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中村俊三 ブログ

中村ギター教室内のレッスン内容や、イベント、また、音楽の雑学などを書いていきます。

令和時代のギター上達法 8




セーハ ~実戦練習 1 ラグリマ



音が出しにくいところがいくつかある

 今回からは実際の曲の中でセーハについて話してゆきましょう。 まずはクラシック・ギターをやる人なら、おそらく一度は練習したことがあるであろう、タレガの「ラグリマ」です。

 16小節の短い曲ですが、タレガの名作と言われ、その表現も難しいですが、セーハを含め、音をきちんと出すだけでも難しいところもあります。 一応譜面も掲げておきましょう。 譜面のほうは打ち直してはありますが、1920年頃スペインで出版された初版に基づいています。



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タレガの「ラグリマ」  1920年頃Alier社から出版された譜面をもとにしている。



冒頭は4指によるグリサンド的な運指も可能

 今回はセーハについての記事なのですが、この際ですので、セーハ以外の運指についても話をしてゆきましょう。 1段目(4小節まで)はセーハもなく、特に音出しにくいところはありません。1小節目の運指が多少ややっこしいですが、ポジション移動を1回で済ませるためのもので、このままでよいと思いますが、1弦をすべて4指で押さえ、グリサンド気味に弾くなど言う方法もあるでしょう。



③弦の「ミ」が出にくい

 2段目の最初の小節の(1)のところの③弦の「ミ」は、譜面通りにセーハで弾くと薬指が触れるなどして上手く出ない場合もあります。 出ない場合はセーハを深めに、⑤弦くらいまで押さえてみて下さい。 また、④弦を薬指でなく、中指にする方法もあります。

 さらに出ない場合は、ここのみセーハでなく通常の押さえ方(人差し指の先端)でもいいでしょう。 次の拍(2拍目)のセーハはあまり問題ないでしょう。



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通常はこのように押さえるが


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音が出ない時には人差し指を⑤、または⑥弦くらいまで伸ばしてみる。


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それでも「上手く行かない時は3指ではなく、2指で押さえる方法も。


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さらにだめならセーハでなく、通常の押さえ方でも弾ける。



音が出ないからといって

 しかしよく音が出ないからと言って、この3弦の「ミ」を弾く時に薬指や小指っを離したりしてはいけません。その前に弾いた①弦の「ミ」や④弦の「ド#」が消えてしまうからです。 この③弦の「ミ」は内声部なので、①弦や④弦の音に比べ重要性は低く、弾く場合もそれらの音よりも小さめに弾きます。 出る場合でもあまり頑張って大きな音で弾いてはいけません。




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しかし③弦の音が出ないからと言って、薬指や小指を離すのはあり得ない。 また内声部なので、上下の音よりは小さめに弾く。





ここでセーハを外してはいけない

 2段目の2小節目の(2)のところをセーハは外して押さえる人もいますが、ここはセーハでないと音が繋がりません。タレガも前の拍から引き続き7フレットセーハのまま弾くように指示しています。


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(2)はセーハのままで弾く



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ここでセーハを外すと上声部が繋がらなくなってしまう





セーハには関係ないが

 (3)(4)はセーハに関係ないのですが、ここを指示してある運指を変更して弾く人が結構います。 しかしここはタレガがいろいろ工夫した部分で、この曲にとっては大変重要な部分なので、運指を変更すると、タレガの意図とは違ったものになる可能性があります。

 この部分はメロディのようにも聴こえますが、アルペジオとしての性格が強く、またカンパネラ奏法を用いて、タレガが響きや音色に強くこだわった部分と考えられます。 

 カンパネラ奏法の効果を一層発揮させるためには③弦の13フレットの「ソ#」にヴィヴラートをかけ、と若干のテヌート気味に弾くとよいでしょう。 「ソ#」をあえて③弦にした理由の一つにヴィヴラートのかけやすさもあるでしょう。
 

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合理的ではあるかも知れないが
 
 愛好家のみでなく、プロのギタリストでも下のように弾いている人がいます。 おそらく上声部の「ラ」⇒「ソ#」、低声部の「ド#」⇒「シ」の繋がりをよくするためと思われます。確かに合理的ではありますが、タレガはそれとは違ったイメージを持っていたのではないかと思います。



