<バッハ・シャコンヌ再考 29>
ギター編曲
やはり原曲どおりヴァイオリンで聴くのが最もよいが
バッハの無伴奏曲(ヴァイオリン、及びチェロ)は、バッハ自身、あるいは同時代のの他の音楽家によってで他の楽器などに編曲して演奏されており、 チャコーナについても他の楽器で演奏することは可能なのですが、しかしやはりバッハのチャコーナは4本の弦しか持たない1台のヴァイオリンのために作曲されています。
もしこのチャコーナが他の楽器や編成のために作曲されたとしたら、全く別のものになっていたのではないかと思います。 単に音の数が違うだけでなく、構成そのものが全く違うものになっていたと考えられます。 そもそも、バッハはチェンバロやオルガンのためにだったら、あまり普通すぎてチャコーナなど作曲する意欲そのものが湧かなかったのではないかと思います(・・・・ちょっと考え過ぎ?)。
そう言いきってしまうと立場はない
私個人的な好みからしても、チャコーナは、やはり原曲の独奏ヴァイオリンで聴くのが最もよいと思いますが、しかし絶対に他の楽器で演奏してはならない、などと言ってしまっては、私たちの立場はない! 「はやりギターはいいんじゃないの、結構! それなりに」 などと言ったらただの身びいきみたいなものかも知れません。
”個人の感想” というやつでしょうが、私自身ではギターで演奏したチャコーナには、ほとんど違和感を持ちません(もちろん編曲や演奏にもよるが)。 もちろんだからこそ自分でも編曲して演奏しているわけで、そうでなかったら、こんな文章書いていないでしょう。
聞き手の集中力と想像力を要求する曲
チャコーナは原曲どおりに無伴奏ヴァイオリンで演奏した時が最も緊張感が高いでしょう。 それは多声的な音楽を4本の弦に押し込めてしまった窮屈感、あるいは和声や低音などを聴き手の想像力に依存する部分などによるものでしょう。 もちろんそれはバッハの狙いでもあるわけです。 多くの制約を逆手にとったのがこの作品だということは以前にも書きました。
暗示だけの音も現実の音に出来る
その点、ギターは弦が2本多いだけでなく、ヴァイオリンよりも複数の音を同時に鳴らしやすい、またアルペジオ的なパッセージでもヴァイオリンの場合は単旋律になってしまうが、ギターの場合はちゃんとアルペジオになる。 また暗示したあるだけの低音も現実のもにすることが出来る。
そして、これが最も大きなことですが、ギターにも”そこそこ”制約がある。 チェンバロのようになんでも出来てしまう訳ではないし、余韻もハープのようにすべての音が残ってしまうわけではなく、選択されて残る。
濃縮還元ジュース?
つまり、ギターでチャコーナを演奏するということは、原曲の本質的な内容を損なうことなく、原曲の持つ強い緊張感を少しマイルドにして聴き手に届けることが出来るという訳です。 言ってみれば濃縮された原液を水で割って飲みやすくする ”濃縮還元ジュース” みたいなものではないかと思います。
ギターでチャコーナを演奏するのは自然なこと ・・・・・ちょっとゴリオシ?
この曲を作曲する時、おそらくバッハはリュートで演奏されるチャコーナが念頭にあったのではと思います。 そういった意味ではリュートの後継者に当たるギターでこの曲を演奏することは、かなり自然なことではないかと思います。 ・・・・・・・ちょっとゴリオシ気味かな?
無数のギター編曲が存在する
ギターで演奏する場合は、ピアノのとは異なり、今現在では、少なくともプロのギタリストの場合、そのギタリスト自らの編曲で演奏するのが普通となっています。 他のギタリストなどの編曲を使う方がむしろ少数派と言えるでしょう。 ということは、今現在、バッハのチャコーナには非常にたくさんのギター編曲が存在しているということです。
実際にギター専門店などのカタログにも非常にたくさんのチャコーナのギター編曲が載っていて、かえってその選択に愛好者たちを悩ませていることと思います。
最もよく知られたセゴヴィア編
それらの中で、最も知られているがアンドレス・セゴヴィアの編曲です。 かつてはアリリオ・ディアス、クリストファー・パークニングなど、セゴヴィア以外の多くのギタリストがこのアレンジで演奏していました。 またこのセゴヴィア版を基にした二次的な編曲譜も各種出版されていました(阿部保夫編、山下和仁編など)。
セゴヴィアのアレンジは原曲に若干低音などを追加したもので、原曲を大幅に変更するような点はありません。 ただし運指などは、合理的というより、文字通り”セゴヴィア的” といったところでしょう。

