美術の沖山先生 4
=美人教師とメガネ中学生のお話=
小学生の頃は授業中に先生の話を聴いていなかった
ナカムラ君は小学生の頃は授業中、先生の話をちゃんと聞く子供ではありませんでした。
ほとんどの授業で、先生の話はあまり聴かず、よそ見をしていたり、ノートに落書きしたり、あるいは授業の進行とは関係なく、教科書の他のページを読んだり、時には算数などの好きな問題を解いたりしていました。
時にはナカムラ君の頭の上に、いきなり先生の“げんこつ“ が飛んでくることがありましたが、それでも直りませんでした。

教科書をなぞっているだけだし
当時の小学校の授業では、たいていの場合、先生の話は教科書をなぞったものが主だったので、
・・・・・先生の言っていることは全部教科書に書いてあるし、別に話を聞かなくてもいいかな。 あまり面白くもないし・・・・・
などとナカムラ君は思っていました。
最初に教科書を全部読んでしまう
ナカムラ君は小中学生の頃、ほとんど家では勉強しませんでした。 なおかつ、授業中も先生の話を聴いていませんでした。
でもナカムラ君は本当に勉強が嫌いな訳ではなく、学年の始めに教科書が配られと、全部の教科を一通り読んでしました。
一通り読むとそれで気が済むのか、その後読み直すことはあまりありませんでした。
そしてあとは授業中先生の話を聴いているような、聴いていないような、という訳ですが、あらかじめ読んであるので、先生の話はだいたい理解出来ていました。
テストのための勉強はしない
ナカムラ君は、特にテストで点を取るための勉強というのを毛嫌いしていて、テストが近づくと、いっそう勉強しなくなります。
というのも、彼はテストの前だけ勉強するなんて正しいことではない。
テストは日頃身に付けた実力を試すもので、テストに関係なく、内容を本当にに理解することが最も重要だと考えていました。
もっとも、日頃もあまり勉強していなかったのですが、テストで多少悪い点を取ってもほとんど気にすることはありませんでした。
沖山先生が怖かったので
中学校に入っても基本的にそうしたことは変わりませんでしたが、沖山先生の授業は、ともかく怖かったので、ウソでも聴いているふりだけはしてないといけませんでした。
よそ見や、落書きなど、もっての外!
その乱暴な言葉使いとは裏腹に
沖山先生の授業は、最初のうちはただ怖いから聴いていたのですが、そうしているうちに沖山先生の話は、その乱暴な言葉とは裏腹に、非常に理路整然としていて、たいへん筋道と通ったものであることに気付くようになりました。
何といっても、沖山先生の話は、決してどこかに書いていることをそのまま言っている訳ではなく、先生自身の、たいへんしっかりとした考えに基づいて、話をしているということを、ナカムラ君は気付きました。
数学や理科の授業よりも論理的
沖山先生の話は、美術の授業ではあっても、数学や理科の先生よりも、むしろ論理的で、一貫性があるように感じられました。
彼にとって美術はこれまであまり興味のない科目でしたが、沖山先生の授業を受けているうちに、だんだんと興味が湧いてきました。

いつも絵が下手だと言われていたので
それまで絵を書くことなんて、特に方法がある訳ではなく、上手な人は最初から上手で、自分のような下手な人は、どんなに頑張っても上手に描けるわけはないと思っていました。
なんといっても、ナカムラ君は小学生の頃、いつも先生から 「お前は絵が下手だ!」 と言われ続けてきたので、自分でも絵は苦手なものと思い込んでいたのも確かです。

そんなところに線なんてあるか?
沖山先生の美術の授業は、デッサンから始まりました。 デッサンとは、まずその対象よく見ること、観察することだと沖山先生は強調しました。
そして生徒一人ひとりのところにやってきて、細かく指導していました。 ナカムラ君の描きかけのデッサンを見て、
「お前、そんなところに線なんてあるか?」
「確かに、花瓶と背景に境界はある。 でも、その境界に線なんてあるか?」
「それはただの思い込みだ。 線なんてどこにもないし、見えない。 ないものを描いてはいけない! 見えないものを描くのはデッサンではない!」