       ラグリマ1
このように弾く人も多い。合理的かもしれないが、タレガの意図には反するかも。


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前半の最後

 前半の最後の部分で、下の譜面の矢印の「ラーナチュラル」は比較的出にくいですが、この場合①弦の音がないので人差し指の付け根付近を持ち上げるようして、指をそらせると③弦の「ラ」が出ます。



ラグリマ2
この「ラ」は出にくいので、人差し指を反らせるようにする。




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チョット見にくいかも知れないが、人差し指の付け根付近を持ち上げている



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このように人差し指が曲がると③弦は出ない
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令和時代のギター上達法 セーハ2



人差し指以外も押さえるセーハ



F コード

 前回は人差し指だけを使うセーハだったのですが、今回は他の指も使うセーハについてです。 セーハで押さえる和音(コード)としてはFコードが最も有名ですね。 Fコードの押さえ方もいくつかありますが、最もシンプルな次の形から始めましょう。


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人差し指はまっすぐで、中指との間が空くことが重要。私の場合は指1本分以上空けている。




無理やり押さえると

 人差し指以外は中指で③弦の2フレットを押さえるもので、比較的音が出しやすいですね。 でも音が良く出ないからと言って、無理やり押さえてこんな形になってしまう人もいます。



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無理やり力を入れるとこのように人差し指は曲がり、中指は人差し指とくっついてしまう。 このように押さえる人は結構いる。


 力を入れ過ぎるとよくない話は何度もしていますが、これなど典型的な例です。 手に力を入れるとまず指どうしがくっつきます。 これはやってみればすぐにわかりますが、重たいものを持つときには指を拡げて持つことはないでしょう。 

 また力を入れ過ぎると指は自然と曲がった形になります、これもやってみるとわかりますね。 セーハは人差し指を伸ばして押さえるやり方ですから、指が曲がってしまうと当然音が出なくなります。

 左手に無理な力が入っていないかどうか見るためには、まず人差し指がまっすぐになっているかどうか見るとよいでしょう。また人差し指と中指が離れているかどうかも見てください。 中指が人差し指にくっついている場合は力を入れ過ぎている証拠です。

 適度な押さえ方をすれば、人差し指はまっすぐになっていて、中指と人差し指の間は指一本分以上は開いているはずです。




正確な位置を押さえる

 前に話した通り、この時人差し指はフレットに沿って、隙間を空けないような位置を取ることが重要です。 セーハの場合、どうしても一つ一つの弦に加える力は小さくなりますので、フレットから離れた位置で押さえるとなかなか音が出ません。 やや斜めにするとよいといったことも書きました。




中指に力が入り過ぎると人差し指が浮いてしまう

 ③弦を押さえている中指は通常の押さえ方で、もちろん一つの弦しか押さえないの、あまり強く押さえる必要はありません。人差し指のほうは3つの弦の音を出さないといけないので、それだけ強く押さえる必要がありますが、中指を強く押さえると、それだけ人差し指が浮き上がるような感じになるので、音が出にくくなります。

 つまり人差し指はある程度強く押さえるが、中指は軽く押さえるようにしなければならないわけです。 最初のうちはそれがなかなか出来なくて、両方の指を強く押さえてしまうので、力を入れているわりには音が良く出ないといったことになります。 

 この ”中指を軽く押さえる” 練習としては、まず人差し指だけを押さえておき、その状態で中指を軽く押さえたり、離したりしてみて下さい。 これが楽にでいれば力の入れ加減がコントロール出来ることになるでしょう。



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人差し指を押さえたまま中指を押さえたり、離したりしてみる。 これが楽にできれば中指に力が入り過ぎていないことになる。







6本の弦うを使う場合

 Fコードでも下のように6本の弦全部使う形もありますが、要領はだいたい同じです。左手の薬指、小指も押さえますが、人差し指以外の指に力を入れないのがポイントです。


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4弦までの場合


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④弦までのFコード。人差し指はだいたい④弦くらいまで押さえる


 ①~④弦まで使うFコードですが、この場合人差し指は全部の弦を押さえても同じ音にはなりますが、前に話した通り、使わない弦まで押さえるということはそれだけ無駄な力を使ってしまうことになります。 セーハは ”使う弦まで” 押さえるのが原則です。


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このコードの場合、実際には弾かない⑤弦や⑥弦まで押さえるのは無駄に力を使うことになる。


