水戸攘夷 ~近代日本はかくして創られた マイケル・ソントン 8
水戸学と幕府の終焉

水戸学の精神は明治憲法にも取り込まれる
これまで書いてきたとおり、またこの本の副題どおり、水戸学は明治維新を理念上から支えました。 また明治憲法(大日本国憲法)第1条に 「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」 とあるように明治憲法にもその理念が織り込まれています。
水戸学から始まった尊王攘夷の思想は幕末期に薩摩や長州など全国の武士たちに広まり、倒幕運動へと繋がってゆきます。 また桜田門外の変など、水戸学を学んで育った水戸藩士たちの果敢な行動は全国の志士たちを奮い立たせ、より積極的な行動へと導きます。
明治維新は水戸学が思想的背景となり、その実行も水戸藩士の行動に触発されたといえ、この本にあるように、まさに明治維新派水戸から起きたと言って過言ではないでしょう。
儒学的思想を日本にあてはめた
しかし水戸学の創始者ともいえる徳川光圀は倒幕まで考えていたのだろうか? もちろんそんなことはないでしょう。 光圀からすれば、儒学的な発想を日本に当てはめることを意図したものと考えられます。
儒教では皇帝の地位は天から授かるもの、その ”天” を日本においては脈々と古代から続く天皇家に例え、日本という国は神の時代から天皇によって統治される国で、徳川幕府はその天皇から政権を預かったものとしています。
これによって徳川家が日本を治める論理的根拠とし、徳川家による支配をより強固なものにするためと考えれます。 また君主は善政を行うことを義務としながら、その上下関係をはっきりさせ、身分制度もゆるぎないものとします。

水戸駅の近くにある水戸東照宮 徳川家康が祭られている
徳川家は実力で政権を取ったのだが
もちろん現実では徳川家が政権を担っているは、天皇から依頼されたものではなく、実力、すなわち軍事力によるものです。 朝廷から征夷大将軍を任ぜられたから徳川家が他の大名たちを支配しているのではなく、徳川家が他の大名たちを力で支配したから征夷大将軍となったわけです。
形の上では幕府の上位に朝廷があるのですが、朝廷や公家の収入は幕府によって管理されていて、実質上は幕府が朝廷を管理していた面もあったでしょう。
因みに天皇家の石高は3万石、つまり小大名程度だったようです。 ただし必要があれば幕府から献金があったそうです。 ・・・・・このシステムもちょっと裏がありそうですね、幕府に逆らえばお金もらえないとか・・・・・・

水戸東照宮にはこの急な階段を上がってゆく(もう一つ別の階段もある)

東照宮の下ある宮下銀座商店街はかつては賑わっていたアーケード街だったが、訪れた時(3月23日)は平日の昼間のせいか、あるいはコロナの影響か、閑散としたシャッター街となっていた。
水戸学は徳川家が政権を担う根拠
しかし、世の中が平和になってきて武士たちが武芸だけでなく学問なども積極的に行うようになると、幕府の支配もただ武力だけでなく学問的な根拠も必要としたのでしょう。
そこに現れたのが水戸学ということになるのだと思いますが、そう考えると水戸学が起こる必然性といったものも見えてくるような気がします。 また徳川御三家から起こったということ理解できそうです。
最終的には幕府を終わらせる役割を果たす水戸学ですが、その時点では幕府にとっても必要なことだったのでしょう。

