中村俊三 ブログ

中村ギター教室内のレッスン内容や、イベント、また、音楽の雑学などを書いていきます。

<7人家族>


九死に一生

 私達の家のから300メートルくらい離れたところに父の生まれた家があります。父は小学校を卒業するとすぐに大工の修行で東京に行き、しばらくして、そこで母と結婚しました。戦争中は軍属としてインドネシアに行っていて、戦争の最後の年、つまり昭和20年にタンカーに乗って本土に帰りました。当時完全に制空、制海権とも握っていたアメリカ軍の潜水艦や飛行機にとって日本のタンカーなど第一の攻撃目標ですから、無事本土に帰って来れたのは奇跡的だったようです。実際に爆撃に会い、父がいつも寝泊りしていたところに爆弾が落ちたのですが、父はたまたまその時、別の場所にいたので奇跡的に助かったのだそうです。またタンカー自身も浸水して傾き、父など同乗していた人たちは甲板から海に飛び込もうとしたのだそうですが、乗組員などに「この船はこれくらいでは沈まないから」と制止され、何とか本土まで帰れたのだそうです。

 父はいわゆる昔風の職人で、仕事以外には趣味らしいものもなく、また気性も荒く、気に入らないことがあればすぐちゃぶ台をひっくりかえしたり、子供たち殴ったりしていました。雨の日は父が家にいるので、私たち子供は借りてきた猫状態になってしまいます。子供の頃は父と面と向かって話しをした記憶はありません、進学の話など、どうしても言わなければならないことは母を通じて言ってもらっていました。



わずかばかりの前借金と引き換えに

 母の生まれた家は私達の家から数キロ離れた、現在の栃木市内にありましたが、たくさんの田畑や山林、広い屋敷地などを持つ裕福な農家だったそうです。しかし母の父(私の祖父)の放蕩により財産を失い、夜逃げ同然で東京に引越し、その時母はまだ小学生だったにもかかわらず、わずかばかりの前借金と引き換えに、手伝い奉公に出されたそうです。飲む、打つ、買う、で先祖代々の財産を食いつぶした上に、歳端も行かない自分の娘まで身売り同然に奉公に出したわけですから、普通に考えれば全く身勝手極まりない父親ということになりますが、母は恨み言をいうどころか、「私の父親っていうのはほんとにいい男でねえ、若い頃お祭りなんかでやぐらの上で歌ったり太鼓叩いたりすると、村の若い娘さんたちが、きゃあきゃあ言って、それはもうたいへんだったんだから」と、さもその場にいたように、またとても愛おしそうに自分の父親のことを語っていました。

 私が小さい頃、よく「お前はこのおじいさんにそっくりだねえ」とすっかりセピア色になった祖父の日露戦争の時の写真を私に見せながら言っていました。また私がギターをやるようになってからも「お前はおじいさんの血を引いているから芸事の才があるんだよ、血は争えないねえ」とよく言っていました。その母にはたいへん申し訳ないことなのですが、現在の私の外見は、私自身の父親にそっくりになっています。また「芸事の才」もあまり受け継いではいないようです。

 私が子供の頃は、他の家族が起きるずっと前から起きて食事の支度をし、昼間は農家の手伝いに行き、夜は内職のようなもをし、子供たちなどが寝静まってから一番最後に寝ていました。子供の頃は母の寝ているところを見たことはなく、いったいいつ寝ているんだろうと思っていました。食糧事情のまだまだよくない頃で、おいしいものは自分では食べず、皆子供たちに食べさせていました。



5人兄弟の一番下

 兄弟は5人で、私はその5人兄弟の一番下。2才上の兄、4才上の姉、10才上の姉、14才上の兄となっていました。14才上の兄はもの心付いた時からすっかり大人で、兄弟というよりは「もう一人の父親」といった感じでした。
 米軍の攻撃から奇跡的に生還した父も、私が進路を急転換して「プロのギタリストになる」と言い出した時、何も言わずに賛成してくれた母も、私がギターをやる直接的なきっかけを作ってくれた14才上の兄も、今はすでに他界しています。

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