水戸攘夷 ~近代日本はかくして創られた マイケル・ソントン 9
なぜ水戸に水戸学
水戸学は明治憲法や教育勅語にも反映されている
会沢正斎や藤田東湖ら水戸学派の著作は、幕末の動乱期において薩摩、長州、土佐などの武士たちに熟読され、明治維新の根本理念となった他、桜門外の変をはじめとする水戸藩士たちの過激ともいえる行動により全国の志士たちが鼓舞され、明治維新が遂行されます。
また水戸学は封建制を終わらせ、明治新政府を樹立させただけでなく、その後の日本の歩みを論理的な部分から支えます。 水戸学の内容は明治22年に公布された大日本帝国憲法(明治憲法)にも反映され、教育勅語にもその影響が刻まれていると言われています。

桜満開! 旧県庁前堀(3月30日撮影)
明治政府も大日本史完成を大いに評価した
一時は朝敵とされた徳川慶喜も本来尊王派であり、それは明治政府も認めるところとなり明治35年には徳川宗家とは別に公爵となっています。 また水戸徳川家の13代当主圀順(くにゆき)もまた昭和4年に大日本史の完成の功によって公爵位を授かっています。
公爵は戦前の貴族(華族)のなかでも最高位で、計19家のみで、摂関家や旧薩長藩主、明治の元勲、徳川宗家などと並び、水戸出身の慶喜家と水戸徳川家当主がともに公爵となっています。
他の徳川御三家や御三卿はそれよりランクの低い侯爵や伯爵となっていて、明治政府により水戸家は徳川家の中でも特別扱いされています。 それだけ水戸学をおこした水戸徳川家の功績を評価しているのでしょう。

私に家の近くの沢渡川の桜も満開 ・・・本文には関係ないが
水戸学派の学者たちは
この本で紹介されている立原翆軒、会沢正志斎、藤田幽谷、藤田東湖ら、大日本史編纂に関わった学者、すなわち水戸学派たちの多くは、もともと身分の低い藩士、あるいは武士ではない階層の人たちです。
彼らはその学力を評価されて彰考館のトップになり、大日本史の編纂の責任者になる共に、藩主の側近となって藩政をリードしてゆきます。さらには藩士や藩主の子息たちの教育も司り、次世代の藩主の師といった立場にもなります。
水戸藩士にとって学問が立身出世の唯一の道
こうしたことから藩内では彼らは藩主に次ぐ発言力も持つようになります。 つまり水戸藩では下級藩士やまた武士でもなかった身分のものが、学問に秀でることにより、藩内で想定できる最も高い地位に就くことが出来る訳です。
もちろんこうしたことが水戸藩士たちの向学心に火をつけることになります。特に苦しい生活を送る下級武士たちにとって、学問は立身出世の最大の武器、あるいはそれしかないといったものになります。
水戸学派=改革派
また水戸学派の学者たちは藩主の側近となって藩政を行ってゆくわけですが、何分水戸は江戸での浪費などで慢性的な財政赤字で、また年貢も重く農村も疲弊しがちです。 そうした状況を何とか打開してゆかなければなりません。 つまり常に藩政改革に邁進してゆかなければならないことになります。
彼らの学問は、ただ考えるだけでなく実行力を伴わなくてはなりません。 つまり水戸学派の学者たちは常に改革派であるわけです。 さらに彼らの指導を受けた藩士たちも多くは改革派となります。 さらに藩主たちも幼少時から水戸学派の学者たちに教育されおり、改革派に近いものがあります。
争いの構図
その一方で歴代家老などを出している上級家臣たちからすれば、自分たちより身分の低い家臣、場合によってはもともと武士でもないものが学問に秀でているといっただけの理由で藩の重役となり、また石高においても自分たちと同様、あるいはそれ以上になるのを快く思うはずはありません。