 この形の場合人差し指で押さえる弦は①弦と②弦だけですが、しかし①②だけ押さえる形だと、指がまっすぐになりにくいので、”使っている弦まで” つまり④弦まで人差し指で押さえるのが原則となります。


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①②弦だけ押さえようとすると、左手の形が不自然になり、やはり押さえにくい。


 



Dm7

次のコードはDm7で、形的にはFによく似ています。 ④弦の開放を使うのが違いますね。 ④弦の開放を使うということは、④弦に触れてはいけないということで、正確に③弦まで、あるいは②弦まで押さえないといけません。 またこの場合、人差し指が曲がってしまうと②弦が出ないこともあります。



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意外と形がとりにくい


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人差し指を大きく曲げてしまうのはよくない(多少ならいいが)
令和時代のギター上達法 ~ギター演奏の新常識


セーハ(ceja) 1



日本語ぽい響きだが

 「令和時代のギター上達法」も前回の記事からだいぶ間が開いてしまいましたね、内容が内容なだけに一気に書き続けるのは大変なので、これからも休み休みやってゆきます。

 前回までは「押弦」ということでお話ししました。 ただ押さえて離すという動作は単純なようで、ギターを弾くことの第1歩です。ここで誤ったスタートをすると今後の上達に支障をきたします。 ぜひ正しい押弦を身に付けてください。

 さて、今回も左手関連なのですが、人差し指で複数の弦を押さえる 「セーハ」 についてです。 セーハというとなとなく「制覇」なんて感じで日本語みたな響きがありますね、私も最初はそう思っていました。 もちろんこれは日本語ではなくスペイン語で 「ceja」 と綴ります。



国民性の違い?

 辞書で意味を調べてみると ceja とは 「眉毛」 のことらしく、カポタストの意味もあるようです。 確かにスペイン式のカポタストは眉毛っぽい感じもします。  他に英語で 「barre」 (バレー)という言葉もありますが、クラシック・ギターではスペイン語の「ceja」という言葉を使う方が一般的です。
 
 「barre」 のほうは 「バー」 つまり棒という言葉から来て、人差し指を棒状にするというような、わかりやすい表現ですね。 一方、「ceja」 のほうはちょっと捻った表現ですね、なんとなくその言語の傾向とか国民性みたいのが表れています。



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スペイン式のカポタスト 確かに眉毛っぽくも見えるが。 セーハという言葉はこの「眉」から由来しているらしい、スペインらしい例えかな




セーハが出来なくてギターをやめる?

 「ギターを始めたのだけれど、セーハが出来なくてやめた」 などと言う話を聞くことがあります。 確かに手が小さく、力のない人にとっては、当初セーハは難しいこともあります。 でもそれは最初のうちだけで、練習の方法さえ正しければ次第に音が出てくるようになるので、特に難しいということでもありません。

  と言いつつも、私は10歳頃から、かれこれ60年ほどギターをやっていますが、セーハは今でも苦手です。 私の指は短いだけでなく、細くて肉があまりなく、握力もないので、セーハはいつも苦労します。 ギターを弾くのに腕力や握力入らないと普段言っていますが、セーハだけは多少力が必要なようです。

 私の場合はギターを弾き始めて2年間くらい(小学生の間)は単旋律しか弾かなかったので、セーハが出なくてギターをやめるということはなかったのですが、私も単旋律ではなく、弾き語りなどのコードからギターを初めていたら、きっとFコードが出ないからとギターを早々にやめていたかも知れません。やはりギターは単旋律から始めるのがいいようですね。

 そんなセーハが苦手な私がセーハについて書くのも何ですが、でも苦手だからこそわかることもあり、そのあたりを書いてゆこうと思います。




セーハのみの場合


まずはセーハのみの和音から始めましょう。 。


セーハ1



 運指とかセーハの記号の説明はいいですね? 「C.5」というのは5フレットセーハといった意味です。 全部の弦を押さえますが、実際に弾くのは①②③と⑥弦です。 ④弦と⑤弦は弾いてはいけません。  ・・・・そんなこと言われなくてもわかっているかな? でもたまに押さえた以上は全部の弦を弾いてしまう人もいる。

 因みにセーハで押さえる和音はフレットが違っても同じ形であれば、同じ種類の和音となります。 この場合はマイナー・コードですが、どのフレットで押さえても同じ形で押さえればマイナーコードとなります。

 この形の場合、5フレットセーハはAmで、3フレットセーハはGmです。 ただし開放弦を含む場合はたとえ同じ形の押さえ方でも同じコードになりません。  ・・・・それもわかっている?



