旧幕府の保守的な勢力を多数残すことになり、史実のような廃藩置県などを速やかに実行出来たかどうかは疑問でしょう。 さらに何度か内乱が起きた可能性も考えられ、近代国家への道のりは、史実よりやや遠かったかもしれません。

 史実では薩長土主体の官軍によって旧幕府の勢力をほぼ駆逐したので、新政府が樹立した段階で政策の妨げになる大きな勢力が一掃され、急激な中央政権化が可能になったのではないかと思います。

 新政府樹立の最大の功労者、西郷隆盛が反旗を翻した西南戦争などが起きましたが、それでも新政府樹立後の反乱は最小限にとどまったともいえるでしょう。

 戊辰戦争の意味は、どちらが正義かというより、どちらが勝った方がより速やかに日本の近代化を進められたかといったことにあるのかもしれません。




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幕末の薩摩藩士  西洋式の軍服に髷に刀といった、戊辰戦争時の服装が見られる。




大阪から船で江戸に逃げ帰る

 慶喜といえば、鳥羽伏見の戦いのさなか、船で大阪から江戸に逃げ帰ったという話が知られています。 江戸の幕臣たちからは、「臆病だ」 と非難ごうごうといったところでした。 慶喜へのそうした評価は今現在でも取沙汰されるようです。 
 
 慶喜のこうした行動は鳥羽伏見の戦いの状況が不利になったこともありますが、やはり最も大きな理由としては薩長連合軍に官軍を意味する”錦の御旗” が掲げられたことにあると言われています。



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薩長軍に授けられた錦の御旗



水戸家代々の教えによって

 慶喜は幼少時から水戸で 「仮に幕府と朝廷が敵味方になった場合、たとえ幕府が倒れようと、天皇に刃を向けてはいけない」 と教えられてきました。 それを実行しただけのこと考えられます。

 それに加えて恐らく慶喜は 「自分こそ最も真摯な尊王派」 と思っていたはずです。 その自分が朝廷から逆賊の扱いを受けた時の精神的な衝撃は大変大きかったのではとも考えれます。

 それならなぜ、その時点で降伏するなり、和議を図るといった行動に出なかったのか、なぜ部下たちには戦闘の継続を命じておきながら、自分だけ密かに江戸にもどったのか、など疑問な点は多くあります。

 後から考えればよりましな対処法もあったのではと思いますが、その時点での慶喜には冷静な判断が出来なかったのかも知れません。  ・・・・自ら身を引いた方が近代国家への近道だと考えたかどうかわかりませんが、少なくとも身を引く方がこれからの日本のためとは考えたのでしょうね。



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戊辰戦争で用いられた銃  スナイドル銃など世界中の銃が輸入されて使われた。 これらは単発だが後装式(元込め式)で、ゲーベール銃などの前装式(先込め式)もまだ使われていた。





明治時代を最後まで見届けて

 江戸開城となり、慶喜は上野寛永寺で謹慎となりますが、のちに水戸に送られます。 水戸に着いた慶喜は幼少時に学んだ弘道館の一室で謹慎生活に入りますが、諸政党と天狗党の残党をふくむ旧改革派との争いが激化する様相を受け、徳川宗家が移封となった駿府(のちに静岡となる)に移ります。

 晩年には東京に移りますが、長い期間その静岡で過ごします。 明治以降の慶喜は政治から一切身を引き、写真、乗馬など様々な趣味の生活に没頭します。 旧幕府関係者が訪ねてきても、渋沢栄一など一部の人を除いてほとんど会うことはなかったと言われます、


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晩年の徳川慶喜



 慶喜は明治時代を最後まで見届け、1913年、大正2年にその生涯を閉じます。

 

水戸攘夷 ~近代日本はかくして創られた マイケル・ソントン 5




天狗党の乱
 

 
筑波山で挙兵

 1864年3月、藤田東湖の4男、小四郎らの水戸藩檄派は横浜港の鎖港など尊王攘夷を強行するため、筑波山で挙兵しました。 彼らは天狗党と呼ばれるようになります。

 天狗党は当初は数十名程度でしたが、徐々に浪士や農民なども加わり、最大時には1400名にもなったようです。



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栃木宿などで軍資金を要求し、渋ると放火、殺人

 天狗党の一団は日光東照宮を目指しますが、各藩兵などに阻止され、現在栃木市の太平山にしばらく滞在します。 その後付近の村や宿場などに軍資金を要求し。拒否すると放火や殺人などを犯すようになります。

 特に栃木宿では天狗党によって大変大きな被害を受けたとされています。 因みに私は現在は栃木市内となっている都賀町の出身です。



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栃木市内を流れる巴波川   栃木市はかつて江戸への水運で栄えた。この写真の少し上流には私が通った栃木高校がある。天狗党には高額の軍資金を要求されたそうだが、それだけ当時この町が豊だったということか。



