中村俊三 ブログ

中村ギター教室内のレッスン内容や、イベント、また、音楽の雑学などを書いていきます。

私のギター修行

本日より新連載

 当ブログでは、これから「中村俊三のギター上達法」に代わって、「私のギター修行」を連載して行きます。音楽などには全く縁のない環境に生まれ育った私が、なぜ現在このようにギター教師などやっているのか、といった話です。

 ギターなどのレッスンの場合、良くも悪くも、教える人によってその内容は大きく変わってしまいます。そういった意味で、特に私のレッスンを受けている人などにとっては、私がどの様にギターを学んできたかといことを知ることは、今後のレッスンに大いに役立つのではと思います。またこれから私のレッスンを受けようかなと思っている人にも何かの参考になるのではとも思います。もっとも、その結果「この先生にだけは習うのやめようか」となるかも知れませんが。

 また私と同年代くらいのギター愛好者の方は、おそらく似たような経験もされているのではと思いますので、ご自分の経験などと照らし合わせてみるのも一つと思います。また若い人にとっては、昔はどうだったのかなという意味で読んでいただければと思います。特に最初の段階ではあまりギターに関係ないことも多くなると思いますが、面白かったら読んでみて下さい。予定としては週に一回くらいの頻度で更新してゆこうと思っています。なお「中村俊三のギター上達法」については、まだまだお話したいこともあるので、いずれまた再開します。
 
  ・・・・では早速始めましょう。




<1年早く>


本当の誕生日

 私が小学生の頃、当時通っていたそろばん塾で検定試験の書類に名前や生年月日などを書いて提出しましたが、その時、先生が私が書いて提出した検定試験の申込書を指さしながら

   「お前、ここに書いてある誕生日、間違っているじゃないか! なんで自分の誕生日なんか間違えるんだ、おかしなやつだな」

と呆れられたことがありました。その時うっかりと自分の「本当の」誕生日を書いてしまったのです。私の正しいというか、戸籍上の誕生日は1951年(昭和26年)の3月31日となっていますが、母の話によれば私が生まれたのは1951年4月3日だそうで、学校に早く入れるために誕生日を3月31日ということで届けを出したそうです。そのことはよく母に言われていて、子供の頃は自分の本当の誕生日は『4月3日』だが、戸籍上は『3月31日』と使い分けていました。誕生日を聞かれた時も「誕生日は3月31日というこになっているけど、本当に生まれたのは4月3日」なんて答えていたと思います。



もとはとった

 そんなこともあって、その後はなるべくその使い分けをやめ、自分の誕生日は3月31日一本で考えるようにし、4月3日と人に言うこともなくなりました。もちろん現在、家での誕生祝い(といっても小さなケーキを買うだけですが)も3月31日でやっています。と言うわけで私の場合、本来より1年早く小学校にあがってしまった訳です。一般的に早く小学校に入るにはいろいろな面で不利と言われますが、私の場合は小さい頃から、このことについて特に不満を感じたこともなく、他の人よりも1年早く大人になれるということで、むしろ歓迎していました。もう1年子供をやることの方が当時の私としては辛かった気がします。もっとも、その後大学に6年間いたので、しっかりと「もと」はとってしまいました。



頭一つ

 私は今もそうですが、その当時も立っていると身長は低い方なのですが、座ると急に大きくなります。小学校の入学写真を見ると、身長の関係で最前列に座っているのですが、まわりの子たちより、頭ひとつ飛び出しています。おまけに太陽が眩しくて目をつぶってしまい、ちょっと残念な入学写真になってしまいました。ただ座高が高いのは意外とギターを弾くには有利です。




<生まれたところは>


人面杉

 私が生まれ育ったのは栃木県の南部にある栃木市の北隣の都賀町(当時は都賀村)というところで、当時は近所のほとんどの家が農家でした。私の家は大通りから細い道を百数十メートルほど入ったところにあり、3方は水田、1方は小さな雑木林になっていました。その関係で夏などは、学校の行き帰りにその雑木林の前でよく、へびに遭遇し、それがとても恐かったでした。

 恐かったといえば、夕暮れに遊びから帰る時など、水田越しに2~300メートルほど離れたところにある何本かの杉の木が夕暮れ時になると、まるで人の顔のように見えました。その吊り上った目、大きく開いた口は「お前を食べてやる!」と言っているように見え、とても恐く、なるべくそっちを見ないようにしながら、いつも全速力で家に逃げ込みました。