人差し指をまっすぐにする

 実際に押さえ方としては、まず人差し指をまっすぐに伸ばし、どの弦も均等に力が加わるようにします。確かに④弦と⑤弦は強く押さえなくてもいいのですが、そこだけ力を入れないということも難しいので(一応頭には置いておいた方がいいですが)、均等に押さえると考えていいでしょう。




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人差し指をまっすぐにして、フレットギレギレのところを押さえる。 音が良く出ないからと言って無理に力を入れると指が曲がってしまい、さらに出なくなる。



無理に力を入れると人差し指が曲がってしまう

 肉厚の指で、ある程度握力のある人でしたら、人差し指をまっすぐにするだけで、①②③⑥弦の音が出ると思います。 しかし音が良く出ないからと言って、あまり指に力を入れると指が曲がってしまい、③弦などが出なくなってしまいますので、有る程度の力は必要ですが、必要以上に力を入れてはいけません。

 

フレットから離れないように、やや斜めにする

 上手く音が出ない場合は、まず押さえている位置を確かめましょう。 人差し指は単音の時と同じくなるべくフレットの近くを押さえなければなりません。セーハではやはり一つ一つの弦に加える力は弱くなってしまいますので、フレットから少しでも離れると音がでなくなったり、ノイズが発生したりしてしまうでしょう。

 また逆にフレット上に人差し指が ”乗る” 位置では直接指が振動している弦に触れることになり、音がぼやけてしまいます。 さらには人差し指を左方向に少し傾けるといいでしょう。



それでも出ない場合は気にしない!

 それでもよく出ない場合は、あまり気にしないようにしましょう。 多少音が出なくても押さえ方さえ正しければいずれは出るようになるので心配ありません。

 音が良く出ないからと言って渾身の力で弦を押さえると、形を崩したり、よくない押さえ方が身についてしまうので、気にしないで形だけ整えておきましょう。 いい加減なようですが、これが大正解です!

 レッスンの際、小学生などにはセーハの形だけ覚えて、音は出なくてもよいと説明します。 それでもたいてい1年か2年すると何の問題もなく出るようになります。    ・・・・子供の場合はそうしたことを素直に受け入れてくれるのですが、大人の場合はあまり聞いてくれないことがよくあります。 そう言った言い方はただの方便だと解釈するのかもしれません。







3弦までのセーハ



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原則的には使う弦まで

 セーハは常に全部の弦を押さえる訳ではなく、部分的な場合もあります、実際の曲の中ではこのほうが多いです。 この場合、上と同じく全部の弦を押さえても音には変わりありませんが、3本の弦だけ押さえればよいところを6本押さえる訳ですから、無駄な力を使ってしまうことになります。

 何弦まで押さえるかは、基本的に使う弦までとなります。ただし人差し指の関節と関節の間は音が出にくいですから、重要な音がそこに来てしまう場合、それを避けるために深めに押さえたりすることはあります。



手をネックから少し離す

 このように部分的なセーハをする場合、手全体をネックから少し離さないと人差し指がまっすぐになりません。 3弦までのセーハでも人差し指はまっすぐになっていないといけません。

 全部の弦のセーハは出来るのだけれど、この部分的なセーハが出来ないという人は結構います。 これは人差し指の問題より、手全体の位置が良くないことが多いです。



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3弦までしか使わない場合は3弦までセーハする。 この場合手全体をネックから離す(ちょっとやり過ぎていいるが)



音を出すことばかりに気を取られてはいけない

 音が出ないと、音を出すことばかりに気を取られ、ひたすら強く押さえることだけをやってしまう人は少なくありません。 上手く行かない場合、まず押さえる形を意識しましょう。

 特に通常の押さえ方(セーハでない)からこの部分的なセーハに移る場合、まずは手の位置をネックから2~3センチ程度離さなければならないのですが、これがなかなか出来ないというか、そういったことに意識が行かないことが多いです。

 因みに全部の弦をセーハする場合は、手の位置があまり変わらないので(ネックの近くでいいので)、かえって出来る人が多いようです。 




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無理やり音を出そうとすると、こんな風に人差し指の関節(第2)が曲がってしまう