天狗党に加わった藩士などの家族を殺害

 天狗党蜂起の当初は天狗党に共感をもつ幕閣もいて、積極的な対策は取られませんでしたが、天狗党が暴徒化するに至り、下野、常陸の諸藩に天狗党追悼の命令を出し、幕府軍も出動することになります。

 水戸では激派の天狗党と対立する弘道館書生および門閥派、尊王攘夷鎮派などが諸生党を結成し、水戸での実権を握り、また江戸の水戸藩邸も手中に収めます。

 諸生党は下妻付近での天狗党との戦いで敗れると水戸に帰還し、水戸市内で天狗党に加わった激派の家族などを襲い、放火や拘束、殺人などを行います。

 それを知った藤田小四郎などの水戸藩激派は水戸に戻り、諸生党が籠る水戸城を攻撃しますが、成功せず那珂湊に退却します。



宍戸藩主、松平頼徳は調停に向かったはずが

 江戸では水戸藩主慶篤の名代としてが調停のために水戸に向かうが、途中で激派の多くが加わり、諸生党や幕府から天狗党と同一視され、水戸城外で戦闘となります。 

 結果的にはその意思に反して慶徳と宍戸藩士たちは天狗党ら激派とともに諸生党および諸藩兵、幕府軍と、大洗、那珂湊などで戦うことになってしました。

 その戦いに負けた頼徳とその藩士約1000人は幕府軍に投降しますが、頼徳および数十名の藩士は切腹など死罪となっています。 なんと言っていいかわかりませんが、あまりにも悲しい頼徳たちですね。
 


大子から京都に向かう

 一方、生き残りの天狗党約1000名は一時大子に集まり、そのからさらに一橋慶喜に会うために京都に向かいました。 慶喜はこの時まだ将軍ではなく、禁裏守衛総督として京都におり、京都における幕府の代表的な職に就いていた頃です。

 藤田小四郎、武田耕雲斎らは慶喜であれば自分たちのことを理解してくれるに違いないということで京都に向かったと思われますが、その時点での慶喜は幕府の中枢を担っていました。 天狗党のような暴徒化した集団を庇うことは当然出来ない立場にありました。



余りにも無残な事件

 慶喜は敦賀で投降した天狗党の処分を田沼意尊に任せましたが、結果的には800余名のうち300余名が死罪となって、天狗党の乱は終わりました。 凄惨を極めたこの事件は、後から見れば誰も利することのない、あまりにも無意味な事件ともいえるでしょう。
水戸維新~近代日本はかくして創られた マイケル・ソントン 4


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徳川慶喜(よしのぶ)



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洋服を着た慶喜



水戸で文武両道に精進した

 第15代将軍の徳川慶喜は9代目水戸藩主斉昭の7男で(斉昭には22人の息子がいた)、1837年(天保8年)に江戸に生まれました。

 斉昭は息子の教育のためには江戸ではなく水戸ほうが良いと考え、生まれてすぐにその7男、七郎麿(のちの慶喜)を水戸に送り、会沢正志斎はじめ、弘道館の教授たちにその教育を任せます。 学問のみではなく武術の鍛錬も積み、少年時の慶喜はどちらかと言えば馬術は弓道などの方が好んだようです。

 江戸末期の将軍や大名と言えば、なんとなくひ弱な感じがありますが、光圀、斉昭、慶喜らは文武ともに優れ、まさに質実剛健を地で言っていたようです。もちろん家臣たちへの学問および武術の鍛錬にも力を入れていました。




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和服の慶喜 大政奉還の頃の写真 慶喜の写真はたくさんあるようだ。 後年は自分でも趣味で写真を撮っていた。



御三卿の一橋家の養子に

 慶喜は幼名七郎麿から松平昭致(あきむね ~御三家でも嫡子以外は松平性)と改称し、その聡明さは時の将軍、12代目家慶(いえよし)にも届き、家慶の強い要望で10歳の時に御三卿の一橋家に養子に出されます。

 昭致は将軍家慶から「慶」の字をもらい、ここに「徳川慶喜」が誕生することになります。 ただし当時は一橋家の当主ということで、「一橋慶喜」と称されていたようです。

 斉昭としては藩主を継ぐべき長男(慶篤)が何かあった時のために慶喜を手元に置いておきたかったようですが、いずれは将軍といったことであれば拒否する理由はなかったでしょう。




