中村俊三 ブログ

中村ギター教室内のレッスン内容や、イベント、また、音楽の雑学などを書いていきます。

 最近では「ブラックホール」とか「ビッグバン」など言う言葉はごく普通に会話で使われていますし、子供たちもみんな知っていると思います。学校でも習っているでしょうし、その存在に疑問を持つ人は少ないのではないかと思います。
もちろん今の物理学ではそれらは実証済みとなっていて、現在の物理法則や観測データからは必然的に導き出されるものとされています。
もしそれらの存在がなかったら今の物理学は成り立たないそうです。

 でもこうしたことは意外と最近のことで、私が大学で物理を学んだのは1970年前後ですが、ブラックホールについては先輩から「星でもなんでも、光さえも吸い込んでしまうブラックホールというものが、宇宙には存在すると言う説もある」などと聞いた記憶がありますが、その時はほとんどSF上の話くらいにしか感じられませんでした。
大学の授業では出て来ませんでしたし、まだ実証はされていなかったと思います。
しかし今では太陽の10倍以上の質量の星は最終的にブラックホールにならざるをえないとされていて、実際に星空のなかで観測されていろようです。
また私たちの銀河やお隣のアンドロメダ銀河などの美しい渦巻銀河は中央に巨大なブラックホールを持ち、その巨大な重力によってその形を保っているんだそうです。
またいろいろな銀河の中には、その中央の巨大なブラックホールに多量のガスや星などが吸い込まれて、強烈な光を放つものもあり、数十億光年の彼方にあるにもかかわらず青白い星のように観測されます(クェーサーと呼ばれている)。

 私の大学時代には「ビッグバン」という言葉はあまり聞いたことがなく、「火の玉宇宙」とか、「進化宇宙」とか言われていたように思います。
宇宙論の授業の先生も「今現在は『定常宇宙論』というのと『進化宇宙論』という二つの考え方がありますが、私はどちらかといえば定常宇宙論をとっています」と言っていたような記憶があります。
定常宇宙というのは宇宙は無限大の過去から存在し、無限大の未来まで存在するといった考え方で、確かに宇宙というイメージには「無限」という言葉がぴったりです。
しかし当時でも宇宙が膨張していることは通説になっており、もし無限大の過去から宇宙が膨張していたら宇宙の物質は希薄になってしまいます。
その場合、「宇宙が希薄になったらその分だけ物質が真空から生まれる」など、ちょっと苦しい言い訳がされていました。

 現在ビッグバンを否定する学者はいないと思いますが、でもやはりイメージ的には難しいところがあると思います。
よく言われるのが「ビッグバンが起こる前の宇宙ってどんなだったの?」とか、「ある時突然ビッグバンが起こったと言うけど、それっていつ?」とかと言うことですが、前も、どんなも、いつも、すべてがなかったと言うしかないでしょうが、一般的には納得できる答えではないと思います。
しかも質量も空間も、限りなく0に近い状態(物理学的には完全な0はないそうです)から、極めて短い時間で(10のマイナス35乗秒)、文字通り天文学的数字の質量(エネルギーとして)や空間が生まれたなんて本当に信じられない話ですが、現在では「宇宙のインフレーション」といって通説になっているようです。

 近年の物理学の進歩は目覚しく、私の大学時代には空論に思えたようなことでも、現在ではごく当たり前のようになり、宇宙発生当時の物理学についてもかなりよくわかってきているようです。
そのビッグバンがどれくらい前に起こったかは、宇宙の膨張速度が一定と仮定すれば、それを逆算すれば出てきます。
10年くらい前までは約150億年前くらいと言われていましたが、最近この1,2年では、新聞やテレビなどで137億年という数字をよく見かけます。
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モーツァルトを不道徳と批判したベートーヴェンだが


 不倫をテーマにしたオペラ「コシ・ファン・テュッテ」を作曲したモーツアルトを「不道徳」と非難したベートーベンですが、二人の人妻との間にそれぞれ一人ずつ、しかもほとんど同時期に生まれた子供がいたと言う話は、最近まで一般には知られていませんでした。



ベートーヴェンそっくり?