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さらに親指にまで力が入ってしまってこんな風に押さえる人も少なくない




やはり左手親指の問題

 押弦のところでも話しましたが、左手の親指の位置は大変重要で、いつも押さえやすい位置になければなりません。 しかし多くの人は左手の親指は”使わない”と思っていて、なかなか親指に意識が行かないようです。

 手全体をネックから離すということは、親指がネックの下のほうに(1弦側)移動しなければならないのですが、それがなかなか出来ないようです。
バッハ:シャコンヌ 中村俊三ギター・リサイタル  

  ひたちなか市文化会館小ホール
  6月20日(日) 14:00


    前売り、予約  1800円
    当日       2000円



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昨年予定のリサイタル

 昨年4月に予定していたリサイタルを一年延期ということで、6月20日(日)にひたちなか市文化会館小ホールで行います。

 1年たってもまだコロナの状況はあまり変わらず、このところやや感染者が増えているといったあまり好ましくないところではありますが、感染防止に十分気を付けつつ、開催してゆこうと思います。

 御来場の皆さまにも検温、消毒、マスク、席を空けて座っていただくなどご協力いただくこととなりそうですが、よろしくお願いします。




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無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第2番全曲とヘンデルの作品

 一年開催が延期になった関係上、準備の方も2年近くとなり、昨年予定していたプログラムより若干重厚なものになりました。 特にバッハのシャコンヌは、昨年の予定では単独で演奏する事になっていましたが、今回は無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第2番全曲演奏することになりました。



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 このパルティータ1曲で30分近くとなり、昨年の段階ではチェロ組曲第3番も演奏する予定だったのですが、それも演奏するとさすがにプログラムが重くなりすぎるので、チェロ組曲の演奏はまた別の機会にして、今回はヘンデルの美しい小品を4曲演奏する事にしました。

 後半の内容は昨年予定のものとほぼ同じで、グラナドスとバリオスの作品です。 


 
       < 第 1 部 >

G.F.ヘンデル  :  ラルゴ ~オンブラ・マイ・フ (中村編)
             ソナタニ短調 (セゴヴィア編 エールズフォード・コレクションより)
             サラバンド ~組曲第11番より (中村編)
             メヌエット ~オラトリオ「サムソン」より (タレガ編)

J.S.バッハ  :  パルティータニ短調BWV1004 ~原曲無伴奏ヴァイオリンパルティータ第2番 (中村編)
              1.アルマンド  2.クーラント  3.サラバンド  4.ジグ  5.シャコンヌ
       

       < 第 2 部 >
  
E,グラナドス  :  スペイン舞曲第5番「アンダルーサ」 (リョベット編)
             詩的ワルツ集 ~全8曲 (中村編)

A.バリオス   :  ワルツ作品8-4
             クエカ ~チリ舞曲
             大聖堂





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予約受付中

 曲目などにつきましてはまた後日解説を書いてゆきます。 こうした状況ではありますが、お聴きいただければ幸いです。電話、メール等で予約受付ておりますので、よろしくお願いします。


 tel  029-252-8296
 E-mail   mitoguitar@camel.plala.or.jp


水戸維新~近代日本はかくして創られた マイケル・ソントン 10



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私と水戸



栃木市は水戸に近いのだが

 私は茨城県の西隣の栃木県旧都賀町で生まれました。 旧都賀町は現在栃木市には編入されています。 栃木市は水戸からはほぼ真西に80キロくらいで、北関東自動車道を使うと1時間くらいで水戸に行けます。

 私は18歳まで、つまり高校生の時までその旧都賀町で暮らし、栃木市の高校に通っていました。 距離的には水戸は近いのですが大学受験で水戸に来るまで、特に用事もなく、全く水戸には行ったことがありませんでした。

 子供のころから地理は好きで、日本や世界の各地などそれなりに知識はあったのですが、水戸はあまりにも近すぎるせいか、あまり興味が湧かず、ほとんど印象に残っていません。



北関東どうしでは行き来が少ない

 他の北関東の人もそうかもしれませんが、栃木県人としては、東京にはよく行くもの、その ”横隣り” の茨城県や群馬県にはあまり行く機会がありません。

 水戸市にある茨城大学に入学したのは、希望学科があったとこや、受験科目等の関係で受験し、結局、他に合格した大学がなかったからということになります。



中心街をちょっとそれると

 初めて水戸に来た時、茨城県の県庁所在都市の割には、なんかこじんまりした街だなと思いました。 水戸駅の駅舎は当時まだ2階建てで、2階は大衆レストランになっていました。