将軍候補となるが

 1853年に家慶が亡くなり、その子の家定が将軍職に就きました。 しかし家定は病弱ですぐにその後継者選びが始まります。 譜代大名や旗本などの陣営では紀州藩の慶福を押しますが、水戸家をはじめ尾張徳川家や薩摩藩、土佐藩などの雄藩大名たち、さらには水戸家とも近い朝廷は一橋家の慶喜を立てます。

 慶福は御三家の紀州の生まれですが、ただ歳はまだ7歳で、この動乱期の将軍としては慶喜の方がふさわしいとも思われますが、譜代大名を中心とした幕府中枢にとっては、強硬な尊王攘夷派の慶喜はいろいろとうるさい存在で、敬遠されたのでしょう。 

 それに対して薩摩、土佐などの雄藩では、慶喜が天皇中心を中心とした雄藩連合政権を目指すのではないかという期待から慶喜を推したのでしょう。

 家定が1858年に亡くなると家定の遺言によって紀州家の慶福が徳川家茂として第14将軍となります。



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徳川家茂 こちらは写真ではなく肖像画



幕末の勢力関係は複雑

 幕末の勢力相関図は大変複雑で、どことどこ仲間で、誰と誰が敵対しているかなど、目まぐるしく変わるのですが、この時点では譜代大名(老中などを出す)と旗本 VS 外様大名と朝廷、それに水戸藩、 といった構図のようです。

 最終的には慶喜と薩摩は敵対関係になるのですが、この時期はまだ協調関係にあり、逆にのちに慶喜の家臣となるべき譜代大名や、旗本たちと慶喜はむしろ相反する勢力とも言えました。



桜田門外の変

 さらには、薩摩や長州、土佐の藩士たちが水戸学に傾倒し、尊王攘夷派となるわけですが、水戸藩士は薩摩藩の藩士とも連絡を取りながら1860年(安政7年)、日米通商条約締結を推進した大老井伊直弼を殺害する「桜田門外の変」を起こします。

 この桜田門外の変には水戸藩士(脱藩しているが)17名に薩摩藩士1名が加わっています。そrだけ水戸藩と薩摩藩は藩主レヴェルでも、また藩士レヴェルでも近かったわけです。

 水戸藩士はこの桜田門外の変以外に1861年(文久元年)に東禅寺英国公使館襲撃、1862年(文久2年)坂下門外の変などを起こし、ますますその過激さを増してゆきます。 ただしこの二つの事件は桜田門外の変によって幕府の警戒も強くなり、結果は失敗に終わっています。



将軍後見役として

 将軍後継争いには負けた形の慶喜ですが、この混乱した状況においては絶対必要な人材ということで、1862年には将軍後見役として年少の家茂に代わり幕府の実質上の責任者となります。

 1860年に父斉昭が亡くなりましたが、1862年にはその父に代わって、あるいは父親以上に慶喜が幕政に大きくかかわってゆくことになります。

 この時期の慶喜は京都で朝廷との折衝が主な任務となり、1864年には禁裏御守衛総督に役に就きます。 さて、そんな中お膝元ともいえる水戸藩内、およびその周辺で一大事件が起こります。


水戸維新~近代日本はかくして創られた マイケル・ソントン 3



徳川斉昭(なりあき)



改革派に推されて藩主に

 水戸徳川家第9代当主、徳川斉昭は第7代治紀(はるとし)の三男で、第8代斉脩(なりのぶ)の弟です。 斉昭は江戸の小石川水戸藩邸で生まれ、藩主になるまでほぼ江戸で過ごしたようです。

 水戸家は長年保守的な上級家臣などによる 「門閥派」 と下級武士を中心とした 「改革派」 に分かれて派閥争いをしていました。 改革派には武士だけでなく神官や農民、町人などの武士以外人々も含まれていました。



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この橋を渡ると水戸一高となるが、かつては水戸城の本丸があった。



改革派と門閥派の対立

 藩主であった兄の斉脩の病気が重くなった時、門閥派は第9代藩主として第11代将軍家斉の男子を養子に迎える動きをしますが、藤田東湖らの改革派は水戸家の血を継ぐ斉昭が藩主にふさわしいと、門閥派と対立します。

 最終的には斉脩の遺言により、斉昭に決まるわけですが、斉昭はこれによって自然と東湖らの改革派との距離は近くなりますが、その一方で門閥派との溝は深まります。 水戸家の藩主は常にこの両者のバランスに苦労していたようです。


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水戸徳川家9代目藩主 斉昭(1800~1860)



藩政改革

 1829年に藩主となると、斉昭は藤田東湖、会沢正志斎ら改革派の藩士を要職に就け、藩政改革に乗り出しました。 

 飢饉対策や、武士たちの武芸の鍛錬、そして藩校、弘道館を建て藩士らの教育を徹底することを企画します。 さらに外国からの侵略に備えての武器の近代化などを進めてゆきます。