 その人妻のひとりはヨゼフィーネといって、1805~1806年くらいにかけてベートーベンが親しくしていた女性で、末の子のミノナを産んだのが1813年。 女の子ですがミノナの写真を見ると確かにベートーベンそっくりで、多くの研究者も父親がベートーベンであることに異論がないようです。

 ヨゼフィーヌとは1807年以降はしばらく交際はなかったようなのですが、彼女の2度目の夫の失踪(借金が原因で)を機に、1812年頃にはよりを戻したのかもしれません。 かなりの美女だったそうですが、彼女はこの頃には精神的にも、また経済的にも行き詰っていたようです。



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ベートヴェンの”娘”とされているミノナの写真。 確かにベートーヴェンの面影がある。



不滅の恋人

 もう一人はアントニエ・ブレンターノといって1810年頃から交際があったようですが、こちらは正真正銘の人妻で裕福な家の夫人でしたが、夫婦関係は形だけだったとも言われています。

 アントニエは気高く、教養ある貴婦人で、1812年の段階ではベートーベンの本命だったようで、最近の研究ではベートーベンが亡くなるまで人目に触れないように大事に保管していた宛先不明の熱烈なラブレター、「不滅の恋人へ」の宛先人だということです。



楽聖に1か月間に子供が二人生まれる?

 ヨゼフィーネが出産する約1ヶ月前に男の子を産んでいますが、ベートベンの子供であることを否定している研究者もいます。 ブレンターノ家とは家族ぐるみの付き合いで、夫のフランツはベートーベンの熱心な支援者の一人です。

 特に経済的にベートーベンに多大な援助していたことで知られ、夫人のアントニエとはあくまでプラトニックな関係とされといましたが、種々の状況からしてアントニエの末の子カールの父親がベートーベンであった可能性は十分にあるようです。

 アントニエとはその後、手紙や楽譜などのやりとりのみで、直接会うことはなく、結果的には確かに「プラトニック」なものになり、夫のフランツもその後も変わりなくベートーベンを支援していたようです。



不滅の恋人への熱烈な愛の告白はただの言い訳?

 もっとも前述の「不滅の恋人」の手紙の中で 「他の女性が私の心を占めることなどけっしてありえません、けっして、けっして・・・・・」 なんて書いておいて、別な女性に子供を産ませたことで疎遠になったのかも知れません。

 一方、いろいろ困っていたヨゼフィーヌに対しては、ベートーベンのほうから経済的に援助していたようで、自らの責任を感じていたのかも知れません。



本当は女性にもてた?

 いかにも「野人」といった風貌や、「苦悩から勝利へ」といった音楽の内容からいって、女性にはあまり縁がなさそうに思われていたベートーベンですが、実際には多くの女性に支えられていたようです。

 「英雄」や「運命」など傑作を次々と生み出していた1805~1806年頃にはヨゼフィーヌとの親しい関係があったようで、この女性はその姉のテレーゼとともにベートーベンの音楽のよき理解者であったようです。




女性なしにはベートーヴェンは語れない?

当時、すなわち19世紀初頭には、上流階級の各家庭に音楽とピアノが浸透し、特に女性にとっては音楽はなくてはならないものだったのでしょう、難解とも思われるベートーベンの音楽を理解し、また的確に演奏できる女性はたくさんいたようです。

表立ってベートーベンを支えたのはルドルフ大公や、リヒノフスキー侯爵などの貴族たちですが、その裏では、多くの女性たちがその作品の誕生から、普及まで大きな貢献していたのかも知れません。

 私のCD棚でモーツアルトの次に多いのはベートーベンで、その中でもやはり交響曲が多く、全集としては8種類、第5番の「運命」だけだと17種類あります。 その中では、カルロス・クライバー=ウイーン・フィルの純粋でストレートな演奏が気に入っています。
映画「アマディウス」



20年近く前でしょうか、「アマデウス」という映画が話題になりました。アマデウスとはもちろんヴォルフガング・アマデウス・モーツアルトのことです。

 映画館には滅多に行かないほうですが、久々に家族といっしょに見に行きました。 それまでモーツアルトといえば、「高貴で、天心無垢な天才音楽家」といったイメージだったのですが、この映画でのモーツアルトは、ちょこまか動き回り、甲高い声で大笑いし、下ネタ連発の、お世辞にも上品とは言えないキャラクターに描かれています。

 子供の頃、音楽の時間にならったのとはずい分違ったモーツアルト像ですが、いろいろな本を読むと、まんざら当たってなくもないようです。

 「下ネタ」の根拠となっているのは、やたら「ウンチ」とか「お尻」を連発している、従妹の女の子にあてた手紙によるものですが、モーツアルトの親族や周囲の人たちの間では、それは普通のことだったと言う説もあります。 言ってみれば親密さを表すものだったのかも知れません、モーツアルトの母親も同じような手紙を書いているそうです。