ただの思い込みだと気づく
花瓶を描くのだから、まず、花瓶の形を線で描く、ナカムラ君にとって、それはあまりにも当たり前のことと思えました。
最初のうちは先生が何を言っているのかわかりませんでしたが、よく見れば確かに花瓶に線はない。
あるとすれば、自分の頭のなかで勝手に作りだしたものだということが、だんだんわかってきました。
=美人教師とメガネ中学生のお話=
小学生の頃は授業中に先生の話を聴いていなかった
ナカムラ君は小学生の頃は授業中、先生の話をちゃんと聞く子供ではありませんでした。
ほとんどの授業で、先生の話はあまり聴かず、よそ見をしていたり、ノートに落書きしたり、あるいは授業の進行とは関係なく、教科書の他のページを読んだり、時には算数などの好きな問題を解いたりしていました。
時にはナカムラ君の頭の上に、いきなり先生の“げんこつ“ が飛んでくることがありましたが、それでも直りませんでした。

教科書をなぞっているだけだし
当時の小学校の授業では、たいていの場合、先生の話は教科書をなぞったものが主だったので、
・・・・・先生の言っていることは全部教科書に書いてあるし、別に話を聞かなくてもいいかな。 あまり面白くもないし・・・・・
などとナカムラ君は思っていました。
最初に教科書を全部読んでしまう
ナカムラ君は小中学生の頃、ほとんど家では勉強しませんでした。 なおかつ、授業中も先生の話を聴いていませんでした。
でもナカムラ君は本当に勉強が嫌いな訳ではなく、学年の始めに教科書が配られと、全部の教科を一通り読んでしました。
一通り読むとそれで気が済むのか、その後読み直すことはあまりありませんでした。
そしてあとは授業中先生の話を聴いているような、聴いていないような、という訳ですが、あらかじめ読んであるので、先生の話はだいたい理解出来ていました。
テストのための勉強はしない
ナカムラ君は、特にテストで点を取るための勉強というのを毛嫌いしていて、テストが近づくと、いっそう勉強しなくなります。
というのも、彼はテストの前だけ勉強するなんて正しいことではない。
テストは日頃身に付けた実力を試すもので、テストに関係なく、内容を本当にに理解することが最も重要だと考えていました。
もっとも、日頃もあまり勉強していなかったのですが、テストで多少悪い点を取ってもほとんど気にすることはありませんでした。
沖山先生が怖かったので
中学校に入っても基本的にそうしたことは変わりませんでしたが、沖山先生の授業は、ともかく怖かったので、ウソでも聴いているふりだけはしてないといけませんでした。
よそ見や、落書きなど、もっての外!
その乱暴な言葉使いとは裏腹に
沖山先生の授業は、最初のうちはただ怖いから聴いていたのですが、そうしているうちに沖山先生の話は、その乱暴な言葉とは裏腹に、非常に理路整然としていて、たいへん筋道と通ったものであることに気付くようになりました。
何といっても、沖山先生の話は、決してどこかに書いていることをそのまま言っている訳ではなく、先生自身の、たいへんしっかりとした考えに基づいて、話をしているということを、ナカムラ君は気付きました。
数学や理科の授業よりも論理的
沖山先生の話は、美術の授業ではあっても、数学や理科の先生よりも、むしろ論理的で、一貫性があるように感じられました。
彼にとって美術はこれまであまり興味のない科目でしたが、沖山先生の授業を受けているうちに、だんだんと興味が湧いてきました。

いつも絵が下手だと言われていたので
それまで絵を書くことなんて、特に方法がある訳ではなく、上手な人は最初から上手で、自分のような下手な人は、どんなに頑張っても上手に描けるわけはないと思っていました。
なんといっても、ナカムラ君は小学生の頃、いつも先生から 「お前は絵が下手だ!」 と言われ続けてきたので、自分でも絵は苦手なものと思い込んでいたのも確かです。

そんなところに線なんてあるか?
沖山先生の美術の授業は、デッサンから始まりました。 デッサンとは、まずその対象よく見ること、観察することだと沖山先生は強調しました。
そして生徒一人ひとりのところにやってきて、細かく指導していました。 ナカムラ君の描きかけのデッサンを見て、
「お前、そんなところに線なんてあるか?」
「確かに、花瓶と背景に境界はある。 でも、その境界に線なんてあるか?」
「それはただの思い込みだ。 線なんてどこにもないし、見えない。 ないものを描いてはいけない! 見えないものを描くのはデッサンではない!」

ただの思い込みだと気づく
花瓶を描くのだから、まず、花瓶の形を線で描く、ナカムラ君にとって、それはあまりにも当たり前のことと思えました。
最初のうちは先生が何を言っているのかわかりませんでしたが、よく見れば確かに花瓶に線はない。
あるとすれば、自分の頭のなかで勝手に作りだしたものだということが、だんだんわかってきました。
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