 斉昭は武士たちが米が食べられるのは農民たちのおかげであるから、常に農民たちを尊敬せよと説き、子供たちにも農人形を作って与えたと言われています。 




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水戸偕楽園(Wikipediaより)



弘道館と偕楽園

 我が国の3大公園の一つである偕楽園は、斉昭が弘道館と対で作ったものですが、弘道館で勉強して緊張した心を偕楽園で癒すためのものと位置付けられています。

 通常このような庭園は藩主、あるいは武士階級のために作られるのですが、偕楽園はその身分にかかわらず誰でもが楽しめる場として作られていて、 斉昭は常に農民たちに寄り添う姿勢を示しています。

 いずれにしても、現在水戸の観光の二つの大きな目玉、偕楽園と弘道館は斉昭によって作られました。




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弘道館公園の梅林  今が見ごろ(3月9日撮影)





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弘道館公園から旧県庁庁舎を望む。旧県庁もかつての弘道館の敷地内に建てられた。





一時期幕政、藩政から遠ざけられるが

 光圀以来、水戸藩は蝦夷地への関心が高かったのですが、斉昭はロシアからの脅威に備えるためと、水戸藩の財政改善のために蝦夷地の開発を計画しますが、当初は幕府に受け入れられず、実際に幕府が経営に乗り出すのは1855年(安政2年)なってからでした。

 斉昭は1844年に大砲鋳造や無断築城(弘道館)などの理由で幕府から蟄居を言い渡されますが。これらはただの口実で、実際は強硬な改革派の斉昭を幕政や藩政から遠ざけるために、反改革派の幕府首脳が行ったことのようです。

 しかし外国からの侵略の危機がより迫ってきて、その任を遂行できるのは斉昭しかいないということで、1853年には海防参与に任ぜられ、国防の実質的な責任者となりました、ペリー来航の年です。

 幕府の中枢としては常に強硬意見を突き付ける斉昭を疎ましくは思っていたのでしょうが、非常事態となれば斉昭の力はぜひ必要と考えたのでしょう。


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今は県庁堀ともいわれるが、弘道館の堀と土塁。これが無断築城とみなされたようだ。 弘道館は水戸城に比べてもかなり広い敷地があり、このように堀と土塁がめぐらされていた。水戸城の防御のためも考慮されていたのかもしれない。 因みにこの写真手前に常陽藝文センターがあり、私はそこで毎週火曜日にレッスンを行っている。



水戸黄門のモデルは光圀ではなく斉昭?

 人々も国防において斉昭への信頼度は高く、文字どおり ”天下の副将軍” ”幕府のご意見番” と言った認識があったようです。 ドラマの水戸黄門のイメージの中には、光圀ではなく、この斉昭のキャラクターもだいぶ入っているのではないかと思います。

 斉昭は諸国とまでは行きませんが、領内の村々の様子なども見てまわったようですし、常に農民たちを気遣い、江戸時代最大の飢饉である天保の飢饉の際にも領内から餓死者を出さず(ただし藩の報告による)、一揆も起こらなかったと言われています。

 農民たちも斉昭を敬愛し、斉昭に蟄居処分が出された時には幕府に赦免を願い出るため、大挙して江戸に向かう動きなどもしています。




桜田門外の変

 幕政に復帰してから当面は高い評価を得た斉昭でしたが、蟄居中に藩政をわが物にしていた門閥派の粛清を行ったり、またわが子慶喜の将軍就任に過剰な働きかけを行うなど、その評価にも陰りが見え始め、さらに比較的良好な関係にあった老中阿部正弘の死などもあって、その立場は微妙なものになってきました。

 そして井伊直弼による日米通商条約終結に強硬に抗議したことなどで、再び幕政から遠ざけられ、さらに安政の大獄で水戸において永蟄居となります。

 そして1860年(安政7年)水戸藩士によって大老井伊直弼を殺害する桜田門の変が起こり、その年に斉昭はこの世を去っています。

水戸維新 近代日本はかくして創られた マイケル・ソントン 2



立原翠軒(たちはらすいけん)



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立原翆軒


父は彰考館に勤める下級藩士

 この本で書かれている二人目は立原翠軒という人物です。 翠軒は1744年(延享元年)に生まれましたが、幼少期から学問の才に優れ、彰考館に勤める父(蘭渓)もその学問への道を最大限後押ししました。

 翠軒は1763年(宝暦13年)に父も勤めていた彰考館に勤務するようになりました。 彰考館は光圀が始めた大日本史の編纂事業を行う部署で、水戸と江戸にありました。 



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水戸彰考館跡  現在は水戸2中となっている



藩主の侍講になり、藩政改革にも関与

 次第に翠軒はその能力が評価され、徐々に重い役に任じられるようになり、1783年、39歳で藩主の家庭教師兼相談役ともいえる侍講にまで昇進し、以後15年間その役職に就いていました。 