アンドレス・セゴヴィア編(ショット社) かつてはほとんどのギタリストがこのバージョンを用いていた

クリストファー・パークニングはセゴヴィア編のチャコーナを弾いている。 バッハの演奏してしては異論もあるが、ともかく美しい演奏
何も足さない、何も引かない ~全く編曲しない編曲
最近では全く原曲のまま、つまり完全にヴァイオリンの譜面通りにギターで演奏するギタリストも少なくないようです。 私に知る限りでは、ペペ・ロメロ、 ケルスティ・アイゼンバート、 ニコラ・ホール、 村治奏一 などがいます。 まさに ”何も足さない、何も引かない” といったところなのでしょう。

ニコラ・ホールの1990年の録音。 パルティータ第2番を全曲ヴァイオリンの譜面通りに演奏している。 ちょっと懐かしいCD。
これらはバッハの意図を最大限に尊重してといった姿勢なのでしょうが、 しかしバッハの考え、あるいは当時の習慣として、楽器が変わった場合には、必ず何らかの変更が加えられるのが普通で、 楽器が変わったにも関わらず、譜面を全く変えないというのは、むしろ異例です。 調などにしても楽器が変われば変えられるのが常識でした。

1990年パリ国際ギター・コンクールで優勝したケルスティン・アイゼンバート バッハのチャコーナの演奏では⑥弦を「レ」にしているが、曲の中では一度も弾いていない。 別にチューニングを変えなくても?
21世紀になってからは
漠然と聴いた感じでも、”何も足さないアレンジ” はやはりちょっと窮屈な感じというか、禁欲的な感じがします。 ギターで演奏する場合は、やはりある程度の低音などの追加があったほうがずっと聴きやすいのではと私は思います。 もっとも、こうした傾向(全く原曲通りに弾く)は、厳密に言えば30年~⒑数年くらい前までで、このところ(21世紀になってから)は、こうした演奏をあまり聴かなくなりました。
ギター編曲
やはり原曲どおりヴァイオリンで聴くのが最もよいが
バッハの無伴奏曲(ヴァイオリン、及びチェロ)は、バッハ自身、あるいは同時代のの他の音楽家によってで他の楽器などに編曲して演奏されており、 チャコーナについても他の楽器で演奏することは可能なのですが、しかしやはりバッハのチャコーナは4本の弦しか持たない1台のヴァイオリンのために作曲されています。
もしこのチャコーナが他の楽器や編成のために作曲されたとしたら、全く別のものになっていたのではないかと思います。 単に音の数が違うだけでなく、構成そのものが全く違うものになっていたと考えられます。 そもそも、バッハはチェンバロやオルガンのためにだったら、あまり普通すぎてチャコーナなど作曲する意欲そのものが湧かなかったのではないかと思います(・・・・ちょっと考え過ぎ?)。
そう言いきってしまうと立場はない
私個人的な好みからしても、チャコーナは、やはり原曲の独奏ヴァイオリンで聴くのが最もよいと思いますが、しかし絶対に他の楽器で演奏してはならない、などと言ってしまっては、私たちの立場はない! 「はやりギターはいいんじゃないの、結構! それなりに」 などと言ったらただの身びいきみたいなものかも知れません。
”個人の感想” というやつでしょうが、私自身ではギターで演奏したチャコーナには、ほとんど違和感を持ちません(もちろん編曲や演奏にもよるが)。 もちろんだからこそ自分でも編曲して演奏しているわけで、そうでなかったら、こんな文章書いていないでしょう。
聞き手の集中力と想像力を要求する曲
チャコーナは原曲どおりに無伴奏ヴァイオリンで演奏した時が最も緊張感が高いでしょう。 それは多声的な音楽を4本の弦に押し込めてしまった窮屈感、あるいは和声や低音などを聴き手の想像力に依存する部分などによるものでしょう。 もちろんそれはバッハの狙いでもあるわけです。 多くの制約を逆手にとったのがこの作品だということは以前にも書きました。
暗示だけの音も現実の音に出来る
その点、ギターは弦が2本多いだけでなく、ヴァイオリンよりも複数の音を同時に鳴らしやすい、またアルペジオ的なパッセージでもヴァイオリンの場合は単旋律になってしまうが、ギターの場合はちゃんとアルペジオになる。 また暗示したあるだけの低音も現実のもにすることが出来る。
そして、これが最も大きなことですが、ギターにも”そこそこ”制約がある。 チェンバロのようになんでも出来てしまう訳ではないし、余韻もハープのようにすべての音が残ってしまうわけではなく、選択されて残る。
濃縮還元ジュース?
つまり、ギターでチャコーナを演奏するということは、原曲の本質的な内容を損なうことなく、原曲の持つ強い緊張感を少しマイルドにして聴き手に届けることが出来るという訳です。 言ってみれば濃縮された原液を水で割って飲みやすくする ”濃縮還元ジュース” みたいなものではないかと思います。
ギターでチャコーナを演奏するのは自然なこと ・・・・・ちょっとゴリオシ?
この曲を作曲する時、おそらくバッハはリュートで演奏されるチャコーナが念頭にあったのではと思います。 そういった意味ではリュートの後継者に当たるギターでこの曲を演奏することは、かなり自然なことではないかと思います。 ・・・・・・・ちょっとゴリオシ気味かな?
無数のギター編曲が存在する
ギターで演奏する場合は、ピアノのとは異なり、今現在では、少なくともプロのギタリストの場合、そのギタリスト自らの編曲で演奏するのが普通となっています。 他のギタリストなどの編曲を使う方がむしろ少数派と言えるでしょう。 ということは、今現在、バッハのチャコーナには非常にたくさんのギター編曲が存在しているということです。
実際にギター専門店などのカタログにも非常にたくさんのチャコーナのギター編曲が載っていて、かえってその選択に愛好者たちを悩ませていることと思います。
最もよく知られたセゴヴィア編
それらの中で、最も知られているがアンドレス・セゴヴィアの編曲です。 かつてはアリリオ・ディアス、クリストファー・パークニングなど、セゴヴィア以外の多くのギタリストがこのアレンジで演奏していました。 またこのセゴヴィア版を基にした二次的な編曲譜も各種出版されていました(阿部保夫編、山下和仁編など)。
セゴヴィアのアレンジは原曲に若干低音などを追加したもので、原曲を大幅に変更するような点はありません。 ただし運指などは、合理的というより、文字通り”セゴヴィア的” といったところでしょう。

