fc2ブログ

中村俊三 ブログ

中村ギター教室内のレッスン内容や、イベント、また、音楽の雑学などを書いていきます。

水戸維新~近代日本はかくして創られた マイケル・ソントン 10



CCI_000047.jpg



私と水戸



栃木市は水戸に近いのだが

 私は茨城県の西隣の栃木県旧都賀町で生まれました。 旧都賀町は現在栃木市には編入されています。 栃木市は水戸からはほぼ真西に80キロくらいで、北関東自動車道を使うと1時間くらいで水戸に行けます。

 私は18歳まで、つまり高校生の時までその旧都賀町で暮らし、栃木市の高校に通っていました。 距離的には水戸は近いのですが大学受験で水戸に来るまで、特に用事もなく、全く水戸には行ったことがありませんでした。

 子供のころから地理は好きで、日本や世界の各地などそれなりに知識はあったのですが、水戸はあまりにも近すぎるせいか、あまり興味が湧かず、ほとんど印象に残っていません。



北関東どうしでは行き来が少ない

 他の北関東の人もそうかもしれませんが、栃木県人としては、東京にはよく行くもの、その ”横隣り” の茨城県や群馬県にはあまり行く機会がありません。

 水戸市にある茨城大学に入学したのは、希望学科があったとこや、受験科目等の関係で受験し、結局、他に合格した大学がなかったからということになります。



中心街をちょっとそれると

 初めて水戸に来た時、茨城県の県庁所在都市の割には、なんかこじんまりした街だなと思いました。 水戸駅の駅舎は当時まだ2階建てで、2階は大衆レストランになっていました。

 栃木県の県庁がある宇都宮市の二つの宇都宮駅(旧国鉄と東部鉄道)と比べると、やや都会らしさに欠ける感じもしました。

 泉町と南町にいくつかデパートがあり、その屋上から水戸の街を眺めてみると、市の中心街はなんか細長い感じで、ちょっと脇にそれるとすぐに田園地帯となり、随分狭い街だなと感じました。

 またそのいくつかのデパートを除くと高い建物はほとんどなく、平べったい感じもしました。 今では高層ビルが立ち並んでいる水戸駅の南側は本当に何もなく、湿地のようになっていました。



買いもの客であふれ

 しかしそのあまり広くない街のメイン・ストリート(旧国道五十号線)には買い物客などで人があふれ、気を付けないと人にぶつかってしまいます。 またバスもかなりたくさん走っていて、特に駅から大学まではかなりの本数がありました。

 当時はまだ自家用車などが普及してなく、人々の足としては電車かバスだったので、そのバスと電車の便がよい水戸の繁華街は大変賑わっていたのでしょう。 

  繁華街といえば泉町から大工町にかけては ”夜の歓楽街” ということで、特に週末の夕方頃からは大変賑わっていました。 学生の頃はよくこの辺りで飲み会などがあったものです。



かつての水戸市を知っている人は

 水戸市の人口は、私が水戸に来た年(1969年)は約17万人でしたが、2015年の国勢調査では約27万人で、今現在もほぼ同じと思います。

 今現在の人口は私が水戸に来た時より10万人ほど数字上は増えているものの、近隣町村の合併による効果も大きく、また市街地が郊外に広がって、ドーナツ化現象もあり、かつての中心街ではかえって人出が大変少なくなっています。

 また移動手段が電車やバスから車に代わって、特にメイン・ストリートを歩く人は、かつての水戸市を知っている人からすると、驚くほど少なくなっています。 今現在では多少よそ見をして歩いていても人にぶつかる可能性は低いです・・・・・ でも歩きスマホはやめましょう。

 さらに大工町などのかつての歓楽街も人出はめっきり減り、空きテナントも多くなっています。 こうした傾向は、特に1990年頃から目立つようになってきました。



AEON_MALL_Mito-Uchihara.jpg
水戸市内原のイオン・モール  最近は水戸市の中心街よりことのような郊外の施設のほうが人出が多い



あまり城下町らしくなく

 また水戸は徳川御三家の城下町だったということは知っていましたが、どうも街の中にはその名残はなく、せいぜい「三の丸」とか「大工町」とか言った町の名前に残っているくらいです。