 水戸藩では下級武士、あるいは士分以外でも能力が高ければがあれば重用する風潮があり、翆軒のように下級武士などから藩の重責を担う地位に就くことは珍しくなかったようです。

 翆軒は儒学の他、荻生徂徠などの著書も熟読し、道徳だけでなく、実践的な学問にも大変興味が深かったようで、そぼことが藩の改革にもつながってゆきます。



人口減に歯止め

 この時代の水戸藩は財政難もさらに悪化し、水戸城下、および領内の人口も光圀の時代からはだいぶ減少していたようです。 その減少の主な原因は”間引き”によるもので、翆軒は藩主などともに対策に乗り出し、一定の成果を上げています。

 また翆軒は田沼意次を幕政から排除し、寛政の改革をおこなった松平定信を幕府の中枢に据えたことにも少なからず関与したそうです。 

 表向きは藩主の治保(はるやす)が御三家の尾張藩や紀州藩と共に働きかけたのですが、治保に定信を強く推したのは翆軒だそうです。



藤田東湖の父幽谷は翆軒の弟子


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藤田幽谷



 藤田東湖の父である藤田幽谷(ゆうこく)は10歳の時に翆軒の門下入りました。 翆軒はその能力の高さを認め、彰考館に勤めさせます。 幽谷も武士の生まれではありませんが、18歳では士分に取り立てられています。

 幽谷も彰考館総裁となりますが、純粋主義的な考えは次第に穏健派ともいえる師の翆軒と対立するようになり、両者の死後はそれぞれの弟子たちが派閥争いをするようになりました。






会沢正志斎(あいざわしょうしさい)



幽谷の弟子

 会沢正志斎は1782年に水戸で武家の子として生まれましたが、祖父の代までは士分ではありませんでした。 もともと武士の家系でなかったことは立原翆軒、藤田幽谷などと同じで、こうしたことからも水戸藩では家格よりも能力を重んじたことが窺われます。

 家が近かったこともあって、藤田幽谷のもとで儒学を学びました。 17歳で彰考館に入り、以後大日本史の編纂に携わるようになります。



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会沢正志斎



新論

 この頃になるとロシアやアメリカなど諸外国の船が日本近海に現れるようになり、外国からの侵略が懸念されるようになりました。

 1825年に著した「新論」は、「外国の脅威から国を守るために、士民一体となり、天皇を中心として一丸とならなければならい」 といったことが檄文調で書かれていて、まさに「尊王攘夷」思想のバイブルともいえる著書です。




吉田松陰は水戸の会沢を訪ねる

 幕府を否定することにもつながりかねないこの書を世に出すことの危険さを感じた当時の藩主の斉脩(なりのぶ)により、出版は止められたものの、写本によって全国に広まり、多くの武士たちに大きな影響を与えました。 また会沢に学ぶために多くの志士たちが水戸を訪れるようになったと言われています。

 会沢に心酔した人としては長州の吉田松陰がおり、松陰も水戸の会沢のもとを訪れています。 そして長州に戻った後は松下村塾で明治維新の立役者たる高杉晋作、久坂玄瑞、木戸孝允、伊藤博文たちに会沢や藤田東湖らの水戸学の教えを説いています。




後年は穏健派に

 新論には確かに過激な思想が含まれ、改革派と呼ばれる人々を過激な行動に走らせるようになるのですが、会沢は晩年には藩の要職に就いたこともあってか、そうした改革派の過激な行動とは距離を置くようになります。 そうした会沢の態度は改革派からすれば裏切りと捉えられるようになったようです。







藤田東湖

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藤田東湖  生まれた家が千波湖の東だったのでこの号になったらしいが、他にもたくさん名前があった。



父親譲りの純粋さと頑固さ

 藤田東湖は1806年に水戸城下で生まれました、父は前述の幽谷です。 父が学者だった関係から幼いころから学問に励みました。その能力も父親譲りだったようです。

 純粋で過激、頑固なところも父親譲りだったようで、自説を曲げることはなく、また上司だろうとなんだろうと、相手の地位に関係なく相手に非があれば臆せず攻撃するような性格だったそうです。 




藩主斉昭と共に藩政改革に従事した

 東湖は学者というだけでなく行動力にも目を見張るものがあり、斉昭を9代目藩主に据えたことにも大きな役割を果たしました。 斉昭も東湖を信頼し、自らの側近としました。

 そして斉昭と一体となって藩政改革に従事し、領内の検知、行政改革などを行い、藩主の命により水戸藩校である弘道館建設をおこなっています。



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水戸弘道館本庁舎



西郷隆盛も

 1844~1852(弘化元年~嘉永5年)には幕府から謹慎処分を蟄居中に 「正気の歌」、「弘道館記述義」、「常陸帯」、「回天詩史」 などの著作を書き、これらは会沢の 「新論」 同様に全国の志士たちに読まれ、明治維新を論理的に支える著作となります。

