中村俊三 ブログ

中村ギター教室内のレッスン内容や、イベント、また、音楽の雑学などを書いていきます。

 昨日はオランダの負けてしまいましたが、しかし最小失点での敗戦ということで、得失点で現在グループ2位というのはたいへんよい結果ですね。実質引き分けに匹敵する結果となりました。デンマーク=カメルーン戦で、カメルーンがもう1点失点すると全く違った状況になるので、終盤はひやひやしながら見ていました。カメルーンもよくがんばってくれました。

 昨日の試合では大久保、闘莉王などがよかったですね。大久保は期待されながらも、なかなか結果が付いてこなかった時期もありましたが、昨日の試合はたいへんよかったように思います。闘莉王のヘディングの強さはヨーロッパの強豪国にも十分に通用しますね、親善試合でのオウン・ゴールの名誉挽回というところでしょう。

 やはり(?)スペインは「無敵艦隊ぶり」を発揮してしまいましたね、無敵艦隊はもしかしたら闘うための船ではなく、絢爛たる豪華客船なのでしょうか。でもやはり見ていて惚れ惚れするサッカーですね、芸術点を2,3点くらい付けてやりたいところですが、残念ながらサッカーに芸術点はありません。



タレガの生徒たち

 またサッカーの話から始まってしまいましたが、タレガの話に戻りましょう。タレガにはたくさんの弟子たちがいたことを言いましたが、今日はそうした人たちついての話をしましょう。

 これらの本に書かれているタレガの生徒たちは、大きく分けると3種類になると思います。まず一つは、いわゆる一般の愛好者たちで、プロの演奏家を目指してタレガの下で修練を積むというより、タレガのファンと言ったたほうがよい人々です。これらの本の中では風変わりなイギリス人として詳しく紹介されているレッキー博士、裕福な未亡人のコンチャ夫人などが含まれます。

 こういった人たちは、タレガのコンサートには必ずといってよいほど行っていたようで、演奏旅行に同行することもしばしばだったようですが、あまりタレガの教えは実行しなかった(できなかった)ようです。しかしタレガはこうした一般の愛好者たちにも真摯な態度で接していたのでしょう。



ミゲル・リョベート

 次のカテゴリーは、タレガに師事した時にはすでに技術的にはある程度出来上がっていて、場合によってはプロのギタリストとして演奏活動なども行っていた人たちです。代表的な人としては、私たちのよく知るミゲル・リョベートが挙げられ、「パガニーニの主題による変奏曲」のところで名前の挙がったセベリーノ・ガルシア・フォルテア、イタリアの女流ギタリスト、マリア・リタ・ブロンディなどが挙げられます。

 私たちがタレガの弟子として真っ先に思い浮かべるのは、カタルーニャ民謡の編曲で知られているミゲル・リョベートだと思います。リョベートは1878年生まれということで、タレガより26歳年下で、1902年にプロ・ギタリストとしてデビューし、タレガが亡き後はクラシック・ギター界の第一人者として活動していました。

 リウスの本には、雑誌に掲載されたタレガへの追悼文が載せられ、追悼文の中ではリョベートはタレガのことを「わが師」と呼んでいます。タレガのほうはリョベートに対しては、「わが友」といったように弟子というよりは一人の優れたギタリストとして尊敬していたようです。



リョベートの演奏をたよりに

 プジョールはリョベートのことを「ギターだけでなく、絵画など芸術一般に優れた才能を持つ人」と述べており、「タレガから多くのことを学んだが、その音楽的傾向は異なる」と言っています。しかし100年後の私たちにとっては(私は1951年生まれなのでタレガとはほぼ100歳違います)やはりタレガとリョベートは近いギタリストと考えられます。

 リョベートの演奏は当時SP盤に録音されており、現在CDで聴くことが出来ます。タレガの演奏を直接聴くことが出来ない私たちとしては、このリョベートの演奏をたよりに、タレガの演奏をイメージするしかないかも知れません。ただしリョベートは、タレガの作品の演奏は残していません。