アンドレス・セゴヴィア編(ショット社) かつてはほとんどのギタリストがこのバージョンを用いていた

クリストファー・パークニングはセゴヴィア編のチャコーナを弾いている。 バッハの演奏してしては異論もあるが、ともかく美しい演奏
何も足さない、何も引かない ~全く編曲しない編曲
最近では全く原曲のまま、つまり完全にヴァイオリンの譜面通りにギターで演奏するギタリストも少なくないようです。 私に知る限りでは、ペペ・ロメロ、 ケルスティ・アイゼンバート、 ニコラ・ホール、 村治奏一 などがいます。 まさに ”何も足さない、何も引かない” といったところなのでしょう。

ニコラ・ホールの1990年の録音。 パルティータ第2番を全曲ヴァイオリンの譜面通りに演奏している。 ちょっと懐かしいCD。
これらはバッハの意図を最大限に尊重してといった姿勢なのでしょうが、 しかしバッハの考え、あるいは当時の習慣として、楽器が変わった場合には、必ず何らかの変更が加えられるのが普通で、 楽器が変わったにも関わらず、譜面を全く変えないというのは、むしろ異例です。 調などにしても楽器が変われば変えられるのが常識でした。

1990年パリ国際ギター・コンクールで優勝したケルスティン・アイゼンバート バッハのチャコーナの演奏では⑥弦を「レ」にしているが、曲の中では一度も弾いていない。 別にチューニングを変えなくても?
21世紀になってからは
漠然と聴いた感じでも、”何も足さないアレンジ” はやはりちょっと窮屈な感じというか、禁欲的な感じがします。 ギターで演奏する場合は、やはりある程度の低音などの追加があったほうがずっと聴きやすいのではと私は思います。 もっとも、こうした傾向(全く原曲通りに弾く)は、厳密に言えば30年~⒑数年くらい前までで、このところ(21世紀になってから)は、こうした演奏をあまり聴かなくなりました。
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