 東湖は1855年(安政2年)の安政の大地震で、志半ばにしてな亡くなりましたが、前述のとおり、多くの幕末の志士たちに大きな影響を与え、明治維新の立役者の一人、西郷隆盛も江戸で東湖に会い、教えを請いています。
水戸維新 ~近代日本はかくして創られた  マイケル・ソントン




久しぶりに本屋さん

 ちょっと前、女房と水戸市内原のイオン・モールに行きました。

 待ち合わせの関係で3階の書店で時間をつぶすことにしました。 最近は本もネットで購入するようになって、こうして本屋さんに行くのも久々です。 やはり、なんとなくいいですね、本屋さんって。

 入ってすぐのところにある新刊書のコーナーを見ると、黒地に白抜きの 「水戸」 という文字が目に入りました。 さらに「維新」 「尊攘」、水戸の歴史に関する本のようです、さらにその文字の下の方には外人さんらしき写真。 「あれ? これ外人さんが書いたのかな?」 とちょっと手に取ってみました。 



なんで外人さんが水戸の歴史?

 「なんで水戸の歴史を外人さんが?」 と思いつつ、とりあえず著者の紹介などを読むと、著者はマイケル・ソントンという人で、神戸市に生まれ、18歳まで神戸に住み、その後アメリカのハーバード大学、イェール大学、北海道大学などで歴史をび、今現在はイェール大学で教鞭をとっているとのことです。

 「なるほど、そうだろうな、そうじゃなければ日本の歴史なんて書けないよな」 と思いつつも水戸生まれでも、水戸に住んでいるわけでもないのに、なんで水戸の歴史なんてを書くんだろう・・・・  と気になったので、他の本などと合わせて買って帰りました。



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徳川光圀、 徳川斉昭、 徳川慶喜、 立原翆軒、 会沢正志才斎、 藤田東湖

 家に帰って早速読んでみると、水戸学に関わる6人の人物、 徳川光圀、徳川斉昭、徳川慶喜、立原翆軒、会沢正志才斎、藤田東湖について書かれた本のようですです。

 お恥ずかしながら、3人の水戸徳川家の藩主については名前程度知っていましたが、他の3人、特に立原翆軒と会沢正志斎は初めて聞く名前で、藤田東湖は名前だけ聞いたことがあるような、もちろんどんな人かは全く知りませんでした。

 その前に「水戸学」というのも、水戸光圀の「大日本史」に関係あるのかな、といった程度しか知らず、その大日本史の編纂に関わった学者たちを「水戸学派」と呼ぶことは、この本を読んで知りました。

 最初は外人さんに水戸の歴史を教わるのも妙な気がしましたが、読み始めるとそんなことはどこかに行き、これまでよく知らなかった水戸藩のことや、水戸学と明治維新の関係、また大荒れに荒れた明治維新前後の水戸の様子などが書かれ、たいへん興味深く読み進められました。




水戸藩は徳川御三家の一つだが

 水戸徳川家は、たくさんいた家康の息子たちの中でも末っ子(11男)の頼房が初代藩主となり、 ”徳川御三家” の一つと呼ばれていた・・・・・なんて話は皆さんご存じですね。 2代目藩主は水戸黄門でおなじみの光圀です。

 水戸藩は 「副将軍」 などと言われることもあり、将軍家に次ぐ地位ともされるのですが、徳川御三家の中では最も格下で、石高も50万石を超える尾張や紀州藩に比べると、ちょっと少ない35万石でした。

 もっとも、水戸藩には宍戸、府中(常陸)、高松(讃岐)、守山(陸奥)にも支藩があり、それらを含めれば40万石以上にはなるようです。




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復元された水戸城大手門



水戸家からは将軍が出ないことに

 しかし尾張家や紀州家と違って水戸家は御三家でありながらも、基本的に将軍は出さないということになっていたようで、いろいろな意味で他の御三家とは差があったようです。

 15代将軍慶喜は水戸家から将軍になりましたが、これは慶喜が徳川御三卿の一橋家の養子になっていたためで、建前上は一橋家から出た将軍ということになります。

 結果的に御三家筆頭の尾張藩からは将軍は出ませんでしたが、 紀州藩からはご存じ8代吉宗が出ています。 その後の将軍は15代慶喜を除いて、すべて紀州家の血筋ということになります。