また生活もそれなりに成り立っているので、特に藩政を改革というより、現状維持に傾く傾向があります。 藩主がどちらかといえば下級武士たちの改革派に近いことの裏腹に、上級家臣=門閥派はその頭越しに幕府との距離を縮めて行きます。
斉昭が藩主になる際、門閥派は将軍家斉の子推し、改革派は水戸家出身の斉昭を推したのは、その典型的な例といえます。 門閥派は水戸家の家臣でありながら、水戸出身の藩主を嫌った訳です。
さらに最終的には <改革派(天狗党)=新政府 VS 門閥派(諸生党)=旧幕府> といった構図で天狗党の乱、および弘道館戦争を同じ水戸藩士どうしで戦うことになります。 歴代の藩主は両勢力のバランスに苦慮するわけですが、心情的には改革派に近いものだったようです。
その溝はどんどん深くなっていった
このようにして水戸藩では下級武士や一部の農民、町人、神官などの改革派と、旧来の上級家臣の門閥派とに分かれてゆき、その溝は時を経るほど深くなり、最終的にはその家族まで巻き込む悲惨な戦闘を繰り広げることになります。
そうした派閥争いはどの藩にも多かれ少なかれあったのでしょうが、何故水戸藩では極めて極端なことになってしまったのか? その主な理由としては、まず水戸藩士たちのたいへん強い向学心と異常なほどの生真面目さや、純粋さにあったのでしょう。
純粋であることは美化されやすいですが、その一方で融通性のなさや、排他的、かつ不寛容にも繋がってゆき、自分の考えと違うものはすべて否定する傾向となります。
両刃の剣
水戸学や水戸藩士の行動は中央集権的な近代国家建設の大きな原動力になったのは確かでしょう。 また憲法や教育勅語などに取り入れられた水戸学的な考え方は以後の日本の国の発展の支えにもなりました。
しかしその水戸学を学んで育った水戸藩士たちの純粋さや不寛容性は、他を否定して極めて悲惨な戦を導き出します。 水戸学はまさに ”両刃の剣” でもあったでしょう。
なぜ水戸に水戸学
水戸学は明治憲法や教育勅語にも反映されている
会沢正斎や藤田東湖ら水戸学派の著作は、幕末の動乱期において薩摩、長州、土佐などの武士たちに熟読され、明治維新の根本理念となった他、桜門外の変をはじめとする水戸藩士たちの過激ともいえる行動により全国の志士たちが鼓舞され、明治維新が遂行されます。
また水戸学は封建制を終わらせ、明治新政府を樹立させただけでなく、その後の日本の歩みを論理的な部分から支えます。 水戸学の内容は明治22年に公布された大日本帝国憲法(明治憲法)にも反映され、教育勅語にもその影響が刻まれていると言われています。

桜満開! 旧県庁前堀(3月30日撮影)
明治政府も大日本史完成を大いに評価した
一時は朝敵とされた徳川慶喜も本来尊王派であり、それは明治政府も認めるところとなり明治35年には徳川宗家とは別に公爵となっています。 また水戸徳川家の13代当主圀順(くにゆき)もまた昭和4年に大日本史の完成の功によって公爵位を授かっています。
公爵は戦前の貴族(華族)のなかでも最高位で、計19家のみで、摂関家や旧薩長藩主、明治の元勲、徳川宗家などと並び、水戸出身の慶喜家と水戸徳川家当主がともに公爵となっています。
他の徳川御三家や御三卿はそれよりランクの低い侯爵や伯爵となっていて、明治政府により水戸家は徳川家の中でも特別扱いされています。 それだけ水戸学をおこした水戸徳川家の功績を評価しているのでしょう。

私に家の近くの沢渡川の桜も満開 ・・・本文には関係ないが
水戸学派の学者たちは
この本で紹介されている立原翆軒、会沢正志斎、藤田幽谷、藤田東湖ら、大日本史編纂に関わった学者、すなわち水戸学派たちの多くは、もともと身分の低い藩士、あるいは武士ではない階層の人たちです。