峻厳な山々

 家の西の方には足尾山系から続く比較的低い山々が数キロメートルほどのところまで迫っています。西南の方には桜の名所でもある太平山があり、西北の方は日光連山へとつながっています。家の西側は南から北まで、途切れることなく山々がまるで壁のように立ち並んでいます。さらに北の方には塩原の高原山も見えます。男体山など日光連山の山々は、冬には白く雪化粧し、とても峻厳な感じがします。男体山などの白い雪は溶岩の流れに沿って筋状に見え、子供の頃はそれをスキーで滑った跡だと本当に思っていました。



三角定規とラクダ

 家の真東には筑波山が見え、その少し北の方に加波山が見えました。筑波山は三角定規を二つ合わせたように見え、加波山はまるで二つコブのラクダの背中ように見えました。子供の頃よくそっちの方を見て「あの山の向こうはどんなところだろう、どんな人が住んでいて、どんな生活をしているのかな」と思っていました。 将来、その「二つコブのラクダの向こう側」で生活を営むようになるとは知るよしもありませんでしたが。さらに北の方には八溝山系の低い山が見え、天気のよい日には遠くに那須連山、そして先ほどの塩原の高原山につながり、私の家からは南の一角を除いて、遠くの山がぐるりと取り囲んだようになっています。



緑の海に囲まれた

 私の家と隣の小さな雑木林は四方を水田に囲まれ、まるで水田の中に浮かぶ小さな島のようで、特に家の前の方は間近まで水田が迫っていました。稲が少し育った頃には、風で波が押し寄せて来るように稲が揺れ、本当に緑の海といった感じでした。津波で家の真下まで波が迫り、今にも家が流されそうになる夢をよく見ました、私の潜在意識の中では本当に「緑の海に囲まれた家」というイメージがあったのでしょう。



田園交響曲

 今の私に比べると、その当時はとても自然と親しかったように思います。ちょっとした自然や風景の変化にも今よりもずっと敏感に反応していました。

 梅雨時に、雨がしばらく続いた後の晴れ間には、家の前の小さな庭にいくつものこうもり傘が並べられ、軒先にはありったけの洗濯物がつるされ、まぶしい太陽、輝く緑、黒い土。とても爽やかで、明るい気分になります。ちょうどベートーヴェンの「田園交響曲」の神に感謝する第5楽章のような気分です。もっとも当時はそんな曲聴いたことがありませんでしたが。



春の祭典

 早春の頃の雨上がりには、耕した水田の黒い土の塊からもうもうと水蒸気が上がることがあります。何か得体の知れないものが湧き上がってくるようで、とても幻想的な雰囲気です。地上の光景とは思えません。音楽で例えれば、ストラヴィンスキーの「春の祭典」のファゴットで始まる序奏といったところでしょうか。



ブラームス:交響曲第4番

 もうすぐ本格的な冬が始まるという時期、隣の小さな雑木林のクヌギの木から、西風に乗って木の葉がまるで吹雪のようにいっせいに舞落ちてきます。ほんのり雪化粧をし始めた日光連山を遠くに見ながら、真っ青な空にたくさんの木の葉が舞うこの光景は、本当に美しいものです。でも同時に何かが終わってしまうような、一抹の寂しさのようなものも感じました。これはなんといってもブラームスの「交響曲第4番」の第1楽章の憂愁に満ちた主題でしょうか。もっともブラームスの音楽は、たいてい晩秋の色合いですが。



空高く聳え立つ楼閣

 栃木県といえば雷の産地みたいなところで、夏の午後の東の空には、よく入道雲が見られました。時にはそれがとても大きく育つことがあり、まるで空中に浮かんだ巨大な楼閣のようで、その偉容はたいへん壮観なものです。もちろんしばらくすると「ゴロゴロ、ドカン」とたいへんなことになります。

 直接家に落ちたことはありませんが、近くに落ちたりすることは時々あります。神社の高い木のほとんどには落雷で焦げたあとがあり、水田にも稲が落雷により、ミステリー・サークルのように直径10メートルほど正円状に黒ずんだあとが見られことがあります。またその雷雨があがると東の空に大きな虹がかかることがあり、端から端までくっきりと見えて、たいへん壮大です。子供の頃見た空は、今見ている空よりもずっと広く、大きかったように思います。

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