 栃木県の県庁がある宇都宮市の二つの宇都宮駅(旧国鉄と東部鉄道)と比べると、やや都会らしさに欠ける感じもしました。

 泉町と南町にいくつかデパートがあり、その屋上から水戸の街を眺めてみると、市の中心街はなんか細長い感じで、ちょっと脇にそれるとすぐに田園地帯となり、随分狭い街だなと感じました。

 またそのいくつかのデパートを除くと高い建物はほとんどなく、平べったい感じもしました。 今では高層ビルが立ち並んでいる水戸駅の南側は本当に何もなく、湿地のようになっていました。



買いもの客であふれ

 しかしそのあまり広くない街のメイン・ストリート(旧国道五十号線)には買い物客などで人があふれ、気を付けないと人にぶつかってしまいます。 またバスもかなりたくさん走っていて、特に駅から大学まではかなりの本数がありました。

 当時はまだ自家用車などが普及してなく、人々の足としては電車かバスだったので、そのバスと電車の便がよい水戸の繁華街は大変賑わっていたのでしょう。 

  繁華街といえば泉町から大工町にかけては ”夜の歓楽街” ということで、特に週末の夕方頃からは大変賑わっていました。 学生の頃はよくこの辺りで飲み会などがあったものです。



かつての水戸市を知っている人は

 水戸市の人口は、私が水戸に来た年(1969年)は約17万人でしたが、2015年の国勢調査では約27万人で、今現在もほぼ同じと思います。

 今現在の人口は私が水戸に来た時より10万人ほど数字上は増えているものの、近隣町村の合併による効果も大きく、また市街地が郊外に広がって、ドーナツ化現象もあり、かつての中心街ではかえって人出が大変少なくなっています。

 また移動手段が電車やバスから車に代わって、特にメイン・ストリートを歩く人は、かつての水戸市を知っている人からすると、驚くほど少なくなっています。 今現在では多少よそ見をして歩いていても人にぶつかる可能性は低いです・・・・・ でも歩きスマホはやめましょう。

 さらに大工町などのかつての歓楽街も人出はめっきり減り、空きテナントも多くなっています。 こうした傾向は、特に1990年頃から目立つようになってきました。



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水戸市内原のイオン・モール  最近は水戸市の中心街よりことのような郊外の施設のほうが人出が多い



あまり城下町らしくなく

 また水戸は徳川御三家の城下町だったということは知っていましたが、どうも街の中にはその名残はなく、せいぜい「三の丸」とか「大工町」とか言った町の名前に残っているくらいです。

 お城の跡は水戸一高になっていましたが、特に城門などお城らしき建物は残っていませんでした。 また武家屋敷、その他古い家などもなく、後から分かったことですが、そういった古いものは空襲で皆焼けてしまったそうです。
 
 水戸には”日本3大公園” の一つの偕楽園というのがあることは知っていましたが、光圀が作ったものかな? なんて思っていました。 もちろん本当は9代目藩主の徳川斉昭が弘道館と対で作ったものですね。 しかし当時は水戸といえば徳川光圀、というより水戸黄門くらいしか知りませんでした。



言葉の違いに驚いた

 もっとも、水戸に来て一番驚いたのは、その言葉です。 これは水戸に来た人が皆そう感じるようなのですが、水戸と私の生まれた栃木市とでは80キロほどしか離れていないのに、言葉はかなり違います。 

 それまで茨城弁など、その存在も知りませんでしたし、実際に全く聞いたことがなかったので、本当に驚きました。 同じ北関東でも栃木弁と茨城弁はまるで違います。

 「ごじゃっぺ」 とか 「いしこい」 とかいった初めて聞く単語もありましたが、それよりも気になったのはその抑揚というか、イントネーションです。 さらに 「来ない」 を 「きない」 と、学校で習った 「か行変格活用」 を全く無視した言葉使いをするのは一番驚きました。