  この映画の中ではイタリア出身のオペラ作曲家のサリエリがモーツアルトの才能に嫉妬して毒殺したとなっていますが、文字通りこれは根も葉もないこと、サリエリにはモーツアルトを毒殺する動機が全くありませんし、嫉妬する理由もありません。

 当時のサリエリは押しも押されもしないハップスブルグ家の宮廷作曲家で、むしろ嫉妬するとすればモーツアルトのほうかも知れません。

 また性格的にも私欲にとらわれない高潔な人らしく、才能ある若い音楽家には無償でレッスンをしていたようです。 その弟子にはベートーベン、シューベルト、リストなど後の音楽界を担う人たちの他、後にヴォルフガング・アマデウス・モーツアルト2世を名乗ることになるモーツアルトの末の子のフランツ・クサヴァー・モーツアルトなどがいます。 またモーツアルトの才能も認め、モーツアルトの作品もよく演奏していたようです。



  モーツアルトはいろいろな女性にもちょっかいを出していたなどと言う話もありますが、実は奥さんのコンスタンツェ一筋だったという話もあります。

 一方で、前述の末の子、フランツ・クサヴァーは実はコンスタンツェとモーツアルトの弟子のジェスマイヤーの間に生まれた子供という話もあり、いろいろな状況からするとほぼ確かなようです。 なお且つモーツアルトはそれを十分知っていたようで、その名の 「フランツ・クサヴァー」 はジェスマイヤーのファーストとミドル・ネームだったわけですから。



その後、といってもその子の誕生から半年弱でモーツアルトは他界しますが、3人の関係はすくなくとも表面上は変わらなかったようです。

 モーツアルトもその後、さすがに妻に愛情あふれる手紙は書かなくなったようですが、相変わらずジェスマイヤーを助手として使い、晩年の作品の「皇帝ティートの慈悲」や、「クラリネット協奏曲」などにはジェスマイヤーの手が入っています。

 モーツアルトの死後「レクイエム」や「ホルン協奏曲」を仕上げたのもジェスマイヤーです。 モーツアルトもある意味、「大人の対処」 をしたのでしょうが、自分の名前を「実の子」に付けられたジェスマイヤーの気持ちや、「実の父親」の名をもらったその息子の気持ちはどうだったのでしょうか。




  モーツアルトを毒殺したのは、実はそのコンスタンツェなんていう説もあるようで、確かにサリエリよりは動機がありそうですが、これもまた根も葉ももないこと、少なくとも私はそう思いたいです。




  と言う訳で、当家のCD棚で一番枚数が多いのはモーツアルトで約180枚、次にベートーベン、バッハ、ブルックナーなどの順になっていて、ギター以外のクラッシク音楽が約900枚、ギター関係が約300枚、その他100で、合計1300枚くらいあります。

 私がギターを教え始めた頃、ギターを習うというと「カルカッシギター教本」が一般的で、どこのギター教室でも、また大学のサークルなどでも使っていたと思います。
この教本も使い方次第では決して悪い教材ではないのですが、全くギターに触ったことのない人や、音楽経験のない人には不向きな教材です。これでギターを始めたけれど、面白くなくてギターをやめたとか言う人は多かったと思います。
またこの教本が書かれた19世紀前半の頃で、現在とはいろいろな点で違いが出てきているのも確かです。
他にも、もう少し簡単で、親しみやすい曲を中心にした教材もあって、そうしたものも使ったりもしていましたが、やはり考え方も合わなかったりで、結局ギターを教え始めて、1,2年もすると教材をすこしずつ自分で書くようになりました。
 
 最初に作ったのは単旋律の練習だったと思います。
一般にギターのテキストは最初にほんの少しだけ単旋律の練習をすると、すぐに重音や和音の練習になるものが多くなっています。
ギターの場合、メロディのみの練習というのは、あくまで予備段階で(確かにカルカッシギター教本では単旋律の練習は「予備練習」となっていました)、基本的にはメロディを和音などを同時に弾く楽器という考え方なのだと思います。
しかし私はギターを教え始めてすぐに単旋律の練習の重要さを感じました。
その練習が不十分なまま独奏曲の練習に入ると、肝心な主旋律が、聴いている方にも、また弾いている本人にもよく分からなかったりします。
また楽譜の読み方にも問題が生じたり、音の長さや、拍子がよく取れなかったりもします。
音楽経験の豊かな人や能力の高い人の場合はそれほど教材にこだわることもないのですが、一般的には単旋律の練習は非常に大事なことだったと思いました。もちろん今でも同じ考えです。

