私の公式戦でのサッカーのゴール数は2です。といっても遥か昔、ほとんど前世とも言える高校時代の話です。1年間のレギュラーのFWとしてプレーして、この数字は決して大きいわけではありませんが、でも存在することそのものが奇跡的な数字です。
私は、子供の頃から運動は嫌いというか、大の苦手で、小学校の運動会の競走はいつもビリで、運動会が近づくたびにゆううつになっていました。中学生になってもいつも家でごろごろしている毎日で、たまに野球などはしましたが、外野で8番、振れば3振、守れば後逸と、ほとんどドラえもんの「のび太君」状態でした。
中学校を卒業するまでほとんど体を動かしたことがなく、そんな体ではどうしょうもないと家族からも言われ、また自分でも真剣にそう思うようになり、高校進学を機に一大決心をして、運動部に入ることにしました。運動部に入るといっても、人気のある野球部などには入れませんし、テニス、卓球もだめだろうし、かといって柔道、剣道は恐そうというので、結局サッカー部にしました。サッカーは入部する人も少なそうだし、ただ走っているだけで、あまり運動神経もいらなそう、11人でやるのだからもしかしたら試合に出られるかも知れない、出られなくても体力を付けるだけだからと、そんな理由で決めました。
私の高校入学は1966年で、2年前の東京オリンピックで日本代表はベスト・エイトに入り、Jリーグの前身ともいえる日本サッカー・リーグもその頃はじまり、いわば「第1次サッカー・ブーム」ともいえる頃だったと思います。また68年にはメキシコ・オリンピックでは釜本選手の活躍などで銅メダルに輝きました。しかし一般にはサッカーのことはあまり知られてなく、ただボールを蹴飛ばして遊ぶものくらいにしか思われていませんでした。サッカー部のある中学校はまだめずらしかった頃です。
高校の入学式の次の日、入部申し込みにサッカー部の部室に行きました。それにしてもよく入部を認めてくれたと思います、体が小さい上に、足はやたら細く、おまけにメガネで、どう見てもサッカーをやれるようには見えなかったでしょう。でもその部室にいた部長らしき先輩はそうしたことは顔に出さず、「用意ある?・・・・そう、じゃ、これとこれ着て」と言い、汚いシャツやストッキングなどを差し出しました。サッカー用のストッキングなどその存在はこの時初めて知りました。
「あ、それからメガネはずして」
「え、でも、あのう・・・・メガネはずすと何にも・・・・」
「メガネかけたままじゃサッカー出来ないだろ」
「え、でも・・・・あ、はい」
というわけで当時視力は0.06と0.04でしたが、しかたがなくネガネをはずし、赤と黒の縞の汚いストッキングと青いパンツ、汗臭そうなシャツを身に付け、グラウンドに出ました。人の顔はほとんど判別できませんが、ボールは大きかったせいでなんとか見えるようです。先輩の部員たちがボールを蹴る音がやたら大きく、またそのスピードもすごく速く感じました。
その先はだいたい想像のとおりです。それまで走るどころか、歩くことも少なかったので、入部して最初の頃は球拾い程度でたいして練習したわけでもないのに、全身筋肉痛で、一番痛かったのが足の裏です。それほど私の足の裏は柔らかかったのです。中学校に入った時テニス部を3日もたずにやめてしまったので、なんとか3日は続けようとがんばり、その次はともかく1週間、そして1ヶ月となんとか持ちこたえ、2,3ヶ月するとなんとか体が馴染んできました。とはいえ最初はまともにボールも蹴れない状態で、足も格別遅く(入部時は50メートル=8.2秒)、おそらく先輩や同輩たちもとんでもないのが入っちゃったなと思ったでしょう。誰しも戦力になるとは思わなかったでしょうが、唯一評価されていた点は、ともかく休まないということだけでした。これは熱心だったというより、私としては休むのが恐かったのです。1回休むと、次の日に練習に出るのがいやになり、それっきりになってしまいそうだったからです。
昔運動部を経験した人はよく知っていると思いますが、当時はよく練習中に水を飲むなと言われていて、特に真夏の炎天下での練習の時には本当にたいへんです。夏休みの練習で紅白戦を2試合続けてやった時など、本当に気絶しそうになりまりました、よく死ななかったと思います。夏休みが過ぎる頃には私の顔は真っ黒になり、担任の先生に「中村は真っ黒で健康そうだな」とよく言われていました。クラスの同級生たちはほとんど外に出ることもなく受験勉強に専念してましたから、私の真っ黒い顔は結構目立ったのでしょう。私の入学した高校は県内でも有数の進学校ということもあり、成績は鳴かず飛ばずで、先生の目からは「成績イマイチの運動部員」と見えたのでしょう。
2年生の夏くらいまでは当然のごとく、試合に出ることはほとんどありませんでした。唯一1年生の6月頃、上級生の修学旅行と大会が重なって、1年生だけで大会に出場することになり、その時はじめて試合に出場しました。私はハーフ・バック(今で言えばボランチ)のポジションで、4点差くらいで負けたのは覚えていますが、内容のほうは全く思い出せません。おそらくサッカー以前のプレーだったのでしょう。
2年生の秋になり、上級生が引退し、新チーム結成となりました。1年生もいましたが、なんとかレギュラーになれました。新チームに変わったのを機にハーフ・バックからレフト・ウイング(今でいえば左サイドのMF)にポジションが変わりました。背番号もこれまでの「4」から当時快速ウイングでならした杉山選手と同じ「11」になり、それだけでも嬉しく感じました。このポジションは普通、足が速く、ドリブルが上手い選手が就くポジションですが、私の場合は他に行くところがなく、ここに落ち着いたのだと思います。この辺に置いておけば特に害はないだろうと言うことだと思います。コーチからは「ドリブルはするな、ボールが来たらすぐパスしろ」と言われていました。
秋の新人戦を前に市内の工業高校との練習試合がありました。その試合の前半だったと思いますが、私は普通左サイドにポジションをとっているのですが、プレーが右サイドのほうに偏り、中央のポジションに誰もいなくなってしまったので、私はその時中央のポジションを埋めていました。すると私の少し前方に、右のほうからグラウンダーのボールが流れて来ました。私にパスをしたのか(あまりあることではない!)、たまたま味方の選手が中央にボール蹴ったのか(多分このほうが正しい!)わかりませんが、絶好球です。なおかつ近くにディフェンダーもいません、いわゆるド・フリーの状態です。私の場合相手チームからもノーマークだったのでしょう。ペナルティ・エリアの少し手前で、ゴール真正面だったと思いますが、走りこんだ勢いで右足を思い切り振りぬきました。ゴールの隅などを狙っている余裕はありません、ほとんどゴール・キーパーめがけて蹴ったと思います。ゴール正面を狙って蹴ったボールはややアウト・サイドにきれて、結果的にはゴールの右隅のネットに突き刺さりました。練習試合とはいえ、対外試合での初ゴールで、しかもこんなにきれいに決まるとは思いませんでした。思わず飛び上がって何か叫んだと思います、チーム・メイトも抱きついてきました、こういう時というのは一種独特の興奮状態に陥ります。40年近くたった今でもその時の感触が、私の右足の甲のやや外側のところに、ごく僅かですが残っています。
つづく
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