さばを読んで35万石

 しかしこの水戸徳川35万石も ”さばを読んで” ということで、実際は28万石程度だったようです。 この石高というのは自己申告的なところもあって、種々の負担軽減のため、実際の石高より少なく申告している藩(薩摩藩など)もあれば、見栄を張って実際よりも多く申告する藩もあったようです。

 その”見栄っ張り”の代表がこの水戸藩で、御三家ということで参勤交代他、いろいろ優遇されていた点もありますが、やはり表向きの石高が多いと、それだけ出費も多くなるようです。

 特に江戸では何か所も藩邸を置き、藩士の数もそれだけ多く(これも見栄のため?)、したがって人件費も膨大になります。 その他、藩の収入のかなりの部分は人件費と ”家格のため” つまり見栄のために使われていたようです。

 


”武士は食わねど高楊枝” を地で行く

 江戸の数か所の藩邸には2000人ほどの家臣いて、水戸城下と合わせると家臣の数は5000人くらいになったようですが、その家族や使用人なども合わせると3万人以上になるようです。

 水戸藩は現在のほぼ茨城県の北半分と言ったところで、当時の人口は多い時で30万人くらいだったようです。  つまり農民および町人10人で1人の武士、またはその家族を養っていたことになりますね。

 例えれば今現在の水戸市の人口30万(本当はもっと少ないかな)のうち、公務員が3万人いるようなものですね。

 これでは当然やってゆけず、常に藩財政は火の車で、たびたび家臣への給料も減額されていようです。 家臣の多くは武士とはいえ、その俸給だけでは生活してゆけず、何らかの副業、あるいは内職などをやっていたようです。

 貧しいのに、格式にだけにはこだわる、「武士は食わねど高楊枝」 を地で行ったのが水戸藩だったようですね。




”かぶきもの” だった光圀

 さて、水戸と言えば水戸黄門! 最近地上波では放送されなくなりましたが、時代劇の定番中の定番ですね。

 その水戸黄門、つまり徳川光圀はテレビ・ドラマとは違って諸国漫遊などしなかった、ということは皆さんもご存じと思います。 ただドラマに主人公になってもおかしくないほど個性的、あるいは行動的な人物だったようです。

 光圀は正妻の子でも、また長男でもなかったのですが、いろいろあって1661年(寛文元年)2代目藩主となります。 若い頃はかなりやんちゃで、当時の言葉からすると相当な ”かぶきもの” だったそうです。

 


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徳川光圀  若い頃は”かぶきもの”だったがのちに心を入れ替え朱子学を学び、大日本史の編纂事業に着手




心を入れ替えて朱子学などを学ぶ

 しかし途中から心を入れ替え、儒学や歴史などを熱心に学ぶようになったそうです。 光圀が学んだ朱子学(儒教の新しい体系)は自らの統治にも反映し、また大日本史編纂事業にもつながってゆくようです。

 大日本史は古事記や日本書紀などをもとに天皇を中心とした日本の歴史をまとめるという大事業なのですが、光圀の存命中には完成せず、その後何代にもわたって水戸藩で継続され、完成したのが、なんと明治39年、1906年だそうです。 

 大日本史は神武天皇から南北朝の統一(1392年)までが書かれているそうです。



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大日本史  弘道館所蔵



考えようによってはキケンな思想だが

 それにしても、徳川政権の真っ盛り(17世紀後半)に、幕府の中枢に非常に近い人物が、この日本という国は ”万世一系の皇統”  つまり天皇を中心とした国であるといったことを唱えたわけです。

 考えようによっては倒幕にもつながりかねない思想なのですが、当時は特にそれほど問題にはならなかったようですね、それだけ当時の幕府には余裕があったのでしょうか。 しかし最終的はご存じのとおりこの思想は幕府の終焉に導くわけです。

 


ただの ”人のいいおじいさん” ではなかった

 隠居してからの話ですが、光圀は小石川藩邸に幕府のの老中たちを招いて行われた能公演の際、楽屋で重臣の一人を自らの刀で切り捨てたことがあるようです。

 その理由はあまりはっきりしていないようですが、光圀はドラマのキャラクターのような ”人のいいおじいさん” でも、また、ただの学者肌の殿様でもなかったようですね。 こうした人物はいろいろな側面を持っていたのでしょう。
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ポジション移動のトレーニング+これまでのまとめ



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親指はなるべく右

 これまでのまとめとして、ポジション移動のトレーニングを行いましょう。 たいへん簡単なものですが、トレーニングはなるべく簡単なものの方がいいです。

 しかし譜面が簡単だからといって、トレーニング内容も簡単というわけでもありませんので、これまで書いたことを一つ一つ考えながら練習してください。。

 まず、最初の「ファ」を押さえる時、親指はなるべく右、3フレットの裏側くらいがいいでしょう。 正確な位置をく軽く押さえるということでしたね。



薬指は拡げてから押さえる

 「ソ」を押さえる時は事前みなるべく指を拡げて、薬指が3フレットの真上にあるようにし、そこからゆっくりと真下に向かって押さえます。 右手の弾弦とのタイミングも合わせてください。