彼らはその学力を評価されて彰考館のトップになり、大日本史の編纂の責任者になる共に、藩主の側近となって藩政をリードしてゆきます。さらには藩士や藩主の子息たちの教育も司り、次世代の藩主の師といった立場にもなります。
水戸藩士にとって学問が立身出世の唯一の道
こうしたことから藩内では彼らは藩主に次ぐ発言力も持つようになります。 つまり水戸藩では下級藩士やまた武士でもなかった身分のものが、学問に秀でることにより、藩内で想定できる最も高い地位に就くことが出来る訳です。
もちろんこうしたことが水戸藩士たちの向学心に火をつけることになります。特に苦しい生活を送る下級武士たちにとって、学問は立身出世の最大の武器、あるいはそれしかないといったものになります。
水戸学派=改革派
また水戸学派の学者たちは藩主の側近となって藩政を行ってゆくわけですが、何分水戸は江戸での浪費などで慢性的な財政赤字で、また年貢も重く農村も疲弊しがちです。 そうした状況を何とか打開してゆかなければなりません。 つまり常に藩政改革に邁進してゆかなければならないことになります。
彼らの学問は、ただ考えるだけでなく実行力を伴わなくてはなりません。 つまり水戸学派の学者たちは常に改革派であるわけです。 さらに彼らの指導を受けた藩士たちも多くは改革派となります。 さらに藩主たちも幼少時から水戸学派の学者たちに教育されおり、改革派に近いものがあります。
争いの構図
その一方で歴代家老などを出している上級家臣たちからすれば、自分たちより身分の低い家臣、場合によってはもともと武士でもないものが学問に秀でているといっただけの理由で藩の重役となり、また石高においても自分たちと同様、あるいはそれ以上になるのを快く思うはずはありません。
また生活もそれなりに成り立っているので、特に藩政を改革というより、現状維持に傾く傾向があります。 藩主がどちらかといえば下級武士たちの改革派に近いことの裏腹に、上級家臣=門閥派はその頭越しに幕府との距離を縮めて行きます。
斉昭が藩主になる際、門閥派は将軍家斉の子推し、改革派は水戸家出身の斉昭を推したのは、その典型的な例といえます。 門閥派は水戸家の家臣でありながら、水戸出身の藩主を嫌った訳です。
さらに最終的には <改革派(天狗党)=新政府 VS 門閥派(諸生党)=旧幕府> といった構図で天狗党の乱、および弘道館戦争を同じ水戸藩士どうしで戦うことになります。 歴代の藩主は両勢力のバランスに苦慮するわけですが、心情的には改革派に近いものだったようです。
その溝はどんどん深くなっていった
このようにして水戸藩では下級武士や一部の農民、町人、神官などの改革派と、旧来の上級家臣の門閥派とに分かれてゆき、その溝は時を経るほど深くなり、最終的にはその家族まで巻き込む悲惨な戦闘を繰り広げることになります。
そうした派閥争いはどの藩にも多かれ少なかれあったのでしょうが、何故水戸藩では極めて極端なことになってしまったのか? その主な理由としては、まず水戸藩士たちのたいへん強い向学心と異常なほどの生真面目さや、純粋さにあったのでしょう。
純粋であることは美化されやすいですが、その一方で融通性のなさや、排他的、かつ不寛容にも繋がってゆき、自分の考えと違うものはすべて否定する傾向となります。
両刃の剣
水戸学や水戸藩士の行動は中央集権的な近代国家建設の大きな原動力になったのは確かでしょう。 また憲法や教育勅語などに取り入れられた水戸学的な考え方は以後の日本の国の発展の支えにもなりました。
しかしその水戸学を学んで育った水戸藩士たちの純粋さや不寛容性は、他を否定して極めて悲惨な戦を導き出します。 水戸学はまさに ”両刃の剣” でもあったでしょう。
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