 お城の跡は水戸一高になっていましたが、特に城門などお城らしき建物は残っていませんでした。 また武家屋敷、その他古い家などもなく、後から分かったことですが、そういった古いものは空襲で皆焼けてしまったそうです。
 
 水戸には”日本3大公園” の一つの偕楽園というのがあることは知っていましたが、光圀が作ったものかな? なんて思っていました。 もちろん本当は9代目藩主の徳川斉昭が弘道館と対で作ったものですね。 しかし当時は水戸といえば徳川光圀、というより水戸黄門くらいしか知りませんでした。



言葉の違いに驚いた

 もっとも、水戸に来て一番驚いたのは、その言葉です。 これは水戸に来た人が皆そう感じるようなのですが、水戸と私の生まれた栃木市とでは80キロほどしか離れていないのに、言葉はかなり違います。 

 それまで茨城弁など、その存在も知りませんでしたし、実際に全く聞いたことがなかったので、本当に驚きました。 同じ北関東でも栃木弁と茨城弁はまるで違います。

 「ごじゃっぺ」 とか 「いしこい」 とかいった初めて聞く単語もありましたが、それよりも気になったのはその抑揚というか、イントネーションです。 さらに 「来ない」 を 「きない」 と、学校で習った 「か行変格活用」 を全く無視した言葉使いをするのは一番驚きました。

 栃木にいる頃、こんな近くにありながら、こんなに違った文化圏があるということは全く想像できませんでした。 しかし今現在となってはネイティヴな茨城弁をしゃべる人はだいぶ少なくなってしまいました。 今となってはまるで喧嘩しているみたいにしゃべっていた大学時代の下宿のおじさん、おばさん、その子供たちの茨城弁が懐かしいです。



水戸人を気取っているが

 それから50年以上、 ”よそもの” だった私が、今では自分の教室でやっているギター合奏を 「水戸ギターアンサンブル」 と名付けたり、またメールアドレスを 「mitoguitar」 とするなど勝手に水戸のギター界を代表しています。  さらにギター関係者などとあいさつする際には 「水戸の中村です」 などと名乗るなど、すっかり水戸人気取りもしています。

 その割には、ちゃんと茨城弁もしゃべれず、これまで水戸についての知識もほとんどなく、まだまだ栃木からの ”出稼ぎ” 気分も抜けきれず・・・・・・   水戸人を名乗るのはお恥ずかしい限りということに気が付きました。



この本を読んで

 この本を読んで、水戸藩でおこった水戸学が近代日本形成に大きく関わるとか、また幕末には水戸を舞台に壮絶な戦いがあったとか。 そして徳川御三家の水戸藩は江戸時代約300の藩の中でもたいへん個性的、あるいは特異な藩であったとか。 今現在水戸がなんとなくこじんまりと見えるのは、逆にこのような歴史を持つからとか・・・・・

 さらには江戸時代から明治時代へ、この全く異なる国家制度への移行のひとつのキーワードが水戸学であるということとか、いろいろなことで水戸に関する認識を新たにしました。



帰水って?

 かつて水戸生まれの友人からの手紙に ”帰水” という熟語がありました。 最初は何のことかよくわからず、ただ文面からすると帰省のことのようなので ”水” のように見えるけど ”省” の漢字の省略形かな、なんて思っていました。

 しばらくして帰水とは ”水戸に帰る” という意味だと分かった時、なんかとても粋な言葉だなと思いました。 水戸の人は家に帰ることを 「帰水」 というのか、なるほど、カッコイイ・・・・

 その友人はやはり水戸人なんだなと思いました。 また水戸への誇りと強い愛情も感じました。 同時に私などには一生使うことの出来ない言葉だとも思いました、 ”本物” の水戸人はその意識からして違う。
 


自覚と誇りを持って言えるように

 私も水戸に来てから半世紀超え、間違いなくこの地に骨を埋めることになるでしょう。 若干遅きに失した部分もありますが、このあたりで多少なりとも水戸人としての自覚と誇りを持たなければならない時期といえるでしょう。 ”偽水戸人” と言われないためにも。

 この本に出合ったのも何かの縁、今後さらに水戸のことを勉強しようと思い始めた今日この頃です。
 
スポンサーサイト



コメント
コメントする
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する