 栃木にいる頃、こんな近くにありながら、こんなに違った文化圏があるということは全く想像できませんでした。 しかし今現在となってはネイティヴな茨城弁をしゃべる人はだいぶ少なくなってしまいました。 今となってはまるで喧嘩しているみたいにしゃべっていた大学時代の下宿のおじさん、おばさん、その子供たちの茨城弁が懐かしいです。



水戸人を気取っているが

 それから50年以上、 ”よそもの” だった私が、今では自分の教室でやっているギター合奏を 「水戸ギターアンサンブル」 と名付けたり、またメールアドレスを 「mitoguitar」 とするなど勝手に水戸のギター界を代表しています。  さらにギター関係者などとあいさつする際には 「水戸の中村です」 などと名乗るなど、すっかり水戸人気取りもしています。

 その割には、ちゃんと茨城弁もしゃべれず、これまで水戸についての知識もほとんどなく、まだまだ栃木からの ”出稼ぎ” 気分も抜けきれず・・・・・・   水戸人を名乗るのはお恥ずかしい限りということに気が付きました。



この本を読んで

 この本を読んで、水戸藩でおこった水戸学が近代日本形成に大きく関わるとか、また幕末には水戸を舞台に壮絶な戦いがあったとか。 そして徳川御三家の水戸藩は江戸時代約300の藩の中でもたいへん個性的、あるいは特異な藩であったとか。 今現在水戸がなんとなくこじんまりと見えるのは、逆にこのような歴史を持つからとか・・・・・

 さらには江戸時代から明治時代へ、この全く異なる国家制度への移行のひとつのキーワードが水戸学であるということとか、いろいろなことで水戸に関する認識を新たにしました。



帰水って?

 かつて水戸生まれの友人からの手紙に ”帰水” という熟語がありました。 最初は何のことかよくわからず、ただ文面からすると帰省のことのようなので ”水” のように見えるけど ”省” の漢字の省略形かな、なんて思っていました。

 しばらくして帰水とは ”水戸に帰る” という意味だと分かった時、なんかとても粋な言葉だなと思いました。 水戸の人は家に帰ることを 「帰水」 というのか、なるほど、カッコイイ・・・・

 その友人はやはり水戸人なんだなと思いました。 また水戸への誇りと強い愛情も感じました。 同時に私などには一生使うことの出来ない言葉だとも思いました、 ”本物” の水戸人はその意識からして違う。
 


自覚と誇りを持って言えるように

 私も水戸に来てから半世紀超え、間違いなくこの地に骨を埋めることになるでしょう。 若干遅きに失した部分もありますが、このあたりで多少なりとも水戸人としての自覚と誇りを持たなければならない時期といえるでしょう。 ”偽水戸人” と言われないためにも。

 この本に出合ったのも何かの縁、今後さらに水戸のことを勉強しようと思い始めた今日この頃です。
 
水戸攘夷 ~近代日本はかくして創られた マイケル・ソントン 9



なぜ水戸に水戸学




水戸学は明治憲法や教育勅語にも反映されている

 会沢正斎や藤田東湖ら水戸学派の著作は、幕末の動乱期において薩摩、長州、土佐などの武士たちに熟読され、明治維新の根本理念となった他、桜門外の変をはじめとする水戸藩士たちの過激ともいえる行動により全国の志士たちが鼓舞され、明治維新が遂行されます。

 また水戸学は封建制を終わらせ、明治新政府を樹立させただけでなく、その後の日本の歩みを論理的な部分から支えます。 水戸学の内容は明治22年に公布された大日本帝国憲法(明治憲法)にも反映され、教育勅語にもその影響が刻まれていると言われています。



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桜満開!  旧県庁前堀(3月30日撮影)



明治政府も大日本史完成を大いに評価した

 一時は朝敵とされた徳川慶喜も本来尊王派であり、それは明治政府も認めるところとなり明治35年には徳川宗家とは別に公爵となっています。 また水戸徳川家の13代当主圀順(くにゆき)もまた昭和4年に大日本史の完成の功によって公爵位を授かっています。

 公爵は戦前の貴族(華族)のなかでも最高位で、計19家のみで、摂関家や旧薩長藩主、明治の元勲、徳川宗家などと並び、水戸出身の慶喜家と水戸徳川家当主がともに公爵となっています。

 他の徳川御三家や御三卿はそれよりランクの低い侯爵や伯爵となっていて、明治政府により水戸家は徳川家の中でも特別扱いされています。 それだけ水戸学をおこした水戸徳川家の功績を評価しているのでしょう。