人差し指は弦に触れたまま、右手の弾弦とタイミングを合わせる

 次にポジションですが、人差し指は弦に触れた状態で、親指はネックから離して移動してください。 移動中は左手の形が変わらないようにします。 

 よく指盤上の指(人差し指~小指)だけ先に移動して、裏側の親指が取り残されるような移動する人がいますが、移動中でも”親指は薬指の裏側” にあるようにしてください。

 ポジション移動と右手の弾弦のタイミングを合わせることにも注意してください。 また移動時にヘッドが上下に揺れないようにしてください。



薬指は7フレットの真上に

 移動中、左手の形が変わらなければ、ポジション移動して人差し指が5フレットを押さえた場合、薬指は7フレットの真上にあるはずです(1cmいくらい上)。 もし薬指が7フレットから遠い位置にあるとすれば、何か問題があるということになります。

 薬指が7フレットの真上にあれば、あとはゆっくり押さえて、薬指が弦に触れたら弾弦します。 左手の形が正しければ小指は8フレット(ド)の真上にあるはずで、同様にドを押さえて弾きます。



筋力で持ち上げない

 次は小指を離して「シ」を弾きますが、小指を離す動作は前に言いました通り、筋力で上に持ち上げるのではなく、押さえている力を抜くだけです。 同様に薬指を離して「ラ」を弾きます。



下がる場合も人差し指は弦から離さない

 そして下りのポジション移動となります。 上行の時と同じく人差し指は弦に触れたま1フレットの「ファ」まで移動します。 同時に薬指で3フレットの「ソ」を押さえ、タイミングがずれないように右手で弾きます。 ちょっと難しいようですが、これまでのことが出来ていいれば、それほど問題なく出来ると思います。



自分の指がどのように動いているか認識する

 以下同様に繰り返しますが、大事なのは自分の指がどのように動いていいるか認識しながら練習します。 出来るだけ集中してなんとなく繰り返さないようにします。

 頭では何も考えずに指だけで練習すると、かえって指と頭の連携を損なうことになり、自分の指がコントロールできなくなることにもつながります。






もっと楽にポジション移動!


休符で移動

 これまでポジション移動の練習をしてきましたが、ポジション移動するのはやはり簡単ではなく、音が切れるなど、いろいろトラブルが発生すしやすいのは間違いありません。

 そこで、ではもっと楽にポジション移動できないかということですが、実はいろいろあります。 まずは休符の時です、休符があればゆっくり移動しても大丈夫で、押さえ損ないも少なくなるでしょうし、また消音にもなります(他の弦の共鳴を消音しないといけない場合もあるが)。 これは一挙両得! 楽ですね。

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休符のところで移動するは最も都合がよい。左指を弦から離す、あるいは押さえている力を緩めることで消音にもなるが、他の弦が共鳴する場合はその弦も消音しないといけない(全部の弦を消音する方が無難)。 






長い音符で移動

 また休符ではないが、長い音符のところで移動するのもいいでしょう。 長い音符であれば、ほんの少し音が切れても大丈夫ですが、あまり早いタイミングで移動を始めると、音が切れた感じがするので、よく聞いて移動のタイミングを計ってください。。

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長い音符の場合だと多少は音が切れても大丈夫だが、よく聞いて切れた感じがしないタイミングで移動。この場合でも人差し指は弦から離さず、触れた状態で移動(3~4小節は別)。





開放弦で移動

 また開放弦の時に移動するという手もあります。 実際に曲ではよく使われる方法です。 この場合、開放弦を弾くと同時に左手を移動するのがポイントです(次の音を弾く時に移動したのでは遅い!)

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開放弦を弾くと同時に移動





そもそもポジション移動しないほうが!

 そもそも最初からポジション移動しないで弾ければその方が良いでしょう。 次の場合はちょっとだけ移動しますが、すぐ隣なのでトラブルは少ないでしょう。

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途中でP.9からP.10に移動する。この場合は親指は動かさない方法もあるが、私は移動している。



 上のような場合は単音なのでポジション移動を少なくしたり、場合によっては全く行わないこともできますが、実際の独奏曲では和音や低音の関係からやはりポジション移動は必要になることが多いです。 ですからやはりポジション移動のトレーニングは必要です。 

 ポジション移動にグリサンドを絡めることもありますが、これについてはまた後でお話ししましょう。