S.G.フォルテア、 マリア・リタ・ブロンディ

 セベリーノ・ガルシア・フォルテアはタレガのほぼ同年代のギタリストで医師でもあったようです。プジョールはこのS.G.フォルテアについては「マエストロ(タレガ)と同等のレパートリーを持つ」といっており(前述の「パガニーニの主題による変奏曲」も二人とも弾いていたのでしょう)、タレガの自宅には頻繁に出入りし、よくタレガと二重奏を行っていたと言っています。

 マリア・リタ・ブロンディはタレガのレッスンを受けた時には、すでに技術的には出来上がっていたようで、本人は今までやってきたことをすべて否定されるのではと心配していたようですが、そうしたことはなく、タレガは彼女がそれまでに身に付けたことを尊重しながらレッスンしたようです。ブロンディはタレガには2~3ヶ月くらいの間集中的にレッスンを受けたようで、後にリュートの演奏や研究でも知られるようになったようです。



次世代を担う

 次のグループは比較的若い年代でタレガに師事し、基礎からタレガに習い、タレガの下で一人のギタリストとして育ったギタリストたちです。このグループには著者のエミリオ・プジョールをはじめ、ホセフィーナ・ロブレド、 ペピータ・ロカ、 ダニエル・フォルテア(前述のセベリーノ・ガルシア・フォルテアとは血縁はない)などが含まれ、これらのギタリストたちはタレガの没後50年の1959年に記念コンサートを行っています。



著者プジョール

 プジョールは1902年、17歳の時からタレガに師事していますが、タレガがバルセロナの自宅にいる時には必ずタレガのもとに行き、タレガが不在の時にも他の弟子とともにタレガの自宅に行っていたようです。そうした時はヴァイオリニストをしているタレガの弟のビンセンテが指導にあったようです。

 プジョールは毎朝の基礎トレーニングも師と共に行っていて、晩年の師の介護にも当たっていたようです。おそらく晩年のタレガに公私共に寄り添うように生活していて、いわばタレガの「内弟子」的存在だったのでしょう。プジョールにしてみれば17歳から24歳の多感な時期に過ごしたタレガとの時間は、プジョール自身の生涯にとっても大きな位置を占めたのではないかと思います。こうしたことが後にタレガの伝記を書くことに繋がったと考えられます。



元祖(?)天才美少女ギタリスト

 ホセフィーナ・ロブレドは12歳の時にタレガに出会い、以来タレガのレッスンを受けたとされています。前述のとおりその出会いの時に、タレガの作品とは知らずに「アラビア風奇想曲」をタレガの前で弾いたそうなので、かなりの素質があったと思われます。「天才美少女ギタリスト」のはしりといったところでしょうか。3年後の15歳(1907年)で「家計を助ける」ためにプロ・デビューしたと書いてありますから、その上達の早さもハンパではなかったのでしょう。ロブレドは後に南米にわたり、その地で活動しました。なおリウスの本には彼女の母親などにあてた多数の手紙が掲載されています、遺族などから提供があったのでしょう。



もう一人のフォルテア

 ダニエル・フォルテアは1878年生まれで、20歳の時、つまり1898年にタレガに出会い、以後レッスンを受けています。出会いの時の話として、フォルテアはタレガが宿泊している家の前で、兵隊服の姿で降りしきる雨の中、ずぶぬれになって聴こえてくるタレガのギターに聴き入っていたところ、家人によって家の中に招き入れられたと書かれています。

 晩年のタレガは、コンサートでは自らの独奏の他、このフォルテアとの二重奏をプログラムに入れていました。曲目としてはビゼーの「アルルの女」の他ベートーヴェンやモーツァルトの曲などのアレンジが主だったようです。現在ではこうした二重奏の譜面をなかなか目にすることは出来ませんが、いずれは出版されることを期待しましょう。

 

 
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