 手書きながら最初にテキストらしきものにまとめたのは、教え初めて5年目くらいだったと思います。
初級のみでしたが、1冊のテキストの半分は単音のみで、和音の練習になってからも二重奏の形で単旋律の練習はかなり取り入れています。
初級のテキストがまがりなりにもできあがれば、次に中、上級用のテキストと言うことになります。
カルカッシギター教本は使いましたが、ほかにいろいろコピーして副教材としました。
確かにとりあえずはそれでなんとかなっていたのですが、しかしこれでは「つぎはぎ」みたいなもので、ギターの教え方全体のシステムを確立しなければいけないと思うようになりました。
これには私自身の考え方をまとめる意味もあります。
初級の教材の作り直しと合わせて、中級用の教材も作ったのは80年代の後半だった思います。
さらには副教材としてポピュラー系の教材も作りました。
これも当初は市販のものを使っていましたが、これがやさしいようで以外と弾きにくいものが多く、あらためてやさしく編曲し直す必要がありました。
 
 10年ほど前からはパソコンで教材を作るようになりまして、確かにこれは便利です。なんといってもきれいに出来上がるし、また慣れると手書きにくらべて格段に速く出来ます。
また修正なども簡単で、今はこれがないと仕事が出来ません。
今現在では基本となるテキストが「レッスン1~7」で、これは私自身の考え方を反映したもので、ギターが合理的に覚えられるようになっていると思います(とはいっても頻繁に改訂していますが)。
さらに親しみのある曲を中心とした「ギター名曲集」シリーズ(そうとうやさしいアレンジからやや難しいものまであります)、中級から上級までの「クラシック・ギター曲集」、コードの練習や最近のポピュラー曲を中心とした「アコーステック・ギター」シリーズ、またジュニア用の「たのしいギター」シリーズなど、私が自分で作った教材は、2000ページを超えています。







35
 さて2回目の書き込みですが、これからしばらく、自己紹介をかねて個人的に、いろいろな数字にまつわる話を書いて行こうと思います(どこかのテレビ番組のパクリのようで恐縮ですが)。

 最初は「35」からですが、私がギターを教えるようになったのは35年前(1972年)で、その時、私はまだ大学生で、知人の紹介で40代くらいの男性にギターを教えるようになりました。
毎週その方の家に伺ってレッスンをする家庭教師のようなものでしたが、結局、数ヶ月足らずで終わってしまいました。
その方のギターへの興味が薄れていったということですが、もちろんそれには私の経験不足はたいへん大きかったと思います。
それまで大学のサークルで後輩たちを教えていたりはしていましたが、一般の人、しかも自分の2倍くらい年齢の高い人に教えるのは当時の私にはたいへん難しいことだったと思います。

  その年の夏には当時ギターを習っていた荻津節男先生の紹介で土浦の教室で教えるようになり、次の年には水戸市内をはじめ、石岡や、日立市などでも教えるようになりました。
大学生活の後半は、週4~5日くらいはギター教室で教えていていました。
卒業する頃になって(6年かかりましたが)、自分の実力や将来には大いに不安がありましたが、なんと言っても好きな道だったので、そのまま就職活動をせず、ギター教室の仕事を続けることにしました。
 
 ちなみに「中村ギター教室」が発足したのは、私が大学を卒業した年の1975年(昭和50年)です。
最初は今のとろから少しはなれた所にいましたが、現在の場所になったのは1980年からです。

 以上の話からでもおわかりのとおり、ギターの実力などが十分でないうちからギターを教えるようになり、文字通り「教えながら学ぶ」といった感じでした。
さらには人を指導したりするには、人間的な経験も乏しく、なおかつどちらかと言えば、内にこもるタイプで、人付き合いも下手で、それこそ世間話もうまく出来ないほうで、苦労の連続でした。
たぶん当時の生徒さんたちには不十分なレッスンしか出来なくて、こんな場でなんですが、たいへん申し訳なく思っています。
 
 なんだかんだで、いつのまにか35年たってしまい、56年の人生のうち、3分の2近くはギターを教えていることになります。
そろそろ経験も身につけ、一人前の「ギター教室の先生」と言いたいのですが、あいかわらず試行錯誤の連続です。
この仕事を始めた頃の習慣が身に付いてしまったのでしょうか。

 当たり前のことかも知れませんが、ギターを習いに来る人はみなそれぞれ、年齢も、趣味も、生活環境も全く違う人です。
これまでうまくいっていた方法でもすべての人に合うとは限りません、やはりまだまだ試行錯誤は必要なのでしょう