中村俊三 ブログ

中村ギター教室内のレッスン内容や、イベント、また、音楽の雑学などを書いていきます。


来年期待

 金沢から帰ると、翌日はすぐ東京理科大の試験。初めての寝台列車では結局一睡もできず、また翌日も早朝まだ暗いうちに起きなければならず、旅の疲れと、睡眠不足でかなりぼうっとした状態で試験に臨みました。数学ではたいして難しくない問題でも再三やりなおすなど、集中力はサッパリと言った状態で、結局こちらも不合格でした。残るは茨城大学だけということになりましたが、学校でサッカー部の仲間に合うと、聞こえてくるのは落ちた話ばかり。「どっちみち今年は捨ていたからね、まあ模擬試験のつもりだったし。もう1年きっちりやって、来年もっとグレードの高いところ受けるんだ」などと異口同音に言っていました(結果的にそれは実現していて、彼らは翌年早稲田大学や東京教育大学[筑波大学の前身]などに入学しました)。だんだん私も翌年期待しようという気になり、茨城大学のほうは経験を積む程度にと考えようになってきました。


水戸は近くて遠い

 という訳で、足取りも重く、今風に言えばテンションも上がらないまま、茨城大学に向かいました。私の実家(栃木県の栃木市の近く)から水戸までは直線距離にして約80キロ程度で、近いといえば近いのですが、それまで水戸はおろか、他の茨城県内にも行ったことがありませんでした。当時の私としては水戸は近くて遠いところだったのです。地図を見るのが好きだった話はしましたが、なぜかこのあたりには興味がわかず、地図上でも行ったことがなく(ちょっと変な表現ですが)、水戸という町のイメージが湧きません。

 私の実家から水戸に行くには(もちろん車でではなく)、最初は東武日光線で栃木駅に行き、そこで両毛線に乗り換え、さらに小山から水戸線に乗り換えます。乗り換え時間も考えると3時間以上はかかるでしょうか、東京に出るよりずっと時間がかかります。やはり水戸は近くて遠いのです(車だと2時間前後)。水戸線もこの時初めて乗りました。電車の窓から見る景色は、金沢に行った時ののような日本海の暗くて厳しいものではなく、明るくのんびりとした感じでした。確かに季節も春に近づいていました。


旅館で

 まだ2階建てだった水戸の駅舎に着くと、案内係りの学生がいました。旅館名などを告げると「あ、ここ、じゃあね、そこ左のほうにずうっと行って、○○メートルくらい行くと、○○の近くにあるから」と口頭で道順などを教えられました。金沢の時は旅館が駅から遠かったのですが、係の学生が一緒にバスに乗ってわざわざその旅館まで案内してくれて、その途中、大学や金沢の町のことなどいろいろ説明してくれました。

 水戸駅から常磐線沿いに5分程歩いたところにその旅館はありました。部屋に案内されてびっくりです、なんと8畳か10畳くらいの和室に受験生が7、8人もいるではありませんか、布団を敷き詰めるともう隙間はありません、一人、畳一枚といった感じです。もちろん豪華な部屋など期待はしていませんでしたが、でもこれではあんまりではないかと思いました。さらに夜になって、工事用のヘルメットなどをかぶった集団が旅館に押し寄せてきて、その旅館にいた受験生を一つの部屋に集め、「我々は・・・・  国家権力の・・・・  断固として・・・・ 粉砕・・・・ 」など意味不明の言葉を、独特の言い回しで叫んでいます。当時(1969年)は大学紛争の真っ只中だったのです。


さらに

 私は本当にとんでもない所に来てしまったなと思いましたが、でもまだ終わりではありません。翌朝、つまり試験当日になって、朝食がなかなか来ません。やっと来たと思ったら、ご飯がとても熱い。あまりゆっくりもしていられないので無理して食べるとなんと「ガリッ」。ほとんど生煮え状態。文句を言いたい気もしましたが、それどころではないので、食事も早々に、旅館を出て試験場である茨城大学へと向かいました。

 行ってみて試験場にびっくり! そこは朽ちかけたような木造校舎で、窓は所々割れていたり、床板もあちこち抜けている。何と言っても汚く、あまり掃除をしている様子もない。こんな校舎今まで見たことがない、これが本当に大学の校舎なんだろうかと思いました。


また来ることはないと思うけど

 このボロ校舎、「3ゴウカン」と言って、実はその後たいへんお世話になることになります。教養部の授業も1部ここで受けましたし、なんといってもクラシック・ギター部の練習場になっていたのです。ボロ校舎が幸いして、我クラシック・ギター部で独占して使用し、授業さえなければ(実際はかなり少ない)どの部屋も使い放題だったのです。合宿中など、深夜に練習しても全く問題ありませんでした。木造だったので、音響的にも結構よかったでした。2年くらいしてその校舎が取り壊されてしまった後は練習場には不自由しました。だがもちろんその時はそんなこと知るよしもありません、水戸に来てから最悪のことばかり、ますます「またここに来ることはない」という確信を深めるだけでした。

 受験生といっても基本は高校生ですからたいていは制服姿で、金沢の時にはほとんどの受験生が制服でした。でもこの茨城大学ではジャケットなどの制服以外の姿が目立ちます、浪人生が多いのでしょうか。私の斜め後ろにはグレイのジャケットを着た受験生がいて、見た目は大学生というより、社会人といった感じで、なんとなく斜に構えた感じでした。その人はどの教科も終了時間を待たずに答案用紙を出して退室してしまいます。よほど出来る人なのでしょうか、それとも入学する気が全くなく、模擬試験のつもりで来ていたのでしょうか(その後入学しなかったのは確かです)。

 この年は全国で大学紛争が荒れ狂い、東京大学と東京教育大学(前述の筑波大学の前身)では入試がありませんでした。どちらも理学部が評価の高いところだったので、そのしわよせが他の大学に及び、全国的に理学部の競争率が上がることになりました。それで私も入試に苦戦した、などいうのは単なる言い訳でしょう。またそれによって多くの浪人生を生み出したり、本命の大学をあきらめて第2、第3志望の大学に入学する人も多かったと思います。

 試験の方で、英語や国語は難しく感じ、特に国語は後の自己採点でも2、30点くらいでした。それに対し理科や数学はほぼ正解といった感じで、自己採点では低く見てもそれぞれ80~90点くらいにはなっているのではないかと思いました。でも合否はどちらでもよいと思いました、合格の場合でも入学はしないことに決めていましたから。

 試験から10日ほど経って、合格の電報が来ました。電報を受け取った時は、入学はしないと思っていましたが、でもその考えはあまり長く維持できませんでした。時間が経つにつれて考えも変わって行き、2時間もすると、「せっかく合格したのに行かない手はあるものか、またもう1年受験勉強するなんてとんでもないことだ」と考えるようになりました。確かに現実的な考えです、次の年にどこかの大学に合格できる保障はありません。と言うわけで数日後、もう行くことはないと思っていた水戸へ、部屋を探しに出かけました。
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