旧県庁前の堀の桜 もうすぐ満開になりそう(3月23日撮影)
幕府の力が弱まると
幕府が安泰な時期には水戸学で 「日本は2500年以上続く(古事記などによれば)代々の天皇によって統治される国」 と論じていても、それはあくまで理念上の問題であって、現実的には徳川幕府が権力の頂点に存在するjことに何ら問題はありませんでした。 というより、むしろ徳川政権を強固にするものでした。
しかし、幕府も200年以上を経て制度的疲弊も深まり、あちこちほころびも見え始め、各藩への統制が揺るぎだし、さらに徐々に海外からの圧力が強まり、そしてペリー来航ということになります。
アメリカから強い態度で国交を求められた時、幕府は独断で政策、鎖国の継続か、開国かといった難題を解決することが出来なくなっていました。
徳川幕府といっても、それは確固たるものではなく、執行部となる老中たちも、各譜代大名からでており、それに御三家や親藩大名も絡んできて一枚岩という訳ではありません。
さらに幕末となれば薩摩や長州といった外様大名の発言権も大きくなり、そうした状況からもこうした問題となれば各藩の意見などを無視するわけにはゆかなくなります。
朝廷から勅許を得ようとしたが
世論は攘夷の方向ですが、ペリーらと接触した幕府の首脳たちはアメリカとの国交を拒否することは出来ない状況であることを認識します。
そこで、この状況を乗り切るには朝廷から勅許をもらい、それによってそれによって各藩などの異論を抑え込もうと考えるわけです。
しかし朝廷からはそれを拒否されます。幕府としては朝廷が ”忖度” して幕府の意に沿う事を期待したと思われますが、朝廷側からは ”足元を見られた” 形となります。
勅許を得られなかったことにより、幕府はさらに苦しい立場となります、まさに ”やぶへび” だったわけです。
これらの問題により、水戸学は全国に広まる
彦根藩の井伊直弼を大老として幕府んも独断で日米和親条約を結び、これに反対する勢力を安政の大獄によって弾圧します。 当然朝廷はじめ、各藩などから強く非難の声が上がります。 そしてそれは水戸の過激な武士たちによって井伊大老を暗殺する桜田門外の変に繋がります。
幕府が開国問題に関して朝廷から勅許を得ようとしたことにより、各藩の大名や、武士たちが改めて日本の国家元首は天皇であり、徳川家は絶対的な存在ではなく、強大ではあるが、基本的には1つの大名に過ぎないといったことを再認識します。
そんな中、会沢正志斎や藤田東湖らの著書によって尊王攘夷を基とする水戸学は全国へと浸透してゆきます。 そしていつの間にか、もともとは体制を擁護するための学問だった水戸学が全、く逆に体制を崩壊さえるための論理とすり替わってしまいます。
なぜ尊王=攘夷?
ところで、なぜ尊王は攘夷なのか、なぜ 尊王=攘夷 なのかということは私たちには今一つピンとこないところです。 「日本は国が出来た時から天皇の国であるから天皇を敬うべき」 というこはなんとなくわかりますが、それがなぜ外国を排除することにつながるのか、すぐには理解しにくいところです。
攘夷の「攘」は打ち払うといった意味で、「夷」は野蛮人といった意味ですが、これは中国から来た考え方で、「攘夷」で野蛮な外国人を打ち払うといった意味になります。
「尊王」の意味の中には天皇は神の子孫であって、日本は神の子孫によって統治される特別な国といった意味があります。 ゆえに日本以外の国はすべて野蛮人の国といったことになるわけです。 中華思想の日本版といったところですね。
日本版中華思想と、海外からの圧力
また現実的には徳川幕府はキリスト教の浸透と強く警戒していました。さらに江戸時代中頃からロシア船などの接近が頻繁となり、ロシアに領土、とくに蝦夷地を侵略されるのではないかということも警戒していました。 さらに近隣アジア諸国がヨーロッパ列強から植民地化されている情報も入ってきます。
これらが結びついて 「尊王攘夷」 となったわけですね。 つまり日本版中華思想と外国からの侵略の危機によって出来上がった考え方ともいえるのでしょう。 水戸藩が蝦夷地の防衛と開拓に常に強い関心があったのもこの流れです。
また列強国を相手に攘夷を行おうとすれば、これまでのように日本が各藩に分かれていたのでは太刀打ちできない。 どうしても中央集権的な国にしなければならいといった面もあり、攘夷が尊王にフィードバックしてゆくわけです。
結果は攘夷ではなく開国となった
尊王攘夷の思想を背景として起こった明治維新は、確かにこれまであった藩を廃位し日本を天皇を中心とした中央集権的な国家へと生まれ変わらせます。 しかし攘夷ではなく、結果は開国で、しかもかなり積極的に欧米の文化や技術、さらに欧米的な軍隊や国家制度などを受け入れます。
しかもそのスピードは異常なほどにも思え、”尊王攘夷” ではなく、”尊王開国” ともいえ、完全にねじれ現象が起きています。 では ”攘夷” は完全に捨て去ったのかというと、そうとも言えない点もあります。
明治になってから(実際は少し前から)積極的に欧米の文化や技術を導入したのは、あくまで列強国と同等の国力、軍事力を持つためで、いわば方便として国を開いたとも言えます。 そうしたことが後の日清、日露、日中、第二次大戦へと繋がってゆくのでしょう。
水戸学は確かに日本を中央集権的近代国家に変貌させましたが、おのずと限界はあり、日本が本当に国民主権の民主国家となり、国際協調、平和を重んじる国になるには、まだまだいくつかの段階を経なければならなかったのは私たちのよく知るところです。
・・・・・いや、まだそうした国になっているとは言えないが、そうした理想に向かっている途中段階かな?
水戸学と幕府の終焉