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私に家の近くの沢渡川の桜も満開 ・・・本文には関係ないが



水戸学派の学者たちは
 
 この本で紹介されている立原翆軒、会沢正志斎、藤田幽谷、藤田東湖ら、大日本史編纂に関わった学者、すなわち水戸学派たちの多くは、もともと身分の低い藩士、あるいは武士ではない階層の人たちです。

 彼らはその学力を評価されて彰考館のトップになり、大日本史の編纂の責任者になる共に、藩主の側近となって藩政をリードしてゆきます。さらには藩士や藩主の子息たちの教育も司り、次世代の藩主の師といった立場にもなります。



水戸藩士にとって学問が立身出世の唯一の道

 こうしたことから藩内では彼らは藩主に次ぐ発言力も持つようになります。 つまり水戸藩では下級藩士やまた武士でもなかった身分のものが、学問に秀でることにより、藩内で想定できる最も高い地位に就くことが出来る訳です。

 もちろんこうしたことが水戸藩士たちの向学心に火をつけることになります。特に苦しい生活を送る下級武士たちにとって、学問は立身出世の最大の武器、あるいはそれしかないといったものになります。



水戸学派=改革派

 また水戸学派の学者たちは藩主の側近となって藩政を行ってゆくわけですが、何分水戸は江戸での浪費などで慢性的な財政赤字で、また年貢も重く農村も疲弊しがちです。 そうした状況を何とか打開してゆかなければなりません。 つまり常に藩政改革に邁進してゆかなければならないことになります。

 彼らの学問は、ただ考えるだけでなく実行力を伴わなくてはなりません。 つまり水戸学派の学者たちは常に改革派であるわけです。 さらに彼らの指導を受けた藩士たちも多くは改革派となります。 さらに藩主たちも幼少時から水戸学派の学者たちに教育されおり、改革派に近いものがあります。



争いの構図
 
 その一方で歴代家老などを出している上級家臣たちからすれば、自分たちより身分の低い家臣、場合によってはもともと武士でもないものが学問に秀でているといっただけの理由で藩の重役となり、また石高においても自分たちと同様、あるいはそれ以上になるのを快く思うはずはありません。

 また生活もそれなりに成り立っているので、特に藩政を改革というより、現状維持に傾く傾向があります。 藩主がどちらかといえば下級武士たちの改革派に近いことの裏腹に、上級家臣=門閥派はその頭越しに幕府との距離を縮めて行きます。

 斉昭が藩主になる際、門閥派は将軍家斉の子推し、改革派は水戸家出身の斉昭を推したのは、その典型的な例といえます。 門閥派は水戸家の家臣でありながら、水戸出身の藩主を嫌った訳です。

 さらに最終的には  <改革派(天狗党)=新政府  VS  門閥派(諸生党)=旧幕府> といった構図で天狗党の乱、および弘道館戦争を同じ水戸藩士どうしで戦うことになります。 歴代の藩主は両勢力のバランスに苦慮するわけですが、心情的には改革派に近いものだったようです。
 


その溝はどんどん深くなっていった

 このようにして水戸藩では下級武士や一部の農民、町人、神官などの改革派と、旧来の上級家臣の門閥派とに分かれてゆき、その溝は時を経るほど深くなり、最終的にはその家族まで巻き込む悲惨な戦闘を繰り広げることになります。

 そうした派閥争いはどの藩にも多かれ少なかれあったのでしょうが、何故水戸藩では極めて極端なことになってしまったのか? その主な理由としては、まず水戸藩士たちのたいへん強い向学心と異常なほどの生真面目さや、純粋さにあったのでしょう。

 純粋であることは美化されやすいですが、その一方で融通性のなさや、排他的、かつ不寛容にも繋がってゆき、自分の考えと違うものはすべて否定する傾向となります。



両刃の剣

 水戸学や水戸藩士の行動は中央集権的な近代国家建設の大きな原動力になったのは確かでしょう。 また憲法や教育勅語などに取り入れられた水戸学的な考え方は以後の日本の国の発展の支えにもなりました。 

 しかしその水戸学を学んで育った水戸藩士たちの純粋さや不寛容性は、他を否定して極めて悲惨な戦を導き出します。 水戸学はまさに ”両刃の剣” でもあったでしょう。