水戸学の精神は明治憲法にも取り込まれる
これまで書いてきたとおり、またこの本の副題どおり、水戸学は明治維新を理念上から支えました。 また明治憲法(大日本国憲法)第1条に 「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」 とあるように明治憲法にもその理念が織り込まれています。
水戸学から始まった尊王攘夷の思想は幕末期に薩摩や長州など全国の武士たちに広まり、倒幕運動へと繋がってゆきます。 また桜田門外の変など、水戸学を学んで育った水戸藩士たちの果敢な行動は全国の志士たちを奮い立たせ、より積極的な行動へと導きます。
明治維新は水戸学が思想的背景となり、その実行も水戸藩士の行動に触発されたといえ、この本にあるように、まさに明治維新派水戸から起きたと言って過言ではないでしょう。
儒学的思想を日本にあてはめた
しかし水戸学の創始者ともいえる徳川光圀は倒幕まで考えていたのだろうか? もちろんそんなことはないでしょう。 光圀からすれば、儒学的な発想を日本に当てはめることを意図したものと考えられます。
儒教では皇帝の地位は天から授かるもの、その ”天” を日本においては脈々と古代から続く天皇家に例え、日本という国は神の時代から天皇によって統治される国で、徳川幕府はその天皇から政権を預かったものとしています。
これによって徳川家が日本を治める論理的根拠とし、徳川家による支配をより強固なものにするためと考えれます。 また君主は善政を行うことを義務としながら、その上下関係をはっきりさせ、身分制度もゆるぎないものとします。

水戸駅の近くにある水戸東照宮 徳川家康が祭られている
徳川家は実力で政権を取ったのだが
もちろん現実では徳川家が政権を担っているは、天皇から依頼されたものではなく、実力、すなわち軍事力によるものです。 朝廷から征夷大将軍を任ぜられたから徳川家が他の大名たちを支配しているのではなく、徳川家が他の大名たちを力で支配したから征夷大将軍となったわけです。
形の上では幕府の上位に朝廷があるのですが、朝廷や公家の収入は幕府によって管理されていて、実質上は幕府が朝廷を管理していた面もあったでしょう。
因みに天皇家の石高は3万石、つまり小大名程度だったようです。 ただし必要があれば幕府から献金があったそうです。 ・・・・・このシステムもちょっと裏がありそうですね、幕府に逆らえばお金もらえないとか・・・・・・

水戸東照宮にはこの急な階段を上がってゆく(もう一つ別の階段もある)

東照宮の下ある宮下銀座商店街はかつては賑わっていたアーケード街だったが、訪れた時(3月23日)は平日の昼間のせいか、あるいはコロナの影響か、閑散としたシャッター街となっていた。
水戸学は徳川家が政権を担う根拠
しかし、世の中が平和になってきて武士たちが武芸だけでなく学問なども積極的に行うようになると、幕府の支配もただ武力だけでなく学問的な根拠も必要としたのでしょう。
そこに現れたのが水戸学ということになるのだと思いますが、そう考えると水戸学が起こる必然性といったものも見えてくるような気がします。 また徳川御三家から起こったということ理解できそうです。
最終的には幕府を終わらせる役割を果たす水戸学ですが、その時点では幕府にとっても必要なことだったのでしょう。

旧県庁前の堀の桜 もうすぐ満開になりそう(3月23日撮影)
幕府の力が弱まると
幕府が安泰な時期には水戸学で 「日本は2500年以上続く(古事記などによれば)代々の天皇によって統治される国」 と論じていても、それはあくまで理念上の問題であって、現実的には徳川幕府が権力の頂点に存在するjことに何ら問題はありませんでした。 というより、むしろ徳川政権を強固にするものでした。
しかし、幕府も200年以上を経て制度的疲弊も深まり、あちこちほころびも見え始め、各藩への統制が揺るぎだし、さらに徐々に海外からの圧力が強まり、そしてペリー来航ということになります。
アメリカから強い態度で国交を求められた時、幕府は独断で政策、鎖国の継続か、開国かといった難題を解決することが出来なくなっていました。
徳川幕府といっても、それは確固たるものではなく、執行部となる老中たちも、各譜代大名からでており、それに御三家や親藩大名も絡んできて一枚岩という訳ではありません。
さらに幕末となれば薩摩や長州といった外様大名の発言権も大きくなり、そうした状況からもこうした問題となれば各藩の意見などを無視するわけにはゆかなくなります。
朝廷から勅許を得ようとしたが
世論は攘夷の方向ですが、ペリーらと接触した幕府の首脳たちはアメリカとの国交を拒否することは出来ない状況であることを認識します。
そこで、この状況を乗り切るには朝廷から勅許をもらい、それによってそれによって各藩などの異論を抑え込もうと考えるわけです。
しかし朝廷からはそれを拒否されます。幕府としては朝廷が ”忖度” して幕府の意に沿う事を期待したと思われますが、朝廷側からは ”足元を見られた” 形となります。
勅許を得られなかったことにより、幕府はさらに苦しい立場となります、まさに ”やぶへび” だったわけです。
これらの問題により、水戸学は全国に広まる
彦根藩の井伊直弼を大老として幕府んも独断で日米和親条約を結び、これに反対する勢力を安政の大獄によって弾圧します。 当然朝廷はじめ、各藩などから強く非難の声が上がります。 そしてそれは水戸の過激な武士たちによって井伊大老を暗殺する桜田門外の変に繋がります。
幕府が開国問題に関して朝廷から勅許を得ようとしたことにより、各藩の大名や、武士たちが改めて日本の国家元首は天皇であり、徳川家は絶対的な存在ではなく、強大ではあるが、基本的には1つの大名に過ぎないといったことを再認識します。
そんな中、会沢正志斎や藤田東湖らの著書によって尊王攘夷を基とする水戸学は全国へと浸透してゆきます。 そしていつの間にか、もともとは体制を擁護するための学問だった水戸学が全、く逆に体制を崩壊さえるための論理とすり替わってしまいます。
なぜ尊王=攘夷?
ところで、なぜ尊王は攘夷なのか、なぜ 尊王=攘夷 なのかということは私たちには今一つピンとこないところです。 「日本は国が出来た時から天皇の国であるから天皇を敬うべき」 というこはなんとなくわかりますが、それがなぜ外国を排除することにつながるのか、すぐには理解しにくいところです。
攘夷の「攘」は打ち払うといった意味で、「夷」は野蛮人といった意味ですが、これは中国から来た考え方で、「攘夷」で野蛮な外国人を打ち払うといった意味になります。
「尊王」の意味の中には天皇は神の子孫であって、日本は神の子孫によって統治される特別な国といった意味があります。 ゆえに日本以外の国はすべて野蛮人の国といったことになるわけです。 中華思想の日本版といったところですね。
日本版中華思想と、海外からの圧力
また現実的には徳川幕府はキリスト教の浸透と強く警戒していました。さらに江戸時代中頃からロシア船などの接近が頻繁となり、ロシアに領土、とくに蝦夷地を侵略されるのではないかということも警戒していました。 さらに近隣アジア諸国がヨーロッパ列強から植民地化されている情報も入ってきます。
これらが結びついて 「尊王攘夷」 となったわけですね。 つまり日本版中華思想と外国からの侵略の危機によって出来上がった考え方ともいえるのでしょう。 水戸藩が蝦夷地の防衛と開拓に常に強い関心があったのもこの流れです。
また列強国を相手に攘夷を行おうとすれば、これまでのように日本が各藩に分かれていたのでは太刀打ちできない。 どうしても中央集権的な国にしなければならいといった面もあり、攘夷が尊王にフィードバックしてゆくわけです。
結果は攘夷ではなく開国となった
尊王攘夷の思想を背景として起こった明治維新は、確かにこれまであった藩を廃位し日本を天皇を中心とした中央集権的な国家へと生まれ変わらせます。 しかし攘夷ではなく、結果は開国で、しかもかなり積極的に欧米の文化や技術、さらに欧米的な軍隊や国家制度などを受け入れます。
しかもそのスピードは異常なほどにも思え、”尊王攘夷” ではなく、”尊王開国” ともいえ、完全にねじれ現象が起きています。 では ”攘夷” は完全に捨て去ったのかというと、そうとも言えない点もあります。
明治になってから(実際は少し前から)積極的に欧米の文化や技術を導入したのは、あくまで列強国と同等の国力、軍事力を持つためで、いわば方便として国を開いたとも言えます。 そうしたことが後の日清、日露、日中、第二次大戦へと繋がってゆくのでしょう。
水戸学は確かに日本を中央集権的近代国家に変貌させましたが、おのずと限界はあり、日本が本当に国民主権の民主国家となり、国際協調、平和を重んじる国になるには、まだまだいくつかの段階を経なければならなかったのは私たちのよく知るところです。
・・・・・いや、まだそうした国になっているとは言えないが、そうした理想に向かっている途中段階かな?
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